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千三百年の間、藤原氏に消されてきた伯耆国(鳥取県中西部)の真実の歴史が、今よみがえる。

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建御名方命は鳥取県琴浦町伊勢野にいた [伊勢野の天照皇大神宮]

 天孫降臨において健御名方のヒントが見つからなかったので触れなかったが、琴浦町の方見郷(鳥取県中部)に居たという確信が得られたので記述します。

 琴浦町の方見郷は加勢蛇川周辺にあった。邇邇芸命に先立って饒速日と同時期に天照大神が降臨したところである。

 一般に記紀において伊勢国、伊勢神宮とあるのは、今の伊勢国、伊勢神宮の時もあれば、鳥取県琴浦町の伊勢、伊勢神宮の時もある。また志摩国、伊雑宮のときもある。皆、伊勢国、伊勢神宮に収斂される。また、出雲とあるのは、今の出雲国(島根県)のこともあり倭国(鳥取県中部)のこともある。「伊勢津彦は出雲の神」と言うときの出雲は倭国(鳥取県中部)のことである。

1 国譲りにおいて古事記には建御名方が出てくるが、日本書紀には出てこない。日本書紀は亡命百済人によって、列島に百済を再興するために作られた百済王朝の歴史書である。その際乗っ取った倭国の歴史書である原古事記を利用した。古事記の建御名方の説話は藤原氏が原古事記を改ざん創作したものである。刀を上向きに立ててその上に座ってみたり、建御名方の腕を掴んで氷のようにしてしまうなどは創作である。伊勢国風土記のほうがより現実的である。原古事記の説話は伊勢国風土記に移し、さらに改ざんして今の古事記を作った。倭姫命世紀の原典も原古事記にあった。

 日本書紀・持統において、持統が反対を押し切って行ったのは伊勢神宮ではなく、伊雑宮の横にある千田寺であり、千田寺に勅使門を造るためであった。持統の言う通りにしなかった神官は伊勢神宮ではなく伊雑宮の神官である。この時はまだ伊勢神宮はなかった。伊雑宮の神官は持統が倭の天皇でないことを知っていて反抗した。聖徳太子(蘇我善徳大王)の造った千田寺に勅使門を造って参拝の制限をするのは持統が倭の王でない証拠である。持統の後ろには不比等がいた。

 原古事記には「天照大神が降臨しようと思われたところに建御名方が居た。天照大神は建御雷に勅して『遥か天津(葦原中津国)の方に国がある、ただちにその国をたいらげよ』と仰せられて、将軍としての徴の剣を賜った。」とあった。その国は鳥取県琴浦町の方見郷であった。

2 小沢打魚氏は「皇孫瓊瓊杵尊が此の国土に御降臨あらせられる前、天照大神から大国主命の国土奉環の大命を伝へるべく遣はされられた、経津主、武甕槌の二神に対して、大国主命の御子建御名方命軍が由良川を界として御守りになったものである」とされ、降臨の地の舞台を丹後の由良川とされる。この由良川は丹後ではなく葦原中津国を流れる鳥取県北栄町の由良川と思われる。丹後の由良川はそのほかの舞台(葦原中津国など)が検証できておらず単発であり、あとが続かない。

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 北栄町の由良川は西高尾ダムに水源を発する。西高尾、上種、茶屋条、下種、亀谷を通って当時は葦原中津国に流れ込んでいた。天照大神の天孫族は南の関金から来たから、方見郷を本拠地にしていた建御名方とは由良川を挟んで対峙することになる。黒字は平定後の天孫族の位置関係である。

3 天照大神は饒速日と一緒に蒜山(高天原)より倉吉市関金町神田神社に降臨した。

 天忍穂耳、饒速日、天児屋根・天太玉・天鈿女・玉祖命・思金命、猿田彦は素戔嗚のいた倉吉市の清熊稲荷神社の峰(哮峰)に降り、しばらく止まった。

 天照大神と月読命と石凝姥と天手力男は琴浦町の方見郷に住んでいた建御名方を信濃に行かせ、琴浦町の方見郷に降臨した。

 原古事記には「建御雷は問うて、『お前がこの国を去った時、何をもってそれを証拠だてるか』といった。すると申し上げて言うには、『私は、今夜、八風を起こし海水を吹き上げ、波浪に乗って東の方にまいりましょう。これがすなわち私が退却したという証拠です。』と。夜更けになって、大風が四方に起こり、大波をうち上げ、太陽のように光り輝いて陸も海も昼のように明るくなり、ついに波に乗って東に去った」(伊勢国風土記)とあった。

 琴浦町伊勢野から1kmほど下ると日本海である。建御雷は北栄町妻波の岩崎神社の祭神になっているので建御名方が船で東に行くのを見届けることができた。建御名方は東の因幡に上陸し因幡より父の大国主が中継地としていた播磨に行った(国道29号線沿いの旧道)。

4 播磨国にある上伊勢は播磨国風土記にみえる揖保郡林田里の伊勢野である、とする。伊勢津彦を祀っていたから伊勢野という、とある。上伊勢も伊勢野も鳥取県琴浦町にある。揖保郡林田里の伊勢野も上伊勢も人為的に付けられたように思われる。

 鳥取県琴浦町には月読命がいた外宮の槻下(月下)の地名が残る。方見(カタミ)郷もあった。タケ(ミナカタ)と似ている。内宮、外宮のほか、摂社16社、末社17社もあった。日本書紀の天武の段にある「天皇は泊瀬の斎宮で練習をさせて伊勢神宮の斎王にした」とある泊瀬の斎宮は倉吉市駄経寺町の神官もいた大御堂廃寺のことであり、鳥取県道151号を通って琴浦町伊勢野の伊勢神宮に行かせた。天武天皇の皇居は大御堂廃寺を神宮寺とした倉吉市の賀茂皇大神宮(現賀茂神社)にあった。

 藤原氏は琴浦町方見郷の原古事記の説話を伊勢国風土記に書き移した。その際、天照大神は神武天皇に、建御名方は伊勢津彦に、建御雷命は天日別命に変えた。矛盾が生じないように、日本書紀には記載しなかった。播磨国の伊勢野や上伊勢の地名は藤原氏が鳥取県琴浦町の地名を持ってきたものである。建御名方は信濃国に行く途中に揖保郡林田里に寄ったと思われる。藤原氏は伊和神社の祭神である大国主神の名を伊和大神に変え、建御名方の名を伊勢津彦に変えた。

5 建御名方は今の伊勢国に寄らずに信濃国に行った。研究者によると建御名方の足跡は、信濃国に十数ヶ所見つかるという。土木工事も行っている。

 長野市の風間神社の祭神は伊勢津彦命である。しかし、伊勢津彦が本当に信濃国に行ったならば、建御名方のように十数ヶ所足跡が見つかるはずである。

 風間神社の祭神である伊勢津彦命は、全国の神社ネットワークを使い藤原氏によってつくられたものである。他県に伊勢津彦とあるのは建御名方とあったのを藤原氏によって書き換えられたものである。

 藤原氏は伊勢国を創るに際し原古事記にあった建御名方命の説話を利用しようと考えた。時代を神武時代に設定し名前を伊勢津彦に変えて、伊勢国風土記を創作した。伊勢国風土記も出雲国風土記も藤原氏の創作である。伊勢国風土記には伊勢神宮のことは書かれていない。713年の時点では伊勢神宮はなかったからである。地名のいわれだけは、風土記に創作した。伊勢神宮も出雲大社も列島に百済国を再興するための大きなテーマパークであった。


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第十一節 丹後の籠神社と新井崎神社に行ってきました [伊勢野の天照皇大神宮]

   第十一節 丹後の籠神社と新井崎神社に行ってきました。

1 彦火明命を祀る籠神社です。

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  ホホデミと天日槍は籠神社と深く関係している。前漢鏡と後漢鏡は丹波国を創建した天日槍が籠神社に奉納したものと思われる。

2 丹後の籠神社の祭神の彦火明命は本来ホホデミであった。
(1)先代旧事本紀は、「天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊は、亦の名を天火明命、天照国照彦天火明命、饒速日命、膽杵磯丹杵穂命という」とする。
(2) 『消された大王ニギハヤヒの謎』の著者、神一行氏は、海部宮司の言葉を、その著書の中で 「『籠神社』の主祭神のホアカリ命には、いくつかの別名がありますが、籠神社にとってもっとも重要な別名は、ヒコホホデミ尊です。籠神社は、養老元年(717)までは、主祭神として、ホホデミ尊を祀っていましたが、その後はわけあって、『海部氏本紀』の始祖・ホアカリ命として祀っております。」とある。これは、ホアカリは、本来「ホホデミ」であったということである。
(3) 私見
 特選神名牒における松山市の国津比古命神社の祭神は櫛玉饒速日尊であり天照国照彦天火明が付いていない。本来天照国照彦天火明と櫛玉饒速日尊とは別神であり、一つにされたのは後世である。
 丹後周辺は浦島太郎伝説があり、山幸彦(ホホデミ)と関係が深い土地柄である。山幸彦(ホホデミ)なら海神とも関係が深く、海部宮司のいうように「彦火明命は本来ヒコホホデミ尊であった」というのは信用できる。
 丹後の籠神社にホホデミと天日
槍は来たが天照大神と饒速日は来ていない。

3 徐福が上陸したという伊根町の新井崎神社です。

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 説明板によると、神社の創建は長徳四年(998年)。場所は今の愛宕さんの付近だったが前を通る船に異変が続いたため、神意に逆らうとして現在のところに移し、南向きを東向きに変え建てられたという。

 徐福上陸の地とあるが、丹後に上陸したのは全国に30ほどある徐福伝説の地と同じく、徐福の部下であった。

4 「火」のつく神は木花佐久耶姫が燃やした産屋から出てきたので「火」の字を付けられた。「火」のつく神は本来、木花佐久耶姫の御子である。木花佐久耶姫の御子でない「火」に関係のない神に「火」がついているのは藤原氏による改ざんと思われる。


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第十節 天太玉命と和久産巣日命は実際に中尾集落に住んでいた [伊勢野の天照皇大神宮]

   第十節 天太玉命と和久産巣日命は実際に中尾集落に住んでいた
1 天孫降臨は鳥取県中部で行われ五伴緒の一人である天太玉命は中尾神社(祭神、天太玉命・和久産巣日命、伊勢崎村大字中尾鎮座)に居られたとしていたが、鳥取県文化財団中尾第一遺跡発掘調査報告書(2004年)にも縄文晩期から弥生前期の遺構・遺物の発掘が記載されている。方見神社にあるのは大正2年に合併されたからである。

 天孫降臨、大国主の国譲りは縄文晩期から弥生前期に行われたはずであるから、天太玉命が降りたった中尾で 縄文晩期から弥生前期の遺構・遺物が発掘されなければならないが、それが発掘された。ただ中尾本村より少し離れたC1地区とC2地区でのみ発掘された。より離れたA地区とB地区では発掘されなかった。
2 中尾第一遺跡発掘調査報告書 (2004年鳥取県教育文化財団)
 C 1区の調査
 検出した遺構は、掘立柱建物l棟、土坑7基、落し穴18基、溝2条で、時期は縄文時代から中世の可能性のあるものがあり、時期幅がある。出土遺物は、縄文時代から近世にかけての土器、石器、陶磁器、土製品、漆器などが出土した。かなりの時期幅があるが、縄文時代晩期終末期~弥生時代前期、古墳時代中期のものが主体をなす。遺構に伴わない遺物 縄文時代から近世にかけての遺物がコンテナ5箱分出土した。調査の概要で触れたように出土遺物は、縄文時代晩期終末期~弥生時代前期、古墳時代中期のものが主体をなし、出土地点は調査区南側に集中する傾向がみられた。縄文時代晩期終末期~弥生時代前期(157~175)当該期の遺物はすべて粗製土器であり、器面調整は内外面ともにナデ調整が施される。弥生時代前期(176~186) 176は壷の口縁部で横走沈線を2条めぐらす。

 C2区の調査  
 近世の耕作土やクロボクからは縄文土器、弥生土器、土師器、須恵器、陶磁器、石器が出土している。なお、遺構の検出は漸移層で、行った。確認された遺構のうち、弥生時代の土坑墓群には墓壌の内部に石を配するもの、上面に石を配するものなどが確認されており注目される。 竪穴住居2  遺物は底面からやや浮いた状態で縄文時代晩期の土器266~275、黒曜石の剥片S23・24、員による穿孔のある自然石S25、石鍬S26・27が出土している。 土坑墓6  第5層からは弥生土器の細片がわずかに出土している。遺物から時期の特定はし難いが、弥生時代前期の範障に収まるものと考えられる。

3 今回発掘されたのは中尾集落の外側のほんの一部であり、より中尾集落に近いところではより多く発掘されるものと推測される。
 ここと同時に玉祖命が降りたった長瀬高浜遺跡でも、縄文晩期から弥生前期の遺構・遺物が発掘されている。
 月下(槻下)の外宮の度会に行った豊宇氣毘賣神の母親である和久産巣日命は、天太玉命と一緒に中尾に居られた。豊宇氣毘賣神は母親のいる中尾に住み、500mほど離れた槻下に仕事に行っていたのかもしれない。猿田彦は天太玉命・豊宇氣毘賣神・和久産巣日命を槻下や中尾にお連れしたようである。

4 中尾集落の写真
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中尾神社の祭神は、天太玉命と和久産巣日命である。山陰道の上から撮影したものである。この道路の工事中に中尾第一遺跡C区で縄文晩期と弥生前期の遺構・遺物が発掘された。
5 斎尾(斎王)廃寺は、白村江の戦いに勝利し、天武天皇が即位したことを蘇我氏の総本家が記念して建立したものであると思われる。過去数百年間この地から朝鮮半島・中国へ行くルートが出来上がっていた。
 天武天皇が伯耆国出身であることを知っていたから、奈良時代に土佐の池田王が天照皇大神宮を頼ってきたのである。天武天皇は天照大御神の子孫であると持統天皇に言っていた。斎尾(斎王)廃寺は、後の奈良時代に藤原朝廷によって破壊された。

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倉阪神社、神郷神社、神田神社に行ってきました [伊勢野の天照皇大神宮]

 倉阪神社、神郷神社、神田神社に行ってきました。

1 鳥取県琴浦町倉坂の倉阪神社(祭神、石凝姥命・事代主命・素戔嗚命・稚産霊命・大山祇命・豊櫛命)です。
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2 鳥取県琴浦町大杉の神郷神社(祭神、大物主命・猿田彦命・手力男命・素戔嗚命・大山祇命・金山彦命・大日孁貴命・稚産霊命・豊櫛命)です。
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 倉阪神社と神郷神社の祭神である「豊櫛命」は古事記にある「天石門別の神」である。古事記には「天石門別の神は、一名櫛石窓の神、また豊石窓の神とも言い、御門の神である」とある。豊石窓の神と櫛石窓の神の一字づつを採り「豊櫛命」とした。こうしないと、藤原氏の検閲を通らないからである。

3 鳥取県倉吉市関金町の神田神社(祭神、天照日大御神・天忍穂耳命・日子番能邇邇芸命・日子穂穂手見命・鸕鷀草葺不合命)である。鸕鷀草葺不合は日子穂穂手見のあだ名である。これも天照大神が徐福であったことを隠すための方法の一つであった。ウガヤフキアエズ朝が72代続いたとする藤原氏の創作がある。

 また、神田神社は鏡ヶ成から降りてきた饒速日たち大勢のコース上にはあるが、犬挟峠から降りてきた四歳の邇邇芸のコース上にはない。神田神社の祭神は邇邇芸ではなく饒速日であった。

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4 天孫(饒速日と邇邇芸)降臨よりも天照大神と月読命の降臨のほうが重要である。天孫降臨を古事記に記載するなら、天照大神と月読命の降臨がまっ先に記載されていなければならない。天照大神と月読命が琴浦町伊勢野と琴浦町槻下に降臨したことは倭国歴史書原本には書いてあったはずである。それを現在の伊勢国風土記や伊勢神宮の神道五部書を制作するために消している。

5 饒速日たち大勢は江府町下蚊屋に集まり鏡ヶ成から野添経由で神田神社に降りてきた。神田神社から天照大神のグループと饒速日のグループに別れた。天照大神は琴浦町の方見郷にいた建御名方に国譲りを要求し、武御雷と経津主を派遣し由良川で対峙させた。

 饒速日のグループは日吉神社から船に乗り、倉吉市の清熊稲荷神社の峰に到着した。そこで素戔嗚と出会った。天忍穂耳と猿田彦は素戔嗚から大国主が一人になったので国造りに協力してやってほしいと頼まれた。饒速日は10種の神宝を素戔嗚からもらった。天忍穂耳と猿田彦は船で北栄町の茶臼山の東の内海に至り、猿田彦は鏡で光らせて大国主に会った。


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猿田彦について [伊勢野の天照皇大神宮]

 猿田彦について
 
<古事記訳>
 「さてヒコホノ二二ギノ命が、天降りなさろうとするときに、天から降る道の辻にいて、上は高天原を照らし、下は葦原中国を照らしている神がいた。そこで、天照大御神と高木神の仰せによって、アメノウズメノ神に命じて「あなたはか弱い女であるが、向き合った神に対して、気おくれせず圧倒できる神である。だから、あなた一人で行ってその神に向って『天つ神の御子の天降りする道に、そのように出ているのはだれか』と尋ねなさい」と仰せになった。それでアメノウズメノ神が問いただされたとき、その神が答えて申すに「私は国つ神で、名はサルタビコノ神と申します。私がここに出ているわけは、天つ神の御子が天降っておいでになる、と開きましたので、ご先導の役にお仕えいたそうと思って、お迎えに参っております」と申し上げた」とある。
 
私見
 猿田彦は、道の神、道案内の神、旅人の神、出会いの神とされる。通常、この役目として村の境などに「道祖神」がある地域が多い。道祖神は男女の二像が多く、ほとんどが猿田彦命と天宇受売命とされる。
 猿田彦は天孫降臨に際して、江府町の鏡ヶ成で高天原と地上とを鏡で照らしていた神である。高天原と地上の境界にいたのでサイ(境界)の神と呼ばれるようになった。漢字としては、道祖神あるいは才ノ神、妻ノ神とも書く。天孫降臨の時代にすでにこの呼び名で呼ばれていたようである。
 鏡ヶ成から饒速日と一緒に倉吉市の哮峰に降臨し、さらに船で天忍穂耳と一緒に大国主のいる茶臼山の東の海に至った。天忍穂耳は北栄町下神の三輪山を、猿田彦は隣の北栄町松神を本拠地にした。松神神社には猿田彦と木花咲耶姫が祀られているが、猿田彦と木花咲耶姫は本当に松神にいた。猿田彦は天忍穂耳の家来であり、鏡による通信手段を使い、天孫降臨の際には天忍穂耳の指示で饒速日をお迎えに行き、道案内をした。
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 饒速日が亡くなって邇邇芸命が降臨することになったが、邇邇芸の道案内も猿田彦がした。邇邇芸は大宮神社(北栄町下種)に行く手前(倉吉市上福田集落)で葦原中津国の事代主と百八十神が子供を育てるのを待っていたが、そのとき猿田彦は倉吉市妻ノ神集落で待っていた。
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 大山祇は天孫降臨の前から天忍穂耳を知っており、大国主命の国造りに協力していたのも知っていたので信頼していた。大山祇は木花咲耶姫が邇邇芸に求婚されたことを知り、天忍穂耳の子息だと大いに喜んで、姉の石長姫まで差し出した。
 猿田彦一族は鳥取県北栄町北条島の丘陵地(蜘ヶ家山)に住んでいた縄文人であった。天忍穂耳に仕えた猿田彦は三輪山(鳥取県北栄町下神)の西隣の北栄町松神に本拠地をおいていた。

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斎尾(斎王)廃寺と法隆寺は同じ豪族(蘇我氏)が建てたものである [伊勢野の天照皇大神宮]

    斎尾(斎王)廃寺と法隆寺は同じ豪族(蘇我氏)が建てたものである。

1 「南原千軒遺跡発掘報告書」(平成16年)より
 古代 
 現在県内では22ヶ所の古代寺院が見つかっているが、初期の仏教文化の姿を最もよく残し、山陰では唯一の国特別史跡に指定されている斎尾廃寺は、県内の古代寺院の多くが法起寺式伽藍配置を採用するのに対し、法隆寺式伽藍配置を採っている。
 塑像片・仏頭・鴟尾・鬼瓦の他、創建期の軒丸瓦には紀寺式、軒平瓦に法隆寺式系統のものが出土し、山陰・山陽では数少ない瓦当文様をもち、畿内と結びつきの深い有力豪族が斎尾廃寺周辺で勢力を持っていたと推察される。
 大高野遺跡では、総柱礎石建物群が検出されており、正倉(郷倉)と考えられ、郡衙推定地もその周辺に比定されている。その周辺の伊勢野遺跡、水溜り・駕籠据場遺跡、森藤遺跡群では、掘立柱建物を中心とする集落が見つかっている。

2 伽藍配置

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斎尾(斎王)廃寺の伽藍配置である。
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法隆寺の伽藍配置である。

3 私見
 県内では22ヶ所の古代寺院が見つかっているが、斎尾廃寺は、県内の古代寺院の多くが法起寺式伽藍配置を採用するのに対し、法隆寺式伽藍配置を採っている。
 670年以降に法隆寺を再建した豪族と白鳳時代(650年~710年)に斎尾廃寺を建てた豪族は同じ一族と思われる。「南原千軒遺跡発掘報告書」にある「斎尾廃寺周辺で勢力を持っていた畿内と結びつきの深い有力豪族」とは蘇我氏であった。斎尾廃寺の東方4kmの北栄町由良に聖徳太子(蘇我入鹿大王=蘇我善徳大王)の総本家があった。
蘇我善徳大王の皇子の天武天皇も斎尾廃寺の東方4kmの北栄町由良の出身であった(別稿「聖徳太子(蘇我入鹿天皇)の皇居は鳥取県北栄町由良宿にあった」を参照されたし)
 蜘ヶ家山(葛城山)から由良も含め加勢陀川の東岸まで東西7kmにわたっての地域が葛城であった。百済の人質として、由良で育てられた中大兄王子(豊璋)は葛城皇子と自称していた。天武天皇は天照大神が最初に高天原(蒜山高原)から降りてきた琴浦町伊勢野の東方4kmの北栄町由良の出身であった。由良遺跡の時代は4世紀末ごろから奈良時代までの連続した複合遺跡であり、半径500mの広い台地上のクロボクを取り除き、きれいに整地して建物を建てている(由良遺跡発掘調査報告書より)。


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第四節 槻下(月下)集落と斎尾(斎王)廃寺に行ってきました [伊勢野の天照皇大神宮]

   第四節 槻下(月下)集落と斎尾(斎王)廃寺に行ってきました。
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槻下神社の社叢である。

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先に見えるのが槻下本村である。

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斎尾(斎王)廃寺の案内板。
 「槻下」は「月下」であり、「斎尾」は「斎王」であった。藤原氏は日本書紀と同じように原漢字の読みと同じ読みの別の漢字に書き換えている。徐福は斎王(斎の国の王)であった。
 建立時期は白鳳時代(650年~710年)であるがいつ廃寺になったかは判らない。白村江の戦いや藤原京・平城京(奈良朝)の成立と関係ありそうである。

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 斎尾(斎王)廃寺の塔址から伊勢野方面を見る。右先に見えるのは、伊勢崎地区コミュニティー施設である。施設の下は池があるが、もとは堤である。この辺りには水田稲作に必要な小型の堤が多い。

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 周辺には伊勢野遺跡がある。伊勢崎小学校跡地も見えます。
 斉尾廃寺の仏頭はおおらかな表情である。奈良の山田寺の仏頭もおおらかな表情である。


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方見神社の由緒にある「外宮の月下の宮」に居たのは月読命(保食神)である [伊勢野の天照皇大神宮]

1 月読命(保食神)は伊邪那岐が北栄町原集落で禊ぎをしているときに出会った三貴神(天照大神・月読命・須佐之男)の一人であり、北栄町大島で伊邪那岐に「夜の食国を治めよ」と命じられた。天照大神は饒速日の降臨のときに伊勢野(鳥取県琴浦町)に月読命は外宮の槻下(鳥取県琴浦町)に降臨した。邇邇芸の降臨のときには伊勢神宮は鳥取県琴浦町にすでに存在していた。

2 伊邪那美からは稚産霊が生まれた。稚産霊は豊受姫(饒速日と同じく江府町江尾神社の祭神)を生んだ。豊受姫と稚産霊は饒速日と一緒に鳥取県中部に降臨して幼い天香語山の世話をしていたが、饒速日が亡くなり4歳で邇邇芸が降臨してきたので幼い邇邇芸の世話をしていた。

 猿田彦は邇邇芸を亀谷丘陵(日向)にお連れしてから、豊受姫と稚産霊を天太玉とともに琴浦町の伊勢野(伊勢)にお連れした。稚産霊と天太玉は琴浦町中尾集落の神社の祭神になっている。稚産霊と天太玉は琴浦町中尾集落に行った(中尾遺跡発掘調査報告書より)。豊受姫は月読命のいる外宮の月下(琴浦町槻下集落)の宮の度会に行った。度会とは外宮の施設の一部ではなかろうか。厨房とかで食事を作っていたのかもしれない。月読は夜の食国を治めた。

 日向とは葦原中津国のクシフルタケ(北栄町の亀谷丘陵)のことであり、伊勢とは天照大神が最初に降り立った伊勢野(鳥取県琴浦町)のことである。距離にして3.5kmくらい離れている。歩いても、1時間以内で行ける距離である。藤原氏が倭国を乗っ取る奈良時代までは、元伊勢と言えば鳥取県琴浦町の天照皇大神宮のことであった。

3 「猿田彦は邇邇芸を『日向』にお連れしてから、『伊勢』に行かれた」という文章を読んで、「まさにこれは神話だ、生身の人間にできるわけがない」と書いておられる方がいたが、この文章でいう日向とは宮崎県ではないし、伊勢とは三重県ではない、どちらも鳥取県の中部にあり歩いて1時間以内の距離にあった。天照大神(徐福)・月読命(保食神)は鳥取県中部(倭国)を終の棲家にした。扶余族(藤原氏)による地名・神社の強奪である。

 


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第二節 方見神社の由緒にある外宮の「月下の宮」は現在の槻下(ツキノシタ)集落のことである [伊勢野の天照皇大神宮]

   第二節 方見神社の由緒にある外宮の「月下の宮」は現在の槻下(ツキノシタ)集落のことである。
1 「月下の宮」とはロマンチックなこの世にはないような宮だと思っていたが、現在の地図にのっている槻下(ツキノシタ)集落のことである。この集落は加勢陀川の東にあり、山側(伊勢野)に内宮の天照皇大神宮があった。位置関係としてはピッタリである。加勢陀川の西にある旧方見郷とは文化圏が違っていたのかもしれない。いきなり加勢陀川の西に持ってこられて、元大塚・中尾・上伊勢・下伊勢の四ヶ村の氏神を境内社に押しやってしまったのだから、この四ヶ村の住民は憤慨されたものと思う。
2 しかし、「槻下」をどう読むのだろうと思っていた時期もあった。難しい字である。これが「月下」だったのならば、なぜこの字を残さなかったのか。こちらのほうが、よほどロマンチックですぐ読めるのにと思う。そこが、地名・人名なんでもござれの藤原氏である。古事記の字を日本書紀の字に変えたように「月下」を「槻下」に変えている。伊勢野でも後で「野」を付けたのかもしれない。伊勢の郷となぜ呼ぶのか。伊勢崎村も後で「崎」を付けたのかもしれない。
3 伊勢野にあった天照皇大神宮は、海側に下ったところに外宮の月下(ツキノシタ)の宮があり摂社十六社、末社十七社を附属させていた。まるで、三重県の伊勢神宮のミニチュア版ではないか。なぜ、こんな田舎に真似てまでそんなものを造る必要があったのか。そうではなくて、ここがオリジナルであったからである。
4 伊勢神宮も出雲大社も宇佐の八幡宮総本社も丹後の豊受大神社・皇大神社も大きくて立派な造りである。建築様式もよく似ており、みな同じ一族が建てたものである。時代も同じ頃にたてたものと思われる。現在の規模の大きさに造ったのは、奈良時代(八世紀)だと思われる。伊勢神宮も出雲大社も式年遷宮をするようにしたのは同じ頃に藤原氏が定めたものである。
5 斉尾廃寺にあった寺は天照皇大神宮に並べて建立されていたものと思われる。上淀廃寺にしろ斉尾廃寺にしろ焼いたり壊したりしたのは藤原氏である。再建しようにも人間も法華寺畑遺跡で殺されているので、どうしようもなかった。ちょうど内宮と外宮の間を通る県道倉吉東伯線を倉吉方面に道なりに行けば、法華寺畑遺跡の横にでる。葦原中津国も通るのでそこにいた大国主の子孫も連れて行って殺したのだろう。阿遅鋤高日子根の子孫(大山の大神山神社の宮司)は助かったそうだが。奈良時代の藤原朝廷は首を切って晒し首にしたそうである。「これこれの子孫は褒美を与えるから名乗り出よ」と言って名乗り出させておいて、他所にテーマパークを造ってから、「お前は嘘をついたから処刑する」という手法であろう。

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第一節 鳥取県神社誌に見る方見神社について [伊勢野の天照皇大神宮]

 第一節 鳥取県神社誌に見る方見神社について

1  方見神社  東伯郡市勢村大字上伊勢字東屋敷
 祭神 天照大御神・伊邪那岐命・伊邪那美命・鵜草葺不合尊・菅原道真・素戔嗚尊・稲荷神・品陀和氣命・天太玉命・和加産巣日神
 由緒 創立年代詳ならず。往古は四至四町除地ありて社記に所在地を明記せり。その他多くの社領を有し官民の崇敬篤く、一に神宮に擬し野ノ宮斎王殿、着到殿等を構へ規模荘厳にして上官以下被官の社人十七人奉仕。上官屋敷、上ノ城戸、西ノ城戸等の名今に存す。その他、伊勢野、鈴鹿野、斎王野等の地名あり。また奈良朝の時、土佐より遁(のが)れ給いし池田王は、方見神主の許に隠れさせ給いしが、遂に神主となり奉仕せらりしとの伝説あり。(中略) 当社には往古より大田小田と称する神田あり、大田は朔日田と唱え九月一日にこの田の稲を神供に炊ぐ。小田は晦日田と唱えこの田の稲を以て部内諸神に供す。氏子の内より十三才未満の女子十二人を挙げ、神酒上げ神饌炊ぎとす。これを「三ケノオコラ」という。永久に相伝う。この田を植えるときは御田植祭を行い、官丁を課当せらりし。当社は昔より方見一郷の氏神にして、摂社十六社、末社十七社附属せしが、明治維新にこれを廃せられ、天照皇大神宮と称せしを方見社と改号、明治五年三月郷社に列す。当社は月下ノ宮を昔より外宮の関係にて両宮落合ひの神事とて、両社より十二頭の獅子を出し盛んに祭礼を行いしこと社伝に見ゆ。

2  大正二年に合併された神社
金市神社(鵜草葺不合尊)市勢村大字金市字馬場ノ内
北野神社(菅原道真)市勢村大字金市字天神ノ上
金屋神社(素戔嗚尊・稲荷神)伊勢崎村大字金屋字大田
大野神社(品陀和氣命)市勢村大字下伊勢字八幡土井
鈴野神社(須佐之男命)逢束村字鈴野
中尾神社(天太玉命・和加産巣日神)伊勢崎村大字中尾字屋敷
境内神社 
高柳神社 祭神 須佐之男命、稲田姫命、八王子

3 由緒の解釈
 奈良時代(政権を奪い取った藤原朝廷)には、藤原朝廷より遁(のが)れてきた土佐の王をかくまうほど力のある大きな神社であった。
 伊勢野、鈴鹿野、斎王野等の地名があった。野を取れば、伊勢・鈴鹿・斎王である。
 明治維新までは摂社十六社、末社十七社を附属させた天照皇大神宮と称していた。祭神は天照大御神・伊邪那岐命・伊邪那美命であった。
 「月下ノ宮を昔より外宮の関係にて両宮落合ひの神事」より月下ノ宮という外宮があったことがわかる。
 大田・小田を作り御田植祭をしていた。
 「神宮に擬し」の「神宮」とは三重県の伊勢神宮と思われる。こちらの方があとに造られたような書き方をしているが、奈良時代に土佐の池田王が助けを求めて逃れてくるほど権勢があったのであるから、奈良時代にはすでに古い歴史を有していたものと思われる。
 以上のことより伊勢神宮(奈良時代末)よりも古く伊勢神宮のモデルであった可能性がある。「義楚六帖」に「日本国亦名倭国、在東海中。秦時、徐福将五百童男、五百童女止此国。」とあるので、徐福は倭国にとどまった。この倭国とは、「在東海中」とあるので、列島のことではなく日本海沿岸にある小さな国のことであり、鳥取県中部のことである。徐福(天照大神)も丹後には行っていない。天照大御神は高天原である蒜山から降りて、鳥取市河原町霊石山に伝承がのこる因幡国にも行かれたが、亡くなったのは方見神社あたりと思われる。
 伊勢神宮だけは鳥取県中部と関係ないと思っていたが、やはりここをモデルとしたテーマパークであった。これで、天孫降臨の地(宮崎県)、出雲大社・スサノオ・大国主(島根県)、葛城・師木・三輪山(奈良県)、伊勢神宮(三重県)の四県は古事記つながりで連盟を組んでいるそうであるが、すべて鳥取県中部に本物はあり、これをモデルにしたテーマパークであることが解った。

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