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千三百年の間、藤原氏に消されてきた伯耆国(鳥取県中西部)の真実の歴史が、今よみがえる。

百済王12代から45代までの倭国王 ブログトップ
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丁未の乱について [百済王12代から45代までの倭国王]

丁未の乱(ていび  らん)について


1 宣化・敏達・用明・崇峻は百済王であった。


(1)宣化は百済王であった。


 この時の倭国王は蘇我稲目大王であった。別稿「535年から乙巳の変(いっし へん)までの110年の間の倭国大王は蘇我氏三代であった」を参照されたし。宣化天皇は百済王だから宣化天皇の皇子とされる宅部皇子(やかべのみこ)も百済人であり朝鮮半島の百済でなくなっている。また、穴穂部皇子(あなほべのみこ)とされる百済人は百済で殺されており倭国に実在した人物ではない。


(2)敏達は百済王であった。


 日本書紀・敏達天皇に「百済の大井に宮をつくった」とある。これについて、河内長野市太井とする説と、奈良県広陵町百済とする説がある。


 私見では「百済の大井」はそのまま「朝鮮半島の百済にあった」とする。巧みに倭国の地名と倭人の名前を混ぜているが、敏達天皇は朝鮮半島の百済王であった。この時の倭国王は蘇我馬子大王であった。別稿「535年から乙巳の変(いっし へん)までの110年の間の倭国大王は蘇我氏三代であった」を参照されたし。


(3)用明は百済王であった。


 日本書紀・用明天皇において「用明天皇は穴穂部間人皇女(あなほべはしひとひめみこ)を立てて皇后とした。この人は4人の男子を生まれた。1番目を厩戸皇子(うまやどのみこ)という。またの名は豊耳聡聖徳という。あるいは豊聡耳法大王という」とある。穴穂部間人皇女(あなほべはしひとひめみこ)のモデルは蘇我馬子の妻の物部鎌姫大刀自であり、厩戸皇子(うまやどのみこ)のモデルは蘇我馬子の長子の蘇我善徳であった。用明の皇居の磐余池辺雙槻宮(いわれいけべなみつきのみや)は蘇我馬子の皇居であった。池辺皇子も蘇我馬子であった。どちらの池も鳥取県北栄町北条島の金繰溜池(かなぐりためいけ)であった。用明のモデルは蘇我馬子であった。別稿「蘇我馬子大王(在位572年~626年)の磐余池辺雙槻宮(いわれいけべなみつきのみや)は鳥取県北栄町島にあった」を参照されたし。


(4)崇峻は百済王であった。


 泊瀬部皇子(はせべおうじ)は崇峻天皇ではない。雄略天皇の皇居のあった泊瀬山(はせやま)は倉吉市の打吹山であり、天武天皇が建てた泊瀬の斎宮は倉吉市の大御堂廃寺であった。蘇我稲目大王の皇居は倉吉市打吹山の大江神社にあり、泊瀬部皇子(はせべおうじ)長谷部若雀天皇(はせべわかささぎてんのう))とは倉吉市(泊瀬(はせ))で生まれた蘇我馬子のことであった。蘇我馬子は百済王の崇峻天皇を朝鮮半島で殺した(592年)。藤原氏は崇峻を殺した蘇我馬子の名を奪って崇峻に付けた。泊瀬部皇子(はせべおうじ)は蘇我馬子自身の名前であった。


2 丁未の乱(ていび  らん)について


 日本書紀・崇峻において「蘇我馬子らは炊屋姫(かしきやひめ)を奉じて、佐伯連丹経手(さえきのむらじにふて)土師連磐村(はじのむらじいわむら)的臣真噛(いくはのおみまくい)に詔して、『お前達は兵備を整えて急行し、穴穂部皇子(あなほべのみこ)宅部皇子(やかべのみこ)を殺せ』と命じた」とある。穴穂部皇子(あなほべのみこ)宅部皇子(やかべのみこ)は殺された。


 日本書紀・崇峻・丁未の乱(ていび  らん)において、蘇我馬子の軍勢が物部弓削守屋(もののべゆげのもりや)の軍勢を討ったとき「厩戸の皇子は、軍の後ろに従っていた。『もしかするとこの戦いは負けるかもしれない。願をかけないと叶わないであろう』といわれた。そこで四天王の像を作り、誓いを立てていわれるのに『今もし自分を勝たせて下さったら必ず護世四王のため寺塔を建てましょう』といわれた」とある。「乱が収まって後に、摂津国に四天王寺を造った」とある。蘇我馬子は法興寺を建立した。太子が16歳の時に落成したことになる。


3 私見 


(1)丁未の乱(ていび  らん)について詳しく記す文献は「聖徳太子伝歴」と「日本書記」である。「聖徳太子伝歴」は太子伝説の集大成だとされるが、同時代の歴史が記される「古事記」、「先代旧事本紀」には、「丁未の乱(ていび  らん)」については全く記載されていない。また、丁未の乱(ていび  らん)のあとに蘇我馬子が建てたとされる元興寺(法興寺)の縁起「元興寺伽藍縁起(がんごうじがらんえんぎ)流記資財帳(るきしざいちょう)」にも、「大々王の前で、物部・中臣は過去の過ちを反省して神と仏を共に尊ぶことを誓い、諸臣らは和解した」旨が記されているが、「丁未の乱(ていび  らん)」についての記載はない。「聖徳太子伝歴」は百済寺の老僧所伝の古書により編述したとされるが、老僧が誰かわからないし古書も残っていない。


(2)丁未の乱(ていび  らん)の少し前に日羅は蘇我馬子に進言している(583年)。日本書紀・敏達天皇において、日羅は「百済人は謀略をもって、『船三百隻の人間が、筑紫に居住したいと願っています』という。もし本当に願ってきたら許すまねをされるとよいでしょう。百済がそこで国を造ろうと思うのなら、きっとまず女・子供を船にのせてくるでしょう。これに対して、壱岐・対馬に多くの伏兵をおき、やってくるのを待って殺すべきです」という、とある。


 蘇我馬子は「百済は倭国を侵略しようとしている」という日羅の進言(583年)に基づいて百済を警戒していた。百済に不穏な動きがあったので兵を出して百済を平定した(587年)。そして百済兵273人を捕らえて奴婢(生口)にした。


穴穂部皇子(あなほべのみこ)とされる百済人も朝鮮半島の百済で蘇我馬子に殺された。藤原氏(百済人)は名前も穴穂部皇子(あなほべのみこ)に変えて舞台を列島(大阪府八尾市)に持ってきた。藤原氏(藤原兼輔など)は倭国を乗っ取ってから百済であった争いを丁未の乱(ていび  らん)として大阪府八尾市を舞台にして「日本(百済)書紀」や「聖徳太子伝歴」に記載し首長の物部弓削守屋(もののべゆげのもりや)(百済人)は殺されたとした。日本(百済)は倭国を乗っ取ってから、この事件を蘇我馬子と物部の宗教戦争に置き換えた。


 蘇我馬子と物部氏との宗教戦争(丁未の乱(ていび  らん))は作り話である。蘇我馬子は倭国大王だから乱ではなく平定である。蘇我馬子は朝鮮半島の百済(日本)を平定した。その孫の蘇我果安(そがのはたやす)(天武天皇)も亡命百済王朝(日本)を平定した。亡命百済王朝(日本)はこれを壬申(じんしん)(らん)とした。丁未の乱(ていび  らん)の舞台は百済であった。「聖徳太子伝歴」と「日本書記」を改ざん創作したのは平安時代と思われる。蘇我馬子の軍勢は朝鮮半島に進軍した。敵は百済の軍勢であり物部弓削守屋(もののべゆげのもりや)の軍勢ではなかった。


(3)法興寺の落成は596年(日本書紀・元興寺縁起による)である。これより早いとする説はない。596年落成の法興寺に16歳の聖徳太子像があるので聖徳太子は580年生まれであった。蘇我入鹿(聖徳太子)は65歳(645年)で殺された。別稿「『聖徳太子=蘇我善徳=蘇我入鹿』説について」を参照されたし。


「聖徳太子伝歴」は丁未の乱(ていび  らん)の時(587年)聖徳太子は16歳であったとする。飛鳥寺にある「16歳の太子像」は丁未の乱(ていび  らん)のとき(587年)の年齢ではなく落成の時(寺司になった時・596年)の年齢である。聖徳太子(蘇我善徳)は丁未の乱(ていび  らん)のときはまだ7歳であった。戦いに参加できるような年齢ではない。


(4)聖徳太子は蘇我善徳であり蘇我入鹿であるのは間違いないので、乙巳の変(いっし へん)のときは65歳であった。もし570年生まれなら75歳であったことになり、蘇我果安(そがのはたやす)(天武天皇649年即位)はすでに大王になる年齢に達しているため、権力者はすでに蘇我果安(そがのはたやす)(天武天皇)に移っていて権力者でなくなった蘇我入鹿(善徳)をテロの標的にしない。別稿「『山背大兄皇子=古人大兄皇子=大海人皇子(天武天皇)』説について」を参照されたし。


 「聖徳太子伝歴」は伊勢神宮の「神道五部書」と同じく四天王寺の来歴を正当化するための後の藤原氏による創作である。後半部分は信憑性をもたすため原書に基づいて書かれているが、前半部分は創作である。


(5)四天王寺は伊勢神宮と同じく藤原氏によって創建された。聖徳太子を主題にした仏教におけるテーマパークである。


 聖武天皇の時代に地震が多かったが、藤原氏はこれを蘇我入鹿の祟りと思っていた。「聖徳太子伝歴」にも家が倒壊する地震について書かれている。四天王寺は蘇我入鹿(聖徳太子)の祟りを封じるためと、日本海側に四王寺(新羅の海賊に備えて建立された)を建てたように新羅の刺客から守るために聖武天皇(百済王)の時代に建立された。5の参考「四王寺・四天王信仰について」を参照されたし。


「四天王寺は元は丁未の乱(ていび  らん)を経て、玉造の岸の上(ほとり)に建っていた」とある。新しいといわれるのをかわすためである。伊勢神宮や奈良の長谷寺と同じである。史実より古く見せる仏教版である。


(6)丁未の乱(ていび  らん)は作り話であった。モデルになった事件は百済国が舞台であった。592年には百済王の崇峻も朝鮮半島で殺されている。 


4 参考「元興寺伽藍縁起(がんごうじがらんえんぎ)流記資財帳(るきしざいちょう)


亡命百済王朝は倭国を乗っ取ってから新羅と百済を入れ替えているので元に戻して記載しています。別稿「倭国に仏教を公伝したのは百済の聖明王(在位523~554)ではなく新羅の法興王(在位514~540)であった」と「飛鳥寺(法興寺)は新羅の皇龍寺をモデルにして建立された」を参照されたし。


(1)丁未(ていび)の年(587)に新羅国から客が訪れた。官が聞くには、「この三人の尼等は新羅国に渡って戒を受けたいと思っております。どうしたら実現できるでしょうか」と。そのとき、新羅の使者が言うには、「尼等が戒を受けるには、まず、尼寺のなかから十人の尼師に頼んで本戒を受けます。その後、法師寺に赴いて、十法師にお願いします。先の尼師十人と合わせて二十人の師から本戒を受けます。しかし、この国には尼寺しかなくて、法師寺も僧もおりません。尼等がもし法に則るとするならば、法師寺を設け、新羅国の僧や尼等に来て貰い、戒を受けるがよいでしょう」と言う。そのとき、池辺天皇は、命をもって、大々王と馬屋門皇子の二柱に仰るには、「法師寺を建てるべき場所を見定めなさい」と。そのとき、新羅の客が言うには、「我国では、法師寺と尼寺の間で鐘の音が交互に聞こえ、絶えることがありません。半月ごとに午前のうちに行き来出来るところに建てております」と。ときに、聡耳皇子と馬古大臣がともに寺を建てる場所を見定めた。丁未(ていび)の年(587)に、新羅の客が本国に帰った。


(2)中臣連と物部連等をはじめとする、諸々の臣等は、心を同じにして、申し上げた。「いまから後は、三宝の法を、二度と破ったり、焼き流したり、凌げ軽ろしめたり、三宝の物を摂ったり、犯したりしません。いまから後は、左の肩に三宝が坐し、右の肩に我々が神坐して、並んで礼拝して尊重供養いたします。もしこの願がみだりに破られれば、まさに天皇の所願のように、種々の大きな災いを被ることになりましょう。仰ぎ願わくは、この善願の功徳によって、皇帝陛下が日月とともにあり、天下が安らかになり、後嗣が頼を蒙ふり、世時が異なっても得益が異なることのないように」と。


※私見


(1)丁未(ていび)の年587年)に新羅国から客が訪れた。・・・丁未(ていび)の年587年)に、新羅の客が本国に帰った。同じ丁未(ていび)の年(587)に蘇我馬子は新羅を守るため百済に出兵している。この文章より、「大々王と馬屋門皇子」と「聡耳皇子と馬古大臣」の二人は同じはずだから大々王=馬古大臣となることがわかる。


池(金繰溜池(かなぐりためいけ))辺天皇も蘇我馬子である。一人で何役もさせられて蘇我馬子も忙しいことである。


(2)「中臣連と物部連等をはじめとする、諸々の臣等」とあるので物部一族は滅んでいない。


物部氏は647年まで中大兄皇子(豊璋)の策略で武器を奈良に移すまで、倉吉市大原の石上神宮で多くの武器を管理していた。587年に河内に別荘があるわけがない。


物部の子孫は滅ぼされておらず今でも倉吉市大原(始祖からの物部の本拠地)に連綿として生きている。倉吉市大原の倉〇氏(物部だから倉が付く)は倉吉市弓削に親戚があり法事に行かれた。物部弓削守屋(もののべゆげのもりや)である。これは比定地が正しいからである。


奴婢(生口)にされたのは百済兵たちであり、それを物部一族に書き換えた。


 元興寺伽藍縁起(がんごうじがらんえんぎ)はかなり改ざんされているが、それでも丁未の乱(ていび  らん)だけは挿入していない。丁未(ていび)の年(587年)に新羅から客が来た。蘇我馬子大々王は三人の尼を新羅に連れて行ってくれるよう頼んでいる。大々王は蘇我馬子であった。


 日本書紀・敏達天皇において「物部弓削守屋(もののべゆげのもりや)は寺に赴き仏像と仏殿を焼いた。焼け残った仏像を集めて難波の堀江に捨てさせた」とある。このあと「中臣連と物部連等をはじめとする、諸々の臣等」は蘇我馬子大王に謝っている。史実はここまでであった。蘇我氏と物部氏の宗教戦争などという大げさなものはなかった。


5 参考 「四王寺・四天王信仰について」


出典文献:「むくげ通信」273 むくげの会 2015.11「『山陰道の古代寺院シリーズ 2』寺 岡 洋」を引用


 奈良時代後半、新羅との外交関係が悪化する中、新羅と向かい合う太宰府、山陰・北陸諸国で四天王に対する新たな祭祀が執り行われるようになる。


宝亀五年(774)太宰府の裏山、大野城内に四王寺(院)が建立される。「近年新羅がしきりに呪詛を行うので、これに対抗するために四天王像を造り、高地でかつ浄地を選んで安置せよ」というもの(類聚三代格)。


平安時代になると、貞観九年(867)には、伯耆・出雲・石見・隠岐・長門の五国に「八幅四天王像」を送り、「四天王に帰依し、災変を消却すべきこと」を命じている。これらの国々の境界は新羅に近いので、「賊境」を望む「高地」に道場を設置せよとの下命である(日本三代実録)。


※私見


 新羅を恐れるのは百済である。亡命百済王朝(日本)は新羅の刺客から守るため四王寺・四天王寺を建立した。四天王寺の建立は聖武天皇(在位724年~749年)よりのちである。


 


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藤ノ木古墳は鳥取県中部の一族が築造した [百済王12代から45代までの倭国王]

藤ノ木古墳の4つの特徴
 1横穴式石室の円墳 2石棺が朱塗り 3同棺複数埋葬 4江戸時代まで陵堂があり墓守がいた
1
 横穴式石室の円墳
(1) 鳥取県北栄町の瀬戸古墳群2号墳は巨石を5枚使用した横穴式石室の円墳である。6世紀中頃から7世紀初め。

出典文献名:大栄町教育委員会 1998 『瀬戸岩子山遺跡発掘調査報告書』大栄町埋蔵文化財調査報告書34を引用

(2) 鳥取県北栄町の上種(かみだね)西15号墳は6世紀後半の竪穴系横口式石室の円墳(上種(かみだね)西古墳群発掘調査報告書より)

 「竪穴系横口式石室」は5世紀後葉~6世紀前葉において朝鮮半島の栄山江(よんさんがん)流域に展開している。
 「竪穴系横口式石室」が、鳥取県中部のごく限られた範囲に所在している【上種(かみだね)西15号墳、上種(かみだね)東3号墳(6世紀中葉~6世紀後半)、大法3号墳、三保6号墳(6世紀中葉~後半)】ことから重要な問題提起となっている。

(3)まとめ

 植野浩三氏は「東伯耆が山陰地方の中でも、いち早く畿内型前方後円墳を成立させた地域であり、畿内との結びつきが非常に強かった地域」とし、「当地方にみられる階段状の施設をもつ横穴式石室は、北九州から直接導入されたと考えるよりは、むしろ一段階をおいて、近畿地方より東伯耆にもたらされたと考えるほうが妥当といえる」とされる。

出典文献名:大栄町教育委員会編、大栄町文化財調査報告書, 13集「上種西古墳群発掘調査報告書」 1984.3を引用

2 石棺が朱塗り。

スクリーンショット 2020-10-03 070217.jpg

(1) 鳥取県北栄町の妻波古墳群発掘調査報告書のまとめにおいて「妻波古墳群では、箱式石棺が検出もしくは発見されている古墳では、朱はすべての石棺から認められている。したがって、妻波古墳群の周辺では朱塗りは、一般的な葬法であったと推定してもさしつかえないと思われる」とある。

出典文献名:大栄町教育委員会 1980 『妻波古墳群発掘調査報告』大栄町文化財調査報告書8を引用

(2) 鳥取県北栄町の瀬戸35号墳の石棺も朱塗りされていた。

出典文献名:大栄町教育委員会 1998 『瀬戸岩子山遺跡発掘調査報告書』大栄町埋蔵文化財調査報告書34を引用

(3) 鳥取県湯梨浜町の長瀬高浜遺跡

 SX46・人骨は出土しなかったが棺内は赤色顔料が全体に塗られていた。赤色顔料は遣存状態が良く、塗る時に用いられていたハケの跡も明瞭に見ることができた。SX52・東西の両小口、北壁、南壁(東部のもの)の内面には赤色顔料ベンガラが塗彩されていた。SX79・石棺内に用いられている赤色顔料はベンガラであった。

出典文献名:鳥取県教育文化財団 1983 『長瀬高浜遺跡発掘調査報告書(本文編)5』鳥取県教育文化財団調査報告書12を引用

3 同棺複数埋葬

藤ノ木古墳について
※ 通説

 副葬品が金銅製の馬具や装身具類、刀剣類などであるからこの当時の支配階級の一人であったと考えられているが、円墳であることから大王クラスではないが、貴金属を用いたきらびやかな副葬品が多いことから強大な権力を持った人物であったと推測されている。

 6世紀第4四半期の円墳であると推定されているので「日本書紀」が記す5876月の暗殺時期と一致する聖徳太子の叔父で蘇我馬子(そがのうまこ)に暗殺された穴穂部皇子(あなほべのみこ)と、宣化(せんか)天皇(てんのう)の皇子ともされる宅部皇子(やかべのみこ)とする説が有力である。

※ 私見

(1) 天皇(てんのう)の古墳は円墳ではないとする今の考古学界は国民に嘘を教えている。時代については、聖徳太子が生前に自分のお墓をつくったという記録が残っている。596年法興寺完成。16歳の蘇我善徳(そがのぜんとく)が寺司になる。このころ、蘇我馬子(そがのうまこ)大王と蘇我善徳(そがのぜんとく)大王は生前墓として藤ノ木古墳を造っていた。

(2)被葬者について「日本書紀」が記す587年6月の暗殺があったかどうかも疑問である。そもそも、蘇我馬子(そがのうまこ)と物部氏との宗教戦争(丁未(ていび)(らん))は作り話だからである。蘇我馬子(そがのうまこ)は倭国大王だから乱ではなく平定である。丁未(ていび)(らん)の舞台は百済であった。蘇我馬子(そがのうまこ)は「百済は倭国を侵略しようとしている」という日羅の進言(583年)に基づいて百済を警戒していた。百済に不穏な動きがあったので兵を出して百済を平定した(587年)。そして百済兵273人を捕らえて奴婢(生口)にした。藤原氏(藤原兼輔(かねすけ)など)は倭国を乗っ取ってから百済であった争いを丁未(ていび)(らん)として大阪府八尾市を舞台にして日本(百済)書紀に記載し首長の穴穂部皇子(あなほべのみこ)(百済人)は殺されたとした。物部氏は647年まで中大兄皇子(豊璋)の策略で武器を奈良に移すまで、倉吉市大原の石上神宮で多くの武器を管理していた。587年に河内に別荘があるわけがない。物部の子孫は滅ぼされておらず今でも倉吉市大原(始祖からの物部の本拠地)に連綿として生きている。蘇我馬子(そがのうまこ)は百済王の崇峻天皇(すしゅんてんのう)を朝鮮半島で殺した(592年)。穴穂部皇子(あなほべのみこ)とされる百済人も朝鮮半島の百済で蘇我馬子(そがのうまこ)に殺された。藤原氏(百済人)は名前も穴穂部皇子(あなほべのみこ)に変えて舞台を列島(大阪府八尾市)に持ってきた。聖徳太子(蘇我善徳(そがのぜんとく))はこの時はまだ7歳であった。戦に参加できるような年齢ではない。四天王寺は聖徳太子(蘇我入鹿(そがのいるか))の(たた)りを鎮めるために聖武天皇(しょうむてんのう)の時代に建立された寺院である。奴婢(生口)にされたのは百済兵たちであり、それを物部一族に書き換えた。穴穂部間人(あなほべのはしひと)皇女も我馬子(そがのうまこ)の妻の物部鎌姫大刀自(もののべかまひめおおとじ)がモデルであり泊瀬部皇子(はせべおうじ)蘇我馬子(そがのうまこ)自身の名前であった。穴穂部皇子(あなほべのみこ)とされる百済人は百済で殺されており倭国に実在した人物ではない。宣化(せんか)天皇(てんのう)は百済王だから宅部皇子(やかべのみこ)とされる百済人も百済でなくなっている。

(3)女性説について

 樋口隆康京大名誉教授は「馬具の鞍は三組のうち一組の鞍は把手がついていて横乗りの女性用のものだろう」と指摘する。同志社大学の森浩一教授は「南側の人にともなう歩揺付き筒形金銅製品は高句麗の壁画で女人が胸につるしている腰鼓とみる説がつよい」とする。

 出典文献名:アサヒグラフ1989.1「藤ノ木古墳の謎を解く」を引用

 古墳時代の玉類の研究者の玉城一枝は「2体のうち南側の人骨が、両足に濃い青色のガラス玉9個(足玉)と、左手首にガラス製棗玉10個(手玉)をそれぞれ装着した状態で出土しているので、人物埴輪の表現や古事記・日本書紀などの記述から考える限り、手玉や足玉は女性特有の装身具である可能性が高い」との説を発表した。

出典文献名:朝日新聞2009.9.14「男二人でなく男と女?」を引用

(4)『瀬戸岩子山遺跡発掘調査報告書 付章 瀬戸35号墳出土人骨』において鳥取大学医学部法医学教室 井上晃孝は「被葬者同志の関係は、1人用の石棺に、あえて成人男女2体が特殊な埋葬形式(頭位を反対にして、下肢骨を交差する)で埋葬されたことは、生前かなり親密な間柄が思量され、 夫婦関係が推察された」とする。

出典文献名:大栄町教育委員会 1998 『瀬戸岩子山遺跡発掘調査報告書』大栄町埋蔵文化財調査報告書3444頁を引用

 「島古墳群発掘調査報告書 鳥取県内における同棺複数埋葬について」において岡野雅則は「鳥取県北栄町の島古墳群7号墳では、一つの箱式石棺に二体を埋葬する埋葬形態がみられた。こうした同棺複数埋葬(合葬)は、西日本においては兵庫県以東の瀬戸内海沿岸や山陰東部、北部九州地域に分布することが知られている。
 かつて小林行雄は、横穴式石室と同棺複数埋葬を同系列上にあるものとして理解し、家族墓であるとした。

 箱式石棺でも極めて短期間に合葬されたとみられる例がある。鳥取県北栄町の瀬戸岩子山 35号墳1号埋葬施設、鳥取県北栄町の島7号墳第二埋葬施設、面影山 33号墳第1主体部では、対置の状態で埋葬された2体は、互いに下肢を交差させた状態であった。骨の配列はほぼ原位箇を保持するものとみられることから、同時埋葬かもしくは極めて近い時期の追葬とみられる」とする。

 出典文献名:財団法人鳥取県教育文化財団鳥取県埋蔵文化財センター 2000 『島古墳群 米里三ノ嵜遺跡 北尾釜谷遺跡 (北尾古墳群)』鳥取県教育文化財団調査報告書64の34頁を引用

これら3古墳で出土した2体は3古墳とも男女である。

(5)私見では藤ノ木古墳においても二人のうち一人は女性である。

「なぜ保管人骨をDNA鑑定しないのでしょうか?」と不思議がる人もいる。DNA鑑定しないのは日本書紀の嘘虚構がバレルからである。考古学会も藤原氏の組織だから当然である。

 膳大郎女(かしわでのおおいらつめ)は聖徳太子と一緒に藤ノ木古墳の一つの石棺に抱き合うようにして葬られている人だと考えられる。この人は聖徳太子が最後に一緒に住んだ年若い愛人で、聖徳太子の死を傷んで後追い自殺したとみられる。被葬者は聖徳太子(首を斬られた蘇我入鹿(そがのいるか))と膳大郎女(かしわでのおおいらつめ)であった。

4 江戸時代まで陵堂があり墓守がいた
 鳥取県北栄町の茶臼山松樹庵の案内板に「石段上の地蔵は寛政元年(1789年)世出開了行者〇〇信女の墓である」とある。大国主・少彦名・須勢理姫・八上姫のいた伊那佐小浜を守っていた。
5 私 見

以上のように藤ノ木古墳は鳥取県中部の古墳に符合する4つの特徴を備えている。法隆寺は鳥取県中部にいた一族が創建したので、法隆寺に関連付けられる藤ノ木古墳も鳥取県中部にいた一族が造ったと考えるのは当然といえば当然である。


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蘇我馬子大王(在位572年~626年)の磐余池辺雙槻宮は鳥取県北栄町島にあった [百済王12代から45代までの倭国王]

 1 磐余の地の旧名は、片居または片立という。神武天皇の時代は海抜4mに海面があったから、北栄町米里集落と島集落の地形は中央に池があり、片側に居るか、片側に立つことになる。だから、片居・片立と言っていた。奈良の磐余邑ではなぜ片居・片立といったのかの説明ができない。また、神倭磐余彦が家来二人に赤土を下ろさせた土下集落も近くにある。


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 磐余邑は現在の行政区分とは異なり、米里だけではなく、島も含んでいた。


2 奈良の磐余邑の説明文に「履中天皇の条には、『磐余池を作る』と記されています。現在、池は存在しませんが、池之内(桜井市)、池尻町(橿原市)など池に由来する地名が残されており、近年の発掘調査では、この地域に池があったのではと推定される遺構が出土しています。 この池は、万葉集の大津皇子の辞世の歌をはじめ、平安時代の「枕草子」や「拾遺集」などにも取り上げられていることからかなりの長い期間にわたって存在していたとされています」とある。


 本当の磐余池は鳥取県北栄町島集落の金繰溜池であった。


 履中天皇は皇居の北に金操溜池(かなぐりためいけ)を造った。


3 金操溜池(かなぐりためいけ)


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 右は島集落。左奥に金操溜池(かなぐりためいけ)がある。


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 通りがかりの耕運機を運転していた人に「この堤は古いか新しいか」と聞いたところ、「大昔の堤だ」と答えた。「新しいように見えるが」と聞いたら、「台風で決壊し作り直した。以前はもっと低かった」と答えた。「島集落の所有である。管理は代表を決めて管理している。」「明治、大正の話ではない。大昔だ。」と言っていた。


 底に溜まった泥で年代測定はできるので、大昔が何時ごろかわかる。私は履中天皇の時代、5世紀初頭と推定する。


 池上の陵は島古墳群であった。5世紀・6世紀の古墳である。履中は5世紀の天皇である。一の崎の下を大(王)町という。一の崎にいたのは履中天皇であった。


4 島古墳群発掘調査報告書より


磐余邑7.jpg


磐余邑8.jpg


 池(金操溜池)上の丘陵から島古墳群が発掘された。


 7号墳をもとに岡野雅則は「同棺複数埋葬について」という論考を書いている。7号墳は「第一、第二埋葬施設同士の前後関係は不明であるが、本墳は古墳時代前期後葉~中期前葉に築造されたとみて大過なかろう」とある。7号墳は履中天皇の時代、4世紀末~5世紀初めである。


 5号墳は6世紀前葉段階で76cmの鉄刀が発掘された。第26代継体天皇の時代である。


 8号墳(6世紀後半~7世紀初頭)・11号墳(6世紀後半)は、蘇我馬子大王と同時代の古墳である。


 蘇我馬子(在位572年~626年)は長谷部若雀天皇であり鳥取県北栄町島(磐余池辺雙槻宮)に皇居があった。


島古墳群 米里三ノ嵜遺跡 北尾釜谷遺跡 (北尾古墳群) 発掘調査報告書
http://sitereports.nabunken.go.jp/ja/13574


島集落からは縄文中期~縄文晩期の遺跡も発掘されている。猿田彦は土地勘のある土着の縄文人に比定したが猿田彦一族はこのあたりに住んでいた。


島遺跡発掘調査報告書第2集
http://sitereports.nabunken.go.jp/ja/14048

ぜひご覧になってください。


5 日本書紀は亡命百済人によって百済王家の歴史を残すために作られた歴史書である。その際、乗っ取った倭王朝の歴史書である原古事記の記述を国史に取り込んだ。


 蘇我馬子大臣(王)は、百済国王の敏達、用明、崇峻、推古4代の間の倭国大王であった。


 用明天皇の皇居は磐余池辺雙槻宮とされる。用明天皇は百済王である。しかし、磐余邑は確かに鳥取県北栄町に存在していた。磐余池辺雙槻宮は用明天皇の皇居ではなく、大臣とされているが実は倭国王の蘇我馬子大王の皇居であった。崇峻の諱は泊瀬部、即位前は泊瀬部皇子と称した。古事記には長谷部若雀天皇とある。朝鮮半島にいた百済王崇峻は同じく朝鮮半島にいた蘇我馬子大王の部下に殺された。亡命百済人は百済王崇峻に倭国王蘇我馬子大王の諱を取り込んだ。用明の皇居と崇峻の諱は蘇我馬子大王の帝紀として原古事記に書いてあった記述を日本書紀に取り込んだものである。


 蘇我馬子大王の妻は物部鎌姫大刀自(実家は倉吉市大原で産屋は倉吉市馬場町)であり、子は蘇我善徳(聖徳太子)と蘇我倉麻呂である。


 蘇我馬子大王は鳥取県倉吉市(泊瀬)で生まれ育ったので諱は長谷部(泊瀬部)若雀天皇であり、皇居の磐余池辺雙槻宮は鳥取県北栄町島にあった。


 


 


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豊鋤入姫命(台与)は都を鳥取県中部(倭)にもどした [百済王12代から45代までの倭国王]

 景行天皇(屋主忍男武雄心命)は倭姫命が亡くなった後、都を奈良の纒向に移したが豊鋤入姫命は都を鳥取県中部(倭)に戻した
 
1 魏志倭人伝に「卑弥呼は死に、塚を大きく作った。直径は百余歩。徇葬者は男女の奴隷、百余人である。さらに男王を立てたが、国中が不服で互いに殺しあった。当時千余人が殺された。また、卑弥呼の宗女、十三歳の壹與を立てて王と為し、国中が遂に安定した。張政たちは檄をもって壹與に教え諭した。壹與は大夫の率善中郎将、掖邪拘等二十人を遣わして、張政等が帰るのを送らせた」とある。
 「梁書倭国伝」「北史倭国伝」では「臺與」と記述されている。「壹與」は正しい表記ではなく「臺與」(とよ)が正しいと思われる。国史で「とよ」とは豊鋤入姫である。もともと倭姫命と豊鋤入姫命の巡行は時代も目的も違うものであった。藤原氏は伊勢神宮の由緒を創るために、同じ目的で引き継いだとする倭姫命世記を創作した。順番も書き換えた。日本書紀の系譜も書き換えた。
 
2 10代天皇から12代天皇までの問題となる系譜
⑴ 崇神天皇(本拠地は岡山県津山市中山神社)
皇后:御間城姫(御真津比売命) ー 大彦命(孝元天皇の皇子)の娘
◎活目入彦五十狭茅尊
妃:遠津年魚眼眼妙媛 ー 紀伊国(木国=津山市)荒河戸畔の娘
◎豊鍬入姫命 ー 史実は彦太忍信の娘であった
⑵ 垂仁天皇(本拠地は岡山県美咲町大宮神社)ー 彦太忍信か
皇后:日葉酢媛命(丹波道主王の娘)
◎五十瓊敷入彦命、大足彦忍代別尊 ー この位置は屋主忍男武雄心命である
◎葛木志志見興利木田忍海部刀自(住吉大社神代記による) ー 豊鋤入姫(台与)であり神功皇后
◎倭姫命 ー 史実は孝霊天皇皇女であった
妃:迦具夜比売(かぐやひめ)。 ー 開化天皇の曾孫(ひまご)。
⑶ 景行天皇(屋主忍男武雄心命)皇居は纒向日代宮 ー 屋主忍男武雄心命か
皇后:播磨稲日大郎姫 ー 若建吉備津日子の娘 ー この位置は津山市にいた影姫であった
◎大碓命 ー 身毛津君(牟宜都国造)等祖
◎小碓命(倭建命=若日子建吉備津日子) ー この位置は武内宿禰であった
妃:迦具漏比売(かぐろひめ)。 ー 倭建命の曾孫(ひまご)。
※ 私見
 古事記によれば景行天皇には80人の御子がいたことになっている。また、古事記では「倭建命(小碓命)の曾孫(ひまご)の迦具漏比売(かぐろひめ)が景行天皇の妃となって大江王(彦人大兄)をもうける」とするなど矛盾があり、このことから景行天皇と倭建命との親子関係に否定的な説がある。
 また、景行天皇自身に纏わる話は全くと言ってよいほど出てこないので、景行天皇が実在した可能性は低いとする説も少なくない。
 
3 屋主忍男武雄心命について
 正しいと思われる史料
 「紀氏系図」では、孝元天皇皇子に彦太忍信命、その子に屋主忍雄命、その子に武内宿禰と甘美内宿禰とする。
 「日本書紀」によると、天皇は紀伊(御真木国=津山市)に行幸して神祇祭祀を行おうとしたが、占いで不吉と出たため、代わりに武雄心命が遣わされた。武雄心命が阿備柏原(津山市)にて留まり住むこと9年、その間に影媛との間に武内宿禰を儲けた。
 「古事記」では「木国造の宇豆比古の妹の山下影日売を娶って建内宿禰(武内宿禰)を生む」とある。
 「梁書倭伝」に「また卑彌呼の宗女、臺與を立てて王にした。その後、また男王が立ち、並んで中国の爵命を受けた」(復立卑彌呼宗女臺與為王 其後復立男王並受中國爵命)とある。
※ 私見
 紀国・紀伊国は木国の読みを別漢字に直したものであり、木国とはもとは岡山県津山市のことであった。
 孝元天皇・開花天皇・崇神天皇は孝霊天皇の皇子であり兄弟承継をしていた。従って、11代垂仁天皇と彦太忍信命は「いとこ」、12代景行天皇と屋主忍男武雄心命は「またいとこ」になり年代的に一致する。
 豊鋤入姫(台与)は彦太忍信の子であり12代屋主忍男武雄心大王の妹になる。武内宿禰は12代屋主忍男武雄心の子であり13代男王であった。13代武内宿禰大王は女王の叔母の豊鋤入姫(臺與)と一緒に行動していた。
 11代倭国大王は垂仁か彦太忍信かは現時点では不明であるが、「住吉大社神代記」によると、彦太忍信には葛木志志見興利木田忍海部刀自という娘がいたとする。彼女が豊鋤入姫(神功皇后)であった可能性が高い。彼女は牟賀足尼命と嶋東乃片加加奈比女の子である田乃古乃連と結婚し、古利比女、久比古、野乃古連を生んだという。神功皇后(豊鋤入姫)は倉吉市上神におり、倉吉市北面で出産したという伝承がある。倉吉市上神・北面は葛木地域にあたる。
 「梁書倭伝」にある男王は武内宿禰大王であった。豊鋤入姫の甥の武内宿禰は13代倭国大王となり、鳥取県北栄町原の元野神社に皇居をおいた。父親ほどではないが多くの御子を作った。記紀の神功皇后のモデルは豊鋤入姫命と思われるが、百済色に強く染めてあり、新羅と兄弟国であった倭の姫とはかけ離れている。百済が新羅を攻めた時のことを原古事記にあった豊鋤入姫の事績を用いて創作した物語が神功皇后ではないかと思われる。藤原氏による改ざん創作物語である。
 
4 迦具夜比売と迦具漏比売、大碓命と小碓命について
※ 私見
 景行天皇は106歳まで生きたのだから皇子のひ孫を「妃」と出来るかもしれない、という説があるが、不可能である。
 垂仁天皇の系譜に「迦具夜比売(かぐやひめ)は開花天皇の曾孫(ひまご)」とある。開花天皇は垂仁天皇の2代前なので、迦具夜比売は開花天皇の孫ならおかしくない。開花天皇の曾孫(ひまご)であれば迦具夜比売は景行天皇の妃がふさわしい。
 迦具夜比売と迦具漏比売は姉妹であり二人とも景行天皇の妃であったと思われる。原古事記には「開花天皇(倭建命)の曾孫(ひまご)の迦具夜比売(姉)と迦具漏比売(妹)は景行天皇の妃となって・・・」とあった。倭建命と開花天皇は同一人物であった。
 このように、古事記・日本書紀の系譜は改ざんが多い。豊鋤入姫命も倭姫命も改ざんされている。豊鋤入姫命の父は彦太忍信命であり、倭姫命の父は孝霊天皇であった。
 大碓命・小碓命の物語も大吉備津日子(崇神天皇)と若日子建吉備津日子(開花天皇)をモデルにした創作であった。小碓命(倭建命)の位置は武内宿禰でなくてはならない。
 景行天皇は実在せず、その時の倭国大王は屋主忍男武雄心命であった。
 
5 魏志倭人伝によると「国中が服さず、更に互いが誅殺しあった」とある。なぜ、男王に服さなかったのであろうか。
  崇神天皇、垂仁天皇の活動本拠地は岡山にあったが、皇居は鳥取県湯梨浜町(師木)に置いていた。男王の皇居は鳥取県湯梨浜町(師木)に置いていたが、都は女王倭姫命(卑弥呼)の住む志摩国であった。神道の各地の代表者は奈良の纒向に集まり倭姫命の祭祀に参加していた。倭姫命(卑弥呼)が亡くなってから景行天皇(屋主忍男武雄心命)は都を奈良の纒向に遷したが子孫を増やすことに専念しており、倭姫命のようにうまく祭祀ができなかった。倭朝廷に深く関係する一族のいた地域では失望して誅殺しあった。景行天皇(屋主忍男武雄心命)は国中が不服の状態を見過ごすことはできず倭姫命に代わる女王を立てなければならなかった。景行天皇(屋主忍男武雄心命)は妹の豊鋤入姫に誅殺しあっている地域を巡行させ、鳥取県中部(倭)に本拠地を置かせることにした。

クリップボード35.jpg

 豊鋤入姫が巡行した本当の比定地は以下の通りであった。
(1)倭の笠縫邑(鳥取県琴浦町八橋)(2)但波の吉佐宮(京丹後市丹後町の竹野神社)(3)倭の伊豆加志本宮(鳥取県倉吉市長谷集落長谷神社)(4)木乃国奈久佐浜宮(津山市二宮の高野神社)(5)吉備国名方浜宮(倉敷市上東)(6)倭の弥和乃御室嶺上宮(鳥取県北栄町下神の三輪神社)。
 別稿「倭姫命世記において豊鋤入姫の巡行した本当の比定地」を参照されたし。
 豊鋤入姫(台与)は鳥取県北栄町下神の三輪神社で祭祀をしたあと、倉吉市鋤集落を本拠地にした。
 第13代倭国男王の武内宿禰は鳥取県北栄町原の元野神社に皇居を置いた。

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「山背大兄皇子=古人大兄皇子=大海人皇子(天武天皇)」説について [百済王12代から45代までの倭国王]

1 「古人大兄皇子=大海人皇子(天武天皇)」説について
 
⑴ 「紀」は、古人大兄皇子と大海人皇子の二人だけに共通するキーワードを用いている。「仏道修行」である。「仏道」とは、「仏教と道教(神道)」を組み合わせた語であり、「紀」では二人に対してだけ使われている。 「紀」で仏教だけを指す場合は、「仏法」と書かれている。
 
⑵ このように、「紀」は天武天皇が古人大兄皇子に近い人物だったと臭わせているので、古人大兄皇子と天武天皇を同一人物とする説がある。「神皇正統記」は「不明な天武天皇の前半生に古人皇子を継ぎ足した」としている。
 
⑶  私見
 古人大兄皇子は、蘇我入鹿が中大兄と中臣鎌子(藤原鎌足)に暗殺された時、「韓人が鞍作臣を殺した」と言って、中大兄と藤原鎌足が韓国(百済)の人であることを証言した。
 古人大兄皇子は入鹿殺害の現場に立ち会っていた。この古人大兄皇子は誰であろうか。
 古人大兄皇子は蘇我馬子と蘇我善徳が創建した法興寺で頭を丸めて吉野へ逃げた。
 古人大兄皇子については、母親の父が蘇我馬子というだけで法興寺を自分の寺のようにして剃髪するだろうか。母方の祖父の家に行くのは大人になればなるほど抵抗がある。ここは父方の祖父が法興寺を創建した蘇我馬子と考えるべきである。
 古人大兄皇子のとった行動は、大海人皇子(天武天皇)が中大兄の策略を見抜いて吉野へ逃亡したのと瓜二つである。中大兄から逃れた大海人皇子(天武天皇)が吉野へ入る前に落ち着いたのが、蘇我馬子の邸宅「嶋庄の宮」であった。大海人皇子(天武天皇)についても、吉野に行く前に蘇我馬子の邸宅に泊まっているので、蘇我馬子の直系と考えるべきである。
 古人大兄皇子も大海人皇子(天武天皇)も、帝位(皇位)につくよう勧められたがそれを辞退して舎人に刀を解かせて仏道を修行するため僧侶になり、吉野に行っているので同一人物とみるべきである。古人大兄皇子は大海人皇子(天武天皇)と同一人物であった。
 
※ 参考
古人大兄皇子
 蘇我臣入鹿は独断で上宮(聖徳太子)の王たち(山背大兄王)を廃して、古人大兄(舒明天皇の皇子、母は蘇我馬子の娘)を天皇にしようと企てた。
 天皇は大極殿にお出ましになった。古人大兄がそばに侍した。・・・中大兄は平伏して奏上し「鞍作(入鹿)は皇子たちをすべて滅ぼして、帝位を傾けようとしています。鞍作をもって天子に代えられましょうか」といった。
 佐伯連子と稚犬養は入鹿臣を斬った。古人大兄は私宅に走り入って人々に、「韓人が鞍作臣を殺した。我も心痛む」といい寝所に入ってとざして出ようとしなかった。
 軽皇子は古人大兄に譲って「大兄命は舒明天皇の御子です。また年長です。この二つの理由で天位におつきになるべきです」といわれた。すると古人大兄は座を去り、退いて手を胸の前で重ねて「私は出家して吉野に入ります。仏道の修行(仏道修行)につとめ、天皇の幸せをお祈りします。」と言われお断りになった。言い終わって腰の太刀を解いて地に投げ出された。また舎人らに命じて、みな太刀をぬがされた。そして、法興寺の仏殿と塔との間においでになり、みずからひげや髪を剃って袈裟を召された。 
大海人皇子(天武天皇)
 天智天皇は東宮に皇位を譲りたいといわれた。そこで辞退して、「私は不幸にして、元から多病で、とても国家を保つことはできません。願わくば陛下は、皇后に天下を託して下さい。そして大友皇子を立てて、皇太子としてください。私は今日にも出家して、陛下のため仏道を修行(仏道修行)することを望みます」と言われた。即日出家して法服に替えられた。それで自家の武器をことごとく公に納められた。
 吉野宮に入られることになった。左大臣・右大臣および大納言らがお見送りした。この夕方、嶋宮(明日香村島の庄の離宮)へお着きになった。翌日吉野へお着きになった。このとき多くの舎人を集めて、「自分はこれから仏道に入り修行(仏道修行)をする。自分と一緒に修道しようと思う者は留まるがよい。朝廷に仕えて名を成そうと思う者は、引き返して役所に戻るように」と言われた。しかし、帰るものはいなかった。
 
2 「山背大兄皇子=古人大兄皇子=大海人皇子(天武天皇)」説について
 私は、聖徳太子=蘇我入鹿=蘇我善徳とする(「聖徳太子=蘇我入鹿=蘇我善徳説について」を参照されたし)ので下記のような図となる。


次期天皇に推薦.jpg

 聖徳太子は山背大兄皇子を次期天皇に推していた。蘇我入鹿は古人大兄皇子を次期天皇に推していた。
 一人の人物が次期天皇候補に推す人数は普通一人である。聖徳太子と蘇我入鹿は同一人物だから次期天皇に推薦する人物も同一人物となり、山背大兄皇子=古人大兄皇子となる。山背大兄皇子は聖徳太子の子なので、古人大兄皇子は蘇我入鹿の子となる。古人大兄皇子は蘇我入鹿と一緒に殺害の現場に来ていた蘇我入鹿の子供であった。
 また、前述の結論より、山背大兄皇子=古人大兄皇子=大海人皇子(天武天皇)となる。聖徳太子=蘇我善徳だから大海人皇子(天武天皇)は蘇我善徳の子となる。
 蘇我果安は蘇我倉麻呂の子で、「紀」は吉野に行くのを見送ったとし近江朝廷側の一人とする説が有力だが、蘇我果安を蘇我善徳の子とする文献(中田憲信「皇胤志」・鈴木真年「史略名称訓義」では蘇我善徳の子とする)もある。ストレートに書くと今まで蘇我善徳を隠してきたことが無駄になるので、「紀」はここでも大海人皇子(天武天皇)に近い人物として一人二役をさせていた。蘇我善徳の子に大海人皇子(天武天皇)にふさわしい人物はいない、として調査をあきらめさせる効果を狙っている。
 山背大兄皇子も古人大兄皇子も蘇我果安も死に方が「自害」で同じである。藤原氏はよほど、天武天皇に死んでほしかったと見える。
 結論
(父)聖徳太子=蘇我入鹿(蝦夷)=蘇我善徳
(子)山背大兄皇子=古人大兄皇子=大海人皇子(蘇我果安=天武天皇)
  山背大兄皇子殺害事件は乙巳の変というテロ行為を正当化するために創作された一人三役の創作物語であった。

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神功皇后の民間伝承のもとは豊鋤入姫命(台与)の伝承であった [百済王12代から45代までの倭国王]

 


1 神功皇后のモデル(豊鋤入姫)は実在したが、百済人によって百済色に色濃く染められている。


神功皇后の三韓征伐は倭国女王の豊鋤入姫命(台与)と倭国大王の武内宿禰が三韓に行った記事を亡命百済王朝(日本)が百済色に書き換えたものである。


 系譜を調べると、景行・成務・仲哀は百済国の王であった(別稿「12代景行・13代成務・14代仲哀について」を参照されたし)。13代倭国王は武内宿禰であり、12代倭国王は武内宿禰の父の屋主忍男武雄心であり14代倭国王は武内宿禰の4男であった。


 台与は豊鋤入姫命であり彦太忍信命の娘の葛木志志見興利木田忍海部刀自であった。第12代倭国男王の屋主忍男武雄心の妹となる。屋主忍男武雄心の妹は倭姫命ではなく豊鋤入姫命であり、神功皇后のモデルであった。


 豊鋤入姫命は12代倭国王の妹であり武内宿禰の叔母になる。梁書倭伝に「また卑彌呼の宗女、臺與を立てて王にした。その後、また男王が立ち、並んで中国の爵命を受けた」(復立卑彌呼宗女臺與為王 其後復立男王並受中國爵命)とある。臺與は豊鋤入姫命であり男王は武内宿禰であった。二人は一緒に行動していた。古事記・日本書紀の神功皇后の段には武内宿禰が一緒に行動している。神功皇后のモデルは豊鋤入姫命であった。


 神功皇后は新羅に敵対する皇后として描かれている。倭国は鳥取県中部であったから、鳥取県中部に最短で到着できる千年続いた新羅は倭国の敵ではなかった。神功皇后は倭国の皇后ではなく新羅に敵対していた百済の皇后として描かれている。神功皇后は原古事記にあった豊鋤入姫命の旧事をもとにして百済色に色濃く改ざんされて描かれている。神功皇后は不比等をはじめとする百済史官によって改ざん創作された。亡命百済人たちは八幡神社を創建し神功皇后を八幡神社の祭神の一人とした。九州周辺に多く残っていた豊鋤入姫命や倭姫命の民間伝承は神功皇后の伝承として多くの八幡神社に吸収させていった。


 強奪に喜びを感じる扶余族(百済人)である。倭国の歴史を強奪した。


2 豊鋤入姫は倉吉市鋤を本拠地にした(別稿「倭姫命世記において豊鋤入姫の巡行した本当の比定地」と「豊鋤入姫命(台与)は都を鳥取県中部(倭)に戻した」を参照されたし)。これは私が調査研究した結果である。定例会で会員の方が「神功皇后は倉吉市上神にいて、倉吉市の北面で出産された、という伝承がある」と言われた。その伝承は調査結果と一致する。倉吉市鋤を本拠地にして倉吉市上神におり、倉吉市北面で出産した。この3ヶ所とも「つくし」の日向の地である。記紀には「神功皇后はつくしで出産した」とだけあり、九州の「つくし」とは書いていない。この地が木を切り「つくし」ていた地ということは波波岐神社の神社明細帳に「一ツ木の神クシフルネ(亀谷丘陵)」という記述でわかる。倉吉市北面は「つくしの日向」の地であるが、なぜ「つくしの日向」と書かずに「つくし」とだけ書いたかは容易に察することができる。九州では「つくし」と「日向」は別の地だからである。


 また、新羅を西の国と書いている。九州から新羅は北の国である。神功皇后の時代から記紀を発表するまで九州から新羅には何度も行っているはずだから方角は判っているはずである。倭国歴史書原文には倭国(鳥取県中部)から西の国の新羅がどういう国か書いてあったのだろう。百済史官はそれをおかしいと思うことなくそのまま書き写した。ここでもほころびが生じた。


3 河村哲夫氏は「神功皇后の謎を解く」(原書房 2013年出版)において「大和朝廷に押しつけられた虚構の話を地元の伝承として残した、というような伝承は一件もない。まさに、神功皇后そのものの伝承として地域に伝えられている」とされる。


 鳥取県湯梨浜町宮内集落の倭文神社は伯耆国一宮で昨年は中央から雅楽の演奏に来ていた。また平安後期(1100年頃)に埋納された国宝の経筒(伯耆一宮経塚から銅経筒、金銅仏、銅鏡、檜扇、短刀、刀子、玉類、銅銭、漆器などが出土した)も発掘されている。京都の藤原氏はこの神社を重要視していた。伝承では「高姫(下照姫)が国譲りで出雲からこちらに来て、助産婦の仕事をしていた。」高姫(下照姫)に仕えた者たちの子孫も数軒あるという。高姫(下照姫)が涙ぐんでいた様子まで伝承されている。


 伯耆国に宮内は3ヶ所しかない。2ヶ所の神社は孝霊天皇を祀った神社である。では残る1ヶ所の倭文神社も孝霊天皇を祀っていたのではないか。また、宮内遺跡からは弥生時代後期(倭国大乱の頃)の国内最長の鉄刀が出土している。


 湯梨浜町宮内に行って聞いてみると、「倭文神社には高姫(下照姫)がいた。伝承も残っている。宮内に遺跡などない。きっと、橋津に古墳があるからそこのことだろう。橋津にいってみたら。」という返事が返ってきた。あくまでも「調べるな」といった口調であった。また、倉吉市大谷の長老に聞いた時もあくまでも「四王寺があるから四王寺山という」の一点張りであった。


 河村哲夫氏はここで「はい、そうですか」と引いてしまっている。三千ヶ所の伝承の中に大和(藤原)朝廷に押しつけられた虚構の話を地元の伝承として残した、というような伝承は一件もない」としておられるが、藤原氏は伝承を創設する名人である。倭国の歴史を強奪するためには何でもしている。


 倉吉市寺谷に天稚比古と住んでいた高姫(下照姫)は天稚比古が亡くなってから夫の出身地の高天原(蒜山)に近い倉吉市志津の倭文神社で助産婦の仕事をしていた。藤原氏は志津の伝承を宮内に移し、孝霊天皇一族の伝承を隠した。


クリップボード37.jpg


 藤原氏は創作伝承を守るための人員を京都から派遣し重要な集落の住民として古くより(統一新羅滅亡の931年頃より)住まわせている。百済出身の京都の藤原氏は新羅を恐れていた。京都で検非違使をしていた山田氏は931年に北条山田八幡神社を鳥取県北栄町北尾に創建した。「北条」の地名は北の京(条里制)と付けたかったのだろうが、北京とはできなかった。「北条」という地名も山田氏が付けたと思われる。


 高姫(下照姫)を登場させて八橋の地名由来を創作して笠縫邑を隠したのも京都の藤原氏であった。鳥取県南部町手間山の赤猪伝説も倭国大乱の激戦地の手間山の伝承を隠すために藤原氏によって創作された。手間山には妻木晩田から逃げてきた出雲族(兄の八十神)がおり、手間山のふもとには、孝霊天皇や倭建命に従っていた大国主の14世孫の武牟口命がいた。


4 神武天皇に関係する伝承に「神武天皇が生まれた狭野神社・15歳で宮を遷した宮崎神宮・神武天皇が祈願した都農神社・矢研の滝・立磐神社の腰掛岩・美美津港のおきよ祭り・早吸日女神社」などがある。「速吸の門」は明石の多くの弥生遺跡より間違いなく明石海峡である。したがって、「速吸の門」は豊予海峡ではなく、豊予海峡までは藤原氏の作り話であった。神武天皇の腰掛岩も創作である。神功皇后の腰掛岩も創作である。


 河村哲夫氏は「大和朝廷に押しつけられた虚構の話を地元の伝承として残した、というような伝承は一件もない」としておられるが、騙されているだけである。私は騙されない。神社庁に輪をかけたように教育委員会が加担しているのでたちが悪い。明治政府は藤原政府から始まっているから、神社庁も教育委員会も藤原氏の流れにある。


7下照姫の伝承-2 (3).jpg


5 倭姫命や倭建命や豊鋤入姫命や武内宿禰は実在していた。原古事記には彼らの旧事も書いてあった。対馬海流があるため倭(鳥取県中部)朝廷にとって九州は中国に朝貢するために通らなければならない大事な場所であった。それは神武天皇の時代から同じであった。豊鋤入姫命(台与)と武内宿禰も九州の平定をしている。また、稚日女命を祀る神社が九州の各地にあるので、倭姫命や倭建命も九州に来ている。熊襲を平定して伊万里から船を出している。佐賀県伊万里市黒川町の若宮神社(祭神 若日孁尊=稚日女命)の由緒に神功皇后が出てくるので、豊鋤入姫命(台与)が三韓に向けて出発したのも伊万里からと思われる。奈良時代になっても豊鋤入姫命(台与)と武内宿禰や倭姫命と倭建命の伝承は残っていた。


 神功皇后は百済色が濃厚である。おそらく、百済が新羅を攻撃した百済の伝承を倭国歴史書原本にあった豊鋤入姫命(台与)と武内宿禰が三韓に行った旧事を改ざんして創作したのが神功皇后と思われる。倭国(鳥取県中部)の女王の豊鋤入姫命(台与)が建国以来、兄弟国であった新羅を攻撃するわけがない。


6 百済王朝(藤原氏)にとって応神天皇(葛城長江襲津彦)は特別な存在であった。百済が最初に倭国に朝貢したときの天皇であったからである。不比等は特別な存在の応神天皇を祭神とする八幡神社を創建することにした。不比等は女王であった豊鋤入姫(台与)や倭国13代大王であった武内宿禰を応神天皇に関係する神として八幡神社の祭神にした。


 太安万侶は原古事記を天武天皇の皇子の穂積大王に渡したつもりであったが、不比等に渡ってしまった。不比等は原古事記に記載されていた女王の豊鋤入姫(台与)の段を百済色の濃い神功皇后の段に書き換えた。13代武内宿禰大王の代わりに成務天皇を創作した。14代には応神天皇の父親として仲哀天皇を創作した。本来14代であった仁徳天皇は16代とした。特別な存在の応神天皇の15代は動かすことをしなかった。応神天皇の在位は354年~394年と思われる。13代の武内宿禰大王と15代の応神天皇(葛城長江襲津彦)は八幡神社や古事記・日本書紀に利用されているが、倭国(鳥取県中部)に皇居のあった正統な天皇であった。豊鋤入姫命(台与)の本拠地も鳥取県中部(倉吉市鋤集落)にあった。            


7  原古事記には、倭姫命(卑弥呼)や豊鋤入姫命(台与)の段があった。倭姫命(卑弥呼)や豊鋤入姫命(台与)の民間伝承も多くあった。不比等は原古事記の記述や伝承を消したり改ざんしていったが、倭姫命(卑弥呼)や豊鋤入姫命(台与)の伝承は広範に渡り、すべてを消したり改ざんすることは不可能であった。そのために八幡神社を造った。神社に住民を集めて、倭姫命(卑弥呼)や豊鋤入姫命(台与)の伝承を聞き「その姫の名は神功皇后である」と暗示にかけていった。そして八幡神社の祭神を神功皇后とし、古事記・日本書紀に新羅に敵対する神功皇后の段を作った。八幡神社は全国に4万4千社あるという。八幡神社以外の神社よりも多い。


 倭王朝と亡命百済王朝とは642年より列島に並立し、734年に亡命百済王朝(日本)が倭国を呑み込むが、それ以前から呑み込む準備をしていた。亡命百済王朝はそれまでに崇神天皇や倭姫命(卑弥呼)によって造られていた全国の神社を呑み込んで、自分たちの神社ネットワークを新たに創っていった。それが八幡神社である。


8 参考


(1) 神功皇后の壱岐と対馬の伝承 


 壱岐に13ヶ所  


「風本→勝本」「東風石」「聖母宮」「馬蹄石」「印通寺」「錦浜」「衣かけ石」「七湊」「夕部」「御掛けの石」「御手洗川」「柄杓江」「湯ノ本温泉」など


 対馬に15ヶ所


「腰掛石」「神住居神社」「雷神社」「雷浦」「与良祖神社」「桜橋公園(志良石)」「笠渕・截裳渕」「砥石渕」「阿須浦・阿須神社」「綱掛崎」「八点島」「千尋藻・入彦神社」「櫛」「胡禄神社」「本宮神社」など 


※ここにある伝承地でもあとで藤原氏(八幡神社)によって造られたと思われる伝承がある。 


(2) 鳥取県神社誌にも、神功皇后が5神社の由緒に書かれている。


P32


宮長神社


古伝に「竹内宿禰因幡国を巡視するや、未だ村里尠(すくな)し。僅かに河邊に一小村あり。白衣の老人あり。天鈿女命の裔胤(いんえい)と称し、宿禰に謂いて曰く「吾がために祖宗の祠廟を建てよ」と、宿禰乃ち社を築き奉斎せるに始まる。その後神功皇后(豊鋤入姫命)新羅より凱旋せられ因幡国北浜に着せらるるや、本社に報賽せられ、神託によりて社領を附し、本社に宮長の号を奉られし」と伝う。


P66


彌長神社


かって彌長大明神また凱陣の宮と称す。即ち因幡誌に「凱陣山、凱陣の宮、土人の御凱陣山という二つ山の南の連岡是なり。その地、松林鬱茂の間に小社あり。伊與長大明神と号す。相伝う。神功皇后(豊鋤入姫命)征韓御帰国の時、此のところに鷁首を繋ぎ給うその跡なるを以て、御魂を祭りて凱陣の宮と崇む、とぞ。按るに神功皇后(豊鋤入姫命)、御諱を気長足姫と称す神号、彌長気長と和訓相似たり。疑うらくは気長訛謬??なるにや」


P123


和多理神社


因幡誌に「和多理の神社一座、延喜式神名帳所載、八上郡和多理神社是なり。社伝に曰く猿田彦命を祭る。神功皇后(豊鋤入姫命)筑前国大渡島より神主を此処に遷す。よって和多理神と称す。云々。土俗今大多羅大明神と呼ぶもの大和多理の誤りならんか。和漢三才図会曰く。和多理明神は八上郡にある。社領三十五石。祭神猿田彦命。景行天皇朝、これを祭る。云々。按に景行天皇の時始めて筑前国に斎て神功皇后(豊鋤入姫命)の御世、当国に遷座なるにや。時代少し異なりと雖も、今に至って凡そ二千年。その旧趾紛乱なし崇むべし。・・・。木石あり。和多理の長寿石と号す。天明年中この石の下に神鏡を掘出す。円五寸厚さ四分裏鶴亀模様あり。神前に納む。と見え。また社伝に大同二年九月和多理の山(一に越山という)より現地に遷座せられ、松樹および二股の竹を各一株、長寿石、この他種々の神宝を遷し奉れり」と。


P256


板井神社


当社縁起書の写しに「勧請の儀は、人皇十五代神功皇后(豊鋤入姫命)三韓安く平け給う勅願による御神社なり。よって本朝安全のため人皇四十代天武天皇白鳳四年まで御勅使在之為金銭領被附置御儀は勧請記に分明云々」


この宮石家は元因幡国造伊福部氏より出でしたりしが後氏を宮石と称したるなり。


P425


国信神社


旧記によれば欽明天皇(蘇我稲目大王)元年霊験に由って勸請すという。神功皇后(豊鋤入姫命)三韓を征し筑前港へ凱陣。同国宇美宮に誉田別命誕生。御宿願によって因幡国摩尼山へ御参詣。出雲国三保の関沖にて難風のため国信村の浜に御着岸ありて上陸せらる。その所を船磯と唱え、兵器の名をもって今に籏鋒、馬留、太鼓面等の地名を呼べり。(伯耆民談記に「祭神一座神功皇后(豊鋤入姫命)なり。人皇五十六代清和天皇の御宇当郡稲光の庄国信の村に鎮座ありと云う。御船に移らせこの村の灘に着船ある。その地を船磯という。蓋聞國山八幡と号することは、国を治民を守るの鎮座の山なるゆえに國山八幡とは称すなり。御船着岸の時御籏鋒たちし所を幡鋒と云来れり。当村を国信という。左右に連なる村を末長、末吉という。蓋し、その称すことは当社鎮座の時よりしてなり。神能国に信なるが故に国信とす。末世の神威を寿き末吉と号す。神徳萬齢不易に長なることを祝して末長と称する」と云う。社伝に曰く・・・。)


※ 私見


 国信神社由緒の「神功皇后(豊鋤入姫命)三韓を征し筑前港へ凱陣。同国宇美宮に誉田別命誕生」は日本書紀に従って書いている。人力船で新羅から筑前港へ凱陣することは不可能である。半島西側から出港した。史実は「神功皇后(豊鋤入姫命)は出雲国三保の関沖にて難風のため国信村の浜に御着岸ありて上陸せらる。その所を船磯と唱え、兵器の名をもって今に籏鋒、馬留、太鼓面等の地名を呼べり。その後、御宿願によって因幡国摩尼山へ御参詣」である。武内宿禰は神功皇后(豊鋤入姫命)より早く三韓を出発し宮長神社に到着していた。


 


 


 



 


 



 


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穂積大王の次の大王(在位715年~734年)は鳥取県中部(倭国)にいた [百済王12代から45代までの倭国王]

 穂積大王の次の大王(在位715年~734年)は鳥取県中部(倭国)にいた
 
1 元明天皇と元正天皇と山上憶良と聖武天皇について
※ 元明天皇(女帝・中継ぎ天皇といわれる・火葬)の在位は707年~715年である。
※ 元正天皇(女帝・中継ぎの中継ぎ天皇といわれる・火葬)の在位は715年~724年である。
※ 山上憶良は伯耆守に任ぜられ(716年~721年)第34代倭国大王(在位715年~734年)に仕えていた。721年に奈良に帰り東宮・首皇子(聖武天皇)の侍講(家庭教師)となり倭国王家の王道を聖武天皇に教えた。しかし、長屋王暗殺計画の妨げになるため、筑前国に下向させられた(726年~732年)。大宰府に着任した大伴旅人とともに、筑紫歌壇を形成した。
※ 聖武天皇の在位は724年~749年である。火葬ではないから実在していた。天平年間は災害や疫病(天然痘)が多発したため、たびたび遷都を行った。
(私見)
 元明天皇と元正天皇は「中継ぎ天皇」と軽んぜられ、実在したかどうか判らないようにするために火葬にした。元明天皇と元正天皇は倭国に実在した天皇ではない。
 
2 筑紫歌壇での大伴旅人の歌
 やすみししわご大君の食国は倭も此処も同じとぞ思ふ 
(私見)
 大伴旅人は倭国大乱(146年~189年)のときに倭建命や倭姫命(卑弥呼)の全国巡行に随伴していた安倍、大伴、物部、中臣、和珥氏など五人の有力将軍のうちの一人である大伴氏の子孫である。大伴氏は倭建命や倭姫命(卑弥呼)の征西(九州)にも随伴して九州を平定している。大伴旅人は古来より倭国王家の腹心の部下である。
 旅人のいう「倭」とは鳥取県中部のことであり、此処とは倭奴国(北九州)のことである。北九州は倭奴国と呼ばれ倭国の防衛を担っていた。また倭国(鳥取県中部)から来た天孫族が半島に行くために一時留まるところでもあった。
 大伴旅人と山上憶良は長屋王の変を遂行するのに邪魔になるので九州に行かされた。
 
3 筑紫歌壇での山上憶良の歌
 父母を 見れば貴し 妻子見れば めぐし愛し 世の中は かくぞことわり もち鳥の かからはしもよ ゆくへ知らねば 穿沓を 脱き棄るごとく 踏み脱きて 行くちふ人は 石木より 成りてし人か 汝が名告らさね 天へ行かば 汝がまにまに 地ならば 大君います この照らす 日月の下は 天雲の 向伏す極み 蟾蜍の さ渡る極み 聞こし食す 国のまほらぞ かにかくに 欲しきまにまに しかにはあらじか 
(訳)
 父母を見れば尊い。妻子を見れば可愛くいとおしい。世の中の道理はこうしたもの、モチにかかった鳥のように家族への愛情は断ち切り難い。行末も分からぬ我等なのだから。穴のあいた靴を脱ぎ捨てるように父母や妻子を捨てて行くという人は、非情の石や木から生まれた人だろうか。あなたの名前をおっしゃい。天へ行ったなら、あなたの思いのままにするのもよかろうが、この地上ならば、大君がいらっしゃる。この太陽と月が照らす下は、雲の垂れる果てまで、ヒキガエルが這い回る地の果てまで、大君のお治めになるすぐれた国土なのだ。あれもこれもと思いのままにしようというのか、そうゆくものではあるまいよ。
 
​​4(私見)
 朝鮮半島から亡命してきた百済人たちは倭国の下僕として仕事をもらい、飛鳥や奈良で働いていた。しかし、百済人の鎌足や天智は蘇我入鹿大王を殺した。鎌足の子の藤原不比等も天武天皇、高市大王、忍壁大王、穂積大王を暗殺した。不比等の暗殺を倭国が気付かないわけがない。もともと倭国の大王家は長寿の家系だから、四人の大王の早い死は不思議に思っていた。奈良の危険性に気づき長屋親王だけを奈良に行かせ穂積大王の次の大王は鳥取県中部(倭国)に留まらせた。
 山上憶良のいう「大君」とは鳥取県中部(倭国)にいた倭国大王のことであり、元正や聖武のことではない。山上憶良は716年から5年間鳥取県中部(倭国)にいたからこの「大君」のことは知っていた。鳥取県中部(倭国)から奈良(倭国が造った京)に帰って、東宮・首皇子(聖武天皇)の侍講となり倭国王家の王道を聖武天皇に教えた。教え子の聖武が即位(724年)したことも知っている。「大君」とは元正や(新羅の疫病(?)から逃げ回っていた)聖武とは別人であり、鳥取県中部(倭国)にいた倭国大王のことである。
 倭国は倭国大乱(146年~189年)のときに、倭姫命(卑弥呼)や倭建命を擁する倭の王軍によって、東は岩手県から西は長崎県さらには半島まで統一していた。2世紀後半から8世紀前半まで500年以上列島はヤマト王権によって支配統一されていた。山上憶良は亡命百済人2世だが、鳥取県中部(倭国)に5年いたので親倭派になっていた。百済(日本)王として即位した聖武天皇の侍講もしていたが、親倭派であったために北九州に左遷された。
 この歌は誰に対して怒りをぶつけているのか解からなかったが、藤原氏によるクーデター計画(長屋王の変)のあることを知って詠んだ歌である。

 

5 鳥取県倉吉市の北野神社は山上憶良が仕えた第34代倭国大王(在位715年~734年)の宮であった。

(1)小鴨道祖神遺跡より

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 「電波塔あたりでも飛鳥・奈良時代の住居跡が見つかっているので、小鴨道祖神遺跡まで遺跡は連続していたはずである」と現地説明者は言っていた。「硯転用土器も見つかっているので、国庁の役人が住んでいたのではないか」と言っていた。

​(2)私見

 この遺跡の中央に北野神社がある。周辺の形状からしてただの神社ではなく大王の宮と思われる。蘇我入鹿大王の宮は由良にあり古墳時代中期から奈良時代にかけての遺跡であった。蘇我入鹿大王の子の天武天皇の皇居は倉吉市の賀茂神社であった。北野神社周辺の遺跡は飛鳥・奈良時代であり、天武天皇より新しく菅原道真より古い。在位715年~734年の第34代倭国大王の宮と思われる。

(3)余談

 菅原道真の生まれたところは諸説あり本当のところは定かではない。「菅原は蘇我原」と解することができるので菅原氏は鳥取県中部に居た蘇我氏の子孫と思われる。また母の伴氏は鳥取県に居た大伴家持の子孫である。菅原道真が倉吉市北野出身としてもおかしくない。ただし、北野神社は周辺の形状からして大王の宮と思われる。

 古くから、生田で八幡神社を祀っており、明治期になると饒速日のいた哮峰に八幡神社を遷して八幡町まで造っているので生田に住んでいたのは富海(鳥見邑)で長髄彦に率いられていた出雲族ではないかと思われる。

 


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野口王墓古墳は八角墳であり、天武天皇の陵墓ではない。キトラ古墳の被葬者は高市大王であり、高松塚古墳の被葬者は忍壁大王である [百済王12代から45代までの倭国王]

 野口王墓古墳は八角墳であり、天武天皇の陵墓ではない。キトラ古墳の被葬者は高市大王であり、高松塚古墳の被葬者は忍壁大王である。


1 野口王墓古墳は天武天皇の陵墓ではない。天武天皇は倭国王であり、倭国王の陵墓は円墳か前方後円墳である。


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 御廟野古墳は八角墳であり、百済王の古墳である。天智は百済王であり、御廟野古墳は天智(豊璋)の古墳である。


 天武天皇の父は蘇我善徳大王であり、その陵墓は藤ノ木古墳であり、円墳である。天武天皇の子の高市大王のキトラ古墳も円墳である。また、天武天皇の子の忍壁大王の高松塚古墳も円墳である。天武天皇は倭国大王であり、その陵墓は円墳である。野口王墓古墳は八角墳であり、倭国王の天武天皇の陵墓ではない。


2 キトラ古墳の被葬者は高市大王である。


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現在は工事中である。


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キトラ古墳は平成28年度に開園予定である。


3 高松塚古墳の被葬者は忍壁大王である。


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高市天皇の次は忍壁大王であった。


4  私見
(1) 忍壁大王の皇居は鳥取県中部にあり、青谷で女子群像の描かれた木板が出土したが、何もおかしくはない。当時、都であった鳥取県中部に属していた鳥取県青谷町から高松塚古墳の彩色壁画によく似た女子群像の板絵が見つかっても不思議ではない。


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 青谷横木遺跡で墨で描いた女子群像の板絵が出土したことについて、百橋教授は「中国大陸や朝鮮半島の墓葬文化が日本では都の奈良以外にも波及していた可能性を示す史料」とし、他地方でも次々見つかるであろうとするが、都は鳥取県中部であったから青谷で見つかるのは当然としても、他地方で見つかることはない。


(2) 大伴家持の奈良(?)の都大路を思って詠んだ歌「春の日に はれる柳を 取り持ちて 見れば都の 大路し思ほゆ」などで、都に通ずる道路には柳の街路樹があることが明らかとされていたが、鳥取県の青谷横木遺跡で柳の街路樹跡が全国で初めて見つかった。


 その解説として「平城京の朱雀大路(?)には柳の並木が植えられていた。地方(?)の街道にも街路樹が植えられていたことを裏付ける」とする。


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 大伴家持は父旅人から都(16歳=734年まで鳥取県中部が都)のことを聞いて育っていたし、越中国に赴任する746年(28歳)までに鳥取県中部にも来ていた(難波高津宮=湯梨浜町松崎神社にも来ていた)ので、大伴家持の歌う「都」とは鳥取県中部のことであった。
 平城京の朱雀大路で柳の街路樹跡が見つかることはない。
(3) 倭国が指名した天武天皇の次は高市大王であり、次は忍壁大王であった。兄弟承継は過去にもあったことでありおかしくはない。「孝元・開化・崇神」、「仁徳・応神」、「履中・反正・允恭」、「安康・雄略」は兄弟承継であった。彩色古墳は現在のところ2つしか見つかっていないが、被葬者が大王にふさわしいすばらしいものである。高市王子も忍壁王子も大「臣」になったとされているが、それは亡命百済人の藤原氏が倭国の大王を下僕として描くための改ざんであり、高市王子も忍壁王子も大「王」であった。
 持統や文武の古墳を高市大王(696年没)や忍壁大王(705年没)の古墳よりもりっぱなものを造ることが難しいため、火葬にしたことにした。盗掘して壊そうとしたのは藤原氏である。キトラ古墳の獣頭12神図は統一新羅(668年~)に似たものがある。どの学者も日本書紀に騙されているのでこのことを指摘しない。
 キトラ古墳を描いたのは倭国(鳥取県中部)に来ていた統一新羅の職人である。倉吉市大原を流れる川を志(新)羅谷川といい、倉吉市駄経寺町にあった天武天皇の造った大御堂廃寺
(泊瀬の斎宮)(663年~)は新羅様式であった。倭国(鳥取県中部)に統一新羅の職人が来ていたのであり、統一新羅の職人は奈良でキトラ古墳の彩色を手掛けた。同じく高松塚古墳(705年の数年後)も高句麗の職人ではなく、倭国(鳥取県中部)から派遣された統一新羅(668年~)
の職人によって描かれた。


 


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第13代武内宿禰大臣(王)の皇居は鳥取県北栄町原集落にあった [百済王12代から45代までの倭国王]

 第13代武内宿禰大臣(王)の皇居は鳥取県北栄町原集落にあった。

1 13代武内宿禰大臣(王)の皇居は北栄町原の元野神社である。
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 日本書紀・推古・蘇我馬子の葛城県の要請とその死・において、「冬十月一日、大臣馬子は、阿倍連と阿倍臣摩侶の二人に天皇に奏上させ、『葛城県は元、私の本貫であります(代々葛城氏が居り、蘇我は葛城の同族になるという考え)。その県にちなんで蘇我葛城氏の名もありますので、どうか永久にその県を賜って、私が封ぜられた県といたしとうございます』といった。推古は「いま、自分は蘇我氏から出ている。馬子大臣はわが叔父である。今わが治世に、急にこの県を失ったら、後世の帝が『愚かな女が天下に君として臨んだため、ついにその県を亡ぼしてしまった』といわれ、後世に悪名を残すことになるだろう」として許されなかった」とある。


 蘇我馬子大王が「葛城県は『元』、私の本貫」と言ったのは武内宿禰大王の皇居が葛城県にあったからである。武内宿禰大王は波多八代宿禰・許勢小柄宿禰・蘇賀石河宿禰 ・平群都久宿禰 ・木角宿禰 ・葛城長江曾都毘古など有力豪族の祖を生んだ。蘇我馬子大王の始祖は三男王子の蘇賀石河宿禰であった。


 比定地としては他に海竜王神社(周辺から弥生後期、古墳前期、古墳中期の遺跡が見つかっている)があるが、「元」の神社が一番崇められているので「元」の神社に武内宿禰大王の皇居があったと思われる。祭神は今までの例により、変更されている。


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元野神社。
 波多八代宿禰・許勢小柄宿禰・蘇賀石河宿禰 ・平群都久宿禰 ・木角宿禰 ・葛城長江曾都毘古はここで育った。
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 すぐ下には原集落がある。 IMG_0172-3.jpg
 元野神社(昭和9年鳥取県神社誌より )
鎮座地 東伯郡大誠村大字原字東屋敷
祭神 素戔嗚尊
由緒 創立年代不詳。往古より荒神社と称す。当地中世以降当大字の中央なる平野山がその頂上平坦にして且つ高燥なるにより別にこの地に素神を祭りしが地の利を得たるにより、終に平野社を部落の氏神として崇敬するに至りたるも、この地は元より由緒ある旧蹟なるを以て、里人は元宮荒神と称し今に尊崇絶ゆることなし。然るに明治12年神社明細帳提出の際、神社登録出願脱漏せるを遺憾とし、大正11年6月20日附けを以て神社明細帳に編入方出願し大正11年11月許可せらる。


2 私見


(1) 最初の神社明細帳は明治政府に認められなかった、ということである。祭神も由緒も変えて再提出したものと思われる。


 原集落も葦原中津国を構成する集落の一つであり、素戔嗚は伊邪那岐命に根国を治めよといわれて葦原中津国で泣いたが、それだけで「尊崇絶ゆることのない地」とはならない。伊邪那岐命が禊をした原はこの原集落と思われる。


 葦原中津国を構成する集落である灘手村谷の朝日神社(祭神 素戔嗚尊 由緒 古来牛頭天王と称して・・・。)を素戔嗚が泣いた地であると比定する。伊邪那岐は素戔嗚にこの国に住んではならない、といった。素戔嗚は朝日神社で泣いて、その後伊邪那岐の言葉を守り葦原中津国に入ることはなかった(根国での冒険参照)。元野神社の祭神は書き換えられている。曲の岡神社の祭神も綏靖天皇であったのを素戔嗚に書き換えている。元野神社の地は元宮(元皇居があった)といわれ由緒ある旧蹟であった。


(2) 応神天皇は葛城長江襲津彦であり、仁徳天皇は平群木菟宿禰であった。


 13代成務天皇はおらず、13代は武内宿禰大臣(王)であった(生年月日が同じであるとするため)。


 14代仁徳天皇は武内宿禰大臣(王)の4男の平群木菟宿禰であった(生年月日が同じであるとするため)。


 4男を16代にもってくるから、13代が300年も生きたという矛盾がおきるのである。4男の平群木菟宿禰(仁徳天皇)は14代であった。


 応神天皇の在位期間(354年~394年)に葛城長江襲津彦は朝鮮半島に渡って美女二人を献上されている(382年)。高句麗・百済は六韜に基づいて権力者に美女を献上していた。葛城長江襲津彦は権力者であり、天皇であった。葛城長江襲津彦は応神天皇であった。


(3) 蘇我一族の祖である蘇賀石河宿禰は武内宿禰大王の3男王子として生まれた。


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 葛城県は「元」蘇我馬子大王の本貫であった。北栄町原集落も葛城県(葛城山のある県)であった。葛城山(蜘ヶ家山)の麓の原集落の「元」の神社は13代武内宿禰大王の皇居があった。平群都久宿禰(14代仁徳天皇)や葛城長江曾都毘古(15代応神天皇)は武内宿禰大王の王子として原集落で育った。原集落から船で対岸の由良にも行っていた。由良の門の歌がでてくるのは仁徳天皇(古事記伝)と応神天皇(日本書紀)だけであり、二天皇だけが由良によく行っていた。それは船で行ける由良の対岸にある北栄町原集落で育ったからである。これほど一致する比定地はほかにない。


 このころ葦原中津の水深が浅くなったので、二天皇とも難波津(東郷池)に皇居を置いた。


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倭の五王の時代の朝鮮半島情勢について [百済王12代から45代までの倭国王]

藤原氏は百済と新羅を入れ替えているので百済と新羅を元に戻して再現しています。

1 368年、百済から弓月君(ゆづきのきみ)が至り、天皇に対して奏上するには、百済にいる民人を連れて帰化したいけれども百済が邪魔をして任那から海を渡ってくることができないという。天皇は弓月の民を連れ帰るため襲津彦を任那に遣わしたが、3年経っても襲津彦が帰ってくることはなかった。
※ 私見 
 おそらく襲津彦(応神天皇)は高句麗か百済に捕らえられていたと思われる。
370年、天皇は襲津彦が帰国しないのは百済が妨げるせいだとし、平群木菟宿禰と的戸田宿禰に精兵を授けて任那(慶尚南道にあった)に派遣した。百済王は愕然として罪に服し、弓月の民を率いて襲津彦と共に倭国に来た。
371年に倭国は高句麗の平壌城を陥落させ、故国原王を戦死させる(三国史記)。
372年(百済か高句麗)人が新羅の一礼部に来たり、集落に放火し、千人を捕虜にして立ち去った(三国史記)。
377年(百済か高句麗)兵が新羅の沙道城(慶尚北道浦項市)を陥落させようとしたので一吉飡の大谷に命じて救援させたが、(百済か高句麗)軍が攻略した(三国史記)。
379年、(百済か高句麗)兵が新羅の長峯城を攻略した(三国史記)。また、新羅の沙道城を改築して沙伐州(慶尚北道尚州市)の有力な80余家を移住させ、(百済か高句麗)に備えたという。
※ 私見
 倭国が新羅に船で行くならば、対馬海流によって新羅南部に到着する。慶尚北道を攻撃するのは倭国ではなく、百済か高句麗と思われる。
382年、倭国は沙至比跪(襲津彦)を遣わして百済を討たせようとしたが、百済は美女2人に迎えさせて沙至比跪を騙し、惑わされた沙至比跪はかえって任那を討ってしまった。
※ 私見
 沙至比跪(襲津彦)は権力者(天皇)であったからこそ百済は六韜に従って美女二人を送った。中大兄王子と鎌足も天武天皇に美女二人を送った。この頃から391年まで新羅は高句麗に侵略されていた(三国遺事)。
391年 倭軍が百済、新羅(高句麗に占領されていた)を破り、高句麗と戦う(広開土王碑)。
393年 (百済か高句麗)が新羅に攻めてきて金城を包囲し、五日間、囲みをとかなかった。
 
2 好太王(広開土王)碑文(414年)
(1)日本学会の通説
 そもそも新羅・百残は(高句麗の)属民であり、朝貢していた。しかし、倭が391年に海を渡り百残・加羅・新羅を破り、倭の臣民となしてしまった。
(2)396年百済は高句麗に生口を献上している。好太王は漢江を越えて侵攻して百済の58城700村を陥落させ、百済王に多数の生口や織物を献上させ、永く隷属することを誓わせた(高句麗本紀)。
(3)399年、百済は先年の誓いを破って倭と和通した。そこで王は百済を討つため平壌に出向いた。ちょうどそのとき新羅からの使いが「多くの倭人が新羅に侵入し、王を倭の臣下としたので高句麗王の救援をお願いしたい」と願い出たので、大王は救援することにした。
(4)400年、5万の大軍を派遣して新羅を救援した。新羅王都にいっぱいいた倭軍が退却したので、これを追って任那・加羅に迫った。ところが安羅軍などが逆をついて、新羅の王都を占領した。
(5)404年、倭が帯方地方(現在の黄海道地方)に侵入してきたので、これを討って大敗させた。
(6)407年、高句麗は百済へ出兵して6城を奪った。
※ 私見
 倭国軍(履中天皇)は414年までに高句麗の好太王(広開土王)を現在の北朝鮮と中国の国境付近まで後退させて攻め込んでいる。中国に倭国軍が半島奥深くまで侵攻してきたことが伝わっていたはずである。これを知った中国は倭国を警戒し、高句麗と百済を倭国に対する防波堤にすることを始めた。しかし、真実は倭国は中国皇帝に対し朝貢をするためのルートを確保したいだけであった。中国は勘違いをし、その後、高句麗・百済を支援するようになった。
 
3 高句麗と百済は倭国よりも早く中国(宋)から将軍の称号を受けた。
(1)高句麗と百済
 413年、高句麗は、「璉為二使持節都督営州諸軍事征東将軍高句驪王・楽浪公」。
 416年、百済は「以二百済王余映一為二使持節都督百済諸軍事鎮東将軍百済王」。
 420年「進号二〔百済王〕鎮東大将軍」を受けた。 
 425年、太祖詔之曰「皇帝問二使持節都督百済諸軍事鎮東大将軍百濟王…」 
(2)倭国
 421年、詔曰「倭賛萬里修レ貢、遠誠宜甄、可レ賜レ除授。」
 425年、賛又遣二司馬曹達一、奉表献二方物。賛死。
※ 私見
 賛は中国の皇帝に将軍の位を求めたが除授されることはなかった。
(3)438年 弟珍立、遣二使貢献。 自称 二使持節都督倭百済新羅任那秦韓慕韓六國諸軍事安東大将軍倭國王。表求二除正。 詔レ除二 安東将軍倭國王。 
珍又求レ除二-正倭隋等十三人平西、征虜、冠軍、輔國将軍号。詔二並聴。
※ 私見
 珍は百済を含むことを自称したが除授されたのは百済より格下の安東将軍であった。
(4)443年、倭國王済遣二使奉獻。 復以為二安東将軍倭國王。 
   451年、加二使持節都督倭新羅任那加羅秦韓慕韓六國諸軍事安東将軍一如故。 并除所レ上二十三人軍、郡。 済死。 世子興遣二使貢献。 
※ 私見
 済は百済を外した6国の安東将軍に除授された。
(5)462年、詔曰 「倭王世子興、奕世載レ忠、作二?外-海、稟化寧レ境、恭修二貢職。新嗣二辺業、 宜授二爵号、可二安東将軍倭國王。」 
※ 私見
 興は安東将軍を除授された。6国が外されているので降格か。
(6)興死。 弟武立。 自称二使持節都督倭百濟新羅任那加羅秦韓慕韓七國諸軍事安東大将軍倭國王。 
※ 私見
 武は6国の安東大将軍に除授された。百済と並んで、始めて「大」を付けてもらった。
 502年、梁は倭王武に征東大将軍に進号しているが、この時倭王武はすでに亡くなっていたと思われる。
 梁の初代皇帝蕭衍は、即位早々に倭王武・百済王余大を、共に「鎮東大将軍」から「征東大将軍」に進号する。 結局、三韓地域は分割し、それぞれ倭と百済に与えることによって、互いに牽制させるのが宋の外交政策の基本で、梁もそれを継承したと思われる。
 
4 「宋書蛮夷伝」にある武の 478年遣使の際の上表文
(1)わが国(累代倭国王として冊封されてきたこの国)は、(中国から)はるか遠くにあって、外夷に対する天子の藩屏になっています。
 わが先祖は、代々みずから甲冑をまとって幾山河を踏み越え、席を温める暇もなく戦ってきました。東方の毛人を征すること55国、西方の衆夷を服すること66国、海を渡って北方(朝鮮半島)を平らげる95国にものぼりました。
 王道はあまねくゆきわたり、領土を拡げ境域は遠くまでおよんでいます。(中国皇帝の地を都のはるか遠くに広めたの意)しかも歴代の倭王は、宗主(中国の天子)のもとに使者を入朝せしめ、その年限を違えることはありませんでした。
(2)私はたいへん愚かな者ではありますが、かたじけなくも先王から王位を継ぎました。
 支配下の国々を馬を駆って率い天子のもとでの秩序に従い、百済からなおはるかな道のりゆえ、いつでも出撃できるように軍船を準備しておりました。しかるに、高句麗は、道理をわきまえず半島を呑み尽くすことを欲し、辺地の民を掠め、殺害することをやめようとしません。(わが使者を天子のもとに遣わす)たびに、途中で(高句麗に)押し止められ、良風(年限を違えず朝貢する美風)を失っています。海路を進むことがあっても、あるいは通じ、あるいは通じえないありさまです。
(3)私のなき父の済は、(高句麗が)入朝の海路をふさいでいるのをいきどおり、戦備を整えた100万にものぼる兵士たちも正義の声に感激し、大挙出征しようとしていましたが、そのとき、にわかに父(済)と兄(興)とを喪い、まさに成就しようとしていた高句麗遠征の成功も水泡に帰してしまいました。(私は)諒闇(君主が服喪する部屋)にこもって、軍隊を動かせず、これゆえにいたずらに安息して、いまだに(高句麗に)勝利していません。
(4)わたしの代になって、甲を練り兵を治め、無念の中に亡くなった父兄の志を遂げようと思っています。節義ある人士も勇猛なる軍隊も、文官も武官も功を立て、白刃が眼前に交わろうとも顧みはしません。もし皇帝の四海を覆う御徳により、この強敵(高句麗)を打ち砕き、わが国難を除いて太平をもたらしていただけるならば、歴代天子への忠誠をかえることはないでしょう。
 私はひそかにみずから開府・儀同・三司を仮称し、その余(の官爵)もみな仮授して、忠節に励んでいます。

5 私見
(1) 宋書蛮夷伝の武(雄略天皇)の 478年遣使の際の上表文には「わが先祖は、代々みずから甲冑をまとって幾山河を踏み越え、席を温める暇もなく戦ってきました。東は毛人 55国を征し、西は衆夷 66国を服す。渡りては海北 95国を平ぐ云々」とあって、ヤマト朝廷の国土統一、半島遠征の状況過程を伝えている。
 また「王道はあまねくゆきわたり、領土を拡げ境域は遠くまでおよんでいます。(中国皇帝の地を都のはるか遠くに広めたの意)しかも歴代の倭王は、宗主(中国の天子)のもとに使者を入朝せしめ、その年限を違えることはありませんでした」とある。
 始皇帝は徐福(天照大御神)に「朕に忠実であるならば、三神山に止まって朕に替わって王となり、秦の偉業を高めよ」と命じていた。倭国の始祖である徐福(天照大御神)は始皇帝に忠実であり、その子孫も中国皇帝に朝貢していた。
(2) 倭国は初代神武天皇の時から10代崇神天皇が国内の準王一族を平定するまで、また、15代からも高句麗・百済と戦ってきた。蘇我稲目天皇の頃まで、倭王自ら前線に立っていたようである。15代応神天皇も例外ではなく、自ら朝鮮半島に出向いて3年間百済の捕虜となっている。百済は美女二人を権力者(天皇)の葛城襲津彦に差し出しているから、すでに六韜に従って行動していたと思われる。鎌足と中大兄王子も天武天皇に美女二人を差し出している。葛城襲津彦は天皇であった。
 継体天皇の期間の倭国王は朝鮮半島で亡くなったことが日本書紀に記されているが、それから倭国は任那(全羅南道)に強力な軍隊を置き、倭王自らは前線に立たないようにしたようである。百済は六韜に基づいて行動していたから、倭国は百済を味方と思っていたようである。しかし大蛇や蜂のように牙をむき出す事があった。百済は倭国が中国に行くのに百済を通らせていたようである。しかし、旅人を犯すこともあった。六韜の12の作戦の最後は軍事行動であった。倭国は百済の六韜に基づく行動に騙され百済を味方だと思い倭国の属国であることを中国に認めさせようとしている。しかし、百済は倭国より早く、416年「鎮東将軍百済王」、420年「鎮東大将軍」、 425年「鎮東大将軍」を受けており中国から見て立派な防波堤であった。同じ年、倭王賛も将軍号を求めるが中国は倭王賛に将軍号を与えていない。中国は百済は倭国と同等あるいはそれ以上であり、倭国の傘下にはない独立国として扱っていた。
(3) 502年には梁から倭王武は百済王余大と並んで征東大将軍にそれぞれ将軍号を進められたが百済王に余大はいない。これらの進号は梁王朝の創立時の祝賀的任官と考えられる。したがってこれらの任官をもとにして武の在位期間を考えることはできない。
 倭王武(雄略天皇)の没年は何時であろうか。雄略天皇崩:甲午年(489年)という説がありこれが正しいと思われる(古事記)。
 479年は百済の三斤王の没年である。百済は、475年に滅亡しているという説があるが、百済は滅亡していない。百済は全羅南道の任那も滅ぼし、日本書紀にはその時占領した任那を任那日本府と記載した。475年に滅亡したのは新羅である。累卵の危うきにあった国は新羅であった。雄略天皇が復興したのは新羅である。雄略天皇は新羅を復興し、百済を攻撃して479年に百済の三斤王は戦死した。三斤王は日本書紀では押磐皇子として記載されており仁賢・顕宗の父であった。雄略天皇は479年に高句麗も打ち破った。慌てたのは高句麗・百済を防波堤にしていた中国である。高句麗・百済に六韜を教え軍備を整えさせて倭国を攻撃させた。清寧天皇から安康天皇までは平均在位期間が短いため倭国の数天皇は戦死している。雄略天皇は高句麗まで打ち破ったとするのがその後の歴史につながる。雄略天皇は中国に朝貢するために高句麗を打ち破ったが、中国にはそれが脅威に映った。倭国天皇は百済・高句麗のバックに中国がいることを知らなかった。百済・高句麗は北部に後退していたが、中国にはっぱをかけられ6世紀前半には百済は攻勢を仕掛けてきた。全羅南道の任那を滅ぼし、540年には新羅の法興王も殺害した。
 5世紀の倭国王の対中交渉は武の遣使を最後にして史上から姿を消した。ニッポニカによると「その理由はかならずしも明らかではないが、一つには倭国王が対中交渉の限界に気づいたことにある」とする。22代から27代までの平均在位年数は9.4年であり、短い。おそらく朝鮮半島での高句麗・百済との戦いで倭国の数天皇は命を落としたと思われる。
(4) 現在の中華人民共和国は北は蒙古自治区、ウイグル自治区、西はチベット自治区、東は北朝鮮(高句麗)などを防波堤にしている。この中国の防衛体制は、5世紀も同じであったと思われる。
 5世紀には周辺各国に将軍の称号を与えた。将軍の称号には格があり、 「鎮東」「征東」も「安東」と言葉の意味は同じだが、安→鎮→征の順にランクアップする。「将軍→大将軍」のランクアップもあるから、全部で6階級ということになる。 
 502年には、高句麗に「 車騎将軍、高句驪王高雲進号二車騎大将軍」、百済に「 鎮東大将軍、百済王余大進号二征東大将軍」、宕昌に「 安西将軍、宕昌王梁弥進号二鎮西将軍」、倭に「 鎮東大将軍、倭王武進号二征東大将軍」、河南に「 鎮西将軍、河南王吐谷渾休留代進号二征西将軍」の称号を与えた。高句麗だけは別格であった。中国から近い順に強い防波堤の意味を込めて上の称号を与えたと思われる。
(5) 百済は強いほうについたようである。雄略の在位中は倭国についたようである。しかし、倭国は騙されていた。百済は雄略が亡くなってから高句麗に付き、任那への侵略を始めた。
 全羅南道における前方後円墳は5世紀末頃から6世紀前半の古墳である。日本書紀に任那日本府と書かれている時代である。540年には新羅の法興王も殺害された。その後も全羅南道に前方後円墳を造っているので、全羅南道の任那の地を再び倭国が取り戻したと思われる。
 倭王の5人とも、自称の6国の中に高句麗を入れていない。武(雄略天皇)も高句麗を強敵としているくらいだから当然と思われる。
 新羅は倭国と兄弟国であり、そのことは百済も、高句麗も、中国も知っていたから倭国の傘下に入っている。どの国も、そのことについて異論はなかった。旧唐書倭国伝には「倭国の婦人衣服の制(つくり)は新羅にとても似ている」とある。

6 唐曾要(旧唐書)には倭国と日本(百済王朝)は別に書かれている。唐の時代(660年~734年)列島は二朝が並立していた。
 倭は「古の倭奴国なり。新羅(統一新羅の中心)の東南(鳥取県中部)に在り、大海(日本海)の中(対岸)で暮らす。代々中国と通交する。その王の姓は阿毎氏」とある。宋書倭国伝(倭の五王)には「倭国は高句麗(高句麗の中心)の東南、大海(日本海)の中(対岸=鳥取県中部)にあり、世々貢職を修む」とある。「義楚六帖」(954年)に「倭国、在東海(日本海)中(対岸)。秦時、徐福将五百童男、五百童女止此国。」とある。秦の時代、徐福は倭国に止まった。倭国は東海(日本海)の海中(沿岸)にあった。倭国は鳥取県中部であった。
 さらに「日本は倭国の別種である。その国は日辺に在る故に、日本国を以て、名と為した。あるいは倭国は自らの名が雅ではないことを憎み、日本に改名した、あるいは日本は昔は小国だったが、倭国の地を併呑したという。そこの人が入朝したが、多くは自惚れが強く、不実な対応だったので、中国はこれを疑う。」とある。初めて「日本国からの使者」を名乗った人物は、中国から疑われた。「倭国の別種」とは、「倭国にあるが倭人の国ではない」という意味である。
 ついで「新唐書」の日本国伝にも、「咸亨元年(670年)、遣使が高麗平定を祝賀。後にやや夏音(漢語)を習得し、倭名を憎み、日本と改号した。使者が自ら言うには、国は日の出ずる所に近いので、国名と為した。あるいは、日本は小国で、倭に併合された故に、その号を冒すともいう。使者には情実がない故にこれを疑う。」とある。日本という国号は近江に逃げていた天智(豊璋)が669年に立案しているので、亡命百済王朝による遣唐使は673年までの間に行われている。
 
7 私見
 中国皇帝に対して倭国(鳥取県中部)王はへりくだるが日本の使者は態度が横柄であった。
(1) 雄略天皇「私はたいへん愚かな者ですが、かたじけなくも先王から王位を継ぎ、支配下の国々を馬を駆って率い、天子のもとでの秩序に従い、百済からなおはるかな道のりゆえ、航海の準備もおこたらなかったのです。」(宋書蛮夷伝)
 蘇我馬子天皇「私は未開人で、遠く外れた海の片隅にいて礼儀を知らない。そのため内側に留まって、すぐに会うことはしなかったが、今、道を清め、館を飾り、大使を待っていた。どうか大国のすべてを改革する方法を教えていただきたい。」(隋書倭国伝) 
(2) 日本からの使者は態度が横柄であった(旧唐書倭国伝日本伝)
 日本国は倭国の別種である。その国は日の昇る方にあるので、「日本」という名前をつけている。あるいは「倭国がみずからその名前が優雅でないのを嫌がって、改めて日本とつけた。」ともいう。またあるいは「日本は古くは小国だったが、倭国の地を併合した。」とも。
 その日本人で唐に入朝する使者の多くは尊大で、誠実に答えない。それで中国ではこれを疑っている」とある。
(3) 雄略天皇と蘇我馬子天皇の必要以上のへりくだり方は今の鳥取県中部の年配者の人柄とよく似ている。このことからも倭国は鳥取県中部にあったことが判る。
 日本からの使者の横柄な態度は公家(藤原氏)の意見によって派遣された横浜鎖港談判使節団(1864年)の池田長発の写真を見ればわかる。この日本の横柄な態度は戦前まで続いていた。国際連盟の脱退なども横柄な態度の現れであった。
(4) 徐福は中国皇帝を表面上は立てていたから、その子孫の歴代倭国王も中国皇帝に朝貢していた。中国は日本国からの使者に対し、数百年の間朝貢してきた倭国王との連続性に疑問を抱いた。「日本国と名乗り倭国と連続していない」と思ったらしいことが旧唐書倭国日本伝に現われている。日本国の使者は亡命百済人が倭国を乗っ取って日本国と名乗ったのだとは言わなかった。しかし、態度が横柄であったため、中国皇帝の理解を得ることはできなかった。
 
 

 


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