千三百年の間、藤原氏に消されてきた伯耆国(鳥取県中西部)の真実の歴史が、今よみがえる。
三神社の由緒に見る稚日女命(卑弥呼)と神功皇后(台与)との関係 [邪馬台国・卑弥呼 その1]
1 神戸の生田神社の由緒
当社にお祀りする稚日女尊は、我国における最高神太陽神と崇められ伊勢神宮内宮にお祀りされる天照大神の「和魂あるいは妹神」と伝えられ、稚くみずみずしい日の女神様であり、物を生み育て万物の成長を御加護する神様です。神功皇后が海外外征の帰途、紀伊の水門から難波へ向かったところ、海中で船が動かなくなった。そこで務古の水門に船を泊めて神占を行ったところ、稚日女尊が現れられ「吾は活田長峡国に居らむ」と託宣したので、海上五十狭茅に祀らしめた。
稚日女尊は「若々しい日の女神」の意味で、天照皇大神ご自身であるとも、妹あるいは御子であるともされる。生田神社では、天照皇大神のご幼名とする。
2 三重県の伊射波神社の由緒
稚日女尊は天照大神の「妹君、分身」とも云われ、第十五代応神天皇の母君である神功皇后の崇敬厚く、神功皇后が筑紫国(九州)から倭国に凱旋した折にも、常に御許においてお祭りされていました。
3 和歌山県の玉津島神社の由緒
稚日女尊は、天照大神の「御妹」に当たられる。長足姫命は即ち神功皇后である。神功皇后が海外に軍をおすすめになられた時、玉津島の神(稚日女尊)が非常な霊威をあらわせられたため、神功皇后これに報われ、御分霊を今の和歌山県伊都郡かつらぎ町天野の地にお鎮めもうしあげ、爾来、玉津島・天野に一神両所に並び立ち、毎年天野の祭礼に神輿がはるばる天野から玉津島に渡御する所謂『浜降りの神事』が応永の頃(1429年)まで行われた。玉津島の神を尊崇せられた神功皇后は、後に卯の年月にちなみ、御自身も合祀されることとなった。
4 稚日女命と神功皇后との関係(ある方の思い)
神功皇后が凱旋したときに、なぜか往路では登場しなかった、稚日女尊が「私は活田長峡国に鎮座しましょう」とおっしゃた。いつの間に船に乗ったのでしょう?
神功皇后は殊の外、稚日女尊を尊崇せられた・・・としています。稚日女尊はご自分から先導を申し出られたのではなく、神功皇后が自ら願い出て、同行していただいた神である、と想像できます。ただ、その場合気になるのは優先順位です。既に、天照大神・事代主命・住吉三神が「わしらに任せとけ!」とおっしゃってるのに、稚日女尊に援助を願うというのは、前者三方にとっては失礼なことです。また、稚日女尊は天照大神の「妹神」です。天照大神の家系が「女系」であり、しかも「末子相続」のお家事情があるならば、天照大神より高位ということも考えられる。しかし、天照大神より高位だとすれば、「稚」なんて文字使いますか???
その姫は、天照大神よりも、住吉三神よりも、事代主命よりも、ずっと力の強い神であった、とか。女性でありながら、海外まで戦に出かけ、そして、勝利したとされる女傑・神功皇后も、天照大神も一目置く女神であった、ということならば納得できるんですが・・・。
5 私見
稚日女命は魏志倭人伝の「卑弥呼」であり、神功皇后は魏志倭人伝の「台与」であった。
(1)稚日女命は「卑弥呼」である。
ある方の思いからすると、稚日女命は天照大神・事代主命・住吉三神や神功皇后よりも高位でなければならない。
稚日女命は鳥取県神社誌で日野郡日光村吉原神社の祭神になっている。鬼との戦場に近い日野郡日光村の山田神社には孝霊天皇がいた。孝霊天皇にお告げをした天津神とは奥隣の吉原神社にいた稚日女命であった。稚日女命は、(幼き頃より、神意を伺い、まじない、占い、知能が優れており、聡明で、物事を予知する能力を持っていた)倭迹迹日百襲姫命と同一人物であり、父の孝霊天皇の近くにいて鬼を平定するための知恵を授けた。
海部氏勘注系図にある9世孫の妹の日女命(またの名は倭迹迹日百襲媛命)は邪馬台国の女王であり魏志倭人伝の卑弥呼である。稚日女命は天照大神の「妹」ではなく、藤原氏の神社庁に「稚」を付けられた孝霊天皇皇女の倭迹迹日百襲媛命であった。稚日女命は全国各地の神社の祭神となっている。
稚日女は天照大神の「妹」ではない。稚日女は卑弥呼であり、天照大神は徐福であった。日本(百済)の神社庁による倭国の神社の由緒の改ざん強奪である。
(2)神功皇后は「台与」である。
系譜を調べたところ、12代倭国天皇は武内宿禰の父の屋主忍男武雄心命となる。豊鋤入姫は12代倭国王の妹であり武内宿禰の叔母になる。梁書倭伝に「また卑弥呼の宗女、台与を立てて王にした。その後、また男王が立ち、並んで中国の爵命を受けた」(復立卑弥呼宗女台与為王 其後復立男王並受中国爵命)とある。台与は豊鋤入姫であり男王は武内宿禰であった。二人は一緒に行動していた。古事記・日本書紀の神功皇后の段でも武内宿禰が一緒に行動している。神功皇后のモデルは豊鋤入姫であった。
神功皇后は新羅に敵対する皇后として日本(百済)書紀に描かれている。倭国は鳥取県中部であったから、鳥取県中部に最短で到着できる千年続いた新羅は倭国の敵ではなく倭国の盟友であった。「神功皇后は倉吉市上神におり、倉吉市北面(つくしの日向)で出産した」という伝承が残っている。神功皇后は倭国(鳥取県中部)の皇后であった。他の伝承に比べて不自然なほど多く残る北部九州の神功皇后の伝承は藤原氏によって創作されたものである。神功皇后は倭国の皇后ではなく新羅に敵対していた百済の皇后として描かれている。神功皇后は原古事記にあった豊鋤入姫の旧事をもとにして百済色に色濃く改ざんされて描かれている。神功皇后は不比等をはじめとする百済史官によって改ざん創作された。
(3)藤原氏は倭国を乗っ取り、皇統が途切れたことがわかっているから、あえて万世一系の皇統と戦前まで言い続けてきた。今でも明治政府(藤原氏の政府)が創った東京大学の教授は万世一系の皇統と言い続けている。日本という国名は669年の百済王天智の発案である。日本(百済)書紀は不比等の創作であり、勝者の日本(百済)の歴史書である。敗者の倭国(鳥取県中部)の歴史書は書き換えられ葬り去られる。
古代史が混迷に陥っている原因は、藤原氏が作った官制の日本(百済)書紀に間違いはない、あってもわずかな部分だけだろう、と思っているからです。天武天皇が作らせた原古事記には高市大王まで書いてあったはずである。それを、改ざんして日本(百済)書紀を作り、原古事記の後半部分は消し去った。しかも、古事記に残っているものでさえ、半分近くは書き換えられている。その書き換えられた本当の部分を明らかにするのがこれからの古代史研究家に託された使命であると思う。その大前提はやまと(大和)は奈良ではなく、本当のやまと(倭)は鳥取県中部であったということである。
例えば、神功皇后は倭国(鳥取県中部)にいた皇后(伝承が残る)であったが、倭国と敵対していた百済色に色濃く変えられているし、出雲国・伊勢国と書かれているところは後で藤原氏が書き換えていると思いながら読む必要がある。神武天皇の兄の稲飯命が海原に入ったと書いているが、これも対岸の朝鮮半島(辰韓)に渡ったというのが真実であり死んでいない。稲飯命の母の玉依姫は朝鮮半島(辰韓)から来ている。決して竜宮城からではない。邇邇芸と木花開耶姫の話は人間臭い話であり今でもありそうな話で、原古事記の改ざんはほとんどないと思われる。しかし、その子(彦火火出見)や孫(ウガヤフキアエズ)の話は大陸に似たような話があり、大陸出身の百済史官が書き換えた可能性がある。また神武東征も原古事記にあった「神武たちが蝦夷を平定して鳥取県中部(倭国)に帰ってきた物語」を書き換えたものである。
日本(亡命百済王朝)は強奪に喜びを感じる扶余族であり、金品だけでなく、人間、名前、系譜、歴史など、何でも強奪する。強奪だから奪うときに人殺しをする。奪うこと(辻褄合わせ)の一貫で犠牲者(自殺者)が出ても知らん顔(死んで生贄になってください)である。
明治政府は扶余族の藤原五摂家で始まった。神社庁も教育委員会も内閣官房・内閣府(明治維新の藤原太政官制が母体)も各省庁も扶余族の藤原五摂家(明治維新の太政官制)が先祖であるので、現在進行形で本当の歴史を消すこと(歴史の強奪)に躍起になっている。ここでは具体的に例示しないが、今でも、影に隠れて悪いことをしている。
八橋の地名由来(伝承)について [神武天皇と欠史八代]
八橋の地名由来(伝承)について
1 八橋(鳥取県東伯郡琴浦町八橋)の地名由来(伝承)は以下のようである。
「神代の昔、大国主神の娘である高姫神(下照姫)が、国土経営のため、出雲から加勢蛇川のほとりまでおいでになられたとき、八岐大蛇の霊魂が、高姫神に襲いかかってきた。素戔嗚に討たれた八岐大蛇が、素戔嗚の孫である高姫神に恨みを晴らそうとしたのである。空は急に曇り、川の上には雲が覆いかぶさった。その様子はまるで八つの蛇橋が重なって架かっているようであった。高姫神は恐れて、心の中で素戔嗚の御霊に加護を念じたところ、八岐大蛇の霊魂は消え去った。このときからこの川を加勢蛇川と名付け、この地方を八橋(やばせ)というようになった」とする。
2 立縫郷は楯縫郷であった。
倉吉市高城地区には楯縫神社があり、その由緒には「旧楯縫郷の大社にして」「旧郷名に因み楯縫神社と改称す」とある。立縫郷は楯縫郷であった。上大立(楯)は穿邑であったので楯縫邑は大立(楯)であった。立縫郷には立見(たちみ、ではなく、たてみ)があり、これは楯見であり、楯を検査するところであった。
八橋と加勢蛇川との間には、上伊勢、下伊勢、浦安、徳万、逢束、保、丸尾などの集落があり加勢蛇川の伝説がいきなりそれらの集落を越えて八橋の地名由来になるのは不自然である。これは八橋以前に京都の藤原氏にとって不都合な地名がありそれを消すために八橋と付けたのではないかと思われる。
八橋に隣接して笠見がある。笠見は、楯見と同じく笠を検査するところであった。楯縫郷と同じように笠見の近くに笠縫邑があるはずである。八橋が笠縫邑であった。京都の藤原氏は下照姫の伝承まで創作して八橋の地名を創作し鳥取県中部(倭国)にあった笠縫邑を消していた。「倭姫命世記」にある豊鋤入姫の巡行で最初にスタートした「倭の笠縫邑」は鳥取県琴浦町八橋であった。地名の強奪である。
神倭磐余彦が倭国で最初に勝利した地は倉吉市高城地区であり、盾は神倭磐余彦にとって重要な武具であった(盾津の地名や伊那佐山で盾を並べた)ので倉吉市高城地区の地名を楯縫邑と名付けた。楯縫邑も笠縫邑も神武天皇の時代に鳥取県中部(倭国)に開かれた。
鳥取県湯梨浜町の出雲山に行ってきました [大国主命]
1 出雲山について
鳥取県琴浦町八橋の地名由来(高姫の伝承)は倭国の笠縫邑を消すために創作されていた。湯梨浜町宮内の下照姫(高姫)の伝承も何かを消すために創作されたのではないか、と推測される。下照姫(高姫)は天若日子と倉吉市寺谷で一緒に暮らしていた。蒜山(高天原)出身の天若日子が亡くなったら、少しでも旦那の出身地に近いところに住むはずであり、湯梨浜町より蒜山(高天原)に近い倉吉市志津の倭文神社に住んだ。湯梨浜町宮内の神社は元は倭文神社ではなかった。
宮内という地名は孝霊天皇が住んでいたから付けられた地名である。また弥生時代後期の国内最長の鉄刀も宮内から出土している。湯梨浜町宮内の倭文神社が孝霊天皇(在位147年~172年)の皇居の黒田庵戸宮であった。 出雲山の由来伝承は倭文神社に孝霊天皇一族がいたことを消すために藤原氏が創作した伝承であった。
2 石山について
2019年頃に設置された案内板。
確かな記録によると天神川の造成の跡として「古くから天神川は度々の氾濫で河道の位置を大きく変えていた。この河道が、現在のように直接日本海に流入するようになったのは、元文年間(1736-40)の河口開削工事によるもので、『天神川変遷略図』によると掘割を東村勘右衛門が設計し、米村所平が施工したとされています。これは天神山から東方の長瀬へ続く通称『石山さん』と呼ばれる安山岩の岩を撤去して今日の流路を作った」とある。
※ 私見
江北浜集落の天神山から出ていた安山岩の岩の「石山」の読みはどう読んでいたのだろうか。江北浜集落には(いそえ)姓が多いのでこの辺りは(いそ)であった。石山の読みは「いそのやま」であった。
河口開削工事は元文年間(1736-40)に行われているので、京都の藤原氏の証拠隠滅である。徳川光圀は大日本史で「石山が石上の地名由来であり、石山がタギシの柄である」と指摘していた。
最近造られた案内板(2019年頃)には「石山」とは書かず、「岩山」(倉吉ロータリークラブ)「天神山」(北栄町教育委員会)と書かれている。以前は「石山」と書かれておりキワードになることを知ってわざと別の字を使っている。
3 教育委員会について
福岡県教育委員会は各高校に部活として歴史研究会をつくることを推奨している。だから福岡県では歴史研究が盛んになる。鳥取県教育委員会に福岡県のように歴史研究会を各高校に置いたらどうかと進言してみると良い。「とんでもないことを言う」とはねつけられるのが落ちである。ただでさえ、真実の歴史を封印しようと頑張っている鳥取県教育委員会である。福岡県教育委員会とは真逆である。
このように鳥取県の市町村の教育委員会は藤原氏の流れにある。ましてや、鳥取県教育委員会は藤原精神(歴史も強奪する)に支配されている。初代鳥取県知事は山田氏(藤原氏の系統)で教育に力を入れていたという。どういう教育かというと、考古学的新発見には蓋をし、この県には何もないと信じ込ませる教育であった。この地では京都の藤原氏 (今は東京の藤原氏)の証拠隠滅の精神が今でも支配している。
倭国大乱における卑弥呼(稚日女命)の痕跡 [邪馬台国・卑弥呼 その1]
鳥取県北栄町の三輪神社(天忍穂耳)と国坂神社(大国主) [天忍穂耳(大物主)]
1 鳥取県北栄町下神の三輪神社と三輪山
下神の坂の途中にある三輪神社跡の石碑。
下神の坂の途中にある三輪神社跡の石碑
蜘ヶ家山(葛城山)より。左側が松神。右側が下神。下神の上、木の茂っているあたりに三輪山(邇邇芸)があった。三輪神社には天忍穂耳(大物主)がいた。
2 茶臼山(大国主の本拠地、伊那佐山・大神山・宇迦能山)と北条八幡神社
三輪山の東(2kmくらい)に茶臼山(大国主の本拠地、伊那佐山・大神山・宇迦能山)がある。
蜘ヶ家山(葛城山)より。茶臼山(大国主の本拠地)と三輪山(天忍穂耳=大物主の本拠地)との間の丘陵地に造られている北栄町北尾の北条八幡神社の山。
3 北条八幡神社の祭神と由緒
土下の三輪神社は大国主尊、少彦名尊を祀り、猿田彦神、倉稲魂神、天児屋根尊を合祭す。
当神社は大正二年神社整理の結果八幡に合併せるものなるが元官帳所載の三輪神社なるを知るに足るものあれば茲にその概要を記す。
一、地名 上神郷下神郷は古伯耆国久米郡大神郷にして上神郷をカミツミワ、下神郷をシモツミワと称ふ.大和国三輪神を遷し奉りしより此の名称出づ。
二、往古三輪神の鎮座地は下神郷の中央なる三輪山の麓 字三輪脇に在りし・・・・・。
※ 私見 このあたりを古代、伯耆国久米郡大神郷と言っていた。「大神」とは伊邪那岐の時代からこの国の「王」の代名詞であった。大神郷にこの国の「王」がいた。
「大和国三輪神を遷し奉りしより此の名称出づ」と「土下の三輪神社は大国主尊、少彦名尊を祀り」が問題である。
藤原氏は下神の三輪神社(下神郷の中央なる三輪山の麓、字三輪脇に在った)を放火消失させて、移した土下の三輪神社の祭神を「大国主・少彦名」とした。これが奈良の三輪神社の系列なら同じところに再建するはずである。
もともと「大国主・少彦名」は茶臼山の国坂神社に祀られており、土下に移したとする元の下神の三輪神社には大物主(天忍穂耳)が祀られていた。
倭国が創建した神社の強奪の一例である。強奪というのは、奪う過程において倭人を多く殺しているからである。藤原氏が政権を奪った奈良時代から晒し首が始まった。
4 大物主は天忍穂耳であり北栄町の三輪山にいた。天忍穂耳の御子の邇邇芸(日向御子)が楯縫神社で成長して大宮神社に移り葦原中津国を統治するようになるまで、天忍穂耳(大物主)は茶臼山(大神山)にいた大国主を助けて、西日本各地に住んだ多くの移民の生活環境を整えてやる大事業に携わっていた。それまで大国主のやっていた事業を国譲りの後は天孫族が引き継いでやっていた。
旧東郷町史・第四節・東郷湾の時代には「今から十数万年前(洪積世)の東郷町の町域は、日本海が奥深く入り込み、大平山と馬の山に挟まれた大きな内湾の海中であった。その海岸線は、東郷谷の奥深い山すそを縁取るように、また、舎人・花見地区の平野部を完全に覆うように入り込んでいた。現在の標高でみると、約二十~三十㍍までの町域は、すべて海であったと考えられる。北条町の茶臼山・三輪山などは海中に浮かぶ島であった(図5)」とある。
北栄町の隣の東郷町誌の古地図には左上に三輪山が載っている。その右が茶臼山(宇迦能山)である。
※ 私見
佐治氏は海抜25mくらいに海面があった鳥取県中部の地形をほぼ正確に描いている。ただし、「今から十数万年前(洪積世)」とあるが、倉吉市住吉神社の案内板に「往古この一帯が入江であった頃」とあるので、縄文海進のピーク時は今から五千五百年くらい前であり、そのときの海面は海抜25m前後まで上昇していた。十数万年前(洪積世)なら住吉神の伝承は残っていない。佐治氏の想定図でも茶臼山・三輪山・石山が確認できる。
左の白い囲い線は三輪山。三輪山の南(上=かみ)に三輪神社があった。倭姫命世記にある「倭の彌和の御室嶺の上の宮」はここであった。
大物主(天忍穂耳)が三輪神社に来たので大国主は本拠地を松樹庵から国坂神社に移した。国坂神社は今でも大国主の子孫が奉斎している。
右の白い囲い線は石山(いそのやま)である。石山はタギシ(古代の舵)の柄であった。タギシは鳥取県湯梨浜町長瀬高浜であった。大国主は石山(いそのやま)を越えて沖を通る船の目印になる高い建物(出雲大社のモデル)に行っていた。
大国主が通った、当時、水際沿いにあったと確認できる道路(黄色い線)が今でも残っている。