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千三百年の間、藤原氏に消されてきた伯耆国(鳥取県中西部)の真実の歴史が、今よみがえる。

倭健命ゆかりの地に行ってきました [第九代開化天皇、第十代崇神天皇、第十一代垂仁天皇]

 1 倭建命が矢を放った矢筈山のあるのは関金町清水集落の奥ではなく、蒜山の郷土史家によると犬挟峠の東であった。

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 倭建命は矢筈山で「この矢のとどく限り兇徒悪魔は退散して我が守護の地となれ」と念じ矢を放った。その矢を関金町生竹の矢止めの荒神が止めた。

2 矢止めの荒神

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 橋の向こうの集落が生竹である。この反対側には耳集落がある。

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 矢止めの荒神。地図では因山神社となっている。石段を上がっても小さな祠があるだけである。

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 案内板には「十二代景行天皇の御代、伯耆国と美作国の境に矢筈山という高山あり、その山頂に唐王権現という石祠と石塔あり、日本武尊西国平定の道すがら矢筈山に登り、山頂より東北に矢をつがえ『この矢の止まる限りをわが守護の地とならん』と、矢を放ち給えば東北なる二里余りの小鴨村加茂河内生竹と称する所に落下せり。このところに荒神宮の小祠あり、荒神宮の神さま里人と相謀り『貴き神の矢なるべし』と、この矢を丁重に遺りかえせしが、これより後、生竹の里人達は、矢をお止になりし荒神さま、即ち、矢止め荒神さまと、益々あがめている」とある。

3 私見

(1)古事記には「天照大神は、『豊葦原の水穂の国は、私の子、天忍穗耳命が治めるべき国だ。』と言って、天から降らせた。天忍穗耳命は天の浮橋に立ち、下界を窺って『豊葦原の水穂の国は、ひどく騒がしい』と言って、再び天に昇って天照大神に状況を訴えた。そこで高御産巣日神と天照大神は天の安河の河原に八百万の神々を招集して、思金神に『この葦原の中つ国は、私の子が治めるべき国だと言依さした国である。しかしこの国には、荒ぶる国つ神がたくさんいる』」とある。

 古事記には、主語は消してあるが「この葦原の中つ国は、私の子が治めるべき国だと言依さした」のは伊邪那岐(大神)であった。「しかしこの国には、荒ぶる国つ神がたくさんいる」とある。荒ぶる国つ神のことを荒神と言った。荒神がたくさんいたから天忍穗耳は「ひどく騒がしい」といった。この神は出雲の神であり、神在月には出雲に集まった。

(2)「十二代景行天皇の御代」とある。なぜ、あえて書くのか。倭建命は古事記・日本書紀に景行天皇の皇子と書いてある。調べればすぐわかることである。しかし、本当の系譜は「七代孝霊天皇の御代」であった。「倭建命の父は孝霊天皇であった」を参照されたし。この案内板を作ったのは神社庁か教育委員会だろう。どちらも、亡命百済王朝(日本)の藤原氏である。藤原氏は「嘘も百回つけば本当になる」とする。孝霊天皇や倭建命の出てくるところには、必ずといっていいほど景行天皇を書き加える。景行天皇は朝鮮半島の百済国の王であった。

(3)「西国平定の道すがら」とある。鳥取県中部には矢を一本放って瀬戸内を西に行ったように思わせる書き方である。しかし、西国平定は倭国大乱が終結してからである。倭国は鳥取県中部であったから、鳥取県中部西部が最終目標である。案内板を書いた者は鳥取県中西部を素通りしたと思わせるように改ざんしている。

 案内板を書いた者は倭国王家に鬼・土蜘蛛・河童といわれていた荒神を擁護している。この時は倭国大乱の始まりの時であった。吉備国を平定(新見にいた出雲族の石蟹の平定など)して蒜山に来た時である。神倭磐余彦と同じく南から平定してきている。神倭磐余彦も首領は殺したが一族は殺さなかったので荒神はたくさん残っていた。神倭磐余彦は平定して殷王朝から引き継いできた荒神(出雲族)の宗教を改宗させようとして妻木晩田を開いたが、その妻木晩田で七代孝霊天皇は不祥事を起こし荒神(出雲族)の反乱を招いた。

 倭国は鳥取県中部であったからこのあと鳥取県中部を平定した。そして西部を平定した。特に西部では、妻木晩田を拠点としていた出雲族を追い払い、南部町の手間山に逃げ込んだ出雲族を手間山の麓で捉えた。鬼住山、大倉山、鬼林山の鬼(出雲神族=準王一族)と鬼の発生元の出雲も平定して出雲族を降伏させ倭国大乱は終結した。

(4)倭建命が念じた「兇徒悪魔は退散して」を矢止めの荒神の案内板ではなぜ削除したか。荒神は荒ぶる神・まつろわぬ神であり、鬼・土蜘蛛・河童・猿などと呼ばれ殷王朝から引き継いだ人間の生贄を行っていた。天皇家とは十代崇神天皇まで敵対し反乱もしていた。倭国大乱とは鳥取県にいた荒神(出雲族)の反乱であった。倭建命のいう「兇徒悪魔」とは荒神そのものであった。消したものが当の本人であった。それは神社庁・教育委員会の元の藤原氏であった。藤原氏は「兇徒悪魔」(荒神)の子孫である。

(5)「生竹の里人達は、矢をお止になりし荒神さま、即ち、矢止め荒神さまと、益々あがめている」とある。生竹の里人達に世論調査でもしたのだろうか。あがめるわけがない。倭国王家に鬼・土蜘蛛・河童といわれていた荒神(ここでは河童)を擁護している。案内板を書いた者は倭国王家に対立していた兇徒悪魔(荒神)の子孫の藤原氏(神社庁・教育委員会)であった。

(6)この案内板を書いたのは神社庁・教育委員会であり荒神と同族である。「兇徒悪魔」が荒神であることを知っていて書いている。荒神に味方をしている事がわかる。明治維新は「兇徒悪魔」の子孫の藤原太政官制から始まった。神社庁・教育委員会は今でも藤原氏(荒神=兇徒悪魔)の流れにある。

 

 

 


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葦原中津国の平定(国譲り) [天孫降臨]

1 邇邇芸が葦原中津国を平定をした頃(紀元前160年頃)は海面が今より4m高かった。笠沙之御前は鳥取県北栄町の北条砂丘であった。笠沙之御前の右下(天神川河口)は記録によると何度も洪水にみまわれており、土砂がかなり堆積して高くなっている。

 邇邇芸の時代はこの辺りも内海であった。長瀬高浜の弥生時代の遺物は洪水で流され(弥生時代の生活痕がないとされる)、笠砂之御前の笠の柄(中州)も洪水で流され、倉吉市清谷にあった神倭磐余彦が到着した楯津は土砂で埋まり、応神天皇の皇居のあった穴窪(軽島之明宮)周辺も土砂の堆積で高くなっている。

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 葦原中津国は笠沙之御前の左下にあり、徐福(天照大神)と素戔嗚が上陸した大山の裾野の小さな湾(橘)の周辺であった。徐福(天照大神)は祖神の大神(伊邪那岐)に連れてきた三千人の少年少女を葦原中津国で育てるように命じられていた。徐福(天照大神)たちが蒜山周辺で仙薬を探しているうちに、殷王朝末裔の準王一族(出雲族)がこの地を占拠した。天孫族は大神との約束の地を占拠されたが、祖神の大神(伊邪那岐)は人口を増やすことが主眼だったので殺すことはせず、出雲族の子供が成長するのを待った。この地は魚類も多く周辺は水稲稲作のできる葦原であり、子育てには最適な場所であった。

2 津の周辺に葦が生えているところは列島のいたるところにある。しかし、神社の祭神の配置が平定した状態になっている津は鳥取県中部以外にない。

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(1)邇邇芸 北栄町上種の大宮神社

 周辺から弥生時代後期の住居跡が神社を取巻くようにして発掘されているので弥生時代後期にはすでに崇敬されていた神社であったことがわかる。事代主の出雲族が成長するまで楯縫神社にいたが天児屋根と一緒に日向の北栄町上種に移った。

(2)木花之佐久夜毘売 北栄町亀谷の亀谷神社

 木花之佐久夜毘売の産屋は北栄町由良宿の高江神社に有ったので、普段の住居は北栄町亀谷に有った。夫の邇邇芸の御殿とは歩いて15分の距離である。すぐ下を流れる川を機織りをしながら由良川と名付けた。

(3)天児屋根 北栄町穂波の穂波神社

 饒速日の降臨のとき湯梨浜町の長瀬高浜(タギシ)で大国主のために高い建物を建てる場に居合わせたが饒速日が亡くなり、4歳の邇邇芸が蒜山高天原の加茂神社から降臨してくるので関金町の矢送神社で迎えた。事代主の出雲族が成長したので楯縫神社から日向の北栄町穂波に移った。

(4)邇邇芸は北栄町上種の大宮神社に宮殿を建て、木花佐久耶姫(亀谷神社)と天児屋根命(穂波神社)が橘形の津の西と東をおさえた状態になっている。これが平定の状態である。橘形の津の周辺を葦原中津国と呼んでいた。現在、この地は稲作地帯となり、大島には収穫した米を貯蔵する大きなカントリーエレベーターがある。

3 橘形の津の周辺は葦原になっていた。水稲作りに適した地である。縄文海退により、現在、葦原中津はなくなり由良川になってるが、由良川には今でも葦が茂っている。

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 亀谷神社の祭神になっている事代主はこの地を支配していた。国譲りの後は百八十神(出雲族の子が生まれ葦原中津国で成長したので八十神が百八十神になった)と共に福庭の波波伎神社を経由して、湯梨浜町長和田に行き、そこを終の棲家とした。

4 饒速日と一緒に降臨した天忍穂耳(大物主)は大国主の本拠地の茶臼山の西の北栄町下神の三輪神社にいた。大国主と饒速日は父親が倭国に来て(紀元前210年)から最初に出来た子なので同年代くらいであった。天忍穂耳と大国主とは親子くらいの年齢差があった。

 北栄町下神の三輪神社の位置なら葦原中津国の様子もわかり、茶臼山(伊那佐山=宇迦能山=大神山)の大国主が各地に国造りするのにも助言・協力が出来た。大国主は多くの移民を住まわす国を西日本各地に造っていた。生活する上での環境を整える指導もしていた。

 笠沙之御前(北条砂丘)の左下が葦原中津国であり、邇邇芸が日当たりの良さを言ってから「日向」と呼ばれるようになった。クシフルタケや四王寺山も日向の地である。奈良の三輪山の祭神になっている日向御子とは、邇邇芸であり、奈良の三輪神社の祭神になっている大物主(日向御子の父)とは天忍穂耳であった。天忍穂耳のいた下神の三輪神社の隣の松神神社には結婚前の木花之佐久夜毘売が祀られている。邇邇芸は笠沙之御前(北条砂丘)の松神にいた木花之佐久夜毘売と出会った。

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 邇邇芸は楯縫神社で出雲族の子が成長するのを待つ間、倉吉市半坂を経由して倉吉市の灘手別所から船に乗り父の天忍穂耳のいる北栄町下神の三輪神社・三輪山に行っていた。灘手地区に住んでおられる会員は「船着き場が残っているのでそのとおり」と言われる。

 

 

 

 

 

 

 


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八俣大蛇の舞台は鳥取県三朝町山田であった [素戔嗚命]

  八俣大蛇の舞台は鳥取県三朝町山田であった

1 須佐之男は徐福一行(紀元前210年の第2次)のメンバーであり、徐福に次ぐリーダーであった。須佐之男も徐福(天照大神)と船で辰韓(のちの新羅)より伯州(伯耆国)に到着した。徐福一行は通り過ぎた出雲国に引き返すのではなく、鳥取県中部の小さな湾に到着し、大神(伊邪那岐)に再会した。伊邪那岐は三貴神にそれぞれ治める場所を指示した。伊邪那岐は須佐之男に「海原を治めよ」と言った。海原とは、縄文海進で以前は海であったが須佐之男の時代には原になっていた地域である。海原(海抜4m~海抜20m)は世界中どこにもあるので、地名が付いていたはずである。それは黄泉の海原であった。黄泉国は根国ともいい、現在の倉吉市中心市街地であった。

 徐福(天照大神)一行は蒜山(高天原)に行き、蒜山周辺の山に登り仙薬(水銀)を探した。蒜山周辺の山は「せん」と読む山が多い。 

2 須佐之男は伊邪那美(母)を知っていたので第1次(紀元前219年)からの徐福一行のメンバーであった。須佐之男は葦原中津国(倉吉市谷の朝日神社)で泣いたのち、天照大神に暇乞いをするため蒜山に上がった。須佐之男が暇乞いに上がって来た時に、天照大神(徐福)は始皇帝からもらった連弩を構えて須佐之男を威嚇した。その後、遅れて来る者を探す(うけい)ため鳥取県西部に降りた。

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 須佐之男は黄泉の海原の周辺を調べるため三徳川を遡った時に、三朝町坂本集落にいた足名椎、手名椎に出会い、八俣(山田)大蛇の話を聞いた。

 鳥取県東伯郡三朝町大瀬の隣に三朝町山田という集落がありヤマダ(濁音)と読ませるが、同じ鳥取県東伯郡の琴浦町山田ではヤマタ(清音)と読む。何もないから古代より変わらず来た琴浦町山田のヤマタ(清音)の読みが「山田」の鳥取県中部における古くからの読みと思われる。東伯郡三朝町でも当時はヤマタ(清音)と読んでいたが、藤原氏がヤマダ(濁音)という読み方に変えさせた。三朝町の山田集落は坂本集落(神社は足名椎命、手名椎命を祀る)と大瀬ほうき(稲田姫が母来ませと叫んだところ)との間にある。また、全国旅館百選に選ばれた三旅館があり、温泉病院、惑星物質研究所がある。

3 八俣大蛇は、第1次の徐福を追ってきた始皇帝の追っ手であった。毎年娘を取られ今年は8人目の稲田姫の番であった。須佐之男は三朝町山田にいたヤマタのオロチを成敗して、秦の始皇帝陵で見つかった剣と同じ天叢雲剣(草薙剣)を持って稲田姫とその両親とともに蒜山(高天原)にいた徐福(天照大神)に状況を報告するために蒜山高原(高天原)に向かった。

 八岐大蛇が持っていた天叢雲剣(草薙剣)は始皇帝陵の剣と同じ両刃の剣であった。四百年たっても草を刈れたのだから、始皇帝陵で見つかった剣と同じものである。天叢雲剣と秦の始皇帝陵から見つかった1m余りの剣(紀元前220年頃の剣だが今でも切れる)はどちらも錆びないようにクロームメッキされた始皇帝が作らせた両刃の剣である。天叢雲剣(熱田神宮にある)は携帯に便利なように少し小振(85cm)である。八岐大蛇とされた始皇帝の追手は、秦で作られた天叢雲剣を持って、対馬海流に乗って海流の弱まる鳥取県中部の東郷池に上陸した。八俣大蛇とされていたのは、第一次の徐福(紀元前219年)を追っていた始皇帝の追っ手であった。

4 須佐之男は八岐大蛇(始皇帝の追っ手)を退治して、天照大神に状況を説明するため、稲田姫、足名椎、手名椎とともに高天原(蒜山の長田神社)に上がった。

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 「伯耆国」はもと「母来国」と呼ばれていたと伯耆国風土記の残欠にある。母来とは稲田姫が「母来ませ」と叫んだところから名づけられた。「ははき」が訛って「ほうき」になった。 

 〇〇ほうき(母来ませと稲田姫が叫んだところ)という地名が三朝町に三ヶ所(助谷・大瀬・大原)あり、三朝町の坂本神社に稲田姫の両親が祀られている。〇〇ほうき(母来ませと稲田姫が叫んだところ)といわれるところは、いずれも山と川の間が狭く、通るのに不便であったところである。この地名は八岐大蛇を退治してから、須佐之男・稲田姫・その両親が蒜山長田神社(高天原)にいた天照大神に会いにいく途中で母親の遅れを稲田姫が急かしたところである。須佐之男たちは三朝町助谷から穴鴨経由で真庭市中和に上がり、蒜山の長田神社にいた天照大神に天叢雲剣を渡して状況を説明した。須佐之男は始皇帝に報告しなかった天照大神を咎めた。天岩戸隠れはこのときの出来事であった。

5 須佐之男と稲田姫とその両親は蒜山高天原で天照大神・天穂日と合流し、伊邪那岐が移った鳥取県智頭町那岐村(幽宮)に近い鳥取県八頭町の大江郷に逃げ、須佐之男は八重垣の御殿を建て稲田姫と隠れ住み大国主を生んだ。天穂日は須佐之男の御殿を守った。

 始皇帝の追っ手から逃げるため天照大神は蒜山高天原を去り、鳥取県東部の河原町の霊石山や氷ノ山に登った。始皇帝が亡くなったことを知り、天照大神は高天原(蒜山高原)に、須佐之男は神大市比売との間に生まれた須勢理姫と一緒に蒜山を通って根国(倉吉市中心市街地)の清熊稲荷神社(倉吉市余戸谷町四十二丸)の峰に降りて行った。

 大国主は根国の清熊稲荷神社の峰にいた父の須佐之男を追って行った。須佐之男は大国主が強くなるようにしつけた。古事記「根国での冒険」の舞台は清熊稲荷神社の峰(哮峰)周辺であった。大国主は須勢理姫を背負って黄泉比良坂(鳥取県道23号線)の麓までいたり、須佐之男が追いかけてきたが、宇迦能山(鳥取県北栄町茶臼山=いなさ山)に行った。大国主は葦原中津国(鳥取県北栄町大島周辺)に多くの妻子を住まわせ国造りをした。

6 1人になった須佐之男は東山神社(倉吉市米田町)に移り、対岸の石上神宮(倉吉市大原)に十握の剣を奉納した。宇迦之御魂(須勢理姫)を祀る神社を繋いでみると須勢理姫は兄のいた宇迦能山(北栄町茶臼山)と父のいた東山神社(倉吉市米田町)との間を行ったり来たりして父に国造りの経過報告をしていたようである。

 その後、饒速日や天忍穂耳たち大勢は清熊稲荷神社(倉吉市余戸谷町四十二丸)の峰に降臨してきた。須佐之男は清熊稲荷神社(倉吉市余戸谷町四十二丸)の峰で降臨してきた饒速日や天忍穂耳たち大勢と会った。須佐之男(天神の御祖神)は天忍穂耳に1人になった大国主の国造に協力してやってほしいと言い、饒速日に10種の神宝を授けた。

7 倉吉市の大原神社は647年まで石上神宮といい元禄時代までは波波伎神社と言っていた。京都の藤原氏は元禄時代に辻褄を合わせるために波波伎神社名を消し大原神社とした。波波伎神社は事代主が到着した福庭の神社名にした。岡山県赤磐市石上字風呂谷にある石上布都魂神社の宮司の名前を物部にしたのも元禄時代(10代前×30歳=300年前=1700年)である。岡山県赤磐市是里に須佐之男が八俣大蛇を斬った剣を洗った血洗いの滝を造ったのもこの頃である。

 いそえ姓の多い鳥取県北栄町江北浜集落の東には1740年まで石山があった。石山(いそのやま)の上流にある倉吉市大原のことを石上(いそのかみ)と呼んでいた。石上神宮の「石」を「いそ」と読ませるが、奈良県天理市は「いそ(磯)」には遠い。

 

 


 


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朝鮮半島に三韓ができる前後の中国・朝鮮の歴史 [徐福、天照大神]

朝鮮半島に三韓ができるまでの中国・朝鮮の歴史

 

1   中国の春秋戦国時代に河北省、遼寧省、山東省辺りにあった燕や斉は秦国に滅ぼされ、難民が朝鮮半島に流れ込んだ。韓も紀元前230年に秦によって滅ぼされ、韓の難民は山東省から朝鮮半島南部に辰国を建国した。韓族は当初、馬韓を支配し、辰韓を秦の始皇帝の労役を嫌った秦人に譲ったが辰韓の支配権は馬韓が握っていた。馬韓は山東半島にいた韓族だったので、長江文明の流れを汲む中国の南方系の民族であったし、辰韓と弁韓は鉄器製造技術を持った秦語(陝西方言)を使う中国の北方系の民族であった。鉄鉱山もある山東半島や北京以南から遼東半島に掛けて、いろいろな異民族が集まっていた。

※私見

 青銅器文化も、中国の山東半島や遼東半島にいた部族からきたと思われる。それは燕や斉の難民であった。馬韓は衛氏朝鮮によって滅ぼされた箕子朝鮮の残党によって、その支配権を奪われた。青銅器文化が日本に渡ってきたのは紀元前194年頃である。

 

2  高句麗 

 高句麗は紀元前3世紀頃から朝鮮半島の北部に建国していた。三国志魏書・高句麗伝には「高句麗は遼東の東千里に在り、南に朝鮮、ワイ貊、東に沃沮、北に扶余と接する。丸都の麓に都を置く、方形は二千里、戸数は三万。多くの大山や深い渓谷があり、原野や沢はない。山や谷に住居を置き、谷川の水を飲む。良田はない、農作業に努めているのだが、腹を満たすには至らない。その風俗は節食、宮廷は善政を行ない、王宮の左右に大きな建物を立て、鬼神を祭り、霊星や社稷(大地の神と五穀の神)も祀る。その族人の性質は凶暴で性急、金品を強奪することを喜びとする。東夷の古い話では夫餘の別種だとするが、言語、諸事ともに多くが夫餘と同じだ」とする。「梁書」高句麗伝に「十九年(245年)春三月、東海の人が美女を献じた。王はこれを後宮に納めた。冬十月、軍を出して新羅の北辺を侵略した」という記述がある。

※私見

 不思議な記述だが、ここに登場する東海人とは、「日本海に面した国の人」という意味である。日本海に面した国とは新羅か対岸の伯耆国と思われる。公孫氏(189年~238年)がいなくなっても、高句麗が略奪を繰り返していた。倭国は陸路を確保するために高句麗にも貢物を献上していたようである。

 

3  百済

 百済は高句麗より出ず。藤原氏のルーツは高句麗にある。百済の建国神話は、高句麗と同様、扶余の東明神話のバリエーションとなっている。

(1)遼西経略説  百済は建国の当初、高句麗が遼東半島を征服した後、遼西地方に進出して百済郡を設置した。「宋書」「梁書」

(2)高句麗同祖説  百済は始め高句麗とともに遼東の東千里の地にあった。「宋書」「梁書」「南史」

(3)始祖仇台説  仇台という者が、かつての帯方だった地に百済を建国した。「後漢書」「周書」「魏書」「隋書」

※私見

 「梁書」には言語や服装などが高句麗とおおよそ同じであるとしている。これらを見ると高句麗と百済は兄弟国であったことが解かる。高句麗と百済は「その族人の性質は凶暴で性急、金品を強奪することを喜びとする」ので新羅を襲ったり、百済は任那(全羅南道)を何度も侵している。百済は最終的には倭国を乗っ取った。

 

4 古事記序文に「そこで天武天皇は『私の聞くところによれば、諸家に伝わっている帝紀および本辞には、真実と違い、あるいは虚偽を加えたものがはなはだ多いとのことである。そうだとすると、ただ今この時に、その誤りを改めておかないと、今後幾年も経たないうちに、その正しい趣旨は失われてしまう・・・』」とある。

 諸家とはだれのことか。藤原氏は亡命百済人(扶余族)である。扶余族は「その族人の性質は凶暴で性急、金品を強奪することを喜びとする」(三国志魏書・高句麗伝)。扶余族は強奪に喜びを感じる一族である。人・物・金品だけでなくなんでも略奪する。名前・系譜・歴史・地名も強奪する。642年に倭国に来た百済人の翹岐は中臣鎌足と名乗った。中臣の名前と系譜を強奪した。難波を南場に変えさせて難波姓を名乗り、安倍を阿部に変えさせて安倍姓を名乗った。古事記・日本書紀の系譜も出鱈目である。天武天皇のいう「帝紀と本辞」を強奪したのは亡命百済人の藤原氏(扶余族)である。倭国の歴史を強奪したのも藤原氏(扶余族)であった。そして出来上がったのが古事記・日本書紀である。 

 

 


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神倭磐余彦4兄弟は鬼八(略奪集団)を平定するために、九州に行った [日向三代と神武天皇四兄弟]

神倭磐余彦4兄弟は鬼八(略奪集団)を平定するために、九州に行った。

 

1 九州には生贄の風習のある鬼八がいて渡来人を掠め取っていた。御毛沼命は常世国から渡来しようとする者に「朝鮮半島の辰韓を経由して倭国(鳥取県中部)に来るように」渡来ルートの変更をさせるために常世国(台湾やベトナムや中国雲南省)に渡った。

 鳥取県中部の標高172mの四王寺山は周囲に太陽の光を遮る山などがなく、当時は家や船を造るため木を切り「つくし」ていたので日当たりの良い日向の地であった。神倭磐余彦4兄弟は日向(四王寺山)を出発した。

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2 山口県光市より西は神倭磐余彦4兄弟の伝承がほとんどないが、島田川流域には磐余彦や御毛沼の伝承があるので、山口県光市から大分県の宇佐に渡ったと思われる。神倭磐余彦4兄弟は宇佐から岡田宮に移った。稲飯命は九州の西側から辰韓に渡り、鉄の鏃を作って半島の西側(馬韓)から出港し岡田宮で待っていた神倭磐余彦たちに武器を送った。

以下の鉄鏃は辰韓か加羅で稲飯命が作り、馬韓から岡田宮にいた神倭磐余彦たちに送られ、九州の鬼八に対して使われた。

※(2015-07-19)  鹿児島県文化振興財団埋蔵文化財調査センターは16日、「大崎町永吉の永吉天神段遺跡の二つの土坑墓から、弥生時代中期(約2100年前)の鉄鏃5点が見つかった」と発表した。」

 「昨年7~8月に『土坑墓』から発見され、CTスキャンなどで解析した上で、吉ケ浦遺跡(福岡県太宰府市)と安永田遺跡(佐賀県鳥栖市)で見つかった9点と同時期で同型だと判断したという。南九州では初めてで、鉄製品としても県内最古級という。

 副葬品の場合、墓からまとまって出土する例が多いが、今回は墓の中にまとまって置かれていなかったことから、副葬品でなく被葬者に刺さっていた鉄鏃とみられる」とある。 

※ 私見

吉ケ浦遺跡(福岡県太宰府市)と安永田遺跡(佐賀県鳥栖市)で見つかった紀元前100年頃の鉄鏃は神倭磐余彦たちが放った鉄鏃である。その先には吉野ヶ里遺跡があるので、そこでも鉄鏃を放っている。吉野ヶ里遺跡は奴隷を逃げられないようにしていた。柵と堀の位置が通常と逆である。

 吉野ケ里を100名城の1つ(城のルーツ)として聖地にしているが、ここにいた略奪に喜びを感じる鬼八は藤原氏と同族である。本当の山城は大谷と北面の2集落からしか上がれないようにしてある倉吉市の四王寺山である。

鹿児島県でも紀元前100年頃の鉄鏃が見つかっているので紀元前60年に即位した神倭磐余彦たちは九州全域を平定している。五瀬命と神倭磐余彦は九州全域を平定して倭国(鳥取県中部)に帰ってきた。

 

3 古事記には「御毛沼命は、波の穂を跳みて常世国に渡りまし、稲氷命(稲飯命)は、妣の国として海原に入りました」と書かれている。

「稲氷命(稲飯命)は、妣の国(玉依姫は辰韓出身)として海原(海抜4m~20mの陸地)に入りました」という表現は「事代主は海の中に入られた」(日本書紀)と同じであり対岸に渡ったということである。

「倭人が腰にヒョウタンをつけて海を渡り、新羅に来て、瓠公(ホコ)と呼ばれた。彼は、初代王の赫居世(朴氏祖)~四代王の昔脱解(昔氏)まで、建国の重臣として活躍した」(三国史記)とある。「新撰姓氏録」において新羅の祖は稲飯命だとされている。赫居世居西干とは日向の王という意味であり、四王寺山(日向)にいた稲飯命(王子)を思わせる。

大臣が何代にもわたって仕えるのは日本書紀の武内宿禰や蘇我氏3代に例があり、藤原氏の手法である。稲飯命は紀元前57年に即位した新羅国の初代王であった。建国の重臣ではなく、建国者その者であった。


 

 


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葦原中津国の中心(北栄町大島)に行ってきました [第九代開化天皇、第十代崇神天皇、第十一代垂仁天皇]

1 北栄町大島(旧島)の全体像。

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 伊邪那岐(大神)・伊邪那美は天照大神(徐福)が連れてくる三千人の少年少女を住まわす国を北栄町大島を中心にして造っていた。伊邪那岐(大神)はその三千人のために「千五百の産屋を作ろう」と言った。

 当時、周辺は汽水池であったので魚類も豊富に捕れた。また、汽水池の周辺は葦原となっており水稲稲作に適した地であった。縄文海退で周辺が陸地になってからは、全面穀倉地帯になっている。白い建物は収穫した米を貯蔵するカントリーエレベーター。

 蜘ヶ家山(葛城山)より西が葛城だったので北栄町大島も葛城地域であった。孝安天皇の葛城室之秋津島宮があった。

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 家並みの奥の丘を取り巻くように家が建っている。

2 大島(室秋津島)の中心にて

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 島の一番高いところである。向こうに火火出見命が宮を定め神武天皇四兄弟がいた四王寺山が見える。

3 宮崎神社(昭和9年鳥取県神社誌より)

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由緒(抜粋)

 「・・・。是に於て孝霊天皇の御宇皇子大日本根子彦国牽尊、土人の為今の本社地に御祖伊邪那岐命・伊邪那美命を奉齋し給ひき。是れ本社の濫觴なりと。斯くて数十年を経て景行天皇の御宇、皇子日本武尊征西の御時、北海の霪風御艦を悩まし奉りしが不思議の神助にて御艦引寄するが如く本社地乾の隅に着御し給へり。尊大に歓喜し給ひて宣はく 斯く清らかなる地の海面に浮出つるはこは浮洲にや と。是より社地を称して浮洲の社と云ふ。洲の中央に大麻を挿立て御自ら御飯を爨き給ひて二尊を祭り神助を謝し給へり。・・・。」とある。

※ 私見

 「斯くて数十年を経て景行天皇の御宇」は改ざん挿入されており正しくは「斯くて数年を経て孝霊天皇の御宇」であった。

 孝元天皇は伊邪那岐・伊邪那美を奉斎され、倭健命が島の中央に大麻を挿立て御自ら御飯を炊いて伊邪那岐・伊邪那美を祭り征西の神助を謝した。 孝元天皇が伊邪那岐・伊邪那美を奉斎したのは、土人のためではなく大乱を戦っている父の孝霊天皇や妹の卑弥呼や弟の倭建命の戦勝を祈願したからである。

 倭建命が着御し、尊大に歓喜されたのは征西が成功裏に終わったからである。昭和九年の鳥取県神社誌には「征西の御時」とある。

 


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倭建命の父は孝霊天皇であった [第九代開化天皇、第十代崇神天皇、第十一代垂仁天皇]

1 倭建命の父は孝霊天皇であった。
(1)倭建命の系譜
 古事記・日本書紀は、「12代景行天皇は倭建命の父であり、14代仲哀天皇は倭建命の皇子である」とする。これは正しいか。
 12代13代14代は潤色されている(別稿「12代景行・13代成務・14代仲哀について」を参照されたし)。また「景行天皇は倭建命のひ孫を娶り」とあることや、「仲哀天皇は倭建命が亡くなってから35年目に生まれた」ことになるため、倭建命と12代、倭建命と14代の親子関係を否定する説が有力である。これをもとに倭建命はいなかったとする説があるが、いなかったのは12代景行・13代成務・14代仲哀のほうである。12代13代14代は百済王であり、倭国王の倭建命を取り込もうとしたがほころびが生じた。
 倭国大王の13代は武内宿禰大臣(王)であった。成務天皇と同日生まれとするし、「王」を「臣」と書き換えたと思われる。12代は武内宿禰の父の屋主忍男武雄心であった。木(紀)氏系図では、8代孝元天皇→彦太忍信命→屋主忍男武雄心は12代→武内宿禰は13代となる。
(2)古事記・日本書紀は8代9代10代は父子承継とする。これは正しいか。
 古事記・日本書紀は、8代孝元天皇・9代開化天皇・10代崇神天皇・11代垂仁天皇・12代景行天皇・13代成務天皇とする。しかし、史実は8代孝元天皇→彦太忍信命→屋主忍男武雄心は12代→武内宿禰は13代であった。8代9代10代11代の期間は別系統での8代とその子の彦太忍信命の期間と同じになる。12代は屋主忍男武雄心命であり13代は武内宿禰であったから8代9代10代が兄弟であり、彦太忍信命と11代垂仁天皇が同世代であるなら辻褄があう。倭朝廷は戦などで王が若死にした場合、次の兄弟に王位を継がせていた。私見では8代9代10代の時代は倭国大乱の時代(2世紀後半)であった。8代9代10代は兄弟であった。
 紀元前210年に渡来した徐福が天照大神であったことを消すために神武元年を史実より600年古くした。兄弟承継を父子承継にし、初期十数代の天皇は寿命を異常に長くした。
(3)倭姫命は7代孝霊天皇の皇女倭迹迹日百襲姫命であった(別稿「内藤湖南の「倭姫命説」と笠井新也の「倭迹迹日百襲姫命説」はどちらも正しかった」を参照されたし)。
 倭建命は倭姫命(倭迹迹日百襲姫命)と一緒に全国の平定巡行をしている(一緒にいたから着物を借りたり、草薙剣を借りることができた)。倭建命は倭迹迹日百襲姫命の兄弟であった。
 倭迹迹日百襲姫命には男兄弟が5人いた。孝元天皇、大吉備津日子命、日子刺肩別命、若日子建吉備津日子命、日子寤間命である。 
 大吉備津日子命と若日子建吉備津日子命は吉備国を平定した(古事記)。倭建命は全国を平定しているので倭建命は吉備国を平定した二人のうちどちらかと思われる。同じ「建」がついている若日子建吉備津日子命と思われる。倭建命は若日子建吉備津日子命であった。
(4)倭建命(若日子建吉備津日子命)は東征のときに倭武天皇になっているが9代天皇か10代天皇か。
 倭朝廷は戦などで王が若死にした場合、次の兄弟に王位を継承していた。9代は若死にした王でなければならない。倭建命(若日子建吉備津日子命)は天皇になったが若死にしている。倭建命(若日子建吉備津日子命)は9代開花天皇であった。
 
2 鳥取県中部の伝承
 倭建命については鳥取県中部に二か所伝承が残っている。
(1)鳥取県倉吉市(旧関金町)に、ヤマトタケルが伯耆と美作国境の矢筈仙の山頂の岩石の上に立ち、「この矢のとどく限り兇徒、悪魔は退散して我が守護の地となれ」と念じ矢を放った場所が塔王権現で、現在は石祠と石塔が残る。また、放った矢は現在の倉吉市生竹まで飛び、その地の荒神が受け止めたといわれ、「矢留の荒神さん」と呼ばれる神社が建立されている。
(2)鳥取県北栄町宮崎神社(主祭神:伊邪那岐命・伊邪那美命)の由緒には「是に於て孝霊天皇の御宇皇子大日本根子彦国牽尊、土人の為今の本社地に御祖伊邪那岐命・伊邪那美命を奉齋し給ひき。是れ本社の濫觴なりと。斯くて数十年を経て景行天皇の御宇、皇子日本武尊征西の御時、北海の霪風御艦を悩まし奉りしが不思議の神助にて御艦引寄するが如く本社地乾の隅に着御し給へり。尊大に歓喜し給ひて宣はく『斯く清らかなる地の海面に浮出つるはこは浮洲にや』と。是より社地を称して浮洲の社と云ふ。洲の中央に大麻を挿立て御自ら御飯を爨き給ひて二尊を祭り神助を謝し給へり。御飯を炊き給ひし地は本社の北にあり今飯ノ山といふ。斯くて其後風波穏やかになりければ如何なる御訳にや。小艇は此地に置き給ひて、御艦に召され進発し給ひしと云ふ。」とある。
 
3 私見
(1)について
 これは倭国大乱のときの出来事であった。倭迹迹日百襲姫は18歳位の時に讃岐国から皇軍に加わって倭国大乱を平定していった。倭建命(若日子建吉備津彦)は12歳位になっていたはずである。倭建命(若日子建吉備津彦)は大吉備津彦(崇神天皇)や倭迹迹日百襲姫たち皇軍と一緒に瀬戸内側から吉備国を平定した。これは南の瀬戸内海側から北に出雲族(略奪集団)を平定していった神武天皇と同じ攻め方である。
 蒜山と関金町との境界の矢筈山で北(鳥取県中部=倭国)に向けて矢を放っている。倭建命(若日子建吉備津彦)は鳥取県中西部にいた出雲族の鬼・土蜘蛛(兇徒・悪魔)を平定し倭国大乱は終結した。最大の激戦地は鳥取県南部町の手間山であった。出雲族の八十神に対して天孫族には大国主の子孫も加わっていた。その後、若日子建吉備津彦(倭建命)と倭迹迹日百襲姫(倭姫命)は征西(熊襲征伐)を命じられる。
(2)について
 伊邪那岐・伊邪那美は鳥取県北栄町大島を葦原中津国を造るときの拠点としていた。伊邪那岐は辰韓から来た三貴神を鳥取県北栄町大島で出迎え、治めるべき国を三貴神に命じた。
 「日本武尊が征西の御時、北海の霪風が御艦を悩ましたが、不思議の神助にて御艦引寄するが如く着かれた」とある。倭建命と倭姫命は、九州を平定し新羅から出雲の日御碕神社・片江を経由して帰還した。天照大神と須佐之男も辰韓を出発し出雲の日御碕神社に到着している。倭建命は神助による征西の成功を倭国の祖神の伊邪那岐・伊邪那美を祭って謝し給はれた。
 全国の神社を掌握した藤原氏は「斯くて数十年を経て景行天皇の御宇」を改ざんして挿入している。正しくは、「斯くて数年を経て孝霊天皇の御宇」であった。倭建命は第7代孝霊天皇の皇子若日子建吉備津日子であった。
 
4 第9代開化天皇(倭建命)の皇居は鳥取県北栄町瀬戸の観音寺にあった。北栄町瀬戸は倭建命が征西から帰還した北栄町大島の隣にある。葛城は蜘ヶ家山より西であり、北栄町瀬戸も葛城地域であった。
 倭建命の3つの古墳のうち、磯城の白鳥陵は鳥取県湯梨浜町宮内の狐塚古墳(古墳時代最前期)であった。磯城とは東郷池周辺であった。倭建命はコブ白鳥のいる東郷池湖畔の湯梨浜町宮内で生まれたので白鳥陵も宮内に造られた。
 湯梨浜町宮内の狐塚古墳(全長100mほどの前方後円墳)は前方部が水辺近くにあり、鳥羽市安楽島町の松の鼻古墳(全長200mほどの前方後円墳)も前方部が水辺近くにある。それぞれ倭建命と倭姫命の古墳であった。
 
5 小碓命・大碓命の物語は朝鮮半島の百済国であった物語である。それを日本国史の中に取り込んだ。小碓命のモデルは若日子建吉備津彦(倭健命=第9代開化天皇)であり、大碓命のモデルは大吉備津彦(第10代崇神天皇)である。9代10代の母親は蝿(湯梨浜町長和田は波延の地)姉妹(出雲族)であり、9代10代は同い年くらいの異母兄弟であった。
 倭建命(若日子建吉備津彦157年~188年)と倭姫命(倭迹迹日百襲姫151年~248年)は全国を平定した。若日子建吉備津彦(倭建命)は9代開化天皇になるが若くして亡くなった。兄の大吉備津彦が次の10代崇神天皇に即位した。
 倭建命と倭姫命の全国巡行(稚日女命が祀られているところはほぼすべて)にも関わらず、青銅器文化(銅鐸・銅剣銅矛・生贄の風習)の一族(出雲族)を完全に平定することはできなかったため、崇神天皇(188年即位)は4道将軍を派遣して全国を平定した。

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稚日女命は、勘注系図9世孫の妹の日女命(倭迹迹日百襲姫命)と同神であり、卑弥呼である [邪馬台国・卑弥呼 その1]

 稚日女命は、勘注系図9世孫の妹の日女命(倭迹迹日百襲姫命)と同神であり、卑弥呼である。


1 卑弥呼は孝霊天皇の皇女の「日女命またの名は倭迹迹日百襲媛命」と言う説が有力であり、調べてみることにした。


 孝霊天皇は鳥取県神社誌の祭神になっており、祀られている神社の分布図を作ってみた。すると、昭和9年の時点で鳥取県は2市7郡であったが、出雲国に隣接する2郡(西伯郡と日野郡)に集中していた。卑弥呼が孝霊天皇の皇女の「日女命またの名は倭迹迹日百襲媛命」ならば、出雲国に隣接する2郡に父の孝霊天皇と一緒に分布しているはずである、という推測のもとに鳥取県神社誌を調べてみた。ところが、祭神として日女命も倭迹迹日百襲媛命も祀っている神社はなかった。その代わり、稚日女命と倭姫命を祀っている神社が出雲国に隣接する2郡(西伯郡と日野郡)に見つかった。しかも、孝霊天皇の祀られている神社と関連があるような位置関係である。もしかしたら、稚日女命は日女命と同神ではないか。倭姫命も倭迹迹日百襲媛命と同神ではないかとの推測のもと調べてみた。


 古事記・うけいの勝負において「織女の一人は、機具の梭の端(はし)のところで陰処を突き、それがもとで死んでしまった」とあり、日本書紀の一書に「稚日女命は梭で身体を傷つけられて死なれた」とある。また、日本書紀・崇神天皇において「倭迹迹日百襲媛命は箸(はし)で陰部を撞いて死んでしまわれた」とある。日本書紀を信じるかぎり、稚日女命はただの織女で倭国女王の卑弥呼ではないと思われる。


 しかし、まてよ倭迹迹日百襲媛命も陰部を撞いて死んだことにしている。何か関連がありそうだ。しかも稚日女命は日女命と似ている。大「王」も大「臣」に変えられている。もともと倭国では祭神「日女命」とあったものを日本が倭国を乗っ取ってから「稚」を付けて「稚日女命」にしたのではないのか。


2 私見


(1) 鳥取県旧溝口町の鬼の館の説明文には「孝霊天皇は天津神のお告げに従って、笹の葉を笹苞山に積み上げて南風で鬼住山に吹かせた」とある。


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 饒速日に十種の神宝を与えたのは天神の御祖神とする。じつは饒速日と須佐之男は鳥取県中部の哮峰で会っており天神の御祖神とは須佐之男のことであった。しかし、須佐之男は出雲の神とし饒速日は大阪の生駒山の上を岩船で飛び回っていたことにしたので、天神の御祖神が須佐之男ということは隠さなければならなかった。


 「笹の葉を笹苞山に積み上げて南風で鬼住山に吹かせよ」とお告げをしたのを稚日女と書けば、孝霊天皇の背後にいてお告げをした稚日女は神意を伺い・まじない・占い・知能の優れた孝霊天皇皇女の倭迹迹日百襲姫ではないかと疑われてしまう。そう思わせないために天津神という代名詞を使った。


 倭迹迹日百襲姫の弟の大吉備津彦と若日子建吉備津日子は吉備国を平定した(古事記)。一族は吉備国と接する伯耆国にも来ていた。伯耆国には孝霊天皇一族を祀る楽々福神社が多くある。倭迹迹日百襲姫は伯耆国で父の孝霊天皇と一緒に行動していた。


 「稚日女命」でわかったことは、もともと祭神を日女命として祀られていた全国の多くの神社に「稚」をつけさせた今の神社庁は、最初に神社を創った神社組織とは別の神社組織であるということである。倭国を日本に変えたのも雅でないからではなくて別の国だからである。万世一系の皇統とはいうだけで実は連続していなかった。


(2) 倭国歴史書原本を読んだ藤原不比等や百済史官にとってみれば、非常に面白くない。弥生時代後期に倭迹迹日百襲姫や若日子建吉備津日子の倭朝廷によって全国と半島はすでに統一されていた記録を残すわけにはいかなかった。


 日本書紀を作るにあたって、卑弥呼(日女命)を死んだことにするために、古事記の高天原で死んだ天衣織女を替え玉にすることを思いついた。それが稚日女命である。倭国では日女命はすでに全国の神社の祭神となっていた。日本は日女命を祀っている全国の神社に指示を出し、稚日女命に変えさせた。


 全国に祀られている稚日女命ももとは日女命(卑弥呼)であった。全国の神社は藤原氏が掌握していたから、日女命に「稚」を付けさせることぐらい、簡単なことであった。全国をネットワークでつなぐため、八幡神社だけでなく賀茂神社や日吉神社や天満宮や春日大社も藤原氏が造ったものである。もと社以外の浅間神社や諏訪神社も藤原氏が作り、ネットワークに組み込んだ。


(3) 鳥取県神社誌に見る孝霊天皇と稚日女命を祀る神社


 鳥取県神社誌が刊行された昭和9年の時点で鳥取県は2市7郡であった。そのうちの孝霊天皇(10社)と稚日女命(8社)を祀る神社は出雲国に接する2郡(西伯郡と日野郡)に集中している。孝霊天皇と稚日女命は協力して出雲国に接する西伯郡と日野郡で鬼(出雲神族)と戦っていた。


 日光村での陣形(女性を敵から遠い背後に置く)は倭国大乱を同じ時期に戦った孝霊天皇と稚日女命(倭朝廷)の陣形と思われる。


 鳥取県神社誌より孝霊天皇と一緒に鬼(出雲神族)と戦っていた稚日女命は稚を付けられた日女命(神意を伺い・まじない・占い・知能の優れた孝霊天皇皇女の倭迹迹日百襲姫)であった。卑弥呼=稚日女命=日女命=倭迹迹日百襲姫命となる。


3 次に、稚日女命は「倭姫命世記」の倭姫命と同神となるか。


(1) 倭姫命は草薙剣を持っていたので女王であった。女王だから卑弥呼と思われる。倭姫命=卑弥呼=稚日女命である。


(2) 倭姫命も倭迹迹日百襲姫命も水稲の普及に尽力しており、同一人物と思われる。


(3) 勘注系図では11世孫の妹である日女命の亦の名として稚日女命と倭姫命を記載している。


(4) 倭姫命は海女の祖お弁にアワビを奉納されている。稚日女命もアワビを奉納されている。海女にアワビを奉納される姫が何人もいたとは思われない。


(5) 伊射波登美が仕えた倭姫命のいた伊雜宮(志摩市磯部町)は伊射波登美の本宮(安楽島町)から遠いが伊射波神社(安楽島町)は伊射波登美の本宮(安楽島町)と近い。伊射波登美は稚日女命がいた伊射波神社に行き来していたと思われる。倭姫命に仕えた伊射波登美を稚日女命を祀る伊射波神社の祭神にしている。伊射波登美は稚日女命にも仕えていた。伊射波登美は複数の姫に仕えていたとは思われない。


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 以上により、高い確率で稚日女命=倭姫命と思われる。卑弥呼=稚日女命=日女命=倭迹迹日百襲姫命(笠井新也・肥後和男説)=倭姫命(内藤湖南説)となる。


 倭迹迹日百襲姫命(笠井新也・肥後和男説)は孝霊天皇の皇女であるが、倭姫命は日本書紀・倭姫命世記では11代垂仁天皇の皇女になっている。倭姫命(内藤湖南説)は本当に11代垂仁天皇の皇女であろうか。


4 「倭姫命世記」について


 倭姫命は巻向で祭祀をすることになったので安全な居所を探すための巡行をした。


 豊鋤入姫命の巡行については、別稿「倭姫命世記において豊鋤入姫の巡行した本当の比定地」を参照されたし。それを見ると倭朝廷(鳥取県中部)に深く関係する一族がいた地域であることがわかる。魏志倭人伝に「卑弥呼が亡くなり男王が立ったが国中が不服で互いに殺しあった。台与を立てて王と為し、国中が遂に安定した」とある。台与は豊鋤入姫命以外見つからない。なぜ豊鋤入姫命は倭朝廷に深く関係する一族がいた地域を巡行しなければならなかったのか。それは倭朝廷に深く関係する一族がいた地域で互いに殺しあっていたからである。なぜ互いに殺しあっていたかは、倭国女王の倭姫命が亡くなって悲観したのと男王に対する失望からである。倭姫命の巡行と豊鋤入姫命の巡行は目的も時代も違うものであった。


 藤原氏は全国を統一した倭姫命の事蹟を消したかったのだろうが、伊勢神宮を創建した由来を創らなければならなかった。伊勢神宮を創建した由来の「倭姫命世記」を作るために、本来孝霊天皇の皇女であった倭姫命の奈良の宇陀から志摩の伊雜宮まで巡行した事蹟を利用することを考えた。


 しかし、倭姫命の巡行は宇陀から始まるためなぜ宇陀から始まるのか説明できない。藤原氏は三輪神社(本当は鳥取県北栄町の三輪神社)で終わる豊鋤入姫命の巡行を倭姫命の巡行の前に持ってくることを考えた。欠史8代とすることはできなかったので豊鋤入姫命は10代崇神天皇の皇女、倭姫命は11代垂仁天皇の皇女とした。巡行目的も一つにした。国史(日本書紀・倭姫命世記・勘注系図)はすべてこれで統一した。


 本来、二人の巡行は目的も時代も違うものであった。豊鋤入姫命の巡行は倭姫命が亡くなってからおこなわれた。倭姫命は孝霊天皇の皇女であり、豊鋤入姫命は孝元天皇皇子の彦太忍信命の娘(葛木志志見興利木田忍海部刀自)であった(住吉大社神代記)。彦太忍信命の娘(葛木志志見興利木田忍海部刀自)が神功皇后のモデルである。彦太忍信命の孫の武内宿禰大王と行動をともにした。11代垂仁天皇と彦太忍信命は従兄弟の関係になる。11代垂仁天皇には後継ぎがおらず、12代は彦太忍信命の子の屋主忍男武雄心命であった。12代は11代の反省から子孫を多く作ることに励んだ。古事記では12代の子は80人いたとする。


5 海部氏勘注系図について


 籠神社の主祭神は717年に藤原氏によって変えさせられている。藤原氏によって殺されるかもしれないという恐怖のもとに、717年に勘注系図も書き換えられている。同一神であるわけがない神名を亦名、一云、として多く書いたのは説明する時に藤原氏の目を眩ますためであった。


 9世孫乙彦命(彦國玖琉命)の妹の日女命。亦名、倭迹迹日百襲媛命これだけが参考になる。


 勘注系図はこれ以上深入りすべきではない。これ以上深入りすると、藤原氏の目を眩ますために書かれたあり得ない同一神に惑わされ、泥沼に入り込む。


6 参考


※ 海部氏勘注系図に見る卑弥呼と台与の候補


(1)6世孫 大倭姫、


○宇那比姫命、亦名、天造日女命、一云、竹野姫命、亦云、大海靈姫命、亦云、日女命云々


(2)9世孫 乙彦命(彦國玖琉命) 


妹 日女命、亦名、中津姫命、亦名、倭迹迹日百襲媛命、亦名、神大市姫命、一云、千千速日女命、一云、日神


(3)10世孫 


妹 大倭姫、一云、天豊姫命、一云、豊鋤入姫命、一云、豊受姫荒魂命、一云、大御気津姫命、一云、大宜都日女命、一云、天照姫命、亦云、五百野姫命、一云、葛木高額日女命、一云、息長水依日女命


(4)11世孫 小登與命(御間木入彦命)


妹 日女命 亦名、稚日女命、亦名、日神荒魂命、亦名、豊秋津姫命、亦名、御気津姫命、亦云、宮簀姫命、一云、玉依姫命、一云、小豊姫命、一云、豊受姫命、一云、活玉依姫命、一云、倭国香姫命、一云、倭姫命、一云、向津姫命、一云、大海姫命、一云、倉稲魂命 


※ 鳥取県神社誌


 大日本根子彦太瓊天皇(孝霊天皇)


(1)高杉神社 西伯郡大山町大字宮内字早稲ノ上


    現住所 西伯郡大山町宮内


(2)楽々福神社 西伯郡東長田村大字東上字原ノ上


     現住所 西伯郡南部町東上


(3)楽々福神社 西伯郡尚徳村大字上安曇字宮ノ谷


     現住所 米子市上安曇


(4)楽々福神社 日野郡溝口町大字宮原字宮ノ上


     現住所 西伯郡伯耆町宮原


(5)楽々福神社 日野郡日野上村大字宮内字東宮ノ廻り


     現住所 日野郡日南町宮内1101


(6)楽々福神社 日野郡日野上村大字宮内字西馬場ノ筋


     現住所 日野郡日南町宮内1101


(7)天萬神社 西伯郡手間村大字天萬字下宮尾


    現住所 西伯郡南部町天萬


(8)菅福神社 日野郡黒坂村大字上菅字宮本


    現住所 日野郡日野町上菅


(9)日谷神社 日野郡山上村大字笠木字足羽


    現住所 日野郡日南町笠木


(10)山田神社 日野郡日光村大字杼原(栃原の誤植と思われる)字村屋敷


    現住所 日野郡江府町栃原


 稚日女命


(1)平岡神社 西伯郡淀江町大字平岡字向山


    現住所 米子市淀江町平岡


(2)富岡神社 西伯郡高麗村大字妻木字山根


    現住所 西伯郡大山町妻木


(3)前田神社 西伯郡庄内村大字古御堂字於局


    現住所 西伯郡大山町古御堂


(4)古林神社 西伯郡名和村大字加茂字以屋谷


    現住所 西伯郡大山町加茂


(5)前田神社 西伯郡法勝寺村大字西字宮ノ前


    現住所 西伯郡南部町西


(6)岩崎神社 日野郡多里村大字湯河字宮ノ前


    現住所 日野郡日南町多里


(7)吉原神社 日野郡日光村大字吉原字牛王ガ市


    現住所 日野郡江府町吉原


(8)大原神社 日野郡八郷村大字大原字貝市


    現住所 西伯郡伯耆町大原



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葛城は鳥取県中部(倭国)にあった [神武天皇と欠史八代]

 葛城は鳥取県中部(倭国)にあった。


1 「高尾張邑の土蜘蛛を皇軍は葛の網を作って、覆い捕らえて殺した。その邑を改めて葛城邑とした。」とある(日本書紀)。


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 鳥取県北栄町曲の荒神神社


 鬼・土蜘蛛を荒ぶる神(荒神)と言っていたので、ここに土蜘蛛の家があった。土蜘蛛の家があったから蜘ヶ家山という。


 葛城邑は荒神(土蜘蛛=出雲神族)神社のある蜘ヶ家山の麓の曲集落であり、麓に葛城邑(曲集落)のあった山を葛城山(蜘ヶ家山)と呼ぶようになった。


2 第2代綏靖天皇の「葛城高岡宮」


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 鳥取県北栄町曲の岡神社


 神武天皇の長男の多芸志耳は関金町耳で生まれ、湯梨浜町の長瀬高浜(多芸志)にいたが、神沼河耳は長男の多芸志耳を殺害して第2代天皇となった。第2代綏靖天皇の「葛城高岡宮」は北栄町の蜘ヶ家山(葛城山)の岡神社であった。


3 第5代孝昭天皇の皇居は葛城掖上宮(灘手神社)だが、葛城山の東の掖上は磐余邑であり4人の大王の皇居があったから掖上とは書かない。掖上宮の掖上は葛城山の西側のことである。ここに桜の木があり、花びらが葛城山(蜘ヶ家山)を越えて北栄町島の金繰溜池で船を浮かべていたところに飛んで行った。


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 神武天皇は掖上のほほまの丘に立ちアキツがトナメをしているようだと言った。ここから穴沢小学校方面を見ると灘手の2本の尾根が接近してアキツがトナメをしているように見える。


4 蘇我馬子大王の磐余池辺双槻宮は鳥取県北栄町北条島にあった(別稿「蘇我馬子大王(在位572年~626年)の磐余池辺雙槻宮は鳥取県北栄町島にあった」を参照されたし)。蘇我馬子大王は「葛城県は元、私の本貫であります(代々葛城氏が居り、蘇我は葛城の同族になるという考え)。その県にちなんで蘇我・葛城氏の名もありますので、どうか永久にその県を賜って、私が封ぜられた県といたしとうございます」といった。なぜそう言ったのかというと、蘇我氏の祖の蘇賀石河宿禰 は武内宿禰大王の3男であり、武内宿禰大王の皇居のあった北栄町原の元野神社は葛城山(蜘ヶ家山)の麓にあり、蘇賀石河宿禰 はここで育ったからである(別稿「第13代武内宿禰大臣(王)の皇居は鳥取県北栄町原集落にあった」を参照されたし)。


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5 葛城長江襲津彦(応神天皇)は鳥取県北栄町原(葛城県)の生まれであり、武内宿禰大王は鳥取県北栄町原(葛城県)を本拠地(皇居)としていた。葛城長江襲津彦は13代武内宿禰大王の6男として蜘ヶ家山(葛城山)のふもとの北栄町原集落で育った。後に15代応神天皇となり倉吉市穴窪(軽島之明宮)と湯梨浜町小鹿谷(難波大隅宮=行宮)とに皇居を置いた。


 葛城長江襲津彦の「江」とは海岸部が陸地に入り組んだ地形で入江である。当時、倉吉市穴窪の周辺はそのようになっていた。奈良は内陸部で「長江」の文字はふさわしくないので、同じ読みの「長柄」としたが、今では「ながら」と発音する。


6 葛城皇子と言われていた天智は百済からの人質の豊璋であり、6歳で鳥取県北栄町由良の蘇我善徳大王のもとに来た(別稿「聖徳太子(蘇我入鹿天皇)の皇居は鳥取県北栄町由良宿にあった」を参照されたし)。北栄町由良も葛城であった。蜘ヶ家山(葛城山)より西を葛城県としていた。


 


 


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第2代~第9代(欠史8代)の天皇は鳥取県中部(倭の都)に実在していた [神武天皇と欠史八代]

 第2代~第9代(欠史8代)の天皇は鳥取県中部(倭の都)に実在していた。

 


1 欠史8代 非実在説


(1)  旧辞的部分を欠く。


(2)  諡号がおかしい。


(3)  すべて父子相続である。


(4)  2代~9代の寿命は異常に長い。


(5)  物事の順序からして、奈良盆地の一隅にいる豪族が盆地の外へ進出・発展していくためには、その前提として盆地を制圧・平定し、支配下に置いていなければならないはずです。ところが古事記・日本書紀ともに、奈良盆地の制圧・平定に関する経過を何一つ記していません。10代崇神に至っていきなり、盆地外への進出・発展の動きが現れます。神武の子孫たちが次第に実力を蓄えて奈良盆地の一隅から徐々に勢力を拡大し、やがて盆地全体を制圧・平定するに至るまでの経過を、説話として残していない。奈良盆地の外へ進出・発展していくためには、盆地の制圧・平定が前提であるにもかかわらず、その前提を語る伝承が何もないなど考えられない。


2 欠史8代 実在説


(1)  帝紀的部分のみがあって、旧辞的部分を全く欠くのは2~9代の天皇だけではない。


 事績がないということでは、24代仁賢天皇から33代推古天皇までの10代に亘っており、これも実在しなかったと言われても仕方がなくなってしまう。


(2)  2代~9代の天皇の異常な寿命の長さは不自然だが、これは雄略天皇にも見られ、これだけで非実在の証拠とはならない。讖緯説に従い日本の歴史を遡らせるならば、自然な長さの寿命を持つ天皇の存在を何人も創作して代数を増やせばよい。にもかかわらずそれをしなかったのは、帝紀記載の天皇の代数を尊重したためであろう。古代天皇の不自然な寿命の長さが、かえって系譜には手が加えられていないことを証明していると考えることもできる。


(3)  7代~9代の天皇の名は明らかに和風諡号と考えられるが、諡号に使われる称号のヤマトネコ(日本根子・倭根子)を除けば7代はヒコフトニ(彦太瓊・日子賦斗邇)8代はヒコクニクル(彦国牽・日子国玖琉)9代はヒコオオビビ(彦大日日・日子大毘毘)となり、実名らしくなる。こう考えれば実名を元に諡号が作られた可能性もあり、後世創作の架空の天皇であると一概には言えない。むしろ12代・13代・14代の天皇の名のほうが実名らしくない名前で、和風諡号と言うより抽象名詞(普通名詞)に近く、欠史8代よりもこちらの方が実在の可能性が低い。2代、3代、5代の天皇の名は明らかに実名として生前に使われた可能性が高い。和風諡号に使われる称号の部分がないためで、実在の可能性は高い。


(4)  すべて父子相続である点は確かに不自然だが、それだけでは非実在の証拠とはならない。実際は兄弟相続だったものも便宜的に父子相続と記されたとも考えられる。事績が欠けているのも同様に説明がつく。


(5)  稲荷山古墳出土の金錯銘鉄剣に8代孝元天皇の第1皇子大彦命の実在を示す系譜が刻まれていたことから、孝元天皇及びその直系親族や近親者も実在の人物とみなす見方がある。孝元の名前を刻まなかったのは、大彦命が孝元の皇子であることが広く知られていたためと考えられる。鉄剣に刻むスペースの問題を考えれば、孝元の名を省いたとしても不自然ではない。


(6) 各天皇の氏族、豪族、臣の掲載は広範囲に列挙されており、特に丹波国と王族との関係は深く婚姻関係の深まり丹波の豪族の巨大さと影響力を知らされる。


3 私見  鳥取県中部(倭国)に実在説


(1)  倭国歴史書原本には2代から9代までの旧辞の記述もあったが藤原氏が消した。


 殷王朝末裔の準王一族(出雲族)と藤原氏は同族である。藤原氏は百済人であり朝鮮半島に残っていた殷王朝末裔の準王一族であった。弥生前期から列島に渡来してきていた準王一族は倭国王家と10代崇神天皇まで争っていた。10代崇神天皇のときに全国の準王一族は平定され、統一された。藤原氏は倭国を乗っ取ってから、同族が平定され統一された歴史を残すわけにはいかなかった。神武東征神話(奈良を平定したのは神武ではなく4代であった)との整合性もある。それで、2代から9代までの旧辞を消した。天照大神が中国人(除福)だったという史実も消さなければならなかったので、2代~9代の寿命を異常に長くした。長くするために8代・9代・10代の兄弟承継を父子承継にした。7代・8代・9代・10代は倭国大乱で丹波国(但馬)に10年間疎開していた。丹波の豪族との関係が深いのはこのためである。


 倭国は弥生後期(186年頃)までに列島の西は熊本県、東は岩手県まで青銅器文化の一族(鬼・土蜘蛛・蝦夷=殷王朝末裔の準王一族)を平定し全国を統一していた。倭姫命(倭迹迹日百襲姫)と倭建命(若日子武吉備津彦)の征西と東征によって各地に神社を創らせ(倭姫命世紀のように)祭祀方法を変えさせて全国を統一した。全国を統一していった過程を神武天皇から崇神天皇(大吉備津彦)までの旧辞に誇らしく書いてあったはずである。


 亡命百済王朝は669年に日本と名乗り、734年に倭国の大君を殺して列島を乗っ取った。734年に列島を乗っ取った準王一族と同族の藤原氏はこれをそのまま残すわけにはいかなかった。藤原氏より500年以上前から全国を統一していた日本とは別の倭王朝があった記述を残すわけにはいかなかった。これが最大の理由である。


(2) 9代天皇の旧辞がないというが、9代開化天皇は倭建命(若日子武吉備津彦)であったから、古事記にも日本書紀にも景行天皇の皇子として倭国大乱の記述として詳しく書かれている。また、7代孝霊天皇の旧辞も景行天皇と土蜘蛛との戦いとして挿入されている。10代崇神天皇は4将軍を派遣して全国の青銅器文化の一族は平定された。その後、青銅器の原料を採掘する土蜘蛛は存在しない。12代景行天皇の時代、土蜘蛛はすでに平定されていた。「椎」の字が出てくるのは孝霊天皇の旧辞である。


(3)  古事記を見るかぎり諡号に不自然さは感じない。むしろ12代・13代・14代の天皇の名のほうが実名らしくない名前で、和風諡号と言うより抽象名詞(普通名詞)に近く、欠史8代よりもこちらの方が実在の可能性が低いものと思われる。12代・13代・14代は百済国の王であった。史実は、12代は屋主忍男武雄心であり、13代は武内宿禰大臣(王)であり、14代は13代の4男の平群木菟宿禰(仁徳天皇)であった。


(4)  すべて父子相続になっているが、8代9代10代は兄弟相続であった。神武元年を600年古くするための1つの方法である。また、2代~9代の天皇の寿命を異常に長くすることも神武元年を600年古くするための一つの方法であった。それは天照大神が徐福(紀元前210年来倭)であったことを消すためであった。


(5) 奈良盆地に創ってある欠史8代の皇居の比定地を見て回ったが、石碑が立ててあるだけある。地名を付けて、石碑を建てるだけなら、全国どこでもできる。非実在説は欠史8代は奈良にいなかったとする。欠史8代は奈良にはいなかったが、鳥取県中部に実在した。鳥取県中部では、欠史8代の皇居の比定地を集落単位で想定できる。鳥取県中部の葛城、磯城、軽の地域区分は間違っていない。


 「葛城」は蜘ヶ家山(鳥取県北栄町)より西の地域であった。2代綏靖天皇の葛城高岡宮は蜘ヶ家山(葛城山)の岡神社であった。5代は葛城の掖上であるので蜘ヶ家山(葛城山)の西の脇の上(南側)の灘手神社(倉吉市穴沢)である。掖上の岡から灘手小学校方面を見れば灘手の2本の尾根が接近して見えるので蜻蛉がトナメしているように見える。6代の室秋津島は北栄町島(合併後は大島)である。9代の春日之伊邪河宮は北栄町瀬戸の観音寺である。


 「磯城」は東郷池周辺(湯梨浜町)である。3代の師木(磯城)津日子玉手見命の宮は片塩浮穴宮であり船の出入りできる汽水域(片塩)の湾(津)があることが前提となる。片塩浮穴宮は湯梨浜町橋津の観音堂であった。稗田阿礼は場所が特定できるように具体的に表現している。奈良の片塩の地名は藤原氏がのちにつけたものである。決してそこに昔から地名があったわけではない。7代の庵戸宮は湯梨浜町宮内の倭文神社であった。


 「軽」は鳥取県中部の上北条地域(神代みわしろ地域)である。軽の坂上の厩(応神天皇の段)の位置に現在は馬場町があった。軽之境岡宮(倉吉市小田山)には4代の宮があり、軽之堺原(倉吉市小田)には8代の宮があった。軽島之明宮(倉吉市穴窪)には15代天皇(応神天皇)の宮があった。


 神武天皇から9代までは鳥取県中部に皇居があったのであり、奈良に宮はなかった。したがって神武天皇から9代までの宮が奈良にあったことを前提とする鳥越憲三郎氏の葛城王朝説は作り話であり、奈良の葛城にいた葛城族とは準王一族(出雲族)であった。奈良の葛城という地名ものちに藤原氏が付けたものである。


 初代天皇は初めて西日本を平定したのであり、10代天皇は初めて東日本も平定した。共にハツクニシラススメラミコトと呼ばれてもおかしくない。したがって、葛城王朝説や三輪王朝説なるものは欠史8代をなんとか奈良にいたことにしようとした鳥越憲三郎氏の作り話であった。


 

 


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