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千三百年の間、藤原氏に消されてきた伯耆国(鳥取県中西部)の真実の歴史が、今よみがえる。

藤ノ木古墳は鳥取県中部の一族が築造した [百済王12代から45代までの倭国王]

藤ノ木古墳の4つの特徴
 1横穴式石室の円墳 2石棺が朱塗り 3同棺複数埋葬 4江戸時代まで陵堂があり墓守がいた
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 横穴式石室の円墳
(1) 鳥取県北栄町の瀬戸古墳群2号墳は巨石を5枚使用した横穴式石室の円墳である。6世紀中頃から7世紀初め。

出典文献名:大栄町教育委員会 1998 『瀬戸岩子山遺跡発掘調査報告書』大栄町埋蔵文化財調査報告書34を引用

(2) 鳥取県北栄町の上種(かみだね)西15号墳は6世紀後半の竪穴系横口式石室の円墳(上種(かみだね)西古墳群発掘調査報告書より)

 「竪穴系横口式石室」は5世紀後葉~6世紀前葉において朝鮮半島の栄山江(よんさんがん)流域に展開している。
 「竪穴系横口式石室」が、鳥取県中部のごく限られた範囲に所在している【上種(かみだね)西15号墳、上種(かみだね)東3号墳(6世紀中葉~6世紀後半)、大法3号墳、三保6号墳(6世紀中葉~後半)】ことから重要な問題提起となっている。

(3)まとめ

 植野浩三氏は「東伯耆が山陰地方の中でも、いち早く畿内型前方後円墳を成立させた地域であり、畿内との結びつきが非常に強かった地域」とし、「当地方にみられる階段状の施設をもつ横穴式石室は、北九州から直接導入されたと考えるよりは、むしろ一段階をおいて、近畿地方より東伯耆にもたらされたと考えるほうが妥当といえる」とされる。

出典文献名:大栄町教育委員会編、大栄町文化財調査報告書, 13集「上種西古墳群発掘調査報告書」 1984.3を引用

2 石棺が朱塗り。

スクリーンショット 2020-10-03 070217.jpg

(1) 鳥取県北栄町の妻波古墳群発掘調査報告書のまとめにおいて「妻波古墳群では、箱式石棺が検出もしくは発見されている古墳では、朱はすべての石棺から認められている。したがって、妻波古墳群の周辺では朱塗りは、一般的な葬法であったと推定してもさしつかえないと思われる」とある。

出典文献名:大栄町教育委員会 1980 『妻波古墳群発掘調査報告』大栄町文化財調査報告書8を引用

(2) 鳥取県北栄町の瀬戸35号墳の石棺も朱塗りされていた。

出典文献名:大栄町教育委員会 1998 『瀬戸岩子山遺跡発掘調査報告書』大栄町埋蔵文化財調査報告書34を引用

(3) 鳥取県湯梨浜町の長瀬高浜遺跡

 SX46・人骨は出土しなかったが棺内は赤色顔料が全体に塗られていた。赤色顔料は遣存状態が良く、塗る時に用いられていたハケの跡も明瞭に見ることができた。SX52・東西の両小口、北壁、南壁(東部のもの)の内面には赤色顔料ベンガラが塗彩されていた。SX79・石棺内に用いられている赤色顔料はベンガラであった。

出典文献名:鳥取県教育文化財団 1983 『長瀬高浜遺跡発掘調査報告書(本文編)5』鳥取県教育文化財団調査報告書12を引用

3 同棺複数埋葬

藤ノ木古墳について
※ 通説

 副葬品が金銅製の馬具や装身具類、刀剣類などであるからこの当時の支配階級の一人であったと考えられているが、円墳であることから大王クラスではないが、貴金属を用いたきらびやかな副葬品が多いことから強大な権力を持った人物であったと推測されている。

 6世紀第4四半期の円墳であると推定されているので「日本書紀」が記す5876月の暗殺時期と一致する聖徳太子の叔父で蘇我馬子(そがのうまこ)に暗殺された穴穂部皇子(あなほべのみこ)と、宣化(せんか)天皇(てんのう)の皇子ともされる宅部皇子(やかべのみこ)とする説が有力である。

※ 私見

(1) 天皇(てんのう)の古墳は円墳ではないとする今の考古学界は国民に嘘を教えている。時代については、聖徳太子が生前に自分のお墓をつくったという記録が残っている。596年法興寺完成。16歳の蘇我善徳(そがのぜんとく)が寺司になる。このころ、蘇我馬子(そがのうまこ)大王と蘇我善徳(そがのぜんとく)大王は生前墓として藤ノ木古墳を造っていた。

(2)被葬者について「日本書紀」が記す587年6月の暗殺があったかどうかも疑問である。そもそも、蘇我馬子(そがのうまこ)と物部氏との宗教戦争(丁未(ていび)(らん))は作り話だからである。蘇我馬子(そがのうまこ)は倭国大王だから乱ではなく平定である。丁未(ていび)(らん)の舞台は百済であった。蘇我馬子(そがのうまこ)は「百済は倭国を侵略しようとしている」という日羅の進言(583年)に基づいて百済を警戒していた。百済に不穏な動きがあったので兵を出して百済を平定した(587年)。そして百済兵273人を捕らえて奴婢(生口)にした。藤原氏(藤原兼輔(かねすけ)など)は倭国を乗っ取ってから百済であった争いを丁未(ていび)(らん)として大阪府八尾市を舞台にして日本(百済)書紀に記載し首長の穴穂部皇子(あなほべのみこ)(百済人)は殺されたとした。物部氏は647年まで中大兄皇子(豊璋)の策略で武器を奈良に移すまで、倉吉市大原の石上神宮で多くの武器を管理していた。587年に河内に別荘があるわけがない。物部の子孫は滅ぼされておらず今でも倉吉市大原(始祖からの物部の本拠地)に連綿として生きている。蘇我馬子(そがのうまこ)は百済王の崇峻天皇(すしゅんてんのう)を朝鮮半島で殺した(592年)。穴穂部皇子(あなほべのみこ)とされる百済人も朝鮮半島の百済で蘇我馬子(そがのうまこ)に殺された。藤原氏(百済人)は名前も穴穂部皇子(あなほべのみこ)に変えて舞台を列島(大阪府八尾市)に持ってきた。聖徳太子(蘇我善徳(そがのぜんとく))はこの時はまだ7歳であった。戦に参加できるような年齢ではない。四天王寺は聖徳太子(蘇我入鹿(そがのいるか))の(たた)りを鎮めるために聖武天皇(しょうむてんのう)の時代に建立された寺院である。奴婢(生口)にされたのは百済兵たちであり、それを物部一族に書き換えた。穴穂部間人(あなほべのはしひと)皇女も我馬子(そがのうまこ)の妻の物部鎌姫大刀自(もののべかまひめおおとじ)がモデルであり泊瀬部皇子(はせべおうじ)蘇我馬子(そがのうまこ)自身の名前であった。穴穂部皇子(あなほべのみこ)とされる百済人は百済で殺されており倭国に実在した人物ではない。宣化(せんか)天皇(てんのう)は百済王だから宅部皇子(やかべのみこ)とされる百済人も百済でなくなっている。

(3)女性説について

 樋口隆康京大名誉教授は「馬具の鞍は三組のうち一組の鞍は把手がついていて横乗りの女性用のものだろう」と指摘する。同志社大学の森浩一教授は「南側の人にともなう歩揺付き筒形金銅製品は高句麗の壁画で女人が胸につるしている腰鼓とみる説がつよい」とする。

 出典文献名:アサヒグラフ1989.1「藤ノ木古墳の謎を解く」を引用

 古墳時代の玉類の研究者の玉城一枝は「2体のうち南側の人骨が、両足に濃い青色のガラス玉9個(足玉)と、左手首にガラス製棗玉10個(手玉)をそれぞれ装着した状態で出土しているので、人物埴輪の表現や古事記・日本書紀などの記述から考える限り、手玉や足玉は女性特有の装身具である可能性が高い」との説を発表した。

出典文献名:朝日新聞2009.9.14「男二人でなく男と女?」を引用

(4)『瀬戸岩子山遺跡発掘調査報告書 付章 瀬戸35号墳出土人骨』において鳥取大学医学部法医学教室 井上晃孝は「被葬者同志の関係は、1人用の石棺に、あえて成人男女2体が特殊な埋葬形式(頭位を反対にして、下肢骨を交差する)で埋葬されたことは、生前かなり親密な間柄が思量され、 夫婦関係が推察された」とする。

出典文献名:大栄町教育委員会 1998 『瀬戸岩子山遺跡発掘調査報告書』大栄町埋蔵文化財調査報告書3444頁を引用

 「島古墳群発掘調査報告書 鳥取県内における同棺複数埋葬について」において岡野雅則は「鳥取県北栄町の島古墳群7号墳では、一つの箱式石棺に二体を埋葬する埋葬形態がみられた。こうした同棺複数埋葬(合葬)は、西日本においては兵庫県以東の瀬戸内海沿岸や山陰東部、北部九州地域に分布することが知られている。
 かつて小林行雄は、横穴式石室と同棺複数埋葬を同系列上にあるものとして理解し、家族墓であるとした。

 箱式石棺でも極めて短期間に合葬されたとみられる例がある。鳥取県北栄町の瀬戸岩子山 35号墳1号埋葬施設、鳥取県北栄町の島7号墳第二埋葬施設、面影山 33号墳第1主体部では、対置の状態で埋葬された2体は、互いに下肢を交差させた状態であった。骨の配列はほぼ原位箇を保持するものとみられることから、同時埋葬かもしくは極めて近い時期の追葬とみられる」とする。

 出典文献名:財団法人鳥取県教育文化財団鳥取県埋蔵文化財センター 2000 『島古墳群 米里三ノ嵜遺跡 北尾釜谷遺跡 (北尾古墳群)』鳥取県教育文化財団調査報告書64の34頁を引用

これら3古墳で出土した2体は3古墳とも男女である。

(5)私見では藤ノ木古墳においても二人のうち一人は女性である。

「なぜ保管人骨をDNA鑑定しないのでしょうか?」と不思議がる人もいる。DNA鑑定しないのは日本書紀の嘘虚構がバレルからである。考古学会も藤原氏の組織だから当然である。

 膳大郎女(かしわでのおおいらつめ)は聖徳太子と一緒に藤ノ木古墳の一つの石棺に抱き合うようにして葬られている人だと考えられる。この人は聖徳太子が最後に一緒に住んだ年若い愛人で、聖徳太子の死を傷んで後追い自殺したとみられる。被葬者は聖徳太子(首を斬られた蘇我入鹿(そがのいるか))と膳大郎女(かしわでのおおいらつめ)であった。

4 江戸時代まで陵堂があり墓守がいた
 鳥取県北栄町の茶臼山松樹庵の案内板に「石段上の地蔵は寛政元年(1789年)世出開了行者〇〇信女の墓である」とある。大国主・少彦名・須勢理姫・八上姫のいた伊那佐小浜を守っていた。
5 私 見

以上のように藤ノ木古墳は鳥取県中部の古墳に符合する4つの特徴を備えている。法隆寺は鳥取県中部にいた一族が創建したので、法隆寺に関連付けられる藤ノ木古墳も鳥取県中部にいた一族が造ったと考えるのは当然といえば当然である。


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