千三百年の間、藤原氏に消されてきた伯耆国(鳥取県中西部)の真実の歴史が、今よみがえる。
倭健命ゆかりの地に行ってきました [第九代開化天皇、第十代崇神天皇、第十一代垂仁天皇]
1 倭建命が矢を放った矢筈山のあるのは関金町清水集落の奥ではなく、蒜山の郷土史家によると犬挟峠の東であった。
倭建命は矢筈山で「この矢のとどく限り兇徒悪魔は退散して我が守護の地となれ」と念じ矢を放った。その矢を関金町生竹の矢止めの荒神が止めた。
2 矢止めの荒神
橋の向こうの集落が生竹である。この反対側には耳集落がある。
矢止めの荒神。地図では因山神社となっている。石段を上がっても小さな祠があるだけである。
案内板には「十二代景行天皇の御代、伯耆国と美作国の境に矢筈山という高山あり、その山頂に唐王権現という石祠と石塔あり、日本武尊西国平定の道すがら矢筈山に登り、山頂より東北に矢をつがえ『この矢の止まる限りをわが守護の地とならん』と、矢を放ち給えば東北なる二里余りの小鴨村加茂河内生竹と称する所に落下せり。このところに荒神宮の小祠あり、荒神宮の神さま里人と相謀り『貴き神の矢なるべし』と、この矢を丁重に遺りかえせしが、これより後、生竹の里人達は、矢をお止になりし荒神さま、即ち、矢止め荒神さまと、益々あがめている」とある。
3 私見
(1)古事記には「天照大神は、『豊葦原の水穂の国は、私の子、天忍穗耳命が治めるべき国だ。』と言って、天から降らせた。天忍穗耳命は天の浮橋に立ち、下界を窺って『豊葦原の水穂の国は、ひどく騒がしい』と言って、再び天に昇って天照大神に状況を訴えた。そこで高御産巣日神と天照大神は天の安河の河原に八百万の神々を招集して、思金神に『この葦原の中つ国は、私の子が治めるべき国だと言依さした国である。しかしこの国には、荒ぶる国つ神がたくさんいる』」とある。
古事記には、主語は消してあるが「この葦原の中つ国は、私の子が治めるべき国だと言依さした」のは伊邪那岐(大神)であった。「しかしこの国には、荒ぶる国つ神がたくさんいる」とある。荒ぶる国つ神のことを荒神と言った。荒神がたくさんいたから天忍穗耳は「ひどく騒がしい」といった。この神は出雲の神であり、神在月には出雲に集まった。
(2)「十二代景行天皇の御代」とある。なぜ、あえて書くのか。倭建命は古事記・日本書紀に景行天皇の皇子と書いてある。調べればすぐわかることである。しかし、本当の系譜は「七代孝霊天皇の御代」であった。「倭建命の父は孝霊天皇であった」を参照されたし。この案内板を作ったのは神社庁か教育委員会だろう。どちらも、亡命百済王朝(日本)の藤原氏である。藤原氏は「嘘も百回つけば本当になる」とする。孝霊天皇や倭建命の出てくるところには、必ずといっていいほど景行天皇を書き加える。景行天皇は朝鮮半島の百済国の王であった。
(3)「西国平定の道すがら」とある。鳥取県中部には矢を一本放って瀬戸内を西に行ったように思わせる書き方である。しかし、西国平定は倭国大乱が終結してからである。倭国は鳥取県中部であったから、鳥取県中部西部が最終目標である。案内板を書いた者は鳥取県中西部を素通りしたと思わせるように改ざんしている。
案内板を書いた者は倭国王家に鬼・土蜘蛛・河童といわれていた荒神を擁護している。この時は倭国大乱の始まりの時であった。吉備国を平定(新見にいた出雲族の石蟹の平定など)して蒜山に来た時である。神倭磐余彦と同じく南から平定してきている。神倭磐余彦も首領は殺したが一族は殺さなかったので荒神はたくさん残っていた。神倭磐余彦は平定して殷王朝から引き継いできた荒神(出雲族)の宗教を改宗させようとして妻木晩田を開いたが、その妻木晩田で七代孝霊天皇は不祥事を起こし荒神(出雲族)の反乱を招いた。
倭国は鳥取県中部であったからこのあと鳥取県中部を平定した。そして西部を平定した。特に西部では、妻木晩田を拠点としていた出雲族を追い払い、南部町の手間山に逃げ込んだ出雲族を手間山の麓で捉えた。鬼住山、大倉山、鬼林山の鬼(出雲神族=準王一族)と鬼の発生元の出雲も平定して出雲族を降伏させ倭国大乱は終結した。
(4)倭建命が念じた「兇徒悪魔は退散して」を矢止めの荒神の案内板ではなぜ削除したか。荒神は荒ぶる神・まつろわぬ神であり、鬼・土蜘蛛・河童・猿などと呼ばれ殷王朝から引き継いだ人間の生贄を行っていた。天皇家とは十代崇神天皇まで敵対し反乱もしていた。倭国大乱とは鳥取県にいた荒神(出雲族)の反乱であった。倭建命のいう「兇徒悪魔」とは荒神そのものであった。消したものが当の本人であった。それは神社庁・教育委員会の元の藤原氏であった。藤原氏は「兇徒悪魔」(荒神)の子孫である。
(5)「生竹の里人達は、矢をお止になりし荒神さま、即ち、矢止め荒神さまと、益々あがめている」とある。生竹の里人達に世論調査でもしたのだろうか。あがめるわけがない。倭国王家に鬼・土蜘蛛・河童といわれていた荒神(ここでは河童)を擁護している。案内板を書いた者は倭国王家に対立していた兇徒悪魔(荒神)の子孫の藤原氏(神社庁・教育委員会)であった。
(6)この案内板を書いたのは神社庁・教育委員会であり荒神と同族である。「兇徒悪魔」が荒神であることを知っていて書いている。荒神に味方をしている事がわかる。明治維新は「兇徒悪魔」の子孫の藤原太政官制から始まった。神社庁・教育委員会は今でも藤原氏(荒神=兇徒悪魔)の流れにある。
葦原中津国の中心(北栄町大島)に行ってきました [第九代開化天皇、第十代崇神天皇、第十一代垂仁天皇]
1 北栄町大島(旧島)の全体像。
伊邪那岐(大神)・伊邪那美は天照大神(徐福)が連れてくる三千人の少年少女を住まわす国を北栄町大島を中心にして造っていた。伊邪那岐(大神)はその三千人のために「千五百の産屋を作ろう」と言った。
当時、周辺は汽水池であったので魚類も豊富に捕れた。また、汽水池の周辺は葦原となっており水稲稲作に適した地であった。縄文海退で周辺が陸地になってからは、全面穀倉地帯になっている。白い建物は収穫した米を貯蔵するカントリーエレベーター。
蜘ヶ家山(葛城山)より西が葛城だったので北栄町大島も葛城地域であった。孝安天皇の葛城室之秋津島宮があった。
家並みの奥の丘を取り巻くように家が建っている。
2 大島(室秋津島)の中心にて
島の一番高いところである。向こうに火火出見命が宮を定め神武天皇四兄弟がいた四王寺山が見える。
3 宮崎神社(昭和9年鳥取県神社誌より)
由緒(抜粋)
「・・・。是に於て孝霊天皇の御宇皇子大日本根子彦国牽尊、土人の為今の本社地に御祖伊邪那岐命・伊邪那美命を奉齋し給ひき。是れ本社の濫觴なりと。斯くて数十年を経て景行天皇の御宇、皇子日本武尊征西の御時、北海の霪風御艦を悩まし奉りしが不思議の神助にて御艦引寄するが如く本社地乾の隅に着御し給へり。尊大に歓喜し給ひて宣はく 斯く清らかなる地の海面に浮出つるはこは浮洲にや と。是より社地を称して浮洲の社と云ふ。洲の中央に大麻を挿立て御自ら御飯を爨き給ひて二尊を祭り神助を謝し給へり。・・・。」とある。
※ 私見
「斯くて数十年を経て景行天皇の御宇」は改ざん挿入されており正しくは「斯くて数年を経て孝霊天皇の御宇」であった。
孝元天皇は伊邪那岐・伊邪那美を奉斎され、倭健命が島の中央に大麻を挿立て御自ら御飯を炊いて伊邪那岐・伊邪那美を祭り征西の神助を謝した。 孝元天皇が伊邪那岐・伊邪那美を奉斎したのは、土人のためではなく大乱を戦っている父の孝霊天皇や妹の卑弥呼や弟の倭建命の戦勝を祈願したからである。
倭建命が着御し、尊大に歓喜されたのは征西が成功裏に終わったからである。昭和九年の鳥取県神社誌には「征西の御時」とある。
倭建命の父は孝霊天皇であった [第九代開化天皇、第十代崇神天皇、第十一代垂仁天皇]
倭健命は第九代開化天皇であった [第九代開化天皇、第十代崇神天皇、第十一代垂仁天皇]
1 古事記・日本書紀は8代孝元天皇・9代開化天皇・10代崇神天皇は父子承継とするがこれは正しいか
13代倭国男王は武内宿禰であった。武内宿禰の父は屋主忍男武雄心命である。12代景行天皇の実在には疑問が出されており、12代倭国男王は屋主忍男武雄心命であった。屋主忍男武雄心命について正しいと思われる史料の「紀氏系図」では、孝元天皇皇子に彦太忍信命、その子に屋主忍雄命、その子に武内宿禰と甘美内宿禰とする。
「紀氏系図」では、8代孝元天皇と13代武内宿禰との間には二人いるだけである。8代孝元天皇・9代開化天皇・10代崇神天皇は兄弟でなければ年代が合わない。孝元天皇・開花天皇・崇神天皇は倭国大乱の時代の孝霊天皇の皇子であり兄弟承継をしていた。そう解することによって、11代垂仁天皇と彦太忍信命は「いとこ」、12代景行天皇と屋主忍男武雄心命は「またいとこ」になり年代的に一致する。
なぜ、孝霊天皇一族の兄弟承継(倭国大乱で8代・9代は早死にしている)を父子承継にしたのか。
唐は倭国と日本は別の国だと断定している(旧唐書倭国伝)。倭国を乗っ取った亡命百済王朝(日本)は中国の信用を得るために、倭国と日本は連続しており、万世一系の皇統だとした。ある種の詐欺である。しかし中国の支配下に置かれたくなかったから、始祖の天照大神が徐福(中国人)だということは隠した。そのために神武元年を徐福(天照大神)が渡来した紀元前210年よりずっと古い紀元前660年にした。古く見せるために、倭国の原書にあった兄弟承継を日本の国史では父子承継にした。
2 11代天皇と12代天皇の問題となる系譜
⑴ 垂仁天皇(本拠地は岡山県美咲町大宮神社)ー 彦太忍信か
皇后:日葉酢媛命(丹波道主王の娘)
◎五十瓊敷入彦命、大足彦忍代別尊 ー この位置は屋主忍男武雄心命である
◎葛木志志見興利木田忍海部刀自(住吉大社神代記による) ー 豊鋤入姫(台与)であり神功皇后
◎倭姫命 ー 史実は孝霊天皇皇女であった
妃:迦具夜比売(かぐやひめ)。 ー 開化天皇の曾孫(ひまご)。
⑵ 景行天皇(屋主忍男武雄心命)皇居は纒向日代宮 ー 屋主忍男武雄心命か
皇后:播磨稲日大郎姫 ー 若建吉備津日子の娘 ー この位置は津山市にいた影姫であった
◎大碓命 ー 身毛津君(牟宜都国造)等祖
◎小碓命(倭建命=若日子建吉備津日子) ー この位置は武内宿禰であった
妃:迦具漏比売(かぐろひめ)。 ー 倭建命の曾孫(ひまご)。
⑶ 私見
古事記によれば「景行天皇の妃の訶(迦)具漏比売(かぐろひめ)は倭建命(景行天皇の子)のひ孫」となるので、景行天皇と倭建命との親子関係に否定的な説がある。景行天皇は136歳まで生きたのだから皇子のひ孫を「妃」と出来るかもしれない、という説があるが、不可能である。
開花天皇は崇神天皇と兄弟なので景行天皇の2代前となる。開花天皇のひ孫は景行天皇の妃であれば娘ぐらいの年代になるので、迦具夜比売は景行天皇の妃がふさわしい。また訶(迦)具漏比売も開花天皇のひ孫なら景行天皇とは父娘くらいの年の差になるのでありうることである。
迦具夜比売と訶(迦)具漏比売は本来は姉妹であり二人とも景行天皇(屋主忍男武雄心命)の妃であったと思われる。孝霊天皇も蝿(イロネ)と蝿(イロド)の姉妹を妃としている。原古事記には「開花天皇(倭建命)のひ孫の迦具夜比売(姉)と迦(訶)具漏比売(妹)は景行天皇(屋主忍男武雄心命)の妃となって・・・」とあった。
「常陸国風土記」では倭武天皇、「阿波国風土記」逸文では倭建天皇と書く。名古屋の氷上姉子神社の末社・元社の宮簀媛命宅跡の石碑にも「倭武天皇妃の宮簀媛命」とある。倭建命は天皇になっていた。倭建命(倭武天皇)と開花天皇は同一人物であった。
3 倭建命は吉備国を平定して蒜山から関金町に降りてきている(倉吉市関金町の伝承より)ので、若日子建吉備津日子命と同一人物と思われる。若日子建吉備津日子命は吉備国平定の功績により開化天皇になったと思われる。同じく大吉備津日子命も吉備国平定の功績により崇神天皇になった。第9代開化天皇は若日子建吉備津日子命(小碓命)であり、第10代崇神天皇は大吉備津日子命(大碓命)であった。母親が姉妹の異母兄弟であった。
開化天皇は景行天皇の祖父の崇神天皇と兄弟であったが景行天皇の3代前の天皇となる。倭建命は欠史8代とされ旧辞が消された第9代開化天皇である。どちらも157年生まれの孝霊天皇の皇子と思われる。第8代孝元天皇の弟である。倭建命(若日子建吉備津日子命)は孝元天皇が亡くなってから5年くらいの間第9代開化天皇であった。30歳(188年)で亡くなった。倭建命が活躍したのは景行天皇の時代ではない。記紀の旧辞を読んでもわかるが、倭建命が生きた時代は倭国大乱の時代(147年~189年)である。倭姫命は伊勢神宮の正統性を創るために豊鋤入姫命の一代あとの景行天皇の妹としなければならなかった。倭姫命(倭迹迹日百襲姫命)と同時代に生きていた倭建命(若日子建吉備津日子命)も景行天皇の皇子とした。
4 卑弥呼と倭建命は新羅から中国へ行くルートを開くため三韓に行っている(173年)。全羅南道の任那はこの時に初めて設置された。三韓に行った後、祖父の孝安天皇が居た葦原中津国にも立ち寄り神助を謝している(宮崎神社の由緒)。
宮崎神社の由緒には「征西の御時」とあるので倭建命が北栄町島に帰還したのは倭国乱の時代(147年~189年)である。
鳥取県倉吉市関金町にも倭建命の伝承が残る。「この矢のとどく限り兇徒、悪魔は退散して我が守護の地となれ」と言ったのだから、倭建命は倭国乱の時代(147年~189年)に生きた。卑弥呼の前期は倭建命と一緒に行動している。
5 各天皇の生年と没年
※ 第7代孝霊天皇 120年~211年 卑弥呼の兄の孝元天皇(生年149年頃)を29歳の時に出生したとすると、120年生まれとなる。倭国乱が終結し、天孫族の大陸へ行くルートを確保したため安心して、広島の南宮神社あたりに隠居した。
※ 第8代孝元天皇 149年~182年 孝霊天皇不在中の臨時天皇
※ 卑弥呼 151年~248年 倭国の乱は早くとも147年からであるから、7歳の時158年頃に初期の乱に遭い逃げたと思われる。
※ 第9代開化天皇(倭建命) 157年~188年 倭建命と崇神天皇は異母兄弟。 享年30歳
※ 第10代崇神天皇 157年~258年
6 開化天皇の皇居は鳥取県北栄町瀬戸の観音寺と思われる。
北栄町島の宮崎神社の由緒に「倭建命は伊邪那岐・伊邪那美に神助を謝せられた」とある。御艦は瀬戸に泊めていたと思われる。開化天皇は皇子の時から瀬戸は知っていた。皇居をどこにするか聞かれて知っている瀬戸を選択したと思われる。瀬戸の観音寺から北栄町島が見える。
瀬戸の観音寺に行くのに必ず道に迷う。迷わずにたどり着いたことがない。通り過ぎて行き止まりになったり、今度は大丈夫と思ってもいつのまにか遠ざかっていたりする。倭建命は準王一族(出雲族)と敵対していたから、容易に皇居に辿りつけないように迷路のような道路を造っていた。
南を見れば大山・烏ヶ山・蒜山が見えるが、晴れた日は青く見える。当時は杉林はなかったと思われる。倭建命はこの青い山並みを歌に詠み「やまとは国のまほろば青垣山ごもれるやまとしうるわし」とうたった。
7 古墳
倭建命であり第7代孝霊天皇の皇子である。東国を従えるため、尾張に一大率として居たため皇居の比定は難しいが、古墳は湯梨浜町宮内の狐塚古墳のはずである。築造は五世紀始めとするが、形状が鳥羽市安楽島の卑弥呼の松の鼻古墳と同じように前方部が水側に向いており、卑弥呼の200mの半分の100mであり、後世生まれたところに築造したと思われる。1歳くらいの時にコブハクチョウにエサをやったはずである。
瀬戸35号・36号墳の埋葬者は倭建命の子孫と思われる。35号墳は一人用の石棺に夫婦二人が埋葬されていた。頭骨はベンガラで朱色に塗られていた。奈良の藤ノ木古墳も同棺複数埋葬墓であった。奈良の法隆寺は由良(22)に皇居のあった聖徳太子(蘇我入鹿天皇)が建立した。
鳥取県大山中腹の奥の宮に神南備(大神山神社奥の院)を創建したのは崇神天皇(155年~258年)である [第九代開化天皇、第十代崇神天皇、第十一代垂仁天皇]
鳥取県大山中腹の奥の宮に神南備(大神山神社奥の院)を創建したのは崇神天皇(155年~258年)である。
1 鳥取県神社誌昭和9年刊より
大神山神社 主祭神 大巳貴命(又の名を大国主命)
由緒 「神代の昔、八束水臣津野命と大己貴大神が大山預上で神事を執行せられし以来、御神霊ましますとして、御神系の方々がその祭祀に奉祀せられ、爾来、大山中腹の現今の奥の宮所在地に、磯城の瑞垣神南備を築き南面して頂上を拝して奉斎せられたるものなるべけれど、記録の徴すべきものなく、唯、続日本記(797年)に承和四年授伯耆国無位大山神従五位下、又文徳実録(879年)に斎衡三年加伯耆国従五位下大山神正五位下、又三代実録(901年)に貞勸九年授伯耆国正五位下大山神正五位上とあり、又延喜神名式(927年)に伯耆国相見郡大神山神社とあり、又出雲風土記(733年)に固堅立加志者有伯耆国大神岳是也とあり、その大山といい大神山というも同一の山なり」とある。
2 私見
(1)大神山神社の由緒にある「磯城の瑞垣」とは崇神天皇の皇居である。古い文献伝承があったのだろうが藤原氏を恐れて崇神天皇とは書かずに崇神天皇を連想させる「磯城の瑞垣」と書き残した。大山中腹の現今の奥の宮の所在地に神南備を創建したのは崇神天皇(紀元155年~258年)である。崇神天皇と姉の卑弥呼が全国の神社のもとを創ったのであるから、皇居が鳥取県中部(湯梨浜町長和田集落)にあった崇神天皇は真っ先に大神山神社を創建した。
(2) 崇神天皇は古くから由緒のあった全国各地に神社を創建していったが大神山神社の地にはどんな由緒があったのだろうか。
史記(紀元前91年完成)(司馬遷)淮南衡山列伝 第五十八に「私(徐福)は海中の大神に会い、『そなたは西皇の使者か』と言うので、私が『そうです』と答えると、『そなたは何を求めているのか』。私は答えていった。『不老長寿の薬をいただきたいと存じます』。すると神は『そなたの秦王の礼は丁重でない故、見ることはできても手に入れることはできぬ』。そこで私を従えて東南の蓬莱山に行き、そこで霊芝でできた宮殿や、銅の色で龍の形をした使者がいて、光が天を照らしているのを見ました」とある。
米子市陰田町に到着した徐福は東南の鳥取県大山(蓬莱山)の大神山神社の地に連れていかれた。大神(伊邪那岐)の宮殿は鳥取県大山の大神山神社の地にあった。だから崇神天皇が創建した時の大神山神社の祭神は伊邪那岐(大神)と天照大神(徐福)であった。
(3)大神山神社の創建時の祭神は伊邪那岐(大神)と天照大神(徐福)であったがどうして大国主に変わったのであろうか。
734年に倭国を乗っ取った亡命百済王朝(日本)は各地で統一に向けての武力行使をしていた。隼人の乱(720年)も「乱」などというが亡命百済王朝が政権を奪うための前準備であった。ウィキペディアでは「隼人の反乱は、720年(養老4年)九州南部に住む隼人がヤマト王権に対して起こした反乱である」とするが、間違いである。八百年の間ヤマト王権(鳥取県中部)に属していた隼人が亡命百済王朝の支配に対して抵抗したということである。また、奈良時代、土佐王の池田氏が助けを求めて鳥取県琴浦町にあった天照皇大神宮に来たことが方見神社の由緒に残っている。
大神山神社の現宮司の先祖は奈良時代に倉吉市の法華寺畑遺跡で行われていた血脈狩りの公開処刑を見ていた。だから天皇家に対する恐怖心を人間天皇になった今まで抱いてきた。大神山神社の宮司はアジスキタカヒコネの子孫であり、このことは現宮司まで一子相伝で語り継がれてきたそうである。
十数系統あった大国主の子孫の多くは奈良時代から平安時代にかけて血脈狩りにあった。それは734年に倭国を乗っ取った亡命百済王朝(日本)によるものであり、それまでの天皇家は大国主の子孫を大事にしていた。アジスキタカヒコネは倉吉市灘手地区の鋤集落にいたし、天若比古は倉吉市寺谷集落の矢の宮神社にいた。だから、奈良に行ってはいない。もちろん出雲大社の大国主は17代続いた出雲族の王の代名詞であり一個人の名前ではない。
大神山神社の現宮司が真の大国主の直系の子孫であるならあえて異議を唱えないが、鳥取県大山中腹の奥の宮に神南備(大神山神社奥の院)を創建したのは崇神天皇(155年~258年)であり、734年までは大神山神社の祭神は伊邪那岐(大神)と天照大神(徐福)であった。
(4)私の先祖も法華寺畑遺跡で殺されたのか「夢の中でその時の映像が映し出される」。それでも一族は20数軒残っているので良しとしよう。大神山神社の現宮司と同じく私の家系も一子相伝であった。故父は「神武天皇の道案内をしたのでこの名前をもらった」と言っていた。神武天皇の道案内をしたのは神武天皇の一番の家来の「道臣」である。私の姓には始めに「道」が付いている。藤原氏は私の家系抹消もしたかったのだろう。しかし、大神山神社の現宮司と私の先祖も生き延びた。だから、大山の大神山神社の祭神を現宮司の先祖ではなかった、とは言いづらい。しかし、現天皇家が政権をとる奈良時代(734年)までは伊邪那岐(大神)と天照大神(徐福)が祀られていた。
山陰型甑形土器は倭の大乱の時にヤマト朝廷(孝霊天皇の一族)が使っていた [第九代開化天皇、第十代崇神天皇、第十一代垂仁天皇]
山陰型甑形土器は倭の大乱の時にヤマト朝廷(孝霊天皇の一族)が使っていた。
山陰型甑形土器は愛媛県でも発掘されているが、このことは 楽楽福神社(鳥取県日野郡日南町宮内)の由緒が事実であったことを証明するものである。
1 楽楽福神社 鳥取県日野郡日南町宮内 由緒(昭和9年鳥取県神社誌より抜粋)
彦狭嶋命は稚武彦命の御兄に坐せとも爰に合祀すべきよしなきが如し。社殿に彦狭嶋命亦歯黒皇子といへる此一名古書に所見無し。若くは稚武彦命を仔細ありて当国にて歯黒皇子と称したるものにや(然らば此皇子今猶本社に祭られ玉ふ事稚武彦命当社主と坐すべき上説の一子證ともいふべし)。但し、豫章記(伊豫国河野家譜) に孝霊天皇孝元天皇此孝元天皇御弟伊豫皇子ト申(母皇后細媛命磯城縣主大目女孝霊第二皇子御諱彦狭島命)。「此頃南蠻戎動令蜂起之間、此御子当国下給仍西南藩屏将軍云、即以宣下故伊豫皇子号云々此皇子御座所伊豫国伊豫郡神埼庄ト号今霊宮申親王宮奉崇即当家曩祖宗廟神也件宮南方十八町山腰皇子御陵有臣下多死随寶王ヲ陵トナス云々」此説後人の杜撰に似たりと云へども全く古伝の存する處有しに拠れるなるべし。此頃南蠻西戎動蜂起之間と云へるは崇神天皇の御代吉備津彦命西道に遣し給ひし時の事なり。彦狭島命を伊豫皇子といへる事当社の伝に似たる事也。
2 愛媛県生涯学習センター「えひめの記憶」[愛媛県史]伊予の祭祀遺跡より
宮前川遺跡は、松山市街より市西部・北部を貫流する宮前川の河川改修工事に伴って、同市別府町から津田にかけた地区で昭和五八年から五九年にかけて緊急発掘がなされたもので、弥生時代末期から古墳時代初期のものとみられている。出土品のなかには、県下では初めてという水鳥・馬形土製品、甑型土器や鼓形土器などのいわゆる山陰型土器が多く含まれている。発掘に当たった愛媛県埋蔵文化財調査センターでは、同地区をA~Cの三区に分けて発掘したが、うちC地区の地下一・三mのところで約三〇mにわたって細長い列状の土師器群遺構が現れた。その中には、鳥取市の秋里遺跡など山陰地方で数例発見されている水鳥形の水差し様土器が出土するなど、祭祀関連遺物が数多く含まれているところから祭祀遺跡と考えられている。
3 私見
山陰型甑形土器は暖房のために使われていたものと思われるが、遠征時の寒さを凌ぐために倭健命や崇神天皇によって考案されたものである。山陰、特に鳥取県中心に広がっているから初期ヤマト朝廷が鳥取県にあったことがわかる。
楽楽福神社由緒では歯黒皇子が彦狭嶋命か稚武彦命かで問題視しているが、いずれにしても歯黒皇子は倭の大乱の時に父の孝霊天皇と一緒に鳥取県日南町宮内におられたのである。後に青銅器文化の一族を平定するために伊予国に行かれた。宮前川遺跡はその時の遺跡である。
第七節 奈良の三輪山祭祀の始まりについて [第九代開化天皇、第十代崇神天皇、第十一代垂仁天皇]
第七節 奈良の三輪山祭祀の始まりについて
1 奈良歴史漫歩「三輪山祭祀の謎」橋川紀夫 より
三輪山禁足地および周辺山麓から出土する祭祀遺跡と遺物には特徴がある。古墳時代中期(4世紀後半~)から後期(6世紀)にかけての時期に集中する。4世紀後半から始まった磐座祭祀は多量の滑石製模造品、土製模造品を伴い5世紀後半にピークを迎える。6世紀には子持勾玉を用いた祭祀が盛んに行われた。この間に陶邑から運び込まれたと見られる須恵器も多量に出土する。
三輪王朝は古墳時代前期にあたるが、禁足地および周辺山麓からはこの時期の遺物は出土していない。三輪王朝での三輪祭祀の場所について示唆する記述が「崇神紀」にある。天皇が卜占する時、神浅茅原(かむあさぢはら)に幸したとある。また、太田田根子を謁見した時、諸王・卿・八十諸部を引き連れて神浅茅原に出でましたという。神浅茅原は多くの人々が集えるほどの開けた場所のように思える。山麓であっても山全体を眺めわたせるほど離れた場所で祭はとり行われたのであろうか。
これですぐ思い浮かぶのは巻向遺跡である。遺跡からは祭祀に用いられた多量の遺物が出土している。遺跡は古墳時代前期をもって途絶えるが、禁足地周辺の遺物が中期から後期を示すのと符合して、三輪山周辺をめぐる祭祀のあり方が4世紀末を境にして大きく変わったことを暗示する。
『日本書紀』は、天照大神を始祖とする万世一系の天皇というイデオロギーでもって貫かれる。そのため幾重にもフィックションが張り巡らされた。三輪山祭祀をめぐる『書紀』の記述が謎めいているのも何かが隠されているからだ。王朝の交代は仮説であるが、謎を解くひとつの手がかりとなるのではないだろうか。
2 私見
健全な考えだと思われるので掲載させてもらいました。奈良の三輪山からは4世紀前半以前の祭祀遺跡は見つかっていない。崇神天皇(在位186年~230年)垂仁天皇(在位230年~260年)景行天皇(在位260年~290年)の在位期間は3世紀である。この頃、奈良の三輪山では祭祀は行われてはおらずただの山であった。奈良では纏向に鳥羽市安楽島町伊射波神社にいた卑弥呼を呼んで祭祀を行っていたものと思われる。
卑弥呼・崇神天皇・垂仁天皇・景行天皇の時代の三輪山といえば、天忍穂耳(大物主)のいた鳥取県北栄町下神の三輪山のことである。大田田根子は鳥取県神社誌では西部の4神社に大田命として祀られている。鳥取県西部は天忍穂耳(大物主)が大陸に行く途中に宿泊されたところであり、子孫が居ても不思議ではない。崇神天皇(吉備津彦)も倭の大乱のときに鳥取県西部はよく知っており、探し出すのに難しくはなかった。神浅茅原も北栄町の三輪山の近くにあったものと思われる。この頃の奈良での祭祀は纏向の地で行われており、のちの三輪山での祭祀はまだ行われていなかった。
崇神天皇は津山から奥津→人形峠を通られて東郷池の長和田の皇居や北栄町下神(松神)の神浅茅原に帰ってきて大田田根子に会われたり、津山から奈良の纏向に行かれ、卑弥呼の祭祀に立ち会われたり、活発に活動しておられた。
崇神天皇と垂仁天皇の皇居と活動本拠地 [第九代開化天皇、第十代崇神天皇、第十一代垂仁天皇]
崇神天皇と垂仁天皇の皇居と活動本拠地
1 崇神天皇の皇居は師木の水垣宮であり、東郷池周辺の水辺に近く、国譲りで事代主と百八十神(出雲神族)が移ってきた湯梨浜町長和田集落と思われる。
200年頃、長和田の周辺は水で囲まれていた。はえ(波延とも蠅とも書く)という地名や一族は長和田集落や長和田集落出身と思われる。当時地形的に、日本海の波が真っすぐ届いていた。大吉備津日子(崇神天皇)の母親の蠅伊呂泥の出身地でもある。
長和田(ナゴウタ)集落です。
2 崇神天皇の和風諡号は御真木入日子印恵命であるから、御真木国に入って活動していた。御真木国とは岡山県津山市中山神社あたりである。
中山神社の奥には猿神社がある。中山神社は猿の伝承が全面に出されている。この手法は父の孝霊天皇が居た倭文神社のある湯梨浜町宮内の伝承を下照姫に置き換えて全面に出す手法と似ている。
3 垂仁天皇の皇居は師木の玉垣宮にあったから、東郷池周辺の少し高いところにある湯梨浜町川上集落と思われる。
日本書紀・垂仁天皇・石上神宮には「五十瓊敷命は・・・川上宮においでになり、剣一千口を造らせられた。・・・石上神宮に納めた」とある。 垂仁天皇の在位は220年から250年頃までであり、古墳時代前期である。弥生時代後期には、すでに青谷に鉄を高度に加工する技術者がおり(青谷上寺地遺跡発掘調査報告書より)、五十瓊敷命は青谷からその技術者を川上に連れてきた。玉鋼も伯耆国河村郡の三朝町で採取できた。三朝町で204ものたたら遺跡が発掘されている。その玉鋼を伯耆国河村郡の川上字鍛冶屋谷に集めて太刀一千口を造った。太刀一千口を伯耆国河村郡の忍坂邑に納め、のちに河村郡の石上(大原)の石上神宮(倉)に納めた。
三朝町片柴の北野神社の横には三徳川が流れ、船で降れば倉吉市大原に至る。太刀一千口は三朝町片柴の北野神社に納めていた。
4 垂仁天皇の和風諡号は伊久米伊理毘古伊佐知命だから岡山県久米郡美咲町の大宮神社あたりを活動拠点にしていたと思われる。
ニニギ命の大宮神社はまわりが畑であるが、垂仁天皇の大宮神社は集落の中にある。鳥羽や奈良には中山神社より近い。
5 倭建命(若日子建吉備津日子)や倭姫命(倭迹迹日百襲姫)のヤマト王権による東国の平定後、倭建命(若日子建吉備津日子)は豊田市の猿投神社を東国の拠点にし、倭姫命(倭迹迹日百襲姫)は神戸市の旧生田神社を拠点にしていたが、倭建命が亡くなってからも崇神天皇(大吉備津日子)は猿投神社を東国の拠点にしていた。この頃、全国に創建した神社の代表者を集めての祭祀は倭姫命(倭迹迹日百襲姫)も来て、鳥取県北栄町下神の神浅茅原で行っていた。北栄町下神の三輪山では弥生時代(大物主は弥生前期)の土器が発掘されている。
しかし、東国の代表者の便宜のため、代表者を集めての祭祀は奈良の纒向ですることに決めた。倭姫命(倭迹迹日百襲姫)は神戸市の旧生田神社から鳥羽市の伊射波神社に本拠地を移した。
神道の始まりは道教であり、全国に広めたのは倭姫命(卑弥呼)・倭健命・崇神天皇であった [第九代開化天皇、第十代崇神天皇、第十一代垂仁天皇]
1 倭姫命が定めた20社(神話の森・倭姫命世紀より)
また大若子命に「汝が国の名は何そ」と問ふと、「百張(ももはる)蘇我の国、五百枝刺(いほえさす)竹田の国」と申上げた。その処に(倭姫の)御櫛が落ちたので、その地を櫛田と名づけ、櫛田社を定められた。
ここから御船に乗って幸行し、河後の江に到ると、魚が自然と寄り集って、御船に参ゐ乗った。倭姫命は、それを見て悦ばれ、魚見社を定められた。
さらに幸行すると、御饗を奉れる神が現はれ参上したので、「汝が国の名は何そ」と問ふと、「白浜 真名胡国」と申上げた。その所に兵名胡神社を定められた。
さらに幸行して、佐々牟江に御船を泊め、そこに佐々牟江宮を造って遷座し、大若子命は「白鳥の真野国」と国寿き申上げた。そこに佐々牟江社を定められた。
そこから幸行する間に、風浪は無く、海潮は大淀に淀んで御船が幸行できたので、倭姫命は、悦ばれて、その浜に大与度社を定められた。
そこから幸行すると、速河彦(はやかはひこ)が現はれ詣でたので、「汝が国の名は何そ」と問ふと、「畔広(あぜひろの)狭田国」と申上げて、佐佐上の神田を進った。その地に速河狭田社を定められた。
さらに幸行すると、高水神が現はれ参上したので、「汝が国の名は何そ」と問ふと、「岳高田(をかたかだ)深坂手国(ふかさてのくに)」と申上げ、田上の御田を進った。そこに坂手社を定められた。
さらに幸行すると、河が尽き、その河の水は寒かったので、寒河となづけた。そこに御船を留め、御船神社を定められた。
そこから河上を指して幸行すると、砂流れる速き瀬があった。真奈胡神(まなごのかみ)が現はれ参上して、御船をお渡しした。その瀬を真奈胡御瀬となづけて御瀬社を定められた。
そこから幸行すると、久求都彦(くくつひこ)が現はれ参上したので、「汝が国の名は何そ」と問ふと、「久求の小野」と申上げた。倭姫命は詔して、この御宮処を久求小野(くくのをの)となづけ、久求社を定められた。久求都彦が、「吉き大宮処有り」と申上げたので、そこに幸行すると、園作神が現はれ参上して、御園地を進った、それを悦ばれて園相社を定められた。
その地から幸行すると小浜があり、鷲取る老翁があった。倭姫命が、「御水おもゆ飲らん」と詔して、「何処に吉き水あらむ」と問ふと、老翁は、寒なる御水を以て御饗を奉った。それを讃めて水門に水饗神社を定められた。
かくして二見浜に御船を泊め、大子命に「国の名は何そ」と問ふと、「速雨二見国」と申上げた。永くその浜に御船を留めて坐す時、佐見都日女が現はれ参上したので、「汝が国の名は何そ」と問ふと、詔を聞かず何も答へずに、堅塩を以て多き御饗を奉った。倭姫命は慈しんで堅多社を定められた。
そこから幸行して五十鈴河の後の江に入ると、佐美川日子が現はれ参上したので、「この河の名は何そ」と問ふと、「五十鈴河後」と申上げた。その処に江社を定められた。
また荒崎姫が現はれ参上したので、国の名を問ふと、「皇太神の御前の荒崎」と申上げた。「恐し」と詔して、神前社を定められた。
その処に現はれ参上して、御饗を仕へ奉った神を淡海子神(あはのみこのかみ)となづけて社を定め、朝御饌・夕御饌嶋を定めた。還り幸行して御船を泊めた処を、津長原(つながはら)となづけ、津長社を定められた。
その処に伊佐波登美の神宮を造り奉り、皇太神の摂宮と為した。伊雑宮がこれである。
彼神を小朝熊山嶺に社を造り、祝奉りて坐す。大歳神と称ふるは是なり。
鶴の住処には八握穂社を造り祠った。
2 古事記における第十代の和風諡号と皇居のあった場所
第十代 崇神天皇 御真木入日子印恵命 師木の水垣宮
師木は東郷池周辺なので崇神天皇の皇居は鳥取県中部にあった。崇神天皇は「御真木入」であるので「御真木国」を活動拠点にしていた。大国主が最初に逃げていた「木国」は鳥取県智頭町であるが、「御真木国」は木国に似ているが本当(御真)の「木国」という意味であり木国(鳥取県智頭町)の近くにあった。木国は紀伊国ではなく鳥取県智頭町であるが「御真木国」は岡山県津山市と思われる。中山神社には中山神が来るまで大国主がいたという伝承がある。
3 出雲(殷王朝の末裔が建国した)を本拠地として全国に展開していた青銅器文化の一族の生け贄を伴う祭祀は、止めさせなければならなかった。日本書紀・垂仁25年には「先皇御間城天皇祀神祇」とある。崇神天皇は新たな祭祀を考えた。それは、始祖から伝わる道教に基づく神道であった。神祇信仰は神道と同義である。崇神天皇は道教をもとにした神祇信仰を全国に布教した。実際に全国に社を定めて行ったのは倭姫命(卑弥呼)であった。全国各地に神社を建立し平定した青銅器文化の一族に神祇を祀らせた。
崇神天皇は大碓命(大吉備津彦)であったから、倭国大乱終結後、豊田市の猿投神社に居た。姉の倭迹迹日百襲姫命は神戸市の旧生田神社に居た。
代表者を集めての祭祀は当初鳥取県北栄町下神の神浅茅原でしていた。しかし東国の代表者の便宜のため祭祀は奈良の纒向ですることにした。卑弥呼の居所は安全のため、青銅器文化の一族(唐古・鍵遺跡や清水風遺跡など)の多くいる奈良盆地ではなく志摩国に定めた。宇陀や伊賀に始まり志摩国に神界を定める倭姫命世紀は卑弥呼の安全な居所を探すための巡行であった。
神道の語の初見は中国の易経で、神道の語の出典は道教の教典である。神社は日本独特の宗教とされるが、道教と共通する部分が多く残っている。例えば、心身を清める儀式、柏手を打つ拝礼、鏡と剱(道教)玉(儒教)の神器、お札・お守り、鈴を鳴らす、などである。神道の母体は道教であった。
4 崇神5年に疫病が大流行し、大田田根子を探し出し三輪山で大物主を祀らせたとあるが、大田命を祀る神社(青木神社 鎮座地 鳥取県米子市青木1157番、阿陀萱神社 現在地 鳥取県米子市橋本623番、上長田神社 鎮座地 鳥取県西伯郡南部町下中谷823番、田中神社 現住所 鳥取県西伯郡南部町刺1070番、菅福神社 現在地 鳥取県日野郡日野町上菅250番、福栄神社 現在地 鳥取県日野郡日南町神福1247番)が鳥取県西部に6社(鳥取県神社誌より)あるため、大田田根子は鳥取県西部にいたものと思われる。天忍穂耳は大陸に行くために、鳥取県西部を通って北九州に何度も行っていたのだから、その子孫が鳥取県西部にいたとしてもおかしくない。崇神天皇(大吉備津彦)は鬼の平定で鳥取県西部はよく知っていたので、大田田根子を探すのは難しくなかった。大田田根子を鳥取県中部(北栄町下神)の三輪山に連れてきて、大物主(天忍穂耳)を祀らせた。崇神天皇が大田田根子(伯耆国西部の6神社)をみつけてきて大物主を祀らせた三輪山は鳥取県北栄町の三輪山であった。奈良の三輪山はこの時はまだ祭祀は行われていなかった。
崇神天皇は道教をもとにした神祇信仰を全国に布教した。全国各地に神社を建立し平定した青銅器文化の一族(銅鐸祭祀の一族)に神祇を祀らせた。代表者を集めての祭祀は当初鳥取県北栄町下神(しもつみわ)の神浅茅原で神戸市の旧生田神社にいた倭迹迹日百襲姫命を連れてきてさせていた。その後、東国から鳥取県中部まで来ることは大変であることが判り、全国の代表者を集めての祭祀は奈良の纒向で行うことにした。卑弥呼の居所は安全のため、青銅器文化の一族(唐古・鍵遺跡や清水風遺跡など)の多くいる奈良盆地ではなく志摩国に定めた。宇陀や伊賀に始まり志摩国に神界を定める倭姫命世紀は卑弥呼の安全な居所を探すための巡行であった。伯耆国出身の卑弥呼は安全のため志摩国に、崇神天皇(在位188年~220年)は御真木国(岡山県津山地方)にいて全国の代表者を集めての祭祀は奈良の纏向で行うことを始めた(200年頃より)。
第四節 倭健命は吉備国・伯耆国・出雲国の鬼を平定した孝霊天皇の皇子二人のうち弟の方である [第九代開化天皇、第十代崇神天皇、第十一代垂仁天皇]
1 孝元天皇の皇后の「欝色謎命」は開化天皇の皇后になり、御眞木入日子印惠命と御眞津比賣命を生んだ、とある。兄が亡くなったので、兄の妻を娶り子供が生まれるということは時々聞く。年齢的に出産が可能であるからである。しかし、自分の実の母親を娶り子供を作ることは聞いたことがない。女性の生理年齢的にもあり得ないと思われる。開化天皇は孝元天皇の皇子ではなく弟であった。
では、父は孝霊天皇であるが、どの皇子であろうか。古事記にある大吉備津日子命か若建吉備津日子命であると思われる。「この二人で力を合わせて、針間(播磨)の氷河のところに忌瓮をすえ、そこを針間の道の口として吉備を攻め、支配下に置いた」のであるからその功績を認められ天皇になったと思われる。大吉備津日子命か若建吉備津日子命は吉備国を平定した。倭建命の伝承が鳥取県中部に2ヶ所残っている。その伝承の内容より倭国大乱の時代のこれも吉備国平定の一環である。倭建命も吉備を平定している。大吉備津日子命か若建吉備津日子命も吉備を平定している。同時代なので大吉備津日子命か若建吉備津日子命が倭建命であると思われる。「建」の字は熊襲を成敗したときにもらった字である。「建」が付いている方が倭建命である。若建吉備津日子命が倭建命であった。
大碓・小碓の双子の小碓が倭建命である、とするのは改ざんである。大吉備津日子命が異母兄であった。おそらく生年は同じ頃と思われる。倭建命は倭大乱の時代(146年~189年)に生きた。私見では155年生まれ185年没である。
倭建命は西国を平定していた時は皇子であったが、東国を平定したときは天皇になっていた。全国の平定が終わってから、倭建命は尾張国に住まわれた。倭建命も若くして亡くなったのであるが、次の崇神天皇は開化天皇の皇子であったのだろうか。倭国天皇家では天皇が戦いなどで若くして亡くなった場合、兄弟承継をしていたようである。大吉備津日子命がまだ生きているではありませんか。卑弥呼は大吉備津日子命を次期天皇に指名したはずである。崇神天皇は大吉備津日子命であった。御真木(私見では木国は鳥取県智頭町であり御真木国は岡山県津山市)入彦なので岡山県津山市に宮を造っていたはずである。
2 蠅伊呂杼(紐某弟)の皇子
日子寤間命は針間の牛鹿臣の先祖である(古事記)。彦狭嶋命は海直(あまのあたい)らの祖である(先代旧事本記)。
若日子建吉備津日子命は、吉備の下道臣、笠臣の先祖である(古事記)。稚武彦命は宇自可臣(うじかのおみ)らの祖である(先代旧事本記)。
日子刺肩別命は、高志の利波臣、豊國の國前臣、五百原君、角鹿の海直の先祖である(古事記)。弟稚武彦命(先代旧事本記)。
3 参考
日本書紀の系譜は先代旧事本記と重なるので比較するのは古事記と先代旧事本記である。
(1)孝霊天皇
(古事記)
細比賣命を娶って生んだ子が大倭根子日子國玖琉命(孝元天皇)である。
(先代旧事本記)
細媛命を立てて皇后とされた。皇后は、一人の皇子をお生みになった。大日本根子彦国牽皇子命(孝元天皇)である。
(古事記)
また春日の千千速眞若比賣を娶って生んだ子が千千速比賣命である。
また意富夜麻登玖邇阿礼比賣命を娶って生んだ子が夜麻登登母母曾毘賣命、次に日子刺肩別命、次に比古伊佐勢理毘古命、またの名は大吉備津日子命、次に倭飛羽矢若屋比賣である。
(先代旧事本記)
妃の倭国香媛、またの名を紐某姉(はえいろね)は、三人の御子をお生みになった。倭迹迹日百襲姫命、次に彦五十狭芹彦命[またの名を吉備津彦命]、次に倭迹稚屋姫命(やまととわかやひめのみこと)である。
(古事記)
またその阿礼比賣命の妹、蠅伊呂杼を娶って生んだこが日子寤間命、次に若日子建吉備津日子命である。
(先代旧事本記)
次の妃の紐某弟(はえいろど)は、四人の御子をお生みになった。彦狭嶋命(ひこさしまのみこと)、次に稚武彦命(わかたけひこのみこと)、次に弟稚武彦命(おとわかたけひこのみこと)である。
(古事記)
この天皇の御子は合わせて八柱だった。<男王が五柱、女王が三柱>
大倭根子日子國玖琉命は、後に天下を治めた。
大吉備津日子命と若建吉備津日子命とは、二人で力を合わせて、針間(播磨)の氷河のところに忌瓮をすえ、そこを針間の道の口として吉備を攻め、支配下に置いた。この大吉備津日子命は<吉備の上道臣の先祖である。>
次に若日子建吉備津日子命は、<吉備の下道臣、笠臣の先祖である。>
次に日子寤間命は、<針間の牛鹿臣の先祖である。>
次に日子刺肩別命は、<高志の利波臣、豊國の國前臣、五百原君、角鹿の海直の先祖である。>
(先代旧事本記)
天皇は、五人の皇子をお生みになった。
大日本根子彦国牽尊(孝元天皇)。
彦五十狭芹彦命[またの名を吉備津彦命。吉備臣らの祖]。
次に、彦狭嶋命[海直(あまのあたい)らの祖]。
次に、稚武彦命[宇自可臣(うじかのおみ)らの祖]。
次に、弟稚武彦命。
(2)孝元天皇
(古事記)
この天皇が穗積臣らの先祖、内色許男命の妹、内色許賣命を娶って生んだ御子は大毘古命、次に少名日子建猪心命、次に若倭根子日子大毘毘命である。
(先代旧事本記)
欝色謎命(うつしこめのみこと)を立てて、皇后とされた。皇后は、二男一女をお生みになった。大彦命(おおひこのみこと)、次に稚日本根子彦大日日尊(わかやまとねこおおひびのみこと:開化天皇)、次に倭迹迹姫命(やまとととひめのみこと)である。
(3)開化天皇
(古事記)
庶母(父の妃)の伊賀迦色許賣命を娶って生んだ子が御眞木入日子印惠命、次に御眞津比賣命である。
(先代旧事本記)
伊香色謎命を立てて、皇后とされた[皇后は、天皇の庶母である]。皇后は、御間城入彦五十瓊殖命(崇神天皇)をお生みになった。