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千三百年の間、藤原氏に消されてきた伯耆国(鳥取県中西部)の真実の歴史が、今よみがえる。

斎尾(斎王)廃寺と法隆寺は同じ豪族(蘇我氏)が建てたものである [伊勢野の天照皇大神宮]

    斎尾(斎王)廃寺と法隆寺は同じ豪族(蘇我氏)が建てたものである。

1 「南原千軒遺跡発掘報告書」(平成16年)より
 古代 
 現在県内では22ヶ所の古代寺院が見つかっているが、初期の仏教文化の姿を最もよく残し、山陰では唯一の国特別史跡に指定されている斎尾廃寺は、県内の古代寺院の多くが法起寺式伽藍配置を採用するのに対し、法隆寺式伽藍配置を採っている。
 塑像片・仏頭・鴟尾・鬼瓦の他、創建期の軒丸瓦には紀寺式、軒平瓦に法隆寺式系統のものが出土し、山陰・山陽では数少ない瓦当文様をもち、畿内と結びつきの深い有力豪族が斎尾廃寺周辺で勢力を持っていたと推察される。
 大高野遺跡では、総柱礎石建物群が検出されており、正倉(郷倉)と考えられ、郡衙推定地もその周辺に比定されている。その周辺の伊勢野遺跡、水溜り・駕籠据場遺跡、森藤遺跡群では、掘立柱建物を中心とする集落が見つかっている。

2 伽藍配置

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斎尾(斎王)廃寺の伽藍配置である。
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法隆寺の伽藍配置である。

3 私見
 県内では22ヶ所の古代寺院が見つかっているが、斎尾廃寺は、県内の古代寺院の多くが法起寺式伽藍配置を採用するのに対し、法隆寺式伽藍配置を採っている。
 670年以降に法隆寺を再建した豪族と白鳳時代(650年~710年)に斎尾廃寺を建てた豪族は同じ一族と思われる。「南原千軒遺跡発掘報告書」にある「斎尾廃寺周辺で勢力を持っていた畿内と結びつきの深い有力豪族」とは蘇我氏であった。斎尾廃寺の東方4kmの北栄町由良に聖徳太子(蘇我入鹿大王=蘇我善徳大王)の総本家があった。
蘇我善徳大王の皇子の天武天皇も斎尾廃寺の東方4kmの北栄町由良の出身であった(別稿「聖徳太子(蘇我入鹿天皇)の皇居は鳥取県北栄町由良宿にあった」を参照されたし)
 蜘ヶ家山(葛城山)から由良も含め加勢陀川の東岸まで東西7kmにわたっての地域が葛城であった。百済の人質として、由良で育てられた中大兄王子(豊璋)は葛城皇子と自称していた。天武天皇は天照大神が最初に高天原(蒜山高原)から降りてきた琴浦町伊勢野の東方4kmの北栄町由良の出身であった。由良遺跡の時代は4世紀末ごろから奈良時代までの連続した複合遺跡であり、半径500mの広い台地上のクロボクを取り除き、きれいに整地して建物を建てている(由良遺跡発掘調査報告書より)。


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