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千三百年の間、藤原氏に消されてきた伯耆国(鳥取県中西部)の真実の歴史が、今よみがえる。

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出雲大社のモデルは松江の田和山遺跡の5本柱遺構ではなく、湯梨浜町の長瀬高浜遺跡の巨大4本柱遺構であった [出雲大社のモデル]

 出雲大社のモデルは松江の田和山遺跡の5本柱遺構ではなく、湯梨浜町の長瀬高浜遺跡の巨大4本柱遺構であった。


 


1 稲吉角田遺跡の絵画土器に描かれている高い建物は出雲大社のモデルではないか、という説が多い。


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道向こうには天真名井のある淀江町高井谷集落がある。


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絵画土器の土器片から復元された壺である。


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この4本柱の高い建物が出雲大社のモデルではないか、と言われている。


 2 松江の田和山遺跡の5本柱の建物は出雲大社のモデルではない。


 IMG_0598


遺跡自体は高いところにある。


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一番上から宍道湖方面を望む。


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 5本柱遺構は柱の太さ20~30cm。柱と柱の間は2mありません。
 古事記には、国譲りに際し大国主命が「この葦原の中つ国は、天神の詔のままに、ことごとく差し上げよう。ただその後の私の住処は、天神の御子が住んで世をお治めになる宮と同様に、どっしりと宮柱が太く、千木を空高く掲げて造ってくだされば、私は隠れていよう」と言ったので、天孫族は多藝志之小濱に御殿を建てた、と書いている。
 この5本柱の建物が出雲大社のモデルである、と言われる方があったが、サイズを知らなかったのだろう。


3 私見


 江戸時代まで長瀬高浜の西には石山があり、舵の柄のようになっており、長瀬高浜と石山を合わせて多藝志)の形をしていた。多藝志之小濱は長瀬高浜であった。 


 以前詳しく述べてきたが、鳥取県湯梨浜町の長瀬高浜遺跡で見つかった高床式建物跡(SB40)は柱の太さが2.5mもあるような4本柱の建物であり、梯子跡もある。この建物が、大国主のために造られた出雲大社のモデルであり、稲吉角田遺跡の絵画のモデルであった。


 稲吉角田遺跡出土の線刻土器の時代は紀元前1世紀である。神武天皇は妻木晩田を紀元前100年頃、開いた。稲吉角田遺跡は妻木晩田遺跡の近くにある。この壺は土器を多く作った神武天皇によって作られたと思われる。


 長瀬高浜遺跡のSB40の時代を紀元前160年頃(弥生前期)としていないのは、遺構外で弥生時代前期の土器片が多数かたまって見つかっているにも関わらず、時代判定にまったく考慮されていないからである。


 笠沙之御前は北条砂丘であり、その中央の茶臼山(いなさ山)に大国主はいたのであるから、同じ笠沙之御前の東端に父の素戔嗚に言われていた高い建物を建ててもらったとしても、おかしくはない。


長瀬高浜遺跡.jpg


 右側に建物跡もあり、古事記の舞台である。素戔嗚の子の大国主(天孫族)は事代主と百八十神(出雲族)に国譲りをさせ、天孫族からよくやったと褒められ、父の素戔嗚が言っていた高い建物を建ててもらい、梯子下の食堂で鱸(すぐ横の東郷池でとれた)などの料理をもてなされた。


 稲吉角田遺跡の絵画土器に描かれた4本柱の高い建物は鳥取県湯梨浜町長瀬高浜遺跡の4本柱の高い建物(SB40)であった。


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長瀬高浜遺跡の弥生土器について [出雲大社のモデル]

 調査報告書5に、「昭和53年度56年度調査地区(f1地区)内、特に19D・20D・19E地区内より多量の弥生土器が出土した。遺構として認識したものは前述したが、ほとんどの弥生土器は遺構に伴わず出土している。古墳時代の住居あとを建てるときに弥生時代の住居跡等生活面が破壊されたためであろう。壺(PO1~38)甕(PO39~60)その他の器種(PO61~67)である(同一個体であるものは少なくバラバラで出土している)。以上の弥生土器は、弥生時代前期の遺物と考えられる。」と書かれている。
 この部分はこの遺跡全体にとって非常に大事な部分であるにもかかわらず、全巻合わせると3000ページを超えるような膨大な報告書の中で、これだけで済ませている。
 遺構の外にかたまって出土した原因は「古墳時代の住居あとを建てるときに弥生時代の住居跡等生活面が破壊されたため」であろうか。たまたま一部が遺跡内でかたまって見つかっただけのことで、多くは洪水で遺跡外に流されているはずである。
スクリーンショット 2021-05-10 210056.jpg
 報告者は「長瀬高浜遺跡には弥生時代の生活痕がない」とする。弥生前期の土器が遺構の上にあったが洪水で流された可能性をまったく考慮していない。その遺構から出土した遺物から時代を判断している。個別の遺構の時代判定では、長瀬高浜遺跡以外の遺跡でしてきたと同じ時代判定をしている。例えば、「SI100は遺物(土師器など)から判断して古墳時代前期である。」というような具合である。切り合いも判断の基準にするが、かなりの部分、遺物に比重を置いている。
 竪穴式住居跡のほとんどは古墳時代であるとしているのは、住居跡から土師器だけが見つかり、弥生土器が見つからないからである。出土した土師器を種類別に分ければ30~40棟分ほどでしょうか。竪穴住居跡167棟・掘立柱建物41棟を賄うには少なすぎる。大部分は弥生時代の建物跡だとは考えられないだろうか。SB40の建物跡にも弥生土器があったはずである。

1  古事記(訳)
 出雲の国の多藝志の小濱に御殿を建てて、水戸神の孫、櫛八玉神を膳夫(料理長)として、料理を献げるとき、言壽ぎして、櫛八玉神は鵜に姿を変えて海に入り、海底の土をくわえてきて多くの平瓮(平たい土器)を造る。
 海藻の茎を刈って火燧の臼とし、海蓴(こも)の茎を火燧の杵として、火を起こして言うには、この私が起こした火は、高天の原の神産巣日命の新しい宮殿の御厨に届いた煤が、どっさり溜まって長く垂れるまで炊きあげ、地の下では底の底まで焼き固める。
 白い長い延縄を引き回して漁をする海人が大きな鱸を非常にたくさん捕らえ、引き寄せあげると、竹の簀もたわわに、献げ物の魚の料理を奉る、と言った。
 私見
 これらのことはSB40の下の建物(SI121・SI124・SI125)で行われたことであり、そこで煮炊きもおこなわれたのであるから、弥生土器はたくさんあったはずである。
 SB40は梯子跡もあり四本柱でもある高層高床建物であり稲吉角田遺跡の線刻土器(紀元前1世紀)の建物である可能性が非常に高い。だから、古墳時代前期であるわけがない。祝宴のできる建物や厨房も完備しており、まさに古事記に書いてある舞台である。
 大型の土錘もたくさん出土している。白い長い延縄を引き回して漁をするのに必要だったはずである。

2 報告者には先入観がありはしないか。「SB40は複雑な施設を持つ巨大な高床建物であるから、簡素なSB30より400年後(弥生時代前期~古墳時代前期)に建てられたとしてもおかしくない。弥生時代前期にこのような複雑な施設を持つ巨大な高床建物が建てられるわけがない。」このような先入観があると思われる。しかも弥生土器も見つからない。だから古墳時代前期だとした。

3 また報告者は古墳時代前期だとした理由の一つに「SB40の周辺から銅鏃・鉄鏃・素文鏡が出土している。これらはSB40に関係する遺物とも考えられる」としている。
 銅鏃は青銅器文化の一族(出雲神族=準王一族)が長瀬高浜を襲った時に放ったものである。鉄鏃はそれに応戦した倭王権が放ったものと思われる。近くの宮内遺跡で鉄鏃12個が綺麗に副葬されていた。鳥取県中部には弥生時代後期に鉄鏃を使う一族がいた。長瀬高浜で銅鏃と鉄鏃が見つかったのも青谷上寺地遺跡と同じく、倭国乱の痕跡である。倭国とは、当時列島に120くらいあった小国の名であり鳥取県中部の国名であった。倭国乱の痕跡は現在のところ、鳥取県中部(青谷上寺地遺跡)でしか見つかっていない。
 小型素文鏡は遺跡全体で12個出土している。その中で、15ISP01より出土したM1~M3は弥生時代前期であるとしている。しかし、ほかの8個は古墳時代前期(約400年後)としている。
 写真や図で見る限り、私には違いが判らない。古墳時代に入れば、もっと大きくて、模様の入ったものが出てくるのではないか。これも土師器に引っ張られた結果だと思われる。

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長瀬高浜遺跡の大型高床建物は、稲吉角田遺跡の線刻画の建物であり、大国主命がおられた高い宮殿であり、出雲大社の原型である [出雲大社のモデル]

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 発掘中の大型高床建物跡(SB40)の写真(羽合歴史民俗資料館)です。

 左上に古墳時代の円墳がありそれよりも色が白い。黒い地層が1m堆積しているのは古墳時代が始まるまでに洪水がありその土砂が堆積したと解する。白い地層は弥生時代の地層である。古墳時代の遺構が見つかる黒い地層ではない。

 この(SB40)が古墳時代というのは間違いである。洪水で流された弥生時代前期の土器片が周辺から出土しているので大型高床建物(SB40)は弥生時代前期である。

1 四本柱であること。

2 梯子跡も見つかっている。

3 白砂と黒砂の判断。

4 大国主命のいた茶臼山と近いこと。

5 弥生時代の生活痕がないとされるのは弥生時代の洪水によって流された可能性があること。

6 長瀬高浜の西には江戸時代まで石山がありこれがタギシ(古代の舵)の柄であった。出雲大社のあったタギシとは長瀬高浜であった。

 以上により、長瀬高浜遺跡の大型高床建物は、稲吉角田遺跡の線刻画の建物であり、大国主命がいた高い宮殿であり、出雲大社のモデルである。

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 出雲山より茶臼山と長瀬高浜を望む。

 左が大国主命の本拠地であり国譲りの交渉の行われた茶臼山である。長瀬高浜は右の五本の風車の下の白い建物(浄水場)のところにあった。この25mほどの高い建物は新羅から難波津(東郷池)に来る船の目印になっていた。夜はかがり火を焚いていたかもしれない。

 

 

 

 


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第八節 長瀬高浜遺跡の大型高床建物(SB40)は古墳時代か [出雲大社のモデル]

   第八節 長瀬高浜遺跡の大型高床建物(SB40)は古墳時代か
 長瀬高浜遺跡の特徴は、白砂の下に黒砂が1mほどあり、その下も白砂でした。人が住んでいるときに堆積した黒砂が1mになりました。出土した土器から判断すると、弥生時代前期(2200~2300年前)から、中世末頃(400年前)まで住んでいたことになります。蓄積した黒砂が1mで、1800年かかっていることになる。1mの黒砂の上下は白砂の層である。
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発掘のすんだ大型高床建物跡の写真(羽合歴史民俗資料館)です。
 右側下部分は光線の影になっていて薄暗くなっていますが、上半分と左側の部分で濃淡を比較すると、大型高床建物跡は白砂である。左奥の円墳は明らかに黒っぽく見えて、後の時代に建てられたものと思われる。大型高床建物跡の下には何もないはずで、大型高床建物跡は1mの黒砂の層の最下層にあたり、長瀬高浜遺跡の初期に造られた建物跡と言える。弥生時代の生活痕がない、というのがこの遺跡の評価である。弥生土器も埋葬された数個しか見つかっていない。だから、大型高床建物跡も古墳時代のものという判定になっている。しかし、この写真を見る限り、大型高床建物跡は左奥の円墳の跡と比べると明らかに白砂である。大きい写真で見るとよくわかる。段差が数十cmしかないので弥生時代前期も古墳時代も同じに見えるのだろうが、色や濃淡で判断すると、大型高床建物跡はどの部分をとってもすべて下のほうまで同じ白砂である。逆に、その周囲は黒い色である。
 弥生時代の生活痕がない原因は二千年まえの洪水によって弥生土器や石器がすべて嶋の外に流されて、残ったのは建物跡と墓に埋葬された弥生土器だけである、と考えれば何もおかしいことはない。そうでなければ弥生時代前期の玉作り工房跡4棟、住居跡2棟から弥生式土器が10個くらい見つかってもおかしくはない。
 当時の海面が今より高かったことも考えると、この嶋の当時の高さはそれほど高くなかったものと思われる。
 発掘調査報告書を見て、遺跡の重なり具合から判断しようと思っていましたが、とりあえず、この写真から判断すると、弥生時代前期であろうと思われます。

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第七節 天孫降臨五伴緒の一人 玉祖命について [出雲大社のモデル]

   第七節 天孫降臨五伴緒の一人 玉祖命について
 今回、長瀬高浜遺跡を調べて分かったことは、天孫降臨でニニギ命と一緒に降臨した五伴緒の一人である玉祖命が長瀬高浜で玉を作っていた可能性が大きい、ということです。玉祖命は伯耆国のどの神社にも祀られていないため、長い間判らないままにしていました。
 五伴緒とは

1 天兒屋根命、---占いと祝詞を上げる。   伯耆国の神社で22社に祀られている。
2 布刀玉命、(天太玉命)---占いと祝詞を上げるおよび諸々の準備。  伯耆国の神社で6社に祀られている。
3 天宇受賣命、(天鈿女尊)---舞踊。  伯耆国の神社で11社に祀られている。
4 伊斯許理度賣命 -- 鏡を作る。  倉坂神社に祀られている。
5 玉祖命 ------玉を作る。  伯耆国の神社の祭神にない。
である。
 長瀬高浜遺跡からは弥生時代前期の玉作り工房跡4棟、住居跡2棟が見つかっています。
1 玉の材料を全国から集めるのには、海岸近くが有利であること。
2 また天忍穂耳が天神川を降りてきたときに、砂でできた小さな嶋が天神川の河口にあることを知っていて降臨のさいに指示したと思われること。
3 ここで作られた管玉など玉類の制作技術は全国で玉作りの工房跡が見つかると、比較されるほど出来がよいこと。
4 年代が弥生時代前期(第1次の降臨は紀元前195年ごろ)と確定していること。
 以上により、玉祖命は長瀬高浜で玉作りをしており、亡くなるまでこの嶋から移動しなかったと思われる。

湯梨浜町羽合歴史民俗資料館にて
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長瀬高浜遺跡で見つかった勾玉などの玉の飾り。
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管玉の制作過程を示している。
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「当時の玉作り技術の最先端をいくものだったと思われます。2200年前(紀元前200年頃)の人々の首には、ここで作られた淡い緑の管玉が輝いていたことでしょう」と書かれている。


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第六節 長瀬高浜遺跡出土の弥生前期土器について [出雲大社のモデル]

 調査報告書5に、「昭和53年度56年度調査地区(f1地区)内、特に19D・20D・19E地区内より多量の弥生土器が出土した。遺構として認識したものは前述したが、ほとんどの弥生土器は遺構に伴わず出土している。古墳時代の住居あとを建てるときに弥生時代の住居跡等生活面が破壊されたためであろう。壺(PO1~38)甕(PO39~60)その他の器種(PO61~67)である(同一個体であるものは少なくバラバラで出土している)。以上の弥生土器は、弥生時代前期の遺物と考えられる。」と書かれている。
 この部分はこの遺跡全体にとって非常に大事な部分であるにもかかわらず、全巻合わせると3000ページを超えるような膨大な報告書の中で、これだけで済ませている。
 遺構の外にかたまって出土した原因は「古墳時代の住居あとを建てるときに弥生時代の住居跡等生活面が破壊されたため」であろうか。たまたま一部が遺跡内でかたまって見つかっただけのことで、多くは水害で遺跡外に流されているはずである。
 報告者は弥生土器があったかもしれないことをまったく考慮に入れていない。その遺構から出土した遺物から時代を判断している。個別の遺構の時代判定では、長瀬高浜遺跡以外の遺跡でしてきたような時代判定をしている。例えば、「SI100は遺物(土師器など)から判断して古墳時代前期である。」というような具合である。切り合いも判断の基準にするが、かなりの部分、遺物に比重を置いている。
 竪穴式住居跡はほとんど古墳時代であるとしているが、住居跡から土師器だけが見つかり、弥生土器が見つからないからである。出土した土師器を種類別に分ければ30~40棟分ほどでしょうか。竪穴住居跡167棟・掘立柱建物41棟を賄うには少なすぎる。大部分は弥生時代の建物跡だとは考えられないだろうか。SB40の建物跡には弥生土器があったはずである。

1  古事記(訳)
 出雲の国の多藝志の小濱に御殿を建てて、水戸神の孫、櫛八玉神を膳夫(料理長)として、料理を献げるとき、言壽ぎして、櫛八玉神は鵜に姿を変えて海に入り、海底の土をくわえてきて多くの平瓮(平たい土器)を造る。
 海藻の茎を刈って火燧の臼とし、海蓴(こも)の茎を火燧の杵として、火を起こして言うには、この私が起こした火は、高天の原の神産巣日命の新しい宮殿の御厨に届いた煤が、どっさり溜まって長く垂れるまで炊きあげ、地の下では底の底まで焼き固める。
 白い長い延縄を引き回して漁をする海人が大きな鱸を非常にたくさん捕らえ、引き寄せあげると、竹の簀もたわわに、献げ物の魚の料理を奉る、と言った。
 私見
 これらのことはSB40の下の建物(SI121・SI124・SI125)で行われたことであり、そこで煮炊きもおこなわれたのであるから、弥生土器はたくさんあったはずである。
 SB40は梯子跡もあり四本柱でもある高層高床建物であり稲吉角田遺跡の線刻土器の建物である可能性が非常に高い。だから、古墳時代前期であるわけがない。祝宴のできる建物や厨房も完備しており、まさに古事記に書いてある舞台である。
 大型の土錘もたくさん出土している。白い長い延縄を引き回して漁をするのに必要だったはずである。

2  報告者には先入観がありはしないか。「SB40は複雑な施設を持つ巨大な高床建物であるから、簡素なSB30より400年後(弥生時代前期~古墳時代前期)に建てられたとしてもおかしくない。弥生時代前期にこのような複雑な施設を持つ巨大な高床建物が建てられるわけがない。」このような先入観があると思われる。しかも弥生土器も見つからない。だから古墳時代前期だとした。

3  また報告者は古墳時代前期だとした理由の一つに「SB40の周辺から銅鏃・素文鏡が多く出土している。これらはSB40に関係する遺物とも考えられる」としている。
 この小さな素文鏡は凸面であり、小さくても遠方から光るのがみえるようにしてあり、通信に使われていたと思われる。伊斯許理度賣(イシコリドメ)命がつくったのであるから、弥生時代前期の素文鏡である。当時の最先端の技術で作られており、これを作れたのは当時では、伊斯許理度賣(イシコリドメ)命だけであった。玉祖命の最先端の技術と並ぶものである。これが弥生土器と一緒に見つかっていれば、はっきりしたのだが。
 小型素文鏡は遺跡全体で12個出土している。その中で、15ISP01より出土したM1~M3は弥生時代前期であるとしている。しかし、ほかの8個は古墳時代前期(約400年後)としている。
 写真や図で見る限り、私には違いが判らない。古墳時代に入れば、もっと大きくて、模様の入ったものが出てくるのではないか。これも土師器に引っ張られた結果だと思われる。




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稲吉角田遺跡 弥生中期の壺絵 その2 [出雲大社のモデル]

 稲吉角田遺跡 弥生中期の壺絵 その2

1  稲吉角田遺跡は弥生時代中期でも、紀元前1世紀頃の遺跡である(民俗学ひろいあげ辞典より)。妻木晩田遺跡も
紀元前1世紀頃に始まった遺跡である。
 熊野大社と茶臼山(倭国の中心)とは直線距離で70km。茶臼山から妻木晩田とは直線距離で34km。妻木晩田は準王一族(出雲神族)の本拠地(熊野大社)と倭国(鳥取県中部)の中心(茶臼山)との中間にある。
 稲吉角田遺跡の絵画土器は数十年前に松江で造って持ってきたとは思われない。妻木晩田遺跡は松江の準王一族の反乱を防ぐために天孫族(はじまりは初代)が住まわせたと思われる。
 稲吉角田遺跡の絵画土器は紀元前70年頃に長瀬高浜で作った線刻土器を神武天皇たちが東征に行く途中の淀江に持ってきて土器に線刻するように出雲神族に示したと思われる。線刻土器の発祥は倭国(鳥取県中部)の素戔嗚や神武天皇たちであった。

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 発掘の始まった長瀬高浜遺跡の大型高床式建物跡(SB40)の写真である。右に梯子跡や建物跡も見つかり、古事記の舞台セットである。大国主は良くやったとここで持て成された。直径が2.5mもある4本脚の高床式建物の遺構が見つかっている。ハシゴ跡もあり稲吉角田遺跡に描かれている建物のモデルである。私見では、邇邇芸命が北栄町下種の大宮神社の御殿に移られたのは紀元前160年前後であり、長瀬高浜遺跡の高床式建物(SB40)も紀元前160年頃に建てられたものと思われる。また神武天皇(生年は紀元前112年頃)の四兄弟が九州の蝦夷の征伐に出発されたのは紀元前70年頃であるから、征伐に出発される時も存在していた。

2 稲吉角田遺跡出土の線刻土器(紀元前1世紀)

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 この絵は神武天皇の四兄弟が日向(鳥取県中部)に居られた時に描かれたものと思われる。この壺絵は鳥取県中部の長瀬高浜の様子を描いたものである。

3 奈良県の線刻土器(紀元1世紀)
橿原考古学研究所付属博物館展示の線刻土器
(これは撮影禁止ではなかったので引用させてもらいます)

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高床建物と鹿(弥生時代中期1世紀 天理市清水風遺跡)

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楼観(弥生時代中期1世紀 田原本町唐古・鍵遺跡)

その他に
高床建物に登る人物(弥生時代中期1世紀 田原本町唐古・鍵遺跡)
鳥装の戦士(弥生時代中期1世紀 田原本町清水風遺跡)
船と高床建物(弥生時代中期1世紀 天理市清水風遺跡)
船(弥生時代中期1世紀 天理市清水風遺跡)
鳥装の巫女(弥生時代中期1世紀 天理市清水風遺跡)
鳥装の人物(弥生時代中期1世紀 橿原市坪井遺跡)
船(弥生時代中期1世紀 橿原市坪井遺跡)
船を漕ぐ人(弥生時代中期1世紀 田原本町唐古・鍵遺跡)
船にのる司祭(弥生時代中期1世紀 田原本町唐古・鍵遺跡)

などがあるが ほとんど紀元1世紀の線刻土器である。

4 弥生時代の絵画土器はこれまで全国で600例ほどある。
 絵画土器 - 弥生土器にヘラ状の道具で描いた線刻画。弥生時代後半、近畿地方を中心に出土する。最多出土が唐古・鍵遺跡で300点。次いで清水風遺跡約50点。
 弥生時代中期に銅鐸を鋳造した工房があったことで知られる大阪府茨木市の東奈良遺跡で、銅鐸の絵を線刻で描いた紀元前1世紀ごろの絵画土器が見つかった。

5 私見

 線刻土器祭祀を始めたのは倭国の神武天皇たちであった。神武天皇たちヤマト王権は準王一族の銅鐸祭祀をやめさせる代わりに土器に線刻をさせ、絵画土器を祀らせた。紀元前1世紀の線刻土器は全国的に出土例は少ない。 稲吉角田遺跡の線刻土器は神武天皇たちの作った初期の線刻土器であった(縄文土器は除く)。

 続きは別稿「神武天皇たちは妻木晩田を開いた」を参照されたし。

※参考

 吉田大洋氏は『竜神よ、我に来たれ!』において「スサノオは出雲を制圧すると竜蛇信仰を捨てることを迫った。出雲熊野大社の牡牛神ハルが強調されている線刻石はスサノオによる出雲神族の竜蛇信仰が弾圧されたときのものではないか」とされる。



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稲吉角田遺跡 弥生中期の壺絵 その1 [出雲大社のモデル]

 稲吉角田遺跡 弥生中期の壺絵 その1102

 稲吉角田遺跡(米子市) 弥生中期の壺絵です。

「建物は古代の出雲大社の原型」という説が有力である。

船の人物は中国の奥地、雲南のテン族や苗族の当時の頭飾りと似ている。

 以下はある方の説です。

 私には稲吉角田遺跡の土器絵画が、弥生の祭祀を単に描いたのではなく、どこかの近在の遺跡の具体的な祭祀を描いたものに思えてならなかったのである。稲吉角田遺跡出土の弥生式土器に描かれた線刻絵画は、松江市の田和山遺跡(弥生時代前期末~中期後半)の祭祀をもとに描かれた可能性がある。

 弥生中期後半の田和山遺跡を見ると、北側に集落があり、西側斜面に祭祀施設と見られる二間×六間の大形掘立建物跡がある。

田和山の人々は、後に淀江の妻木晩田に進出した可能性も考えられる。

私見

 「私には稲吉角田遺跡の土器絵画が、弥生の祭祀を単に描いたのではなく、どこかの近在の遺跡の具体的な祭祀を描いたものに思えてならなかったのである。」「田和山の人々は、後に淀江の妻木晩田に進出した可能性も考えられる。」この部分は私も同感です。

 「田和山の人々」は準王一族(出雲族)であり、出雲族(殷王朝末裔)の宗教を替えるために、神武天皇が妻木晩田に来させた。

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 この壺絵は田和山の大形掘立建物を描いたものではなく、祭祀場でもあった長瀬高浜遺跡の様子を描いたものである。土器が制作された時代は紀元前1世紀(民俗学ひろいあげ辞典より)である。奈良の唐古・鍵遺跡の多くの線刻土器は紀元1世紀とする。紀元前1世紀と紀元1世紀とは明らかに違う。稲吉角田遺跡の線刻土器は唐古・鍵遺跡の線刻土器よりも100年ほど古い。稲吉角田遺跡の線刻土器は天孫族が造ったものであり、唐古・鍵遺跡の線刻土器は準王一族が造ったものである。

 紀元前160年頃に国譲りがあり、大国主は天孫族の仲間として、天孫族からよくやったご褒美に柱が太くて屋根の高い建物を造ってもらった。準王一族を平定するために神武天皇の4兄弟が日向(倉吉市の四王子山)を出発したのは紀元前70年頃である。この壺絵は紀元前70年頃までに描かれたものである。大国主が建ててもらった柱が太くて屋根の高い建物はまだ100年もたっていないので存在していた。

 二男は朝鮮半島(母の出身地)へ行き新羅国を建国し、鉄製の武器を作り倭国(鳥取県中部)に送った。三男は常世国(中国南部)へ援軍を求めに行っている。淀江町は天孫族が九州へ行くルート上にあった。

 神武天皇は盛んに土器を作っていた。妻木晩田は神武天皇が開いたのであり、紀元前1世紀に始まっているから、稲吉角田遺跡の壺絵も神武天皇が描いたと思われる。



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多芸志の小浜は鳥取県湯梨浜町長瀬高浜にあった [出雲大社のモデル]

1 鳥取県淀江町稲吉角田で線刻画の刻まれた弥生時代中期の壺が発掘された。その線刻画の中に高い4本柱ではしごの掛かった建物があった。通説はこれを高さ25mくらいであり、出雲大社のモデルである、とする。

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 長瀬高浜遺跡のSB40の建物跡は、約5mの間隔の柱穴は径 2.5m、深さ2.2~2.5mあり、高さも25mくらいはあったとされる。梯子跡も見つかっており、稲吉角田遺跡の線刻土器の高床式建築の建物にピタリと一致する。稲吉角田遺跡の4本柱の高い建物跡は長瀬高浜遺跡のSB40のほかは見つからない。


2 私見では国譲りは紀元前160年頃(弥生時代前期)とする。報告書ではSB40は古墳時代前期の遺構であるとするが、遺構外から大量の弥生前期の土器片が見つかっている。このことより、弥生前期の遺物が洪水で流された可能性があり、SB40の建築時期も弥生前期である可能性が高い。鳥取県湯梨浜町の長瀬高浜遺跡から見つかった、柱穴は径2.5mで4本柱のかなりの高さの巨木による高床式建築の建物が出雲大社のモデルであった。

 鳥取県湯梨浜町の長瀬高浜遺跡からは当初、巨大な柱が出て出雲大社の試作品の部品だと言われていた。

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 大型の掘立柱3棟が発掘されている。そのうちSB40は、約5mの間隔の柱穴は径2.5m、深さ2.2~2.5mもある。かなりの高さの巨木による高床式建築。建物の南側では梯子の末端とその支柱と考えられる柱穴も検出。東西両側面から背後にかけて、建物から3~4mの間隔を保った柵状施設をめぐらす。さらに建物の正面、梯子がかけられていたと思われるその南側には長方形に突出するような溝状遺構がみつかっている。縦2間、横2間の建物遺構は両側面の柵状遺構につながっていて、SB40の建物が他の2棟と区別する建物として強く意識されていたことが分かる。


3 鳥取県北栄町国坂の茶臼山で国譲りが行われたのだからその2km東方の長瀬高浜遺跡から発掘されたSB40は出雲大社の試作品の部品だという見解は真実味を帯びてくる。大国主の父(素戔嗚)は宇迦能山(茶臼山)の麓に高い宮殿を建てろと言った。大国主は宇迦能山(茶臼山)の麓ではなく宇迦能山(茶臼山)から2km東の多芸志の小浜(長瀬高浜)に高い宮殿を建ててもらった。

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 当時の長瀬高浜は江戸時代まであった石山(倉吉市大原に石上があった)が柄にあたるタギシ(船舵)のかたちであった。鳥取県湯梨浜町の長瀬高浜が多芸志の小浜であった。

 大国主のために造った高い宮殿は、鳥取県湯梨浜町の長瀬高浜に造られた。この高い建物は新羅から難波津(東郷池)に来る船の目印になっていた。



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出雲大社について [出雲大社のモデル]

 出雲大社について
 
1 古事記原文
 唯僕住所者。如天神御子之天津日繼所知之。登陀流天之御巣而。於底津石根宮柱布斗斯理於高天原。氷木多迦斯理而治賜者。僕者於百不足八十[土+冏]手隱而侍。
とある。
 ※ 訳 ただ私の住む所は、天つ神の御子(瓊々杵命)が天つ日継知らしめす壮大な天の宮殿のように、底つ石根に、柱を太く立てて大空に棟木を高く上げて造営するならば、私はずっとひっこんだ隅に隠れていましょう。
 
2 私見
(1) 出雲大社に祀られている大穴牟遅命は出雲神族(準王一族)の王である長髄彦(トミノナガスネヒコ)の別名である。天穂日は出雲で出会った準王をそれまで可愛がってきた大国主に因んで大穴牟遅と名づけた。出雲神族(準王一族)の王は17代にわたって、大穴牟遅命と呼ばれてきた。出雲大社に祀られている大穴牟遅命は少彦名や須勢理姫とともに西日本の各地に新しい農業を教えた大国主命ではない。大穴牟遅命は出雲神族(準王一族)の王の通称であった。出雲大社に祀られている神は出雲神族(準王一族)の歴代の王であった。
 百済出身の藤原氏は百済(馬韓)出身の準王一族の残党であったと思われる。藤原氏は倭国を乗っ取ってから準王一族のいたところを聖地にしている。出雲もその一つであり、出雲大社はそのモニュメントであった。
(2) 多芸志小浜は鳥取県湯梨浜町長瀬高浜にあった。タギシとは古代船の舵を意味する。江戸時代まであった石山が舵の柄であった。長瀬高浜が多芸志であった。出雲大社のモデルは長瀬高浜遺跡の径2.5mの4本柱の高床式建物跡のSB40であった。
 その原型は北栄町上種の大宮神社にあった。「天つ神の御子(瓊々杵命)の壮大な天の宮殿のように」とあるので、縄文人の猿田彦一族は北栄町上種の大宮神社に高い建物を建てていた。それを見に行った大国主はうらやましく思っていた。天孫族の建てる宮殿は高くて壮大な宮殿であった。それは須勢理姫と逃げる時に父親の素戔嗚に言われていたのにいまだ実現していなかった宇迦能山(大神山=伊那佐山=茶臼山)の麓に建てるべき太い柱の高い宮殿であった。
 猿田彦一族は天忍穂耳の指示で宇迦能山(大神山=伊那佐山=茶臼山)から2kmほど離れた長瀬高浜(多芸志の小浜)に高い建物を建てた。この建物の機能は大陸から渡来する船の目印になるためであった。天日矛が断られた難波(東郷池)の海峡の神はここにいた。
 出雲大社はこの建物をモデルにして奈良時代以降に藤原氏によって殷王朝末裔の準王が列島に最初に上陸したところに建てられた。


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