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千三百年の間、藤原氏に消されてきた伯耆国(鳥取県中西部)の真実の歴史が、今よみがえる。

邪馬台国・卑弥呼 その1 ブログトップ
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​三神社の由緒に見る稚日女命(卑弥呼)と神功皇后(台与)との関係 [邪馬台国・卑弥呼 その1]

1 神戸の生田神社の由緒


 当社にお祀りする稚日女尊は、我国における最高神太陽神と崇められ伊勢神宮内宮にお祀りされる天照大神の「和魂あるいは妹神」と伝えられ、稚くみずみずしい日の女神様であり、物を生み育て万物の成長を御加護する神様です。神功皇后が海外外征の帰途、紀伊の水門から難波へ向かったところ、海中で船が動かなくなった。そこで務古の水門に船を泊めて神占を行ったところ、稚日女尊が現れられ「吾は活田長峡国に居らむ」と託宣したので、海上五十狭茅に祀らしめた。


 稚日女尊は「若々しい日の女神」の意味で、天照皇大神ご自身であるとも、妹あるいは御子であるともされる。生田神社では、天照皇大神のご幼名とする。


2 三重県の伊射波神社の由緒


 稚日女尊は天照大神の「妹君、分身」とも云われ、第十五代応神天皇の母君である神功皇后の崇敬厚く、神功皇后が筑紫国(九州)から倭国に凱旋した折にも、常に御許においてお祭りされていました。


3 和歌山県の玉津島神社の由緒


稚日女尊は、天照大神の「御妹」に当たられる。長足姫命は即ち神功皇后である。神功皇后が海外に軍をおすすめになられた時、玉津島の神(稚日女尊)が非常な霊威をあらわせられたため、神功皇后これに報われ、御分霊を今の和歌山県伊都郡かつらぎ町天野の地にお鎮めもうしあげ、爾来、玉津島・天野に一神両所に並び立ち、毎年天野の祭礼に神輿がはるばる天野から玉津島に渡御する所謂『浜降りの神事』が応永の頃(1429年)まで行われた。玉津島の神を尊崇せられた神功皇后は、後に卯の年月にちなみ、御自身も合祀されることとなった。


4 稚日女命と神功皇后との関係(ある方の思い)


 神功皇后が凱旋したときに、なぜか往路では登場しなかった、稚日女尊が「私は活田長峡国に鎮座しましょう」とおっしゃた。いつの間に船に乗ったのでしょう?


 神功皇后は殊の外、稚日女尊を尊崇せられた・・・としています。稚日女尊はご自分から先導を申し出られたのではなく、神功皇后が自ら願い出て、同行していただいた神である、と想像できます。ただ、その場合気になるのは優先順位です。既に、天照大神・事代主命・住吉三神が「わしらに任せとけ!」とおっしゃってるのに、稚日女尊に援助を願うというのは、前者三方にとっては失礼なことです。また、稚日女尊は天照大神の「妹神」です。天照大神の家系が「女系」であり、しかも「末子相続」のお家事情があるならば、天照大神より高位ということも考えられる。しかし、天照大神より高位だとすれば、「稚」なんて文字使いますか???


 その姫は、天照大神よりも、住吉三神よりも、事代主命よりも、ずっと力の強い神であった、とか。女性でありながら、海外まで戦に出かけ、そして、勝利したとされる女傑・神功皇后も、天照大神も一目置く女神であった、ということならば納得できるんですが・・・。


5 私見


 稚日女命は魏志倭人伝の「卑弥呼」であり、神功皇后は魏志倭人伝の「台与」であった。


(1)稚日女命は「卑弥呼」である。


 ある方の思いからすると、稚日女命は天照大神・事代主命・住吉三神や神功皇后よりも高位でなければならない。


 稚日女命は鳥取県神社誌で日野郡日光村吉原神社の祭神になっている。鬼との戦場に近い日野郡日光村の山田神社には孝霊天皇がいた。孝霊天皇にお告げをした天津神とは奥隣の吉原神社にいた稚日女命であった。稚日女命は、(幼き頃より、神意を伺い、まじない、占い、知能が優れており、聡明で、物事を予知する能力を持っていた)倭迹迹日百襲姫命と同一人物であり、父の孝霊天皇の近くにいて鬼を平定するための知恵を授けた。


 海部氏勘注系図にある9世孫の妹の日女命(またの名は倭迹迹日百襲媛命)は邪馬台国の女王であり魏志倭人伝の卑弥呼である。稚日女命は天照大神の「妹」ではなく、藤原氏の神社庁に「稚」を付けられた孝霊天皇皇女の倭迹迹日百襲媛命であった。稚日女命は全国各地の神社の祭神となっている。


 稚日女は天照大神の「妹」ではない。稚日女は卑弥呼であり、天照大神は徐福であった。日本(百済)の神社庁による倭国の神社の由緒の改ざん強奪である。


(2)神功皇后は「台与」である。


 系譜を調べたところ、12代倭国天皇は武内宿禰の父の屋主忍男武雄心命となる。豊鋤入姫は12代倭国王の妹であり武内宿禰の叔母になる。梁書倭伝に「また卑弥呼の宗女、台与を立てて王にした。その後、また男王が立ち、並んで中国の爵命を受けた」(復立卑弥呼宗女台与為王 其後復立男王並受中国爵命)とある。台与は豊鋤入姫であり男王は武内宿禰であった。二人は一緒に行動していた。古事記・日本書紀の神功皇后の段でも武内宿禰が一緒に行動している。神功皇后のモデルは豊鋤入姫であった。


 神功皇后は新羅に敵対する皇后として日本(百済)書紀に描かれている。倭国は鳥取県中部であったから、鳥取県中部に最短で到着できる千年続いた新羅は倭国の敵ではなく倭国の盟友であった。「神功皇后は倉吉市上神におり、倉吉市北面(つくしの日向)で出産した」という伝承が残っている。神功皇后は倭国(鳥取県中部)の皇后であった。他の伝承に比べて不自然なほど多く残る北部九州の神功皇后の伝承は藤原氏によって創作されたものである。神功皇后は倭国の皇后ではなく新羅に敵対していた百済の皇后として描かれている。神功皇后は原古事記にあった豊鋤入姫の旧事をもとにして百済色に色濃く改ざんされて描かれている。神功皇后は不比等をはじめとする百済史官によって改ざん創作された。


(3)藤原氏は倭国を乗っ取り、皇統が途切れたことがわかっているから、あえて万世一系の皇統と戦前まで言い続けてきた。今でも明治政府(藤原氏の政府)が創った東京大学の教授は万世一系の皇統と言い続けている。日本という国名は669年の百済王天智の発案である。日本(百済)書紀は不比等の創作であり、勝者の日本(百済)の歴史書である。敗者の倭国(鳥取県中部)の歴史書は書き換えられ葬り去られる。


 古代史が混迷に陥っている原因は、藤原氏が作った官制の日本(百済)書紀に間違いはない、あってもわずかな部分だけだろう、と思っているからです。天武天皇が作らせた原古事記には高市大王まで書いてあったはずである。それを、改ざんして日本(百済)書紀を作り、原古事記の後半部分は消し去った。しかも、古事記に残っているものでさえ、半分近くは書き換えられている。その書き換えられた本当の部分を明らかにするのがこれからの古代史研究家に託された使命であると思う。その大前提はやまと(大和)は奈良ではなく、本当のやまと(倭)は鳥取県中部であったということである。


 例えば、神功皇后は倭国(鳥取県中部)にいた皇后(伝承が残る)であったが、倭国と敵対していた百済色に色濃く変えられているし、出雲国・伊勢国と書かれているところは後で藤原氏が書き換えていると思いながら読む必要がある。神武天皇の兄の稲飯命が海原に入ったと書いているが、これも対岸の朝鮮半島(辰韓)に渡ったというのが真実であり死んでいない。稲飯命の母の玉依姫は朝鮮半島(辰韓)から来ている。決して竜宮城からではない。邇邇芸と木花開耶姫の話は人間臭い話であり今でもありそうな話で、原古事記の改ざんはほとんどないと思われる。しかし、その子(彦火火出見)や孫(ウガヤフキアエズ)の話は大陸に似たような話があり、大陸出身の百済史官が書き換えた可能性がある。また神武東征も原古事記にあった「神武たちが蝦夷を平定して鳥取県中部(倭国)に帰ってきた物語」を書き換えたものである。


 日本(亡命百済王朝)は強奪に喜びを感じる扶余族であり、金品だけでなく、人間、名前、系譜、歴史など、何でも強奪する。強奪だから奪うときに人殺しをする。奪うこと(辻褄合わせ)の一貫で犠牲者(自殺者)が出ても知らん顔(死んで生贄になってください)である。


 明治政府は扶余族の藤原五摂家で始まった。神社庁も教育委員会も内閣官房・内閣府(明治維新の藤原太政官制が母体)も各省庁も扶余族の藤原五摂家(明治維新の太政官制)が先祖であるので、現在進行形で本当の歴史を消すこと(歴史の強奪)に躍起になっている。ここでは具体的に例示しないが、今でも、影に隠れて悪いことをしている。


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倭国大乱における卑弥呼(稚日女命)の痕跡 [邪馬台国・卑弥呼 その1]

 稚日女命(倭迹迹日百襲媛命)は四国(讃岐)より応援にきて瀬戸内・吉備国を平定し鳥取県の東部から中部・西部・出雲国と平定していった。この倭国大乱(弥生後期)以降中国地方では青銅器(銅鐸・銅剣・銅矛)が作られなくなった。中国地方以外では弥生後期も青銅器(銅鐸・銅剣・銅矛)が製造されている。
 孝霊天皇一族は鳥取県東部・中部・西部を平定した。特に西部では、妻木晩田を拠点としていた出雲族を追い払い、南部町の手間山に逃げ込んだ出雲族(大国主の兄の八十神)を手間山の麓で捉えた。鬼住山、大倉山、鬼林山の鬼(出雲神族=準王一族)と鬼の発生元の出雲も平定して出雲族を降伏させ倭国大乱は終結した。加茂岩倉遺跡や荒神谷遺跡の青銅器はこの時に埋められた。

 稚日女命(卑弥呼)が祀られている神社

1 瀬戸内・吉備国の平定、新見の石蟹への攻撃
岡山県岡山市青江170 天野八幡宮
岡山県真庭郡勝山町大字若代2878 八幡神社
岡山県久米郡中央町打穴北124 磐柄神社
岡山県久米郡旭町西川上90 徳尾神社摂社杉尾神社
岡山県津山市沼430 齋神社
岡山県津山市綾部1086 綾部神社
岡山県真庭郡久世町大字久世948 朝日神社
岡山県苫田郡奥津町久田下原43 久田神社
岡山県浅口郡金光町大字下竹736 大森神社
岡山県浅口郡金光町大字占見新田1663 大森神社 大森神社
広島県福山市赤坂町大目456 生田神社
広島県呉市西川原石町6-21 照日神社
広島県広島市安芸区船越4-13-1 岩瀧神社摂社新宮社
広島県廿日市市串戸3丁目7-1 廣田神社
山口県玖珂郡周東町獺越1462 河内神社
山口県玖珂郡周東町大字三瀬川845 河内神社
山口県玖珂郡美和町大字阿賀432 速田神社

2 土蜘蛛の平定
 鳥取県岩美郡国府町大字新井395 折井神社
※ 近くに武王大明神(倭建命)を祀った神護神社があるのでここでも出雲族(土蜘蛛)を平定している。

3 妻木晩田を攻撃し、南部町手間山に逃げ込んだ出雲族(兄の八十神)を麓で捉えた。ただし、孝霊天皇や倭姫命を祀っている神社も合わせて初めてこの史実がわかる。
鳥取県西伯郡大山町上万1124 壹宮神社
鳥取県西伯郡名和町大字古御堂378 前田神社
鳥取県西伯郡名和町大字加茂477 賀茂神社
鳥取県西伯郡淀江町大字西原767 日吉神社
鳥取県西伯郡西伯町大字馬場1 長田神社

4 鬼住山への攻撃
岡山県真庭郡川上村西茅部1501 茅部神社
岡山県真庭郡八束村中福田392 福田神社
鳥取県日野郡江府町大字吉原903 吉原神社
※ 栃原の山田神社には孝霊天皇が祀られている。
鳥取県西伯郡岸本町番原727 植松神社

5 大倉山の鬼
鳥取県日野郡日野町舟場851 嚴島神社

6 鬼林山の鬼
鳥取県日野郡日南町新屋70 多里神社
広島県庄原市市町1599 田原神社

7 出雲本隊への攻撃(山越)
島根県安来市赤江町400 安屋神社
島根県大原郡大東町大字中湯石1446 日原神社
島根県大原郡大東町大字遠所754 艮神社
※ 出雲の振根を倭建命が殺したのもこの時である。加茂岩倉遺跡や荒神谷遺跡の青銅器はこの時、隠された。

8 西国平定
※ 神倭磐余彦たちと同じように山口県光市から船で大分県宇佐に渡った。
大分県宇佐市大字南宇佐2859番地 宇佐神宮摂社養蚕神社
大分県宇佐市大字下矢部666番地 歳神社
大分県大分市大字上宗方316番地 大明神社
大分県津久見市大字徳浦87番地ノ1 徳浦神社
※ 熊本県に行く途中の阿蘇山の周辺で多くの鬼八を平定している。弥生時代後期の鉄鏃が阿蘇山の周辺で三百余り出土している。この時代、鉄鏃を使用していたのは、鳥取県中部にいた一族であった。
熊本県玉名郡南関町四原1538 柿原神社  
※ 和水町の江田船山古墳の近くに熊襲はいた。
熊本県玉名郡長洲町長野1274 四王子神社 摂社若一皇子社
※ 熊襲のあとは天草を平定している
熊本県天草郡河浦町河浦5015-2 一町田八幡宮
熊本県天草郡河浦町路木2777 路木十五柱神社摂社生田神社
熊本県牛深市牛深町3198 牛深八幡宮摂社岡郷金刀比羅神社

9 中国へ行く拠点を朝鮮半島につくって(任那を初めて開設した)新羅から帰ってきた(173年)。
出港 佐賀県伊万里市黒川町小黒川405 若宮神社
※ 稚日女は若宮神社から朝鮮半島に向けて出港した。
帰港 島根県簸川郡大社町大字日御碕455 日御碕神社 摂社立花神社
※ 天照大神と須佐之男も辰韓から最初に出雲の日御碕神社に寄港しているので、稚日女と倭建命も朝鮮半島の新羅から出港している。海流の流れがそうなっている。
島根県八束郡美保関町片江721 方結神社
※ 片江を経由して鳥取県北栄町大島に帰還している。

10 倭国歴史書原本には倭国大乱についても記載があった。稚日女(倭迹迹日百襲姫命)は孝霊天皇と大吉備津彦と若日子建吉備津日子(倭建命)との連携で鬼や出雲軍本体を攻撃したことは明確に書いてあったはずである。しかし、藤原氏は自分たちの先祖が平定されていく様を残すわけにはいかず、古事記・日本書紀には直接には書かなかった。

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稚日女命は、勘注系図9世孫の妹の日女命(倭迹迹日百襲姫命)と同神であり、卑弥呼である [邪馬台国・卑弥呼 その1]

 稚日女命は、勘注系図9世孫の妹の日女命(倭迹迹日百襲姫命)と同神であり、卑弥呼である。


1 卑弥呼は孝霊天皇の皇女の「日女命またの名は倭迹迹日百襲媛命」と言う説が有力であり、調べてみることにした。


 孝霊天皇は鳥取県神社誌の祭神になっており、祀られている神社の分布図を作ってみた。すると、昭和9年の時点で鳥取県は2市7郡であったが、出雲国に隣接する2郡(西伯郡と日野郡)に集中していた。卑弥呼が孝霊天皇の皇女の「日女命またの名は倭迹迹日百襲媛命」ならば、出雲国に隣接する2郡に父の孝霊天皇と一緒に分布しているはずである、という推測のもとに鳥取県神社誌を調べてみた。ところが、祭神として日女命も倭迹迹日百襲媛命も祀っている神社はなかった。その代わり、稚日女命と倭姫命を祀っている神社が出雲国に隣接する2郡(西伯郡と日野郡)に見つかった。しかも、孝霊天皇の祀られている神社と関連があるような位置関係である。もしかしたら、稚日女命は日女命と同神ではないか。倭姫命も倭迹迹日百襲媛命と同神ではないかとの推測のもと調べてみた。


 古事記・うけいの勝負において「織女の一人は、機具の梭の端(はし)のところで陰処を突き、それがもとで死んでしまった」とあり、日本書紀の一書に「稚日女命は梭で身体を傷つけられて死なれた」とある。また、日本書紀・崇神天皇において「倭迹迹日百襲媛命は箸(はし)で陰部を撞いて死んでしまわれた」とある。日本書紀を信じるかぎり、稚日女命はただの織女で倭国女王の卑弥呼ではないと思われる。


 しかし、まてよ倭迹迹日百襲媛命も陰部を撞いて死んだことにしている。何か関連がありそうだ。しかも稚日女命は日女命と似ている。大「王」も大「臣」に変えられている。もともと倭国では祭神「日女命」とあったものを日本が倭国を乗っ取ってから「稚」を付けて「稚日女命」にしたのではないのか。


2 私見


(1) 鳥取県旧溝口町の鬼の館の説明文には「孝霊天皇は天津神のお告げに従って、笹の葉を笹苞山に積み上げて南風で鬼住山に吹かせた」とある。


スクリーンショット 2021-03-10 114624.jpg


 饒速日に十種の神宝を与えたのは天神の御祖神とする。じつは饒速日と須佐之男は鳥取県中部の哮峰で会っており天神の御祖神とは須佐之男のことであった。しかし、須佐之男は出雲の神とし饒速日は大阪の生駒山の上を岩船で飛び回っていたことにしたので、天神の御祖神が須佐之男ということは隠さなければならなかった。


 「笹の葉を笹苞山に積み上げて南風で鬼住山に吹かせよ」とお告げをしたのを稚日女と書けば、孝霊天皇の背後にいてお告げをした稚日女は神意を伺い・まじない・占い・知能の優れた孝霊天皇皇女の倭迹迹日百襲姫ではないかと疑われてしまう。そう思わせないために天津神という代名詞を使った。


 倭迹迹日百襲姫の弟の大吉備津彦と若日子建吉備津日子は吉備国を平定した(古事記)。一族は吉備国と接する伯耆国にも来ていた。伯耆国には孝霊天皇一族を祀る楽々福神社が多くある。倭迹迹日百襲姫は伯耆国で父の孝霊天皇と一緒に行動していた。


 「稚日女命」でわかったことは、もともと祭神を日女命として祀られていた全国の多くの神社に「稚」をつけさせた今の神社庁は、最初に神社を創った神社組織とは別の神社組織であるということである。倭国を日本に変えたのも雅でないからではなくて別の国だからである。万世一系の皇統とはいうだけで実は連続していなかった。


(2) 倭国歴史書原本を読んだ藤原不比等や百済史官にとってみれば、非常に面白くない。弥生時代後期に倭迹迹日百襲姫や若日子建吉備津日子の倭朝廷によって全国と半島はすでに統一されていた記録を残すわけにはいかなかった。


 日本書紀を作るにあたって、卑弥呼(日女命)を死んだことにするために、古事記の高天原で死んだ天衣織女を替え玉にすることを思いついた。それが稚日女命である。倭国では日女命はすでに全国の神社の祭神となっていた。日本は日女命を祀っている全国の神社に指示を出し、稚日女命に変えさせた。


 全国に祀られている稚日女命ももとは日女命(卑弥呼)であった。全国の神社は藤原氏が掌握していたから、日女命に「稚」を付けさせることぐらい、簡単なことであった。全国をネットワークでつなぐため、八幡神社だけでなく賀茂神社や日吉神社や天満宮や春日大社も藤原氏が造ったものである。もと社以外の浅間神社や諏訪神社も藤原氏が作り、ネットワークに組み込んだ。


(3) 鳥取県神社誌に見る孝霊天皇と稚日女命を祀る神社


 鳥取県神社誌が刊行された昭和9年の時点で鳥取県は2市7郡であった。そのうちの孝霊天皇(10社)と稚日女命(8社)を祀る神社は出雲国に接する2郡(西伯郡と日野郡)に集中している。孝霊天皇と稚日女命は協力して出雲国に接する西伯郡と日野郡で鬼(出雲神族)と戦っていた。


 日光村での陣形(女性を敵から遠い背後に置く)は倭国大乱を同じ時期に戦った孝霊天皇と稚日女命(倭朝廷)の陣形と思われる。


 鳥取県神社誌より孝霊天皇と一緒に鬼(出雲神族)と戦っていた稚日女命は稚を付けられた日女命(神意を伺い・まじない・占い・知能の優れた孝霊天皇皇女の倭迹迹日百襲姫)であった。卑弥呼=稚日女命=日女命=倭迹迹日百襲姫命となる。


3 次に、稚日女命は「倭姫命世記」の倭姫命と同神となるか。


(1) 倭姫命は草薙剣を持っていたので女王であった。女王だから卑弥呼と思われる。倭姫命=卑弥呼=稚日女命である。


(2) 倭姫命も倭迹迹日百襲姫命も水稲の普及に尽力しており、同一人物と思われる。


(3) 勘注系図では11世孫の妹である日女命の亦の名として稚日女命と倭姫命を記載している。


(4) 倭姫命は海女の祖お弁にアワビを奉納されている。稚日女命もアワビを奉納されている。海女にアワビを奉納される姫が何人もいたとは思われない。


(5) 伊射波登美が仕えた倭姫命のいた伊雜宮(志摩市磯部町)は伊射波登美の本宮(安楽島町)から遠いが伊射波神社(安楽島町)は伊射波登美の本宮(安楽島町)と近い。伊射波登美は稚日女命がいた伊射波神社に行き来していたと思われる。倭姫命に仕えた伊射波登美を稚日女命を祀る伊射波神社の祭神にしている。伊射波登美は稚日女命にも仕えていた。伊射波登美は複数の姫に仕えていたとは思われない。


スクリーンショット 2021-03-11 154127.jpg


 以上により、高い確率で稚日女命=倭姫命と思われる。卑弥呼=稚日女命=日女命=倭迹迹日百襲姫命(笠井新也・肥後和男説)=倭姫命(内藤湖南説)となる。


 倭迹迹日百襲姫命(笠井新也・肥後和男説)は孝霊天皇の皇女であるが、倭姫命は日本書紀・倭姫命世記では11代垂仁天皇の皇女になっている。倭姫命(内藤湖南説)は本当に11代垂仁天皇の皇女であろうか。


4 「倭姫命世記」について


 倭姫命は巻向で祭祀をすることになったので安全な居所を探すための巡行をした。


 豊鋤入姫命の巡行については、別稿「倭姫命世記において豊鋤入姫の巡行した本当の比定地」を参照されたし。それを見ると倭朝廷(鳥取県中部)に深く関係する一族がいた地域であることがわかる。魏志倭人伝に「卑弥呼が亡くなり男王が立ったが国中が不服で互いに殺しあった。台与を立てて王と為し、国中が遂に安定した」とある。台与は豊鋤入姫命以外見つからない。なぜ豊鋤入姫命は倭朝廷に深く関係する一族がいた地域を巡行しなければならなかったのか。それは倭朝廷に深く関係する一族がいた地域で互いに殺しあっていたからである。なぜ互いに殺しあっていたかは、倭国女王の倭姫命が亡くなって悲観したのと男王に対する失望からである。倭姫命の巡行と豊鋤入姫命の巡行は目的も時代も違うものであった。


 藤原氏は全国を統一した倭姫命の事蹟を消したかったのだろうが、伊勢神宮を創建した由来を創らなければならなかった。伊勢神宮を創建した由来の「倭姫命世記」を作るために、本来孝霊天皇の皇女であった倭姫命の奈良の宇陀から志摩の伊雜宮まで巡行した事蹟を利用することを考えた。


 しかし、倭姫命の巡行は宇陀から始まるためなぜ宇陀から始まるのか説明できない。藤原氏は三輪神社(本当は鳥取県北栄町の三輪神社)で終わる豊鋤入姫命の巡行を倭姫命の巡行の前に持ってくることを考えた。欠史8代とすることはできなかったので豊鋤入姫命は10代崇神天皇の皇女、倭姫命は11代垂仁天皇の皇女とした。巡行目的も一つにした。国史(日本書紀・倭姫命世記・勘注系図)はすべてこれで統一した。


 本来、二人の巡行は目的も時代も違うものであった。豊鋤入姫命の巡行は倭姫命が亡くなってからおこなわれた。倭姫命は孝霊天皇の皇女であり、豊鋤入姫命は孝元天皇皇子の彦太忍信命の娘(葛木志志見興利木田忍海部刀自)であった(住吉大社神代記)。彦太忍信命の娘(葛木志志見興利木田忍海部刀自)が神功皇后のモデルである。彦太忍信命の孫の武内宿禰大王と行動をともにした。11代垂仁天皇と彦太忍信命は従兄弟の関係になる。11代垂仁天皇には後継ぎがおらず、12代は彦太忍信命の子の屋主忍男武雄心命であった。12代は11代の反省から子孫を多く作ることに励んだ。古事記では12代の子は80人いたとする。


5 海部氏勘注系図について


 籠神社の主祭神は717年に藤原氏によって変えさせられている。藤原氏によって殺されるかもしれないという恐怖のもとに、717年に勘注系図も書き換えられている。同一神であるわけがない神名を亦名、一云、として多く書いたのは説明する時に藤原氏の目を眩ますためであった。


 9世孫乙彦命(彦國玖琉命)の妹の日女命。亦名、倭迹迹日百襲媛命これだけが参考になる。


 勘注系図はこれ以上深入りすべきではない。これ以上深入りすると、藤原氏の目を眩ますために書かれたあり得ない同一神に惑わされ、泥沼に入り込む。


6 参考


※ 海部氏勘注系図に見る卑弥呼と台与の候補


(1)6世孫 大倭姫、


○宇那比姫命、亦名、天造日女命、一云、竹野姫命、亦云、大海靈姫命、亦云、日女命云々


(2)9世孫 乙彦命(彦國玖琉命) 


妹 日女命、亦名、中津姫命、亦名、倭迹迹日百襲媛命、亦名、神大市姫命、一云、千千速日女命、一云、日神


(3)10世孫 


妹 大倭姫、一云、天豊姫命、一云、豊鋤入姫命、一云、豊受姫荒魂命、一云、大御気津姫命、一云、大宜都日女命、一云、天照姫命、亦云、五百野姫命、一云、葛木高額日女命、一云、息長水依日女命


(4)11世孫 小登與命(御間木入彦命)


妹 日女命 亦名、稚日女命、亦名、日神荒魂命、亦名、豊秋津姫命、亦名、御気津姫命、亦云、宮簀姫命、一云、玉依姫命、一云、小豊姫命、一云、豊受姫命、一云、活玉依姫命、一云、倭国香姫命、一云、倭姫命、一云、向津姫命、一云、大海姫命、一云、倉稲魂命 


※ 鳥取県神社誌


 大日本根子彦太瓊天皇(孝霊天皇)


(1)高杉神社 西伯郡大山町大字宮内字早稲ノ上


    現住所 西伯郡大山町宮内


(2)楽々福神社 西伯郡東長田村大字東上字原ノ上


     現住所 西伯郡南部町東上


(3)楽々福神社 西伯郡尚徳村大字上安曇字宮ノ谷


     現住所 米子市上安曇


(4)楽々福神社 日野郡溝口町大字宮原字宮ノ上


     現住所 西伯郡伯耆町宮原


(5)楽々福神社 日野郡日野上村大字宮内字東宮ノ廻り


     現住所 日野郡日南町宮内1101


(6)楽々福神社 日野郡日野上村大字宮内字西馬場ノ筋


     現住所 日野郡日南町宮内1101


(7)天萬神社 西伯郡手間村大字天萬字下宮尾


    現住所 西伯郡南部町天萬


(8)菅福神社 日野郡黒坂村大字上菅字宮本


    現住所 日野郡日野町上菅


(9)日谷神社 日野郡山上村大字笠木字足羽


    現住所 日野郡日南町笠木


(10)山田神社 日野郡日光村大字杼原(栃原の誤植と思われる)字村屋敷


    現住所 日野郡江府町栃原


 稚日女命


(1)平岡神社 西伯郡淀江町大字平岡字向山


    現住所 米子市淀江町平岡


(2)富岡神社 西伯郡高麗村大字妻木字山根


    現住所 西伯郡大山町妻木


(3)前田神社 西伯郡庄内村大字古御堂字於局


    現住所 西伯郡大山町古御堂


(4)古林神社 西伯郡名和村大字加茂字以屋谷


    現住所 西伯郡大山町加茂


(5)前田神社 西伯郡法勝寺村大字西字宮ノ前


    現住所 西伯郡南部町西


(6)岩崎神社 日野郡多里村大字湯河字宮ノ前


    現住所 日野郡日南町多里


(7)吉原神社 日野郡日光村大字吉原字牛王ガ市


    現住所 日野郡江府町吉原


(8)大原神社 日野郡八郷村大字大原字貝市


    現住所 西伯郡伯耆町大原



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台与は豊鋤入姫命であり、景行天皇の妹であった [邪馬台国・卑弥呼 その1]

 ​​ 台与は豊鋤入姫命であり、景行天皇の妹であった


​​1 魏志倭人伝の卑弥呼と台与と国史における倭姫命と豊鋤入姫命


(1) 魏志倭人伝によると「倭国は乱れ、相攻伐すること歴年、乃ち一女子を共立して王と為す。名は卑弥呼という。鬼道に事え能く衆を惑わす」とあり「更に男王を立つ。国中服さず。更に相誅殺し、当時、千余人を殺す。復(また)、卑弥呼の宗女、壹與、年十三を立てて王と為す。国中遂に定まる」とある。


 「台与は卑弥呼の宗女」とある。宗女とは宗室(王室)の女子のことである。台与は卑弥呼の属する宗室(王室)の女子であり「王の娘」である。


 国史において豊鋤入姫命は崇神天皇の皇女とされる。豊鋤入姫命は台与(トヨ)と発音も似ているので、魏志倭人伝の台与(トヨ)と思われる。卑弥呼も宗室(王室)の女子と思われる。卑弥呼は倭国大乱の時代の天皇の皇女(王の娘)であった。


 倭国大乱(146年~189年)後に女王となった卑弥呼の父は孝霊天皇(120年~211年)と思われる。孝霊天皇は鳥取県西部で鬼(出雲族)と戦っていた。孝霊天皇の皇女で卑弥呼にふさわしいのは倭迹迹日百襲媛命である。


(2) 日本書紀・垂仁天皇には「天照大神は崇神天皇皇女の豊鋤入姫命から離され、垂仁天皇皇女の倭姫命に託された。その後、倭姫命は大神を奉斎しながら諸地方を遍歴し、伊勢に行き着く」とある。また、倭姫命世記は「天照大神は豊鋤入姫命を御杖代として各地を巡幸していたが、豊鋤入姫命が老年になるに及んで御杖代を皇女倭姫命に交代した。倭国、彌和乃御室嶺上宮までは豊鋤入姫命が、以後は倭姫命が天照大神の御杖代となって諸国を巡幸した」とする。


(3) 台与を豊鋤入姫命とし卑弥呼を倭姫命に比定すると、国史と魏志倭人伝とは順番が違う。どちらが正しいだろうか。


 疑問や矛盾の多い国史より魏志倭人伝のほうが正しいと解すべきである。国史では「豊鋤入姫命は崇神天皇の皇女」とするが、これは倭国を乗っ取った藤原氏による系譜の改ざんである。


 倭姫命世記は「天照大神が高天原に坐して見し国(伊勢国)に坐せ奉る」ために天照大神を奉戴して巡行した、とする。しかし、伊勢神宮ができた由来とするには説得力がない。何を言っているのかわからない。「天照大神が高天原から見た国に行きたい」では理由にならない。伊勢神宮でなければならない理由が書かれていない。倭姫命の巡行は宇陀、伊賀から始まるため、倭姫命の巡行の次に、豊鋤入姫命の巡行では伊勢神宮に行きつくことはできない。「天照大神が高天原から見た国に行かせる巡行」とするためには、倭姫命の巡行の前に、巡行が三輪神社(本当は鳥取県北栄町の三輪神社)で終わる豊鋤入姫命の巡行が必要であり、そのあと、宇陀から始まる倭姫命の巡行、としなければならなかった。伊勢神宮ができた由来を創作するために、目的も時代も違う巡行を整合性を図って順序を逆にして引き継いだとしなければならなかった。


(4) 倭姫命の巡行目的と豊鋤入姫命の巡行目的は違っていた。史実は「2世紀、倭姫命と倭建命の全国の準王一族(出雲神族)の平定が済んでから、倭朝廷と神戸にいた倭姫命(卑弥呼)が相談して奈良の纒向で神道の祭祀をすると決めて、倭姫命(卑弥呼)の安全な居所を探すために巡行し志摩国を都と定めた。3世紀、倭姫命(卑弥呼)が亡くなってから豊鋤入姫命(台与)は倭朝廷に深く関係する一族の倭姫命(卑弥呼)が亡くなった失望による誅殺を鎮め安定させる巡行をした」であった。2人の巡行は別の時代のそれぞれ違う目的の巡行であった。


 豊鋤入姫命が巡行した本当の巡行地は、倭国の笠縫邑は「鳥取県琴浦町八橋」であり、但波乃吉佐宮は「京丹後市丹後町の竹野神社」であり、倭国の伊豆加志本宮は「倉吉市長谷集落の長谷神社」であり、木乃国の奈久佐濱宮は「津山市二宮の高野神社」であり、吉備国の名方濱宮は「倉敷市上東」であり、倭国の彌和乃御室嶺上宮は「鳥取県北栄町下神の三輪神社」であった(別稿「倭姫命世記において豊鋤入姫の巡行した本当の比定地」を参考されたし)。鳥取県中部(倭国)が都であったから、但波乃吉佐宮(竹野神社)と木乃国奈久佐濱宮(津山市二宮高野神社)と吉備国名方濱宮(倉敷市上東)は都であった鳥取県中部(倭国)をとりまく周辺地域である。魏志倭人伝にある千余人が誅殺し合ったのもこれら6地域であった。彼らは倭朝廷に深く関係する一族であり、卑弥呼(倭姫命)が亡くなった失望により誅殺し合っていた。


(5) 孝霊天皇は鳥取県西部に残る楽々福神社の由緒、日野郡誌、溝口の鬼伝説などにより実在した天皇であり、鬼(準王一族=出雲神族)と戦った。孝霊天皇(120年~211年)は倭国大乱(146年~189年)の時代の天皇である。


 鳥取県日光村の山田神社にいた孝霊天皇に「笹の葉を積み上げて南風が吹くのを待て」と告げた天津神は隣りの吉原神社にいた稚日女命であり、稚日女命は「神意を伺い・まじない・占い・知能の優れた」孝霊天皇の皇女の倭迹迹日百襲姫命であった。志摩国一之宮の伊射波神社の祭神の稚日女命(倭迹迹日百襲姫命)と志摩国に神界を定めた倭姫命は同一神であった(別稿「倭姫命は『迹々日百襲』を省略された倭迹々日百襲姫命であった」を参照されたし)。


 卑弥呼は宋女(王の娘)であった。孝霊天皇と卑弥呼は共に倭国大乱の時期を生きており、卑弥呼(日皇女)は孝霊天皇の宋女(王の娘)の倭姫命(倭迹迹日百襲姫命)であった。


(6) 全国を巡行して社を建て、準王一族(出雲神族)の銅鐸祭祀を道教の神道に変えさせる巡行は倭姫命がした。「倭姫命世記」は全国の平定後、倭王朝と倭姫命(倭迹迹日百襲媛命)が相談して奈良の纒向で全国の代表を集めて神道(鬼道)の祭祀をすると決めてから、倭姫命(倭迹迹日百襲媛命)の安全な居所を探すために、巡行した記録である。全国の準王一族(出雲神族)の平定は倭国大乱の間(146年~189年)に終わっている。全国の平定は台与の先代の卑弥呼がなしたことであり、台与は倭朝廷に深く関係する一族の卑弥呼が亡くなった失望による誅殺を鎮め安定させる巡行をした。


 倭姫命(倭迹迹日百襲媛命)は倭建命(若日子建吉備津日子命)と一緒に全国を平定しているから時代は倭国大乱の時代であり、倭姫命(倭迹迹日百襲媛命)は卑弥呼であった。


(7) 崇神天皇は全国を平定し、御肇國天皇(はつくにしらすすめらみこと)と尊敬さているので、魏志倭人伝に言う信頼されない「男王」ではない。また、崇神天皇は90歳くらい(卑弥呼が亡くなる248年で)まで天皇であったとは思われない。卑弥呼が亡くなるまでに垂仁天皇に譲位していた。垂仁天皇の在位は崇神天皇から生前譲位を受けて卑弥呼が亡くなる248年頃までであった。卑弥呼が亡くなった後の「男王」は垂仁天皇の次の景行天皇であった。豊鋤入姫命(台与)は景行天皇(男王)の妹であった。


 豊鋤入姫命(台与)は倭朝廷に深く関係する一族の倭姫命(卑弥呼)が亡くなった失望による誅殺を鎮め安定させる巡行をした。豊鋤入姫命(台与)は崇神天皇や垂仁天皇の妹ではない。日本書紀は景行天皇の妹を倭姫命とするが、原古事記では景行天皇の妹は豊鋤入姫命であった。


(8) 原古事記には「孝霊天皇の皇女、倭迹迹日百襲媛命(倭姫命)」とあり、「垂仁天皇の皇女、豊鋤入姫命」とあった。藤原氏は、本来、垂仁天皇の皇女であった豊鋤入姫命を崇神天皇の皇女とし、本来、孝霊天皇の皇女であった倭姫命(倭迹迹日百襲媛命)を垂仁天皇の皇女とした。その動機は、伊勢神宮を創建したもっともらしい由来(鎌倉時代に執筆された神道五部書)を創らなければならなかったからである。


 倭姫命も豊鋤入姫命も欠史8代の皇女なり妹とすることは不比等の思いに反することになる。のちの藤原氏は崇神天皇も垂仁天皇も欠史8代ではないのでこの2天皇を利用した。


 ただし、景行天皇は架空の天皇であり、倭国12代大王は倭国13代大王武内宿禰の父の屋主忍男武雄心命であった(別稿「豊鋤入姫命(台与)は都を鳥取県中部(倭)に戻した」を参照されたし)。


 


2 海部氏勘注系図も豊鋤入姫命を先とし倭姫命を後にしている。


(1)6世孫 


大倭姫、宇那比姫命、亦名、天造日女命、一伝、竹野姫命、亦伝、大海靈姫命、亦伝、日女命云々


(2)9世孫 乙彦命(彦國玖琉命) 


妹 日女命、亦名、中津姫命、亦名、倭迹迹日百襲媛命、亦名、神大市姫命、一云、千千速日女命、一云、日神


(3)10世孫 


妹 大倭姫、一云、天豊姫命、一云、豊鋤入姫命、一云、豊受姫荒魂命、一云、大御気津姫命、一云、大宜都日女命、一云、天照姫命、亦云、五百野姫命、一云、葛木高額日女命、一云、息長水依日女命


(4)11世孫 小登與命(御間木入彦命)


妹 日女命 亦名、稚日女命、亦名、日神荒魂命、亦名、豊秋津姫命、亦名、御気津姫命、亦云、宮簀姫命、一云、玉依姫命、一云、小豊姫命、一云、豊受姫命、一云、活玉依姫命、一云、倭国香姫命、一云、倭姫命、一云、向津姫命、一云、大海姫命、一云、倉稲魂命


※ 私見


 海部氏勘注系図には11世孫の妹として日女命またの名「小豊姫命」とある。この「小豊姫命」を魏志倭人伝の台与(トヨ)とする説がある。さらに、11世孫の妹の日女命は、亦名として、稚日女命、倭姫命とも記されている。私は稚日女命、倭姫命を卑弥呼とするが、勘注系図では小豊姫命(台与?)のまたの名として稚日女命、倭姫命が書かれている。しかし、さらに、またの名として玉依姫命、日神荒魂命、豊受姫命、活玉依姫、倭国香姫、倉稲魂命が記載されている。玉依姫命は神武天皇の母親である。日神荒魂命は天照大神の別名である。豊受姫命は瓊々杵命と一緒に降臨した姫である。活玉依姫は大物主と結婚した姫である。倭国香姫は倭迹迹日百襲媛命の母親である。倉稲魂命は私見では豊受姫に比定している。


 これがみな同一人物ですか。「そんな馬鹿な」ですよ。これは見る者を混乱させるために記載したものと思われる。籠神社の宮司は、「主祭神は717年までは火火出見命であったがわけあって彦火明命に変えている」という。717年は日本書紀の編纂中である。「わけあって」とは藤原氏による生きるか死ぬかの威圧であった。今の海部氏勘注系図が書かれたのは日本書紀の編纂中である。日本書紀に合うように書かかされている。正しい系図が藤原氏の手に渡ったら書き直せと言われるに決まっている。従わなければ殺される。だから見る者を混乱させて書き直せと言われない書き方をした。日本書紀の順序に合っているから藤原氏の検閲をパスした。


 日本書紀は「天照大神は崇神天皇皇女の豊鋤入姫命から離され、垂仁天皇皇女の倭姫命に託された」とする。勘注系図では10世孫の妹に「豊鋤入姫命」の名が見え11世孫の妹に「倭姫命」の名が見える。「豊鋤入姫命」が先で「倭姫命」が後という順序は日本書紀に合っている。しかし本当は「倭姫命」が先で、「豊鋤入姫命」が後であり別々の巡行であった。本当の系譜は、「倭姫命」が9世孫(孝元天皇)の妹であり、「豊鋤入姫命」は13世孫(景行天皇)の妹であった。本来13世孫の妹の豊鋤入姫命を10世孫の妹に持ってきて、本来9世孫の妹の倭姫命を11世孫の妹に持ってきた。これで順序は逆になる。


 6世孫に大倭姫があるが、13世孫の妹の大倭姫命と10世孫の妹の大倭姫命との関係を見破った藤原氏に書き直すように言われ、13世孫の妹の大倭姫命を消してありもしない6世孫の大倭姫を書き加えたと思われる。


 勘注系図はこれ以上深入りすべきではない。ありもしない神名に惑わされ泥沼にはまり込む。


 


 


 


 



 


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「倭姫命世紀」は卑弥呼が祭祀場である奈良の纒向から離れた安全な居所を探すための巡行を記した記録であった [邪馬台国・卑弥呼 その1]

​1 「倭姫命世記」は卑弥呼が祭祀場である奈良の纒向から離れた安全な居所を探すための巡行を記した記録であった。はじめは、纒向から近い宇陀や伊賀も候補地であったが、敵対していた唐古・鍵遺跡(出雲神族である準王一族)などに近すぎて安全ではなく、巡行を続けて最終的な居所は志摩国に定めた。
 「倭姫命世記」に記されている伊勢国・伊勢神宮は藤原氏が創建したものなので、奈良時代後半以降に創建されており、倭姫命(151年~248年)の時代には存在しなかった。「倭姫命世記」に記されている伊勢国・伊勢神宮は鎌倉時代に京都の藤原氏が繋ぎ合わせ・改ざん・加筆したものである。
 藤原氏の作った日本書紀は原「倭姫命世記」を書換えている。「倭姫命世記」は藤原氏の手法からすれば、宮下文書におけるがごとくまず基本となる文書があり、それに自分たちの目的に合うように改ざんしていくということである。宮下文書は徐福が書いた原文があり、それを高天原は蒜山ではなく、富士山にあったと思わせるように書き換えていく、という手法である。
 これを「倭姫命世記」に当てはめるならば、卑弥呼が祭祀場である奈良の纒向から離れた安全な居所を探すための巡行を記した記録を基本とし、伊勢神宮の祭神である天照大神がどうして祀られるようになったか(天照大神が高天原に坐して見し国(伊勢国)に坐せ奉るための巡行)ということを主眼に変えて書かれている。「一書に曰く」があるので、これも藤原氏が書いたものである。巡行の最後に志摩国に神界を定めるのであるが、その時に連れて歩いた天照大神は志摩の磯部の伊雑宮に祀った。これが伊勢神宮の本家である。現在の伊勢神宮も卑弥呼の巡行の頃に創建されたように書いているが、実際には倭国を乗っ取って(734年)から、奈良時代後期に創建したものと思われる。日本書紀と同じように、古く見せるという手法である。

2 内藤湖南は「豊鋤入姫命→倭姫命とする国史は正しくて卑弥呼→台与とする倭人伝は誤り」とする。私見では「卑弥呼→台与とする倭人伝は正しくて、豊鋤入姫命→倭姫命とする国史は誤り」となる。
 日本(百済)は倭国を乗っ取っているから倭国の歴史を改ざんする動機がある。全国を統一した女王卑弥呼のいた邪馬台国(志摩国)を封印するため、藤原氏によって伊勢国・伊勢神宮は創られた。伊勢神宮は多くの八百万の神を集めたテーマパークである。藤原氏だから奈良時代以前ではない。伊勢神宮は奈良時代後半に造られている。
 倭姫命世記は「天照大神が高天原に坐して見し国(伊勢国)に坐せ奉る」ために天照大神を奉戴して巡行した、とする。安全な居所を探すための倭姫命の巡行は宇陀、伊賀から始まるため、倭姫命→豊鋤入姫命では巡行地が繋がらなくなる。「天照大神が高天原に坐して見し国(伊勢国)に坐せ奉るための巡行」とするためには、巡行が三輪神社(本当は鳥取県北栄町の三輪神社)で終わる豊鋤入姫命→倭姫命としなければならなかった。目的も時代も違う巡行を「天照大神が高天原に坐して見し国(伊勢国)に坐せ奉るための巡行」とするために、整合性を図って順序を逆にしなければならなかった。
 中国には改ざんする動機がない。国史より倭人伝のほうが正しいとして解釈すべきである。藤原氏の支配していた戦前では、「日本は倭国を乗っ取った」という前提は出せなかった。倭姫命は卑弥呼であり248年には亡くなっているから、全国を統一した卑弥呼のいた邪馬台国(志摩国)を封印するために奈良時代後半に藤原氏によって創られた伊勢神宮はまだできておらず、倭姫命世記に書かれている伊勢神宮は藤原氏が中世になって書き加えた出鱈目である。伊勢神宮は今も藤原氏(鷹司)が頂点にいる。この時代は卑弥呼(倭姫命)の創った磯部の伊雑宮しかなかった。倭姫命はその頃なかった伊勢国に引き返してはいない。安楽島町の伊射波神社を終の棲家として稚日女命(日女命=日皇女)に名を変えて生涯を終えた。
 
倭姫命は纒向で祭祀をすることになり、倭姫命の安全な居所を探すため21国を巡行したが、​倭姫命が亡くなって倭朝廷に深く関係する一族のいた地域では失望して誅殺しあった。豊鋤入姫命はその誅殺し合っていた地域を巡行した。倭姫命が女王になるまで都は鳥取県中部にあったから、豊鋤入姫命(台与)が誅殺し合っていた地域を平定するために巡行した6ヶ所は倭姫命が志摩国を都にするまで都であった鳥取県中部やその周辺である。​

 順番は倭姫命(卑弥呼)の全国の平定に準ずる巡行が先であり、豊鋤入姫命(台与)の誅殺し合っていた地域を平定するための巡行が後であった。

 卑弥呼の墓は箸墓古墳ではなく、径70m余りで鉄剣と土器も出土している安楽島町の松の鼻古墳(姫小松=稚日女命)と思われる。
 鳥取県中部(倭国)で弥生時代後期からの多くの古墳(ほとんど円墳)で発掘されている剣は例外なく鉄剣である。卑弥呼は7歳まで鳥取県湯梨浜町宮内の黒田庵戸宮(倭文神社)で育った。父親の不祥事(出雲神族の誤解)で但馬に疎開し、一年後さらに讃岐に疎開した。

3 倭姫命(倭迹迹日百襲姫命)と倭建命(若日子建吉備津日子命)は全国と半島を巡行してから、倭建命(若日子建吉備津日子命)と御真木入彦命(大吉備津日子命)は豊田市の猿投神社(開化天皇と崇神天皇)に居り、倭迹迹日百襲姫命(稚日女命)は神戸の布引(旧生田神社)にいた。倭迹迹日百襲姫命(稚日女命)は倭建命が亡くなった時は、まだ神戸の布引(旧生田神社)にいた。倭建命(開化天皇)が亡くなってから即位した崇神天皇(御真木入彦命)は鳥取県北栄町の下神(しもつみわ)集落の神浅茅原に全国の代表者を集めて倭迹迹日百襲姫命に祭祀をさせた。この時、崇神天皇は愛知県の猿投神社を本拠地とし、倭迹迹日百襲姫命(稚日女命)は神戸の布引(旧生田神社)にいた。しかし、東国から鳥取県中部まで来ることは大変であることが判り、奈良の纒向で全国の代表者を集めて祭祀をすることにした。しかし、奈良は平定したとはいえ青銅器文化の一族(出雲神族)が多くいた。1世紀には倭王朝に従って絵画土器を作っていたが、唐古・鍵遺跡や清水風遺跡などにいた一族はそれまで銅鐸を作っていた。青銅器文化の一族(出雲神族)は反乱することがあったので、崇神天皇をはじめとする倭王朝と卑弥呼は卑弥呼の安全な居所を探さなければならなかった。それが、志摩国であった。
 纏向遺跡よりアワビの貝殻が多く見つかっているという(世界ふしぎ発見より)。稚日女命にアワビを献上してからさらにアワビを献上した都の「朝廷」とは奈良の纒向にあった朝廷であった。稚日女命(倭姫命)は纏向遺跡と同時代の姫と思われる。多くの魚介類の中でアワビが好物の姫は多くないと思われる。倭姫命もアワビが好物であった。これは偶然ではなく稚日女命と倭姫命が同一姫であったからと思われる。海女の祖お弁が倭姫命にアワビを奉納した(海士潜女神社)のだから、魏志倭人伝の千人の采女は海女たちに重なり(千人の采女は海女になった)、卑弥呼は倭姫命(稚日女命)に重なる。
 稚日女命(倭姫命)は志摩国から吉野町宮滝経由で纒向まで行き、面をして祭祀をし、帰りは和歌山の玉津島神社から海流に乗って何日も掛けて安楽島町の伊射波神社まで帰った。女王となりしより見たものは少なかった。その頃、崇神天皇(大碓命)は皇居(鳥取県湯梨浜町長和田)と奈良の纒向との間の岡山県津山の中山神社(御真木)にいた。ここにも、猿の伝承が残る。



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邪馬台国(女王国)は志摩国であり、倭姫命は卑弥呼である [邪馬台国・卑弥呼 その1]

 

1  魏志倭人伝の女王国より「以北」21ヶ国
 女王國より以北はその戸数・道里は得て略載すべきも、その余の旁國は遠絶で、詳細を得ることができない。
 1.斯馬國(志摩国)。2.己百支國。3.伊邪國。4.郡支國。5.彌奴國。6.好古都國。7.不呼國。8.姐奴國。9.対蘇國。10.蘇奴國。11.呼邑國。12.華奴蘇奴國。13.鬼國。14.為吾國。15.鬼奴國。16邪馬國。17.躬臣國。18.巴利國。19.支惟國。20.烏奴國。21.奴國。此れ女王の境界の尽きる所なり。
※私見
 女王国より「以北」21ヶ国だから、最初に書いてある斯馬國(志摩国)が女王国であり邪馬台国である。

2 「倭姫命世紀」について

(1)倭姫命(卑弥呼)
1.大和国・宇多秋宮    (阿紀神社=奈良県宇陀郡大宇陀町)
2.大和国・佐々波多宮   (篠畑神社=奈良県宇陀郡榛原町)
3.伊賀国・市守宮     (宇流冨志禰神社=三重県名張市)
4.伊賀国・穴穂宮     (神戸神社=三重県上野市上神戸)
5.伊賀国・敢都美恵宮   (都美恵神社=三重県阿山郡伊賀町)
6.淡海国・甲可日雲宮   (頓宮=滋賀県甲賀郡内)
7.淡海国・坂田宮     (同=滋賀県坂田郡近江町)
8.美濃国・伊久良河宮   (天神神社=岐阜県本巣郡巣南町)
9.尾張国・中嶋宮     (酒見神社=愛知県一宮市今伊勢町)
10.  三河国渥美宮       (?)
11.  遠江国浜名宮       (?)
12.伊勢国・桑名野代宮   (野志里神社=三重県桑名郡多度町)
13.鈴鹿国・奈具波志忍山宮 (布気皇館太神社=三重県亀山市布気町)
14.伊勢国・阿佐加藤方片樋宮 (加良比乃神社=三重県津市藤方森目)
15.伊勢国・飯野高宮    (神山神社=松阪市山添町)
16.伊勢国・佐々牟江宮   (竹佐々夫江神社=三重県多気郡明和町)
17.伊勢国・伊蘓宮     (磯神社=伊勢市磯町)
18.伊勢国・大河之瀧原宮   (同=三重県度会郡大宮町)
19.  久求小野宮        (?)
20.伊勢国・矢田宮     (同=伊勢市楠部町)
21.伊勢国・家田田上宮   (神宮神田=伊勢市楠部町)
22.伊勢国・奈尾之根宮   (津長神社=伊勢市宇治)
23.  伊勢国 渡会宮      (?)
24.伊勢国・五十鈴宮     (?)
25.志摩国・伊雑宮     (同=三重県志摩郡磯部町)
(2)豊鋤入姫命(台与)
1.大倭国・笠縫邑     (檜原神社=桜井市三輪?)
2.丹波国・吉佐宮     (籠神社=京都府宮津市字大垣?)
3.大倭国・伊豆加志本宮  (与喜天神宮=桜井市初瀬字与喜山?)
4.木乃国・奈久佐浜宮   (日前、国懸神宮=和歌山市秋月?)
5.吉備国・名方浜宮    (伊勢神社=岡山市番町?)
6.大倭国・御室嶺上宮   (大神神社=桜井市三輪?)
 倭姫命(卑弥呼)には、安倍、大伴、物部、中臣、和珥(わに)氏など五人の有力将軍が随伴していた(倭姫命世記)。天照大神を戴くヤマト軍が侵攻してきたとき、その国の人々は、ヤマトの支配に従うか、それとも戦うかの選択を迫られた。
 大神は国名を問いかけた。国名を問われることは、帰順の諾否を尋ねられることであった。大神の問いかけに対し、国の長は従順に返答し、自分の国を差し出していった。「倭姫命世記」ではそれぞれの地からの釆女の貢上、地口や御田、物品の進上などが列挙されている。
 「倭姫命世紀」に倭姫(卑弥呼)が嶋(志摩)の国を巡行した折に「神堺を定めたまひき」とある。それは倭姫(卑弥呼)による志摩国の領有、王権の支配拡張を意味する。

※私見

 倭姫命が最後に至ったところが志摩国であり、そこに神堺を定めた。志摩国が倭姫命(卑弥呼)の邪馬台国である。

 倭姫命は全国と半島を平定した。ただ、この時は、祭祀場を大和国(奈良)の纒向に決めたが、倭姫命の「安全な居所を探すための」巡行(21国)であった。全国の平定も「倭姫命世紀」と同じやり方の巡行であったと思われる。

 現在、鳥取県東伯郡琴浦町に「笠見」集落がある。「笠見」という地名は全国でも少ない。ヤフー地図で検索すると真っ先に鳥取県琴浦町「笠見」がヒットする。「高城史」では立見は「楯検」であり楯を検査するところとする。同じく笠見は「笠検」であり笠を検査するところと思われる。倉吉市高城地区の立見と同じく、笠を縫う所もこの近くにあったはずである。すぐ隣の八橋が笠縫邑ではないかと思われる。八橋の地名由来は「八岐大蛇の恨みで加勢蛇川に8つの橋が架かったから八橋という」とするが、それは加勢蛇川周辺のことであって、上伊勢・下伊勢・浦安・徳万・保・丸尾などの集落を飛越えて、笠見の北に八橋の地名が来るのは不自然である。琴浦町八橋は古代「笠縫邑」であったと思われる。倭姫命世紀にある豊鋤入姫命の巡行をスタートした大倭国の「笠縫邑」とは鳥取県中部の琴浦町八橋であった。

​ 倭姫命が亡くなって倭朝廷に深く関係する一族のいた地域では失望して誅殺しあった。豊鋤入姫命はその誅殺し合っていた地域を巡行した。倭姫命が女王になるまで都は鳥取県中部にあったから、豊鋤入姫命(台与)が誅殺し合っていた地域を平定するために巡行した6ヶ所は倭姫命が志摩国を都にするまで都であった鳥取県中部やその周辺である。​

 順番は倭姫命(卑弥呼)の全国の平定に準ずる巡行が先であり、豊鋤入姫命(台与)の誅殺し合っていた地域を平定するための巡行が後であった。

 倭姫命世紀は「天照大神が高天原に坐して見し国(伊勢国)に坐せ奉る」ために天照大神を奉戴して巡行した、とする。しかし、伊勢神宮ができた由来とするには説得力がない。何を言っているのかわからない。「天照大神が高天原から見た国に行きたい」では理由にならない。伊勢神宮でなければならない理由が書かれていない。原本にあった安全な居所を探すための倭姫命の巡行は宇陀、伊賀から始まるため、倭姫命→豊鋤入姫命では巡行地が繋がらなくなる。「天照大神が高天原から見た国に行かせる巡行」とするためには、倭姫命の巡行の前に、巡行が三輪神社(本当は鳥取県北栄町の三輪神社)で終わる豊鋤入姫命の巡行のあと、宇陀から始まる倭姫命の巡行としなければならなかった。伊勢神宮ができた由来を創作するために、目的も時代も違う巡行を整合性を図って順序を逆にして引き継いだとしなければならなかった。

 倭姫命は孝元天皇の妹であり、豊鋤入姫命は景行天皇の妹であった。国史を改ざんしたのは藤原氏である。全国を平定した倭姫命の居た志摩国(邪馬台国)を封印するために伊勢国・伊勢神宮を創らなければならなかったからである。伊勢国・伊勢神宮を創ったのは藤原氏だから、奈良時代より古くはない。倭姫命は151年に生まれ248年に没している。 

 安楽島町と伊射波神社との間には径100歩余り(現代人の平均身長は170cmくらいでありその一歩は70cmくらいだから70mあまりとなる)の前方後円墳も存在する。

3 魏志倭人伝に見る「千人の婢」について

 「魏志倭人伝」には、「以婢千人自侍」(女王は自ら千人にも及ぶ婢を侍らせ)とあり、「倭姫命世記」ではそれぞれの地からの釆女(うねめ)の貢上が書かれている。千人という数字をそのまま真に受けることはできないが、100国(121国はあったはず)から10人づつの釆女(うねめ)の貢上があれば千人の婢となる。この釆女なり婢がどういう立場にあるのかは、人質というような解釈もあるが、鬼(出雲神族)たちに捕らえられていた少女たちではないだろうか。卑弥呼(倭姫命や稚日女命)に対して感謝の念を持っていた(アワビの献上など)。

 海女の祖お弁は倭姫命にアワビを献上した(海士潜女神社)。稚日女命にもアワビが献上されている(伊射波神社)。伊勢志摩の海女は「魏志倭人伝の千人の采女」と重なり、倭姫命や稚日女命は「魏志倭人伝の卑弥呼」と重なる。千人の采女が志摩国で海産物を採り、海女になったと思われる。そして、アワビを卑弥呼(倭姫命や稚日女命)に献上した。

 現在の伊勢志摩の海女の起源は魏志倭人伝の「千人の采女」であった。倭姫命(卑弥呼)は千人の海女(千人の釆女)の祖お弁にアワビを献上された。纏向遺跡でアワビの殻が多く見つかっている。倭姫命や稚日女命は纒向遺跡の時代の姫であった。


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第八節 魏志倭人伝に書かれている卑弥呼の都の一番の候補地は志摩国の伊射波神社周辺である [邪馬台国・卑弥呼 その1]

   第八節 魏志倭人伝に書かれている卑弥呼の都の一番の候補地は志摩国の伊射波神社周辺である。
伊射波神社パンフレットから-
志摩国一宮 伊射波神社 (いさわじんじゃ)   通称 かぶらこさん
〔鎮座地〕  三重県鳥羽市安楽島町字加布良古1020
〔社格〕  旧無格社 志摩国答志郡の式内社・粟嶋坐伊射波神社二座(並大)
〔御祭神〕  稚日女尊(わかひめのみこと)
       伊佐波登美尊(いさわとみのみこと)
       玉柱屋姫命(たまはしらやひめのみこと)
       狭依姫命(さよりひめのみこと)
〔御由緒〕 天照大神に仕えていた稚日女尊を加布良古岬(かぶらこみさき)に祭祀したことが創祀とされ、志摩地方の海上守護神として信仰されてきた。『延喜式』にも記載され、加布良古大明神・志摩大明神とも称されている。倭姫命が伊勢神宮に御贄(みにえ)を奉ずる地を捜し求めた際、この地で出迎えたとされる伊佐波登美尊は、安楽島の二地(ふたじ)にあった本宮で祀られていたが、平安時代後期に岬の現在地へ遷座された。発掘調査された二地の「鳥羽贄遺跡」がその本宮跡とされる。この神は新田開発に功績を遺され、志摩国の開拓祖神とされる。玉柱屋姫命はその妃神で天日別命の御子神。狭依姫命は宗像三女神の一である市杵島姫命の別名で、近くの長藻地という島に祀られていたが、島が水没したため伊射波神社へ合祀された。境内には籠堂と、平成十三年に改築された神明造の本殿・拝殿がある。
御祭神について
 伊佐波登美尊は、第十一代垂仁天皇の皇女倭姫命が、伊勢国内宮に天照大神の御魂をご鎮座させた折、これを奉迎して鎮座に尽力し、また志摩国の新田開発にも大きな功績を残したと伝えられています。後、大歳神と号された尊は伊射波神社本宮の衰退と共に、加布良古崎の伊射波神社に遷座されました。
 玉柱屋姫命は『倭姫命世紀』によれば、天孫瓊々杵命(ににぎのみこと)の重臣で水の神として崇敬された天牟羅雲命(あめのむらくものみこと)の裔(子孫)で、神武天皇の勅により伊勢国を平定した天日別命(あめのひわけのみこと)の娘と記されています。
 大二座のもう一座は、稚日女尊を祀る加布良古崎の伊射披神社。霊験あらたかな神様として知られる稚日女尊は、加布良古太明神とも称され、朝廷に捧げる贄物の一部を太明神にも奉納するいう別格の扱いを受けていました。「加布良古の外峯(とみね)に立てる姫小松、沢立てる松は千世のためし。加布良古の沖の汐ひかば、宮古(都)へなびけ我もなびかん。加布良古の大明神に、遊びの上分(じょうぶん)参らする請玉(うけたま)の宝殿(たからのみやから)」 これは今から461年前書き写された「外宮摂末社神楽歌」の最後の方の一節です。古代、安楽島の前の海では、朝廷に捧げる貝(あわび)を採る神事が行なわれ、その様子を歌ったものです。加布良古太明神ともいわれた女神、稚日女尊を姫小松に見立て、「この松は千年の後も栄えるでしょう。加布良古の沖の汐がひいたら、神事で採れた貝を納めに都へ行きます。加布良古の太明神に分け前を奉納してから」というものです。この神楽歌から、古代伊勢神宮とは浅からぬ関係にあったことが推測されます。『神宮紀(じんぐうき)』によれば、「尾田(おだ)(加布良古の古名)の吾田節(あごとうし)(後の答志郡)の淡郡(あわのこうり)(粟嶋=安楽島)に居る神(稚日女尊)とあります。稚日女尊は天照大神の妹君、分身とも云われ、第十五代応神天皇の母君である神功皇后の崇敬厚く、皇后が筑紫国(九州)から倭国に凱旋した折にも、常に御許においてお祭りされていました。
 狭依姫命は、宗像三女神の一柱である市杵島比売命の別名で、厳島神社のご祭神でもあります。安楽島では、粟嶋と呼称されていたころ、神乎多乃御子神社(小一座)のご祭神として、加布良古崎の前海にあたる長藻地(海図では長藻瀬とある)という島嶼(とうしょ)にお祭りされていましたが、戦国の世地震によって、その社地は海底1.8mに水没してしまいました。幸いご神体(石体)は村人らによって見つけ出され、現在は伊射波神社に合祀されています。

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鳥取県神社誌に見る天穂日を祀る神社と神戸の生田神社・志摩国の伊射波神社の由緒 [邪馬台国・卑弥呼 その1]

 鳥取県神社誌に見る天穂日を祀る神社と神戸の生田神社・志摩国の伊射波神社の由緒

1 天穂日を祀る神社(大正合併後の神社) 

《鳥取県東部》
中村神社      岩美郡福部村大字中字宮ノ谷
賀茂神社      八頭郡賀茂村大字宮谷字寺坂
大江神社      八頭郡大伊村大字橋本字馬場
都波只知上神社   八頭郡散岐村大字佐貫字林ノ谷
都波奈彌神社    八頭郡散岐村大字和奈見字林ノ内
湯谷神社      八頭郡西郷村大字湯谷字大瀧
隼神社       八頭郡隼村大字見槻中字宮ノ本
日下部上神社    八頭郡安部村大字日下部字宮ノ谷
諏訪神社      八頭郡智頭町大字智頭字宮ノ前
天穂日命神社    気高郡大郷村大字大畑字森崎
《鳥取県中部》
五郷神社      三朝町牧560の1 
大原神社      倉吉市大原619番 
田内神社      倉吉市巌城1494番 
松崎神社      湯梨浜町松崎566番
《鳥取県西部》
天萬神社      南部町天万1009番
多里神社      日南町新屋70
末尾神社      手間村大字田住字松尾
御崎神社      米子市尾高
北野神社      米子市赤井手
新印神社      米子市新印137番
古川神社      春日村大字古豊千字屋敷
豊田神社      米子市古豊千
東千太神社     米子市古豊千888番
御崎神社      米子市河岡630番
北原神社      米子市福万667番
巨勢神社      米子市八幡254番3
逢坂八幡神社    大山町松河原233番
小町神社      伯耆町小町455番
三部神社      伯耆町三部824番
上の荘神社     伯耆町福吉264番
安井神社      日野町津地423番
※ 私見
(1)《鳥取県東部》
 天穂日を祀る神社は八頭郡に8社ある。天穂日は国譲りの交渉に派遣されるまで鳥取県の八頭郡にいたと思われる。天穂日を祀る神社は素戔嗚・稲田姫・その両親を祀る神社を守る位置にある。天穂日は素戔嗚・稲田姫の御殿を守るために、八頭郡にいたものと思われる。その中で、賀茂神社(土師神社)と諏訪神社(向山神社)の2神社は本来の天穂日の任務とはかけ離れたところにあるため、天穂日を祀っていた準王一族(ヤマト王権から見れば河童と鬼)のいたところと推定される。大江神社、都波只知上神社、都波奈彌神、湯谷神社、隼神社、日下部上神社の6神社に天穂日はおり、素戔嗚と稲田姫の御殿を守っていた。天穂日はこの御殿で生まれた大国主を生まれたころから知っていた。
(2)《鳥取県中部》
 大国主は鳥取県北栄町の大神山(茶臼山)の松樹庵を本拠地にして葦原中津国を造っていた。天孫族は葦原中津国を大国主に譲ってもらう交渉に天穂日を出向かせた。五郷神社、大原神社、田内神社の3神社は天穂日が国譲りの交渉に行くまでにいたところと思われる。 天忍穂耳や天穂日にとって荒神(荒ぶる神)とされる準王一族(出雲神族)が葦原中津国にいることは国譲りの障害であった。天忍穂耳と天穂日は準王一族の動向を探ることにした。天穂日は伊那佐山(北栄町国坂の茶臼山)の隣の三輪山(北栄町下神)にいた天忍穂耳に頼まれて、伊那佐之小浜での国譲りの交渉の時に、すでに葦原中津国に多くいた準王一族(出雲神族)の本拠地を大国主に聞いたと思われる。大国主は天穂日に準王一族の本拠地を教えた。
(3)《鳥取県西部》
 天穂日は大国主の計らいで出雲神族の拠点である熊野大社の近くの能義平野(安来市)に移った。天萬神社以下の17社は伯耆国の西部であり、能義平野(安来市)に移るまでにいたところと思われる。その後、天穂日は大国主の計らいで、島根県東部の能義平野(安来市)を拠点とし、松江市南部(熊野大社)を拠点としていた準王(タケヒラドリ、クナト神)に出会った。天穂日は準王(長髄彦)の娘と結婚した。饒速日と長髄彦の妹を結婚させたのも天穂日と思われる。富氏の口伝によると「神武から数代の王は出雲神族の反乱を抑えるため出雲王家の娘を妻にした」とする。天穂日は後続部隊の手引きをした。出雲神族の子孫の富氏は天穂日を「ヤマト王権のスパイであった」とする。
 大国主を生まれた時から可愛がってきた天穂日は準王を大己貴神(オオナムチ)と呼んだ。準王一族は出雲神族といいその王の名を代々長髄彦・大己貴神(オオナムチ)と呼んでいた。
 
 
2 日本書紀にある神戸生田神社
 201年に神功皇后の三韓外征の帰途、神戸港で船が進まなくなった為神占を行った所、稚日女尊が現れ「吾は活田長峡国に居らむと海上五十狭茅に命じて生田の地に祭らしめ。(=私はいくたながさの国に居りたいのです。うなかみのいそさちに命じて生田の土地に祀らせて欲しい)。」との神託があったと日本書紀に記されている。

 

3 志摩国一宮 伊射波神社(いさわじんじゃ) 通称 かぶらこさん

〔鎮座地〕三重県鳥羽市安楽島町字加布良古1020
〔御由緒〕天照大神に仕えていた稚日女尊を加布良古岬(かぶらこみさき)に祭祀したことが創祀とされ、志摩地方の海上守護神として信仰されてきた。『延喜式』にも記載され、加布良古大明神・志摩大明神とも称されている。倭姫命が伊勢神宮に御贄(みにえ)を奉ずる地を捜し求めた際、この地で出迎えたおされる伊佐波登美尊は、安楽島の二地(ふたじ)にあった本宮で祀られていたが、平安時代後期に岬の現在地へ遷座された。発掘調査された二地の「鳥羽贄遺跡」がその本宮跡とされる。この神は新田開発に功績を遺され、志摩国の開拓祖神とされる。玉柱屋姫命はその妃神で天日別命の御子神。狭依姫命は宗像三女神の一である市杵島姫命の別名で、近くの長藻地という島に祀られていたが、島が水没したため伊射波神社へ合祀された。境内には籠堂と、平成十三年に改築された神明造の本殿・拝殿がある。


4 私見
 
この2社辺りに卑弥呼は居たのではないかと思われる。


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卑弥呼(稚日女=夜麻登登母母曽毘売)は七才まで鳥取県湯梨浜町宮内にいた [邪馬台国・卑弥呼 その1]

1  鳥羽市安楽島町加布良古崎と鳥取県湯梨浜町宮内とは共通点がある。

 どちらも、海あるいは大きな汽水池に面していて、高台になっていることである。目の前の海あるいは池からは海産物やシジミなどの魚介類がとれる。伊射波神社の海抜は80mくらいで、宮内第一遺跡のあたりは50mくらいである。どちらもすぐ下が急な崖になって海あるいは汽水池に面している。

 卑弥呼は七才まで湯梨浜町宮内で過ごしたから、同じような環境のところを終の棲家とした。東郷池は水面が今より高く、東郷池と海との出入り口も広かったため、海の魚介類も入って来ていた。

 湯梨浜町宮内と安楽島町加布良古崎と違うのは、安楽島町加布良古崎のほうが気候が温暖であるところである。卑弥呼は幼少期を過ごした湯梨浜町宮内と環境の良く似たところを終の棲家とした。

2  伊射波神社の下の鳥居の海辺は船着き場であった。

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 伊射波神社の下の鳥居。船をこちらに着け、ここから左の急な坂を上がって海産物を届けた。伊射波登美や海女も船をここに着けた。

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 宮内集落の空撮。第1遺跡の下に船着き場が確認できる。

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 船着き場であった。当時は水面が2m~3m高かったから、新羅から来た大きな船でも接岸できた。

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 御冠山。下が宮内集落。その下が船着き場である。

 宮内の下は船着き場であった。水産物はここからあげていた。卑弥呼はここから船で長瀬高浜に巫女になる修行に行っていた。大陸(新羅)からの船もこちらに着船した。

 藤津は宮内から来るものや宮内に行くものを監視するために藤原氏が作った集落と思われる。百済(藤)津である。

 倭文神社の宮司は藤津に住んでいる。

3  藤原氏が作った岩のモニュメント

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4  私見

 倭文神社の祭神を書換え、藤津をつくり、下照姫ゆかりの岩のモニュメントをつくり、下照姫の伝承を全面に強くだしたのは、藤原氏と思われる。宮内(黒田庵戸宮)に孝霊天皇や夜麻登登母母曽毘売(卑弥呼)がいたことを消すためであった。国宝の経塚もあるが平安時代に京都の藤原氏が埋納したものである。「祭神を変えてしまったが、祟らないでください」と経塚を作った。倉吉市志津にいた下照姫の伝承を創作して孝霊天皇一族のいた神社を強奪した。

 

 

 

 

 

 


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第五節 倭迹迹日百襲姫(卑弥呼)は鳥取県湯梨浜町出身であり、7歳まで長瀬高浜で巫女になるための訓練を受けていた [邪馬台国・卑弥呼 その1]

   第五節 倭迹迹日百襲姫(卑弥呼)は鳥取県湯梨浜町出身であり、7歳まで長瀬高浜で巫女になるための訓練を受けていた。
 

1 香川県の水主神社の伝承などによると、倭迹迹日百襲姫(卑弥呼)は香川県に来られた時にはすでに、神意を伺い、まじない、占い、知能の優れたお方であったという。倭迹迹日百襲姫(卑弥呼)が神意を伺い、まじない、占いをすることを覚えたのは鳥取県湯梨浜町長瀬高浜であった。
2 古事記には『倭建命は歌を詠んで、「出雲建が佩ける太刀、つづらさわまき、真身(さみ)なしに哀れ」』とある。
 長瀬高浜遺跡の円墳1号墓の箱式石棺から女性の遺骸と一緒に右手横に絹紐を巻いた太刀が置かれていた。この太刀は小林行雄先生らによると、つづらさわまきの大刀である。「つづらさわまき」とは巻き方のことであって、材料は絹紐でもよいわけである。
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 長さ1.01m・幅4.8cmの大振りの直刀。
小林行雄先生らによるつづらさわまきの大刀(長瀬高浜遺跡発掘調査報告書より)


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 6は柄部。7は中央部。
IMG_0023 (2)
 1は中央部。2は先端部

 倭建命が身に着けていた都豆良佐波麻岐(つづらさわまき)の太刀もこのような太刀であったのだろう。つづらさわまきの太刀は当時皇太子や皇女がみにつけていたものと思われる。

 ここに埋葬されていた女性は皇女・あるいは皇女と同格の巫女であると思われる。天皇家の皇女は代々長瀬高浜で巫女になる習わしであった。天皇家は長瀬高浜に皇女・あるいは皇女と同格である巫女を置いていた。長瀬高浜遺跡1号円墳は5世紀中頃の築造である。私見では倭五王、珍(反正天皇)、済(允恭天皇)、興(安康天皇)、436年~477年の時代であり、天皇の皇居は鳥取県中部にあった。

3 長瀬高浜遺跡は孝霊天皇の皇居があった宮内(東郷池周辺の師木地方)の近くである。卑弥呼も小さいときから、長瀬高浜で巫女になるための訓練を受けていたものと思われる。長瀬高浜は道教(鬼道)を教える場所でもあった。大来皇女は1年半で道教を会得したから、卑弥呼は5歳のころから修行を始めれば道教(鬼道)を会得することができる。


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