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千三百年の間、藤原氏に消されてきた伯耆国(鳥取県中西部)の真実の歴史が、今よみがえる。

邪馬台国・卑弥呼 その2 ブログトップ
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内藤湖南の「倭姫命説」と笠井新也の「倭迹迹日百襲姫命説」はどちらも正しかった [邪馬台国・卑弥呼 その2]

 内藤湖南の「倭姫命説」と笠井新也の「倭迹迹日百襲姫命説」はどちらも正しかった


1 京都帝大教授の内藤湖南は明治43年にその論文「卑弥呼考」において「卑弥呼は倭姫命であり、台与は豊鋤入姫である」とした。「卑弥呼の宗女といへば、即ち宗室の女子の義なるが、我が国史にては崇神天皇の皇女、豊鍬入姫の豊(トヨ)といへるに近し。国史にては豊鍬入姫命の方、先に天照大神の祭主と定まりたまひ、後に倭姫命に及ぼしたる体なれども、倭人伝にては倭姫命の前に祭主ありしさまに見えざれば、豊鍬入姫の方を第二代と誤り伝へたるならん」とする。


 内藤湖南の講義を聞いた笠井新也は大正13年の「邪馬臺國は大和である」において「内藤湖南は倭姫命説を唱えたが、自分は違うと思う」とし、「卑弥呼は倭迹迹日百襲姫命であり、卑弥呼の墓は箸墓古墳である」とした。


2 私見 「倭迹迹日百襲姫命=稚日女命=倭姫命」について


(1)倭迹迹日百襲姫命=稚日女命について


スクリーンショット 2021-03-10 114624.jpg


 鳥取県伯耆町鬼の館の説明板には「孝霊天皇が鬼と戦っているとき、ある夜、天皇の枕元で天津神のお告げがありました。お告げに従って、笹の葉を山のように積み上げて待っていると、三日目の朝強い南風が吹きぬけていきました。あっという間に笹の葉は鬼の住処へと向かい、鬼の身にまとわりつき燃えだしました」とある。


  鳥取県伯耆町栃原の山田神社の祭神は孝霊天皇である。


 孝霊天皇と稚日女は鳥取県神社誌のなかで出雲国に接する日野郡と西伯郡に集中している(この時鳥取県は2市7郡であった)ので、倭国大乱の時代に一緒に出雲族と戦っていた。孝霊天皇と稚日女は同時代の人物である。この天津神は孝霊天皇の後ろにいた稚日女である。


 孝霊天皇の時代このようなお告げができる人物は誰だったのだろう。孝霊天皇の皇女の倭迹迹日百襲姫命は「神意を伺い・まじない・占い・知能の優れた女性であった」とされる。孝霊天皇の皇女の倭迹迹日百襲姫がお告げをしたと思われる。出雲王家の子孫の富氏の口伝に「出雲族は天孫族と戦っていた」とある(「謎の出雲帝国」より)ので、孝霊天皇の皇女の倭迹迹日百襲姫は孝霊天皇と一緒に出雲国と隣接する地域(日野郡と西伯郡)で出雲族と戦っていた。


 倭国大乱とは天孫族と出雲族の争いであり、この時代の天孫族は孝霊天皇一族であった(神武即位年を紀元前60年とすると、倭国大乱の時代は孝霊天皇になる)。倭迹迹日百襲姫が卑弥呼であったと解することによって魏志倭人伝にある「台与は卑弥呼の属していた宋女(王室の女)」という記述にも合致する。


 稚日女は孝霊天皇の皇女の倭迹迹日百襲姫(日女)であった。


(2)稚日女命=倭姫命について


 全国の稚日女命を祀る神社の由緒を見ていくと稚日女命は鳥羽市安楽島町の伊射波(いざわ)神社(志摩国一之宮)を終の棲家にしたことが判る。


スクリーンショット 2021-03-11 154127.jpg


  伊射波(いざわ)神社(志摩国一之宮)には伊射波登美も祀られている。倭姫命は伊雑(いざわ)神社(志摩国一之宮)で天照大神を伊射波登美に祀らせた。どちらの姫も伊射波登美と関係しているので同時代の姫である。魏志倭人伝にある「ただ男子一人がいて、飲食を給し、辞を伝え、居所に出入する」とは伊射波登美であった。


 どちらの姫も海女からアワビの献上を受けている。纏向遺跡からアワビの殻がたくさん見つかった。どちらの姫も纏向遺跡の時代の姫であった。


 魏志倭人伝に「下女千人を自ら侍らせる」とある。下女千人は志摩国の海女であった。現在でも千人近くいる。志摩国の海女は倭姫の時代に始まっているから倭姫が連れてきた采女が志摩国の海女のルーツであった。


 どちらの姫も伊射波登美と関係しており、同じ志摩国の同じ一之宮の同じ読みの神社(いざわ)で同じくアワビを献上された姫は同一姫であったと考えるのはおかしくない。稚日女命と倭姫命はアワビの殻が多く見つかった纏向遺跡と同時代の姫であった。


 稚日女命は倭姫命であった。


(3)倭迹迹日百襲姫=倭姫命について


(1)より倭迹迹日百襲姫命=稚日女命、(2)より稚日女命=倭姫命だから倭迹迹日百襲姫=倭姫命となる。


 ちなみに、倭迹迹日百襲姫は讃岐国で水稲稲作のためにため池を造ることを始めた。倭姫命は志摩国で水稲の良い品種を発見し全国に普及させた。どちらの姫も水稲稲作の普及に尽力している。


3 国史では豊鍬入姫(台与)が先であり倭姫(卑弥呼)が後であることについて


(1)国史では豊鋤入姫は10代崇神天皇の皇女、倭姫は11代垂仁天皇の皇女とされるが、史実は倭姫は7代孝霊天皇の皇女であり、豊鋤入姫は8代孝元天皇の皇子の彦太忍信の娘の葛木志志見興利木田忍海部刀自(住吉大社神代記)であった。豊鋤入姫は魏志倭人伝の台与であり、神功皇后のモデルである。


 倭姫命世記は伊勢神宮の起源を表すものとされるが改ざん創作されている。また、古事記・日本書紀も倭姫命世記に合わせて改ざんされている。


 中国には倭国の歴史を改ざんする動機がない。魏志倭人伝は改ざんされておらず、国史のほうが改ざんされている。なぜ国史は豊鋤入姫を先にし倭姫を後にしたのであろうか。


 もし、倭姫命世記に豊鋤入姫の巡行がなかったらどうであろうか。宇陀は纏向遺跡から隠れたような場所にある。纏向から段々遠のいていく倭姫の巡行だけなら、纒向で祭祀をするのだが、安全な居所を探すための巡行だとわかって、全国から神道の代表者を集めて祭祀をしていたことが判ってしまう。藤原氏以前に全国を統一していた王朝があったことがわかってしまう。藤原氏はこれを消さなければならなかった。


(2)伊勢国・伊勢神宮は藤原氏が倭国を乗っ取る以前に全国を統一した女王卑弥呼のいた邪馬台国(志摩国)を封印するために創られた。伊勢神宮を創建したもっともらしい由来も必要であった。


 倭姫命世記は伊勢神宮の由来を表すものとしてつぎはぎして作られた。豊鋤入姫と倭姫の巡行はもともと違う巡行であり、目的も時代も違うものであった。それを継ぎ接ぎし、まだなかった伊勢神宮を書き加えて伊勢神宮に帰ったように書いた。 


 倭姫命世記に「伊勢神宮を礒宮(いそのみや)といふ」とあるが、画像を見れば伊雜宮こそ礒宮であった。伊雜宮に使われていた礒宮(いそのみや)を伊勢神宮に移し替えた。


 「丁巳冬甲子、天照太神を奉遷し、度会の五十鈴の河上に留る」からの記述は急ににぎやかになるので、にぎやかなのが好きな藤原氏による加筆が見られる。すでに伊勢神宮があったかのように思わせるためである。「戊午秋九月の千穂」からの記述は原文のままだが、「また明る年秋のころの八百穂」からの記述は八の好きな藤原氏によるのちの加筆である。伊勢神宮に帰ったと思わせるためである。倭姫命は伊勢国に引き返してはいない。この時代は倭姫命の創った磯部の伊雜宮しかなかった。倭姫命は志摩国(邪馬台国)の鳥羽市安楽島町の伊射波神社を終の棲家として稚日女命(倭迹迹日百襲姫命)に名を変えて生涯を終えた。


(3)倭姫命は纒向で祭祀をすることになり、倭姫命の安全な居所を探すため21国を巡行したが、豊鋤入姫は倭朝廷に深く関係する一族の卑弥呼が亡くなった失望による誅殺を鎮め安定させる巡行であったから倭国(鳥取県中部)とその周辺の3ヶ所を巡行するだけでよかった。別稿「倭姫命世記において豊鋤入姫の巡行した本当の比定地」を参照されたし。


 卑弥呼は全国・半島と21国を巡行した倭姫命であり、台与は6ヶ所だけを巡行した豊鋤入姫命であった。豊鋤入姫の時代は倭姫によって既に全国は統一されていた。


 藤原氏は整合性を考えてひとひねりした。それは、6か所を巡行して三輪神社に帰ってきた豊鋤入姫命を倭姫命より先にすることであった。欠史8代の皇女とすることは禁止されていたから、許されるぎりぎりの10代の皇女にした。そして、倭姫命を次代の姪(11代の皇女)に持ってきた。そうすれば、三輪神社で終わる豊鋤入姫命から、奈良の宇陀で始まる倭姫命がバトンタッチしたように整合性を謀れる。この作り話のために宇陀の近くに三輪神社がなければならなかった。そのために奈良の三輪神社(本当の三輪神社は鳥取県北栄町下神の三輪神社)は創られた。このことによって、藤原氏以前に全国を統一していた王朝があり、全国から神道の代表者を纒向に集めて祭祀をしていたことを消すことができる。


 「倭姫命世記」は「倭姫命が奈良の纒向で祭祀をするために安全な居所を探すための巡行」と「台与は倭朝廷に深く関係する一族の卑弥呼が亡くなった失望による誅殺を鎮め安定させる巡行」とを順序を入れ替えて創作した創作物語であった。倭姫命は21国を巡行しても元気なのに、豊鋤入姫命はわずか6国しか巡行していないのに疲れたとする。その点でもこのバトンタッチはおかしいことがわかる。


4 卑弥呼は倭国大乱の時期(146年~189年、霊帝が168年からだから少なくとも170年頃までは終結していない)に活躍して、のちに女王となったから170年頃には成人であった。したがって卑弥呼は150年頃には生まれていなければならない。私見では151年~248年の96歳の生涯であった。魚介類を食し、人に尊敬されていれば長生きできるようである。卑弥呼が生きていた時代は纏向遺跡の時代と重なる。倭姫命も纏向遺跡と同時代の姫である。倭姫命の巡行は纒向に祭祀場を創ってそこで祭祀をすることを前提とした安全な居所を探す巡行なので纒向遺跡の時代でも初期の時代の姫である。


 纒向1類の暦年代としては西暦180年から210年をあてている。纒向に祭祀場を造ることを前提として190年ごろに唐古・鍵集落などの環濠を埋めさせた。纒向編年では270年から290年に百済・馬韓ではなく古式新羅加耶土器(慶尚南北道、新羅・加耶地域のもの)が出土している。豊鋤入姫(神功皇后)の時代である。神功皇后は三韓征伐をしたとされるが、倭朝廷は新羅と兄弟国であった証拠である。


 倭姫命と倭迹迹日百襲姫命はどちらも卑弥呼であり同一人物であった。内藤湖南の「倭姫命説」と笠井新也の「倭迹迹日百襲姫命説」はどちらも正しかった。混乱の原因は、倭国の元(原本)を書き換え、倭姫命と豊鋤入姫命の順番を入れ替えた藤原氏であった。


5 参 考(鳥取県神社誌に見る倭国大乱に関係すると思われる祭神)


西伯郡・日野郡(当時、鳥取県は2市7郡)はどちらも出雲国と接している。


〇 大日本根子彦太瓊命(孝霊天皇)


〈鳥取県東部〉


 久多美神社 現住所 鳥取市河原町谷一木947


 都波只知(つばいち)上神社 現住所 鳥取県鳥取市河原町佐貫511 


〈鳥取県西部〉


 高杉神社 西伯郡大山町大字宮内字早稲ノ上


     現住所 西伯郡大山町宮内


 楽楽福神社 西伯郡東長田村大字中


      現住所 西伯郡南部町中(篠相)


 楽楽福神社 西伯郡尚徳村大字上安曇字宮ノ谷


      現住所 米子市上安曇


 山田神社 日野郡日光村大字杼原字村屋敷


      現住所 日野郡江府町杼原


 楽楽福神社 日野郡溝口町大字宮原字宮ノ上


      現住所 西伯郡伯耆町宮原


 楽々福神社 日野郡日野上村大字宮内字東宮ノ廻り


 楽々福神社 日野郡日野上村大字宮内字西馬場ノ筋 


 菅福神社 日野郡黒坂村大字上菅字宮本


 日谷神社 日野郡山上村大字笠木字足羽


 佐々布久神社 現住所 安来市広瀬町石原


〇 倭建命


〈鳥取県東部〉


 武王(倭武王)大明神と称していた神社


 古市神社(武王大明神)  現住所  鳥取市古市657


 安富神社(武王大明神)  現住所  鳥取市天神町


 神護神社(武王大明神)  現住所  鳥取市国府町神護675


 面影神社(武王大明神)  現住所  鳥取市正蓮寺192


 禰宜谷神社(武王大明神)  現住所  鳥取市祢宜谷227


 細川神社(武王大明神)  現住所  鳥取市福部町細川350


 恩志呂神社(武王大明神)  現住所  岩美郡岩美町恩志95


 杉森神社(武王大明神)  現住所  鳥取市下砂見530番


 宮小谷神社(武王大明神)  現住所  鳥取市用瀬町赤波2441


〈鳥取県中部〉


 今泉神社 鎮座地 東伯郡旭村大字今泉字上ノ山


  祭神 日本武尊


 中田神社 鎮座地 東伯郡安田村大字尾張字家の上


  祭神 日本武尊


〈鳥取県西部〉


 阪本神社  鎮座地 米子市長田字長砂


  祭神 日本武尊


 宗形神社  鎮座地 西伯郡成実村宗像


  祭神 日本武尊


 熱田神社  鎮座地 西伯郡幡郷村大字大殿字矢口


  祭神 日本武尊


 一ノ具神社  鎮座地 日野郡二部村福岡字鑪ヶ谷


  祭神 日本武尊 


 菅福神社  鎮座地 日野郡黒坂村大字上菅字宮本


  祭神 稚武彦


 菅沢神社  鎮座地 日野郡大宮村大字菅沢字秋原


  祭神 稚武彦


 湯谷神社  鎮座地 日野郡多里村大字湯河字岩田


  祭神 倭武命


 楽々福神社  鎮座地 日野郡日野上村大字宮内字東宮


  祭神 若建日子吉備津日子


 楽々福神社  鎮座地 日野郡日野上村大字宮内字西馬場ノ筋


  境内神社 祭神 稚武彦


〇 伊福部氏系図第十四代  武牟口命


虫井神社  現住所  鳥取県八頭郡智頭町大呂967


多加牟久神社  現住所  鳥取市河原町本鹿387


〇 稚日女命


〈鳥取県東部〉


  折井神社    岩美郡成器村大字新井字宮の谷


〈鳥取県西部〉


 平岡神社 西伯郡淀江町大字平岡字向山


     現住所 米子市淀江町平岡


 富岡神社 西伯郡高麗村大字妻木字山根


     現住所 西伯郡大山町妻木


 前田神社 西伯郡庄内村大字古御堂字於局


     現住所 西伯郡大山町古御堂


 古林神社 西伯郡名和村大字加茂字以屋谷


     現住所 西伯郡大山町加茂


 前田神社 西伯郡法勝寺村大字西字宮ノ前


     現住所 西伯郡南部町西


 岩崎神社 日野郡多里村大字湯河字宮ノ前


     現住所 日野郡日南町多里


 吉原神社 日野郡日光村大字吉原字牛王ガ市


     現住所 日野郡江府町吉原


 大原神社 日野郡八郷村大字大原字貝市


     現住所 西伯郡伯耆町大原


 安屋咩神社  安来市赤江町400 


〇(神)倭姫(比女)命


〈鳥取県西部〉


 天萬神社 西伯郡手間村大字天萬字下宮尾


     現住所 西伯郡南部町天萬


 高野女神社 西伯郡賀野村大字高姫字高ノ女


     現住所 西伯郡南部町高姫


 蚊屋島神社 西伯郡日吉津村大字日吉津字南屋敷


     現住所 西伯郡日吉津村日吉津


 


 


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倭姫命世記において豊鋤入姫の巡行した本当の比定地 [邪馬台国・卑弥呼 その2]

 倭姫命世記において豊鋤入姫の巡行した本当の比定地
 倭姫命世記に「倭笠縫邑に磯城の神籬を立て、天照大神と草薙の剱を奉遷し、豊鋤入姫命に奉斎せしめた。但波の吉佐宮に遷幸し、倭伊豆加志本宮に遷り、木乃国奈久佐浜宮に遷り、吉備国名方浜宮に遷り、倭弥和乃御室嶺上宮に遷った」とある。
 豊鋤入姫命は、倭笠縫邑、但波の吉佐宮、倭伊豆加志本宮、木乃国奈久佐浜宮、吉備国名方浜宮、倭弥和乃御室嶺上宮を巡行した。これら6か所の現在の比定地はどこだろうか。
クリップボード34.jpg
(1)倭の笠縫邑(鳥取県琴浦町八橋)
 倭笠縫邑の比定地は奈良県桜井市の檜原神社とする。楯縫神社の由緒に「旧郷名にちなみ楯縫神社とした」とあるので、立縫郷は楯縫郷であった。楯を立に変えている。立見集落があるが、元は楯見であり、製品となった楯を検査するところであった。
 琴浦町八橋の隣に笠見集落がある。これも、製品となった笠を検査するところであった。隣の八橋が笠縫邑であった。八橋の地名由来は笠縫邑を隠すために創られた。倭笠縫邑とは鳥取県琴浦町八橋集落であった。
(2)但波の吉佐宮(京丹後市丹後町の竹野神社)
 但波の吉佐宮の比定地は、宮津市の真名井神社や福知山市の皇大神社や舞鶴市の笶原神社や京丹後市の竹野神社がある。孝霊天皇一族は倭国大乱のときに、但馬の竹野川流域に疎開した。竹野川流域には孝霊天皇一族(倭姫命も含む)の子孫が住んでいた。但波の吉佐宮とは京丹後市丹後町の竹野神社であった。
(3)倭の伊豆加志本宮(鳥取県倉吉市長谷集落長谷神社)
 奈良の比定地(奈良県桜井市初瀬の長谷寺や与喜天満神社や長谷山口坐神社など特定できていない)は泊瀬地域にある。泊瀬のもとは倉吉市の長谷である。倉吉市長谷集落は神武天皇が穿って道をつけた途上にある由緒ある地である。倭伊豆加志本宮とは鳥取県倉吉市長谷集落長谷神社であた。
(4)木乃国奈久佐浜宮(津山市二宮の高野神社)
 紀の国は和歌山だが木の国は岡山県津山市であった。木乃国奈久佐浜宮の比定地は和歌山市毛見の濱宮とする。木の国は鳥取県智頭町だが御真木国は津山市であった。神武天皇が名草戸畔を誅した名草邑は岡山県津山市二宮であったから二宮の高野神社と思われる。津山に浜はないがこれは和歌山の浜に名草邑を創った藤原氏の創作である。木乃国奈久佐浜宮は津山市二宮の高野神社であった。
(5)吉備国名方浜宮(倉敷市上東)
 吉備国名方浜宮の比定地は和歌山に二ヵ所、岡山に五ヵ所(総社市福井の神明神社や倉敷市真備町妹の穴門山神社など)、広島に一ヵ所の計八ヵ所ある。倉敷市上東は古墳時代は浜であった。ここで奈良の纏向遺跡と同じく9,606個の桃核が出土している。豊鋤入姫はここで祭祀をした。吉備国名方浜宮は倉敷市上東であった。
(6)倭の弥和乃御室嶺上宮(鳥取県北栄町下神の三輪神社)
 倭の弥和乃御室嶺上宮の比定地は奈良県桜井市三輪山の大神神社、高宮神社とする。上は「かみ」と読むそうである。鳥取県中部で上とは山側(南)を意味する。鳥取県中部にあった三輪神社は三輪山(弥和乃御室嶺)の上(南)にある。奈良に上(かみ)・下(しも)の慣例はない。倭弥和乃御室嶺上宮は鳥取県北栄町下神の三輪神社であった。

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倭姫命は「迹々日百襲」を省略された倭迹々日百襲姫命であった [邪馬台国・卑弥呼 その2]

 倭姫命は「迹々日百襲」を省略された倭迹々日百襲姫命であった。


1 讃岐国における倭迹々日百襲姫命の農業開発
 香川県の説明板によれば、倭迹々日百襲姫命は土地の人に弥生米をあたえて、水路を開き、日照に苦しむ人々のために雨祈で、雨を降らせ、水源を教え、米作りを助けたといわれている。
 倭迹迹日百襲姫命は農業・水の神と伝えられている。香川県は全国有数の雨の少ない県である。そのために溜池が多い。讃岐国でため池を作ることを最初に思いついたのは倭迹迹日百襲姫であることも考えられる。そうなれば、讃岐国で、農業の神として祭られている理由も説明がつく。当時の讃岐国は凶作の年が続いていた。彼女のアイデアで次々と農業開発が行なわれ人々の生活は次第に潤っていった。このときに溜池を作ることを考え出したのだろう。


2 志摩国における倭姫命の農業開発
 倭姫命は鳥の鳴声が高く聞えて、昼夜止まずかまびすしかったので、「此、あやし」と宣して、大幡主命と舎人の紀麻良を、使に遣って鳥の鳴く処を見させた。行って見ると、志摩国の伊雑の方上の葦原の中に稲一基があり、根本は一基で、末は千穂に茂ってゐた。その稲を白真名鶴がくわへて廻り、つついては鳴き、これを見あらわすと、その鳥の鳴声は止んだ。
 倭姫命がのたもふに、「恐し。事問はぬ鳥すら田を作る。天照皇太神に奉れる物を」と詔して、物忌(ものいみ)を始められ、かの稲を伊佐波登美神(伊射波神社の祭神)をして抜穂に抜かしめて、天照皇太神の御前に懸久真に懸け奉り始めた。その穂で大幡主の女子乙姫に清酒に作らせ、御餞に奉った。かの稲のおひし地は、千田となづけ、志摩国の伊雑の方上にある。その処に伊佐波登美(伊射波神社の祭神)の神宮を造り奉り、天照皇太神の摂宮と為した。伊雑宮がこれである。かの白真名鶴を名づけて大歳神といふ。(倭姫命世紀より)
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聖徳太子(蘇我入鹿)もこの地に遊覧し感嘆され、多くの殿堂を建てられた。
(磯部町千田御池跡の説明板より抜粋)


3 
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磯部の伊雜宮本殿
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磯部の伊雜宮本殿 シンプルで敷地も広くないので、藤原氏の手はそれほど加わっていないものと思われる。
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 伊雜宮より280m離れたところにある千田の御池跡 溜池か苗代であったのだろう。
 この近くに持統が造らせた勅賜門(正月7日間だけ開く不開門)があったらしいが崇りを封ずるための藤原氏によるものである。
 伊雜宮の南に隣接する御料田で6月に行われる伊雜宮の御田植祭は日本三大御田植祭に数えられている。(伊雜宮前の説明板より)


 鳥取県琴浦町方見神社の由緒には「当社は明治維新まで天照皇大神宮と称せし。当社には往古より大田小田と称する神田あり。大田は朔日田と唱え9月1日この田の稲を神供に炊ぐ。小田は毎日田と唱え、この田の稲をもって部内諸神に供す。氏子の内より13歳未満の女子12人を挙げ、神酒上げ神饌炊ぎとす。これを「三ケノオコラ」という。永久に相伝う。この田を植える時は御田植祭を行い官丁を課当せられしこと当社の伝記および古文書に明らかなり」とある。


 本当の天照皇大神宮ならば御田植祭があるはずである。伊雑宮にはあるが伊勢神宮にはない。

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 大正末期、この石の下から鏡や勾玉が出てきたが官憲に持ち去られこの地の鑑定は封じられてしまった。里人は倭姫さんの遺跡であろうという。(説明板より)


4 倭迹々日百襲姫命は死んでいない。箸で死ぬことはまず考えられない。魏志倭人伝にあるようにこの当時箸はなく倭人は手で食べていた。これはなんでも強奪することに喜びを感じる扶余族(百済人)の藤原氏による改ざん挿入である。伊勢神宮の由来書にある倭姫命世記で垂仁天皇皇女にしてある倭姫命が実は孝霊天皇皇女の倭迹々日百襲姫命だったと思わせないようにするために死んだことにした作り話であった。系譜を先に改ざんして、そのあとの辻褄合わせのために箸をついて死んだ話を挿入した。こうして、藤原氏は倭国の歴史を強奪する。


 倭迹々日百襲姫命も倭姫命も水田稲作を普及させていた。倭姫命は「迹々日百襲」を省略された倭迹々日百襲姫命であり、同一人物と思われる。


5 鳥取県日光村の隣り合う神社の祭神の孝霊天皇と天津神の稚日女命より、稚日女命は孝霊天皇の皇女の倭迹迹日百襲姫命であった。


 稚日女命は鳥羽市安楽島町の伊射波神社を終の棲家とした。伊射波神社では海女がアワビを朝廷にもっていく前に稚日女命に献上していた。その朝廷とは纒向にあった朝廷であった。


 倭姫命は巡行の最後に志摩市磯部町の伊雑神社に至り伊射波登美に天照大神を祀らせた。倭姫命は海女の祖のお弁にアワビを献上された(海士潜女神社由緒より)。


 同じ志摩国の同じ一之宮の同じ読みの神社(いざわ)で同じくアワビを献上された姫は同一姫であったと考えるのはおかしくない。稚日女命と倭姫命はアワビの殻が多く見つかった纏向遺跡と同時代の姫であった。


 したがって、倭迹々日百襲姫命=稚日女命=倭姫命となる。


6 倭姫命は倭迹迹日百襲姫命であり7代孝霊天皇の皇女だが、なぜ倭姫命世記は11代垂仁天皇の皇女としたのだろうか。


 もし、倭姫命世記に豊鋤入姫の巡行がなくて倭姫だけの単独の巡行だけだったらどうだろう。纒向から隠れるような位置にある宇陀から始まり、段々と遠のいていく倭姫の巡行は纒向を意識して巡行していることがわかる。纒向で全国の代表者を集めて祭祀をするのだが、その前に倭姫の安全な居所を探す必要がある。藤原氏より以前に全国はすでに統一されていたことがわかってしまう。藤原氏はこれを消さなければならなかった。そのため纒向の近くに三輪神社を造り、豊鋤入姫が三輪神社に帰ってきて、バトンタッチしたような物語を造った。だから豊鋤入姫→倭姫にしなければならなかった。しかし、欠史八代にしてはならないから、豊鋤入姫を10代の皇女とし、倭姫を11代皇女とした。


 別稿「倭姫命世記において豊鋤入姫の巡行した本当の比定地」を参照されたし。本当の巡行地をみると倭朝廷(鳥取県中部)に深く関係していた一族のいた地域であることがわかる。豊鋤入姫の巡行は目的も時代も別の巡行だったことがわかる。倭姫が亡くなったことにより、悲観して誅殺し合っていたのである。


 


 


 


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伊勢神宮参拝 [邪馬台国・卑弥呼 その2]

 神はいないしいたこともないテーマパークであるとわかっていても、話のついでに行ってみたいのが人情である。


1  伊勢神宮は敷地が広くて神社も立派である。さすがに藤原氏である。なにもなかったところにテーマパークを造っている。宮司だけは沢山いて、遷宮のときには国民から金を巻き上げて、それで撮影は禁止です、とは何事であろう。戦前の不敬罪の精神が思い起こされた。何もいないのに何を保護するというのだろうか。建物の形状だろうか。藤原氏の短気さが見えたような伊勢神宮参拝であった。
 伊勢神宮内宮正殿には心御柱がある。地中2尺地上3尺、長さ5尺の柱。心御柱祭は深夜に地元の娘たちが心御柱の周りを踊りながらまわるというから心御柱は男根である。天照大神が男性であることを隠すために写真撮影を禁止していた。


2 伊雑宮にも心御柱がある。伊勢神宮の心御柱は伊雑宮の心御柱を模倣したものである。


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 伊雑宮の宮司は「この祠は遷宮のときに心の御柱を建てる位置を示している」といった。


 伊雑宮は伊勢神宮より550年以上古い。伊雑宮の時代の本当の伊勢神宮は奈良時代まで鳥取県琴浦町にあった。伊雑宮ではこちらを「元伊勢」と言っていた。卑弥呼(稚日女命)はのちに安楽島の要害の地の伊射波神社で生涯を終えた。「いざわ」とは地名であり、藤原氏はそれぞれ異なった当て字をしているが、伊雑宮と伊射波神社は同系列の神社である。


3 伊勢神宮
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伊勢神宮(内宮)の正面入り口
131
祭神は天照大神だけである。
132
 
正面入口を入ったところに五十鈴川にかかる橋がある。
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あまりにも広すぎて、往復すると疲れを感じる。


4 藤原氏は、原古事記にあった天照大神が建御名方命に鳥取県琴浦町の伊勢野を国譲りしてもらった記述を神武天皇と伊勢津彦の話に変えて伊勢国風土記を作った。 また、藤原氏は、卑弥呼(倭姫命)が祭祀場である奈良の纒向から離れた安全な居所を探すための巡行の記録を「倭姫命世記」として独立させ伊勢神宮ができた由来を創作した。これらの創作は750年以降である。藤原氏は原古事記に書かれていた邪馬台国(志摩国)を隠蔽するために伊勢国と伊勢神宮をテーマパークとして創設した。


 この目論見は今のところ見事に成功している。伊勢神宮は全国の約8万5千の神社の頂点である神社本庁の本宗と位置づけられている。神社本庁の下部組織の神道政治連盟国会議員懇談会には多くの政治家が加入している。神社本庁は改ざんが多くなされている古事記・日本書紀をもとに活動している。


5 「倭姫命世記」偽書説は、「古語拾遺を始め、紀やその他からの転用が多く、古書の継ぎはぎだけでは済まない文脈の乱れがある」と指摘する。江戸中期の神道家・吉見幸和は「倭姫命世記」を含む「五部書説辨」(1736年刊行)で「乱世の時代ならば五部書のような偽書をも疑う者は居ないが、天下が治まり泰平の世が続けば学問も興り、私如き者すら信じず学識のある者が信じることなど恥ずかしいと思え」と記している。


※ 私見


 「倭姫命世記」は偽書ではなく倭姫命(卑弥呼)が祭祀場である奈良の纒向から離れた安全な居所を探すための巡行の記録を、伊勢神宮が出来た由緒を作るため、整合性を図って改ざんしたものであり、偽書に見えるが原典は偽書ではない。先代旧事本記も大成経(1679年刊行)が出た影響で偽書扱いされたが、記紀と異なる記載は参考になる場合があり、藤原氏が改ざんしていない部分は信用できる。


 通説は「天照大神は豊鋤入姫命を御杖代として各地を巡幸していたが、豊鋤入姫命が老年になるに及んで御杖代を皇女倭姫命に交代した。倭国、彌和乃御室嶺上宮までは豊鋤入姫命が、以後は倭姫命が天照大神の御杖代となって諸国を巡幸した」と整合性を持たせているが、史実は「倭国大乱の後に、倭姫命(卑弥呼)が祭祀場である奈良の纒向から離れた安全な居所を探すための巡行をし、卑弥呼が亡くなってから豊鋤入姫命(台与)は倭朝廷に深く関係する一族の卑弥呼が亡くなった失望による誅殺を鎮め安定させる巡行」であり、二人の巡行は目的の違う巡行であった。


 倭姫命世記は「天照大神が高天原に坐して見し国(伊勢国)に坐せ奉る」ために天照大神を奉戴して巡行した、とする。しかし、伊勢神宮ができた由来とするには説得力がない。何を言っているのかわからない。「天照大神が高天原から見た国に行きたい」では理由にならない。伊勢神宮でなければならない理由が書かれていない。原本にあった安全な居所を探すための倭姫命の巡行は宇陀、伊賀から始まるため、倭姫命→豊鋤入姫命では巡行地が繋がらなくなる。「天照大神が高天原から見た国に行かせる巡行」とするためには、倭姫命の巡行の前に、巡行が三輪神社(本当は鳥取県北栄町の三輪神社)で終わる豊鋤入姫命の巡行が必要であり、そのあと、宇陀から始まる倭姫命の巡行としなければならなかった。伊勢神宮ができた由来を創作するために、目的も時代も違う巡行を整合性を図って順序を逆にして引き継いだとしなければならなかった。


(1)倭姫命は倭迹迹日百襲媛命(孝霊天皇の皇女)(神社の祭神としては稚日女命)であり卑弥呼であった。


1、大和国 宇多秋志野宮 2、大和国 佐々波多宮 3、伊賀国 隠市守宮 4、伊賀国 穴穂宮 5、伊賀国 敢都美恵宮 6、淡海国 甲可日雲宮 7、淡海国 坂田宮 8、美濃国 伊久良河宮 9、尾張国 中嶋宮 10、三河国渥美宮 11、遠江国浜名宮 12、伊勢国 桑名野代宮 13、鈴鹿国 奈具波志忍山宮 14、伊勢国 阿佐加藤方片樋宮 15、伊勢国 飯野高宮 16、伊勢国 佐々牟江宮 17、伊勢国 伊蘇宮 18、伊勢国 大河之瀧原宮 19、久求小野宮 20、伊勢国 矢田宮 21、伊勢国 家田田上宮 22、伊勢国 奈尾之根宮  23、伊勢国 渡会宮 24、伊勢国 五十鈴宮 25、志摩国 伊雑宮 


(2)豊鍬入姫命は垂仁天皇の皇女、景行天皇の妹であり台与であった。


 1、大倭国 笠縫邑 2、但波乃 吉佐宮 3、大倭国 伊豆加志本宮 4、木乃国 奈久佐濱宮 5、吉備国 名方濱宮 6、大倭国 彌和乃御室嶺の上(山側)の宮


(3)私見


 倭姫命世記では「大和」と「倭」の字を使い分けている。「倭」は鳥取県中部であり「大和」は奈良であった。


 倉吉市高城には楯縫神社があるので、楯縫邑がありその近くに笠縫邑もあったと思われる。


 現在、鳥取県東伯郡琴浦町に「笠見」集落がある。「笠見」という地名は全国でも少ない。ヤフー地図で検索すると真っ先に鳥取県琴浦町「笠見」がヒットする。「高城史」では立見は「楯検」であり楯を検査するところとする。同じく笠見は「笠検」であり笠を検査するところと思われる。倉吉市高城地区の立見と同じく、笠を縫う所もこの近くにあったはずである。すぐ隣の八橋が笠縫邑ではないかと思われる。八橋の地名由来は「八岐大蛇の恨みで加勢蛇川に8つの橋が架かったから八橋という」とするが、それは加勢蛇川周辺のことであって、上伊勢・下伊勢・浦安・徳万・保・丸尾などの集落を飛越えて、笠見の北に八橋の地名が来るのは不自然である。琴浦町八橋は古代「笠縫邑」であったと思われる。倭姫命世記にある豊鋤入姫命の巡行をスタートした大倭国の「笠縫邑」とは鳥取県中部の琴浦町八橋であった。


 鳥取県中部が倭国であったから、但波(竹野川流域)と木乃国(津山市)と吉備(倉敷市)は鳥取県中部(倭国)をとりまく周辺地域である。千余人が誅殺し合ったのもこの地域と思われる。豊鋤入姫命はこれらの地域を平定する巡行をした。吉備国名方濱宮(倉敷市上東)と但波乃吉佐宮(竹野神社)は比定地が多く特定できていない。特に吉備国名方濱宮の比定地は和歌山県に2か所あり、比定地を和歌山県にもっていこうとする藤原氏の意図が見て取れる。名草邑は津山市二宮であったから、「濱」は付けてあるが、奈久佐濱宮は津山市二宮の高野神社であった。奈久佐濱宮は木国を和歌山県にしたい藤原氏の改ざんと思われる。


 「倭国、彌和乃御室嶺の上(山側)の宮」とあるが「上」を「ウエ」ではなく「カミ」と読ませる。「上」(カミ)とは鳥取県中部では山側(南側)のことを意味する。鳥取県北栄町下神の三輪神社跡の石碑は三輪山(御室嶺)の山側(南側)にある。奈良で、特定の方角を「上(カミ)」と呼ぶ慣例があるとは聞いたことがない。ことがない。名称未設定-1.jpg


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 彌和乃御室嶺上宮は宝暦三年(1753年)まで鳥取県北栄町下神にあった三輪神社と思われる。北栄町の三輪神社は焼失したが、京都の藤原氏による放火と思われる。北栄町の三輪神社が奈良の三輪神社の系列なら、同じ場所に再建するはずである。鳥取県中部に本物の三輪神社があるから「五部書説辨」(1736年刊行)のような書物が出て乗っ取りが完成しない、として藤原氏は証拠の隠滅をはかったと思われる。


6 海部氏勘注系図によると11世孫の日女命は9世孫の日女命と同神であることを暗示している。豊鋤入姫命と倭姫命との順番を入れ替えるためにこのような細工をした。本来13世孫の妹であった豊鋤入姫命を10世孫の妹に持ってきた。本来9世孫の妹であった倭迹迹日百襲媛命である日女命を11世孫の妹の日女命に持ってきた。これによって順番は逆になる。11世孫(崇神天皇)の妹の日女命とされる稚日女命・倭姫命は本来9世孫(孝元天皇)の妹の日女命亦の名は倭迹迹日百襲媛命である。


 10世孫の妹の大倭姫命の亦の名に豊鋤入姫命の名がある。彼女が魏志倭人伝の「台与」であり、11世孫の妹の日女命は、9世孫の妹の日女命と同じく「卑弥呼」であった。11世孫は崇神天皇にあたるから、豊鋤入姫命は13世孫(景行天皇)の妹であった。稚日女命は倭姫命と同神であり、倭迹迹日百襲媛命であった。倭姫命(卑弥呼)と豊鋤入姫命(台与)との順番を入れ替えるためにこのような細工をしたと思われる。


7 倭姫命は志摩国に着いて、始めのうちは磯部の伊雑宮にいて水田稲作を普及させた。「かの稲を伊佐波登美神をして抜穂に抜かしめて、天照皇太神の御前に懸久真に懸け奉り始めた。志摩国の伊雑の方上に伊佐波登美の神宮を造り奉り、天照皇太神宮の摂宮と為した。伊雑宮がこれである。」と倭姫命世記にあるが、現在伊雑宮の祭神は天照大神だけとなっている。


 安楽島の伊射波神社に伊佐波登美(トミだから出雲神族)を祀るようになったのは、藤原氏によるものである。安楽島の伊射波神社の祭神に倭姫命はおらず、祭神は稚日女命である。藤原氏はそこに「倭姫命」に仕えた伊佐波登美(イザワトミだからイザワ地域にいた出雲神族)を持って行った。稚日女命も倭姫命も同一神であることを藤原氏は知っていて移動させている。倭姫命は伊勢国に引き返すのではなく志摩国に留まり、神社の祭神である稚日女命に変身して安楽島の伊射波神社を終の棲家とした。姫小松(稚日女命)の松の鼻古墳もある。松の鼻古墳が卑弥呼(日皇女=孝霊天皇の皇女)の墓と思われる。


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九州における卑弥呼・倭健命の軌跡 [邪馬台国・卑弥呼 その2]

九州における卑弥呼・倭健命の軌跡。

1 卑弥呼は伊万里市から新羅に向けて出港した。

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まず壱岐に向けて出港した。対馬海流を考慮した出港である。

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すぐ向こうは海である。

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佐賀県伊万里市黒川町小黒川鎮座
若宮神社
祭神 若日孁尊(稚日女命=卑弥呼)
御由緒
「当神社は神功皇后征韓の砌(みぎり)若日孁尊の威霊を現わされし給いしにより此地◯◯に是を鎮祀給うた古社にして・・・。」とある。

日女命に稚をつけて稚日女命とし、ここでは若日孁尊としている。由緒に神功皇后が出てきているので、若日孁尊は卑弥呼である。

2 熊襲は江田船山古墳のあたりいたのではないかと思われる。崇神天皇が中山神社を拠点とされたように、平定した相手の拠点をヤマト王権の拠点とした。

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柿原神社は確認できなかったが卑弥呼が拠点にしていたはずである。

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四王子神社 祭神 倭健命

摂社若一皇子社 祭神 若晝女神(稚日女命)

ここでも稚日女命を若晝女神に変えている。

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ワカタケル(雄略天皇)銘であると思われる。江田船山をヤマト王権は拠点とした。

3 天草の「天」は、隋書東夷伝倭国伝にある「倭王、姓は阿毎(アマ)」とある「天(アマ)」である。

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路木神社より海が見える。当時はもっと手前まで海岸がきていたはずである。

海岸近くが多いので船で移動していたものと思われる。

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天草市牛深の夕日

卑弥呼たちは天草市牛深にも来ていた。


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第十節 卑弥呼の墓は安楽島集落から伊射波神社に行くまでの1.2kmの間にありはしないか [邪馬台国・卑弥呼 その2]

  第十節 卑弥呼の墓は安楽島集落から伊射波神社に行くまでの1.2kmの間にありはしないか。
 魏志倭人伝によると「卑弥呼の死後は直径100余歩の大きな塚が作られ、奴婢100余人が殉葬された」とある。また、「倭の墓は棺をもってあるも槨なく、土を封じて塚をつくる」とある。箸墓古墳はこれに該当しないのではないかと思われる。

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伊射波神社より700mくらい南西にある。
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安楽島町から500mくらい北にある。
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 軽自動車が通れるほどの道は左に大きく迂回するように造られている。
 歩行者は丸い丘の上辺を通る近道がある。


 それほど勾配のある丘でもないのに、広い道をつくる時に、なぜこの丸い丘を崩して真っすぐな道路をつくれなかったのだろうかという疑問が沸いた。
 上空から見る限り、もともとは、卑弥呼のいた伊射波神社に通ずる道が南北に真っすぐあったのではないか。卑弥呼が亡くなってから卑弥呼の居所に通ずる道を塞ぐ意味も込めてその道のど真ん中に墳墓をつくったのではないか、という推測が生まれる。
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 円の直径は70m余り。魏志倭人伝に「百歩余り」とあるが、実際に誰かが歩いたものと思われる。身長170cmの男性の平均歩幅は70cmとされる(ヤフー知恵袋より)。70m余りは100余歩となる。
 ここを通るときに、青谷上寺地遺跡が発掘されるまでの青谷町の薄気味悪い雰囲気が思い起こされた。風もそれほどないのに竹藪の竹の擦れる音が大きくて、助けをもとめているように聞こえた。私以外にも、神社に行くまでの薄気味の悪さを書いておられる方がいる。殉葬された者達の無念さが残っているのかもしれない。

 追記(2014年11月16日) 地元の方から情報をいただきました。「安楽島町では此処を松の鼻古墳と言っています。 昭和30年代中高生が剣と土器を発掘し鳥羽市 三重県 へ寄付した」そうです。「松の鼻」古墳は、「姫小松」に見立てられた稚日女尊(卑弥呼)の古墳と思われる。


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全国に散らばった青銅器文化の一族を平定していった卑弥呼の巡行 [邪馬台国・卑弥呼 その2]

1  青銅器文化を持った一族(準王一族=出雲神族)が紀元前2世紀から日本列島各地に勢力を伸ばしていた。彼らは殷や秦の流れをくむ一族であり、情け容赦なく女子供を殺したりした。古事記にいう「荒ぶる神たち」「まつろわぬ者たち」であり鬼と呼ばれることもあった。彼らの進出にストップをかけたのが、神武天皇に始まる天孫族である。倭姫命世紀には南北に巡行して彼らを従わせた記録が書かれている。古事記には倭建命の東西の平定説話として書かれているが、どちらも卑弥呼(倭姫命=稚日女命)倭建命の巡行である。 

2  卑弥呼(倭姫命=稚日女命)は焼津で野火に囲まれ、木花之佐久夜毘売の火中出産を思った。これが男性の倭健命だけなら木花之佐久夜毘売を発想しない。焼津から巡行を進めるうちに福地(富士宮)で徐福の子孫(第一次)に出会った。徐福の子孫に、野火に囲まれたことを話した。「まるで木花之佐久夜毘売になったようであった」と言った。その話を聞いて、徐福の子孫は福地で木花之佐久夜毘売を祀るようになった(185年頃、弥生時代後期)。806年に浅間大社が山宮(現山宮浅間神社)から現在地に遷座して来るまで、同地には福地神社が地主神として鎮座していた。富士山本宮浅間大社が建立されるずっと前から福地神社で木花之佐久夜毘売を祀っていた。
静岡県の稚日女命が祀られている神社。卑弥呼(倭姫命=稚日女命)が寄ったと思われるところ。
静岡県三島市加茂川町 賀茂川神社
静岡県静岡市小鹿 若一王子社
静岡県島田市南町 茨神社
静岡県袋井市国本 冨士浅間宮摂社天白社
 野火事件のあった焼津市は島田市と静岡市との間にある。稚日女命(卑弥呼=倭姫命)は焼津にもいた。
 

3  卑弥呼たちが新羅から船で帰途の途中に寄ったと思われるところである。稚日女命が祀られている。
島根県簸川郡大社町大字日御碕 摂社立花神社
島根県八束郡美保関町片江 方結神社
 卑弥呼(倭姫命=稚日女命)の時代も、倭国は新羅と兄弟であり、新羅は鉄の武器を造って倭国に送っていた。倭国が新羅を攻撃することはありえない。卑弥呼(倭姫命=稚日女命)と倭健命は中国に朝貢するためのルートを開くために朝鮮半島に渡った。この時、全羅南道に任那を造った(173年)。朝鮮半島からの帰国時、島根半島の日御碕の立花神社と片江の方結神社に停泊している。新羅から来た天照大神(徐福)と須佐之男も出雲の日御碕神社に停泊している。卑弥呼(倭姫命=稚日女命)は全羅南道に任那を造る(173年)ため朝鮮半島に渡っていた。


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古事記の倭建命には卑弥呼が同行していた [邪馬台国・卑弥呼 その2]

​ 1 古事記の抜粋
 天皇は「西の国に、熊曾建という者が二人いる。彼らを殺せ」と命じた。そこで叔母の倭比賣命に女性の衣裳を借り、叔母の着物を着た。そして都に帰る途上、山の神、川の神、穴戸の神たちをみな平定して帰った。
 天皇は「東方十二道の荒ぶる神たちと、まつろわぬ者たちを言向けてこい」と命じた。叔母の倭比賣命に「父は私を早く死なせたいと思っているんだろうか。」と言って、泣き憂えた。倭比賣命は彼に草薙の剣を与え、また一つの嚢を与えて、「緊急のことが起きたら、この袋の口を開けなさい」と教えた。相模国に到った時、その国造が彼を騙して、「沼に住む神は非常に荒れ狂う神で困っております」と言った。そこでその神を見ようと野に入ったとき、その国造は野の周りに火を着けた。刀で身の周りの草を切り払い、それに倭比賣命にもらった燧石で火を着けて、迎え火で火を避けた。帰って来ると、その国造たちを斬り殺し、火を着けて焼いた。それでその地を今でも燒遣という。
 さらに道の奥に入り、荒ぶる蝦夷たちを退治し、山河の荒ぶる神たちを平らげて、都に還る時、・・・そこでその国を「あづま」(関東)と言う。
 その国を越えて甲斐(山梨県)に出た。そこで酒折宮(山梨県)にしばらく滞在し、歌って「新治(茨城県)、筑波(茨城県)を過ぎて、幾夜寝たことだろう」。
 その国から科野の国(長野県)に越え、科野の坂の神を退治し、尾張へと帰り着いた。
 
2  「 」は古事記で倭建命が訪れた地名であり、右は稚日女命(倭姫命)を祀る神社。
「熊曾」 熊本県玉名郡南関町四原 柿原神社(熊襲の比定地)
 (近くにワカタケル銘の鉄剣)熊本県玉名郡和水町  江田船山古墳
「蝦夷」 岩手県胆沢郡金ケ崎町大字永栄字飛鳥田後 永岡神社
     福島県郡山市安積町荒井字萬海 柴宮神社
「新治」 茨城県水戸市元石川町 手子后神社
「筑波」 茨城県つくば市筑波 筑波山神社摂社稚日女神社
「あづま」 栃木県栃木市平井町 大平山神社摂社機織姫神社
    群馬県群馬郡榛名町下室田 大森神社
    埼玉県鴻巣市大間 大野神社(近くにワカタケル銘の鉄剣)
       千葉県成田市船形 麻賀多神社
    東京都西多摩郡瑞穂町箱根ケ崎 狭山神社
    神奈川県座間市栗原中央 栗原神社
    神奈川県伊勢原市三ノ宮 三宮比々多神社
    神奈川県伊勢原市神戸 木下神社
    山梨県西八代郡六郷町鴨狩津向 城山神社
「科野の坂の神」  長野県駒ケ根市上穂栄町 三和社
        長野県飯山市大字緑字塩辛 布施田神社 
「尾張」  愛知県名古屋市中区大須 日出神社
    愛知県一宮市千秋町芝原字石原 生田神社
    愛知県日進市大字本郷字宮下 白山宮摂社香良州社
    愛知県岩倉市下本町下市場 神明生田神社
    愛知県東海市加木屋町宮ノ脇43 熊野神社摂社香良州神社
その他 新潟県 1社
    石川県 3社
「筑紫の末羅縣の玉嶋の里」 佐賀県伊万里市黒川町小黒川405 若宮神社 (卑弥呼はここから出航した)
    長崎県壱岐市郷ノ浦町田中触 天手長比賣神社(新羅に行くときの通過地点である)

3 私見
  倭建命は倭姫命に女性の着物と草薙剣を借りた。一緒に行動していたから借りることができた。熊本県に行って、今夜の宴に女の着物がいるからといって三重県の伊勢神宮まで帰らない。野火を着けられるから刀で草を切り払い迎え火をつけることになるのを事前に知って準備することは不可能である。これも倭姫命が一緒にいたからできたことである。
 また、叔母と甥の関係ではなく、姉弟の関係であった(別稿「孝霊天皇一族について」を参照されたし)。二人の行動範囲はほぼ一致する。西は「熊襲」倭建命・「熊本県」倭姫命(稚日女命)、東は「蝦夷」倭建命・「岩手県」倭姫命(稚日女命)である。








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第七節 伊射波神社の祭神は当初稚日女尊だけであった。(由緒など引用しています) [邪馬台国・卑弥呼 その2]

   第七節 伊射波神社の祭神は当初稚日女尊だけであった。(由緒など引用しています)
 ガイドブックによれば、伊射波神社に祀られているのは、稚日女尊、伊佐波登美命、玉柱屋姫命、狭依姫命という4柱の神様で、伊佐波登美命以外は女神とある。
1 狭依姫命(女神)
 宗像三女神の一柱である市杵島比売命の別名である。加布良古崎の前海にあたる長藻瀬という島嶼の神乎多乃御子神社のご祭神として祀られていたが、戦国時代の地震によって、その社地は海底1.8mに水没してしまった。幸いご神体は村人らによって見つけ出され、伊射波神社に合祀された。海の守護神として卑弥呼のころに祀ったのかもしれない。もともと伊射波神社の祭神ではなかった。
2 玉柱屋姫命(女神)
 伊雑宮の御師・西岡家に伝わる文書には、中世以降に伊雑宮の祭神とされた「玉柱屋姫命」について、玉柱屋姫と瀬織津姫は鎮座顕現する場による呼称のちがいにすぎず、両神は異称同体という認識が記されているそうである。
 瀬織津姫は天照大御神の妻であり、天照大御神を女神だとするようになってから、藤原氏が消していったものである。もともと伊射波神社の祭神ではなかった。
3 伊佐波登美命(男神)

 伊佐波登美命以外は女神だから伊佐波登美命は男神である。伊佐波登美尊は、倭姫命が天照大神の御魂を鎮座させた折、これを奉迎して鎮座に尽力し、また志摩国の新田開発にも大きな功績を残したと伝えられている。安楽島町には、加布良古崎の伊射波神社以外に安楽島町字二地の贄に伊射波神社本宮がありそこに伊佐波登美命が祀られていたそうである。
 安楽島町字二地の贄の遺跡からは、縄文中期から平安中期に至るまでの時代の連続した、おびただしい数の遺物・遺跡が発掘され、皇族、貴族が往来した痕跡が見つかっている。
 伊射波神社本宮の社殿は贄遺跡の近くの一番高いところにあったそうである。後、伊射波神社本宮の衰退と共に、伊佐波登美命は加布良古崎の伊射波神社に遷座されました。伊佐波登美命はもともと伊射波神社本宮に祀られており、現在の伊射波神社の祭神ではなかった。魏志倭人伝には「ただ男子一人あり、飲食を給し、辞を伝え居処に出入す」とある。この男子とは伊佐波登美命のことである。
4 稚日女尊(女神)
 海部氏系図によると日女尊又の名を倭迹迹日百襲媛命といい第七代孝霊天皇の皇女であり、魏志倭人伝にいう卑弥呼である。霊験あらたかな神様として知られる稚日女尊は、加布良古太明神とも称され、朝廷に捧げる贄物の一部を太明神にも奉納するという別格の扱いを受けていました。 
 古代、安楽島の前の海では、朝廷に捧げるアワビを採る神事が行なわれていました。加布良古太明神ともいわれた女神、稚日女尊を姫小松に見立て、「この松は千年の後も栄えるでしょう。加布良古の沖の汐がひいたら、神事で採れた貝を納めに都へ行きます。加布良古の太明神に分け前を奉納してから」と歌にも詠まれています。
 稚日女尊は天照大神の妹君、分身とも云われ、第十五代応神天皇の母君である神功皇后の崇敬厚く、皇后が筑紫国から倭国に凱旋した折にも、常に御許においてお祭りされていました。
 鳥羽市国崎町字鎧崎にある海士潜女神社の由緒には、「倭姫命にアワビを献上したと伝えられている伝説の海女(お弁)は海女の元祖ともいわれ、年初めの漁が始まる前に海女たちは必ずここを訪れ、一年の無事と大漁を祈願する」とある。
 ここで倭姫命(倭姫命世紀)と稚日女尊(全国の神社の祭神)は同一人物だということが判りました。
5 加布良古崎の伊射波神社の祭神は最初は稚日女尊一神だけであった。稚日女尊は加布良古崎の伊射波神社の地に一人で居り、伊佐波登美命が飲食を給し、辞を伝え居処に出入していた。王となりしより、見たことのある者は少なかった。

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倭姫が最初に天照大神を祀った神社は磯部の伊雑宮であり、外宮は月読が祀られていた [邪馬台国・卑弥呼 その2]

 倭姫が最初に天照大神を祀った神社は磯部の伊雑宮であり、外宮は月読が祀られていた。
1 ある方の記述を引用させてもらいます(抜粋)。
 『伊雑宮旧記』『五十宮伝来秘記見聞集』などによると、伊雑宮こそ天照大神を祀る真の日神の宮であり、外宮は月読を祀る月神の宮、内宮にいたってはニニギ命を祀る星神の宮に過ぎない。徳川時代にここの磯部の信仰こそ、本当の原始の天照大神信仰の始まりの地だと熱烈な運動がここで起きたが幕府には認められなかった。偽書を幕府に提出したかどにより、伊雑宮の神人四七人が追放処分を受ける。その熱烈な信仰運動は、いつのまにか内宮のために転用されてしまった。その主張が全面的に認められなかった伊雑宮と、内外両宮、特に内宮との対立は水面下で進行することになる。
 (地元の伝承) 形の上では内宮は格上で伊雑宮は下である。しかし、本当は伊雑宮がもとだった。白い馬の風習も伊雑宮の馬からだった。馬も習慣も内宮に持って行かれてしまった。千田寺周辺は廃仏毀釈でとにかくしこたまやられた。ここらはみんな千田寺の檀家だったんだが、みんな神道に変えられた。千田寺は後に火事にあった。今はただの草むらになっとる。なにも残ってない。
 文書よりも人づてによる口伝にこそ真実が残る。文書とは、時の権力の影響を一番に受ける対象であり、廃棄や改ざんが必ず起こる。政権交代が起こると、過去の物は改変される。

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 この看板のとおりだとすると、第一回目の式年遷宮は793年に行われたことになる。その時に20年ごとに改修しなければ、傷みがひどくなるという結論に達した。ということは、少なくとも最初に建てたときよりも20年は経っていたということである。773年より古いと思われるが、それよりも20年も古いとは思われない。いくら古くとも753年くらいではないだろうか。今の規模の伊勢神宮を造ったのは753年よりふるくはないと思われる。今の規模の伊勢神宮は持統が亡くなってから造られたものだと思われる。持統が勅賜門を千田寺に造ったときに小さな伊勢神宮のもとを造ったかどうかはわからない。倭姫命世紀の伊勢神宮をこの時に造ったという部分は改ざんして後に付け加えたものである。
 千田寺は聖徳太子(蘇我善徳大王)が建てたものである。

3 「倭姫命世記」は卑弥呼が祭祀場である奈良の纒向から離れた安全な居所を探すための巡行を記したものであった。はじめは、纒向から隠れた宇陀や伊賀も候補地であったが、敵対していた唐古・鍵遺跡(出雲神族である準王一族)などに近すぎて安全ではなく、巡行を続けて最終的な居所は志摩国に定めた。
 
倭姫命世記は「天照大神が高天原に坐して見し国(伊勢国)に坐せ奉る」ために天照大神を奉戴して巡行した、とする。安全な居所を探すための倭姫命の巡行は宇陀、伊賀から始まるため、先に倭姫命、次に豊鋤入姫命では巡行地が繋がらなくなる。「天照大神が高天原に坐して見し国(伊勢国)に坐せ奉るための巡行」とするためには、倭姫命の巡行の前に、巡行が三輪神社(本当は鳥取県北栄町の三輪神社)で終わる豊鋤入姫命が先であり、次に巡行が宇陀から始まる倭姫命としなければならなかった。目的も時代も違う巡行を「天照大神が高天原に坐して見し国(伊勢国)に坐せ奉るための巡行」とするために、整合性を図って順序を逆にして引き継いだとしなければならなかった。
 倭姫命は孝元天皇の妹であり、豊鋤入姫命は景行天皇の妹であった。国史を改ざんしたのは藤原氏である。全国を平定した倭姫命の居た志摩国(邪馬台国)を封印するために伊勢国・伊勢神宮を創らなければならなかったからである。伊勢国・伊勢神宮を創ったのは藤原氏だから、奈良時代より古くはない。倭姫命は151年に生まれ248年に没している。
 「
倭姫命世記」に記されている伊勢国・伊勢神宮は藤原氏が創建したものなので、奈良時代後半以降に創建されており、倭姫命(151年~248年)の時代には存在しなかった。「倭姫命世記」に記されている伊勢国・伊勢神宮は中世に京都の藤原氏が改ざん・加筆したものである。


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