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千三百年の間、藤原氏に消されてきた伯耆国(鳥取県中西部)の真実の歴史が、今よみがえる。

第一節 高天原=蒜山、天孫降臨地=伯耆国説 [天孫降臨]

佐竹淳如氏、田村誠一氏、vetty氏の高天原=蒜山説
古事記・日本書紀の高天原は岡山県真庭市の蒜山である、とする。

田村誠一氏、vetty氏の天孫降臨地=伯耆国説
田村誠一氏、vetty氏はニニギ命は蒜山から鳥取県北栄町の高千穂(大宮神社)に降臨した、とする。

1  宮崎県の高千穂を訪れた人は疑問に思われるそうである。出雲の地で国を譲りましょうといわれて、なぜ譲られた地が出雲から遠く離れた宮崎県なのか。建御名方命は国譲りに際して、なぜ出雲の国に逃げずに長野まで逃げたのか。事代主命は譲った国から魚釣りに出かけていて、帰ることが出来ずに、美保関の海に姿を隠した。なぜ出雲の国に帰らなかったのか。

2 ニニギは国譲りで蒜山の加茂神社から犬挟峠を越えて関金の矢送神社に降臨した。ニニギの降臨には五伴緒は随伴しなかった。五伴緒は天照大御神・月読命・饒速日とともに鏡ヶ成からすでに降臨していた。幼少のニニギは矢送神社から上福田(楯縫神社)に移り、百八十神が成長するのを待って上種(大宮神社)に御所を築いた。北栄町の大宮(上種)以前(矢送神社、楯縫神社)はやまかげの場所ばかりで葦原中津国を「日当たりの良い地である」と言ったのはもっともである。地元の者はニニギに日向の御子というあだ名を付けた。
 高天原(蒜山)から降りてきた天孫に譲られた国、天孫降臨の地は伯耆国にあった。ニニギのお供の者も北栄町の大宮を中心に自然な距離に祭られている(天児屋根命は穂波神社に祭られていた)。天照大御神は方見神社に、天太玉命は中尾神社に、石凝姥命は倉坂神社に、天手力雄命は神郷神社に、天鈿女命は長瀬神社にまつられている。コノハナサクヤヒメもニニギの尊のおられた大宮神社と同じ丘陵(クシフルタケ)の少し下ったところにある亀谷神社に祭られています。行き来するのに自然な距離です。また産屋があったと思われる由良(等由良の由良)の高江神社が隣の丘にあります(コノハナサクヤヒメを祭る子安神社)。

3 天孫族には産屋の習慣がありました。川ひとつ挟んだ隣の丘に産屋をこしらえて、そこでお産をし、一ヶ月はそこですごす。コノハナサクヤヒメは身の潔白を証明するために産屋に火を放ってお産をしたそうです。また、豊玉姫は産屋を作るのが間に合わなかったため、その子の名前はウガヤフキアエズという名前になりました(但し、ウガヤフキアエズもあだ名と思われる)。このように、天孫降臨の地は産屋の仕来たりのあるところでなくてはならないのですが、九州沿岸にはこの仕来たりはないそうです。日本海沿岸にはつい最近までこの仕来たりが残っていたそうです。 

4 ニニギ命は高千穂に立たれて「此地は韓國に向ひ、笠沙の御前を眞來通りて、朝日の直刺す國、夕日の日照る國なり。故、此地は甚吉き地。」と詔りたまひて、と古事記には書かれている。「韓国に向かい」で論争になったが、対馬海流にのると朝鮮半島からは流されるように鳥取県や丹後半島に着きますよと、とらえればよい。北条砂丘にはハングル文字のゴミが多く漂着する。笠沙之御前とは北条砂丘のことであった。北条砂丘は海抜4mに海面があった地形を見ると傘型の砂丘となる。このような場所は全国のどこにもない。後方に葦原中津国が確認できる。葦原中津国の前に笠沙之御前があるとするのが定説である。位置もピタリと付合する。その葦原中津国もニニギ命、木花佐久耶姫、天児屋根によって平定された状態が確認できる。

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 海抜4mに海面がある(紀元前200年頃)の鳥取県中部(倭国)の地形

 

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 道の駅大栄にある看板。今でも半島からの密航者がいる。

  笠沙之御前は北条砂丘であった。ここを巻くように韓国からの船が通ってきた。当時は海岸線が4m高く北栄町の北条砂丘が海の先に浮かんでいて、それを巻くように入ってくれば天然の良港があった。今でも葦が茂っており葦原中津国である。「朝日は直にさし、夕日は日照る」地である。

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大宮神社(ニニギ命の御所があった所)に直に射す朝日。

 ※ 上種第1遺跡発掘調査報告書より

 大宮神社周辺から弥生時代後期から古墳時代中期にかけての住居跡46棟が発掘された。

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 大宮神社を取り巻くように建てられていたことが判る。弥生時代後期だから崇神天皇(在位188年~220年)は全国の由緒のある地に社を創建していったその一社である。ここは邇邇芸が降臨した場所として神社が創建された。

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 葦原中津国より見た夕日。夕日の日照る国。 
 北栄町の松神と下神の北側には大物主(天忍穂耳)のいた三輪山があった。今は崩されて丘だけとなり三輪神社跡の石碑が残るのみであるが、三輪神社には大物主(天忍穂耳)が祭られていた。三輪神社は宝暦三年(1753年)、大日本史の改ざん中であり、京都の藤原氏によって放火され焼失した。ニニギ命(日向御子)は北栄町下種の大宮神社から父のいた北栄町下神の三輪山に何度も来ていたはずである。隣の松神神社には神阿多都比売(コノハナサクヤヒメ)がまつられている。

5 白村江の戦で敗れた亡命百済王朝は奈良の飛鳥から近江の大津に移り(667年)、王族は宮崎県に逃げていた。天武天皇は藤原鎌足を殺害してから鎌足の3人の子供に罪はないとして不比等ら3人を引き取った。11歳の不比等は父鎌足(翹岐)に教えられたとおり、六韜に基づいて天武天皇やその部下を徹底的におだてた。不比等のおだてを見ていた周囲の者は不比等が毒殺の犯人だとは気が付かなかった。誰を毒殺するかは豊璋(天智)の娘の持統と相談した。
 日本書紀の編さんをしたのは不比等の息のかかった百済系史官である。藤原不比等は列島に百済国(箕子朝鮮)を再興したかったのである。 倭国は716年に亡命百済人2世の山上憶良(親倭派)を伯耆国の国司(国庁は倉吉市国府)とした。山上憶良は好きな万葉の歌一首をつくることもせず、調査に専念している。その後日本書紀は720年に発表されその年に藤原不比等も亡くなった。翌721年に山上憶良は朝廷へ帰った。5年後の726年、長屋王暗殺の邪魔になるとして筑前の国司として九州に左遷された。 729年、長屋王暗殺。734年、倭国(鳥取県中部)にいた34代天皇(大王)を暗殺し、倭国を乗っ取った。

6 因幡国と伯耆国の神社の祭神を見ると、因幡国は古事記による神名が多いのに反し、伯耆国は日本書紀による神名が多い(鳥取県神社誌昭和9年刊)。伯耆国では明治維新前に神社調査なるものが行われている。日本書紀を編さんした一族の子孫は伯耆国神社の祭神名を日本書紀の神名に書き換えさせた。明治政府も藤原氏であった。藤原氏の支配は現在も続いている。
 北栄町下種・茶屋条の西の丘の上にある大宮神社(祭神ニニギ命)は鳥取県神社誌には載っていない。大正2年に合併という名のもとに消されている。現在の大宮神社は造りは新しい。大宮神社は地元住民によっていまでも維持管理されている。下種・茶屋条の住民はずっと昔からこの場所にあって管理してきたそうである。中央の藤原政権も住民の記憶までは消すことが出来なかった。

7 やすみししわご大君の食国は倭も此処も同じとぞ思ふ -大伴 旅人
(私見)大伴 旅人のいう倭とは鳥取県中部のことであり、此処とは倭奴国(北九州)のことである。

8 父母を 見れば貴し 妻子見れば めぐし愛し 世の中は かくぞことわり もち鳥の かからはしもよ ゆくへ知らねば 穿沓を 脱き棄るごとく 踏み脱きて 行くちふ人は 石木より 成りてし人か 汝が名告らさね 天へ行かば 汝がまにまに 地ならば 大君います この照らす 日月の下は 天雲の 向伏す極み 蟾蜍の さ渡る極み 聞こし食す 国のまほらぞ かにかくに 欲しきまにまに しかにはあらじか 山上 憶良
※ 訳 
 父母を見れば尊い。妻子を見れば可愛くいとおしい。世の中の道理はこうしたもの、モチにかかった鳥のように家族への愛情は断ち切り難い。行末も分からぬ我等なのだから。穴のあいた靴を脱ぎ捨てるように父母や妻子を捨てて行くという人は、非情の石や木から生まれた人だろうか。あなたの名前をおっしゃい。天へ行ったなら、あなたの思いのままにするのもよかろうが、この地上ならば、大君がいらっしゃる。この太陽と月が照らす下は、雲の垂れる果てまで、ヒキガエルが這い回る地の果てまで、大君のお治めになるすぐれた国土なのだ。あれもこれもと思いのままにしようというのか、そうゆくものではあるまいよ。
※ 私見
 山上憶良は亡命百済人によるクーデター計画を知ってこの歌を作った。大君とは鳥取県中部(倭国)にいた天皇のことである。山上憶良(親倭派)は鳥取県中部(倭国)から奈良に帰って、後の聖武天皇の教育係もやっているが、このときはまだ長屋親王が亡くなる前であり、大君とは元正ではなく鳥取県中部(倭国)にいた34代天皇のことである。奈良の危険性に気づき長屋親王だけを奈良に行かせ大君(穂積天皇の次の第34代天皇)は鳥取県中部(倭国)に居た。この天皇のことは、続日本紀には記されていない。


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