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千三百年の間、藤原氏に消されてきた伯耆国(鳥取県中西部)の真実の歴史が、今よみがえる。

倭姫命世記において豊鋤入姫の巡行した本当の比定地 [邪馬台国・卑弥呼 その2]

 倭姫命世記において豊鋤入姫の巡行した本当の比定地
 倭姫命世記に「倭笠縫邑に磯城の神籬を立て、天照大神と草薙の剱を奉遷し、豊鋤入姫命に奉斎せしめた。但波の吉佐宮に遷幸し、倭伊豆加志本宮に遷り、木乃国奈久佐浜宮に遷り、吉備国名方浜宮に遷り、倭弥和乃御室嶺上宮に遷った」とある。
 豊鋤入姫命は、倭笠縫邑、但波の吉佐宮、倭伊豆加志本宮、木乃国奈久佐浜宮、吉備国名方浜宮、倭弥和乃御室嶺上宮を巡行した。これら6か所の現在の比定地はどこだろうか。
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(1)倭の笠縫邑(鳥取県琴浦町八橋)
 倭笠縫邑の比定地は奈良県桜井市の檜原神社とする。楯縫神社の由緒に「旧郷名にちなみ楯縫神社とした」とあるので、立縫郷は楯縫郷であった。楯を立に変えている。立見集落があるが、元は楯見であり、製品となった楯を検査するところであった。
 琴浦町八橋の隣に笠見集落がある。これも、製品となった笠を検査するところであった。隣の八橋が笠縫邑であった。八橋の地名由来は笠縫邑を隠すために創られた。倭笠縫邑とは鳥取県琴浦町八橋集落であった。
(2)但波の吉佐宮(京丹後市丹後町の竹野神社)
 但波の吉佐宮の比定地は、宮津市の真名井神社や福知山市の皇大神社や舞鶴市の笶原神社や京丹後市の竹野神社がある。孝霊天皇一族は倭国大乱のときに、但馬の竹野川流域に疎開した。竹野川流域には孝霊天皇一族(倭姫命も含む)の子孫が住んでいた。但波の吉佐宮とは京丹後市丹後町の竹野神社であった。
(3)倭の伊豆加志本宮(鳥取県倉吉市長谷集落長谷神社)
 奈良の比定地(奈良県桜井市初瀬の長谷寺や与喜天満神社や長谷山口坐神社など特定できていない)は泊瀬地域にある。泊瀬のもとは倉吉市の長谷である。倉吉市長谷集落は神武天皇が穿って道をつけた途上にある由緒ある地である。倭伊豆加志本宮とは鳥取県倉吉市長谷集落長谷神社であた。
(4)木乃国奈久佐浜宮(津山市二宮の高野神社)
 紀の国は和歌山だが木の国は岡山県津山市であった。木乃国奈久佐浜宮の比定地は和歌山市毛見の濱宮とする。木の国は鳥取県智頭町だが御真木国は津山市であった。神武天皇が名草戸畔を誅した名草邑は岡山県津山市二宮であったから二宮の高野神社と思われる。津山に浜はないがこれは和歌山の浜に名草邑を創った藤原氏の創作である。木乃国奈久佐浜宮は津山市二宮の高野神社であった。
(5)吉備国名方浜宮(倉敷市上東)
 吉備国名方浜宮の比定地は和歌山に二ヵ所、岡山に五ヵ所(総社市福井の神明神社や倉敷市真備町妹の穴門山神社など)、広島に一ヵ所の計八ヵ所ある。倉敷市上東は古墳時代は浜であった。ここで奈良の纏向遺跡と同じく9,606個の桃核が出土している。豊鋤入姫はここで祭祀をした。吉備国名方浜宮は倉敷市上東であった。
(6)倭の弥和乃御室嶺上宮(鳥取県北栄町下神の三輪神社)
 倭の弥和乃御室嶺上宮の比定地は奈良県桜井市三輪山の大神神社、高宮神社とする。上は「かみ」と読むそうである。鳥取県中部で上とは山側(南)を意味する。鳥取県中部にあった三輪神社は三輪山(弥和乃御室嶺)の上(南)にある。奈良に上(かみ)・下(しも)の慣例はない。倭弥和乃御室嶺上宮は鳥取県北栄町下神の三輪神社であった。

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倭建命の白鳥陵は鳥取県湯梨浜町宮内の狐塚古墳であった [神武天皇と欠史八代]

 倭建命の白鳥陵は鳥取県湯梨浜町宮内の狐塚古墳であった。
1 東郷池にはコブ白鳥(朝鮮半島からの渡り)がいた。
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 エサをくれると思ったのか、寄ってきた。向うは望湖楼と千年亭。 
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 子育て中の東郷池のコブハクチョウ(養生館の横で)。
2 鳥取県湯梨浜町宮内の狐塚古墳(前方部が池側を向いている)
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 この前方後円墳は「前期古墳時代の特徴的な外形を示している」ので古墳時代前期と思われる。古墳時代前期がいつから始まるかはまだ流動的であるが考古学では3世紀中頃という説に落ち着いてきている。4世紀とするのは一昔前の考古学である。倭建命は188年頃に亡くなっているから遅くとも3世紀初頭には築造されている。しかし前方後円墳だから古墳時代前期ということになる。
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 倭建命(若日子建吉備津日子命=稚武彦命)は前方部の池の畔で白鳥にエサをやったのではないか。それを、卑弥呼(夜麻登登母母曾毘売命=倭迹迹日百襲姫命)はじめ周りの者が見ていた。
3 「卑弥呼は死に、塚を大きく作った。直径は百余歩。徇葬者は男女の奴隷、百余人である。さらに男王を立てたが、国中が不服で互いに殺しあった。当時千余人が殺された。また、卑弥呼の宗女、十三歳の壹與を立てて王と為し、国中が遂に安定した。張政たちは檄をもって壹與に教え諭した。壹與は大夫の率善中郎将、掖邪拘等二十人を派遣して、張政等が帰るのを送らせた」とある。
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 卑弥呼が亡くなったのは248年である。倭建命は188年頃亡くなっている。安楽島町の松の鼻古墳は湯梨浜町宮内の狐塚古墳を意識して造られている。どちらも前方部が水際にある。この二つの古墳の被葬者は姉弟であった。
「塚の径百余歩」は張政等の誰かが実際に歩いて測っている。

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