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千三百年の間、藤原氏に消されてきた伯耆国(鳥取県中西部)の真実の歴史が、今よみがえる。

倭建命の父は孝霊天皇であった [第九代開化天皇、第十代崇神天皇、第十一代垂仁天皇]

1 倭建命の父は孝霊天皇であった。
(1)倭建命の系譜
 古事記・日本書紀は、「12代景行天皇は倭建命の父であり、14代仲哀天皇は倭建命の皇子である」とする。これは正しいか。
 12代13代14代は潤色されている(別稿「12代景行・13代成務・14代仲哀について」を参照されたし)。また「景行天皇は倭建命のひ孫を娶り」とあることや、「仲哀天皇は倭建命が亡くなってから35年目に生まれた」ことになるため、倭建命と12代、倭建命と14代の親子関係を否定する説が有力である。これをもとに倭建命はいなかったとする説があるが、いなかったのは12代景行・13代成務・14代仲哀のほうである。12代13代14代は百済王であり、倭国王の倭建命を取り込もうとしたがほころびが生じた。
 倭国大王の13代は武内宿禰大臣(王)であった。成務天皇と同日生まれとするし、「王」を「臣」と書き換えたと思われる。12代は武内宿禰の父の屋主忍男武雄心であった。木(紀)氏系図では、8代孝元天皇→彦太忍信命→屋主忍男武雄心は12代→武内宿禰は13代となる。
(2)古事記・日本書紀は8代9代10代は父子承継とする。これは正しいか。
 古事記・日本書紀は、8代孝元天皇・9代開化天皇・10代崇神天皇・11代垂仁天皇・12代景行天皇・13代成務天皇とする。しかし、史実は8代孝元天皇→彦太忍信命→屋主忍男武雄心は12代→武内宿禰は13代であった。8代9代10代11代の期間は別系統での8代とその子の彦太忍信命の期間と同じになる。12代は屋主忍男武雄心命であり13代は武内宿禰であったから8代9代10代が兄弟であり、彦太忍信命と11代垂仁天皇が同世代であるなら辻褄があう。倭朝廷は戦などで王が若死にした場合、次の兄弟に王位を継がせていた。私見では8代9代10代の時代は倭国大乱の時代(2世紀後半)であった。8代9代10代は兄弟であった。
 紀元前210年に渡来した徐福が天照大神であったことを消すために神武元年を史実より600年古くした。兄弟承継を父子承継にし、初期十数代の天皇は寿命を異常に長くした。
(3)倭姫命は7代孝霊天皇の皇女倭迹迹日百襲姫命であった(別稿「内藤湖南の「倭姫命説」と笠井新也の「倭迹迹日百襲姫命説」はどちらも正しかった」を参照されたし)。
 倭建命は倭姫命(倭迹迹日百襲姫命)と一緒に全国の平定巡行をしている(一緒にいたから着物を借りたり、草薙剣を借りることができた)。倭建命は倭迹迹日百襲姫命の兄弟であった。
 倭迹迹日百襲姫命には男兄弟が5人いた。孝元天皇、大吉備津日子命、日子刺肩別命、若日子建吉備津日子命、日子寤間命である。 
 大吉備津日子命と若日子建吉備津日子命は吉備国を平定した(古事記)。倭建命は全国を平定しているので倭建命は吉備国を平定した二人のうちどちらかと思われる。同じ「建」がついている若日子建吉備津日子命と思われる。倭建命は若日子建吉備津日子命であった。
(4)倭建命(若日子建吉備津日子命)は東征のときに倭武天皇になっているが9代天皇か10代天皇か。
 倭朝廷は戦などで王が若死にした場合、次の兄弟に王位を継承していた。9代は若死にした王でなければならない。倭建命(若日子建吉備津日子命)は天皇になったが若死にしている。倭建命(若日子建吉備津日子命)は9代開花天皇であった。
 
2 鳥取県中部の伝承
 倭建命については鳥取県中部に二か所伝承が残っている。
(1)鳥取県倉吉市(旧関金町)に、ヤマトタケルが伯耆と美作国境の矢筈仙の山頂の岩石の上に立ち、「この矢のとどく限り兇徒、悪魔は退散して我が守護の地となれ」と念じ矢を放った場所が塔王権現で、現在は石祠と石塔が残る。また、放った矢は現在の倉吉市生竹まで飛び、その地の荒神が受け止めたといわれ、「矢留の荒神さん」と呼ばれる神社が建立されている。
(2)鳥取県北栄町宮崎神社(主祭神:伊邪那岐命・伊邪那美命)の由緒には「是に於て孝霊天皇の御宇皇子大日本根子彦国牽尊、土人の為今の本社地に御祖伊邪那岐命・伊邪那美命を奉齋し給ひき。是れ本社の濫觴なりと。斯くて数十年を経て景行天皇の御宇、皇子日本武尊征西の御時、北海の霪風御艦を悩まし奉りしが不思議の神助にて御艦引寄するが如く本社地乾の隅に着御し給へり。尊大に歓喜し給ひて宣はく『斯く清らかなる地の海面に浮出つるはこは浮洲にや』と。是より社地を称して浮洲の社と云ふ。洲の中央に大麻を挿立て御自ら御飯を爨き給ひて二尊を祭り神助を謝し給へり。御飯を炊き給ひし地は本社の北にあり今飯ノ山といふ。斯くて其後風波穏やかになりければ如何なる御訳にや。小艇は此地に置き給ひて、御艦に召され進発し給ひしと云ふ。」とある。
 
3 私見
(1)について
 これは倭国大乱のときの出来事であった。倭迹迹日百襲姫は18歳位の時に讃岐国から皇軍に加わって倭国大乱を平定していった。倭建命(若日子建吉備津彦)は12歳位になっていたはずである。倭建命(若日子建吉備津彦)は大吉備津彦(崇神天皇)や倭迹迹日百襲姫たち皇軍と一緒に瀬戸内側から吉備国を平定した。これは南の瀬戸内海側から北に出雲族(略奪集団)を平定していった神武天皇と同じ攻め方である。
 蒜山と関金町との境界の矢筈山で北(鳥取県中部=倭国)に向けて矢を放っている。倭建命(若日子建吉備津彦)は鳥取県中西部にいた出雲族の鬼・土蜘蛛(兇徒・悪魔)を平定し倭国大乱は終結した。最大の激戦地は鳥取県南部町の手間山であった。出雲族の八十神に対して天孫族には大国主の子孫も加わっていた。その後、若日子建吉備津彦(倭建命)と倭迹迹日百襲姫(倭姫命)は征西(熊襲征伐)を命じられる。
(2)について
 伊邪那岐・伊邪那美は鳥取県北栄町大島を葦原中津国を造るときの拠点としていた。伊邪那岐は辰韓から来た三貴神を鳥取県北栄町大島で出迎え、治めるべき国を三貴神に命じた。
 「日本武尊が征西の御時、北海の霪風が御艦を悩ましたが、不思議の神助にて御艦引寄するが如く着かれた」とある。倭建命と倭姫命は、九州を平定し新羅から出雲の日御碕神社・片江を経由して帰還した。天照大神と須佐之男も辰韓を出発し出雲の日御碕神社に到着している。倭建命は神助による征西の成功を倭国の祖神の伊邪那岐・伊邪那美を祭って謝し給はれた。
 全国の神社を掌握した藤原氏は「斯くて数十年を経て景行天皇の御宇」を改ざんして挿入している。正しくは、「斯くて数年を経て孝霊天皇の御宇」であった。倭建命は第7代孝霊天皇の皇子若日子建吉備津日子であった。
 
4 第9代開化天皇(倭建命)の皇居は鳥取県北栄町瀬戸の観音寺にあった。北栄町瀬戸は倭建命が征西から帰還した北栄町大島の隣にある。葛城は蜘ヶ家山より西であり、北栄町瀬戸も葛城地域であった。
 倭建命の3つの古墳のうち、磯城の白鳥陵は鳥取県湯梨浜町宮内の狐塚古墳(古墳時代最前期)であった。磯城とは東郷池周辺であった。倭建命はコブ白鳥のいる東郷池湖畔の湯梨浜町宮内で生まれたので白鳥陵も宮内に造られた。
 湯梨浜町宮内の狐塚古墳(全長100mほどの前方後円墳)は前方部が水辺近くにあり、鳥羽市安楽島町の松の鼻古墳(全長200mほどの前方後円墳)も前方部が水辺近くにある。それぞれ倭建命と倭姫命の古墳であった。
 
5 小碓命・大碓命の物語は朝鮮半島の百済国であった物語である。それを日本国史の中に取り込んだ。小碓命のモデルは若日子建吉備津彦(倭健命=第9代開化天皇)であり、大碓命のモデルは大吉備津彦(第10代崇神天皇)である。9代10代の母親は蝿(湯梨浜町長和田は波延の地)姉妹(出雲族)であり、9代10代は同い年くらいの異母兄弟であった。
 倭建命(若日子建吉備津彦157年~188年)と倭姫命(倭迹迹日百襲姫151年~248年)は全国を平定した。若日子建吉備津彦(倭建命)は9代開化天皇になるが若くして亡くなった。兄の大吉備津彦が次の10代崇神天皇に即位した。
 倭建命と倭姫命の全国巡行(稚日女命が祀られているところはほぼすべて)にも関わらず、青銅器文化(銅鐸・銅剣銅矛・生贄の風習)の一族(出雲族)を完全に平定することはできなかったため、崇神天皇(188年即位)は4道将軍を派遣して全国を平定した。

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