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千三百年の間、藤原氏に消されてきた伯耆国(鳥取県中西部)の真実の歴史が、今よみがえる。

天照大神は徐福であった [徐福、天照大神]

天照大神は徐福であった


​1 中国人は大喜びであり、我々日本人は大変残念であるが、我々が尊敬してやまない天照大神は徐福であった。天照大神は男性であり、時代も神武元年紀元前60年説を採れば無理なくつながる(別稿「天照大神は男性である」「神武元年は紀元前60年(弥生時代中期)であった」を参照されたし)。
 卑弥呼も崇神天皇も天武天皇も道教を信奉していたが、これは始祖が道教を信奉していたからである。始祖とは道教の方士徐福である。卑弥呼は第7代孝霊天皇の皇女の倭迹迹日百襲姫(倭姫命)であり鬼神道(道教が母体)の祭祀をしていた。崇神天皇は神道(道教が母体)を初めて全国に創設した。何のために伊勢神宮を参拝していたのだろう、と思われるかもしれないが、歴代の天皇が参拝しなかったのは、藤原王朝は天照大神が徐福であることを知っており、やっと乗っ取った倭国を自分たちの思うようにしたく中国に支配され邪魔されたくないという思いがあったからである。

2 史記(司馬遷)淮南衡山(わいなんこうざん)列伝第五十八

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 国立国会図書館デジタル書籍より
 史記(司馬遷)淮南衡山(わいなんこうざん)列伝第五十八に「(始皇帝は)徐福に船出して神仙を求めさせた。徐福は戻った。私は海中の大神に会った。『そなたは西皇の使者か』と言うので、私が『そうです』と答えた。『そなたは何を求めているのか』『不老長寿の薬をいただきたいと存じます』と答えた。すると神は『そなたの秦王の礼は丁重でない故、見ることはできても手に入れることはできぬ』といった。そこで私を従えて東南の蓬莱山に行き(即從臣東南至蓬莱山)、そこで霊芝でできた宮殿や(見芝成宮闕)、銅の色で龍の形をした使者がいて(有使者銅色而龍形)、光が天を照らしているのを見た(光上照天)。そこで私は再び拝礼して尋ねました。『どのようなものを献上すればよろしいのでしょうか』と問うた。すると海神は『名声ある男子と童女とさまざまな分野の技術者を献上せよ。そうすれば望みの物が得られよう』といわれました、と偽りの報告した。秦の始皇帝は喜び、良家の童男童女三千人と五穀(中国の五穀は麻・黍・稷・麦・豆)の種子とさまざまな分野の技術者を徐福に託して旅立たせた。徐福は、平原広沢を手に入れ、そこに留まって王となり、帰らなかった」とある。
 徐福に関する149文字の中に「大神」の文字と「天照」の文字が確認できる。
※ 私見
 第1次の徐福(紀元前219年)は米子市陰田町の日御碕神社(祭神は天照大神と素戔嗚)に到着し、大山の麓の米子市尾高の大神山神社(本社)で大神と出会った。大神は「始皇帝の礼が薄いので不老長寿の仙薬を譲ることはできないが見るだけならよい」と言うので、大神に従って東南の大山に行った。徐福は、大山町大山の大神山神社(奥宮)の地で、大神の宮殿や銅色の龍形の使者がいて光が天を照らしている(光上照天)のを見た。
 徐福と大神が出会ったのは大山の麓にある大神山神社本社の地であった。大神の宮殿は鳥取県大山中腹の大神山神社奥宮の地にあった。蓬莱山は鳥取県の大山であった。
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 高天原の様子を見れば分かるが、天照大神は集団のリーダーであり、徐福も集団のリーダーである。
 徐福は始皇帝に「三神山〈大山(蓬莱山)・烏ヶ山(方丈山)・蒜山(瀛州山)〉に留まって王となり秦の威名を高めよ」と言われていた。徐福は始皇帝に言われたように三神山〈大山(蓬莱山)・烏ヶ山(方丈山)・蒜山(瀛州山)〉に止まって王(大神)となった。国譲りで蒜山高原(高天原)から鳥取県中部(倭国)に降臨し、平原(琴浦町の伊勢野・鈴鹿野・斉尾野)と広沢(北栄町の葦原中津国を含む豊葦原瑞穂国)を得て王(天照大神)となった。徐福は平原と広沢を得て王(大神)となり、最初に見た情景に因んで「天照大神」と名乗った。
3 「史記」秦始皇本紀第六37年には、徐福が前提として連弩(連発武器)を積み込んでいたことが記されている。
 「史記」には「(徐福は)言った。『蓬莱の薬は得ることができますが、常に大鮫魚が苦しめるためたどり着くことができません。願わくは射撃の名手を伴わせていただきたいのです。見つければ連弩でこれを射ます。』・・・」とある。
 「古事記」には「素戔嗚の様子を見た天照大神は、高天原に攻め入るつもりだと危ぶむ。そしてすぐに御髪を解いて御角髪(みづら)に巻いて、・・・背中には千本の矢入りの箙を背負い、脇には五百本の矢入りの箙を着け、・・・弓の末を起こして、硬い地面を踏みしめ、・・・」とある。
 古事記には連弩とは書いてないが「天照大神は背中に千本の矢入りの箙を背負い、脇に五百本の矢入りの箙を着け」とあるので、天照大神のもっていた弓は徐福が積み込んでいた連弩(連発武器)と思われる。これも天照大神は徐福であったとする根拠である。
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4 天照大神や素戔嗚は始皇帝の追っ手(八岐大蛇)から逃れるため、因幡国(鳥取県東部の霊石山や氷ノ山や大江郷)に本拠地を遷そうとしていた。しかし、始皇帝が亡くなったのを知って、最初の指示どおり天照大神は蒜山(高天原)に、素戔嗚は倉吉市(根堅州国)に戻った。
 徐福一行は東海の三神仙(大山・烏ヶ山・蒜山)を目標に航海してきたのであり、出雲には行っていない。出雲に到着したのは、殷王朝末裔の準王一族であった(紀元前194年)。準王一族(因幡の白兎に出てくる大国主の兄の八十神)は鳥取県中部や鳥取県東部にも上陸していた。大神(伊邪那岐)との約束の地である鳥取県中部の葦原中津国にも準王一族が上陸したので天忍穂耳は葦原中津国が騒がしいと言った。
 「謎の出雲帝国」は「出雲族の子孫の富氏は天穂日をヤマト王権のスパイであった」とする。天孫降臨に際し、天穂日は葦原中津国にいた準王一族(大国主の兄の八十神=出雲族)の本拠地を大国主から教えてもらい準王の様子を偵察するため能義平野(安来市)に行った。天穂日は松江の南部(熊野大社)に本拠地のあった準王(出雲族)を監視していたが出雲族の娘を娶り婚姻関係を結んだ。饒速日が初代長髄彦(準王)の妹を娶ったのも天穂日の縁結びによるものと思われる。
 準王たち(八十神=出雲族)は天穂日に同化してゆき、天穂日を始祖とした。天穂日の子供とされるタケヒラドリは殷王朝末裔の準王であった。天穂日は自分より年少の準王に可愛がっていた大国主の別名の大穴牟遅の名を与えた。大穴牟遅は出雲王の代名詞として17代にわたって使われた(「謎の出雲帝国」より)。
 

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邇邇芸の時代は今より海面が4m高かった [天孫降臨]

邇邇芸の時代は今より海面が4m高かった


1 古事記によると「邇邇芸は筑紫の日向の高千穂のくしふるねに天降り、『この地は 韓国に向きて、笠沙の御前を真来通りて・・・』といった」とある。

(1)筑紫とは

 木を切り「つくし」たところである。千五百の産屋・家・船を造らなければならなかった。

(2)日向とは

 日当たりの良いところである。

(3)高千穂とは

 中国山脈でも特に高い大山・烏ヶ山・蒜山三座の裾野から穂のように切立った山肌が見える。

(4)クシフルネとは

 「川などの向こうの丘」という意味であり、鳥取県北栄町亀谷丘陵のことを指していた。

(5)「韓国に向きて」とは

 朝鮮半島にある韓国(辰韓)のことである。天照大神や大国主に協力して天忍穂耳は稲作を導入して日本列島の国造りをするために、常世の国(雲南省周辺)より、稲作技術を持った人々を日本列島に入植させていたが、それは朝鮮半島(辰韓)から葦原中津国(北栄町)あるいは東郷池(長瀬高浜遺跡)あるいは青谷(上寺地遺跡)あるいは湖山池あるいは丹後半島にもすでに入植していた。したがって、邇邇芸が降臨したときも韓国(辰韓)は天孫族の事業(移民を奨励して列島の人口を増やすこと)にとって大事な国であった。

(6)「笠沙の御前を真来通りて」

 韓国(辰韓)からの船がひんぱんに来港していたから、主語は韓国(辰韓)からの船である。韓国(辰韓)からの船が笠沙の御前を巻き通って入ってきたという意味である。

(7)「笠沙の御前」とは、

 「笠沙」とは「笠形の砂丘」である。

 古事記・日本書紀のように、読みは同じだが別の漢字を使うのは藤原氏の得意とするところである。「沙」は「砂」であった。

 次に現在の鳥取県中部の地形と海抜3m・5m・4mの高さに海面がある鳥取県中部の地形を見比べていただきたい。笠形がはっきり現れるのは4mの時だとわかる。したがって、邇邇芸の時代は縄文海退の途中であり、海抜4mまで海面が下がっていた。

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 海抜3mに海面がある地形。これより海面が低くなると笠が消えてしまう。

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 海抜5mに海面がある地形。これより海面が高くなると笠が消えてしまう。

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 笠形がハッキリ現れるのは海抜4mに海面があるときである。
 海抜4mに海面があった時代は縄文海進のピーク時で縄文時代中期だから時代が違う、という意見があるが、縄文海進のピークは海抜20m位であった(別稿「縄文海進のピークは海抜20mあったとする倉吉住吉神社の案内板は正しいか」を参照されたし)。これに関しても、東京の歴史学者(藤原氏)の中には20mは日本海側だけであって、太平洋側は4mだったとする学者がいる。私も当初は縄文海進のピーク時4m説であったが、海抜20mに海面があると倉吉住吉神社の案内板のとおり「この辺り一帯が入江になった」のでこれは実際にその状態を見た人が残した記録であると確信した。
 玄界灘も関門海峡も津軽海峡も宗谷海峡も樺太のNevelsky海峡も現在の海面より20m高い壁のようなもので太平洋と日本海は遮られていたとするが、壁のような痕跡はどこにもない。


2 列島に地名を付けていったのは徐福たちであった(別稿「徐福一行は朝鮮の辰韓にたどり着きしばらく止まった後、つぎつぎと伯州(伯耆国、鳥取県中西部)に結集した」を参照されたし)。豊臣秀吉(藤原氏)の朝鮮征伐では新羅(秦韓)のあった東側を中心に徐福の伝承を消しているが百済のあった西側の徐福の伝承は消していなかった。

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 鳥取県中部の水際にあった地名(瀬戸・津原・灘手・穂波・島)も徐福(天照大神)たちがつけた地名である。水際(海岸線)がそこにあったからこの地名が付けられた。その時の海面の高さは海抜4mであった。天照大神(徐福)の孫の邇邇芸やその孫の神武の時代(神武天皇は天照大神の4世孫だから150年くらいしか経っていない)もまだ海抜4mに海面があった。したがって、磐余邑は鳥取県北栄町の米里・(北条)島集落であった。


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蘇我馬子大王(在位572年~626年)の磐余池辺雙槻宮は鳥取県北栄町島にあった [百済王12代から45代までの倭国王]

 1 磐余の地の旧名は、片居または片立という。神武天皇の時代は海抜4mに海面があったから、北栄町米里集落と島集落の地形は中央に池があり、片側に居るか、片側に立つことになる。だから、片居・片立と言っていた。奈良の磐余邑ではなぜ片居・片立といったのかの説明ができない。また、神倭磐余彦が家来二人に赤土を下ろさせた土下集落も近くにある。


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 磐余邑は現在の行政区分とは異なり、米里だけではなく、島も含んでいた。


2 奈良の磐余邑の説明文に「履中天皇の条には、『磐余池を作る』と記されています。現在、池は存在しませんが、池之内(桜井市)、池尻町(橿原市)など池に由来する地名が残されており、近年の発掘調査では、この地域に池があったのではと推定される遺構が出土しています。 この池は、万葉集の大津皇子の辞世の歌をはじめ、平安時代の「枕草子」や「拾遺集」などにも取り上げられていることからかなりの長い期間にわたって存在していたとされています」とある。


 本当の磐余池は鳥取県北栄町島集落の金繰溜池であった。


 履中天皇は皇居の北に金操溜池(かなぐりためいけ)を造った。


3 金操溜池(かなぐりためいけ)


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 右は島集落。左奥に金操溜池(かなぐりためいけ)がある。


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 通りがかりの耕運機を運転していた人に「この堤は古いか新しいか」と聞いたところ、「大昔の堤だ」と答えた。「新しいように見えるが」と聞いたら、「台風で決壊し作り直した。以前はもっと低かった」と答えた。「島集落の所有である。管理は代表を決めて管理している。」「明治、大正の話ではない。大昔だ。」と言っていた。


 底に溜まった泥で年代測定はできるので、大昔が何時ごろかわかる。私は履中天皇の時代、5世紀初頭と推定する。


 池上の陵は島古墳群であった。5世紀・6世紀の古墳である。履中は5世紀の天皇である。一の崎の下を大(王)町という。一の崎にいたのは履中天皇であった。


4 島古墳群発掘調査報告書より


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 池(金操溜池)上の丘陵から島古墳群が発掘された。


 7号墳をもとに岡野雅則は「同棺複数埋葬について」という論考を書いている。7号墳は「第一、第二埋葬施設同士の前後関係は不明であるが、本墳は古墳時代前期後葉~中期前葉に築造されたとみて大過なかろう」とある。7号墳は履中天皇の時代、4世紀末~5世紀初めである。


 5号墳は6世紀前葉段階で76cmの鉄刀が発掘された。第26代継体天皇の時代である。


 8号墳(6世紀後半~7世紀初頭)・11号墳(6世紀後半)は、蘇我馬子大王と同時代の古墳である。


 蘇我馬子(在位572年~626年)は長谷部若雀天皇であり鳥取県北栄町島(磐余池辺雙槻宮)に皇居があった。


島古墳群 米里三ノ嵜遺跡 北尾釜谷遺跡 (北尾古墳群) 発掘調査報告書
http://sitereports.nabunken.go.jp/ja/13574


島集落からは縄文中期~縄文晩期の遺跡も発掘されている。猿田彦は土地勘のある土着の縄文人に比定したが猿田彦一族はこのあたりに住んでいた。


島遺跡発掘調査報告書第2集
http://sitereports.nabunken.go.jp/ja/14048

ぜひご覧になってください。


5 日本書紀は亡命百済人によって百済王家の歴史を残すために作られた歴史書である。その際、乗っ取った倭王朝の歴史書である原古事記の記述を国史に取り込んだ。


 蘇我馬子大臣(王)は、百済国王の敏達、用明、崇峻、推古4代の間の倭国大王であった。


 用明天皇の皇居は磐余池辺雙槻宮とされる。用明天皇は百済王である。しかし、磐余邑は確かに鳥取県北栄町に存在していた。磐余池辺雙槻宮は用明天皇の皇居ではなく、大臣とされているが実は倭国王の蘇我馬子大王の皇居であった。崇峻の諱は泊瀬部、即位前は泊瀬部皇子と称した。古事記には長谷部若雀天皇とある。朝鮮半島にいた百済王崇峻は同じく朝鮮半島にいた蘇我馬子大王の部下に殺された。亡命百済人は百済王崇峻に倭国王蘇我馬子大王の諱を取り込んだ。用明の皇居と崇峻の諱は蘇我馬子大王の帝紀として原古事記に書いてあった記述を日本書紀に取り込んだものである。


 蘇我馬子大王の妻は物部鎌姫大刀自(実家は倉吉市大原で産屋は倉吉市馬場町)であり、子は蘇我善徳(聖徳太子)と蘇我倉麻呂である。


 蘇我馬子大王は鳥取県倉吉市(泊瀬)で生まれ育ったので諱は長谷部(泊瀬部)若雀天皇であり、皇居の磐余池辺雙槻宮は鳥取県北栄町島にあった。


 


 


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