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千三百年の間、藤原氏に消されてきた伯耆国(鳥取県中西部)の真実の歴史が、今よみがえる。

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古代の都は鳥取県にあった [まとめ]

  古代の都は鳥取県にあった
 
  結論だけを書きますので、理由はそれぞれのカテゴリをご覧ください。
 
今までの調査の結果です。
 
1 天照大神と徐福
⑴ 天照大神の名の由来
 第1次の徐福(紀元前219年)は米子市陰田町に到着し米子市尾高の大神山神社本社で大神と出会った。徐福は「東南の蓬莱山」(大山)に連れていかれ大神(伊邪那岐)の宮殿(鳥取県大山町大山の大神山神社奥宮)や「銅色の龍形の使者」がいて光が天を照らしている「光上照天」のを見た。
 第2次の徐福(紀元前210年)は多くの少年少女を大神の国に連れていき、その国で王(大神)となり帰ってこなかった(史記の淮南衡山列伝)。大神となった徐福は最初に見て感動した光景「光上照天」の「天照」を大神の前に付けた。
⑵ 徐福と天照大神の来倭コースは同じ
➀ 徐福の来倭コース(史記と徐福文書より)
 第2次の徐福(紀元前210年)は辰韓(新羅)にしばらくとどまったのち伯州(伯耆国)に渡った(王輯五の日支交通史より)。徐福は鳥取県の大山(蓬莱山)を見ながら海を東に進み、大山の裾野の小さな湾(橘の形をしていた初期の倭)に上陸した。徐福は鳥取県北栄町の大島と原(徐福文書の宇記島・原)に上陸し、蒜山高原(史記にある瀛州)に上がり仙薬を探した。
② 天照大神の来倭コース(神社の祭神と古事記より)
 天照大神と須佐之男は西の海から出雲の日御碕神社(祭神は天照大神と須佐之男)に到着し、途中、四ヶ所の日御碕神社を経由して、伊邪那岐が禊をして待っていた鳥取県北栄町の原(葦原中津国)に到着した。伊邪那岐は三貴神(天照大神)須佐之男・月読)と一緒に北栄町の大島(葦原中津国の中心)に行き、彼らが治めるべき国を命じた。また、一族を葦原中津国で天忍穂耳に育てさせるよう言依さした。
 天照大神は灘手神社に移ったのち、五神社すべてに天照大神を祀っている蒜山高原に上がった。須佐之男は朝日神社で泣いた。
③ 徐福も天照大神も来倭コースは同じである。どちらも、鳥取県北栄町の原と大島に上陸して蒜山高原(史記にある瀛州・徐福文書と国史にある高天原)に上がった。
⑶ 大神(伊邪那岐)は「名声ある男子と童女とさまざまな分野の技術者を献上せよ」と言った(史記より)。始皇帝は、探し求めていたのはこれだ、として三千人の少年少女と百工を集め船の準備もして旅立たせた。始皇帝はクロームメッキされた剣(始皇帝陵より)を作っているので、光が天を照らす電気の存在は知っていた。
 高天原は岡山県真庭市の蒜山高原と鳥取県江府町であった。
 大神(伊邪那岐)は徐福(天照大神)一族(徐福が連れてきた少年少女は三千人なので、産屋を千五百建てると伊邪那岐は言った。「毎日」とあるのは、もっともらしく思わせるための改ざん)を住まわす葦原中津国(鳥取県北栄町大島周辺)を造るため、蒜山高原より倉吉市の新宮神社に降臨した。
 伊邪那岐が伊邪那美から逃げて葦原中津国にたどり着くまでの黄泉(黄泉→津)比良坂は黄泉国(鳥取県倉吉市不入岡)から葦原中津国(鳥取県北栄町原)までの主に鳥取県道23号線であった。
 伊邪那岐(大神)が禊をした「竺紫日向之橘小門之阿波岐原」は鳥取県北栄町の原であった。伊邪那岐(大神)は鳥取県北栄町の原で天照大神(徐福)を待っていた。天照大神(徐福)は伊邪那岐(大神)の命令で蒜山高原(史記にある瀛州・国史と徐福文書にある高天原)に上がった。
 紀元前194年頃、殷王朝の末裔の準王一族(出雲族)が鳥取県中部を占拠したので、徐福は約束の地を取られまいとして蒜山高原(瀛州)から降臨し、「平原」(琴浦町の伊勢野・鈴鹿野・斉王野・方見邑)と「広沢」(北栄町大島周辺)を得て王(大神)となった(司馬遷の史記)。
 天照大神は江戸時代まで男性であった。天照大神は道教の方士徐福である。徐福は最初に見た「光が天を照らす」情景に因んで自ら「天照大神」と名乗った(史記より)。月読は保食神であり女性である。
 神社神道のルーツは同じく鏡を祀る道教にあるが、始祖の天照大神が道教の方士であったからである。日本の神社庁は神社神道のルーツに対し、口にチャックをする。
 日本は倭国を乗っ取ってから(734年)、倭朝廷を慕っていた民衆に団結され抵抗されることを最も恐れていたし、今も恐れている。民衆を信用させ従わせるためには、良い政治をして民衆に信頼されていた倭朝廷と連続している(万世一系である)、と洗脳・マインドコントロールしなければならなかった。しかし天照大神が中国人であることを隠さないと、中国に対して頭が上がらないので、隠さなければならなかった。
 天照大神が紀元前210年に中国から鳥取県に渡来した徐福であることを隠すために、蓬莱山は鳥取県の大山であるのに富士山が不二蓬莱山であるとしたり、高天原は蒜山高原と大山の麓であるのに富士山の麓あるいは雲の上にあるとしたり、神武元年を600年古くして紀元前660年としたり、神武の前にウガヤフキアエズ王朝が72代続いたとしたり、天照大神は女性である、とした。
2 須佐之男と大国主
 須佐之男は葦原中津国(倉吉市谷の朝日神社)で泣いてから蒜山高原(高天原)に上がり、天照大神と米子市淀江町高井谷の天真名井でうけいをした。その後、海原(倉吉市中心市街地)の近くの三朝町山田(ヤマタ)にいた始皇帝の追っ手(八岐大蛇)を退治した。八岐大蛇は第一次の徐福一行(紀元前219年)を追ってきた始皇帝の家来たちであった。
 須佐之男は始皇帝の追っ手(八岐大蛇)を退治してから稲田姫とその両親と三朝町助谷(助谷ぼうき)・真庭市中和を経由して蒜山高原の長田神社に上がり、天叢雲剣を天照大神に渡して事情を話した。須佐之男は天照大神や天穂日とともに更なる追っ手から逃げた。伊邪那岐を追って、鳥取県智頭町(木国)の那岐邑の近くの鳥取県八頭町大江郷に稲田姫と住み、大国主を生んだ。
 天照大神も始皇帝の追っ手から逃げるため鳥取県河原町の霊石山と氷ノ山に行った(伝承が残っている)。始皇帝が亡くなったことを知って天照大神は最初に命じられた蒜山高原に、須佐之男は須勢理姫(宇迦之御魂)とともに最初に命じられた根国(倉吉市中心市街地)に行った。須佐之男は倉吉市(根国)の清熊稲荷神社の峰(哮峰)で須勢理姫(宇迦之御魂)と住んだ。
 殷王朝末裔の箕氏朝鮮の準王一族(因幡の白兎伝説における大国主の兄の八十神)は徐福たちに16年遅れて出雲国、伯耆国、因幡国に到着した。琴浦町の方見郷(建御名方)・北栄町の葦原中津国(事代主)にも住んだ。
 大国主が冒険した根国(黄泉国)は鳥取県倉吉市であった。大国主は須勢理姫を背負って黄泉比良坂の麓(倉吉市不入岡)から宇迦能山(北栄町茶臼山=伊那佐山=大神山)に行った。大国主は琴浦町の方見郷・北栄町の葦原中津国に住んでいた準王一族の建御名方や事代主を蹴散らして従わせた。
 饒速日・天忍穂耳たち大勢が降臨してきたので、須佐之男(天神の御祖神)は倉吉市(根国)の清熊稲荷神社の峰(哮峰)で十種神宝(須勢理姫が大国主に使った比礼を含む)を饒速日に与えた。そして、天忍穂耳に一人になった大国主の国造りに協力してくれるように頼んだ。
 須佐之男は東山神社に移り、大蛇を斬った剣を天神川の対岸の大原神社に奉納した。倉吉市大原を石上といい、石上神宮は倉吉市大原の大原神社であった。
 須佐之男の子の大国主が完成させた葦原中津国は鳥取県北栄町にあった。そこに大年神や兄の八十神(準王一族=出雲族)と一緒に多くの妻子を住まわせていた。大国主(八島士奴美神)は須勢理姫(宇迦之御魂)と一緒に北栄町の茶臼山(伊那佐山=宇迦能山=大神山)に住み、茶臼山の松樹庵を本拠地として少彦名(雲南省出身)とともに、全国の国造りをしていた。
 伊邪那岐や大国主のいう国造りとは、人口を増やすことであり、そのための育児・食育の環境を整えることであった。鳥取県中部は東アジアの全域(北から南まで)から移民を受け入れていた(青谷上寺地遺跡の人骨のDNA解析より)。
3 天孫降臨
 伊邪那岐(大神)は一族を葦原中津国で天忍穂耳に育てさせるよう言依さしていたので天忍穂耳が降りてみたところ、葦原中津国 は準王一族(出雲族)に占拠されていて、大変騒がしかった。思兼神と八百万神は「天安河原」で相談することにした。「天安河原」は蒜山高原の西隣の鳥取県江府町下蚊屋明神の地である。思兼神は江府町貝田神社から来た。天照大神など八百万神は蒜山高原から来た。須佐之男の子の大国主を生まれた時から守っていた天穂日を大国主のもとに行かせることにした。天穂日は出雲族(事代主・建御名方)の王(登美の長髄彦)に会いに行き安来市に住んだ。
 天孫降臨は、天孫饒速日と天孫邇邇芸の2回行われている。はじめは、妻子のいた饒速日の降臨であった。饒速日・天照大神・月読(保食神)・五伴緒・思兼神・豊受姫(倉稲魂)・天香語山・和久産巣日など大勢は鳥取県江府町下蚊屋で合流し、猿田彦の待っていた江府町鏡ヶ成より野添経由で倉吉市関金町の神田神社に到着した。
 饒速日は船で日吉神社から小鴨川を下り、倉吉市(根国)の清熊稲荷神社の峰(哮峰)に降臨した。哮峰で天神の御祖神(須佐之男)から十種神宝(比礼を含む)を授かった。
 天忍穂耳は関金町耳から船で(櫛玉)饒速日と一緒に哮峰に到着した。哮峰にいた須佐之男は少彦名の居なくなった大国主に協力してくれるよう天忍穂耳に頼んだ。天忍穂耳は猿田彦と一緒に哮峰から船で茶臼山の東の海に行き、猿田彦が鏡で照らしてから大国主に会った。
 天忍穂耳(大物主)の本拠地は大国主のいた茶臼山の西の北栄町下神の三輪山(神山)であった。猿田彦の本拠地は隣の北栄町松神であった。大物主(櫛甕玉)とは(櫛玉)饒速日の父の天忍穂耳であった。少彦名のいなくなった大国主と協力して移民を受け入れ、各地に住まわせた。
 天孫族の使いが国譲りの交渉にやってきた伊那佐小浜は鳥取県北栄町の茶臼山(伊那佐山=宇迦能山=大神山)にあった。
 大国主が建ててもらった高い宮殿のあった多芸志小浜は鳥取県湯梨浜町長瀬高浜にあった。笠沙之御前(北条砂丘)の中央と東端である。
 饒速日は倉吉市寺谷にいた天若比古に使いを遣ったあと、倉吉市の夏谷(鳥見の白庭山のちに天香久山)に降臨し定住した。
 天照大神・月読(保食神)一行は神田神社から伊勢野の天照皇大神宮(鳥取県琴浦町斉尾)と外宮の月下の宮(鳥取県琴浦町槻下)に降臨した。建御名方は琴浦町の方見郷(加勢蛇川周辺)に居た。
 饒速日は天穂日の縁結びで出雲族(準王一族)の王(のちに大国主と名乗る)である登美の長髄彦(海幸彦)の妹を娶った。登美の長髄彦(海幸彦)も倉吉市富海(鳥見邑)に住んだ。
 饒速日が亡くなったので、四歳の邇邇芸は猿田彦の道案内で、蒜山高原の加茂神社、関金町の矢送神社、倉吉市高城の楯縫神社を経由して北栄町上種の大宮神社(日向)に降臨し、葦原中津国を平定した。邇邇芸は葦原中津国で生まれた出雲族の子供が成長するまで楯縫神社で待っていた。
 葦原中津国に住んでいた事代主と百八十神(出雲族の八十神が子供を産んで百八十神となった)は、倉吉市福庭を経由して湯梨浜町長和田(湖の畔)に移りそこで余生をおくった。
 「笠沙之御前」は鳥取県の北条砂丘であり、「葦原中津国」は鳥取県北栄町大島を中心にした地域であった。
 饒速日と一緒に降臨して天香語山を育てていた豊受姫(倉稲魂)は、邇邇芸と同じ時に月下の宮(鳥取県琴浦町槻下)に行っているので、四歳の邇邇芸も豊受姫(倉稲魂)が育てた(神社の祭神より)。
 猿田彦一族は蜘ヶ家山(鳥取県北栄町)に住んでいた縄文人である。
 邇邇芸と木花之佐久夜毘売(豊玉姫)の子の火火出見(鵜草葺不合=山幸彦)は、倉吉市富海にいた登美の長髄彦(海幸彦)に無理難題を言われたので、辰韓に行き玉依姫と知り合った。火火出見(鵜草葺不合=山幸彦)は倭国に帰り、倉吉市大谷の四王寺山(日向)を本拠地とした。火火出見(鵜草葺不合=山幸彦)と玉依姫との間に神武四兄弟が生まれた。
4 神武天皇
 神武四兄弟は倉吉市大谷の四王寺山 (畝傍山・日向)で育った。神武四兄弟は九州平定のため、また二男と三男が大陸に渡るため、日本海沿いに九州に行った。北九州市山寺町一宮の旧岡田宮に到着し、飯塚市の立岩地域・福岡市の四王寺山・大宰府を本拠地にして、春日市・吉野ヶ里などの北部九州にいた殷王朝末裔を長崎まで平定していった。北部九州で発掘される石包丁は立岩産なので、食物を肉ではなく米にさせるため、稲作を普及させていったのがわかる。
 四兄弟の目的は殷王朝末裔の準王一族(鬼・土蜘蛛・蝦夷)を平定することであった。宮崎県から奈良県に行く神武東征は霞会館(藤裔会)によって作り替えられた創作物語である。
 九州平定後、五瀬と磐余彦は倉吉市清谷(草香の入江、清谷は戦前まで日下村であった)に帰ってきたが長髄彦の矢があたり、五瀬は鳥取県智頭町(木国)で亡くなった。磐余彦は広島県福山市まで退却し福山市を本拠地にして倭国(鳥取県中部)を取り戻す機会をうかがっていた。磐余彦は茨木市(摂津国)の東奈良遺跡に行き銅鐸絵画ではなく縄文人の風習であった土器絵画にするよう指導した。しかし奈良までは行っていない。
 磐余彦は明石で出会った椎根津彦を連れて岡山県の旭川沿いに蒜山高原(高天原)に上がり饒速日と同じ鏡ヶ成から野添経由で倉吉市高城地区(上大立)に下りて、穿って道(下見関金線と円谷広瀬線)をつけ、留守の間に倭国(鳥取県中部)を占拠していた準王一族(出雲族)を平定し、初代天皇として紀元前60年に倉吉市大宮(橿原宮)で即位した。楯縫邑(倉吉市高城地区の大立)と笠縫邑(琴浦町八橋)もその時に開いた。         神武天皇は情報戦・ゲリラ戦を展開していた。
 三男の御毛沼は常世国(中国雲南省)に渡り倭国への移民渡来コースを九州経由ではなく辰韓(新羅)経由に変更させた。殷王朝末裔の準王たちは移民をとらえて殷王朝から続く生贄にしていた(福岡県の宝満川流域の多数の首のない甕棺や山口県の土井ヶ浜遺跡)。
 二男の稲飯は辰韓に行き紀元前57年に新羅を建国した。神武天皇はヤマト(倭)国の国号を「徐ラミツ」とし、稲飯は新羅国の国号を「徐ナバル」とした。
5 欠史八代
 欠史八代の天皇は鳥取県中部にいた。第2代綏靖天皇の皇居は北栄町蜘ヶ家山(葛城山)の岡神社。第3代安寧天皇の皇居は湯梨浜町橋津観音堂。第4代倭国大王懿徳天皇(在位40年~75年頃)は奈良を平定し、銅鐸祭祀の一族に線刻土器祭祀を始めさせた。また、初めての中国への朝貢を倭奴国(倭国に従う国)にさせた。奈良を平定したのは神武天皇ではなかった。皇居は倉吉市小田山。
 第5代孝昭天皇は倉吉市穴沢の灘手神社。第6代孝安天皇は北栄町大島(灘手が秋津のトナメに見える)。第7代孝霊天皇(在位145年~170年頃)は湯梨浜町宮内の倭文神社。第8代孝元天皇(卑弥呼・大吉備津彦・若日子武吉備津彦の腹違いの兄)の皇居は倉吉市小田。第9代開化天皇(若日子武吉備津彦=倭建命)の皇居は北栄町瀬戸の観音寺。
 欠史八代の皇居は奈良の石碑だけとは異なり皇居を中心にした集落単位で想定できる。
 倭国王家は初代神武天皇から第10代崇神天皇が全国に神道の社を建てて統一するまで、準王一族(出雲族)と対立していた。準王一族は生贄の風習を残す殷王朝末裔であり、かたや人命を大事にして人口を増やしたい倭国王家である。準王一族の祭祀を変えるまで相いれることはなかった。倭国歴史書を改ざんしたのも半島に残っていた準王一族(百済人=藤原氏)であった。同族が平定される様を残せなかったし、神武東征との整合性から2代から9代までの旧辞は消した。
6 邪馬台国と卑弥呼
 倭国大乱の原因は孝霊天皇をめぐる出雲族の姫たちの嫉妬であった。卑弥呼は第7代孝霊天皇の皇女・日女命又の名は倭迹迹日百襲姫命である。稚日女命と倭姫命は霞会館(藤裔会)に名前を変えられた卑弥呼であった。内藤湖南(倭姫説)と笠井新也(倭迹迹日百襲姫説)はどちらも正しかった。霞会館(藤裔会)の国史改ざんとフィクションの創作によって混乱が生じていた。
 卑弥呼の出身は鳥取県湯梨浜町宮内(黒田庵戸宮)である。
 魏志倭人伝に「倭の地ではその身体に朱丹を塗る」とあるが、鳥取県中部の古墳から出土した人骨42体(歯のみは省略)のうち11体(26%)は朱を塗った状態で亡くなっている。
 魏志倭人伝に「倭人の俗は、儀式や行事を行い、何かを言ったり行ったりする時は、骨を灼いて卜し、以って吉凶を占う」とある。青谷上寺地遺跡で全国で一番多い240点の卜骨が出土した。
 倭姫命世紀にある豊鋤入姫が巡った「倭の」笠縫邑は鳥取県琴浦町八橋であった。「倭の」彌和の御室嶺の上の宮は鳥取県北栄町下神の三輪神社であった。「倭」は鳥取県中部であった。
 倭国大乱は鳥取県を中心にした出雲族の反乱であった。倭姫(卑弥呼)と倭建の皇軍は鳥取県の出雲族(鬼・土蜘蛛・河童・蝦夷)を平定して倭国大乱は終結した。その後、倭姫(卑弥呼)と倭建の皇軍はさらに、西は長崎県・朝鮮半島、東は岩手県奥州市永岡神社までの広範囲を平定した。
 全国に社を建てて銅鐸祭祀を銅鏡祭祀の神道に改宗させた。全国の代表者を集めての祭祀は鳥取県北栄町下神の神浅茅原していた。その時、開化天皇や崇神天皇は豊田市の猿投神社に、倭迹迹日百襲姫は神戸市の旧生田神社にいた。
 しかし、鳥取県中部は東国から遠いため神道の祭祀は奈良の纒向ですることにした。しかし、奈良盆地には平定されたとはいえ敵対していた殷王朝末裔の準王一族(銅鐸祭祀の一族)が多く居たため、卑弥呼の安全な居所を探さなければならなかった。宇陀を出発し志摩国までめぐる「倭姫命世紀」は卑弥呼の安全な居所を探す巡行であった。
 卑弥呼(151年~248年)の居所は志摩国に定めた。魏志倭人伝に「南の邪馬壹国に至る。女王が都とするところ」とある。女王はそれまでの都(鳥取県中部)を離れて新たに邪馬壹国(志摩国)を都とした。邪馬台国は志摩国(志摩市・鳥羽市)であった。その時はまだ霞会館(藤裔会)の創った邪馬台国(志摩国)を封印するための伊勢国・伊勢神宮(大宮司は霞会館(藤裔会)が決定する)はなかった。
 奈良盆地の集落の環濠を埋めさせたのは190年頃である。卑弥呼が奈良の纒向で祭祀をするときは、伊勢神宮を通り・櫛田川沿いに高見峠を越えて吉野町宮滝経由で纒向に行き、帰りは和歌山の玉津島神社から船で何日もかけて伊射波神社まで帰った。卑弥呼の墓は鳥羽市安楽島町の「松の鼻古墳」である。
 伊勢神宮は、邪馬台国を封印するため、卑弥呼が纒向へ行く御幸ルート上に建てられた。明治期に入り、纒向と同じように神道の代表者を集めての研修・祭祀を伊勢神宮で始めた。
 台与は豊鋤入姫であり彦太忍信の娘の葛木志志見興利木田忍海部刀自(かつらぎししみよりきたおさかいべとじ)であった。第12代倭国王の屋主忍男武雄心の妹となる。第12代の妹は倭姫ではなく豊鋤入姫であり、神功皇后のモデルであった。豊鋤入姫は甥の武内宿禰と一緒に行動していた。豊鋤入姫は都を鳥取県中部(倭)に戻し、倉吉市鋤集落を本拠地にした。
7 10代以降の倭国王の宮
 第10代崇神天皇(大吉備津彦、卑弥呼の弟・湯梨浜町長和田)と第11代垂仁天皇(湯梨浜町川上)は師木地方(鳥取県湯梨浜町)に皇居があったが出先(岡山県の木国=津山と久米=大宮)を中心に活動していた。第12代は屋主忍男武雄心大王(奈良県纒向日代宮)。第13代は武内宿禰大王(北栄町原)。叔母の豊鋤入姫と行動。第14代は仁徳天皇(13代の第4王子・平群木菟宿禰・湯梨浜町松崎神社)。第15代は応神天皇(13代の第6王子・葛城襲津彦・倉吉市穴窪と湯梨浜町小鹿谷)。第16代は履中天皇(15代の第1王子・讃・北栄町米里)。第17代は反正天皇(15代の第3王子・珍・倉吉市福庭の波波伎神社)。第18代は允恭天皇(15代の第4王子・済・倉吉市福庭の波波伎神社)。第19代は安康天皇(興・倉吉市大原)。第20代は雄略天皇(武・倉吉市長谷寺)。第21代は清寧天皇(北栄町米里)。
 第22代は仁賢天皇(倉吉市大原)。第23代は武烈天皇(倉吉市打吹山)。第24代は継体天皇(北栄町米里)。第25代は安閑天皇(三朝町大瀬)。第26代は蘇我稲目大王(湯梨浜町龍島と倉吉市大江神社)。第27代は蘇我馬子大王(北栄町北条島)。第28代は蘇我入鹿(善徳)大王(北栄町由良宿)。第29代は蘇我倉山田石川麻呂大王(湯梨浜町長江)。
 景行・成務・仲哀・顕宗・仁賢・武烈・継体・宣化・欽明・敏達・用明・崇峻・推古・舒明・皇極・孝徳・斉明・天智・持統は倭国王ではなく百済王であった。舒明までは朝鮮半島の百済に住んでいた。百済王の古墳は方墳・六角墳・八角墳であり、倭国王の古墳は円墳・前方後円墳であった。
 第30代は天武天皇(倉吉市賀茂神社)。第31代は高市大王(キトラ古墳・皇居は鳥取県中部)。第32代は忍壁大王(高松塚古墳・皇居は鳥取県中部)。第33代は穂積大王(皇居は鳥取県中部)であった。第34代大王(皇居は倉吉市の北野神社)は安全のため鳥取県中部にいた。
 菅原道真の出身地は倉吉市の北野集落である。
8 倭国王の宮・神社・地名の強奪
 ➀葛城 ②軽 ③磯城(師木) ④難波 ⑤磐余邑 ⑥石上神宮 ⑦泊瀬(長谷) ⑧出雲大社 ⑨大神神社 ⑩伊勢神宮 ⑪河内国 ⑫宇陀 ⑬生駒山は鳥取県中部(倭国)にあった。なんでも強奪することに喜びを感じる亡命百済王朝(日本)はこれらの地名や神社を鳥取県中部(倭国)から強奪し、同族が多くいた奈良県・島根県・宮崎県・三重県・大阪府南部・和歌山県に移した。
⑴ 古代倭国王の宮は以下にあった。
➀ 2代は葛城高岡、5代は葛城掖上、6代は葛城室之秋津島、の
「葛城」とは鳥取県北栄町の蜘ヶ家山と北栄町の大島。
 葛城の地名由来は、神武天皇の家来が土蜘蛛を葛木のつるで捕らえて殺したから。土蜘蛛が居たのは蜘ヶ家山麓の曲中央の荒神神社。葛城邑は曲中央。
② 4代は軽之境岡、8代は軽之堺原、15代は軽島之豊明、の
「軽」とは、倉吉市上北条地域。軽の対岸は河内国であり天神川が境となっている。軽之坂上の厩で新羅から献上された良馬を飼育させたところは倉吉市馬場町である。「厩坂」が確認できる。
③ 10代は師木水垣、11代は師木玉垣、29代は師木島大宮、の
「師木(磯城)」とは、鳥取県湯梨浜町東郷池周辺。
 雄略天皇が誰の家か尋ねた師木県主の住んでいた鰹木を上げた家の埴輪が鳥取県湯梨浜町長瀬高浜から出土した。3代は師木津彦なので師木には津が無くてはならないが、当時長瀬高浜は津(東郷池)に囲まれていた。師木(磯城)県主の初代は神武が命じた弟磯城。弟磯城・兄磯城は事代主とともに国譲りで湯梨浜町長和田(磯城邑)にいた。
④ 15代は難波大隅、16代は難波高津、36代は難波長江、の
「難波」とは、鳥取県湯梨浜町東郷池周辺。
 鳥取県湯梨浜町の東郷池は海面が海抜4mにあったとき波が真っすぐに届く地域(波延)と複雑な波が来る地域(難波)に分かれていた。北山古墳より西(長和田など)が波延であり、北山古墳より東が難波である。
⑤ 17代は磐余稚桜、22代は磐余甕栗、26代は磐余玉穂、31代は磐余池辺双槻、の
「磐余」とは、鳥取県北栄町米里・北条島。
 神倭磐余彦は兄磯城の軍と戦っていた。この戦に勝てるかどうか占うために家来二人に「蓑」を着させて天香具山(土下山)の赤土を取って下させた。土を取って下りたところが北栄町の土下集落である。「蓑原」という姓も残っている。
 磐余の旧地名は片立・片居であった。海抜4mに海面のあった時代は北栄町米里・北条島の中央は汽水池であった。片方しか立ったり住んだりできなかった。北栄町米里・北条島地域は神倭磐余彦の痕跡が残る天香具山(土下山)と葛城山(蜘ヶ家山)に挟まれている。ここに神倭磐余彦の兵はあふれた。
⑥ 20代は石上穴穂、24代は石上広高、の
「石上」とは、倉吉市大原。
 宇摩志麻遅は高天原から神倭磐余彦を追って家来となり、石上を本拠地にするが、鳥取県江府町江尾から穿邑(倉吉市上大立)を通って倉吉市大原まで至ったルートが再現できる。鳥取県中部を流れる天神川の河口には江戸時代まで石山(いそのやま)があった(国土交通省の資料より)。倉吉市大原は石山(いそのやま)の上(上流)にあったから石上(いそのかみ)である。石上の東側は丘陵地だった、という条件も満たす。
⑦ 21代は泊瀬朝倉、25代は泊瀬列城、の
「泊瀬」とは、倉吉市の打吹山と中心市街地。
 雄略天皇は泊瀬の山は美しい、と歌った。奈良の泊瀬山は何処にあるのかわからない。泊瀬朝倉宮の候補地は奈良に2ヶ所あるが、学者はどちらもおかしいという。打吹山の近くの湯梨浜町長瀬高浜から鰹木を上げた家形埴輪が出土した。雄略天皇は磯城大県主のいた湯梨浜町長和田の近くの倉吉市打吹山の長谷寺に皇居を置いていた。天武天皇が修行をした泊瀬の斎宮は倉吉市の大御堂廃寺であった。
⑶ 神社・地名の強奪
⑧ 「出雲大社」はタギシにあったとされるが、タギシは鳥取県湯梨浜町長瀬高浜にあった。大国主(大黒天)はそこに四本柱の高い建物を建ててもらい、新羅から出港した移民船を向かい入れて、移民が住むところを指示した。そのあと大国主と少彦名は移民の定住した各地を訪れ、衣食住のアフターケアもした。出雲大社は大己貴(別名多し)を祀っているが、これは出雲族の王に付けた代名詞であり、17代にわたって使用された(謎の出雲帝国より)。大己貴は少彦名と一緒に西日本を巡った大国主(大黒天)ではない。
⑨ 「大神神社」は北栄町下神の三輪神社跡にあった。大物主(天忍穂耳)が住んだ倭の青垣(葦原中津国の入口の瀬戸と原)の東の山にあたる。豊鋤入姫が巡行した6ヶ所の最後は大神神社であり、倭姫命世記には「倭の彌和乃御室嶺上宮」と記載されているが、上とは方角で南を意味する。下神の三輪神社跡は三輪山(彌和乃御室嶺)の南(上)にあたる。
 江戸時代に火災で焼失し、土下に移されたが、奈良の三輪神社の系列なら同じところに再建するはずである。本物が邪魔と思う支配者による放火である。出雲大社のモデル(長瀬高浜)と大国主の本拠地(国坂神社)と三輪神社跡を結ぶ道路(大国主と大物主が行き来していた)が今も残っている。
⑩ 「伊勢神宮」は鳥取県琴浦町伊勢野にあった。この辺りには伊勢野・鈴鹿野・斎王野などの地名があった。上伊勢・下伊勢の地域もある。伊勢崎小学校もあった。現在の伊勢神宮と同じく、明治維新まで天照皇大神宮と称していた(方見神社由緒より)。ここには、生きていた天照大神(徐福=斎王)が蒜山(高天原)より降臨していた。
⑪ 「河内国」は、北は湯梨浜町田後から南は倉吉市上余戸までであり、河は西を流れる天神川であった。戦前まで倉吉市清谷から上井まで日下邑であった。日下邑は河内国の中にあったとされる。18代19代の丹比柴籬宮は倉吉市福庭(日下邑)の波波伎神社にあり、若日下部王と大日下王が住んでいた。
⑫ 「宇陀」は倉吉市の高城地区。
 高城地区の上大立が穿邑。上大立が起点の県道313号線は草木を穿ってつけた道。倉吉市下福田の阿弥大寺古墳は竹田県主に抜擢されたが、のちに主水部となった弟宇迦斯一族(出雲族)の古墳。
⑬ 「生駒山」は倉吉市の大平山。
雄略天皇は若日下部王に求婚するために生駒山に来て鰹木を屋根に上げた家を見つけた。その家は磯城にあった。奈良の生駒山から磯城邑までは17㎞。家の形はわからない。
 鳥取県の大平山からは湯梨浜町長和田(磯城邑)の家の形が見える。若日下部王は18代・19代の宮(丹比柴籬宮)であった倉吉市福庭の波波伎神社にいた。
 この地域は戦前まで日下邑であった。大平山から仁徳天皇(平群木菟宿禰)の宮のあった湯梨浜町松崎神社(難波高津宮)の山(平群山)が見える。平群山に行くまでの間に、雄略天皇が若日下部王と○○をしたいと歌った竹藪が十数か所見つかる。若日下部王は「日を背にして来られたので貴い人でしょう。受けましょう」と言った。若日下部王がいた倉吉市福庭の隣の清谷(草香で五瀬は矢に当たった)には神武天皇の伝承(我々は日の神の御子だから、日に向かって戦うのは良くない。廻り込んで日を背にして戦おう)が残っていた。
9 倭国と日本
 642年から734年まで列島には倭王朝と亡命百済王朝(日本)が並立していた(旧唐書・倭国日本伝より)。舎人・新田部・藤原四兄弟は734年に倉吉市の北野神社にいた倭国第34代大王を殺害した。天照大神から続いてきた姓が天(アマ)の大王は734年で途絶えた。倭国と兄弟国であった新羅の刺客は舎人・新田部(735年)と遣新羅使(736年)と藤原四兄弟(737年)を殺害した。新羅には八百年の間兄弟国として助け合ってきた倭国大王の仇討をする正当な理由があった。
 紀元前60年の神武天皇の即位から734年(長屋親王の変は729年)まで約八百年の間、列島は倭(鳥取県中部)に従属していた。
 1200年の間、ヒスイが忘れ去られていた(フォッサマグナミュージアムより)のは、日本と倭国は別の王朝であったからである。
 百済からやってきた王朝(日本)は、日本国史に、倭国王を「大臣」とか「豪族」と記した。
10 集団催眠
 これほど何もあったのに、まるで催眠術にかかったように「鳥取県には何もない」という言葉が鳥取県民から出てくる。この状態こそ藤原道長が思い描いていた望月の欠けることのない状態である。そのためにすべての証拠を消し去っていった。証拠となる人間も引きずり出して公開処刑し「鳥取県には何もない」という言葉を植え付けた。
 奈良時代から京都(平安)時代に宮崎県・島根県・奈良県・三重県・和歌山県に大きくて立派なテーマパークを造り、これほど大きくて立派な神社や遺跡があるのだから、お前の言うことは嘘である、として殺していった。これが勝者の歴史作りである。
 奈良国立文化財研究所の研究員が「これ以上鳥取県で遺跡が見つからないでほしい。古代史の定説が覆ってしまう」と言った。しかし、鳥取県民は長瀬高浜遺跡や妻木晩田遺跡や青谷上寺地遺跡が発掘されてもほとんど無関心である。まるで古代史に触れることがタブーであるかのように。
11 仏教の公伝
 新羅の法興王(在位514年~540年)は仏教を倭国(鳥取県中部)に公伝した(538年)。
 東郷池の師木島の大宮で蘇我稲目大王は法興王からの仏像を受け取り祀っていたが、鳥取県中部に疫病が流行ったので難波の堀江(東郷池の引地)に捨てた。
 しかし、奈良で仏教を興すように遺言していた。その子(馬子)と孫(善徳)は新羅の皇龍寺をモデルにして奈良に法興寺(飛鳥寺)を建てた。
 四天王寺は蘇我入鹿(聖徳太子)の祟りを封じるためと、日本海側に四王寺を建てたように新羅の刺客から守るために聖武天皇(百済王)の時代に建立された。
12 蘇我馬子大王と蘇我善徳大王
 蘇我馬子大王は「百済が倭国侵略を企んでいる」との日羅の進言(583年)に基づき、百済を警戒していた。百済の不穏な動きがあったので百済に侵攻し平定した(587年)。捕虜は273人いた。日本(百済)は倭国を乗っ取ってから、この事件を蘇我馬子と物部の宗教戦争に置き換えた。丁未の乱は作り話であった。592年には百済王の崇峻も殺された。
 蘇我馬子大王は日羅の進言に基づき、任那(全羅南道)を侵す百済に対して、王か王子が倭国に来るよう求めていた。
 人の好い蘇我入鹿(善徳)大王に代わった631年、百済王武は、唐の倭国使高表仁が百済を通る時に豊璋と塞上を倭国に連れて行くように頼んだ。中大兄王子(豊璋)は6歳で、弟の塞上とともに鳥取県北栄町由良の蘇我入鹿(善徳)大王の皇居(由良の宮)に来た。
 驚いた蘇我入鹿(善徳)大王は高表仁の非礼をとがめた。中大兄王子(豊璋)は由良の宮(百済からは東宮)に来る前から教えられていた殷王朝が滅ぼされた兵法書の六韜に基づいて蘇我入鹿(善徳)大王を徹底的におだてた。人の良い蘇我入鹿(善徳)大王は、中大兄王子(豊璋)と塞上を大海人王子と同じように育てた。蘇我入鹿(善徳)大王は、隋の裴世清たちが蘇我馬子大王に北栄町北条島で謁見した時の話を聞かせていた。中大兄王子(豊璋)は後に「日出ずる処の天子・・・」の話を「日本」の参考にし、「大国維新之化を教えて欲しい」の話を「大化の改新」の参考にした。
13 大海人皇子と中大兄皇子(豊璋)
 中大兄皇子(豊璋)の母(641年に亡くなった百済王の武王の妻で皇極・斉明)と鎌足(翹岐)は、高名な40人を乗せた百済からの船で奈良に到着した(642年)。中大兄皇子(豊璋)は法興寺での蹴鞠の会(643年)で鎌足(翹岐)に出会って奈良に住んだ。
 高句麗と百済は殷王朝が滅ぼされた兵法書「六韜」に基づいて行動していた。645年に、中大兄皇子(豊璋)と鎌足(翹岐)は談山(テロリストのアジト)で計画したとおり、「豊璋(天智)の母(皇極)が会って礼を言いたい」と欺いて呼び出し、聖徳太子こと蘇我善徳大王を斬首した。
 蘇我善徳は天武天皇の父であった。またの名の関係は次のとおりである。
(父)聖徳太子=蘇我入鹿(蝦夷)=蘇我善徳
(子)山背大兄皇子=古人大兄皇子=大海人皇子(蘇我果安=天武天皇)
 これでわかることは「天武天皇は乙巳の変の現場にいた」ことである。この時、大海人皇子と中大兄皇子は二十歳前後の兄弟だから、半島からの調の儀式のような国家的な行事には一緒に出席していた。国史は故意に消しているが、乙巳の変が倭国王を殺したテロであることを隠すためである。
 山背大兄皇子殺害事件は乙巳の変というテロ行為を正当化するために創作された一人三役・四役の創作物語であった。
 647年に倉吉市大原の石上神宮の武器と宝物を「蘇我倉山田石川麻呂大王が奈良は物騒だからと言った」と欺き奈良に移した。蘇我善徳大王の大海人皇子(天武天皇)は649年に鳥取県倉吉市の賀茂神社を皇居として即位した。
14 天武天皇と天智天皇
 660年、残りの百済王族も列島に亡命した。天智と鎌足は天武天皇に額田王と十市皇女と引き換えに大田皇女と鸕野讃良を差し出した。
 天武天皇も役行者も大来皇女も長屋親王も泊瀬の斎宮(倉吉市の大御堂廃寺)で道教を会得した。
 「日本」とは669年に百済人の天智(豊璋)が近江で考えた国号である。斬首した首を包んだ白い布を日本の国旗とした。
 天武天皇は鎌足の殺害(669年)後、その子3人(氷上娘・不比等・五百重娘)に罪はないとして引き取った。670年、天智は斑鳩寺・斑鳩宮を放火焼失させた。天武天皇は671年に父親と従兄殺しの犯人として天智を殺害したが、その娘2人に罪はないとして引き取った。その後、父の蘇我善徳大王(聖徳太子)の建立した斑鳩寺を法隆寺として再建した。
 日本書紀は壬申の「乱」とするが「乱」ではなく、神武天皇の時から倭国大王家が準王一族(蝦夷)の「乱」に対して行なってきた平定であった。
15 日本による倭国の乗っ取り
 藤原不比等は大王や側近を徹底的におだて、相手の判断が鈍ったところで毒殺した。不比等と鸕野讃良は大王や多くの要人を毒殺している。高市大王(在位686~696)、忍壁大王(在位696~705)、穂積大王(在位705~715)は在位期間が短いので暗殺されている。不比等のおだてを見ていた周囲の者は誰も不比等が犯人だとは気が付かなかった。亡命百済王朝(日本)は、助けてくれた倭王朝の恩を忘れて734年に安全のため倭(鳥取県中部)にいた大王(在位715~734)(大伴旅人や山上憶良の表記は大君)も殺害した。倭国は734年に滅んだ。
16 日本における隠れた支配者の仕組み
 全国に4万4千社ある八幡神社は倭王朝の伝承を消すために8世紀に日本(亡命百済王朝)の神社として始まった。倭姫命(卑弥呼)と崇神天皇が全国を平定するために始めた神社のやり方を真似て全国を支配するため、八幡神社を増やして全国の支配を拡げていった。八幡神社を全体の半分以上とし、3世紀に倭王朝(卑弥呼や崇神天皇)が始めた神道の社をも呑み込んで列島を支配した。倭王朝に虐げられていた準王一族(鬼・蝦夷)にも福付き姓に対抗して藤(百済(ほぜ))付き姓を与えた。準王一族は東北や出雲や阿蘇や高千穂に多い。霞会館(藤裔会)は現在、伊勢神宮(神社本庁の本宗)を頂点として全国8万5千の総ての神社を支配している。
 伊勢神宮の大宮司は霞会館(藤裔会)が決定する。日本赤十字社・中央共同募金会・社会福祉協議会のリーダーも霞会館(藤裔会)が決定する(国民から金を吸い上げる仕組み)。改ざんした古事記・日本書紀に基づいてテーマパークを建設する。神社の建築費・修理費・人件費などにも金を使う。霞会館(藤裔会)は宮崎県の神武会に金を渡し神武ゆかりの神社を多く建てさせた。
 自分たちの地位を脅かす者に対して、買収したり、社会的地位や肩書を与えて従わせるために金を使う。それでもだめなら、殺したり、放火をする。
 真実を隠すために、わざと間違った説を多く創る。高天原の候補地、伊邪那美の墓、小野小町や菅原道真の出身地などが多くあるのは彼らの仕業である。全国邪馬台国連絡協議会を組織したのも彼らである。真実は一つなのに邪馬台国の比定地は人の数ほどあるという。
 国民には百済国の歴史書である日本書紀を正史・国史としこれに反する言論・出版は戦前まで不敬罪により罰した。列島において斬首(豊璋=天智天皇)・暗殺(翹岐=藤原鎌足)を始めたのは倭国を乗っ取った百済人である。
 霞会館(藤裔会)は天皇を隠れ蓑にして最大権力を持ち続け、裏で歴史を動かしてきたが、歴史に名を残さないことが家訓であった。源平合戦、本能寺の変、秀吉の朝鮮征伐、西南戦争、多くの暗殺事件、大東亜戦争などは霞会館(藤裔会)が仕掛け人である。
17 霞会館(藤裔会)による江戸時代の証拠隠滅
⑴ 徳川光圀は1645年(正保2年)に、「史記の伯夷伝」を読んで感銘を受け史書編纂を志したが、12年後の1657年に小石川藩邸が消失した。
 同じ1657年に、霞会館(藤裔会)は石上神宮と多芸志小浜のヒントになる鳥取県中部の石山を砕いて開削する工事を始めた。史書編纂を志して12年経つ光圀も、石山が石上神宮と多芸志小浜のヒントになる、と指摘していたのではなかろうか。
 1700年代に入って霞会館(藤裔会)は記紀との整合性を図るために、西日本の各地で辻褄合わせをしている。赤磐市の石上布都魂神社の宮司の姓を物部に変えさせたのもこのころ。波波伎神社を倉吉市大原から福庭に移したのも元禄時代。
 漢委奴国王の金印(1784年)も霞会館(藤裔会)が仕組んだ偽造印である。
⑵ 北条八幡神社の由緒(昭和9年の鳥取県神社誌より)
 宝暦3年(1753年)、鳥取県北栄町下神の三輪神社(大物主=天忍穂耳が住んでいた)は火災により焼失。
 奈良の三輪神社の系列ならば、同じところに再建するはずである。また、三輪神社の祭神は大物主のはずだが、移転後の三輪神社の祭神は大国主と少彦名にしている。そして、大国主がいた近くの国坂神社の祭神から大国主を外し少彦名だけにした。
 この神社は無くなってほしいという霞会館(藤裔会)の思いが感じ取れるのでこの火災は放火によるものである。
 この地では神を「みわ」と読む習わしであった。「みわ」のルーツは奈良ではなく鳥取県中部にあった。
 大神郷の「大神」とは史記にあるように徐福に会った国王のことである。伯耆国久米郡大神郷には倭国王がいた。
 この火災は霞会館(藤裔会)による放火と結論づける。
⑶ 寛政元年(1789年)鳥取県北栄町国坂の松樹庵(大国主・須勢理姫・少彦名。八上姫が住んでいた)の由来を知っていた世出開了行者○○信女が死亡した。
 世出開了行者○○信女は、藤ノ木古墳の墓守と同じで、松樹庵の由来を知っていて管理していた。霞会館(藤裔会)は世出開了行者○○信女が邪魔になったので殺した。
18 明治以降から現代にかけての証拠隠滅
 徳川幕府は鳥取県中部が古代、都であったことを知っていた。幕末に将軍の兄を鳥取藩の藩主にしている。薩摩の西郷隆盛も「鳥取藩は新政府に参加するか」と伺いを立てている。
 京都から鳥取藩に使いが来て「王政復古が失敗したら明治天皇をかくまって欲しい」と言った。断られたのでそのあと鳥取県中部の由良町に行った。そこでも断られた。京都の藤原氏も明治維新まで古代、鳥取県中部が都であったことを知っていた。
⑴ 霞会館(藤裔会)は現在でも鳥取県から遺跡が発掘されることを恐れ、下部組織(歴史学会・考古学会など)を使ってあらゆる手を講じている。遺跡の穴場(饒速日がいた)に東京に本社のある会社はソーラーパネルを広域に設置した(2015年)。 
⑵ 神社庁・教育委員会・ロータリークラブを使って「石山」(石上神宮のヒントになる)を「岩山」に変えた案内板と顕彰の石碑を建てた(2021年)。    
 この案内板を初めて見た時、私は愕然とした。私は何年も前に「石山が石上と多芸志のヒントになる」とブログで指摘していた。それを否定する案内板である。会員も「なんで、三百年以上経った今頃、こんな案内板と顕彰の石碑を建てるのか」と呆れていた。
 ロータリークラブのモットーは「真実の探求」とする。霞会館(藤裔会)は、大衆が信じそうなこのような組織を使う。
 これも「石山は石上と多芸志のヒントになる」とブログで指摘してから、後を追うように建てられた北野神社の案内板。教育委員会も加担している。
 河川事務所は正義の味方だ。北野神社の近くに案内板を建ててくれていた。河川事務所の案内板の内容が、私がブログで指摘する時に参考にした史料。そこには「石山」とある。このあたりは、磯江姓が多いので、「石山」は(いそのやま)と読んでいた。霞会館(藤裔会)は案内板を出すまでに河川事務所に問い合わせをさせている。しかし、石山の表記を変えられなかったので独自に3つの組織に案内板を出させた。私の指摘が間違いなら、霞会館(藤裔会)は放っておく。なぜなら、間違った説がたくさん出るほど真実が隠されるからである。
光圀にも指摘されたので、藩邸に放火して、同じ年(1657年)に天神川の石山を砕いて開削した。証拠の隠滅である。
⑶ 霞会館(藤裔会)は、Googleも金で支配している。
 霞会館(藤裔会)はGoogleマップもYouTubeも下部組織の内閣官房・内閣府に支配させている。この国を動かしているのは天皇でも政府でもない。秘密結社の霞会館(藤裔会)がこの国を動かしている。NHKをはじめとするテレビ・新聞などのメディアやインターネットも支配(情報・印象・思考操作して民衆を洗脳)している。

 
 
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地図の左上をクリックされると一覧が表示されます。 平成28年5月11日更新

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丁未の乱について [百済王12代から45代までの倭国王]

丁未の乱(ていび  らん)について


1 宣化・敏達・用明・崇峻は百済王であった。


(1)宣化は百済王であった。


 この時の倭国王は蘇我稲目大王であった。別稿「535年から乙巳の変(いっし へん)までの110年の間の倭国大王は蘇我氏三代であった」を参照されたし。宣化天皇は百済王だから宣化天皇の皇子とされる宅部皇子(やかべのみこ)も百済人であり朝鮮半島の百済でなくなっている。また、穴穂部皇子(あなほべのみこ)とされる百済人は百済で殺されており倭国に実在した人物ではない。


(2)敏達は百済王であった。


 日本書紀・敏達天皇に「百済の大井に宮をつくった」とある。これについて、河内長野市太井とする説と、奈良県広陵町百済とする説がある。


 私見では「百済の大井」はそのまま「朝鮮半島の百済にあった」とする。巧みに倭国の地名と倭人の名前を混ぜているが、敏達天皇は朝鮮半島の百済王であった。この時の倭国王は蘇我馬子大王であった。別稿「535年から乙巳の変(いっし へん)までの110年の間の倭国大王は蘇我氏三代であった」を参照されたし。


(3)用明は百済王であった。


 日本書紀・用明天皇において「用明天皇は穴穂部間人皇女(あなほべはしひとひめみこ)を立てて皇后とした。この人は4人の男子を生まれた。1番目を厩戸皇子(うまやどのみこ)という。またの名は豊耳聡聖徳という。あるいは豊聡耳法大王という」とある。穴穂部間人皇女(あなほべはしひとひめみこ)のモデルは蘇我馬子の妻の物部鎌姫大刀自であり、厩戸皇子(うまやどのみこ)のモデルは蘇我馬子の長子の蘇我善徳であった。用明の皇居の磐余池辺雙槻宮(いわれいけべなみつきのみや)は蘇我馬子の皇居であった。池辺皇子も蘇我馬子であった。どちらの池も鳥取県北栄町北条島の金繰溜池(かなぐりためいけ)であった。用明のモデルは蘇我馬子であった。別稿「蘇我馬子大王(在位572年~626年)の磐余池辺雙槻宮(いわれいけべなみつきのみや)は鳥取県北栄町島にあった」を参照されたし。


(4)崇峻は百済王であった。


 泊瀬部皇子(はせべおうじ)は崇峻天皇ではない。雄略天皇の皇居のあった泊瀬山(はせやま)は倉吉市の打吹山であり、天武天皇が建てた泊瀬の斎宮は倉吉市の大御堂廃寺であった。蘇我稲目大王の皇居は倉吉市打吹山の大江神社にあり、泊瀬部皇子(はせべおうじ)長谷部若雀天皇(はせべわかささぎてんのう))とは倉吉市(泊瀬(はせ))で生まれた蘇我馬子のことであった。蘇我馬子は百済王の崇峻天皇を朝鮮半島で殺した(592年)。藤原氏は崇峻を殺した蘇我馬子の名を奪って崇峻に付けた。泊瀬部皇子(はせべおうじ)は蘇我馬子自身の名前であった。


2 丁未の乱(ていび  らん)について


 日本書紀・崇峻において「蘇我馬子らは炊屋姫(かしきやひめ)を奉じて、佐伯連丹経手(さえきのむらじにふて)土師連磐村(はじのむらじいわむら)的臣真噛(いくはのおみまくい)に詔して、『お前達は兵備を整えて急行し、穴穂部皇子(あなほべのみこ)宅部皇子(やかべのみこ)を殺せ』と命じた」とある。穴穂部皇子(あなほべのみこ)宅部皇子(やかべのみこ)は殺された。


 日本書紀・崇峻・丁未の乱(ていび  らん)において、蘇我馬子の軍勢が物部弓削守屋(もののべゆげのもりや)の軍勢を討ったとき「厩戸の皇子は、軍の後ろに従っていた。『もしかするとこの戦いは負けるかもしれない。願をかけないと叶わないであろう』といわれた。そこで四天王の像を作り、誓いを立てていわれるのに『今もし自分を勝たせて下さったら必ず護世四王のため寺塔を建てましょう』といわれた」とある。「乱が収まって後に、摂津国に四天王寺を造った」とある。蘇我馬子は法興寺を建立した。太子が16歳の時に落成したことになる。


3 私見 


(1)丁未の乱(ていび  らん)について詳しく記す文献は「聖徳太子伝歴」と「日本書記」である。「聖徳太子伝歴」は太子伝説の集大成だとされるが、同時代の歴史が記される「古事記」、「先代旧事本紀」には、「丁未の乱(ていび  らん)」については全く記載されていない。また、丁未の乱(ていび  らん)のあとに蘇我馬子が建てたとされる元興寺(法興寺)の縁起「元興寺伽藍縁起(がんごうじがらんえんぎ)流記資財帳(るきしざいちょう)」にも、「大々王の前で、物部・中臣は過去の過ちを反省して神と仏を共に尊ぶことを誓い、諸臣らは和解した」旨が記されているが、「丁未の乱(ていび  らん)」についての記載はない。「聖徳太子伝歴」は百済寺の老僧所伝の古書により編述したとされるが、老僧が誰かわからないし古書も残っていない。


(2)丁未の乱(ていび  らん)の少し前に日羅は蘇我馬子に進言している(583年)。日本書紀・敏達天皇において、日羅は「百済人は謀略をもって、『船三百隻の人間が、筑紫に居住したいと願っています』という。もし本当に願ってきたら許すまねをされるとよいでしょう。百済がそこで国を造ろうと思うのなら、きっとまず女・子供を船にのせてくるでしょう。これに対して、壱岐・対馬に多くの伏兵をおき、やってくるのを待って殺すべきです」という、とある。


 蘇我馬子は「百済は倭国を侵略しようとしている」という日羅の進言(583年)に基づいて百済を警戒していた。百済に不穏な動きがあったので兵を出して百済を平定した(587年)。そして百済兵273人を捕らえて奴婢(生口)にした。


穴穂部皇子(あなほべのみこ)とされる百済人も朝鮮半島の百済で蘇我馬子に殺された。藤原氏(百済人)は名前も穴穂部皇子(あなほべのみこ)に変えて舞台を列島(大阪府八尾市)に持ってきた。藤原氏(藤原兼輔など)は倭国を乗っ取ってから百済であった争いを丁未の乱(ていび  らん)として大阪府八尾市を舞台にして「日本(百済)書紀」や「聖徳太子伝歴」に記載し首長の物部弓削守屋(もののべゆげのもりや)(百済人)は殺されたとした。日本(百済)は倭国を乗っ取ってから、この事件を蘇我馬子と物部の宗教戦争に置き換えた。


 蘇我馬子と物部氏との宗教戦争(丁未の乱(ていび  らん))は作り話である。蘇我馬子は倭国大王だから乱ではなく平定である。蘇我馬子は朝鮮半島の百済(日本)を平定した。その孫の蘇我果安(そがのはたやす)(天武天皇)も亡命百済王朝(日本)を平定した。亡命百済王朝(日本)はこれを壬申(じんしん)(らん)とした。丁未の乱(ていび  らん)の舞台は百済であった。「聖徳太子伝歴」と「日本書記」を改ざん創作したのは平安時代と思われる。蘇我馬子の軍勢は朝鮮半島に進軍した。敵は百済の軍勢であり物部弓削守屋(もののべゆげのもりや)の軍勢ではなかった。


(3)法興寺の落成は596年(日本書紀・元興寺縁起による)である。これより早いとする説はない。596年落成の法興寺に16歳の聖徳太子像があるので聖徳太子は580年生まれであった。蘇我入鹿(聖徳太子)は65歳(645年)で殺された。別稿「『聖徳太子=蘇我善徳=蘇我入鹿』説について」を参照されたし。


「聖徳太子伝歴」は丁未の乱(ていび  らん)の時(587年)聖徳太子は16歳であったとする。飛鳥寺にある「16歳の太子像」は丁未の乱(ていび  らん)のとき(587年)の年齢ではなく落成の時(寺司になった時・596年)の年齢である。聖徳太子(蘇我善徳)は丁未の乱(ていび  らん)のときはまだ7歳であった。戦いに参加できるような年齢ではない。


(4)聖徳太子は蘇我善徳であり蘇我入鹿であるのは間違いないので、乙巳の変(いっし へん)のときは65歳であった。もし570年生まれなら75歳であったことになり、蘇我果安(そがのはたやす)(天武天皇649年即位)はすでに大王になる年齢に達しているため、権力者はすでに蘇我果安(そがのはたやす)(天武天皇)に移っていて権力者でなくなった蘇我入鹿(善徳)をテロの標的にしない。別稿「『山背大兄皇子=古人大兄皇子=大海人皇子(天武天皇)』説について」を参照されたし。


 「聖徳太子伝歴」は伊勢神宮の「神道五部書」と同じく四天王寺の来歴を正当化するための後の藤原氏による創作である。後半部分は信憑性をもたすため原書に基づいて書かれているが、前半部分は創作である。


(5)四天王寺は伊勢神宮と同じく藤原氏によって創建された。聖徳太子を主題にした仏教におけるテーマパークである。


 聖武天皇の時代に地震が多かったが、藤原氏はこれを蘇我入鹿の祟りと思っていた。「聖徳太子伝歴」にも家が倒壊する地震について書かれている。四天王寺は蘇我入鹿(聖徳太子)の祟りを封じるためと、日本海側に四王寺(新羅の海賊に備えて建立された)を建てたように新羅の刺客から守るために聖武天皇(百済王)の時代に建立された。5の参考「四王寺・四天王信仰について」を参照されたし。


「四天王寺は元は丁未の乱(ていび  らん)を経て、玉造の岸の上(ほとり)に建っていた」とある。新しいといわれるのをかわすためである。伊勢神宮や奈良の長谷寺と同じである。史実より古く見せる仏教版である。


(6)丁未の乱(ていび  らん)は作り話であった。モデルになった事件は百済国が舞台であった。592年には百済王の崇峻も朝鮮半島で殺されている。 


4 参考「元興寺伽藍縁起(がんごうじがらんえんぎ)流記資財帳(るきしざいちょう)


亡命百済王朝は倭国を乗っ取ってから新羅と百済を入れ替えているので元に戻して記載しています。別稿「倭国に仏教を公伝したのは百済の聖明王(在位523~554)ではなく新羅の法興王(在位514~540)であった」と「飛鳥寺(法興寺)は新羅の皇龍寺をモデルにして建立された」を参照されたし。


(1)丁未(ていび)の年(587)に新羅国から客が訪れた。官が聞くには、「この三人の尼等は新羅国に渡って戒を受けたいと思っております。どうしたら実現できるでしょうか」と。そのとき、新羅の使者が言うには、「尼等が戒を受けるには、まず、尼寺のなかから十人の尼師に頼んで本戒を受けます。その後、法師寺に赴いて、十法師にお願いします。先の尼師十人と合わせて二十人の師から本戒を受けます。しかし、この国には尼寺しかなくて、法師寺も僧もおりません。尼等がもし法に則るとするならば、法師寺を設け、新羅国の僧や尼等に来て貰い、戒を受けるがよいでしょう」と言う。そのとき、池辺天皇は、命をもって、大々王と馬屋門皇子の二柱に仰るには、「法師寺を建てるべき場所を見定めなさい」と。そのとき、新羅の客が言うには、「我国では、法師寺と尼寺の間で鐘の音が交互に聞こえ、絶えることがありません。半月ごとに午前のうちに行き来出来るところに建てております」と。ときに、聡耳皇子と馬古大臣がともに寺を建てる場所を見定めた。丁未(ていび)の年(587)に、新羅の客が本国に帰った。


(2)中臣連と物部連等をはじめとする、諸々の臣等は、心を同じにして、申し上げた。「いまから後は、三宝の法を、二度と破ったり、焼き流したり、凌げ軽ろしめたり、三宝の物を摂ったり、犯したりしません。いまから後は、左の肩に三宝が坐し、右の肩に我々が神坐して、並んで礼拝して尊重供養いたします。もしこの願がみだりに破られれば、まさに天皇の所願のように、種々の大きな災いを被ることになりましょう。仰ぎ願わくは、この善願の功徳によって、皇帝陛下が日月とともにあり、天下が安らかになり、後嗣が頼を蒙ふり、世時が異なっても得益が異なることのないように」と。


※私見


(1)丁未(ていび)の年587年)に新羅国から客が訪れた。・・・丁未(ていび)の年587年)に、新羅の客が本国に帰った。同じ丁未(ていび)の年(587)に蘇我馬子は新羅を守るため百済に出兵している。この文章より、「大々王と馬屋門皇子」と「聡耳皇子と馬古大臣」の二人は同じはずだから大々王=馬古大臣となることがわかる。


池(金繰溜池(かなぐりためいけ))辺天皇も蘇我馬子である。一人で何役もさせられて蘇我馬子も忙しいことである。


(2)「中臣連と物部連等をはじめとする、諸々の臣等」とあるので物部一族は滅んでいない。


物部氏は647年まで中大兄皇子(豊璋)の策略で武器を奈良に移すまで、倉吉市大原の石上神宮で多くの武器を管理していた。587年に河内に別荘があるわけがない。


物部の子孫は滅ぼされておらず今でも倉吉市大原(始祖からの物部の本拠地)に連綿として生きている。倉吉市大原の倉〇氏(物部だから倉が付く)は倉吉市弓削に親戚があり法事に行かれた。物部弓削守屋(もののべゆげのもりや)である。これは比定地が正しいからである。


奴婢(生口)にされたのは百済兵たちであり、それを物部一族に書き換えた。


 元興寺伽藍縁起(がんごうじがらんえんぎ)はかなり改ざんされているが、それでも丁未の乱(ていび  らん)だけは挿入していない。丁未(ていび)の年(587年)に新羅から客が来た。蘇我馬子大々王は三人の尼を新羅に連れて行ってくれるよう頼んでいる。大々王は蘇我馬子であった。


 日本書紀・敏達天皇において「物部弓削守屋(もののべゆげのもりや)は寺に赴き仏像と仏殿を焼いた。焼け残った仏像を集めて難波の堀江に捨てさせた」とある。このあと「中臣連と物部連等をはじめとする、諸々の臣等」は蘇我馬子大王に謝っている。史実はここまでであった。蘇我氏と物部氏の宗教戦争などという大げさなものはなかった。


5 参考 「四王寺・四天王信仰について」


出典文献:「むくげ通信」273 むくげの会 2015.11「『山陰道の古代寺院シリーズ 2』寺 岡 洋」を引用


 奈良時代後半、新羅との外交関係が悪化する中、新羅と向かい合う太宰府、山陰・北陸諸国で四天王に対する新たな祭祀が執り行われるようになる。


宝亀五年(774)太宰府の裏山、大野城内に四王寺(院)が建立される。「近年新羅がしきりに呪詛を行うので、これに対抗するために四天王像を造り、高地でかつ浄地を選んで安置せよ」というもの(類聚三代格)。


平安時代になると、貞観九年(867)には、伯耆・出雲・石見・隠岐・長門の五国に「八幅四天王像」を送り、「四天王に帰依し、災変を消却すべきこと」を命じている。これらの国々の境界は新羅に近いので、「賊境」を望む「高地」に道場を設置せよとの下命である(日本三代実録)。


※私見


 新羅を恐れるのは百済である。亡命百済王朝(日本)は新羅の刺客から守るため四王寺・四天王寺を建立した。四天王寺の建立は聖武天皇(在位724年~749年)よりのちである。


 


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藤ノ木古墳は鳥取県中部の一族が築造した [百済王12代から45代までの倭国王]

藤ノ木古墳の4つの特徴
 1横穴式石室の円墳 2石棺が朱塗り 3同棺複数埋葬 4江戸時代まで陵堂があり墓守がいた
1
 横穴式石室の円墳
(1) 鳥取県北栄町の瀬戸古墳群2号墳は巨石を5枚使用した横穴式石室の円墳である。6世紀中頃から7世紀初め。

出典文献名:大栄町教育委員会 1998 『瀬戸岩子山遺跡発掘調査報告書』大栄町埋蔵文化財調査報告書34を引用

(2) 鳥取県北栄町の上種(かみだね)西15号墳は6世紀後半の竪穴系横口式石室の円墳(上種(かみだね)西古墳群発掘調査報告書より)

 「竪穴系横口式石室」は5世紀後葉~6世紀前葉において朝鮮半島の栄山江(よんさんがん)流域に展開している。
 「竪穴系横口式石室」が、鳥取県中部のごく限られた範囲に所在している【上種(かみだね)西15号墳、上種(かみだね)東3号墳(6世紀中葉~6世紀後半)、大法3号墳、三保6号墳(6世紀中葉~後半)】ことから重要な問題提起となっている。

(3)まとめ

 植野浩三氏は「東伯耆が山陰地方の中でも、いち早く畿内型前方後円墳を成立させた地域であり、畿内との結びつきが非常に強かった地域」とし、「当地方にみられる階段状の施設をもつ横穴式石室は、北九州から直接導入されたと考えるよりは、むしろ一段階をおいて、近畿地方より東伯耆にもたらされたと考えるほうが妥当といえる」とされる。

出典文献名:大栄町教育委員会編、大栄町文化財調査報告書, 13集「上種西古墳群発掘調査報告書」 1984.3を引用

2 石棺が朱塗り。

スクリーンショット 2020-10-03 070217.jpg

(1) 鳥取県北栄町の妻波古墳群発掘調査報告書のまとめにおいて「妻波古墳群では、箱式石棺が検出もしくは発見されている古墳では、朱はすべての石棺から認められている。したがって、妻波古墳群の周辺では朱塗りは、一般的な葬法であったと推定してもさしつかえないと思われる」とある。

出典文献名:大栄町教育委員会 1980 『妻波古墳群発掘調査報告』大栄町文化財調査報告書8を引用

(2) 鳥取県北栄町の瀬戸35号墳の石棺も朱塗りされていた。

出典文献名:大栄町教育委員会 1998 『瀬戸岩子山遺跡発掘調査報告書』大栄町埋蔵文化財調査報告書34を引用

(3) 鳥取県湯梨浜町の長瀬高浜遺跡

 SX46・人骨は出土しなかったが棺内は赤色顔料が全体に塗られていた。赤色顔料は遣存状態が良く、塗る時に用いられていたハケの跡も明瞭に見ることができた。SX52・東西の両小口、北壁、南壁(東部のもの)の内面には赤色顔料ベンガラが塗彩されていた。SX79・石棺内に用いられている赤色顔料はベンガラであった。

出典文献名:鳥取県教育文化財団 1983 『長瀬高浜遺跡発掘調査報告書(本文編)5』鳥取県教育文化財団調査報告書12を引用

3 同棺複数埋葬

藤ノ木古墳について
※ 通説

 副葬品が金銅製の馬具や装身具類、刀剣類などであるからこの当時の支配階級の一人であったと考えられているが、円墳であることから大王クラスではないが、貴金属を用いたきらびやかな副葬品が多いことから強大な権力を持った人物であったと推測されている。

 6世紀第4四半期の円墳であると推定されているので「日本書紀」が記す5876月の暗殺時期と一致する聖徳太子の叔父で蘇我馬子(そがのうまこ)に暗殺された穴穂部皇子(あなほべのみこ)と、宣化(せんか)天皇(てんのう)の皇子ともされる宅部皇子(やかべのみこ)とする説が有力である。

※ 私見

(1) 天皇(てんのう)の古墳は円墳ではないとする今の考古学界は国民に嘘を教えている。時代については、聖徳太子が生前に自分のお墓をつくったという記録が残っている。596年法興寺完成。16歳の蘇我善徳(そがのぜんとく)が寺司になる。このころ、蘇我馬子(そがのうまこ)大王と蘇我善徳(そがのぜんとく)大王は生前墓として藤ノ木古墳を造っていた。

(2)被葬者について「日本書紀」が記す587年6月の暗殺があったかどうかも疑問である。そもそも、蘇我馬子(そがのうまこ)と物部氏との宗教戦争(丁未(ていび)(らん))は作り話だからである。蘇我馬子(そがのうまこ)は倭国大王だから乱ではなく平定である。丁未(ていび)(らん)の舞台は百済であった。蘇我馬子(そがのうまこ)は「百済は倭国を侵略しようとしている」という日羅の進言(583年)に基づいて百済を警戒していた。百済に不穏な動きがあったので兵を出して百済を平定した(587年)。そして百済兵273人を捕らえて奴婢(生口)にした。藤原氏(藤原兼輔(かねすけ)など)は倭国を乗っ取ってから百済であった争いを丁未(ていび)(らん)として大阪府八尾市を舞台にして日本(百済)書紀に記載し首長の穴穂部皇子(あなほべのみこ)(百済人)は殺されたとした。物部氏は647年まで中大兄皇子(豊璋)の策略で武器を奈良に移すまで、倉吉市大原の石上神宮で多くの武器を管理していた。587年に河内に別荘があるわけがない。物部の子孫は滅ぼされておらず今でも倉吉市大原(始祖からの物部の本拠地)に連綿として生きている。蘇我馬子(そがのうまこ)は百済王の崇峻天皇(すしゅんてんのう)を朝鮮半島で殺した(592年)。穴穂部皇子(あなほべのみこ)とされる百済人も朝鮮半島の百済で蘇我馬子(そがのうまこ)に殺された。藤原氏(百済人)は名前も穴穂部皇子(あなほべのみこ)に変えて舞台を列島(大阪府八尾市)に持ってきた。聖徳太子(蘇我善徳(そがのぜんとく))はこの時はまだ7歳であった。戦に参加できるような年齢ではない。四天王寺は聖徳太子(蘇我入鹿(そがのいるか))の(たた)りを鎮めるために聖武天皇(しょうむてんのう)の時代に建立された寺院である。奴婢(生口)にされたのは百済兵たちであり、それを物部一族に書き換えた。穴穂部間人(あなほべのはしひと)皇女も我馬子(そがのうまこ)の妻の物部鎌姫大刀自(もののべかまひめおおとじ)がモデルであり泊瀬部皇子(はせべおうじ)蘇我馬子(そがのうまこ)自身の名前であった。穴穂部皇子(あなほべのみこ)とされる百済人は百済で殺されており倭国に実在した人物ではない。宣化(せんか)天皇(てんのう)は百済王だから宅部皇子(やかべのみこ)とされる百済人も百済でなくなっている。

(3)女性説について

 樋口隆康京大名誉教授は「馬具の鞍は三組のうち一組の鞍は把手がついていて横乗りの女性用のものだろう」と指摘する。同志社大学の森浩一教授は「南側の人にともなう歩揺付き筒形金銅製品は高句麗の壁画で女人が胸につるしている腰鼓とみる説がつよい」とする。

 出典文献名:アサヒグラフ1989.1「藤ノ木古墳の謎を解く」を引用

 古墳時代の玉類の研究者の玉城一枝は「2体のうち南側の人骨が、両足に濃い青色のガラス玉9個(足玉)と、左手首にガラス製棗玉10個(手玉)をそれぞれ装着した状態で出土しているので、人物埴輪の表現や古事記・日本書紀などの記述から考える限り、手玉や足玉は女性特有の装身具である可能性が高い」との説を発表した。

出典文献名:朝日新聞2009.9.14「男二人でなく男と女?」を引用

(4)『瀬戸岩子山遺跡発掘調査報告書 付章 瀬戸35号墳出土人骨』において鳥取大学医学部法医学教室 井上晃孝は「被葬者同志の関係は、1人用の石棺に、あえて成人男女2体が特殊な埋葬形式(頭位を反対にして、下肢骨を交差する)で埋葬されたことは、生前かなり親密な間柄が思量され、 夫婦関係が推察された」とする。

出典文献名:大栄町教育委員会 1998 『瀬戸岩子山遺跡発掘調査報告書』大栄町埋蔵文化財調査報告書3444頁を引用

 「島古墳群発掘調査報告書 鳥取県内における同棺複数埋葬について」において岡野雅則は「鳥取県北栄町の島古墳群7号墳では、一つの箱式石棺に二体を埋葬する埋葬形態がみられた。こうした同棺複数埋葬(合葬)は、西日本においては兵庫県以東の瀬戸内海沿岸や山陰東部、北部九州地域に分布することが知られている。
 かつて小林行雄は、横穴式石室と同棺複数埋葬を同系列上にあるものとして理解し、家族墓であるとした。

 箱式石棺でも極めて短期間に合葬されたとみられる例がある。鳥取県北栄町の瀬戸岩子山 35号墳1号埋葬施設、鳥取県北栄町の島7号墳第二埋葬施設、面影山 33号墳第1主体部では、対置の状態で埋葬された2体は、互いに下肢を交差させた状態であった。骨の配列はほぼ原位箇を保持するものとみられることから、同時埋葬かもしくは極めて近い時期の追葬とみられる」とする。

 出典文献名:財団法人鳥取県教育文化財団鳥取県埋蔵文化財センター 2000 『島古墳群 米里三ノ嵜遺跡 北尾釜谷遺跡 (北尾古墳群)』鳥取県教育文化財団調査報告書64の34頁を引用

これら3古墳で出土した2体は3古墳とも男女である。

(5)私見では藤ノ木古墳においても二人のうち一人は女性である。

「なぜ保管人骨をDNA鑑定しないのでしょうか?」と不思議がる人もいる。DNA鑑定しないのは日本書紀の嘘虚構がバレルからである。考古学会も藤原氏の組織だから当然である。

 膳大郎女(かしわでのおおいらつめ)は聖徳太子と一緒に藤ノ木古墳の一つの石棺に抱き合うようにして葬られている人だと考えられる。この人は聖徳太子が最後に一緒に住んだ年若い愛人で、聖徳太子の死を傷んで後追い自殺したとみられる。被葬者は聖徳太子(首を斬られた蘇我入鹿(そがのいるか))と膳大郎女(かしわでのおおいらつめ)であった。

4 江戸時代まで陵堂があり墓守がいた
 鳥取県北栄町の茶臼山松樹庵の案内板に「石段上の地蔵は寛政元年(1789年)世出開了行者〇〇信女の墓である」とある。大国主・少彦名・須勢理姫・八上姫のいた伊那佐小浜を守っていた。
5 私 見

以上のように藤ノ木古墳は鳥取県中部の古墳に符合する4つの特徴を備えている。法隆寺は鳥取県中部にいた一族が創建したので、法隆寺に関連付けられる藤ノ木古墳も鳥取県中部にいた一族が造ったと考えるのは当然といえば当然である。


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出雲国(島根県東部)の首長は誰であったか [天忍穂耳(大物主)]

 

 第7節 出雲国(島根県東部)の首長は誰であったか



1 私見



出雲族は(いん)王朝(おうちょう)末裔(まつえい)の準王一族であった。準王一族はその王の名を代々長髄彦(ながすねひこ)大己貴(おおなむち)神と呼んでいた。



大国主(大穴持(おおなむち)は歴代出雲国王の通称であり個人名ではなかった。



青銅器(銅鐸、銅剣など)を作る一族は青銅器を作っていた殷王朝末裔(いんおうちょうまつえい)の準王一族しか思い当たらない。現在出土している国内最古の銅鐸は紀元前190年頃とされる。準王一族が倭国に渡ってきたのも紀元前194年頃である。出雲で発掘された沢山の青銅器は殷王朝末裔(いんおうちょうまつえい)の準王一族が作ったものであった。出雲王家は紀元前195年衛氏朝鮮の難を逃れてきた人々の末(えい)であり、出雲王家殷王朝末裔(いんおうちょうまつえい)の準王一族であった。出雲族は鬼・土蜘蛛(つちぐも)蝦夷(えみし)などと呼ばれていた準王一族のことである。出雲族は「竜蛇(りゅうじゃ)族」であった。

 八上姫(やかみひめ)をめぐる大国主のライバルは鬼(準王一族)であったから、天穂日(あめのほひ)能義平野(のぎへいや)(安来市)に行ったときはすでに松江市南部出雲熊野大社(いずもくまのたいしゃ))を本拠地としていた。



 紀元前2世紀頃、出雲にいたのは能義平野(のぎへいや)天穂日(あめのほひ)であり、松江市南部出雲熊野大社(いずもくまのたいしゃ))には殷王朝末裔(いんおうちょうまつえい)の準王一族(出雲族)であった。島根県松江市乃白町の田和山(たわやま)遺跡は殷王朝末裔(いんおうちょうまつえい)の準王たちの祭祀場跡である。これが事実であり、出雲に須佐之男(すさのお)や大国主命の足跡があるのは、後に藤原氏が創作したものである。須佐之男(すさのお)(倉吉市余戸谷(よどや)町と米田町)、大国主命(北栄町国坂の茶臼山(ちゃうすやま))、事代主(ことしろぬし)湯梨浜(ゆりはま)長和田(なごうた))、天忍穂耳(あめのおしほみみ)(北栄町下神(しもつわ)の三輪山)、邇邇芸(ににぎ)命(葦原中津国(あしはらなかつくに)=北栄町下種の大宮神社)、阿遅鋤高日子根(あじすきたかひこね)(倉吉市灘手(なだて)地区の)の本拠地は鳥取県中部にあった。出雲には須佐之男(すさのお)や大国主命や事代主(ことしろぬし)の本拠地はなかった。

 国譲りというからには譲られる葦原中つ国が特定されなければならないが、葦原中つ国は宮崎県にあるとでもいうのだろうか。葦原中つ国は鳥取県中部にあった。



 出雲族は鬼・土蜘蛛(つちぐも)などと呼ばれ人をさらったりしていた。楽々福(ささふく)神社の由緒や溝口の鬼伝説に残る鬼は出雲から出ている。この戦いは宗教に基づくものであり、天孫(てんそん)族は彼らの宗教を変えさせるために戦った。崇神(すじん)天皇(てんのう)倭健(やまとたける)命・卑弥呼(ひみこ)は全国の出雲族を祀る準王一族に強制的に道教の神道を押し付けた。

 出雲には「ヤマト朝廷が東から攻めてくる」という伝承が残っている。鳥取県中部は出雲の真東になる。倭建(やまとたける)命は出雲振根を騙し討ちにして殺した。このとき倭健(やまとたける)命は「つづらさわまき」の竹刀を持っていた、とされる。鳥取県中部の長瀬高浜(ながせたかはま)遺跡より「つづらさわまき」と思われる鉄刀(てつとう)が全国で初めて発掘された。倭建(やまとたける)命は皇子であり、長瀬高浜(ながせたかはま)の被葬者は皇女(みこ)であった。

(1)
須佐之男(すさのお)について

 島根県安来市の地域の人々は「記紀」にある
須佐之男(すさのお)を開祖とする出雲王権設立の話に疑問を抱くものがいる。

 八岐大蛇(やまたのおろち)伝説の舞台は鳥取県三朝町山田(やまた)であった。その後、
須佐之男(すさのお)は始皇帝のさらなる追っ手から逃げるため、伊邪那岐(いざなぎ)の後を追って、鳥取県八頭町の大江神社に櫛名田姫と御殿に住み大国主が生まれた。鳥取県智頭町那岐(なぎ)村に来ていた神大市比売(かむおおいちひめ)との間に須勢理姫(すせりひめ)が生まれた。始皇帝が亡くなったことを知り最初の約束通り、須勢理姫(すせりひめ)と根国(鳥取県倉吉市の清熊稲荷(きよくまいなり)神社)に移った。一人になった須佐之男(すさのお)は東山神社に移り対岸の石上(いそのかみ)神宮(倉吉市の大原神社)に十握剣を奉納した。

 
須佐之男(すさのお)は人間であるので空を飛んで船通山の頂に降りたりしない。大江神社の祭神は当初、須佐之男(すさのお)稲田姫(いなだひめ)足名椎(あしなづち)命・手名椎(てなづち)命・天穂日(あめのほひ)命であったのを隠すために祭神を日本一多くした。

 元禄時代にも西日本の各地で記紀との辻褄(つじつま)合わせ(整合)が行われている。大日本史(だいにほんし)の編纂をしていた幕府に対し京都の藤原氏がおとなしくしていたはずはない。検閲・改ざんを行っている。元禄時代の頃に藤原氏は倉吉市大原の波波伎(ははき)神社を八岐大蛇(やまたのおろち)伝説と切り離すため大原神社とし、事代主(ことしろぬし)のいた福庭(ふくば)の神社を波波伎(ははき)神社とした。また岡山県の石上(いそのかみ)布都魂(ふつのみたま)神社の宮司の名前を物部(もののべ)にし、
須佐之男(すさのお)が十握剣を洗った血洗いの滝を造ったのもこの頃である。

(2)大国主(大穴持(おおなむち))について



出雲国風土記の大穴持(おおなむち)は、人名でなく意宇国の王の意味であり、何代にもわたり大穴持(おおなむち)を名乗った。記紀に書かれ、実在した鳥取県中部にいた大国主(大穴持(おおなむち))はただ一人である。

 大国主の生誕地はBC5年頃、出雲王家の天冬衣(あめのふゆきぬ)神の子として杵築(きつき)周辺で誕生したという説がある。私見では、BC208年頃、
須佐之男(すさのお)の子として鳥取県八頭郡の大江神社周辺で生まれている。須佐之男(すさのお)稲田姫(いなだひめ)の御殿を隠すために、鳥取県八頭町の大江神社は祭神を多くした。祭神の多さは日本一である。

 大国主の本拠地は島根県の三刀屋(みとや)の三屋神社という説がある。私見では鳥取県北栄町国坂の大神山(おおみわやま)茶臼山(ちゃうすやま))の松樹庵(しょうじゅあん)である。

 大己貴(おおなむち)命関連伝承地は農業関連が多い。伝承を分析すると、大国主命は少彦名(すくなひこな)命と共に行動した経路は3系統ある。
伯耆(ほうき)国→北陸地方 伯耆(ほうき)国→出雲山口県福岡県大分県 伯耆(ほうき)国→因幡(いなば)国→播磨国24ヶ所讃岐国2ヶ所伊予国7ヶ所の3系統である。

 島根県下における大国主伝承地として、多根(たね)神社、佐比売(さひめ)山神社、加多(かた)神社、虫野神社がある。大国主が準王一族(出雲族)の妨害を受けずに出雲で生活の指導をしていたことが史実であっても、それは、全国(主に西日本)の移民の国造りの一環であるにすぎない。このことを以て出雲に大国主の生誕地や活動本拠地があったとは言えない。大国主は少彦名(すくなひこな)とともに東アジアの各地(北はシベリア・モンゴルから南はベトナム・ミャンマー)から移民してきた一族を西日本各地に住まわせ移民たちの国を訪れ、衣食住の指導をしていた。

 神祇志料(じんぎしりょう)(明治6年成立)に「昔、大国主と少彦名(すくなひこな)須勢理姫(すせりひめ)伯耆(ほうき)国の大神山(おおみわやま)に御坐し、次に出雲国の由来郷と田根(たね)で農業を教えた」とある。大神山(おおみわやま)は大山だけではない。鳥取県北栄町の茶臼山(ちゃうすやま)伯耆(ほうき)久米(くめ)大神(おおみわ)郷に属していた(北条(ほうじょう)八幡宮由緒より)。北栄町の茶臼山(ちゃうすやま)大神(おおみわ)郷にあった山だから大神山(おおみわやま)と言っていた。この3人の本拠地は北栄町の茶臼山(ちゃうすやま)であった。 出雲大社のモデルについて、ある方は「記紀では、この国譲りの条件として、大国主が神殿を要求し建設されたように記述しているが、これは捏造である。「出雲」に神殿が建設されたのは、古事記によれば垂仁(すいにん)天皇(てんのう)の時代であるからだ」とする。

 長瀬高浜(ながせたかはま)遺跡の発掘調査報告書ではSB40は古墳時代前期であるとする。垂仁(すいにん)天皇(てんのう)の在位は230年~260年(古墳時代前期)に比定しているので古墳時代前期であり、ある方の説と符合する。

 しかし、稲吉角田(いなよしすみだ)遺跡の絵画土器に描かれた4本柱の高い建物は出雲大社のモデルとする研究者が多い。稲吉角田(いなよしすみだ)遺跡の絵画土器は紀元前1世紀であるから、そこに描かれた4本柱の高い建物(出雲大社のモデルとされる)は弥生時代中期までに建てられていなければならない。稲吉角田(いなよしすみだ)遺跡の近くで、4本柱の高い建物の遺構は長瀬高浜(ながせたかはま)遺跡のSB40しか見当たらない。私見では、出雲大社のモデルは長瀬高浜(ながせたかはま)遺跡のSB40の4本柱の建物跡に比定している。弥生時代前期の土器が遺構外から大量に発見されているのでSB40も弥生時代前期の建物であった可能性が高い。SB40は弥生時代前期の遺構(紀元前160年頃)であり、大国主は長瀬高浜(ながせたかはま)多芸(たぎ)(し))の高い神殿(SB40)に移って住んでいた。

 天照大神(あまてらすおおみかみ)(徐福)と
須佐之男(すさのお)は一緒に辰韓から倭国(鳥取県中部)に渡ってきた。天照大神(あまてらすおおみかみ)(徐福)は高天原(たかまがはら)(蒜山高原)に上がったが、須佐之男(すさのお)八岐大蛇(やまたのおろち)を退治して夫婦になった稲田姫(いなだひめ)と八頭町大江神社に住み、大国主を生んだ。天照大神(あまてらすおおみかみ)(徐福)は大国主より40歳くらい年上であり、天穂日(あめのほひ)に御殿を守らせていたくらいなので、大国主のことは生まれた時からよく知っていた。天穂日(あめのほひ)も大国主は生まれたときから知っていて、肉親のように思っていたはずである。天穂日(あめのほひ)は出雲で出会った準王をわが子のように可愛がり、大国主と同じ意味で大穴持(おおなむち)を名乗らせた。

(3)事代主(ことしろぬし)について

 ある方の見解

 出雲国風土記が編纂された当時、事代主(ことしろぬし)を祀る神社は、「出雲」には存在しなかった。つまり、事代主(ことしろぬし)は、「出雲」とは全然関係ない神と言えはしないだろうか。ということは、出雲の国譲り自体、出雲地方であったことではなく、本来、別の地方の出来事を、「出雲」という地名を借りて記されたもの、と考えられる。

 
 私見

 鳥取県倉吉市福庭(ふくば)波波伎(ははき)神社(祭神は事代主(ことしろぬし))の由緒には「事代主(ことしろぬし)大神(おおみわ)、国譲りの後、己も天の使いの旨を(き)け給い、国向けの代と、天夷鳥(あまのひらどり)命の御子・国夷鳥(くにのひらどり)命に手組ましめ、一ツ木の神玖四浮根(くしふね)に座しし船足を、此の青柴(あおしば)の巻(まがき)内にと(ふ)み方向けしめ来まして宣わく、吾心すがすがし幾世福庭(ふくば)曾此の青柴(あおしば)の弥栄に栄えゆく如く、皇孫命の大御代は栄え大坐ませ、己命の神魂は皇孫命の近つ護の神とならむ、天栄手(あめさかえて)青柴(あおしば)(まがき)に拍誓て御隠坐しし天栄手(あめさかえて)の宮なり」とある(式内社調査報告・1983)。

 藤原氏が焚書にしたかった文書が明治になって出てきました。藤原氏はこの文書の存在を知りながら、隠されていたので、事代主(ことしろぬし)に替えて一言主を創らなければならなかった。この文章は「玖四浮根(くしふね)(クシフルネ)」とあるので、クシフルタケ((たけ))と言う藤原氏が台頭する奈良時代までに存在した文章である。本来「玖四浮ル根」でなければならないが、「船足」に惑わされ「ル」が欠落している。新しく創作するならこのようなミスはしないため、高い自由度のもとに創作されたものではない。この文章で船着き場の場所も特定できる。海面が海抜3m以上(奈良時代以前)でないとその場所に船を停めることができないため奈良時代以降の者にはそれがわからない。事代主(ことしろぬし)亀谷(かめだに)丘陵の先端から福庭(ふくば)青柴(あおしば)(まがき)に移った。





 


 


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​三神社の由緒に見る稚日女命(卑弥呼)と神功皇后(台与)との関係 [邪馬台国・卑弥呼 その1]

1 神戸の生田神社の由緒


 当社にお祀りする稚日女尊は、我国における最高神太陽神と崇められ伊勢神宮内宮にお祀りされる天照大神の「和魂あるいは妹神」と伝えられ、稚くみずみずしい日の女神様であり、物を生み育て万物の成長を御加護する神様です。神功皇后が海外外征の帰途、紀伊の水門から難波へ向かったところ、海中で船が動かなくなった。そこで務古の水門に船を泊めて神占を行ったところ、稚日女尊が現れられ「吾は活田長峡国に居らむ」と託宣したので、海上五十狭茅に祀らしめた。


 稚日女尊は「若々しい日の女神」の意味で、天照皇大神ご自身であるとも、妹あるいは御子であるともされる。生田神社では、天照皇大神のご幼名とする。


2 三重県の伊射波神社の由緒


 稚日女尊は天照大神の「妹君、分身」とも云われ、第十五代応神天皇の母君である神功皇后の崇敬厚く、神功皇后が筑紫国(九州)から倭国に凱旋した折にも、常に御許においてお祭りされていました。


3 和歌山県の玉津島神社の由緒


稚日女尊は、天照大神の「御妹」に当たられる。長足姫命は即ち神功皇后である。神功皇后が海外に軍をおすすめになられた時、玉津島の神(稚日女尊)が非常な霊威をあらわせられたため、神功皇后これに報われ、御分霊を今の和歌山県伊都郡かつらぎ町天野の地にお鎮めもうしあげ、爾来、玉津島・天野に一神両所に並び立ち、毎年天野の祭礼に神輿がはるばる天野から玉津島に渡御する所謂『浜降りの神事』が応永の頃(1429年)まで行われた。玉津島の神を尊崇せられた神功皇后は、後に卯の年月にちなみ、御自身も合祀されることとなった。


4 稚日女命と神功皇后との関係(ある方の思い)


 神功皇后が凱旋したときに、なぜか往路では登場しなかった、稚日女尊が「私は活田長峡国に鎮座しましょう」とおっしゃた。いつの間に船に乗ったのでしょう?


 神功皇后は殊の外、稚日女尊を尊崇せられた・・・としています。稚日女尊はご自分から先導を申し出られたのではなく、神功皇后が自ら願い出て、同行していただいた神である、と想像できます。ただ、その場合気になるのは優先順位です。既に、天照大神・事代主命・住吉三神が「わしらに任せとけ!」とおっしゃってるのに、稚日女尊に援助を願うというのは、前者三方にとっては失礼なことです。また、稚日女尊は天照大神の「妹神」です。天照大神の家系が「女系」であり、しかも「末子相続」のお家事情があるならば、天照大神より高位ということも考えられる。しかし、天照大神より高位だとすれば、「稚」なんて文字使いますか???


 その姫は、天照大神よりも、住吉三神よりも、事代主命よりも、ずっと力の強い神であった、とか。女性でありながら、海外まで戦に出かけ、そして、勝利したとされる女傑・神功皇后も、天照大神も一目置く女神であった、ということならば納得できるんですが・・・。


5 私見


 稚日女命は魏志倭人伝の「卑弥呼」であり、神功皇后は魏志倭人伝の「台与」であった。


(1)稚日女命は「卑弥呼」である。


 ある方の思いからすると、稚日女命は天照大神・事代主命・住吉三神や神功皇后よりも高位でなければならない。


 稚日女命は鳥取県神社誌で日野郡日光村吉原神社の祭神になっている。鬼との戦場に近い日野郡日光村の山田神社には孝霊天皇がいた。孝霊天皇にお告げをした天津神とは奥隣の吉原神社にいた稚日女命であった。稚日女命は、(幼き頃より、神意を伺い、まじない、占い、知能が優れており、聡明で、物事を予知する能力を持っていた)倭迹迹日百襲姫命と同一人物であり、父の孝霊天皇の近くにいて鬼を平定するための知恵を授けた。


 海部氏勘注系図にある9世孫の妹の日女命(またの名は倭迹迹日百襲媛命)は邪馬台国の女王であり魏志倭人伝の卑弥呼である。稚日女命は天照大神の「妹」ではなく、藤原氏の神社庁に「稚」を付けられた孝霊天皇皇女の倭迹迹日百襲媛命であった。稚日女命は全国各地の神社の祭神となっている。


 稚日女は天照大神の「妹」ではない。稚日女は卑弥呼であり、天照大神は徐福であった。日本(百済)の神社庁による倭国の神社の由緒の改ざん強奪である。


(2)神功皇后は「台与」である。


 系譜を調べたところ、12代倭国天皇は武内宿禰の父の屋主忍男武雄心命となる。豊鋤入姫は12代倭国王の妹であり武内宿禰の叔母になる。梁書倭伝に「また卑弥呼の宗女、台与を立てて王にした。その後、また男王が立ち、並んで中国の爵命を受けた」(復立卑弥呼宗女台与為王 其後復立男王並受中国爵命)とある。台与は豊鋤入姫であり男王は武内宿禰であった。二人は一緒に行動していた。古事記・日本書紀の神功皇后の段でも武内宿禰が一緒に行動している。神功皇后のモデルは豊鋤入姫であった。


 神功皇后は新羅に敵対する皇后として日本(百済)書紀に描かれている。倭国は鳥取県中部であったから、鳥取県中部に最短で到着できる千年続いた新羅は倭国の敵ではなく倭国の盟友であった。「神功皇后は倉吉市上神におり、倉吉市北面(つくしの日向)で出産した」という伝承が残っている。神功皇后は倭国(鳥取県中部)の皇后であった。他の伝承に比べて不自然なほど多く残る北部九州の神功皇后の伝承は藤原氏によって創作されたものである。神功皇后は倭国の皇后ではなく新羅に敵対していた百済の皇后として描かれている。神功皇后は原古事記にあった豊鋤入姫の旧事をもとにして百済色に色濃く改ざんされて描かれている。神功皇后は不比等をはじめとする百済史官によって改ざん創作された。


(3)藤原氏は倭国を乗っ取り、皇統が途切れたことがわかっているから、あえて万世一系の皇統と戦前まで言い続けてきた。今でも明治政府(藤原氏の政府)が創った東京大学の教授は万世一系の皇統と言い続けている。日本という国名は669年の百済王天智の発案である。日本(百済)書紀は不比等の創作であり、勝者の日本(百済)の歴史書である。敗者の倭国(鳥取県中部)の歴史書は書き換えられ葬り去られる。


 古代史が混迷に陥っている原因は、藤原氏が作った官制の日本(百済)書紀に間違いはない、あってもわずかな部分だけだろう、と思っているからです。天武天皇が作らせた原古事記には高市大王まで書いてあったはずである。それを、改ざんして日本(百済)書紀を作り、原古事記の後半部分は消し去った。しかも、古事記に残っているものでさえ、半分近くは書き換えられている。その書き換えられた本当の部分を明らかにするのがこれからの古代史研究家に託された使命であると思う。その大前提はやまと(大和)は奈良ではなく、本当のやまと(倭)は鳥取県中部であったということである。


 例えば、神功皇后は倭国(鳥取県中部)にいた皇后(伝承が残る)であったが、倭国と敵対していた百済色に色濃く変えられているし、出雲国・伊勢国と書かれているところは後で藤原氏が書き換えていると思いながら読む必要がある。神武天皇の兄の稲飯命が海原に入ったと書いているが、これも対岸の朝鮮半島(辰韓)に渡ったというのが真実であり死んでいない。稲飯命の母の玉依姫は朝鮮半島(辰韓)から来ている。決して竜宮城からではない。邇邇芸と木花開耶姫の話は人間臭い話であり今でもありそうな話で、原古事記の改ざんはほとんどないと思われる。しかし、その子(彦火火出見)や孫(ウガヤフキアエズ)の話は大陸に似たような話があり、大陸出身の百済史官が書き換えた可能性がある。また神武東征も原古事記にあった「神武たちが蝦夷を平定して鳥取県中部(倭国)に帰ってきた物語」を書き換えたものである。


 日本(亡命百済王朝)は強奪に喜びを感じる扶余族であり、金品だけでなく、人間、名前、系譜、歴史など、何でも強奪する。強奪だから奪うときに人殺しをする。奪うこと(辻褄合わせ)の一貫で犠牲者(自殺者)が出ても知らん顔(死んで生贄になってください)である。


 明治政府は扶余族の藤原五摂家で始まった。神社庁も教育委員会も内閣官房・内閣府(明治維新の藤原太政官制が母体)も各省庁も扶余族の藤原五摂家(明治維新の太政官制)が先祖であるので、現在進行形で本当の歴史を消すこと(歴史の強奪)に躍起になっている。ここでは具体的に例示しないが、今でも、影に隠れて悪いことをしている。


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八橋の地名由来(伝承)について [神武天皇と欠史八代]

八橋の地名由来(伝承)について


1 八橋(鳥取県東伯郡琴浦町八橋)の地名由来(伝承)は以下のようである。


 「神代の昔、大国主神の娘である高姫神(下照姫)が、国土経営のため、出雲から加勢蛇川のほとりまでおいでになられたとき、八岐大蛇の霊魂が、高姫神に襲いかかってきた。素戔嗚に討たれた八岐大蛇が、素戔嗚の孫である高姫神に恨みを晴らそうとしたのである。空は急に曇り、川の上には雲が覆いかぶさった。その様子はまるで八つの蛇橋が重なって架かっているようであった。高姫神は恐れて、心の中で素戔嗚の御霊に加護を念じたところ、八岐大蛇の霊魂は消え去った。このときからこの川を加勢蛇川と名付け、この地方を八橋(やばせ)というようになった」とする。


2 立縫郷は楯縫郷であった。


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 倉吉市高城地区には楯縫神社があり、その由緒には「旧楯縫郷の大社にして」「旧郷名に因み楯縫神社と改称す」とある。立縫郷は楯縫郷であった。上大立(楯)は穿邑であったので楯縫邑は大立(楯)であった。立縫郷には立見(たちみ、ではなく、たてみ)があり、これは楯見であり、楯を検査するところであった。


3 八橋は笠縫邑であった。5笠見 (1).jpg


 八橋と加勢蛇川との間には、上伊勢、下伊勢、浦安、徳万、逢束、保、丸尾などの集落があり加勢蛇川の伝説がいきなりそれらの集落を越えて八橋の地名由来になるのは不自然である。これは八橋以前に京都の藤原氏にとって不都合な地名がありそれを消すために八橋と付けたのではないかと思われる。


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 八橋に隣接して笠見がある。笠見は、楯見と同じく笠を検査するところであった。楯縫郷と同じように笠見の近くに笠縫邑があるはずである。八橋が笠縫邑であった。京都の藤原氏は下照姫の伝承まで創作して八橋の地名を創作し鳥取県中部(倭国)にあった笠縫邑を消していた。「倭姫命世記」にある豊鋤入姫の巡行で最初にスタートした「倭の笠縫邑」は鳥取県琴浦町八橋であった。地名の強奪である。


 神倭磐余彦が倭国で最初に勝利した地は倉吉市高城地区であり、盾は神倭磐余彦にとって重要な武具であった(盾津の地名や伊那佐山で盾を並べた)ので倉吉市高城地区の地名を楯縫邑と名付けた。楯縫邑も笠縫邑も神武天皇の時代に鳥取県中部(倭国)に開かれた。


 


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鳥取県湯梨浜町の出雲山に行ってきました [大国主命]

1 出雲山について


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 鳥取県琴浦町八橋の地名由来(高姫の伝承)は倭国の笠縫邑を消すために創作されていた。湯梨浜町宮内の下照姫(高姫)の伝承も何かを消すために創作されたのではないか、と推測される。下照姫(高姫)は天若日子と倉吉市寺谷で一緒に暮らしていた。蒜山(高天原)出身の天若日子が亡くなったら、少しでも旦那の出身地に近いところに住むはずであり、湯梨浜町より蒜山(高天原)に近い倉吉市志津の倭文神社に住んだ。湯梨浜町宮内の神社は元は倭文神社ではなかった。


 宮内という地名は孝霊天皇が住んでいたから付けられた地名である。また弥生時代後期の国内最長の鉄刀も宮内から出土している。湯梨浜町宮内の倭文神社が孝霊天皇(在位147年~172年)の皇居の黒田庵戸宮であった。 出雲山の由来伝承は倭文神社に孝霊天皇一族がいたことを消すために藤原氏が創作した伝承であった。


2 石山について


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2019年頃に設置された案内板。


 確かな記録によると天神川の造成の跡として「古くから天神川は度々の氾濫で河道の位置を大きく変えていた。この河道が、現在のように直接日本海に流入するようになったのは、元文年間(1736-40)の河口開削工事によるもので、『天神川変遷略図』によると掘割を東村勘右衛門が設計し、米村所平が施工したとされています。これは天神山から東方の長瀬へ続く通称『石山さん』と呼ばれる安山岩の岩を撤去して今日の流路を作った」とある。


※ 私見


 江北浜集落の天神山から出ていた安山岩の岩の「石山」の読みはどう読んでいたのだろうか。江北浜集落には(いそえ)姓が多いのでこの辺りは(いそ)であった。石山の読みは「いそのやま」であった。


 河口開削工事は元文年間(1736-40)に行われているので、京都の藤原氏の証拠隠滅である。徳川光圀は大日本史で「石山が石上の地名由来であり、石山がタギシの柄である」と指摘していた。


 最近造られた案内板(2019年頃)には「石山」とは書かず、「岩山」(倉吉ロータリークラブ)「天神山」(北栄町教育委員会)と書かれている。以前は「石山」と書かれておりキワードになることを知ってわざと別の字を使っている。


3 教育委員会について


 福岡県教育委員会は各高校に部活として歴史研究会をつくることを推奨している。だから福岡県では歴史研究が盛んになる。鳥取県教育委員会に福岡県のように歴史研究会を各高校に置いたらどうかと進言してみると良い。「とんでもないことを言う」とはねつけられるのが落ちである。ただでさえ、真実の歴史を封印しようと頑張っている鳥取県教育委員会である。福岡県教育委員会とは真逆である。


 このように鳥取県の市町村の教育委員会は藤原氏の流れにある。ましてや、鳥取県教育委員会は藤原精神(歴史も強奪する)に支配されている。初代鳥取県知事は山田氏(藤原氏の系統)で教育に力を入れていたという。どういう教育かというと、考古学的新発見には蓋をし、この県には何もないと信じ込ませる教育であった。この地では京都の藤原氏 (今は東京の藤原氏)の証拠隠滅の精神が今でも支配している。


 


 


 


 


 


 


 


 


 


 


 


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倭国大乱における卑弥呼(稚日女命)の痕跡 [邪馬台国・卑弥呼 その1]

 稚日女命(倭迹迹日百襲媛命)は四国(讃岐)より応援にきて瀬戸内・吉備国を平定し鳥取県の東部から中部・西部・出雲国と平定していった。この倭国大乱(弥生後期)以降中国地方では青銅器(銅鐸・銅剣・銅矛)が作られなくなった。中国地方以外では弥生後期も青銅器(銅鐸・銅剣・銅矛)が製造されている。
 孝霊天皇一族は鳥取県東部・中部・西部を平定した。特に西部では、妻木晩田を拠点としていた出雲族を追い払い、南部町の手間山に逃げ込んだ出雲族(大国主の兄の八十神)を手間山の麓で捉えた。鬼住山、大倉山、鬼林山の鬼(出雲神族=準王一族)と鬼の発生元の出雲も平定して出雲族を降伏させ倭国大乱は終結した。加茂岩倉遺跡や荒神谷遺跡の青銅器はこの時に埋められた。

 稚日女命(卑弥呼)が祀られている神社

1 瀬戸内・吉備国の平定、新見の石蟹への攻撃
岡山県岡山市青江170 天野八幡宮
岡山県真庭郡勝山町大字若代2878 八幡神社
岡山県久米郡中央町打穴北124 磐柄神社
岡山県久米郡旭町西川上90 徳尾神社摂社杉尾神社
岡山県津山市沼430 齋神社
岡山県津山市綾部1086 綾部神社
岡山県真庭郡久世町大字久世948 朝日神社
岡山県苫田郡奥津町久田下原43 久田神社
岡山県浅口郡金光町大字下竹736 大森神社
岡山県浅口郡金光町大字占見新田1663 大森神社 大森神社
広島県福山市赤坂町大目456 生田神社
広島県呉市西川原石町6-21 照日神社
広島県広島市安芸区船越4-13-1 岩瀧神社摂社新宮社
広島県廿日市市串戸3丁目7-1 廣田神社
山口県玖珂郡周東町獺越1462 河内神社
山口県玖珂郡周東町大字三瀬川845 河内神社
山口県玖珂郡美和町大字阿賀432 速田神社

2 土蜘蛛の平定
 鳥取県岩美郡国府町大字新井395 折井神社
※ 近くに武王大明神(倭建命)を祀った神護神社があるのでここでも出雲族(土蜘蛛)を平定している。

3 妻木晩田を攻撃し、南部町手間山に逃げ込んだ出雲族(兄の八十神)を麓で捉えた。ただし、孝霊天皇や倭姫命を祀っている神社も合わせて初めてこの史実がわかる。
鳥取県西伯郡大山町上万1124 壹宮神社
鳥取県西伯郡名和町大字古御堂378 前田神社
鳥取県西伯郡名和町大字加茂477 賀茂神社
鳥取県西伯郡淀江町大字西原767 日吉神社
鳥取県西伯郡西伯町大字馬場1 長田神社

4 鬼住山への攻撃
岡山県真庭郡川上村西茅部1501 茅部神社
岡山県真庭郡八束村中福田392 福田神社
鳥取県日野郡江府町大字吉原903 吉原神社
※ 栃原の山田神社には孝霊天皇が祀られている。
鳥取県西伯郡岸本町番原727 植松神社

5 大倉山の鬼
鳥取県日野郡日野町舟場851 嚴島神社

6 鬼林山の鬼
鳥取県日野郡日南町新屋70 多里神社
広島県庄原市市町1599 田原神社

7 出雲本隊への攻撃(山越)
島根県安来市赤江町400 安屋神社
島根県大原郡大東町大字中湯石1446 日原神社
島根県大原郡大東町大字遠所754 艮神社
※ 出雲の振根を倭建命が殺したのもこの時である。加茂岩倉遺跡や荒神谷遺跡の青銅器はこの時、隠された。

8 西国平定
※ 神倭磐余彦たちと同じように山口県光市から船で大分県宇佐に渡った。
大分県宇佐市大字南宇佐2859番地 宇佐神宮摂社養蚕神社
大分県宇佐市大字下矢部666番地 歳神社
大分県大分市大字上宗方316番地 大明神社
大分県津久見市大字徳浦87番地ノ1 徳浦神社
※ 熊本県に行く途中の阿蘇山の周辺で多くの鬼八を平定している。弥生時代後期の鉄鏃が阿蘇山の周辺で三百余り出土している。この時代、鉄鏃を使用していたのは、鳥取県中部にいた一族であった。
熊本県玉名郡南関町四原1538 柿原神社  
※ 和水町の江田船山古墳の近くに熊襲はいた。
熊本県玉名郡長洲町長野1274 四王子神社 摂社若一皇子社
※ 熊襲のあとは天草を平定している
熊本県天草郡河浦町河浦5015-2 一町田八幡宮
熊本県天草郡河浦町路木2777 路木十五柱神社摂社生田神社
熊本県牛深市牛深町3198 牛深八幡宮摂社岡郷金刀比羅神社

9 中国へ行く拠点を朝鮮半島につくって(任那を初めて開設した)新羅から帰ってきた(173年)。
出港 佐賀県伊万里市黒川町小黒川405 若宮神社
※ 稚日女は若宮神社から朝鮮半島に向けて出港した。
帰港 島根県簸川郡大社町大字日御碕455 日御碕神社 摂社立花神社
※ 天照大神と須佐之男も辰韓から最初に出雲の日御碕神社に寄港しているので、稚日女と倭建命も朝鮮半島の新羅から出港している。海流の流れがそうなっている。
島根県八束郡美保関町片江721 方結神社
※ 片江を経由して鳥取県北栄町大島に帰還している。

10 倭国歴史書原本には倭国大乱についても記載があった。稚日女(倭迹迹日百襲姫命)は孝霊天皇と大吉備津彦と若日子建吉備津日子(倭建命)との連携で鬼や出雲軍本体を攻撃したことは明確に書いてあったはずである。しかし、藤原氏は自分たちの先祖が平定されていく様を残すわけにはいかず、古事記・日本書紀には直接には書かなかった。

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鳥取県北栄町の三輪神社(天忍穂耳)と国坂神社(大国主) [天忍穂耳(大物主)]

1 鳥取県北栄町下神の三輪神社と三輪山

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 下神の坂の途中にある三輪神社跡の石碑。

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 下神の坂の途中にある三輪神社跡の石碑

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 蜘ヶ家山(葛城山)より。左側が松神。右側が下神。下神の上、木の茂っているあたりに三輪山(邇邇芸)があった。三輪神社には天忍穂耳(大物主)がいた。

2 茶臼山(大国主の本拠地、伊那佐山・大神山・宇迦能山)と北条八幡神社

 三輪山の東(2kmくらい)に茶臼山(大国主の本拠地、伊那佐山・大神山・宇迦能山)がある。

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 蜘ヶ家山(葛城山)より。茶臼山(大国主の本拠地)と三輪山(天忍穂耳=大物主の本拠地)との間の丘陵地に造られている北栄町北尾の北条八幡神社の山。

3 北条八幡神社の祭神と由緒​​

 土下の三輪神社は大国主尊、少彦名尊を祀り、猿田彦神、倉稲魂神、天児屋根尊を合祭す。

 当神社は大正二年神社整理の結果八幡に合併せるものなるが元官帳所載の三輪神社なるを知るに足るものあれば茲にその概要を記す。

一、地名 上神郷下神郷は古伯耆国久米郡大神郷にして上神郷をカミツミワ、下神郷をシモツミワと称ふ.大和国三輪神を遷し奉りしより此の名称出づ。

二、往古三輪神の鎮座地は下神郷の中央なる三輪山の麓 字三輪脇に在りし・・・・・。

※ 私見 このあたりを古代、伯耆国久米郡大神郷と言っていた。「大神」とは伊邪那岐の時代からこの国の「王」の代名詞であった。大神郷にこの国の「王」がいた。

 「大和国三輪神を遷し奉りしより此の名称出づ」と「土下の三輪神社は大国主尊、少彦名尊を祀り」が問題である。

 藤原氏は下神の三輪神社(下神郷の中央なる三輪山の麓、字三輪脇に在った)を放火消失させて、移した土下の三輪神社の祭神を「大国主・少彦名」とした。これが奈良の三輪神社の系列なら同じところに再建するはずである。

 もともと「大国主・少彦名」は茶臼山の国坂神社に祀られており、土下に移したとする元の下神の三輪神社には大物主(天忍穂耳)が祀られていた。

 倭国が創建した神社の強奪の一例である。強奪というのは、奪う過程において倭人を多く殺しているからである。藤原氏が政権を奪った奈良時代から晒し首が始まった。

4 大物主は天忍穂耳であり北栄町の三輪山にいた。天忍穂耳の御子の邇邇芸(日向御子)が楯縫神社で成長して大宮神社に移り葦原中津国を統治するようになるまで、天忍穂耳(大物主)は茶臼山(大神山)にいた大国主を助けて、西日本各地に住んだ多くの移民の生活環境を整えてやる大事業に携わっていた。それまで大国主のやっていた事業を国譲りの後は天孫族が引き継いでやっていた。

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 旧東郷町史・第四節・東郷湾の時代には「今から十数万年前(洪積世)の東郷町の町域は、日本海が奥深く入り込み、大平山と馬の山に挟まれた大きな内湾の海中であった。その海岸線は、東郷谷の奥深い山すそを縁取るように、また、舎人・花見地区の平野部を完全に覆うように入り込んでいた。現在の標高でみると、約二十~三十㍍までの町域は、すべて海であったと考えられる。北条町の茶臼山・三輪山などは海中に浮かぶ島であった(図5)」とある。

 北栄町の隣の東郷町誌の古地図には左上に三輪山が載っている。その右が茶臼山(宇迦能山)である。

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※ 私見

 佐治氏は海抜25mくらいに海面があった鳥取県中部の地形をほぼ正確に描いている。ただし、「今から十数万年前(洪積世)」とあるが、倉吉市住吉神社の案内板に「往古この一帯が入江であった頃」とあるので、縄文海進のピーク時は今から五千五百年くらい前であり、そのときの海面は海抜25m前後まで上昇していた。十数万年前(洪積世)なら住吉神の伝承は残っていない。佐治氏の想定図でも茶臼山・三輪山・石山が確認できる。

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 左の白い囲い線は三輪山。三輪山の南(上=かみ)に三輪神社があった。倭姫命世記にある「倭の彌和の御室嶺の上の宮」はここであった。

 大物主(天忍穂耳)が三輪神社に来たので大国主は本拠地を松樹庵から国坂神社に移した。国坂神社は今でも大国主の子孫が奉斎している。

 右の白い囲い線は石山(いそのやま)である。石山はタギシ(古代の舵)の柄であった。タギシは鳥取県湯梨浜町長瀬高浜であった。大国主は石山(いそのやま)を越えて沖を通る船の目印になる高い建物(出雲大社のモデル)に行っていた。

 大国主が通った、当時、水際沿いにあったと確認できる道路(黄色い線)が今でも残っている。

 

 

 

 


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