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千三百年の間、藤原氏に消されてきた伯耆国(鳥取県中西部)の真実の歴史が、今よみがえる。

第十節 天太玉命と和久産巣日命は実際に中尾集落に住んでいた [伊勢野の天照皇大神宮]

   第十節 天太玉命と和久産巣日命は実際に中尾集落に住んでいた
1 天孫降臨は鳥取県中部で行われ五伴緒の一人である天太玉命は中尾神社(祭神、天太玉命・和久産巣日命、伊勢崎村大字中尾鎮座)に居られたとしていたが、鳥取県文化財団中尾第一遺跡発掘調査報告書(2004年)にも縄文晩期から弥生前期の遺構・遺物の発掘が記載されている。方見神社にあるのは大正2年に合併されたからである。

 天孫降臨、大国主の国譲りは縄文晩期から弥生前期に行われたはずであるから、天太玉命が降りたった中尾で 縄文晩期から弥生前期の遺構・遺物が発掘されなければならないが、それが発掘された。ただ中尾本村より少し離れたC1地区とC2地区でのみ発掘された。より離れたA地区とB地区では発掘されなかった。
2 中尾第一遺跡発掘調査報告書 (2004年鳥取県教育文化財団)
 C 1区の調査
 検出した遺構は、掘立柱建物l棟、土坑7基、落し穴18基、溝2条で、時期は縄文時代から中世の可能性のあるものがあり、時期幅がある。出土遺物は、縄文時代から近世にかけての土器、石器、陶磁器、土製品、漆器などが出土した。かなりの時期幅があるが、縄文時代晩期終末期~弥生時代前期、古墳時代中期のものが主体をなす。遺構に伴わない遺物 縄文時代から近世にかけての遺物がコンテナ5箱分出土した。調査の概要で触れたように出土遺物は、縄文時代晩期終末期~弥生時代前期、古墳時代中期のものが主体をなし、出土地点は調査区南側に集中する傾向がみられた。縄文時代晩期終末期~弥生時代前期(157~175)当該期の遺物はすべて粗製土器であり、器面調整は内外面ともにナデ調整が施される。弥生時代前期(176~186) 176は壷の口縁部で横走沈線を2条めぐらす。

 C2区の調査  
 近世の耕作土やクロボクからは縄文土器、弥生土器、土師器、須恵器、陶磁器、石器が出土している。なお、遺構の検出は漸移層で、行った。確認された遺構のうち、弥生時代の土坑墓群には墓壌の内部に石を配するもの、上面に石を配するものなどが確認されており注目される。 竪穴住居2  遺物は底面からやや浮いた状態で縄文時代晩期の土器266~275、黒曜石の剥片S23・24、員による穿孔のある自然石S25、石鍬S26・27が出土している。 土坑墓6  第5層からは弥生土器の細片がわずかに出土している。遺物から時期の特定はし難いが、弥生時代前期の範障に収まるものと考えられる。

3 今回発掘されたのは中尾集落の外側のほんの一部であり、より中尾集落に近いところではより多く発掘されるものと推測される。
 ここと同時に玉祖命が降りたった長瀬高浜遺跡でも、縄文晩期から弥生前期の遺構・遺物が発掘されている。
 月下(槻下)の外宮の度会に行った豊宇氣毘賣神の母親である和久産巣日命は、天太玉命と一緒に中尾に居られた。豊宇氣毘賣神は母親のいる中尾に住み、500mほど離れた槻下に仕事に行っていたのかもしれない。猿田彦は天太玉命・豊宇氣毘賣神・和久産巣日命を槻下や中尾にお連れしたようである。

4 中尾集落の写真
IMG_0366
中尾神社の祭神は、天太玉命と和久産巣日命である。山陰道の上から撮影したものである。この道路の工事中に中尾第一遺跡C区で縄文晩期と弥生前期の遺構・遺物が発掘された。
5 斎尾(斎王)廃寺は、白村江の戦いに勝利し、天武天皇が即位したことを蘇我氏の総本家が記念して建立したものであると思われる。過去数百年間この地から朝鮮半島・中国へ行くルートが出来上がっていた。
 天武天皇が伯耆国出身であることを知っていたから、奈良時代に土佐の池田王が天照皇大神宮を頼ってきたのである。天武天皇は天照大御神の子孫であると持統天皇に言っていた。斎尾(斎王)廃寺は、後の奈良時代に藤原朝廷によって破壊された。

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