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千三百年の間、藤原氏に消されてきた伯耆国(鳥取県中西部)の真実の歴史が、今よみがえる。

穂積大王の次の大王(在位715年~734年)は鳥取県中部(倭国)にいた [百済王12代から45代までの倭国王]

 穂積大王の次の大王(在位715年~734年)は鳥取県中部(倭国)にいた
 
1 元明天皇と元正天皇と山上憶良と聖武天皇について
※ 元明天皇(女帝・中継ぎ天皇といわれる・火葬)の在位は707年~715年である。
※ 元正天皇(女帝・中継ぎの中継ぎ天皇といわれる・火葬)の在位は715年~724年である。
※ 山上憶良は伯耆守に任ぜられ(716年~721年)第34代倭国大王(在位715年~734年)に仕えていた。721年に奈良に帰り東宮・首皇子(聖武天皇)の侍講(家庭教師)となり倭国王家の王道を聖武天皇に教えた。しかし、長屋王暗殺計画の妨げになるため、筑前国に下向させられた(726年~732年)。大宰府に着任した大伴旅人とともに、筑紫歌壇を形成した。
※ 聖武天皇の在位は724年~749年である。火葬ではないから実在していた。天平年間は災害や疫病(天然痘)が多発したため、たびたび遷都を行った。
(私見)
 元明天皇と元正天皇は「中継ぎ天皇」と軽んぜられ、実在したかどうか判らないようにするために火葬にした。元明天皇と元正天皇は倭国に実在した天皇ではない。
 
2 筑紫歌壇での大伴旅人の歌
 やすみししわご大君の食国は倭も此処も同じとぞ思ふ 
(私見)
 大伴旅人は倭国大乱(146年~189年)のときに倭建命や倭姫命(卑弥呼)の全国巡行に随伴していた安倍、大伴、物部、中臣、和珥氏など五人の有力将軍のうちの一人である大伴氏の子孫である。大伴氏は倭建命や倭姫命(卑弥呼)の征西(九州)にも随伴して九州を平定している。大伴旅人は古来より倭国王家の腹心の部下である。
 旅人のいう「倭」とは鳥取県中部のことであり、此処とは倭奴国(北九州)のことである。北九州は倭奴国と呼ばれ倭国の防衛を担っていた。また倭国(鳥取県中部)から来た天孫族が半島に行くために一時留まるところでもあった。
 大伴旅人と山上憶良は長屋王の変を遂行するのに邪魔になるので九州に行かされた。
 
3 筑紫歌壇での山上憶良の歌
 父母を 見れば貴し 妻子見れば めぐし愛し 世の中は かくぞことわり もち鳥の かからはしもよ ゆくへ知らねば 穿沓を 脱き棄るごとく 踏み脱きて 行くちふ人は 石木より 成りてし人か 汝が名告らさね 天へ行かば 汝がまにまに 地ならば 大君います この照らす 日月の下は 天雲の 向伏す極み 蟾蜍の さ渡る極み 聞こし食す 国のまほらぞ かにかくに 欲しきまにまに しかにはあらじか 
(訳)
 父母を見れば尊い。妻子を見れば可愛くいとおしい。世の中の道理はこうしたもの、モチにかかった鳥のように家族への愛情は断ち切り難い。行末も分からぬ我等なのだから。穴のあいた靴を脱ぎ捨てるように父母や妻子を捨てて行くという人は、非情の石や木から生まれた人だろうか。あなたの名前をおっしゃい。天へ行ったなら、あなたの思いのままにするのもよかろうが、この地上ならば、大君がいらっしゃる。この太陽と月が照らす下は、雲の垂れる果てまで、ヒキガエルが這い回る地の果てまで、大君のお治めになるすぐれた国土なのだ。あれもこれもと思いのままにしようというのか、そうゆくものではあるまいよ。
 
​​4(私見)
 朝鮮半島から亡命してきた百済人たちは倭国の下僕として仕事をもらい、飛鳥や奈良で働いていた。しかし、百済人の鎌足や天智は蘇我入鹿大王を殺した。鎌足の子の藤原不比等も天武天皇、高市大王、忍壁大王、穂積大王を暗殺した。不比等の暗殺を倭国が気付かないわけがない。もともと倭国の大王家は長寿の家系だから、四人の大王の早い死は不思議に思っていた。奈良の危険性に気づき長屋親王だけを奈良に行かせ穂積大王の次の大王は鳥取県中部(倭国)に留まらせた。
 山上憶良のいう「大君」とは鳥取県中部(倭国)にいた倭国大王のことであり、元正や聖武のことではない。山上憶良は716年から5年間鳥取県中部(倭国)にいたからこの「大君」のことは知っていた。鳥取県中部(倭国)から奈良(倭国が造った京)に帰って、東宮・首皇子(聖武天皇)の侍講となり倭国王家の王道を聖武天皇に教えた。教え子の聖武が即位(724年)したことも知っている。「大君」とは元正や(新羅の疫病(?)から逃げ回っていた)聖武とは別人であり、鳥取県中部(倭国)にいた倭国大王のことである。
 倭国は倭国大乱(146年~189年)のときに、倭姫命(卑弥呼)や倭建命を擁する倭の王軍によって、東は岩手県から西は長崎県さらには半島まで統一していた。2世紀後半から8世紀前半まで500年以上列島はヤマト王権によって支配統一されていた。山上憶良は亡命百済人2世だが、鳥取県中部(倭国)に5年いたので親倭派になっていた。百済(日本)王として即位した聖武天皇の侍講もしていたが、親倭派であったために北九州に左遷された。
 この歌は誰に対して怒りをぶつけているのか解からなかったが、藤原氏によるクーデター計画(長屋王の変)のあることを知って詠んだ歌である。

 

5 鳥取県倉吉市の北野神社は山上憶良が仕えた第34代倭国大王(在位715年~734年)の宮であった。

(1)小鴨道祖神遺跡より

34代大王.jpg

 「電波塔あたりでも飛鳥・奈良時代の住居跡が見つかっているので、小鴨道祖神遺跡まで遺跡は連続していたはずである」と現地説明者は言っていた。「硯転用土器も見つかっているので、国庁の役人が住んでいたのではないか」と言っていた。

​(2)私見

 この遺跡の中央に北野神社がある。周辺の形状からしてただの神社ではなく大王の宮と思われる。蘇我入鹿大王の宮は由良にあり古墳時代中期から奈良時代にかけての遺跡であった。蘇我入鹿大王の子の天武天皇の皇居は倉吉市の賀茂神社であった。北野神社周辺の遺跡は飛鳥・奈良時代であり、天武天皇より新しく菅原道真より古い。在位715年~734年の第34代倭国大王の宮と思われる。

(3)余談

 菅原道真の生まれたところは諸説あり本当のところは定かではない。「菅原は蘇我原」と解することができるので菅原氏は鳥取県中部に居た蘇我氏の子孫と思われる。また母の伴氏は鳥取県に居た大伴家持の子孫である。菅原道真が倉吉市北野出身としてもおかしくない。ただし、北野神社は周辺の形状からして大王の宮と思われる。

 古くから、生田で八幡神社を祀っており、明治期になると饒速日のいた哮峰に八幡神社を遷して八幡町まで造っているので生田に住んでいたのは富海(鳥見邑)で長髄彦に率いられていた出雲族ではないかと思われる。

 


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​神武東征は不比等の創作であった [日向三代と神武天皇四兄弟]

  ​神武東征は不比等の創作であった


1 日本書紀の神武東征の順序

➀速吸の門(豊予海峡)(椎根津彦)②一つ上がりの宮(宇佐)③岡水門(筑紫)④安芸⑤吉備⑥浪速国


2 古事記の神武東征の順序

➀日向を出発して②足一騰宮(宇佐)③岡田宮(筑紫)④安芸⑤吉備⑥速吸の門(明石海峡)(槁根津日子)


3 私見

 速吸の門を日本書紀では豊予海峡でなければならないし、古事記では明石海峡でなければならない。どちらが正しいであろうか。

 明石平野の弥生時代の遺跡

クリップボード9.jpg


 椎根津彦(槁根津日子)は国つ神であり土地に土着の者であるから縄文人であった。新方遺跡では弥生時代前期に石鏃の刺さった縄文系人骨3体が発掘されている。新方遺跡に住んでいたのは椎根津彦(槁根津日子)一族であった。神武天皇は弥生時代中期だから殺害されてから通りかかり、椎根津彦(槁根津日子)に賊はどこに行ったか聞いた。椎根津彦(槁根津日子)は道案内をした。

 大分市・臼杵市に弥生時代の遺跡は少ない。

 速吸の門は明石海峡であり、古事記が順序としては正しい。


4 それでは古事記にある神武天皇たちが出発した「日向」とはどこか。
 通説は宮崎県の日向国とする。しかし、津田左右吉は昭和15年発刊の「古事記及び日本書紀の研究」において「宮崎県の日向国は膂宍の空国(肥沃でない国)とされており都であった証しがない。古墳群があるからというだけでは都にはならない」とし「日向とは宮崎県の日向国ではない」とした。
 ここで北九州の研究者は「日向は北九州にあった」とするが、北九州ではその前後がつながらない。邇邇芸命は「この地は朝日が直に刺す国、夕日の火照る国」と言ったので、日向御子というあだ名をつけられた。日向とは邇邇芸が降臨した地のことである。

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 邇邇芸は成人になるまで、矢送神社と楯縫神社で過ごしたが、どちらも日陰であり日照時間も短いところである。上種の大宮神社に移ってから日当たりが良いので「この地は朝日が直に刺す国、夕日の火照る国」といった。四王寺山も楯縫神社より海側にあるので日向の地である。邇邇芸が降臨したのは間違いなく、鳥取県北栄町上種の大宮神社である。神武天皇たち4兄弟が育った四王寺山も日向であった。神武天皇たち4兄弟は日向の四王寺山を出発した。最初の目的は九州の蝦夷の平定であった。倭国(鳥取県中部)にとって九州は半島に渡るために重要な場所であった。

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 神武天皇たち4兄弟は日向をたち山口県光市から船で宇佐に付き、稲飯命は鉄の武器を造るために半島に渡った。稲飯命は鉄の武器を造って半島の西側から船で岡田宮に帰ってきた。神武天皇は筑紫の岡田の宮で待っていた。岡田宮から吉野ヶ里遺跡に行くまでの2ケ所で紀元前100年頃の鉄鏃が出土している。これは神武天皇4兄弟が放った鉄鏃である。吉野ヶ里でも鉄鏃が見つかっている。吉野ヶ里では蝦夷が人間を奴隷にしていた。堀と柵の位置が通常の反対である。神武天皇たちは吉野ヶ里も攻撃した。紀元前100年頃の鉄鏃は鹿児島でも見つかっているので、神武天皇4兄弟は九州全域を平定している。

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​ イツセと磐余彦は九州を平定して生まれ育った倭国(鳥取県中部)に帰ってきたが、ナガスネヒコの矢がイツセにあたり、いったん山陽に退却した。山陽でも蝦夷を平定した。しかし奈良には行っていない。倉吉市清谷の上里神社の由緒には「山陽に行った」とだけあり、奈良とは書いていない。

 神武天皇は福山市柳津と尾道市高須を拠点として蝦夷を平定していった。​

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 神武天皇は蝦夷に祭祀方法を変えるよう指導していた。銅鐸祭祀ではなく線刻土器祭祀を勧めていた。茨木市東奈良遺跡の線刻土器は紀元前1世紀のものであり神武天皇が変えさせた。しかし、奈良の線刻土器は紀元1世紀だから、神武の100年後、4代の懿徳天皇が奈良を平定し、線刻土器祭祀に変えさせた。神武天皇は摂津国までしか平定していない。


5 なぜ、不比等は神武東征を創作したのだろうか。

 津田左右吉はその著書「古事記及び日本書紀の研究」において「神武天皇の東遷の説話そのものが・・・ヤマトの都において重要の地位を有するものによって考案せられたことがわかるので、物語そのものからいうと・・・ヤマト朝廷の起源を述べた一つの説話なのである。やはり歴史的事実としての記録とは考え難い」とする。

 「ヤマトの都において重要の地位を有するもの」とは藤原不比等であった。

 藤原鎌足は642年の百済からの船に乗っていた翹岐であり百済人である。不比等は百済系2世であった。白村江の戦いで亡命してきた百済王族を鎌足は宮崎県に逃がしている。平城京を造ってもらって不比等は百済王族を宮崎県から奈良に呼び寄せた。百済王族が宮崎から奈良に遷ったことを神武天皇に仮託して神武東征を創作した。古事記・日本書紀を改ざんし、西日本に神武東征関係のテーマパークを多く造った。

 神武東征関係の19の自治体が日本遺産登録のために運動している。私が調べた限りでは、創作された地がほとんどである。     

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