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千三百年の間、藤原氏に消されてきた伯耆国(鳥取県中西部)の真実の歴史が、今よみがえる。

倭健命は第九代開化天皇であった [第九代開化天皇、第十代崇神天皇、第十一代垂仁天皇]

1 古事記・日本書紀は8代孝元天皇・9代開化天皇・10代崇神天皇は父子承継とするがこれは正しいか


 13代倭国男王は武内宿禰であった。武内宿禰の父は屋主忍男武雄心命である。12代景行天皇の実在には疑問が出されており、12代倭国男王は屋主忍男武雄心命であった。屋主忍男武雄心命について正しいと思われる史料の「紀氏系図」では、孝元天皇皇子に彦太忍信命、その子に屋主忍雄命、その子に武内宿禰と甘美内宿禰とする。


 「紀氏系図」では、8代孝元天皇と13代武内宿禰との間には二人いるだけである。8代孝元天皇・9代開化天皇・10代崇神天皇は兄弟でなければ年代が合わない。孝元天皇・開花天皇・崇神天皇は倭国大乱の時代の孝霊天皇の皇子であり兄弟承継をしていた。そう解することによって、11代垂仁天皇と彦太忍信命は「いとこ」、12代景行天皇と屋主忍男武雄心命は「またいとこ」になり年代的に一致する。


 なぜ、孝霊天皇一族の兄弟承継(倭国大乱で8代・9代は早死にしている)を父子承継にしたのか。


 唐は倭国と日本は別の国だと断定している(旧唐書倭国伝)。倭国を乗っ取った亡命百済王朝(日本)は中国の信用を得るために、倭国と日本は連続しており、万世一系の皇統だとした。ある種の詐欺である。しかし中国の支配下に置かれたくなかったから、始祖の天照大神が徐福(中国人)だということは隠した。そのために神武元年を徐福(天照大神)が渡来した紀元前210年よりずっと古い紀元前660年にした。古く見せるために、倭国の原書にあった兄弟承継を日本の国史では父子承継にした。


2 11代天皇と12代天皇の問題となる系譜


⑴ 垂仁天皇(本拠地は岡山県美咲町大宮神社)ー 彦太忍信か


皇后:日葉酢媛命(丹波道主王の娘)


◎五十瓊敷入彦命、大足彦忍代別尊 ー この位置は屋主忍男武雄心命である


◎葛木志志見興利木田忍海部刀自(住吉大社神代記による) ー 豊鋤入姫(台与)であり神功皇后


◎倭姫命 ー 史実は孝霊天皇皇女であった


妃:迦具夜比売(かぐやひめ)。 ー 開化天皇の曾孫(ひまご)。


⑵ 景行天皇(屋主忍男武雄心命)皇居は纒向日代宮 ー 屋主忍男武雄心命か


皇后:播磨稲日大郎姫 ー 若建吉備津日子の娘 ー この位置は津山市にいた影姫であった


◎大碓命 ー 身毛津君(牟宜都国造)等祖


◎小碓命(倭建命=若日子建吉備津日子) ー この位置は武内宿禰であった


妃:迦具漏比売(かぐろひめ)。 ー 倭建命の曾孫(ひまご)。


⑶ 私見 


 古事記によれば「景行天皇の妃の訶(迦)具漏比売(かぐろひめ)は倭建命(景行天皇の子)のひ孫」となるので、景行天皇と倭建命との親子関係に否定的な説がある。景行天皇は136歳まで生きたのだから皇子のひ孫を「妃」と出来るかもしれない、という説があるが、不可能である。


 開花天皇は崇神天皇と兄弟なので景行天皇の2代前となる。開花天皇のひ孫は景行天皇の妃であれば娘ぐらいの年代になるので、迦具夜比売は景行天皇の妃がふさわしい。また訶(迦)具漏比売も開花天皇のひ孫なら景行天皇とは父娘くらいの年の差になるのでありうることである。


 迦具夜比売と訶(迦)具漏比売は本来は姉妹であり二人とも景行天皇(屋主忍男武雄心命)の妃であったと思われる。孝霊天皇も蝿(イロネ)と蝿(イロド)の姉妹を妃としている。原古事記には「開花天皇(倭建命)のひ孫の迦具夜比売(姉)と迦(訶)具漏比売(妹)は景行天皇(屋主忍男武雄心命)の妃となって・・・」とあった。


 「常陸国風土記」では倭武天皇、「阿波国風土記」逸文では倭建天皇と書く。名古屋の氷上姉子神社の末社・元社の宮簀媛命宅跡の石碑にも「倭武天皇妃の宮簀媛命」とある。倭建命は天皇になっていた。倭建命(倭武天皇)と開花天皇は同一人物であった。


3 倭建命は吉備国を平定して蒜山から関金町に降りてきている(倉吉市関金町の伝承より)ので、若日子建吉備津日子命と同一人物と思われる。若日子建吉備津日子命は吉備国平定の功績により開化天皇になったと思われる。同じく大吉備津日子命も吉備国平定の功績により崇神天皇になった。第9代開化天皇は若日子建吉備津日子命(小碓命)であり、第10代崇神天皇は大吉備津日子命(大碓命)であった。母親が姉妹の異母兄弟であった。


 開化天皇は景行天皇の祖父の崇神天皇と兄弟であったが景行天皇の3代前の天皇となる。倭建命は欠史8代とされ旧辞が消された第9代開化天皇である。どちらも157年生まれの孝霊天皇の皇子と思われる。第8代孝元天皇の弟である。倭建命(若日子建吉備津日子命)は孝元天皇が亡くなってから5年くらいの間第9代開化天皇であった。30歳(188年)で亡くなった。倭建命が活躍したのは景行天皇の時代ではない。記紀の旧辞を読んでもわかるが、倭建命が生きた時代は倭国大乱の時代(147年~189年)である。倭姫命は伊勢神宮の正統性を創るために豊鋤入姫命の一代あとの景行天皇の妹としなければならなかった。倭姫命(倭迹迹日百襲姫命)と同時代に生きていた倭建命(若日子建吉備津日子命)も景行天皇の皇子とした。


4 卑弥呼と倭建命は新羅から中国へ行くルートを開くため三韓に行っている(173年)。全羅南道の任那はこの時に初めて設置された。三韓に行った後、祖父の孝安天皇が居た葦原中津国にも立ち寄り神助を謝している(宮崎神社の由緒)。


 宮崎神社の由緒には「征西の御時」とあるので倭建命が北栄町島に帰還したのは倭国乱の時代(147年~189年)である。


 鳥取県倉吉市関金町にも倭建命の伝承が残る。「この矢のとどく限り兇徒、悪魔は退散して我が守護の地となれ」と言ったのだから、倭建命は倭国乱の時代(147年~189年)に生きた。卑弥呼の前期は倭建命と一緒に行動している。


5 各天皇の生年と没年


※ 第7代孝霊天皇 120年~211年 卑弥呼の兄の孝元天皇(生年149年頃)を29歳の時に出生したとすると、120年生まれとなる。倭国乱が終結し、天孫族の大陸へ行くルートを確保したため安心して、広島の南宮神社あたりに隠居した。


※ 第8代孝元天皇  149年~182年  孝霊天皇不在中の臨時天皇


※ 卑弥呼 151年~248年 倭国の乱は早くとも147年からであるから、7歳の時158年頃に初期の乱に遭い逃げたと思われる。


※ 第9代開化天皇(倭建命) 157年~188年  倭建命と崇神天皇は異母兄弟。 享年30歳


※ 第10代崇神天皇 157年~258年 


6 開化天皇の皇居は鳥取県北栄町瀬戸の観音寺と思われる。


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北栄町島の宮崎神社の由緒に「倭建命は伊邪那岐・伊邪那美に神助を謝せられた」とある。御艦は瀬戸に泊めていたと思われる。開化天皇は皇子の時から瀬戸は知っていた。皇居をどこにするか聞かれて知っている瀬戸を選択したと思われる。瀬戸の観音寺から北栄町島が見える。


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瀬戸の観音寺に行くのに必ず道に迷う。迷わずにたどり着いたことがない。通り過ぎて行き止まりになったり、今度は大丈夫と思ってもいつのまにか遠ざかっていたりする。倭建命は準王一族(出雲族)と敵対していたから、容易に皇居に辿りつけないように迷路のような道路を造っていた。


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南を見れば大山・烏ヶ山・蒜山が見えるが、晴れた日は青く見える。当時は杉林はなかったと思われる。倭建命はこの青い山並みを歌に詠み「やまとは国のまほろば青垣山ごもれるやまとしうるわし」とうたった。


7 古墳


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 倭建命であり第7代孝霊天皇の皇子である。東国を従えるため、尾張に一大率として居たため皇居の比定は難しいが、古墳は湯梨浜町宮内の狐塚古墳のはずである。築造は五世紀始めとするが、形状が鳥羽市安楽島の卑弥呼の松の鼻古墳と同じように前方部が水側に向いており、卑弥呼の200mの半分の100mであり、後世生まれたところに築造したと思われる。1歳くらいの時にコブハクチョウにエサをやったはずである。


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瀬戸35号・36号墳の埋葬者は倭建命の子孫と思われる。35号墳は一人用の石棺に夫婦二人が埋葬されていた。頭骨はベンガラで朱色に塗られていた。奈良の藤ノ木古墳も同棺複数埋葬墓であった。奈良の法隆寺は由良(22)に皇居のあった聖徳太子(蘇我入鹿天皇)が建立した。


 


 


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神武天皇(紀元前112年生、紀元前60年即位)のいた四王寺山の近くから紀元前100年頃の遺跡が発掘された [日向三代と神武天皇四兄弟]

 神武天皇(紀元前112年生、紀元前60年即位)のいた四王寺山の近くから紀元前100年頃の遺跡が発掘された。

1 鳥取県倉吉市大谷の中尾遺跡より弥生時代中期(約2100年前)の竪穴建物跡12棟、掘立柱建物跡5棟が見つかった。

 倉吉市ホームページより
教育委員会事務局 文化財課 ―弥生時代中期の集落跡発見!― 中尾遺跡発掘調査 
 「倉吉市教育委員会では、平成27年(2015年)8月より中尾遺跡(倉吉市大谷)の発掘調査を行っており、弥生時代中期(約2100年前)の竪穴建物跡12棟、掘立柱建物跡5棟、古墳時代後期の円墳1基などを確認しました」とある。

2 遺跡の位置
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 中尾遺跡は神武天皇4兄弟の世話と守りをしていた大谷集落を隠すように取り巻く丘陵地の上にあり神武天皇4兄弟と同時期に建てられたものであると解する。

3 私見では「神武天皇の即位年は紀元前60年であり、神武天皇の生年は紀元前112年である」とする。


 神武天皇の4兄弟は鳥取県倉吉市の四王寺山(四皇子山 )におられたのであり、4兄弟の世話と守りをしていた大谷集落の近くの中尾遺跡で紀元前100年頃の12棟の建物跡が発掘された。発掘予定はないが、大谷集落の下には多くの紀元前100年頃の建物跡があるはずである。


4 神倭磐余彦(紀元前60年即位)が鳥取県倉吉市の四王寺山(山城)にいた証拠がまた一つ見つかった。長髄彦の一族が近くにいたので土塁を築いた。その土塁の上から国内最長の弥生時代中期(紀元前100年頃)の鉄矛が出土した。


 2020年11月3日付け日本海新聞に「国内最長の弥生鉄矛が出土した」の記事が載った。


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5(1)「内陸部にある同所が日本海側と瀬戸内海側とを結ぶ南北の物流交流ルートの拠点的な集落」とある。


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 海抜4mに海面があると、北条砂丘が笠沙之御前になるので、その頃は北面の前まで海岸が来ていた。山幸彦は新羅から一尋和邇に乗って一日で倉吉市北面まで帰ってきた。そして、四王寺山に上がり、本拠地にした。ウガヤフキアエズとは山幸彦のあだ名であった。四王寺山で神倭磐余彦の四兄弟を育てた。


 鉄矛は新羅から日本海を船で四王寺山に運ばれた。


(2)「見つかったのは実用品として使用されていない鉄矛・・・鉄矛は建物の柱穴の埋め土に突き立てられていたことから、儀式の一部として使用されたとみられる。・・・村上恭通センター長は『何らかの儀礼があったことはほぼ間違いない』と強調。・・・当時の祭祀研究が進展するとみる」とある。


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 関金の日吉神社は川に船が出せるようになっているので、饒速日は日吉神社より船着き場のある清熊稲荷神社のある峰まで船で降った。清熊稲荷神社の峰が哮峰であったから、饒速日はしばらく哮峰にいた。四王寺山の土塁の向きから長髄彦の一族(出雲族)は倉吉市富海(鳥見邑)にいた。長髄彦(海幸彦)の一族は饒速日を信奉していたので哮峰の近くの倉吉市富海を本拠地としていた。


 四王寺山にいたのは火火出見(山幸彦)であり、土塁が向いているのは倉吉市富海なので、倉吉市富海には火火出見(山幸彦)と敵対していた長髄彦(海幸彦)がいた。火火出見(山幸彦)は3年間新羅に逃げていた。しかし、父の邇邇芸がここは良き地なりと言っていたので、鳥取県中部を取り戻すために帰ってきた。鉄矛は新羅から直接運んできた。


 鉄矛は細いし、近くに敵対していた海幸彦(長髄彦)がいたので祭祀ではなく実用品として使用されていた。竪穴建物を焼失させたのは、敵対していた長髄彦(海幸彦)である。


 


 饒速日(哮峰)を信奉していた長髄彦の一族は現在、富海の対岸の倉吉市生田に住んでいる。倉吉市は生田に移り住んでいる長髄彦(海幸彦)一族が中心になってできた自治体である。


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