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千三百年の間、藤原氏に消されてきた伯耆国(鳥取県中西部)の真実の歴史が、今よみがえる。

古代の都は鳥取県にあった [まとめ]

  古代の都は鳥取県にあった
 
  結論だけを書きますので、理由はそれぞれのカテゴリをご覧ください。
 
今までの調査の結果です。
 
1 天照大神と徐福
⑴ 天照大神の名の由来
 第1次の徐福(紀元前219年)は米子市陰田町に到着し米子市尾高の大神山神社本社で大神と出会った。徐福は「東南の蓬莱山」(大山)に連れていかれ大神(伊邪那岐)の宮殿(鳥取県大山町大山の大神山神社奥宮)や「銅色の龍形の使者」がいて光が天を照らしている「光上照天」のを見た。
 第2次の徐福(紀元前210年)は多くの少年少女を大神の国に連れていき、その国で王(大神)となり帰ってこなかった(史記の淮南衡山列伝)。大神となった徐福は最初に見て感動した光景「光上照天」の「天照」を大神の前に付けた。
⑵ 徐福と天照大神の来倭コースは同じ
➀ 徐福の来倭コース(史記と徐福文書より)
 第2次の徐福(紀元前210年)は辰韓(新羅)にしばらくとどまったのち伯州(伯耆国)に渡った(王輯五の日支交通史より)。徐福は鳥取県の大山(蓬莱山)を見ながら海を東に進み、大山の裾野の小さな湾(橘の形をしていた初期の倭)に上陸した。徐福は鳥取県北栄町の大島と原(徐福文書の宇記島・原)に上陸し、蒜山高原(史記にある瀛州)に上がり仙薬を探した。
② 天照大神の来倭コース(神社の祭神と古事記より)
 天照大神と須佐之男は西の海から出雲の日御碕神社(祭神は天照大神と須佐之男)に到着し、途中、四ヶ所の日御碕神社を経由して、伊邪那岐が禊をして待っていた鳥取県北栄町の原(葦原中津国)に到着した。伊邪那岐は三貴神(天照大神)須佐之男・月読)と一緒に北栄町の大島(葦原中津国の中心)に行き、彼らが治めるべき国を命じた。また、一族を葦原中津国で天忍穂耳に育てさせるよう言依さした。
 天照大神は灘手神社に移ったのち、五神社すべてに天照大神を祀っている蒜山高原に上がった。須佐之男は朝日神社で泣いた。
③ 徐福も天照大神も来倭コースは同じである。どちらも、鳥取県北栄町の原と大島に上陸して蒜山高原(史記にある瀛州・徐福文書と国史にある高天原)に上がった。
⑶ 大神(伊邪那岐)は「名声ある男子と童女とさまざまな分野の技術者を献上せよ」と言った(史記より)。始皇帝は、探し求めていたのはこれだ、として三千人の少年少女と百工を集め船の準備もして旅立たせた。始皇帝はクロームメッキされた剣(始皇帝陵より)を作っているので、光が天を照らす電気の存在は知っていた。
 高天原は岡山県真庭市の蒜山高原と鳥取県江府町であった。
 大神(伊邪那岐)は徐福(天照大神)一族(徐福が連れてきた少年少女は三千人なので、産屋を千五百建てると伊邪那岐は言った。「毎日」とあるのは、もっともらしく思わせるための改ざん)を住まわす葦原中津国(鳥取県北栄町大島周辺)を造るため、蒜山高原より倉吉市の新宮神社に降臨した。
 伊邪那岐が伊邪那美から逃げて葦原中津国にたどり着くまでの黄泉(黄泉→津)比良坂は黄泉国(鳥取県倉吉市不入岡)から葦原中津国(鳥取県北栄町原)までの主に鳥取県道23号線であった。
 伊邪那岐(大神)が禊をした「竺紫日向之橘小門之阿波岐原」は鳥取県北栄町の原であった。伊邪那岐(大神)は鳥取県北栄町の原で天照大神(徐福)を待っていた。天照大神(徐福)は伊邪那岐(大神)の命令で蒜山高原(史記にある瀛州・国史と徐福文書にある高天原)に上がった。
 紀元前194年頃、殷王朝の末裔の準王一族(出雲族)が鳥取県中部を占拠したので、徐福は約束の地を取られまいとして蒜山高原(瀛州)から降臨し、「平原」(琴浦町の伊勢野・鈴鹿野・斉王野・方見邑)と「広沢」(北栄町大島周辺)を得て王(大神)となった(司馬遷の史記)。
 天照大神は江戸時代まで男性であった。天照大神は道教の方士徐福である。徐福は最初に見た「光が天を照らす」情景に因んで自ら「天照大神」と名乗った(史記より)。月読は保食神であり女性である。
 神社神道のルーツは同じく鏡を祀る道教にあるが、始祖の天照大神が道教の方士であったからである。日本の神社庁は神社神道のルーツに対し、口にチャックをする。
 日本は倭国を乗っ取ってから(734年)、倭朝廷を慕っていた民衆に団結され抵抗されることを最も恐れていたし、今も恐れている。民衆を信用させ従わせるためには、良い政治をして民衆に信頼されていた倭朝廷と連続している(万世一系である)、と洗脳・マインドコントロールしなければならなかった。しかし天照大神が中国人であることを隠さないと、中国に対して頭が上がらないので、隠さなければならなかった。
 天照大神が紀元前210年に中国から鳥取県に渡来した徐福であることを隠すために、蓬莱山は鳥取県の大山であるのに富士山が不二蓬莱山であるとしたり、高天原は蒜山高原と大山の麓であるのに富士山の麓あるいは雲の上にあるとしたり、神武元年を600年古くして紀元前660年としたり、神武の前にウガヤフキアエズ王朝が72代続いたとしたり、天照大神は女性である、とした。
2 須佐之男と大国主
 須佐之男は葦原中津国(倉吉市谷の朝日神社)で泣いてから蒜山高原(高天原)に上がり、天照大神と米子市淀江町高井谷の天真名井でうけいをした。その後、海原(倉吉市中心市街地)の近くの三朝町山田(ヤマタ)にいた始皇帝の追っ手(八岐大蛇)を退治した。八岐大蛇は第一次の徐福一行(紀元前219年)を追ってきた始皇帝の家来たちであった。
 須佐之男は始皇帝の追っ手(八岐大蛇)を退治してから稲田姫とその両親と三朝町助谷(助谷ぼうき)・真庭市中和を経由して蒜山高原の長田神社に上がり、天叢雲剣を天照大神に渡して事情を話した。須佐之男は天照大神や天穂日とともに更なる追っ手から逃げた。伊邪那岐を追って、鳥取県智頭町(木国)の那岐邑の近くの鳥取県八頭町大江郷に稲田姫と住み、大国主を生んだ。
 天照大神も始皇帝の追っ手から逃げるため鳥取県河原町の霊石山と氷ノ山に行った(伝承が残っている)。始皇帝が亡くなったことを知って天照大神は最初に命じられた蒜山高原に、須佐之男は須勢理姫(宇迦之御魂)とともに最初に命じられた根国(倉吉市中心市街地)に行った。須佐之男は倉吉市(根国)の清熊稲荷神社の峰(哮峰)で須勢理姫(宇迦之御魂)と住んだ。
 殷王朝末裔の箕氏朝鮮の準王一族(因幡の白兎伝説における大国主の兄の八十神)は徐福たちに16年遅れて出雲国、伯耆国、因幡国に到着した。琴浦町の方見郷(建御名方)・北栄町の葦原中津国(事代主)にも住んだ。
 大国主が冒険した根国(黄泉国)は鳥取県倉吉市であった。大国主は須勢理姫を背負って黄泉比良坂の麓(倉吉市不入岡)から宇迦能山(北栄町茶臼山=伊那佐山=大神山)に行った。大国主は琴浦町の方見郷・北栄町の葦原中津国に住んでいた準王一族の建御名方や事代主を蹴散らして従わせた。
 饒速日・天忍穂耳たち大勢が降臨してきたので、須佐之男(天神の御祖神)は倉吉市(根国)の清熊稲荷神社の峰(哮峰)で十種神宝(須勢理姫が大国主に使った比礼を含む)を饒速日に与えた。そして、天忍穂耳に一人になった大国主の国造りに協力してくれるように頼んだ。
 須佐之男は東山神社に移り、大蛇を斬った剣を天神川の対岸の大原神社に奉納した。倉吉市大原を石上といい、石上神宮は倉吉市大原の大原神社であった。
 須佐之男の子の大国主が完成させた葦原中津国は鳥取県北栄町にあった。そこに大年神や兄の八十神(準王一族=出雲族)と一緒に多くの妻子を住まわせていた。大国主(八島士奴美神)は須勢理姫(宇迦之御魂)と一緒に北栄町の茶臼山(伊那佐山=宇迦能山=大神山)に住み、茶臼山の松樹庵を本拠地として少彦名(雲南省出身)とともに、全国の国造りをしていた。
 伊邪那岐や大国主のいう国造りとは、人口を増やすことであり、そのための育児・食育の環境を整えることであった。鳥取県中部は東アジアの全域(北から南まで)から移民を受け入れていた(青谷上寺地遺跡の人骨のDNA解析より)。
3 天孫降臨
 伊邪那岐(大神)は一族を葦原中津国で天忍穂耳に育てさせるよう言依さしていたので天忍穂耳が降りてみたところ、葦原中津国 は準王一族(出雲族)に占拠されていて、大変騒がしかった。思兼神と八百万神は「天安河原」で相談することにした。「天安河原」は蒜山高原の西隣の鳥取県江府町下蚊屋明神の地である。思兼神は江府町貝田神社から来た。天照大神など八百万神は蒜山高原から来た。須佐之男の子の大国主を生まれた時から守っていた天穂日を大国主のもとに行かせることにした。天穂日は出雲族(事代主・建御名方)の王(登美の長髄彦)に会いに行き安来市に住んだ。
 天孫降臨は、天孫饒速日と天孫邇邇芸の2回行われている。はじめは、妻子のいた饒速日の降臨であった。饒速日・天照大神・月読(保食神)・五伴緒・思兼神・豊受姫(倉稲魂)・天香語山・和久産巣日など大勢は鳥取県江府町下蚊屋で合流し、猿田彦の待っていた江府町鏡ヶ成より野添経由で倉吉市関金町の神田神社に到着した。
 饒速日は船で日吉神社から小鴨川を下り、倉吉市(根国)の清熊稲荷神社の峰(哮峰)に降臨した。哮峰で天神の御祖神(須佐之男)から十種神宝(比礼を含む)を授かった。
 天忍穂耳は関金町耳から船で(櫛玉)饒速日と一緒に哮峰に到着した。哮峰にいた須佐之男は少彦名の居なくなった大国主に協力してくれるよう天忍穂耳に頼んだ。天忍穂耳は猿田彦と一緒に哮峰から船で茶臼山の東の海に行き、猿田彦が鏡で照らしてから大国主に会った。
 天忍穂耳(大物主)の本拠地は大国主のいた茶臼山の西の北栄町下神の三輪山(神山)であった。猿田彦の本拠地は隣の北栄町松神であった。大物主(櫛甕玉)とは(櫛玉)饒速日の父の天忍穂耳であった。少彦名のいなくなった大国主と協力して移民を受け入れ、各地に住まわせた。
 天孫族の使いが国譲りの交渉にやってきた伊那佐小浜は鳥取県北栄町の茶臼山(伊那佐山=宇迦能山=大神山)にあった。
 大国主が建ててもらった高い宮殿のあった多芸志小浜は鳥取県湯梨浜町長瀬高浜にあった。笠沙之御前(北条砂丘)の中央と東端である。
 饒速日は倉吉市寺谷にいた天若比古に使いを遣ったあと、倉吉市の夏谷(鳥見の白庭山のちに天香久山)に降臨し定住した。
 天照大神・月読(保食神)一行は神田神社から伊勢野の天照皇大神宮(鳥取県琴浦町斉尾)と外宮の月下の宮(鳥取県琴浦町槻下)に降臨した。建御名方は琴浦町の方見郷(加勢蛇川周辺)に居た。
 饒速日は天穂日の縁結びで出雲族(準王一族)の王(のちに大国主と名乗る)である登美の長髄彦(海幸彦)の妹を娶った。登美の長髄彦(海幸彦)も倉吉市富海(鳥見邑)に住んだ。
 饒速日が亡くなったので、四歳の邇邇芸は猿田彦の道案内で、蒜山高原の加茂神社、関金町の矢送神社、倉吉市高城の楯縫神社を経由して北栄町上種の大宮神社(日向)に降臨し、葦原中津国を平定した。邇邇芸は葦原中津国で生まれた出雲族の子供が成長するまで楯縫神社で待っていた。
 葦原中津国に住んでいた事代主と百八十神(出雲族の八十神が子供を産んで百八十神となった)は、倉吉市福庭を経由して湯梨浜町長和田(湖の畔)に移りそこで余生をおくった。
 「笠沙之御前」は鳥取県の北条砂丘であり、「葦原中津国」は鳥取県北栄町大島を中心にした地域であった。
 饒速日と一緒に降臨して天香語山を育てていた豊受姫(倉稲魂)は、邇邇芸と同じ時に月下の宮(鳥取県琴浦町槻下)に行っているので、四歳の邇邇芸も豊受姫(倉稲魂)が育てた(神社の祭神より)。
 猿田彦一族は蜘ヶ家山(鳥取県北栄町)に住んでいた縄文人である。
 邇邇芸と木花之佐久夜毘売(豊玉姫)の子の火火出見(鵜草葺不合=山幸彦)は、倉吉市富海にいた登美の長髄彦(海幸彦)に無理難題を言われたので、辰韓に行き玉依姫と知り合った。火火出見(鵜草葺不合=山幸彦)は倭国に帰り、倉吉市大谷の四王寺山(日向)を本拠地とした。火火出見(鵜草葺不合=山幸彦)と玉依姫との間に神武四兄弟が生まれた。
4 神武天皇
 神武四兄弟は倉吉市大谷の四王寺山 (畝傍山・日向)で育った。神武四兄弟は九州平定のため、また二男と三男が大陸に渡るため、日本海沿いに九州に行った。北九州市山寺町一宮の旧岡田宮に到着し、飯塚市の立岩地域・福岡市の四王寺山・大宰府を本拠地にして、春日市・吉野ヶ里などの北部九州にいた殷王朝末裔を長崎まで平定していった。北部九州で発掘される石包丁は立岩産なので、食物を肉ではなく米にさせるため、稲作を普及させていったのがわかる。
 四兄弟の目的は殷王朝末裔の準王一族(鬼・土蜘蛛・蝦夷)を平定することであった。宮崎県から奈良県に行く神武東征は霞会館(藤裔会)によって作り替えられた創作物語である。
 九州平定後、五瀬と磐余彦は倉吉市清谷(草香の入江、清谷は戦前まで日下村であった)に帰ってきたが長髄彦の矢があたり、五瀬は鳥取県智頭町(木国)で亡くなった。磐余彦は広島県福山市まで退却し福山市を本拠地にして倭国(鳥取県中部)を取り戻す機会をうかがっていた。磐余彦は茨木市(摂津国)の東奈良遺跡に行き銅鐸絵画ではなく縄文人の風習であった土器絵画にするよう指導した。しかし奈良までは行っていない。
 磐余彦は明石で出会った椎根津彦を連れて岡山県の旭川沿いに蒜山高原(高天原)に上がり饒速日と同じ鏡ヶ成から野添経由で倉吉市高城地区(上大立)に下りて、穿って道(下見関金線と円谷広瀬線)をつけ、留守の間に倭国(鳥取県中部)を占拠していた準王一族(出雲族)を平定し、初代天皇として紀元前60年に倉吉市大宮(橿原宮)で即位した。楯縫邑(倉吉市高城地区の大立)と笠縫邑(琴浦町八橋)もその時に開いた。         神武天皇は情報戦・ゲリラ戦を展開していた。
 三男の御毛沼は常世国(中国雲南省)に渡り倭国への移民渡来コースを九州経由ではなく辰韓(新羅)経由に変更させた。殷王朝末裔の準王たちは移民をとらえて殷王朝から続く生贄にしていた(福岡県の宝満川流域の多数の首のない甕棺や山口県の土井ヶ浜遺跡)。
 二男の稲飯は辰韓に行き紀元前57年に新羅を建国した。神武天皇はヤマト(倭)国の国号を「徐ラミツ」とし、稲飯は新羅国の国号を「徐ナバル」とした。
5 欠史八代
 欠史八代の天皇は鳥取県中部にいた。第2代綏靖天皇の皇居は北栄町蜘ヶ家山(葛城山)の岡神社。第3代安寧天皇の皇居は湯梨浜町橋津観音堂。第4代倭国大王懿徳天皇(在位40年~75年頃)は奈良を平定し、銅鐸祭祀の一族に線刻土器祭祀を始めさせた。また、初めての中国への朝貢を倭奴国(倭国に従う国)にさせた。奈良を平定したのは神武天皇ではなかった。皇居は倉吉市小田山。
 第5代孝昭天皇は倉吉市穴沢の灘手神社。第6代孝安天皇は北栄町大島(灘手が秋津のトナメに見える)。第7代孝霊天皇(在位145年~170年頃)は湯梨浜町宮内の倭文神社。第8代孝元天皇(卑弥呼・大吉備津彦・若日子武吉備津彦の腹違いの兄)の皇居は倉吉市小田。第9代開化天皇(若日子武吉備津彦=倭建命)の皇居は北栄町瀬戸の観音寺。
 欠史八代の皇居は奈良の石碑だけとは異なり皇居を中心にした集落単位で想定できる。
 倭国王家は初代神武天皇から第10代崇神天皇が全国に神道の社を建てて統一するまで、準王一族(出雲族)と対立していた。準王一族は生贄の風習を残す殷王朝末裔であり、かたや人命を大事にして人口を増やしたい倭国王家である。準王一族の祭祀を変えるまで相いれることはなかった。倭国歴史書を改ざんしたのも半島に残っていた準王一族(百済人=藤原氏)であった。同族が平定される様を残せなかったし、神武東征との整合性から2代から9代までの旧辞は消した。
6 邪馬台国と卑弥呼
 倭国大乱の原因は孝霊天皇をめぐる出雲族の姫たちの嫉妬であった。卑弥呼は第7代孝霊天皇の皇女・日女命又の名は倭迹迹日百襲姫命である。稚日女命と倭姫命は霞会館(藤裔会)に名前を変えられた卑弥呼であった。内藤湖南(倭姫説)と笠井新也(倭迹迹日百襲姫説)はどちらも正しかった。霞会館(藤裔会)の国史改ざんとフィクションの創作によって混乱が生じていた。
 卑弥呼の出身は鳥取県湯梨浜町宮内(黒田庵戸宮)である。
 魏志倭人伝に「倭の地ではその身体に朱丹を塗る」とあるが、鳥取県中部の古墳から出土した人骨42体(歯のみは省略)のうち11体(26%)は朱を塗った状態で亡くなっている。
 魏志倭人伝に「倭人の俗は、儀式や行事を行い、何かを言ったり行ったりする時は、骨を灼いて卜し、以って吉凶を占う」とある。青谷上寺地遺跡で全国で一番多い240点の卜骨が出土した。
 倭姫命世紀にある豊鋤入姫が巡った「倭の」笠縫邑は鳥取県琴浦町八橋であった。「倭の」彌和の御室嶺の上の宮は鳥取県北栄町下神の三輪神社であった。「倭」は鳥取県中部であった。
 倭国大乱は鳥取県を中心にした出雲族の反乱であった。倭姫(卑弥呼)と倭建の皇軍は鳥取県の出雲族(鬼・土蜘蛛・河童・蝦夷)を平定して倭国大乱は終結した。その後、倭姫(卑弥呼)と倭建の皇軍はさらに、西は長崎県・朝鮮半島、東は岩手県奥州市永岡神社までの広範囲を平定した。
 全国に社を建てて銅鐸祭祀を銅鏡祭祀の神道に改宗させた。全国の代表者を集めての祭祀は鳥取県北栄町下神の神浅茅原していた。その時、開化天皇や崇神天皇は豊田市の猿投神社に、倭迹迹日百襲姫は神戸市の旧生田神社にいた。
 しかし、鳥取県中部は東国から遠いため神道の祭祀は奈良の纒向ですることにした。しかし、奈良盆地には平定されたとはいえ敵対していた殷王朝末裔の準王一族(銅鐸祭祀の一族)が多く居たため、卑弥呼の安全な居所を探さなければならなかった。宇陀を出発し志摩国までめぐる「倭姫命世紀」は卑弥呼の安全な居所を探す巡行であった。
 卑弥呼(151年~248年)の居所は志摩国に定めた。魏志倭人伝に「南の邪馬壹国に至る。女王が都とするところ」とある。女王はそれまでの都(鳥取県中部)を離れて新たに邪馬壹国(志摩国)を都とした。邪馬台国は志摩国(志摩市・鳥羽市)であった。その時はまだ霞会館(藤裔会)の創った邪馬台国(志摩国)を封印するための伊勢国・伊勢神宮(大宮司は霞会館(藤裔会)が決定する)はなかった。
 奈良盆地の集落の環濠を埋めさせたのは190年頃である。卑弥呼が奈良の纒向で祭祀をするときは、伊勢神宮を通り・櫛田川沿いに高見峠を越えて吉野町宮滝経由で纒向に行き、帰りは和歌山の玉津島神社から船で何日もかけて伊射波神社まで帰った。卑弥呼の墓は鳥羽市安楽島町の「松の鼻古墳」である。
 伊勢神宮は、邪馬台国を封印するため、卑弥呼が纒向へ行く御幸ルート上に建てられた。明治期に入り、纒向と同じように神道の代表者を集めての研修・祭祀を伊勢神宮で始めた。
 台与は豊鋤入姫であり彦太忍信の娘の葛木志志見興利木田忍海部刀自(かつらぎししみよりきたおさかいべとじ)であった。第12代倭国王の屋主忍男武雄心の妹となる。第12代の妹は倭姫ではなく豊鋤入姫であり、神功皇后のモデルであった。豊鋤入姫は甥の武内宿禰と一緒に行動していた。豊鋤入姫は都を鳥取県中部(倭)に戻し、倉吉市鋤集落を本拠地にした。
7 10代以降の倭国王の宮
 第10代崇神天皇(大吉備津彦、卑弥呼の弟・湯梨浜町長和田)と第11代垂仁天皇(湯梨浜町川上)は師木地方(鳥取県湯梨浜町)に皇居があったが出先(岡山県の木国=津山と久米=大宮)を中心に活動していた。第12代は屋主忍男武雄心大王(奈良県纒向日代宮)。第13代は武内宿禰大王(北栄町原)。叔母の豊鋤入姫と行動。第14代は仁徳天皇(13代の第4王子・平群木菟宿禰・湯梨浜町松崎神社)。第15代は応神天皇(13代の第6王子・葛城襲津彦・倉吉市穴窪と湯梨浜町小鹿谷)。第16代は履中天皇(15代の第1王子・讃・北栄町米里)。第17代は反正天皇(15代の第3王子・珍・倉吉市福庭の波波伎神社)。第18代は允恭天皇(15代の第4王子・済・倉吉市福庭の波波伎神社)。第19代は安康天皇(興・倉吉市大原)。第20代は雄略天皇(武・倉吉市長谷寺)。第21代は清寧天皇(北栄町米里)。
 第22代は仁賢天皇(倉吉市大原)。第23代は武烈天皇(倉吉市打吹山)。第24代は継体天皇(北栄町米里)。第25代は安閑天皇(三朝町大瀬)。第26代は蘇我稲目大王(湯梨浜町龍島と倉吉市大江神社)。第27代は蘇我馬子大王(北栄町北条島)。第28代は蘇我入鹿(善徳)大王(北栄町由良宿)。第29代は蘇我倉山田石川麻呂大王(湯梨浜町長江)。
 景行・成務・仲哀・顕宗・仁賢・武烈・継体・宣化・欽明・敏達・用明・崇峻・推古・舒明・皇極・孝徳・斉明・天智・持統は倭国王ではなく百済王であった。舒明までは朝鮮半島の百済に住んでいた。百済王の古墳は方墳・六角墳・八角墳であり、倭国王の古墳は円墳・前方後円墳であった。
 第30代は天武天皇(倉吉市賀茂神社)。第31代は高市大王(キトラ古墳・皇居は鳥取県中部)。第32代は忍壁大王(高松塚古墳・皇居は鳥取県中部)。第33代は穂積大王(皇居は鳥取県中部)であった。第34代大王(皇居は倉吉市の北野神社)は安全のため鳥取県中部にいた。
 菅原道真の出身地は倉吉市の北野集落である。
8 倭国王の宮・神社・地名の強奪
 ➀葛城 ②軽 ③磯城(師木) ④難波 ⑤磐余邑 ⑥石上神宮 ⑦泊瀬(長谷) ⑧出雲大社 ⑨大神神社 ⑩伊勢神宮 ⑪河内国 ⑫宇陀 ⑬生駒山は鳥取県中部(倭国)にあった。なんでも強奪することに喜びを感じる亡命百済王朝(日本)はこれらの地名や神社を鳥取県中部(倭国)から強奪し、同族が多くいた奈良県・島根県・宮崎県・三重県・大阪府南部・和歌山県に移した。
⑴ 古代倭国王の宮は以下にあった。
➀ 2代は葛城高岡、5代は葛城掖上、6代は葛城室之秋津島、の
「葛城」とは鳥取県北栄町の蜘ヶ家山と北栄町の大島。
 葛城の地名由来は、神武天皇の家来が土蜘蛛を葛木のつるで捕らえて殺したから。土蜘蛛が居たのは蜘ヶ家山麓の曲中央の荒神神社。葛城邑は曲中央。
② 4代は軽之境岡、8代は軽之堺原、15代は軽島之豊明、の
「軽」とは、倉吉市上北条地域。軽の対岸は河内国であり天神川が境となっている。軽之坂上の厩で新羅から献上された良馬を飼育させたところは倉吉市馬場町である。「厩坂」が確認できる。
③ 10代は師木水垣、11代は師木玉垣、29代は師木島大宮、の
「師木(磯城)」とは、鳥取県湯梨浜町東郷池周辺。
 雄略天皇が誰の家か尋ねた師木県主の住んでいた鰹木を上げた家の埴輪が鳥取県湯梨浜町長瀬高浜から出土した。3代は師木津彦なので師木には津が無くてはならないが、当時長瀬高浜は津(東郷池)に囲まれていた。師木(磯城)県主の初代は神武が命じた弟磯城。弟磯城・兄磯城は事代主とともに国譲りで湯梨浜町長和田(磯城邑)にいた。
④ 15代は難波大隅、16代は難波高津、36代は難波長江、の
「難波」とは、鳥取県湯梨浜町東郷池周辺。
 鳥取県湯梨浜町の東郷池は海面が海抜4mにあったとき波が真っすぐに届く地域(波延)と複雑な波が来る地域(難波)に分かれていた。北山古墳より西(長和田など)が波延であり、北山古墳より東が難波である。
⑤ 17代は磐余稚桜、22代は磐余甕栗、26代は磐余玉穂、31代は磐余池辺双槻、の
「磐余」とは、鳥取県北栄町米里・北条島。
 神倭磐余彦は兄磯城の軍と戦っていた。この戦に勝てるかどうか占うために家来二人に「蓑」を着させて天香具山(土下山)の赤土を取って下させた。土を取って下りたところが北栄町の土下集落である。「蓑原」という姓も残っている。
 磐余の旧地名は片立・片居であった。海抜4mに海面のあった時代は北栄町米里・北条島の中央は汽水池であった。片方しか立ったり住んだりできなかった。北栄町米里・北条島地域は神倭磐余彦の痕跡が残る天香具山(土下山)と葛城山(蜘ヶ家山)に挟まれている。ここに神倭磐余彦の兵はあふれた。
⑥ 20代は石上穴穂、24代は石上広高、の
「石上」とは、倉吉市大原。
 宇摩志麻遅は高天原から神倭磐余彦を追って家来となり、石上を本拠地にするが、鳥取県江府町江尾から穿邑(倉吉市上大立)を通って倉吉市大原まで至ったルートが再現できる。鳥取県中部を流れる天神川の河口には江戸時代まで石山(いそのやま)があった(国土交通省の資料より)。倉吉市大原は石山(いそのやま)の上(上流)にあったから石上(いそのかみ)である。石上の東側は丘陵地だった、という条件も満たす。
⑦ 21代は泊瀬朝倉、25代は泊瀬列城、の
「泊瀬」とは、倉吉市の打吹山と中心市街地。
 雄略天皇は泊瀬の山は美しい、と歌った。奈良の泊瀬山は何処にあるのかわからない。泊瀬朝倉宮の候補地は奈良に2ヶ所あるが、学者はどちらもおかしいという。打吹山の近くの湯梨浜町長瀬高浜から鰹木を上げた家形埴輪が出土した。雄略天皇は磯城大県主のいた湯梨浜町長和田の近くの倉吉市打吹山の長谷寺に皇居を置いていた。天武天皇が修行をした泊瀬の斎宮は倉吉市の大御堂廃寺であった。
⑶ 神社・地名の強奪
⑧ 「出雲大社」はタギシにあったとされるが、タギシは鳥取県湯梨浜町長瀬高浜にあった。大国主(大黒天)はそこに四本柱の高い建物を建ててもらい、新羅から出港した移民船を向かい入れて、移民が住むところを指示した。そのあと大国主と少彦名は移民の定住した各地を訪れ、衣食住のアフターケアもした。出雲大社は大己貴(別名多し)を祀っているが、これは出雲族の王に付けた代名詞であり、17代にわたって使用された(謎の出雲帝国より)。大己貴は少彦名と一緒に西日本を巡った大国主(大黒天)ではない。
⑨ 「大神神社」は北栄町下神の三輪神社跡にあった。大物主(天忍穂耳)が住んだ倭の青垣(葦原中津国の入口の瀬戸と原)の東の山にあたる。豊鋤入姫が巡行した6ヶ所の最後は大神神社であり、倭姫命世記には「倭の彌和乃御室嶺上宮」と記載されているが、上とは方角で南を意味する。下神の三輪神社跡は三輪山(彌和乃御室嶺)の南(上)にあたる。
 江戸時代に火災で焼失し、土下に移されたが、奈良の三輪神社の系列なら同じところに再建するはずである。本物が邪魔と思う支配者による放火である。出雲大社のモデル(長瀬高浜)と大国主の本拠地(国坂神社)と三輪神社跡を結ぶ道路(大国主と大物主が行き来していた)が今も残っている。
⑩ 「伊勢神宮」は鳥取県琴浦町伊勢野にあった。この辺りには伊勢野・鈴鹿野・斎王野などの地名があった。上伊勢・下伊勢の地域もある。伊勢崎小学校もあった。現在の伊勢神宮と同じく、明治維新まで天照皇大神宮と称していた(方見神社由緒より)。ここには、生きていた天照大神(徐福=斎王)が蒜山(高天原)より降臨していた。
⑪ 「河内国」は、北は湯梨浜町田後から南は倉吉市上余戸までであり、河は西を流れる天神川であった。戦前まで倉吉市清谷から上井まで日下邑であった。日下邑は河内国の中にあったとされる。18代19代の丹比柴籬宮は倉吉市福庭(日下邑)の波波伎神社にあり、若日下部王と大日下王が住んでいた。
⑫ 「宇陀」は倉吉市の高城地区。
 高城地区の上大立が穿邑。上大立が起点の県道313号線は草木を穿ってつけた道。倉吉市下福田の阿弥大寺古墳は竹田県主に抜擢されたが、のちに主水部となった弟宇迦斯一族(出雲族)の古墳。
⑬ 「生駒山」は倉吉市の大平山。
雄略天皇は若日下部王に求婚するために生駒山に来て鰹木を屋根に上げた家を見つけた。その家は磯城にあった。奈良の生駒山から磯城邑までは17㎞。家の形はわからない。
 鳥取県の大平山からは湯梨浜町長和田(磯城邑)の家の形が見える。若日下部王は18代・19代の宮(丹比柴籬宮)であった倉吉市福庭の波波伎神社にいた。
 この地域は戦前まで日下邑であった。大平山から仁徳天皇(平群木菟宿禰)の宮のあった湯梨浜町松崎神社(難波高津宮)の山(平群山)が見える。平群山に行くまでの間に、雄略天皇が若日下部王と○○をしたいと歌った竹藪が十数か所見つかる。若日下部王は「日を背にして来られたので貴い人でしょう。受けましょう」と言った。若日下部王がいた倉吉市福庭の隣の清谷(草香で五瀬は矢に当たった)には神武天皇の伝承(我々は日の神の御子だから、日に向かって戦うのは良くない。廻り込んで日を背にして戦おう)が残っていた。
9 倭国と日本
 642年から734年まで列島には倭王朝と亡命百済王朝(日本)が並立していた(旧唐書・倭国日本伝より)。舎人・新田部・藤原四兄弟は734年に倉吉市の北野神社にいた倭国第34代大王を殺害した。天照大神から続いてきた姓が天(アマ)の大王は734年で途絶えた。倭国と兄弟国であった新羅の刺客は舎人・新田部(735年)と遣新羅使(736年)と藤原四兄弟(737年)を殺害した。新羅には八百年の間兄弟国として助け合ってきた倭国大王の仇討をする正当な理由があった。
 紀元前60年の神武天皇の即位から734年(長屋親王の変は729年)まで約八百年の間、列島は倭(鳥取県中部)に従属していた。
 1200年の間、ヒスイが忘れ去られていた(フォッサマグナミュージアムより)のは、日本と倭国は別の王朝であったからである。
 百済からやってきた王朝(日本)は、日本国史に、倭国王を「大臣」とか「豪族」と記した。
10 集団催眠
 これほど何もあったのに、まるで催眠術にかかったように「鳥取県には何もない」という言葉が鳥取県民から出てくる。この状態こそ藤原道長が思い描いていた望月の欠けることのない状態である。そのためにすべての証拠を消し去っていった。証拠となる人間も引きずり出して公開処刑し「鳥取県には何もない」という言葉を植え付けた。
 奈良時代から京都(平安)時代に宮崎県・島根県・奈良県・三重県・和歌山県に大きくて立派なテーマパークを造り、これほど大きくて立派な神社や遺跡があるのだから、お前の言うことは嘘である、として殺していった。これが勝者の歴史作りである。
 奈良国立文化財研究所の研究員が「これ以上鳥取県で遺跡が見つからないでほしい。古代史の定説が覆ってしまう」と言った。しかし、鳥取県民は長瀬高浜遺跡や妻木晩田遺跡や青谷上寺地遺跡が発掘されてもほとんど無関心である。まるで古代史に触れることがタブーであるかのように。
11 仏教の公伝
 新羅の法興王(在位514年~540年)は仏教を倭国(鳥取県中部)に公伝した(538年)。
 東郷池の師木島の大宮で蘇我稲目大王は法興王からの仏像を受け取り祀っていたが、鳥取県中部に疫病が流行ったので難波の堀江(東郷池の引地)に捨てた。
 しかし、奈良で仏教を興すように遺言していた。その子(馬子)と孫(善徳)は新羅の皇龍寺をモデルにして奈良に法興寺(飛鳥寺)を建てた。
 四天王寺は蘇我入鹿(聖徳太子)の祟りを封じるためと、日本海側に四王寺を建てたように新羅の刺客から守るために聖武天皇(百済王)の時代に建立された。
12 蘇我馬子大王と蘇我善徳大王
 蘇我馬子大王は「百済が倭国侵略を企んでいる」との日羅の進言(583年)に基づき、百済を警戒していた。百済の不穏な動きがあったので百済に侵攻し平定した(587年)。捕虜は273人いた。日本(百済)は倭国を乗っ取ってから、この事件を蘇我馬子と物部の宗教戦争に置き換えた。丁未の乱は作り話であった。592年には百済王の崇峻も殺された。
 蘇我馬子大王は日羅の進言に基づき、任那(全羅南道)を侵す百済に対して、王か王子が倭国に来るよう求めていた。
 人の好い蘇我入鹿(善徳)大王に代わった631年、百済王武は、唐の倭国使高表仁が百済を通る時に豊璋と塞上を倭国に連れて行くように頼んだ。中大兄王子(豊璋)は6歳で、弟の塞上とともに鳥取県北栄町由良の蘇我入鹿(善徳)大王の皇居(由良の宮)に来た。
 驚いた蘇我入鹿(善徳)大王は高表仁の非礼をとがめた。中大兄王子(豊璋)は由良の宮(百済からは東宮)に来る前から教えられていた殷王朝が滅ぼされた兵法書の六韜に基づいて蘇我入鹿(善徳)大王を徹底的におだてた。人の良い蘇我入鹿(善徳)大王は、中大兄王子(豊璋)と塞上を大海人王子と同じように育てた。蘇我入鹿(善徳)大王は、隋の裴世清たちが蘇我馬子大王に北栄町北条島で謁見した時の話を聞かせていた。中大兄王子(豊璋)は後に「日出ずる処の天子・・・」の話を「日本」の参考にし、「大国維新之化を教えて欲しい」の話を「大化の改新」の参考にした。
13 大海人皇子と中大兄皇子(豊璋)
 中大兄皇子(豊璋)の母(641年に亡くなった百済王の武王の妻で皇極・斉明)と鎌足(翹岐)は、高名な40人を乗せた百済からの船で奈良に到着した(642年)。中大兄皇子(豊璋)は法興寺での蹴鞠の会(643年)で鎌足(翹岐)に出会って奈良に住んだ。
 高句麗と百済は殷王朝が滅ぼされた兵法書「六韜」に基づいて行動していた。645年に、中大兄皇子(豊璋)と鎌足(翹岐)は談山(テロリストのアジト)で計画したとおり、「豊璋(天智)の母(皇極)が会って礼を言いたい」と欺いて呼び出し、聖徳太子こと蘇我善徳大王を斬首した。
 蘇我善徳は天武天皇の父であった。またの名の関係は次のとおりである。
(父)聖徳太子=蘇我入鹿(蝦夷)=蘇我善徳
(子)山背大兄皇子=古人大兄皇子=大海人皇子(蘇我果安=天武天皇)
 これでわかることは「天武天皇は乙巳の変の現場にいた」ことである。この時、大海人皇子と中大兄皇子は二十歳前後の兄弟だから、半島からの調の儀式のような国家的な行事には一緒に出席していた。国史は故意に消しているが、乙巳の変が倭国王を殺したテロであることを隠すためである。
 山背大兄皇子殺害事件は乙巳の変というテロ行為を正当化するために創作された一人三役・四役の創作物語であった。
 647年に倉吉市大原の石上神宮の武器と宝物を「蘇我倉山田石川麻呂大王が奈良は物騒だからと言った」と欺き奈良に移した。蘇我善徳大王の大海人皇子(天武天皇)は649年に鳥取県倉吉市の賀茂神社を皇居として即位した。
14 天武天皇と天智天皇
 660年、残りの百済王族も列島に亡命した。天智と鎌足は天武天皇に額田王と十市皇女と引き換えに大田皇女と鸕野讃良を差し出した。
 天武天皇も役行者も大来皇女も長屋親王も泊瀬の斎宮(倉吉市の大御堂廃寺)で道教を会得した。
 「日本」とは669年に百済人の天智(豊璋)が近江で考えた国号である。斬首した首を包んだ白い布を日本の国旗とした。
 天武天皇は鎌足の殺害(669年)後、その子3人(氷上娘・不比等・五百重娘)に罪はないとして引き取った。670年、天智は斑鳩寺・斑鳩宮を放火焼失させた。天武天皇は671年に父親と従兄殺しの犯人として天智を殺害したが、その娘2人に罪はないとして引き取った。その後、父の蘇我善徳大王(聖徳太子)の建立した斑鳩寺を法隆寺として再建した。
 日本書紀は壬申の「乱」とするが「乱」ではなく、神武天皇の時から倭国大王家が準王一族(蝦夷)の「乱」に対して行なってきた平定であった。
15 日本による倭国の乗っ取り
 藤原不比等は大王や側近を徹底的におだて、相手の判断が鈍ったところで毒殺した。不比等と鸕野讃良は大王や多くの要人を毒殺している。高市大王(在位686~696)、忍壁大王(在位696~705)、穂積大王(在位705~715)は在位期間が短いので暗殺されている。不比等のおだてを見ていた周囲の者は誰も不比等が犯人だとは気が付かなかった。亡命百済王朝(日本)は、助けてくれた倭王朝の恩を忘れて734年に安全のため倭(鳥取県中部)にいた大王(在位715~734)(大伴旅人や山上憶良の表記は大君)も殺害した。倭国は734年に滅んだ。
16 日本における隠れた支配者の仕組み
 全国に4万4千社ある八幡神社は倭王朝の伝承を消すために8世紀に日本(亡命百済王朝)の神社として始まった。倭姫命(卑弥呼)と崇神天皇が全国を平定するために始めた神社のやり方を真似て全国を支配するため、八幡神社を増やして全国の支配を拡げていった。八幡神社を全体の半分以上とし、3世紀に倭王朝(卑弥呼や崇神天皇)が始めた神道の社をも呑み込んで列島を支配した。倭王朝に虐げられていた準王一族(鬼・蝦夷)にも福付き姓に対抗して藤(百済(ほぜ))付き姓を与えた。準王一族は東北や出雲や阿蘇や高千穂に多い。霞会館(藤裔会)は現在、伊勢神宮(神社本庁の本宗)を頂点として全国8万5千の総ての神社を支配している。
 伊勢神宮の大宮司は霞会館(藤裔会)が決定する。日本赤十字社・中央共同募金会・社会福祉協議会のリーダーも霞会館(藤裔会)が決定する(国民から金を吸い上げる仕組み)。改ざんした古事記・日本書紀に基づいてテーマパークを建設する。神社の建築費・修理費・人件費などにも金を使う。霞会館(藤裔会)は宮崎県の神武会に金を渡し神武ゆかりの神社を多く建てさせた。
 自分たちの地位を脅かす者に対して、買収したり、社会的地位や肩書を与えて従わせるために金を使う。それでもだめなら、殺したり、放火をする。
 真実を隠すために、わざと間違った説を多く創る。高天原の候補地、伊邪那美の墓、小野小町や菅原道真の出身地などが多くあるのは彼らの仕業である。全国邪馬台国連絡協議会を組織したのも彼らである。真実は一つなのに邪馬台国の比定地は人の数ほどあるという。
 国民には百済国の歴史書である日本書紀を正史・国史としこれに反する言論・出版は戦前まで不敬罪により罰した。列島において斬首(豊璋=天智天皇)・暗殺(翹岐=藤原鎌足)を始めたのは倭国を乗っ取った百済人である。
 霞会館(藤裔会)は天皇を隠れ蓑にして最大権力を持ち続け、裏で歴史を動かしてきたが、歴史に名を残さないことが家訓であった。源平合戦、本能寺の変、秀吉の朝鮮征伐、西南戦争、多くの暗殺事件、大東亜戦争などは霞会館(藤裔会)が仕掛け人である。
17 霞会館(藤裔会)による江戸時代の証拠隠滅
⑴ 徳川光圀は1645年(正保2年)に、「史記の伯夷伝」を読んで感銘を受け史書編纂を志したが、12年後の1657年に小石川藩邸が消失した。
 同じ1657年に、霞会館(藤裔会)は石上神宮と多芸志小浜のヒントになる鳥取県中部の石山を砕いて開削する工事を始めた。史書編纂を志して12年経つ光圀も、石山が石上神宮と多芸志小浜のヒントになる、と指摘していたのではなかろうか。
 1700年代に入って霞会館(藤裔会)は記紀との整合性を図るために、西日本の各地で辻褄合わせをしている。赤磐市の石上布都魂神社の宮司の姓を物部に変えさせたのもこのころ。波波伎神社を倉吉市大原から福庭に移したのも元禄時代。
 漢委奴国王の金印(1784年)も霞会館(藤裔会)が仕組んだ偽造印である。
⑵ 北条八幡神社の由緒(昭和9年の鳥取県神社誌より)
 宝暦3年(1753年)、鳥取県北栄町下神の三輪神社(大物主=天忍穂耳が住んでいた)は火災により焼失。
 奈良の三輪神社の系列ならば、同じところに再建するはずである。また、三輪神社の祭神は大物主のはずだが、移転後の三輪神社の祭神は大国主と少彦名にしている。そして、大国主がいた近くの国坂神社の祭神から大国主を外し少彦名だけにした。
 この神社は無くなってほしいという霞会館(藤裔会)の思いが感じ取れるのでこの火災は放火によるものである。
 この地では神を「みわ」と読む習わしであった。「みわ」のルーツは奈良ではなく鳥取県中部にあった。
 大神郷の「大神」とは史記にあるように徐福に会った国王のことである。伯耆国久米郡大神郷には倭国王がいた。
 この火災は霞会館(藤裔会)による放火と結論づける。
⑶ 寛政元年(1789年)鳥取県北栄町国坂の松樹庵(大国主・須勢理姫・少彦名。八上姫が住んでいた)の由来を知っていた世出開了行者○○信女が死亡した。
 世出開了行者○○信女は、藤ノ木古墳の墓守と同じで、松樹庵の由来を知っていて管理していた。霞会館(藤裔会)は世出開了行者○○信女が邪魔になったので殺した。
18 明治以降から現代にかけての証拠隠滅
 徳川幕府は鳥取県中部が古代、都であったことを知っていた。幕末に将軍の兄を鳥取藩の藩主にしている。薩摩の西郷隆盛も「鳥取藩は新政府に参加するか」と伺いを立てている。
 京都から鳥取藩に使いが来て「王政復古が失敗したら明治天皇をかくまって欲しい」と言った。断られたのでそのあと鳥取県中部の由良町に行った。そこでも断られた。京都の藤原氏も明治維新まで古代、鳥取県中部が都であったことを知っていた。
⑴ 霞会館(藤裔会)は現在でも鳥取県から遺跡が発掘されることを恐れ、下部組織(歴史学会・考古学会など)を使ってあらゆる手を講じている。遺跡の穴場(饒速日がいた)に東京に本社のある会社はソーラーパネルを広域に設置した(2015年)。 
⑵ 神社庁・教育委員会・ロータリークラブを使って「石山」(石上神宮のヒントになる)を「岩山」に変えた案内板と顕彰の石碑を建てた(2021年)。    
 この案内板を初めて見た時、私は愕然とした。私は何年も前に「石山が石上と多芸志のヒントになる」とブログで指摘していた。それを否定する案内板である。会員も「なんで、三百年以上経った今頃、こんな案内板と顕彰の石碑を建てるのか」と呆れていた。
 ロータリークラブのモットーは「真実の探求」とする。霞会館(藤裔会)は、大衆が信じそうなこのような組織を使う。
 これも「石山は石上と多芸志のヒントになる」とブログで指摘してから、後を追うように建てられた北野神社の案内板。教育委員会も加担している。
 河川事務所は正義の味方だ。北野神社の近くに案内板を建ててくれていた。河川事務所の案内板の内容が、私がブログで指摘する時に参考にした史料。そこには「石山」とある。このあたりは、磯江姓が多いので、「石山」は(いそのやま)と読んでいた。霞会館(藤裔会)は案内板を出すまでに河川事務所に問い合わせをさせている。しかし、石山の表記を変えられなかったので独自に3つの組織に案内板を出させた。私の指摘が間違いなら、霞会館(藤裔会)は放っておく。なぜなら、間違った説がたくさん出るほど真実が隠されるからである。
光圀にも指摘されたので、藩邸に放火して、同じ年(1657年)に天神川の石山を砕いて開削した。証拠の隠滅である。
⑶ 霞会館(藤裔会)は、Googleも金で支配している。
 霞会館(藤裔会)はGoogleマップもYouTubeも下部組織の内閣官房・内閣府に支配させている。この国を動かしているのは天皇でも政府でもない。秘密結社の霞会館(藤裔会)がこの国を動かしている。NHKをはじめとするテレビ・新聞などのメディアやインターネットも支配(情報・印象・思考操作して民衆を洗脳)している。

 
 
  2019年1月に倭国古代史研究会を立ち上げました。

 

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※ 倭国の都(鳥取県中部)に関する地をあげてみました。

コピー&ペーストされると多くの比定地が出てきます。https://www.google.com/maps/d/embed?mid=zHBbhU6acc3o.kqAjrr24ZHBA

地図の左上をクリックされると一覧が表示されます。 平成28年5月11日更新

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