千三百年の間、藤原氏に消されてきた伯耆国(鳥取県中西部)の真実の歴史が、今よみがえる。
八橋の地名由来(伝承)について [神武天皇と欠史八代]
八橋の地名由来(伝承)について
1 八橋(鳥取県東伯郡琴浦町八橋)の地名由来(伝承)は以下のようである。
「神代の昔、大国主神の娘である高姫神(下照姫)が、国土経営のため、出雲から加勢蛇川のほとりまでおいでになられたとき、八岐大蛇の霊魂が、高姫神に襲いかかってきた。素戔嗚に討たれた八岐大蛇が、素戔嗚の孫である高姫神に恨みを晴らそうとしたのである。空は急に曇り、川の上には雲が覆いかぶさった。その様子はまるで八つの蛇橋が重なって架かっているようであった。高姫神は恐れて、心の中で素戔嗚の御霊に加護を念じたところ、八岐大蛇の霊魂は消え去った。このときからこの川を加勢蛇川と名付け、この地方を八橋(やばせ)というようになった」とする。
2 立縫郷は楯縫郷であった。
倉吉市高城地区には楯縫神社があり、その由緒には「旧楯縫郷の大社にして」「旧郷名に因み楯縫神社と改称す」とある。立縫郷は楯縫郷であった。上大立(楯)は穿邑であったので楯縫邑は大立(楯)であった。立縫郷には立見(たちみ、ではなく、たてみ)があり、これは楯見であり、楯を検査するところであった。
八橋と加勢蛇川との間には、上伊勢、下伊勢、浦安、徳万、逢束、保、丸尾などの集落があり加勢蛇川の伝説がいきなりそれらの集落を越えて八橋の地名由来になるのは不自然である。これは八橋以前に京都の藤原氏にとって不都合な地名がありそれを消すために八橋と付けたのではないかと思われる。
八橋に隣接して笠見がある。笠見は、楯見と同じく笠を検査するところであった。楯縫郷と同じように笠見の近くに笠縫邑があるはずである。八橋が笠縫邑であった。京都の藤原氏は下照姫の伝承まで創作して八橋の地名を創作し鳥取県中部(倭国)にあった笠縫邑を消していた。「倭姫命世記」にある豊鋤入姫の巡行で最初にスタートした「倭の笠縫邑」は鳥取県琴浦町八橋であった。地名の強奪である。
神倭磐余彦が倭国で最初に勝利した地は倉吉市高城地区であり、盾は神倭磐余彦にとって重要な武具であった(盾津の地名や伊那佐山で盾を並べた)ので倉吉市高城地区の地名を楯縫邑と名付けた。楯縫邑も笠縫邑も神武天皇の時代に鳥取県中部(倭国)に開かれた。
葛城は鳥取県中部(倭国)にあった [神武天皇と欠史八代]
葛城は鳥取県中部(倭国)にあった。
1 「高尾張邑の土蜘蛛を皇軍は葛の網を作って、覆い捕らえて殺した。その邑を改めて葛城邑とした。」とある(日本書紀)。
鳥取県北栄町曲の荒神神社
鬼・土蜘蛛を荒ぶる神(荒神)と言っていたので、ここに土蜘蛛の家があった。土蜘蛛の家があったから蜘ヶ家山という。
葛城邑は荒神(土蜘蛛=出雲神族)神社のある蜘ヶ家山の麓の曲集落であり、麓に葛城邑(曲集落)のあった山を葛城山(蜘ヶ家山)と呼ぶようになった。
2 第2代綏靖天皇の「葛城高岡宮」
鳥取県北栄町曲の岡神社
神武天皇の長男の多芸志耳は関金町耳で生まれ、湯梨浜町の長瀬高浜(多芸志)にいたが、神沼河耳は長男の多芸志耳を殺害して第2代天皇となった。第2代綏靖天皇の「葛城高岡宮」は北栄町の蜘ヶ家山(葛城山)の岡神社であった。
3 第5代孝昭天皇の皇居は葛城掖上宮(灘手神社)だが、葛城山の東の掖上は磐余邑であり4人の大王の皇居があったから掖上とは書かない。掖上宮の掖上は葛城山の西側のことである。ここに桜の木があり、花びらが葛城山(蜘ヶ家山)を越えて北栄町島の金繰溜池で船を浮かべていたところに飛んで行った。
神武天皇は掖上のほほまの丘に立ちアキツがトナメをしているようだと言った。ここから穴沢小学校方面を見ると灘手の2本の尾根が接近してアキツがトナメをしているように見える。
4 蘇我馬子大王の磐余池辺双槻宮は鳥取県北栄町北条島にあった(別稿「蘇我馬子大王(在位572年~626年)の磐余池辺雙槻宮は鳥取県北栄町島にあった」を参照されたし)。蘇我馬子大王は「葛城県は元、私の本貫であります(代々葛城氏が居り、蘇我は葛城の同族になるという考え)。その県にちなんで蘇我・葛城氏の名もありますので、どうか永久にその県を賜って、私が封ぜられた県といたしとうございます」といった。なぜそう言ったのかというと、蘇我氏の祖の蘇賀石河宿禰 は武内宿禰大王の3男であり、武内宿禰大王の皇居のあった北栄町原の元野神社は葛城山(蜘ヶ家山)の麓にあり、蘇賀石河宿禰 はここで育ったからである(別稿「第13代武内宿禰大臣(王)の皇居は鳥取県北栄町原集落にあった」を参照されたし)。
5 葛城長江襲津彦(応神天皇)は鳥取県北栄町原(葛城県)の生まれであり、武内宿禰大王は鳥取県北栄町原(葛城県)を本拠地(皇居)としていた。葛城長江襲津彦は13代武内宿禰大王の6男として蜘ヶ家山(葛城山)のふもとの北栄町原集落で育った。後に15代応神天皇となり倉吉市穴窪(軽島之明宮)と湯梨浜町小鹿谷(難波大隅宮=行宮)とに皇居を置いた。
葛城長江襲津彦の「江」とは海岸部が陸地に入り組んだ地形で入江である。当時、倉吉市穴窪の周辺はそのようになっていた。奈良は内陸部で「長江」の文字はふさわしくないので、同じ読みの「長柄」としたが、今では「ながら」と発音する。
6 葛城皇子と言われていた天智は百済からの人質の豊璋であり、6歳で鳥取県北栄町由良の蘇我善徳大王のもとに来た(別稿「聖徳太子(蘇我入鹿天皇)の皇居は鳥取県北栄町由良宿にあった」を参照されたし)。北栄町由良も葛城であった。蜘ヶ家山(葛城山)より西を葛城県としていた。
第2代~第9代(欠史8代)の天皇は鳥取県中部(倭の都)に実在していた [神武天皇と欠史八代]
1 欠史8代 非実在説
(1) 旧辞的部分を欠く。
(2) 諡号がおかしい。
(3) すべて父子相続である。
(4) 2代~9代の寿命は異常に長い。
(5) 物事の順序からして、奈良盆地の一隅にいる豪族が盆地の外へ進出・発展していくためには、その前提として盆地を制圧・平定し、支配下に置いていなければならないはずです。ところが古事記・日本書紀ともに、奈良盆地の制圧・平定に関する経過を何一つ記していません。10代崇神に至っていきなり、盆地外への進出・発展の動きが現れます。神武の子孫たちが次第に実力を蓄えて奈良盆地の一隅から徐々に勢力を拡大し、やがて盆地全体を制圧・平定するに至るまでの経過を、説話として残していない。奈良盆地の外へ進出・発展していくためには、盆地の制圧・平定が前提であるにもかかわらず、その前提を語る伝承が何もないなど考えられない。
2 欠史8代 実在説
(1) 帝紀的部分のみがあって、旧辞的部分を全く欠くのは2~9代の天皇だけではない。
事績がないということでは、24代仁賢天皇から33代推古天皇までの10代に亘っており、これも実在しなかったと言われても仕方がなくなってしまう。
(2) 2代~9代の天皇の異常な寿命の長さは不自然だが、これは雄略天皇にも見られ、これだけで非実在の証拠とはならない。讖緯説に従い日本の歴史を遡らせるならば、自然な長さの寿命を持つ天皇の存在を何人も創作して代数を増やせばよい。にもかかわらずそれをしなかったのは、帝紀記載の天皇の代数を尊重したためであろう。古代天皇の不自然な寿命の長さが、かえって系譜には手が加えられていないことを証明していると考えることもできる。
(3) 7代~9代の天皇の名は明らかに和風諡号と考えられるが、諡号に使われる称号のヤマトネコ(日本根子・倭根子)を除けば7代はヒコフトニ(彦太瓊・日子賦斗邇)8代はヒコクニクル(彦国牽・日子国玖琉)9代はヒコオオビビ(彦大日日・日子大毘毘)となり、実名らしくなる。こう考えれば実名を元に諡号が作られた可能性もあり、後世創作の架空の天皇であると一概には言えない。むしろ12代・13代・14代の天皇の名のほうが実名らしくない名前で、和風諡号と言うより抽象名詞(普通名詞)に近く、欠史8代よりもこちらの方が実在の可能性が低い。2代、3代、5代の天皇の名は明らかに実名として生前に使われた可能性が高い。和風諡号に使われる称号の部分がないためで、実在の可能性は高い。
(4) すべて父子相続である点は確かに不自然だが、それだけでは非実在の証拠とはならない。実際は兄弟相続だったものも便宜的に父子相続と記されたとも考えられる。事績が欠けているのも同様に説明がつく。
(5) 稲荷山古墳出土の金錯銘鉄剣に8代孝元天皇の第1皇子大彦命の実在を示す系譜が刻まれていたことから、孝元天皇及びその直系親族や近親者も実在の人物とみなす見方がある。孝元の名前を刻まなかったのは、大彦命が孝元の皇子であることが広く知られていたためと考えられる。鉄剣に刻むスペースの問題を考えれば、孝元の名を省いたとしても不自然ではない。
(6) 各天皇の氏族、豪族、臣の掲載は広範囲に列挙されており、特に丹波国と王族との関係は深く婚姻関係の深まり丹波の豪族の巨大さと影響力を知らされる。
3 私見 鳥取県中部(倭国)に実在説
(1) 倭国歴史書原本には2代から9代までの旧辞の記述もあったが藤原氏が消した。
殷王朝末裔の準王一族(出雲族)と藤原氏は同族である。藤原氏は百済人であり朝鮮半島に残っていた殷王朝末裔の準王一族であった。弥生前期から列島に渡来してきていた準王一族は倭国王家と10代崇神天皇まで争っていた。10代崇神天皇のときに全国の準王一族は平定され、統一された。藤原氏は倭国を乗っ取ってから、同族が平定され統一された歴史を残すわけにはいかなかった。神武東征神話(奈良を平定したのは神武ではなく4代であった)との整合性もある。それで、2代から9代までの旧辞を消した。天照大神が中国人(除福)だったという史実も消さなければならなかったので、2代~9代の寿命を異常に長くした。長くするために8代・9代・10代の兄弟承継を父子承継にした。7代・8代・9代・10代は倭国大乱で丹波国(但馬)に10年間疎開していた。丹波の豪族との関係が深いのはこのためである。
倭国は弥生後期(186年頃)までに列島の西は熊本県、東は岩手県まで青銅器文化の一族(鬼・土蜘蛛・蝦夷=殷王朝末裔の準王一族)を平定し全国を統一していた。倭姫命(倭迹迹日百襲姫)と倭建命(若日子武吉備津彦)の征西と東征によって各地に神社を創らせ(倭姫命世紀のように)祭祀方法を変えさせて全国を統一した。全国を統一していった過程を神武天皇から崇神天皇(大吉備津彦)までの旧辞に誇らしく書いてあったはずである。
亡命百済王朝は669年に日本と名乗り、734年に倭国の大君を殺して列島を乗っ取った。734年に列島を乗っ取った準王一族と同族の藤原氏はこれをそのまま残すわけにはいかなかった。藤原氏より500年以上前から全国を統一していた日本とは別の倭王朝があった記述を残すわけにはいかなかった。これが最大の理由である。
(2) 9代天皇の旧辞がないというが、9代開化天皇は倭建命(若日子武吉備津彦)であったから、古事記にも日本書紀にも景行天皇の皇子として倭国大乱の記述として詳しく書かれている。また、7代孝霊天皇の旧辞も景行天皇と土蜘蛛との戦いとして挿入されている。10代崇神天皇は4将軍を派遣して全国の青銅器文化の一族は平定された。その後、青銅器の原料を採掘する土蜘蛛は存在しない。12代景行天皇の時代、土蜘蛛はすでに平定されていた。「椎」の字が出てくるのは孝霊天皇の旧辞である。
(3) 古事記を見るかぎり諡号に不自然さは感じない。むしろ12代・13代・14代の天皇の名のほうが実名らしくない名前で、和風諡号と言うより抽象名詞(普通名詞)に近く、欠史8代よりもこちらの方が実在の可能性が低いものと思われる。12代・13代・14代は百済国の王であった。史実は、12代は屋主忍男武雄心であり、13代は武内宿禰大臣(王)であり、14代は13代の4男の平群木菟宿禰(仁徳天皇)であった。
(4) すべて父子相続になっているが、8代9代10代は兄弟相続であった。神武元年を600年古くするための1つの方法である。また、2代~9代の天皇の寿命を異常に長くすることも神武元年を600年古くするための一つの方法であった。それは天照大神が徐福(紀元前210年来倭)であったことを消すためであった。
(5) 奈良盆地に創ってある欠史8代の皇居の比定地を見て回ったが、石碑が立ててあるだけある。地名を付けて、石碑を建てるだけなら、全国どこでもできる。非実在説は欠史8代は奈良にいなかったとする。欠史8代は奈良にはいなかったが、鳥取県中部に実在した。鳥取県中部では、欠史8代の皇居の比定地を集落単位で想定できる。鳥取県中部の葛城、磯城、軽の地域区分は間違っていない。
「葛城」は蜘ヶ家山(鳥取県北栄町)より西の地域であった。2代綏靖天皇の葛城高岡宮は蜘ヶ家山(葛城山)の岡神社であった。5代は葛城の掖上であるので蜘ヶ家山(葛城山)の西の脇の上(南側)の灘手神社(倉吉市穴沢)である。掖上の岡から灘手小学校方面を見れば灘手の2本の尾根が接近して見えるので蜻蛉がトナメしているように見える。6代の室秋津島は北栄町島(合併後は大島)である。9代の春日之伊邪河宮は北栄町瀬戸の観音寺である。
「磯城」は東郷池周辺(湯梨浜町)である。3代の師木(磯城)津日子玉手見命の宮は片塩浮穴宮であり船の出入りできる汽水域(片塩)の湾(津)があることが前提となる。片塩浮穴宮は湯梨浜町橋津の観音堂であった。稗田阿礼は場所が特定できるように具体的に表現している。奈良の片塩の地名は藤原氏がのちにつけたものである。決してそこに昔から地名があったわけではない。7代の庵戸宮は湯梨浜町宮内の倭文神社であった。
「軽」は鳥取県中部の上北条地域(神代みわしろ地域)である。軽の坂上の厩(応神天皇の段)の位置に現在は馬場町があった。軽之境岡宮(倉吉市小田山)には4代の宮があり、軽之堺原(倉吉市小田)には8代の宮があった。軽島之明宮(倉吉市穴窪)には15代天皇(応神天皇)の宮があった。
神武天皇から9代までは鳥取県中部に皇居があったのであり、奈良に宮はなかった。したがって神武天皇から9代までの宮が奈良にあったことを前提とする鳥越憲三郎氏の葛城王朝説は作り話であり、奈良の葛城にいた葛城族とは準王一族(出雲族)であった。奈良の葛城という地名ものちに藤原氏が付けたものである。
初代天皇は初めて西日本を平定したのであり、10代天皇は初めて東日本も平定した。共にハツクニシラススメラミコトと呼ばれてもおかしくない。したがって、葛城王朝説や三輪王朝説なるものは欠史8代をなんとか奈良にいたことにしようとした鳥越憲三郎氏の作り話であった。
神武天皇が即位した橿原宮は鳥取県倉吉市大宮にあった [神武天皇と欠史八代]
1 第11代垂仁天皇(伊久米伊理毘古)の本拠地は岡山県久米郡美咲町百々大宮としたが、周りにある弓削や久米という地名はヤマト王朝に直結する部民がいた集落につけられた地名とされる。岡山県の久米にしろ弓削にしろ大宮からはかなり離れたところにある。ところが、鳥取県倉吉市の大宮は弓削なり久米の地名は岡山県より近くにある。ということは、ここにいた王は第11代よりも初期であったという推測が成り立つ。
火火出見(鵜草葺不合)は辰韓から船で1日で帰ってきて倉吉市の北面に到着し四王寺山(日向)に宮を造った。欠史8代(第2代~第9代)の皇居も比定地が分かっているので欠史8代(第2代~第9代)でもない。第10代の皇居は師木邑(湯梨浜町長和田集落)水垣宮である。素戔嗚はヤマト王朝の王ではない。残るは、初代の神武天皇である。
2 地図より
県道38号線を通っても集落へ入る橋が見えないようにしてある。この形態は四王寺山の大谷集落とよく似ている。
左上は小鴨川。小鴨川の上流には耳集落がある。縦に流れる川は広瀬川。大宮集落は広瀬川に架かる橋一本で孤立している。大宮集落の隣は弓削集落。小鴨川周辺は伯耆国の旧久米郡であり久米中学や久米支所などの名が残っている。
倉吉市の大御堂廃寺は白鳳期すでに「久米寺」であった。伯耆国6郡の1つの久米郡の「久米」という地名は白鳳期よりずっと以前からあったと思われる。ちなみに日本書紀の「来目」は造語であった。
大御堂廃寺から出土した「久米寺」と墨書された土器
白鳳期に創建された大御堂廃寺から出土した正倉院と同じ銅製匙(溝に落ちて一つだけ残っていた)
3 神武天皇は兄磯城に勝った後即位した場所は奈良ではない。橿原神宮が創建されたのは明治23年で国威発揚のためであり、テーマパークとして創建されたので史実に忠実ではない。奈良の橿原神宮を橿原宮とする説は少数である。
4 大宮の前にある小鴨神社
予測した通り、この神社から、若い頃、兄たちと居られた四王寺山が見える。
小鴨神社の祭神は奈良時代まで神武天皇であったはずである。全国の神社を掌握した藤原氏によって祭神が替えられたものと思われる。
5 県道38号線より
大宮と書いてあるが、左を見ても橋は見えない。
大宮橋。大宮集落の出入りはこの橋だけでする。
広瀬川にかかる橋ひとつが大宮集落と外とをつないでいる。
6 弓削集落
7 私見
饒速日は江府町江尾から鏡ヶ成→野添→神田神社→日吉神社→船→八幡神社のある峰(哮峰)に降臨して素戔嗚と会い、しばらくここに住んでいた。天穂日の縁結びで長髄彦の妹と結婚した。長髄彦も哮峰の近くの倉吉市富海に住んだ。饒速日は次男のウマシマジが生まれる前に亡くなった。その後、饒速日の弟の邇邇芸は北栄町上種の大宮神社に降臨し木花之佐久夜毘売との間に火火出見(鵜草葺不合)が北栄町由良の高江神社で生まれた。火火出見(山幸彦)は3代目長髄彦(海幸彦)と折り合いが悪く、辰韓に3年間逃げていた。しかし、倭国に帰り四王寺山を本拠地として玉依姫との間に神倭磐余彦の4兄弟が生まれた。
神倭磐余彦は火火出見(鸕鶿草葺不合)の子として四王寺山(日向)で育った。九州の鬼八を平定して五瀬と鳥取県中部に帰ってきたが、五瀬は長髄彦の矢があたって亡くなり、神倭磐余彦は福山市に退却して出雲から出てくる略奪集団(鬼・土蜘蛛・河童・蝦夷・戸畔)を平定し、瀬戸内周辺の住民に高地性集落を造らせて略奪集団(鬼・土蜘蛛・河童・蝦夷・戸畔)から命を守らせた。また、自分たちが生まれ育った倭国を取り戻す機会をうかがっていた。東は摂津国まで平定し明石にいた椎根津彦を引き連れて岡山県の旭川を北上し、蒜山高原を過ぎて鳥取県江府町の鏡ヶ成から倉吉市上大立(穿邑)に降った。江府町江尾に帰っていたウマシマジも神倭磐余彦に合流した。道臣たちは山側(南側)に穿って道をつけた。広瀬・円谷線もその一つであった。長髄彦のいた富海を遠まきにするように道をつけている。長髄彦は倉吉市富海(鳥見邑)にいた。神倭磐余彦とウマシマジはその南で長髄彦と対峙した。長髄彦一族を平定してから倉吉市大宮に皇居(橿原宮)を置いた。長髄彦は亡くなったが一族は生田に移り住んだ。現在の倉吉市は長髄彦一族(出雲族)が中心になって築かれた自治体である。
日本書紀・神武天皇・宮殿造営に(觀夫畝傍山、此云宇禰縻夜摩東南橿原地者、蓋國之墺區乎、可治之)「見ればかの畝傍山の東南の橿原の地は、思うに国の奥深く安住に適した地である。ここで治めるべきである、と令を下された。」とある。
第2代天皇からは瓊々杵命がいと良き地と言った笠沙之御前の海岸近くに皇居を造ったが、神武天皇は海岸より山奥の倉吉市大宮に宮殿を造営した。私見では歴代天皇の皇居の中で一番奥(山側)にある。神倭磐余彦は倉吉市大宮で初代天皇として紀元前60年に即位した。神倭磐余彦の4兄弟の育った四王寺山の前の土塁(中尾遺跡)から紀元前100年頃の住居跡と国内最長の鉄矛が発掘された。
稲飯命が派遣する辰韓からの船には鉄の剣や鏃を積んでいて多芸志(湯梨浜町長瀬高浜)に到着していた。辰韓から来る途中の隠岐島から鳥取県中部(倭国)までの海が荒れないように上里神社を建立した。紀元前70年に稲飯命は辰韓に現れた。紀元前60年は現れてから10年経ったので、10歳と表現されている。稲飯命は紀元前57年に新羅を建国した。
赫居世居西干は、日向(四王寺山)の王を意味する。国号を徐那伐(ソナバル)としたが、神武天皇のソラミツ倭国と似ている。ソラミツ(徐等満)のソも「徐」であると思われる。
小鴨川の上流に神武天皇の子供が生まれた耳集落がある。下流に行けば多芸志(古代の舵)と言われていた高さが推定25mくらいの建物(出雲大社のモデル)のあった湯梨浜町の長瀬高浜に到る。多芸志耳は長瀬高浜の高い建物に上がり、新羅から難波津(東郷池)に来る船を誘導していた。
倭建命の白鳥陵は鳥取県湯梨浜町宮内の狐塚古墳であった [神武天皇と欠史八代]
兄磯城と弟磯城は事代主と百八十神(出雲族)の子孫であった [神武天皇と欠史八代]
兄磯城と弟磯城は事代主と百八十神(出雲族)の子孫であった
1 大国主と事代主は親子ではない。大国主は素戔嗚の子であり、事代主は葦原中津国で大国主に蹴散らされた出雲族(百八十神)の頭であった。大穴持命や大穴牟遅神は歴代の出雲族の王名であり大国主ではない。出雲大社に祀られているのは大国主ではなく、出雲族の歴代の王であった。国譲り後、大国主は天孫族の4伴緒と一緒に湯梨浜町長瀬高浜・久留にいた。そこに高い建物を建ててもらった。
事代主と百八十神(出雲族)は国譲り後、倉吉市福庭に到着し大平山に上がった。事代主と百八十神(準王一族=出雲神族)はいつまでも大平山におらず、生活の拠点を東郷池の水辺に移した。そこは湯梨浜町長和田であった。長和田が師木邑であった。
2 倉吉市福庭の波波岐神社の伝承に「事代主は近くの泉の畔で余生をおくられた」とある。
畔に使う用例として泉(いずみ)はおかしい。畔は普通、湖(みずうみ)に使う。これは長年の間に読みが替わったと解するべきである。当初は「湖の畔」であった。湖とは東郷湖とも言われる東郷池であった。
事代主と百八十神(出雲族)は長和田集落に移った。当時、長和田は海からの波が真直ぐに届いていた波延(はえ)の地であった。
長和田集落はほぼ海抜3mに海面があった時代(崇神天皇の時代)に今の集落の形が出来上がった。ほぼ水辺の内側に出来上がっている。周囲が水垣の集落であった。
3 北から見た湯梨浜町長和田集落(左は鳥取県、島根県で一番大きい前方後円墳)
国譲りの時代(紀元前160年頃)は長和田を囲むように水辺であったから、羽衣石川沿いに上がっていくしかなかった。
先代旧事本紀・皇孫本紀に「椎根津彦が謀りごとを立てて申しあげた。『今はまず、女軍を遣わして、忍坂の道から出しましょう。敵はきっと精兵を出してくるでしょう。私は強兵を走らせて、ただちに墨坂を目指し、菟田川の水をとって、敵兵が起こした炭の火にそそぎ、驚いている間にその不意をつきます。敵は必ず敗れるでしょう』天孫(神武天皇)はその計りごとをほめて、まず女軍を出してごらんになった。・・・はたして男軍が墨坂を越え、後方から挟み討ちにして敵を破り、その梟雄・兄磯城らを斬った」とある。
※ 私見
神武天皇は忍坂邑(三朝町片柴)で土蜘蛛を討ってから兄磯城らを斬った。
兄磯城はこの奥で炭焼きをしていた。この奥の荒神社は荒ぶる神であった兄磯城の神社である。墨坂とは羽衣石川(菟田川)沿いの坂であった。
女軍は写真左奥の忍坂の道より出た。それを見た兄磯城の精兵は出ていった。そのすきをついて椎根津彦は強兵を走らせて師木邑(長和田)から上がり炭火に水をかけた。男軍は三朝町山田から墨坂に上がり兄磯城を挟み撃ちにした。女軍・男軍は神武と旧知であったので寝返るのも早かった。
弟磯城は神武天皇に従い磯城の県主になった。雄略天皇の時代、磯城の大県主は鰹木を上げた家を建てていた。湯梨浜町長瀬高浜遺跡から鰹木を上げた家形埴輪が出土した。古代人のジョークが垣間見える。
長和田から御冠山が見える。孝霊天皇は御冠山のふもとの湯梨浜町宮内(倭文神社)にいた。孝霊天皇は長和田から蠅(波延)伊呂泥と蠅(波延)伊呂杼を娶った。孝霊天皇の皇女の倭迹迹日百襲姫の母である蠅(波延)伊呂泥は出雲族であった。
倭国大乱の相手は出雲族であったが、卑弥呼の母親は出雲族であったので女王として共立した。孝霊天皇の皇子の大吉備津日子は崇神天皇であり、崇神天皇の母も蠅(波延)伊呂泥であった。崇神天皇は母の出身地(波延=水垣=長和田)に皇居(師木邑の水垣宮)を置いた。
神武天皇の「島つ鳥 鵜飼いがとも」の歌の舞台は奈良ではなく鳥取県北栄町であった [神武天皇と欠史八代]
神武天皇の「鵜飼いが友」の歌の舞台は奈良ではなく鳥取県北栄町であった
1 日本建国史 「曲学の徒」桂川光和より
「楯並(たたな)めて 伊那佐の山の 木の間よも い行きまもらひ 戦えば われはや餓(え)ぬ 島つ鳥 鵜飼いがとも 今助(す)けに来ね。」この奈良の伊那佐山での戦いを歌ったものである。
伊那佐山の木の間を行き来しながら、楯を並べ防戦しているが食べ物が無く飢えてしまった。鵜養(うかい)がとも(伴・供)よ早く助けに来い、という意味である。
苦戦する兵が、食料の到着を待つ差し迫った歌である。現実感のある歌だと思う。
興味深いのは「島つ鳥」である。従来鵜飼にかかる枕詞とする解釈は多い。しかし前に述べたように、この時代では枕詞というような、慣用的表現は確立していないであろう。
神武は奈良盆地侵攻の前に、吉野や阿田(五条市阿田)など奈良県南東部を訪れている。吉野の阿田あたりでは鵜を使った漁法が早くから行われていたとされる。
「鵜飼いのともよ」という語句が、この五條市阿田の住民を指した語句であることは容易に察しがつく。
この阿田には小島、上島野、下島野という地名がある。島という地域である。まさにこの「島つ鳥」というのは鳥の鵜と、島という土地の名に掛かる掛け言葉である。
2 神武天皇たちがこもって戦った伊那佐山と神武天皇たちが使っていた楯。
現在、伊那佐山(奈良)と稲佐の浜(出雲)は離れたところに造ってあるが、もともと「いなさ山」と「いなさの浜」は同じところにあった。それは周囲は砂だが山は隣の三輪(神)山のような砂の山でない(否砂)鳥取県北栄町の茶臼山であった。
島集落から見た伊那佐山(茶臼山)
伊那佐山(茶臼山)から天香久山(土下山)と島集落(縄文人の猿田彦一族がいた)を望む。
神武天皇は天照大神のいた琴浦町の伊勢を取り返すために伊勢でも出雲族と戦った。伊勢から船で茶臼山(伊那佐山)にきて、敵情を偵察した。天香久山(土下山)までは中洲があり、中洲の豪雄と呼ばれていた長髄彦がいた。
神武天皇は戦いに勝てるかどうか占うために、二人に天香久山(土下山)の赤土を下させた。二人が土を下したところが伊那佐山と天香久山との間にある土下集落である。
手前の伊那佐山の木の間に楯を立てて戦った。中洲の右側は汽水池になっていた。向こうの島集落から来た猿田彦一族は汽水池で鵜飼いをしていた。
鳥取県の青谷上寺地遺跡で発掘された弥生時代中期後葉(紀元前50年頃)の楯
神武天皇たちは伊那佐山(茶臼山)でこの楯を立てて戦った。
3 私見
奈良には伊那佐山が作ってある。神武天皇はここに立てこもって戦ったと学者も思うようにしてある。桂川氏もこの歌の舞台は奈良であると疑問に思うこともなく信じ込んでいる。島は猿田彦一族がいたところであり、伊那佐山の目の前にある。島の猿田彦一族は神武天皇たちの目の前で鵜飼いをしていた。
紀元前60年頃は海抜が4mほど高かったから鳥取県北栄町はこのような地形となる。天神川の度重なる洪水により日下邑の楯津は埋まり、中洲は流され(弓原集落まで三角形の土砂の堆積が見られる)、長瀬高浜の弥生土器も流された。
島からは縄文土器が出土しており、縄文人がいた。それは、天孫族に協力していた猿田彦一族であった。猿田彦一族は島から船を出し伊那佐山に近い汽水域で鵜飼いをしていた。五條市阿田というような遠くではなく、神武天皇たちの目の前で鵜飼いをしていた。
「島つ鳥、鵜飼いがとも」とあるが、奈良に津はないので、藤原氏は「津」の読みだけ残して、漢字は消している。例えば葦原中国、黄泉平坂などである。
この島はのちの磐余邑の中にあり、履中天皇が作った金繰溜池の近くに蘇我馬子大王は池辺双槻宮を造った。蘇我馬子大王は島大臣(王)と呼ばれていた。金繰溜池の池上で同棺複数埋葬の島古墳群が発掘された。池上の陵である。
道路右側の家の敷地から縄文前期~縄文晩期の連続遺物が発掘された。島集落に縄文前期から縄文晩期までの縄文人が住んでいた。それが徐福一行(天孫族)に協力していた猿田彦一族であった。「島つ鳥、鵜飼いがとも」とは猿田彦一族のことであった。
茶臼山(伊那佐山)の横の北条川放水路分水堰(ぶんすいぜき)で川鵜を見た。2021年5月17日撮影。汽水池はなくなっているがちょうど猿田彦一族(縄文人)が鵜飼いをしていた辺りである。
島のとも(猿田彦一族)に飼われていた鵜の子孫!?
倭国歴史書原本の本当の神武天皇行軍コース [神武天皇と欠史八代]
因幡国(鳥取県東部)でも疎開先の但馬国から来て孝霊天皇と倭建命(若日子建吉備津日子=開化天皇)・大吉備津日子(崇神天皇)たちは倭国大乱を戦っていた [神武天皇と欠史八代]
根国での冒険の舞台は鳥取県倉吉市余戸谷町の清熊稲荷神社であり、第2代綏靖天皇の皇居は鳥取県北栄町曲の岡神社であった [神武天皇と欠史八代]
根国での冒険の舞台は鳥取県倉吉市余戸谷町の清熊稲荷神社であり、第2代綏靖天皇の皇居は鳥取県北栄町曲の岡神社であった。
1 根国での冒険の舞台は鳥取県倉吉市余戸谷町の谷田神社である、としていたが、谷田神社の痕跡が見つからない。鳥取県神社誌(昭和9年発行)には載っているので、合併(明治時代)までは存在していたはずである。山の周りを廻っても見つからないので、八幡神社の宮司に聞いたところ「 清熊稲荷神社の登り口の5~6軒家があるあたりではないか」という。しかし、祠も何もない。ひょっとしたら、宇迦之御魂命は稲荷神だから現在の清熊稲荷神社ではないのだろうか、と思い上がってみることにした。
この丘陵地の一等地にあった。八幡神社よりもずっと古いのだから一等地にあっておかしくない。
鳥居はこの冬に倒れた。神社庁の管理する神社ではないので修理する予算もないのだろう。
だいぶ上がったがまだまだである。右が泊瀬の山(打吹山)である。
右から上がってきてまだ左に上がっていかなくてはならない。石段も掃除されてなく、落ち葉で見えないくらいである。
宇迦之御魂命(須勢理姫)は稲荷神だから狐である。
かなりの荒廃ぶりである。
家が何軒でも建てられるような広さがあった。蛇もムカデも出そうなところである。
2 第2代綏靖天皇の皇居・葛城高丘宮(古事記では葛城高岡宮)は奈良ではなく、鳥取県北栄町曲の岡神社であった。
奈良県御所市葛城古道にある第2代綏靖天皇の皇居・葛城高丘宮の石碑である。
ここのテーマパークの名前は藤原氏が占領してから「葛城」と名付けられた。じつは「高岡」が本当であったが「高丘」に直している。 千の嘘のうちのほんの一つである。
葛城古道に石碑があるだけである。
左の農道は近年になって作られたものである。それまでは家々の人に見られながら、この坂道を上がらなければ、岡神社に行くことはできなかった。
この細い坂を上がっていく。
左右の家が葛城高岡宮の守りをしていた。
両サイドの家々に見られながら、まだ左にうねうねと上がっていく。
こんなところに神社があるとは気づかないようなところである。
神社の右下に先ほど通ってきた集落がみえる。
岡神社とある。
3 私見
第2代綏靖天皇の時代はまだ準王一族と抗争していたときであり、神武天皇四兄弟のいた大谷集落や神武天皇の皇居があった大宮集落と同じく、外敵からの守りを厳重にする必要があった。