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千三百年の間、藤原氏に消されてきた伯耆国(鳥取県中西部)の真実の歴史が、今よみがえる。

猿田彦について [伊勢野の天照皇大神宮]

 猿田彦について
 
<古事記訳>
 「さてヒコホノ二二ギノ命が、天降りなさろうとするときに、天から降る道の辻にいて、上は高天原を照らし、下は葦原中国を照らしている神がいた。そこで、天照大御神と高木神の仰せによって、アメノウズメノ神に命じて「あなたはか弱い女であるが、向き合った神に対して、気おくれせず圧倒できる神である。だから、あなた一人で行ってその神に向って『天つ神の御子の天降りする道に、そのように出ているのはだれか』と尋ねなさい」と仰せになった。それでアメノウズメノ神が問いただされたとき、その神が答えて申すに「私は国つ神で、名はサルタビコノ神と申します。私がここに出ているわけは、天つ神の御子が天降っておいでになる、と開きましたので、ご先導の役にお仕えいたそうと思って、お迎えに参っております」と申し上げた」とある。
 
私見
 猿田彦は、道の神、道案内の神、旅人の神、出会いの神とされる。通常、この役目として村の境などに「道祖神」がある地域が多い。道祖神は男女の二像が多く、ほとんどが猿田彦命と天宇受売命とされる。
 猿田彦は天孫降臨に際して、江府町の鏡ヶ成で高天原と地上とを鏡で照らしていた神である。高天原と地上の境界にいたのでサイ(境界)の神と呼ばれるようになった。漢字としては、道祖神あるいは才ノ神、妻ノ神とも書く。天孫降臨の時代にすでにこの呼び名で呼ばれていたようである。
 鏡ヶ成から饒速日と一緒に倉吉市の哮峰に降臨し、さらに船で天忍穂耳と一緒に大国主のいる茶臼山の東の海に至った。天忍穂耳は北栄町下神の三輪山を、猿田彦は隣の北栄町松神を本拠地にした。松神神社には猿田彦と木花咲耶姫が祀られているが、猿田彦と木花咲耶姫は本当に松神にいた。猿田彦は天忍穂耳の家来であり、鏡による通信手段を使い、天孫降臨の際には天忍穂耳の指示で饒速日をお迎えに行き、道案内をした。
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 饒速日が亡くなって邇邇芸命が降臨することになったが、邇邇芸の道案内も猿田彦がした。邇邇芸は大宮神社(北栄町下種)に行く手前(倉吉市上福田集落)で葦原中津国の事代主と百八十神が子供を育てるのを待っていたが、そのとき猿田彦は倉吉市妻ノ神集落で待っていた。
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 大山祇は天孫降臨の前から天忍穂耳を知っており、大国主命の国造りに協力していたのも知っていたので信頼していた。大山祇は木花咲耶姫が邇邇芸に求婚されたことを知り、天忍穂耳の子息だと大いに喜んで、姉の石長姫まで差し出した。
 猿田彦一族は鳥取県北栄町北条島の丘陵地(蜘ヶ家山)に住んでいた縄文人であった。天忍穂耳に仕えた猿田彦は三輪山(鳥取県北栄町下神)の西隣の北栄町松神に本拠地をおいていた。

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