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千三百年の間、藤原氏に消されてきた伯耆国(鳥取県中西部)の真実の歴史が、今よみがえる。

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出雲国(島根県東部)の首長は誰であったか [天忍穂耳(大物主)]

 

 第7節 出雲国(島根県東部)の首長は誰であったか



1 私見



出雲族は(いん)王朝(おうちょう)末裔(まつえい)の準王一族であった。準王一族はその王の名を代々長髄彦(ながすねひこ)大己貴(おおなむち)神と呼んでいた。



大国主(大穴持(おおなむち)は歴代出雲国王の通称であり個人名ではなかった。



青銅器(銅鐸、銅剣など)を作る一族は青銅器を作っていた殷王朝末裔(いんおうちょうまつえい)の準王一族しか思い当たらない。現在出土している国内最古の銅鐸は紀元前190年頃とされる。準王一族が倭国に渡ってきたのも紀元前194年頃である。出雲で発掘された沢山の青銅器は殷王朝末裔(いんおうちょうまつえい)の準王一族が作ったものであった。出雲王家は紀元前195年衛氏朝鮮の難を逃れてきた人々の末(えい)であり、出雲王家殷王朝末裔(いんおうちょうまつえい)の準王一族であった。出雲族は鬼・土蜘蛛(つちぐも)蝦夷(えみし)などと呼ばれていた準王一族のことである。出雲族は「竜蛇(りゅうじゃ)族」であった。

 八上姫(やかみひめ)をめぐる大国主のライバルは鬼(準王一族)であったから、天穂日(あめのほひ)能義平野(のぎへいや)(安来市)に行ったときはすでに松江市南部出雲熊野大社(いずもくまのたいしゃ))を本拠地としていた。



 紀元前2世紀頃、出雲にいたのは能義平野(のぎへいや)天穂日(あめのほひ)であり、松江市南部出雲熊野大社(いずもくまのたいしゃ))には殷王朝末裔(いんおうちょうまつえい)の準王一族(出雲族)であった。島根県松江市乃白町の田和山(たわやま)遺跡は殷王朝末裔(いんおうちょうまつえい)の準王たちの祭祀場跡である。これが事実であり、出雲に須佐之男(すさのお)や大国主命の足跡があるのは、後に藤原氏が創作したものである。須佐之男(すさのお)(倉吉市余戸谷(よどや)町と米田町)、大国主命(北栄町国坂の茶臼山(ちゃうすやま))、事代主(ことしろぬし)湯梨浜(ゆりはま)長和田(なごうた))、天忍穂耳(あめのおしほみみ)(北栄町下神(しもつわ)の三輪山)、邇邇芸(ににぎ)命(葦原中津国(あしはらなかつくに)=北栄町下種の大宮神社)、阿遅鋤高日子根(あじすきたかひこね)(倉吉市灘手(なだて)地区の)の本拠地は鳥取県中部にあった。出雲には須佐之男(すさのお)や大国主命や事代主(ことしろぬし)の本拠地はなかった。

 国譲りというからには譲られる葦原中つ国が特定されなければならないが、葦原中つ国は宮崎県にあるとでもいうのだろうか。葦原中つ国は鳥取県中部にあった。



 出雲族は鬼・土蜘蛛(つちぐも)などと呼ばれ人をさらったりしていた。楽々福(ささふく)神社の由緒や溝口の鬼伝説に残る鬼は出雲から出ている。この戦いは宗教に基づくものであり、天孫(てんそん)族は彼らの宗教を変えさせるために戦った。崇神(すじん)天皇(てんのう)倭健(やまとたける)命・卑弥呼(ひみこ)は全国の出雲族を祀る準王一族に強制的に道教の神道を押し付けた。

 出雲には「ヤマト朝廷が東から攻めてくる」という伝承が残っている。鳥取県中部は出雲の真東になる。倭建(やまとたける)命は出雲振根を騙し討ちにして殺した。このとき倭健(やまとたける)命は「つづらさわまき」の竹刀を持っていた、とされる。鳥取県中部の長瀬高浜(ながせたかはま)遺跡より「つづらさわまき」と思われる鉄刀(てつとう)が全国で初めて発掘された。倭建(やまとたける)命は皇子であり、長瀬高浜(ながせたかはま)の被葬者は皇女(みこ)であった。

(1)
須佐之男(すさのお)について

 島根県安来市の地域の人々は「記紀」にある
須佐之男(すさのお)を開祖とする出雲王権設立の話に疑問を抱くものがいる。

 八岐大蛇(やまたのおろち)伝説の舞台は鳥取県三朝町山田(やまた)であった。その後、
須佐之男(すさのお)は始皇帝のさらなる追っ手から逃げるため、伊邪那岐(いざなぎ)の後を追って、鳥取県八頭町の大江神社に櫛名田姫と御殿に住み大国主が生まれた。鳥取県智頭町那岐(なぎ)村に来ていた神大市比売(かむおおいちひめ)との間に須勢理姫(すせりひめ)が生まれた。始皇帝が亡くなったことを知り最初の約束通り、須勢理姫(すせりひめ)と根国(鳥取県倉吉市の清熊稲荷(きよくまいなり)神社)に移った。一人になった須佐之男(すさのお)は東山神社に移り対岸の石上(いそのかみ)神宮(倉吉市の大原神社)に十握剣を奉納した。

 
須佐之男(すさのお)は人間であるので空を飛んで船通山の頂に降りたりしない。大江神社の祭神は当初、須佐之男(すさのお)稲田姫(いなだひめ)足名椎(あしなづち)命・手名椎(てなづち)命・天穂日(あめのほひ)命であったのを隠すために祭神を日本一多くした。

 元禄時代にも西日本の各地で記紀との辻褄(つじつま)合わせ(整合)が行われている。大日本史(だいにほんし)の編纂をしていた幕府に対し京都の藤原氏がおとなしくしていたはずはない。検閲・改ざんを行っている。元禄時代の頃に藤原氏は倉吉市大原の波波伎(ははき)神社を八岐大蛇(やまたのおろち)伝説と切り離すため大原神社とし、事代主(ことしろぬし)のいた福庭(ふくば)の神社を波波伎(ははき)神社とした。また岡山県の石上(いそのかみ)布都魂(ふつのみたま)神社の宮司の名前を物部(もののべ)にし、
須佐之男(すさのお)が十握剣を洗った血洗いの滝を造ったのもこの頃である。

(2)大国主(大穴持(おおなむち))について



出雲国風土記の大穴持(おおなむち)は、人名でなく意宇国の王の意味であり、何代にもわたり大穴持(おおなむち)を名乗った。記紀に書かれ、実在した鳥取県中部にいた大国主(大穴持(おおなむち))はただ一人である。

 大国主の生誕地はBC5年頃、出雲王家の天冬衣(あめのふゆきぬ)神の子として杵築(きつき)周辺で誕生したという説がある。私見では、BC208年頃、
須佐之男(すさのお)の子として鳥取県八頭郡の大江神社周辺で生まれている。須佐之男(すさのお)稲田姫(いなだひめ)の御殿を隠すために、鳥取県八頭町の大江神社は祭神を多くした。祭神の多さは日本一である。

 大国主の本拠地は島根県の三刀屋(みとや)の三屋神社という説がある。私見では鳥取県北栄町国坂の大神山(おおみわやま)茶臼山(ちゃうすやま))の松樹庵(しょうじゅあん)である。

 大己貴(おおなむち)命関連伝承地は農業関連が多い。伝承を分析すると、大国主命は少彦名(すくなひこな)命と共に行動した経路は3系統ある。
伯耆(ほうき)国→北陸地方 伯耆(ほうき)国→出雲山口県福岡県大分県 伯耆(ほうき)国→因幡(いなば)国→播磨国24ヶ所讃岐国2ヶ所伊予国7ヶ所の3系統である。

 島根県下における大国主伝承地として、多根(たね)神社、佐比売(さひめ)山神社、加多(かた)神社、虫野神社がある。大国主が準王一族(出雲族)の妨害を受けずに出雲で生活の指導をしていたことが史実であっても、それは、全国(主に西日本)の移民の国造りの一環であるにすぎない。このことを以て出雲に大国主の生誕地や活動本拠地があったとは言えない。大国主は少彦名(すくなひこな)とともに東アジアの各地(北はシベリア・モンゴルから南はベトナム・ミャンマー)から移民してきた一族を西日本各地に住まわせ移民たちの国を訪れ、衣食住の指導をしていた。

 神祇志料(じんぎしりょう)(明治6年成立)に「昔、大国主と少彦名(すくなひこな)須勢理姫(すせりひめ)伯耆(ほうき)国の大神山(おおみわやま)に御坐し、次に出雲国の由来郷と田根(たね)で農業を教えた」とある。大神山(おおみわやま)は大山だけではない。鳥取県北栄町の茶臼山(ちゃうすやま)伯耆(ほうき)久米(くめ)大神(おおみわ)郷に属していた(北条(ほうじょう)八幡宮由緒より)。北栄町の茶臼山(ちゃうすやま)大神(おおみわ)郷にあった山だから大神山(おおみわやま)と言っていた。この3人の本拠地は北栄町の茶臼山(ちゃうすやま)であった。 出雲大社のモデルについて、ある方は「記紀では、この国譲りの条件として、大国主が神殿を要求し建設されたように記述しているが、これは捏造である。「出雲」に神殿が建設されたのは、古事記によれば垂仁(すいにん)天皇(てんのう)の時代であるからだ」とする。

 長瀬高浜(ながせたかはま)遺跡の発掘調査報告書ではSB40は古墳時代前期であるとする。垂仁(すいにん)天皇(てんのう)の在位は230年~260年(古墳時代前期)に比定しているので古墳時代前期であり、ある方の説と符合する。

 しかし、稲吉角田(いなよしすみだ)遺跡の絵画土器に描かれた4本柱の高い建物は出雲大社のモデルとする研究者が多い。稲吉角田(いなよしすみだ)遺跡の絵画土器は紀元前1世紀であるから、そこに描かれた4本柱の高い建物(出雲大社のモデルとされる)は弥生時代中期までに建てられていなければならない。稲吉角田(いなよしすみだ)遺跡の近くで、4本柱の高い建物の遺構は長瀬高浜(ながせたかはま)遺跡のSB40しか見当たらない。私見では、出雲大社のモデルは長瀬高浜(ながせたかはま)遺跡のSB40の4本柱の建物跡に比定している。弥生時代前期の土器が遺構外から大量に発見されているのでSB40も弥生時代前期の建物であった可能性が高い。SB40は弥生時代前期の遺構(紀元前160年頃)であり、大国主は長瀬高浜(ながせたかはま)多芸(たぎ)(し))の高い神殿(SB40)に移って住んでいた。

 天照大神(あまてらすおおみかみ)(徐福)と
須佐之男(すさのお)は一緒に辰韓から倭国(鳥取県中部)に渡ってきた。天照大神(あまてらすおおみかみ)(徐福)は高天原(たかまがはら)(蒜山高原)に上がったが、須佐之男(すさのお)八岐大蛇(やまたのおろち)を退治して夫婦になった稲田姫(いなだひめ)と八頭町大江神社に住み、大国主を生んだ。天照大神(あまてらすおおみかみ)(徐福)は大国主より40歳くらい年上であり、天穂日(あめのほひ)に御殿を守らせていたくらいなので、大国主のことは生まれた時からよく知っていた。天穂日(あめのほひ)も大国主は生まれたときから知っていて、肉親のように思っていたはずである。天穂日(あめのほひ)は出雲で出会った準王をわが子のように可愛がり、大国主と同じ意味で大穴持(おおなむち)を名乗らせた。

(3)事代主(ことしろぬし)について

 ある方の見解

 出雲国風土記が編纂された当時、事代主(ことしろぬし)を祀る神社は、「出雲」には存在しなかった。つまり、事代主(ことしろぬし)は、「出雲」とは全然関係ない神と言えはしないだろうか。ということは、出雲の国譲り自体、出雲地方であったことではなく、本来、別の地方の出来事を、「出雲」という地名を借りて記されたもの、と考えられる。

 
 私見

 鳥取県倉吉市福庭(ふくば)波波伎(ははき)神社(祭神は事代主(ことしろぬし))の由緒には「事代主(ことしろぬし)大神(おおみわ)、国譲りの後、己も天の使いの旨を(き)け給い、国向けの代と、天夷鳥(あまのひらどり)命の御子・国夷鳥(くにのひらどり)命に手組ましめ、一ツ木の神玖四浮根(くしふね)に座しし船足を、此の青柴(あおしば)の巻(まがき)内にと(ふ)み方向けしめ来まして宣わく、吾心すがすがし幾世福庭(ふくば)曾此の青柴(あおしば)の弥栄に栄えゆく如く、皇孫命の大御代は栄え大坐ませ、己命の神魂は皇孫命の近つ護の神とならむ、天栄手(あめさかえて)青柴(あおしば)(まがき)に拍誓て御隠坐しし天栄手(あめさかえて)の宮なり」とある(式内社調査報告・1983)。

 藤原氏が焚書にしたかった文書が明治になって出てきました。藤原氏はこの文書の存在を知りながら、隠されていたので、事代主(ことしろぬし)に替えて一言主を創らなければならなかった。この文章は「玖四浮根(くしふね)(クシフルネ)」とあるので、クシフルタケ((たけ))と言う藤原氏が台頭する奈良時代までに存在した文章である。本来「玖四浮ル根」でなければならないが、「船足」に惑わされ「ル」が欠落している。新しく創作するならこのようなミスはしないため、高い自由度のもとに創作されたものではない。この文章で船着き場の場所も特定できる。海面が海抜3m以上(奈良時代以前)でないとその場所に船を停めることができないため奈良時代以降の者にはそれがわからない。事代主(ことしろぬし)亀谷(かめだに)丘陵の先端から福庭(ふくば)青柴(あおしば)(まがき)に移った。





 


 


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鳥取県北栄町の三輪神社(天忍穂耳)と国坂神社(大国主) [天忍穂耳(大物主)]

1 鳥取県北栄町下神の三輪神社と三輪山

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 下神の坂の途中にある三輪神社跡の石碑。

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 下神の坂の途中にある三輪神社跡の石碑

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 蜘ヶ家山(葛城山)より。左側が松神。右側が下神。下神の上、木の茂っているあたりに三輪山(邇邇芸)があった。三輪神社には天忍穂耳(大物主)がいた。

2 茶臼山(大国主の本拠地、伊那佐山・大神山・宇迦能山)と北条八幡神社

 三輪山の東(2kmくらい)に茶臼山(大国主の本拠地、伊那佐山・大神山・宇迦能山)がある。

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 蜘ヶ家山(葛城山)より。茶臼山(大国主の本拠地)と三輪山(天忍穂耳=大物主の本拠地)との間の丘陵地に造られている北栄町北尾の北条八幡神社の山。

3 北条八幡神社の祭神と由緒​​

 土下の三輪神社は大国主尊、少彦名尊を祀り、猿田彦神、倉稲魂神、天児屋根尊を合祭す。

 当神社は大正二年神社整理の結果八幡に合併せるものなるが元官帳所載の三輪神社なるを知るに足るものあれば茲にその概要を記す。

一、地名 上神郷下神郷は古伯耆国久米郡大神郷にして上神郷をカミツミワ、下神郷をシモツミワと称ふ.大和国三輪神を遷し奉りしより此の名称出づ。

二、往古三輪神の鎮座地は下神郷の中央なる三輪山の麓 字三輪脇に在りし・・・・・。

※ 私見 このあたりを古代、伯耆国久米郡大神郷と言っていた。「大神」とは伊邪那岐の時代からこの国の「王」の代名詞であった。大神郷にこの国の「王」がいた。

 「大和国三輪神を遷し奉りしより此の名称出づ」と「土下の三輪神社は大国主尊、少彦名尊を祀り」が問題である。

 藤原氏は下神の三輪神社(下神郷の中央なる三輪山の麓、字三輪脇に在った)を放火消失させて、移した土下の三輪神社の祭神を「大国主・少彦名」とした。これが奈良の三輪神社の系列なら同じところに再建するはずである。

 もともと「大国主・少彦名」は茶臼山の国坂神社に祀られており、土下に移したとする元の下神の三輪神社には大物主(天忍穂耳)が祀られていた。

 倭国が創建した神社の強奪の一例である。強奪というのは、奪う過程において倭人を多く殺しているからである。藤原氏が政権を奪った奈良時代から晒し首が始まった。

4 大物主は天忍穂耳であり北栄町の三輪山にいた。天忍穂耳の御子の邇邇芸(日向御子)が楯縫神社で成長して大宮神社に移り葦原中津国を統治するようになるまで、天忍穂耳(大物主)は茶臼山(大神山)にいた大国主を助けて、西日本各地に住んだ多くの移民の生活環境を整えてやる大事業に携わっていた。それまで大国主のやっていた事業を国譲りの後は天孫族が引き継いでやっていた。

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 旧東郷町史・第四節・東郷湾の時代には「今から十数万年前(洪積世)の東郷町の町域は、日本海が奥深く入り込み、大平山と馬の山に挟まれた大きな内湾の海中であった。その海岸線は、東郷谷の奥深い山すそを縁取るように、また、舎人・花見地区の平野部を完全に覆うように入り込んでいた。現在の標高でみると、約二十~三十㍍までの町域は、すべて海であったと考えられる。北条町の茶臼山・三輪山などは海中に浮かぶ島であった(図5)」とある。

 北栄町の隣の東郷町誌の古地図には左上に三輪山が載っている。その右が茶臼山(宇迦能山)である。

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※ 私見

 佐治氏は海抜25mくらいに海面があった鳥取県中部の地形をほぼ正確に描いている。ただし、「今から十数万年前(洪積世)」とあるが、倉吉市住吉神社の案内板に「往古この一帯が入江であった頃」とあるので、縄文海進のピーク時は今から五千五百年くらい前であり、そのときの海面は海抜25m前後まで上昇していた。十数万年前(洪積世)なら住吉神の伝承は残っていない。佐治氏の想定図でも茶臼山・三輪山・石山が確認できる。

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 左の白い囲い線は三輪山。三輪山の南(上=かみ)に三輪神社があった。倭姫命世記にある「倭の彌和の御室嶺の上の宮」はここであった。

 大物主(天忍穂耳)が三輪神社に来たので大国主は本拠地を松樹庵から国坂神社に移した。国坂神社は今でも大国主の子孫が奉斎している。

 右の白い囲い線は石山(いそのやま)である。石山はタギシ(古代の舵)の柄であった。タギシは鳥取県湯梨浜町長瀬高浜であった。大国主は石山(いそのやま)を越えて沖を通る船の目印になる高い建物(出雲大社のモデル)に行っていた。

 大国主が通った、当時、水際沿いにあったと確認できる道路(黄色い線)が今でも残っている。

 

 

 

 


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第二節 奈良の三輪山の「日向御子」は邇邇芸命である [天忍穂耳(大物主)]

   第二節 奈良の三輪山の「日向御子」は邇邇芸命である。
 北栄町下神に東の茶臼山より少し小さい三輪山があった。三輪山は今は崩されているが三輪神社跡の石碑は残っている。この山こそ奈良の三輪山のモデルである。ここに「日向御子」が祀られていた。
 下神の隣の松神神社には木花之佐久夜毘売・猿田彦が祀られている。ここに結婚前の木花之佐久夜毘売と猿田彦がいた。結婚して後は亀谷集落におられたが下種の大宮神社におられた邇邇芸命に伴って天忍穂耳に会うために三輪山を往復をしておられた。下神の三輪神社には大物主(天忍穂耳)が祀られていた。
 邇邇芸命は四歳で関金の神田神社に降りてこられ、成長するまで矢送神社におられ、その後、楯縫神社にしばらくいて下種の大宮神社に御所を築かれたのだが、矢送神社も楯縫神社も日照時間が短く日当たりの良くないところである。下種の大宮神社に移られてから、「この地は朝日の直に射し、夕日が火照る国で非常に良い地だ」と言われた。地元の住民(国神)はこれを聞いて邇邇芸命を「日向御子」と名付けた。邇邇芸命は日当たりの良さばかりを言うので地元の住民は「日向御子」のあだ名をつけた。
 また地元の住民は神阿多都比売のことを「木花之佐久夜毘売」というあだ名をつけた。神阿多都比売が通られると桜が咲いたように華やかになるので、このあだ名をつけた。鳥取県中部の集落の住民はすぐにあだ名をつける習性がある。
 私の祖母の母はたいそうな美人で娘のころは「お札去った」というあだ名をつけられていたそうである。お札とは明治時代の神功皇后の肖像が入った一円札・五円札・十円札である。お札の神功皇后はたいそうな美人である。祖母の母は神功皇后の肖像に比べられるほど美人であったらしい。
3
 このように鳥取県中部の集落はあだ名をつけるのが好きな地域性である。このような集落の地域性というものは、二千年たっても変わらないものである。

 「日向御子」とは邇邇芸命のあだ名であり、「木花之佐久夜毘売」とは神阿多都比売のあだ名である。
 米子に三輪神社があるがこれは全国に数ある三輪神社の一つで藤原氏が後に建立したものである。藤原氏は下神の三輪神社を消し去ろうとしていた跡がみられるが、米子の三輪神社ではなく、ここの三輪山が本当のモデルである。邇邇芸命の御所(下種)や葦原中津国とは目と鼻の先である。
 神武天皇は日向より出発したということを根拠に「日向御子」とは神武天皇であるという説があるが、日向とは北栄町の葦原中津国のことであり、なぜ日向というのかは、邇邇芸命が言った「日当たりの良い地」だからである。だから「日向御子」とは邇邇芸命のことであり神武天皇ではない。
 原因は藤原氏が日向の地名を宮崎県に持っていき、また日向御子を奈良の三輪山に持って行ったからである。邇邇芸命が下神の三輪山によく行っていたことと、日向の地名の成り立ちが分かっていないからである。
 下神の三輪山にいたのは、邇邇芸命の父の天忍穂耳命である。大物主とは天忍穂耳命のことであり、天忍穂耳命はここを拠点にして活動をしていた。

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大物主とは天忍穂耳であった [天忍穂耳(大物主)]

1 「古事記」によれば、「大国主神とともに国造りを行っていた少彦名神が常世の国へ去り、大国主神がこれからどうやってこの国を造って行けば良いのかと思い悩んでいた時に、海の向こうから光輝いてやってくる神様が表れ、大和国の三輪山に自分を祭るよう希望した。大国主神が『どなたですか?』と聞くと『我は汝の幸魂(さきみたま)奇魂(くしみたま)なり』と答えた」とある。

 「奈良の三輪山・三輪神社の祭神は日向御子と大物主であり、大物主は日向御子の父である」というヒントをもとに、北栄町下神の三輪山・三輪神社の祭神を考えてみた。

 邇邇芸は葦原中津国にいる出雲族(八十神)に子が生まれて成長するまで、倉吉市上福田の楯縫神社から父のいた北栄町下神の三輪神社まで行き来をしていたコース(倉吉市半坂経由で灘手別所から船で北栄町下神まで)が特定できる。

 邇邇芸は日当たりの良さを言うので、あだ名を付けることが好きな地元民に「日向御子」と呼ばれていた。下神の三輪山の祭神は邇邇芸(日向御子)であった。邇邇芸は三輪神社の大物主(天忍穂耳)に会いに来た大国主とも会っていた。

2 三輪神社(天忍穂耳)側から茶臼山(大国主)を見る。

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 大物主は天忍穂耳だが、江府町下蚊屋山口神社の祭神になっており、天安河原(江府町下蚊屋)での相談のときは天安河原にいた。饒速日・天照大神ほか大勢は江府町下蚊屋から鏡ヶ成→野添→関金町神田神社に降臨した。関金町耳から合流した天忍穂耳と饒速日は関金町日吉神社から船で小鴨川を下り清熊稲荷神社の峰(哮峰)に到着した。須佐之男に「一人になった大国主に協力してくれるよう」に頼まれた。大物主(天忍穂耳)は猿田彦と一緒に船で、小鴨川→天神川→茶臼山の東の内海に出て、茶臼山にいた大国主のところへやってきた。光り輝いてきたのは、猿田彦が鏡で照らしたからである。天孫降臨に際して、鏡を持った猿田彦を迎えに行かせたのも天忍穂耳である。

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 茶臼山(大国主)側から三輪神社(天忍穂耳)を望む。下神の三輪山は当時は内海に面していて今より高い山であった。砂で出来ているので今は一部造成されて団地になっている。

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 鳥取県北栄町下神にある三輪神社跡の石碑

 この三輪神社にいれば、葦原中津国とも近いため葦原中津国の様子がよくわかった。

3 大物主の子孫の大田命を祀っている神社は鳥取県西部に5神社ある。饒速日が祀られている江尾神社の周辺は大物主が祀られている。

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 藤原氏は饒速日を消すために天忍穂耳を大物主という別名に変えた。鳥取県西部の祭神で使い分けているのは、饒速日を邇邇芸に書き直したのでそこは天忍穂耳のままにした。岡山で生まれて4才で鳥取県中部に降臨した邇邇芸が父の天忍穂耳と鳥取県西部で一緒にいるわけがない。鳥取県西部で一緒にいたのは鳥取県西部で生まれた饒速日である。

 饒速日の父は天忍穂耳であり、饒速日を祀る数少ない神社の江尾神社の周りには天忍穂耳は祀られていなければならないが、周辺の神社に祀られているのは大物主が多い。

4 邇邇芸の父(大物主)は実父(天忍穂耳)であった。

 神武天皇の四兄弟のいた四王寺山の横に上神がある。天孫族のいた山の麓には〇神という集落がある。それなら下神にある三輪神社にいたのも天孫族でなくてはならない。天忍穂耳が下神の三輪神社にいた。少彦名が常世の国へ去った後、大国主とともに多くの渡来人が定住した各地の衣食住の環境を整えてやる大事業を行っていた。国譲りの後、大国主命は邇邇芸と大事業を行った。邇邇芸は三輪山で大国主と会っている。 

◎ 原田常治氏の説

 「特選神名牒」では、桜井市三輪の大神神社の祭神は、「倭大物主櫛瓶玉命」と、「櫛瓶玉」がついている。松山市の国津比古命神社の祭神は、「櫛玉饒速日命」と、「櫛玉」がついている。大物主神は「大物主櫛瓶(甕)玉命」、饒速日は「櫛玉饒速日命」と呼ばれていた。

 饒速日について、神名の中に「櫛玉」があること、また大物主神には「櫛瓶(甕)玉」があることから、原田常治氏は「櫛玉=櫛瓶(甕)玉」と結論して、「大物主は饒速日尊であることが判明した」と言った。

 しかし、「櫛玉=櫛瓶(甕)玉」ではなかった。「櫛玉(くしたま)」は息子であり、「櫛瓶(甕)玉(くしみたま)」は父親であった。

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 櫛玉饒速日は江府町江尾神社から下蚊屋(大物主が祀られている)に集合し猿田彦の待っていた鏡ヶ成から野添経由で関金町神田神社に降臨した。関金町日吉神社から関金町耳にいた父の櫛甕玉天忍穂耳とともに船に乗り倉吉市の清熊稲荷神社の峰(哮峰)に到着し、大国主の父の須佐之男に会い、十種神宝を授かった。

 天忍穂耳は須佐之男に頼まれて少彦名のいなくなった大国主に協力するために、猿田彦と一緒に船で大国主の居る茶臼山松樹庵の東の内海に到着して鏡で照らした。その後、天忍穂耳と猿田彦はそれぞれ大国主より西の下神(三輪神社)と松神に住んだ。

5 参考 鳥取県西部で大物主・天忍穂耳・大田命を祀る神社

北野神社 米子市赤井手(大物主)

三輪神社 米子市小波(大物主)

鶴田神社 西伯郡南部町鶴田(大物主)

森脇神社 西伯郡伯耆町畑池(大物主)

小林神社 西伯郡伯耆町小林(大物主)

井原神社 日野郡日野町福長(大物主)

矢原神社 日野郡日南町茶屋(大物主)

御机神社 日野郡江府町御机(大物主)

山口神社 日野郡江府町下蚊屋(大物主)

大河原神社 日野郡江府町大河原(大物主)

勝田神社 米子市博労町(天忍穂耳)

犬田神社 米子市陰田町(天忍穂耳)

壹宮神社 西伯郡大山町上萬(天忍穂耳)

熊野神社 西伯郡南部町金田(天忍穂耳)

水谷神社 日野郡日南町笠木(天忍穂耳)

山根田神社 日野郡日南町福萬来(天忍穂耳)

野組神社 日野郡日南町新屋(天忍穂耳)

霞神社 日野郡日南町霞(天忍穂耳)

福成神社 日野郡日南町神戸上(天忍穂耳)

漆原神社 米子市橋本漆原(大田命)

田中神社 西伯郡南部町中三反田(大田命)

大田神社 西伯郡南部町下中谷赤岩(大田命)

菅福神社 日野郡日野町上菅250番(大田命)

福栄神社 日野郡日南町神福(大田命)

 

 


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