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千三百年の間、藤原氏に消されてきた伯耆国(鳥取県中西部)の真実の歴史が、今よみがえる。

倭健命ゆかりの地に行ってきました [第九代開化天皇、第十代崇神天皇、第十一代垂仁天皇]

 1 倭建命が矢を放った矢筈山のあるのは関金町清水集落の奥ではなく、蒜山の郷土史家によると犬挟峠の東であった。

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 倭建命は矢筈山で「この矢のとどく限り兇徒悪魔は退散して我が守護の地となれ」と念じ矢を放った。その矢を関金町生竹の矢止めの荒神が止めた。

2 矢止めの荒神

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 橋の向こうの集落が生竹である。この反対側には耳集落がある。

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 矢止めの荒神。地図では因山神社となっている。石段を上がっても小さな祠があるだけである。

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 案内板には「十二代景行天皇の御代、伯耆国と美作国の境に矢筈山という高山あり、その山頂に唐王権現という石祠と石塔あり、日本武尊西国平定の道すがら矢筈山に登り、山頂より東北に矢をつがえ『この矢の止まる限りをわが守護の地とならん』と、矢を放ち給えば東北なる二里余りの小鴨村加茂河内生竹と称する所に落下せり。このところに荒神宮の小祠あり、荒神宮の神さま里人と相謀り『貴き神の矢なるべし』と、この矢を丁重に遺りかえせしが、これより後、生竹の里人達は、矢をお止になりし荒神さま、即ち、矢止め荒神さまと、益々あがめている」とある。

3 私見

(1)古事記には「天照大神は、『豊葦原の水穂の国は、私の子、天忍穗耳命が治めるべき国だ。』と言って、天から降らせた。天忍穗耳命は天の浮橋に立ち、下界を窺って『豊葦原の水穂の国は、ひどく騒がしい』と言って、再び天に昇って天照大神に状況を訴えた。そこで高御産巣日神と天照大神は天の安河の河原に八百万の神々を招集して、思金神に『この葦原の中つ国は、私の子が治めるべき国だと言依さした国である。しかしこの国には、荒ぶる国つ神がたくさんいる』」とある。

 古事記には、主語は消してあるが「この葦原の中つ国は、私の子が治めるべき国だと言依さした」のは伊邪那岐(大神)であった。「しかしこの国には、荒ぶる国つ神がたくさんいる」とある。荒ぶる国つ神のことを荒神と言った。荒神がたくさんいたから天忍穗耳は「ひどく騒がしい」といった。この神は出雲の神であり、神在月には出雲に集まった。

(2)「十二代景行天皇の御代」とある。なぜ、あえて書くのか。倭建命は古事記・日本書紀に景行天皇の皇子と書いてある。調べればすぐわかることである。しかし、本当の系譜は「七代孝霊天皇の御代」であった。「倭建命の父は孝霊天皇であった」を参照されたし。この案内板を作ったのは神社庁か教育委員会だろう。どちらも、亡命百済王朝(日本)の藤原氏である。藤原氏は「嘘も百回つけば本当になる」とする。孝霊天皇や倭建命の出てくるところには、必ずといっていいほど景行天皇を書き加える。景行天皇は朝鮮半島の百済国の王であった。

(3)「西国平定の道すがら」とある。鳥取県中部には矢を一本放って瀬戸内を西に行ったように思わせる書き方である。しかし、西国平定は倭国大乱が終結してからである。倭国は鳥取県中部であったから、鳥取県中部西部が最終目標である。案内板を書いた者は鳥取県中西部を素通りしたと思わせるように改ざんしている。

 案内板を書いた者は倭国王家に鬼・土蜘蛛・河童といわれていた荒神を擁護している。この時は倭国大乱の始まりの時であった。吉備国を平定(新見にいた出雲族の石蟹の平定など)して蒜山に来た時である。神倭磐余彦と同じく南から平定してきている。神倭磐余彦も首領は殺したが一族は殺さなかったので荒神はたくさん残っていた。神倭磐余彦は平定して殷王朝から引き継いできた荒神(出雲族)の宗教を改宗させようとして妻木晩田を開いたが、その妻木晩田で七代孝霊天皇は不祥事を起こし荒神(出雲族)の反乱を招いた。

 倭国は鳥取県中部であったからこのあと鳥取県中部を平定した。そして西部を平定した。特に西部では、妻木晩田を拠点としていた出雲族を追い払い、南部町の手間山に逃げ込んだ出雲族を手間山の麓で捉えた。鬼住山、大倉山、鬼林山の鬼(出雲神族=準王一族)と鬼の発生元の出雲も平定して出雲族を降伏させ倭国大乱は終結した。

(4)倭建命が念じた「兇徒悪魔は退散して」を矢止めの荒神の案内板ではなぜ削除したか。荒神は荒ぶる神・まつろわぬ神であり、鬼・土蜘蛛・河童・猿などと呼ばれ殷王朝から引き継いだ人間の生贄を行っていた。天皇家とは十代崇神天皇まで敵対し反乱もしていた。倭国大乱とは鳥取県にいた荒神(出雲族)の反乱であった。倭建命のいう「兇徒悪魔」とは荒神そのものであった。消したものが当の本人であった。それは神社庁・教育委員会の元の藤原氏であった。藤原氏は「兇徒悪魔」(荒神)の子孫である。

(5)「生竹の里人達は、矢をお止になりし荒神さま、即ち、矢止め荒神さまと、益々あがめている」とある。生竹の里人達に世論調査でもしたのだろうか。あがめるわけがない。倭国王家に鬼・土蜘蛛・河童といわれていた荒神(ここでは河童)を擁護している。案内板を書いた者は倭国王家に対立していた兇徒悪魔(荒神)の子孫の藤原氏(神社庁・教育委員会)であった。

(6)この案内板を書いたのは神社庁・教育委員会であり荒神と同族である。「兇徒悪魔」が荒神であることを知っていて書いている。荒神に味方をしている事がわかる。明治維新は「兇徒悪魔」の子孫の藤原太政官制から始まった。神社庁・教育委員会は今でも藤原氏(荒神=兇徒悪魔)の流れにある。

 

 

 


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