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千三百年の間、藤原氏に消されてきた伯耆国(鳥取県中西部)の真実の歴史が、今よみがえる。

日向三代と神武天皇四兄弟 ブログトップ
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神倭磐余彦4兄弟は鬼八(略奪集団)を平定するために、九州に行った [日向三代と神武天皇四兄弟]

神倭磐余彦4兄弟は鬼八(略奪集団)を平定するために、九州に行った。

 

1 九州には生贄の風習のある鬼八がいて渡来人を掠め取っていた。御毛沼命は常世国から渡来しようとする者に「朝鮮半島の辰韓を経由して倭国(鳥取県中部)に来るように」渡来ルートの変更をさせるために常世国(台湾やベトナムや中国雲南省)に渡った。

 鳥取県中部の標高172mの四王寺山は周囲に太陽の光を遮る山などがなく、当時は家や船を造るため木を切り「つくし」ていたので日当たりの良い日向の地であった。神倭磐余彦4兄弟は日向(四王寺山)を出発した。

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2 山口県光市より西は神倭磐余彦4兄弟の伝承がほとんどないが、島田川流域には磐余彦や御毛沼の伝承があるので、山口県光市から大分県の宇佐に渡ったと思われる。神倭磐余彦4兄弟は宇佐から岡田宮に移った。稲飯命は九州の西側から辰韓に渡り、鉄の鏃を作って半島の西側(馬韓)から出港し岡田宮で待っていた神倭磐余彦たちに武器を送った。

以下の鉄鏃は辰韓か加羅で稲飯命が作り、馬韓から岡田宮にいた神倭磐余彦たちに送られ、九州の鬼八に対して使われた。

※(2015-07-19)  鹿児島県文化振興財団埋蔵文化財調査センターは16日、「大崎町永吉の永吉天神段遺跡の二つの土坑墓から、弥生時代中期(約2100年前)の鉄鏃5点が見つかった」と発表した。」

 「昨年7~8月に『土坑墓』から発見され、CTスキャンなどで解析した上で、吉ケ浦遺跡(福岡県太宰府市)と安永田遺跡(佐賀県鳥栖市)で見つかった9点と同時期で同型だと判断したという。南九州では初めてで、鉄製品としても県内最古級という。

 副葬品の場合、墓からまとまって出土する例が多いが、今回は墓の中にまとまって置かれていなかったことから、副葬品でなく被葬者に刺さっていた鉄鏃とみられる」とある。 

※ 私見

吉ケ浦遺跡(福岡県太宰府市)と安永田遺跡(佐賀県鳥栖市)で見つかった紀元前100年頃の鉄鏃は神倭磐余彦たちが放った鉄鏃である。その先には吉野ヶ里遺跡があるので、そこでも鉄鏃を放っている。吉野ヶ里遺跡は奴隷を逃げられないようにしていた。柵と堀の位置が通常と逆である。

 吉野ケ里を100名城の1つ(城のルーツ)として聖地にしているが、ここにいた略奪に喜びを感じる鬼八は藤原氏と同族である。本当の山城は大谷と北面の2集落からしか上がれないようにしてある倉吉市の四王寺山である。

鹿児島県でも紀元前100年頃の鉄鏃が見つかっているので紀元前60年に即位した神倭磐余彦たちは九州全域を平定している。五瀬命と神倭磐余彦は九州全域を平定して倭国(鳥取県中部)に帰ってきた。

 

3 古事記には「御毛沼命は、波の穂を跳みて常世国に渡りまし、稲氷命(稲飯命)は、妣の国として海原に入りました」と書かれている。

「稲氷命(稲飯命)は、妣の国(玉依姫は辰韓出身)として海原(海抜4m~20mの陸地)に入りました」という表現は「事代主は海の中に入られた」(日本書紀)と同じであり対岸に渡ったということである。

「倭人が腰にヒョウタンをつけて海を渡り、新羅に来て、瓠公(ホコ)と呼ばれた。彼は、初代王の赫居世(朴氏祖)~四代王の昔脱解(昔氏)まで、建国の重臣として活躍した」(三国史記)とある。「新撰姓氏録」において新羅の祖は稲飯命だとされている。赫居世居西干とは日向の王という意味であり、四王寺山(日向)にいた稲飯命(王子)を思わせる。

大臣が何代にもわたって仕えるのは日本書紀の武内宿禰や蘇我氏3代に例があり、藤原氏の手法である。稲飯命は紀元前57年に即位した新羅国の初代王であった。建国の重臣ではなく、建国者その者であった。


 

 


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神武元年は紀元前60年(弥生時代中期)であった [日向三代と神武天皇四兄弟]

 神武元年は紀元前60年(弥生時代中期)であった
 
1 神武元年は日本書紀によると西暦紀元前660年に相当する。この神武元年は実際よりも古く改ざんされているという説がある。
 なぜ神武元年を実際より古く見せなければならなかったか。
 それは天照大神が紀元前210年に来倭した徐福であることを消す方法の一つとして紀元前210年よりもずっと古くしなければならなかったからである。天照大神が徐福であることを消す方法としては他に、欠史八代を作り長い寿命にしたり、72代にわたるウガヤフキアエズ王朝を創ったり、高天原は雲の上にあったとしたり、天照大神は女性であったとする、などがある。
 ただ、何年改ざんされているかについては説が分かれる。(1)600年改ざん説 (2)660年改ざん説 (3)720年改ざん説がある。それぞれ確信のある年代から割出した説である。例えば660年改ざん説によると神武天皇の即位は西暦元年となり、西暦は西洋から来たのではなく神武天皇の即位を元年にしたものである、とする。
 600年改ざん説は少数だが江戸時代すでに主張されていた。朝鮮半島との交易を調べるとこの説になるそうである。始めに600年ありきで、切りのいい600年改ざん説が正しいと思われる。どの天皇が何年水増しされているかについては、そもそも実在しない天皇も含まれているので全体で600年(60年×10回)としか言えない。干支がずれないように60年単位で増やしている。私は紀元前60年説が正しいと思う。
 
2 神武元年を紀元前60年(弥生時代中期)とする根拠。
(1)新羅の建国年
 「新撰姓氏録」では、右京皇別 新良貴- 彦波瀲武鸕鶿草葺不合尊の男の稲飯命の後。続けて「是出於新良國。即為國主。稻飯命出於新羅國王者祖合」と記し、稲飯命は新羅王の祖であると伝える。
 鈴木真年著作の「朝鮮歴代系図」には新羅王家の朴氏が飯氷命を遠祖とする系図を挙げ、赫居世居西干に仕えた倭人重臣の瓠公と同一人物であるとする。また、日本側に残る諸豪族の系図から推定された本来の皇室系図における稲氷命と、朝鮮側に残る新羅歴代の系図の赫居世が同世代の人物であり、暦年研究からもこの両者が同時代に活動したことがわかり、飯氷命を瓠公とする所伝には信憑性がある、とする。
 神武元年紀元前60年説は紀元前57年に新羅を建国した瓠公(赫居世=稲飯命)と符合する。紀元前60年に稲飯命は辰韓で周囲に「弟が倭国の天皇になった」と自慢したふしがある。
(2)中尾遺跡
 倉吉市の四王寺山(神倭磐余彦の4兄弟がいた)で見つかった紀元前100年頃の中尾遺跡(住居跡と国内最長の鉄矛)とも符合する。別稿「神倭磐余彦4兄弟のいた倉吉市の四王寺山の近くから紀元前100年頃の遺跡が発掘された」を参照されたし。
(3)九州の鉄の鏃
 九州各地で見つかっている紀元前100年頃に使われた鉄鏃とも符合する。
以下の鉄鏃は辰韓・加羅で稲飯命が作り、馬韓から岡田宮にいた神武天皇たちに送られ、九州で使われた。
※(2015-07-19)  鹿児島県文化振興財団埋蔵文化財調査センターは16日、「大崎町永吉の永吉天神段遺跡の二つの土坑墓から、弥生時代中期(約2100年前)の鉄鏃5点が見つかった」と発表した。「昨年7~8月に『土坑墓』から発見され、CTスキャンなどで解析した上で、吉ケ浦遺跡(福岡県太宰府市)と安永田遺跡(佐賀県鳥栖市)で見つかった9点と同時期で同型だと判断したという。南九州では初めてで、鉄製品としても県内最古級という。副葬品の場合、墓からまとまって出土する例が多いが、今回は墓の中にまとまって置かれていなかったことから、副葬品でなく被葬者に刺さっていた鉄鏃とみられる」とある。 
(4)妻木晩田の松尾頭遺跡
 妻木晩田の松尾頭遺跡は紀元前100年頃に始まっており。所子の糺神社から神武天皇が来て出雲族に宗教改革を始めさせた。別稿「神武天皇たちは妻木晩田を開いた」を参照されたし。
(5)高地性集落
 人間が生活するには適さないと思われる山地の頂上・斜面・丘陵から、高地性集落の遺跡が見つかっており、その性質は「逃げ城」とされる。高地性集落の分布は、弥生時代中期では中部瀬戸内と大阪湾岸にほぼ限定される。
 略奪集団(出雲族)から住民を避難させるために神武天皇は高地性集落を造らせた。また分布からもわかるように、弥生時代中期の神武天皇は広島県福山市を本拠地とし、東は摂津国と大阪湾沿岸までしか行っておらず、奈良には行っていない。
 
3 神武天皇の生誕年は52歳で即位したとされるから紀元前112年頃となる。饒速日の誕生は紀元前210年以降である(父の天忍穂耳の伯耆国到着が紀元前210年だから)。饒速日は次男(宇摩志麻遅)がおなかの中にいるときに亡くなったのだから、享年25~30歳くらい。瓊瓊杵命は饒速日が亡くなった頃に生まれたから紀元前180年頃の生まれと思われる。紀元前180年(瓊瓊杵の生誕年)引く紀元前112年(神武天皇の生誕年)は68年であり、それを2で割る(ウガヤフキアエズは火火出見のあだ名だから神武天皇は瓊瓊杵の孫)と34歳となる。世継ぎ天皇が生まれたときの父の平均年齢は34歳となる。
 また、2代綏靖天皇は神武天皇が即位後に娶った皇后の第2子であるから紀元前55年頃の生まれと思われる。7代孝霊天皇(生誕年を115年とする)までは5代であるから、世継ぎ天皇が生まれたときの父の平均年齢は34歳となる。
 神武天皇は特別だから除外すると、瓊瓊杵命から神武天皇までの世継ぎ天皇が生まれたときの父の平均年齢34歳であり、綏靖天皇から孝霊天皇までの世継ぎ天皇が生まれたときの父の平均年齢34歳であるからほぼ同じになる。この結果は、天照大神は徐福(紀元前210年渡来)だったという私見にも合致する。
 出雲国と接する地域で鬼(出雲族)と戦っていた孝霊天皇(115年~211年)が倭国大乱の時代の天皇となり、皇女の倭迹迹日百襲姫の生誕年を151年頃とすると倭迹迹日百襲姫は倭国大乱の時代を生きた「宋女」となる。
 古事記・日本書紀の初期天皇の寿命はあまり長すぎるが、「魏志倭人伝」に「倭人はたいへん長生きで、100歳、あるいは8、90歳まで生きる」とあるから世継天皇を生む年齢も現代とあまり変わらなかった。その後、荘園制度や過酷な年貢の取立てなどで藤原氏に搾取されて寿命は短くなるが・・・。

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神武天皇(紀元前112年生、紀元前60年即位)のいた四王寺山の近くから紀元前100年頃の遺跡が発掘された [日向三代と神武天皇四兄弟]

 神武天皇(紀元前112年生、紀元前60年即位)のいた四王寺山の近くから紀元前100年頃の遺跡が発掘された。

1 鳥取県倉吉市大谷の中尾遺跡より弥生時代中期(約2100年前)の竪穴建物跡12棟、掘立柱建物跡5棟が見つかった。

 倉吉市ホームページより
教育委員会事務局 文化財課 ―弥生時代中期の集落跡発見!― 中尾遺跡発掘調査 
 「倉吉市教育委員会では、平成27年(2015年)8月より中尾遺跡(倉吉市大谷)の発掘調査を行っており、弥生時代中期(約2100年前)の竪穴建物跡12棟、掘立柱建物跡5棟、古墳時代後期の円墳1基などを確認しました」とある。

2 遺跡の位置
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 中尾遺跡は神武天皇4兄弟の世話と守りをしていた大谷集落を隠すように取り巻く丘陵地の上にあり神武天皇4兄弟と同時期に建てられたものであると解する。

3 私見では「神武天皇の即位年は紀元前60年であり、神武天皇の生年は紀元前112年である」とする。


 神武天皇の4兄弟は鳥取県倉吉市の四王寺山(四皇子山 )におられたのであり、4兄弟の世話と守りをしていた大谷集落の近くの中尾遺跡で紀元前100年頃の12棟の建物跡が発掘された。発掘予定はないが、大谷集落の下には多くの紀元前100年頃の建物跡があるはずである。


4 神倭磐余彦(紀元前60年即位)が鳥取県倉吉市の四王寺山(山城)にいた証拠がまた一つ見つかった。長髄彦の一族が近くにいたので土塁を築いた。その土塁の上から国内最長の弥生時代中期(紀元前100年頃)の鉄矛が出土した。


 2020年11月3日付け日本海新聞に「国内最長の弥生鉄矛が出土した」の記事が載った。


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5(1)「内陸部にある同所が日本海側と瀬戸内海側とを結ぶ南北の物流交流ルートの拠点的な集落」とある。


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 海抜4mに海面があると、北条砂丘が笠沙之御前になるので、その頃は北面の前まで海岸が来ていた。山幸彦は新羅から一尋和邇に乗って一日で倉吉市北面まで帰ってきた。そして、四王寺山に上がり、本拠地にした。ウガヤフキアエズとは山幸彦のあだ名であった。四王寺山で神倭磐余彦の四兄弟を育てた。


 鉄矛は新羅から日本海を船で四王寺山に運ばれた。


(2)「見つかったのは実用品として使用されていない鉄矛・・・鉄矛は建物の柱穴の埋め土に突き立てられていたことから、儀式の一部として使用されたとみられる。・・・村上恭通センター長は『何らかの儀礼があったことはほぼ間違いない』と強調。・・・当時の祭祀研究が進展するとみる」とある。


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 関金の日吉神社は川に船が出せるようになっているので、饒速日は日吉神社より船着き場のある清熊稲荷神社のある峰まで船で降った。清熊稲荷神社の峰が哮峰であったから、饒速日はしばらく哮峰にいた。四王寺山の土塁の向きから長髄彦の一族(出雲族)は倉吉市富海(鳥見邑)にいた。長髄彦(海幸彦)の一族は饒速日を信奉していたので哮峰の近くの倉吉市富海を本拠地としていた。


 四王寺山にいたのは火火出見(山幸彦)であり、土塁が向いているのは倉吉市富海なので、倉吉市富海には火火出見(山幸彦)と敵対していた長髄彦(海幸彦)がいた。火火出見(山幸彦)は3年間新羅に逃げていた。しかし、父の邇邇芸がここは良き地なりと言っていたので、鳥取県中部を取り戻すために帰ってきた。鉄矛は新羅から直接運んできた。


 鉄矛は細いし、近くに敵対していた海幸彦(長髄彦)がいたので祭祀ではなく実用品として使用されていた。竪穴建物を焼失させたのは、敵対していた長髄彦(海幸彦)である。


 


 饒速日(哮峰)を信奉していた長髄彦の一族は現在、富海の対岸の倉吉市生田に住んでいる。倉吉市は生田に移り住んでいる長髄彦(海幸彦)一族が中心になってできた自治体である。


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​神武東征は不比等の創作であった [日向三代と神武天皇四兄弟]

  ​神武東征は不比等の創作であった


1 日本書紀の神武東征の順序

➀速吸の門(豊予海峡)(椎根津彦)②一つ上がりの宮(宇佐)③岡水門(筑紫)④安芸⑤吉備⑥浪速国


2 古事記の神武東征の順序

➀日向を出発して②足一騰宮(宇佐)③岡田宮(筑紫)④安芸⑤吉備⑥速吸の門(明石海峡)(槁根津日子)


3 私見

 速吸の門を日本書紀では豊予海峡でなければならないし、古事記では明石海峡でなければならない。どちらが正しいであろうか。

 明石平野の弥生時代の遺跡

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 椎根津彦(槁根津日子)は国つ神であり土地に土着の者であるから縄文人であった。新方遺跡では弥生時代前期に石鏃の刺さった縄文系人骨3体が発掘されている。新方遺跡に住んでいたのは椎根津彦(槁根津日子)一族であった。神武天皇は弥生時代中期だから殺害されてから通りかかり、椎根津彦(槁根津日子)に賊はどこに行ったか聞いた。椎根津彦(槁根津日子)は道案内をした。

 大分市・臼杵市に弥生時代の遺跡は少ない。

 速吸の門は明石海峡であり、古事記が順序としては正しい。


4 それでは古事記にある神武天皇たちが出発した「日向」とはどこか。
 通説は宮崎県の日向国とする。しかし、津田左右吉は昭和15年発刊の「古事記及び日本書紀の研究」において「宮崎県の日向国は膂宍の空国(肥沃でない国)とされており都であった証しがない。古墳群があるからというだけでは都にはならない」とし「日向とは宮崎県の日向国ではない」とした。
 ここで北九州の研究者は「日向は北九州にあった」とするが、北九州ではその前後がつながらない。邇邇芸命は「この地は朝日が直に刺す国、夕日の火照る国」と言ったので、日向御子というあだ名をつけられた。日向とは邇邇芸が降臨した地のことである。

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 邇邇芸は成人になるまで、矢送神社と楯縫神社で過ごしたが、どちらも日陰であり日照時間も短いところである。上種の大宮神社に移ってから日当たりが良いので「この地は朝日が直に刺す国、夕日の火照る国」といった。四王寺山も楯縫神社より海側にあるので日向の地である。邇邇芸が降臨したのは間違いなく、鳥取県北栄町上種の大宮神社である。神武天皇たち4兄弟が育った四王寺山も日向であった。神武天皇たち4兄弟は日向の四王寺山を出発した。最初の目的は九州の蝦夷の平定であった。倭国(鳥取県中部)にとって九州は半島に渡るために重要な場所であった。

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 神武天皇たち4兄弟は日向をたち山口県光市から船で宇佐に付き、稲飯命は鉄の武器を造るために半島に渡った。稲飯命は鉄の武器を造って半島の西側から船で岡田宮に帰ってきた。神武天皇は筑紫の岡田の宮で待っていた。岡田宮から吉野ヶ里遺跡に行くまでの2ケ所で紀元前100年頃の鉄鏃が出土している。これは神武天皇4兄弟が放った鉄鏃である。吉野ヶ里でも鉄鏃が見つかっている。吉野ヶ里では蝦夷が人間を奴隷にしていた。堀と柵の位置が通常の反対である。神武天皇たちは吉野ヶ里も攻撃した。紀元前100年頃の鉄鏃は鹿児島でも見つかっているので、神武天皇4兄弟は九州全域を平定している。

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​ イツセと磐余彦は九州を平定して生まれ育った倭国(鳥取県中部)に帰ってきたが、ナガスネヒコの矢がイツセにあたり、いったん山陽に退却した。山陽でも蝦夷を平定した。しかし奈良には行っていない。倉吉市清谷の上里神社の由緒には「山陽に行った」とだけあり、奈良とは書いていない。

 神武天皇は福山市柳津と尾道市高須を拠点として蝦夷を平定していった。​

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 神武天皇は蝦夷に祭祀方法を変えるよう指導していた。銅鐸祭祀ではなく線刻土器祭祀を勧めていた。茨木市東奈良遺跡の線刻土器は紀元前1世紀のものであり神武天皇が変えさせた。しかし、奈良の線刻土器は紀元1世紀だから、神武の100年後、4代の懿徳天皇が奈良を平定し、線刻土器祭祀に変えさせた。神武天皇は摂津国までしか平定していない。


5 なぜ、不比等は神武東征を創作したのだろうか。

 津田左右吉はその著書「古事記及び日本書紀の研究」において「神武天皇の東遷の説話そのものが・・・ヤマトの都において重要の地位を有するものによって考案せられたことがわかるので、物語そのものからいうと・・・ヤマト朝廷の起源を述べた一つの説話なのである。やはり歴史的事実としての記録とは考え難い」とする。

 「ヤマトの都において重要の地位を有するもの」とは藤原不比等であった。

 藤原鎌足は642年の百済からの船に乗っていた翹岐であり百済人である。不比等は百済系2世であった。白村江の戦いで亡命してきた百済王族を鎌足は宮崎県に逃がしている。平城京を造ってもらって不比等は百済王族を宮崎県から奈良に呼び寄せた。百済王族が宮崎から奈良に遷ったことを神武天皇に仮託して神武東征を創作した。古事記・日本書紀を改ざんし、西日本に神武東征関係のテーマパークを多く造った。

 神武東征関係の19の自治体が日本遺産登録のために運動している。私が調べた限りでは、創作された地がほとんどである。     

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神武天皇は山を穿って道をつけ、ゲリラ戦を展開していた [日向三代と神武天皇四兄弟]


 神武天皇は山を穿って道をつけ、ゲリラ戦を展開していた


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 神武天皇は鴨建角身(八咫烏)の案内で鏡ヶ成から野添経由で上大立(穿邑)に降臨した。

 最初に下福田にいた兄ウカシを退治した。大立に楯縫邑を置いた。

 上大立(穿邑)から最初につけた道は鳥取県道313号線であった。終点下見の近くに別宮(城田)を造った。もう一方の終点に佐野大橋を造った。

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 日吉神社に行くように道が続いている。日吉神社の祭神は邇邇芸になっているが、川の横にあるので祭神は日吉神社から船を出している。日吉神社の祭神は饒速日であった。ウマシマジはこの時までに合流していたので日吉神社を通った。富海のほうから見つからないように関金宿に入っている。

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 関金宿から穿って鳥取県道306・38号線つけ、福山・曹源寺・下西谷・穴鴨・加谷・木地山・下畑・田代・大谷から竹田地区(猛田郷)を平定した。円谷広瀬線も同時進行で穿ってつけた。

 その後、曹源寺から小河内へ、木地山から福吉・鉛山経由で神倉(かんのくら)に至り、土蜘蛛を片柴(忍坂邑)に集めた。土蜘蛛を片柴(忍坂邑)に集めて、酒を飲ませて皆殺しにした。

 大谷から津山に行くことができる。

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 313号線の終点の近くに城田(別宮)を造り、その川下にいた出雲族を平定していった。伊勢でも戦った。伊勢から北栄町の茶臼山(伊那佐山)に船で行っている。八橋に笠縫邑を置いた。

 城田(別宮)からさらに鳥取県道34・30号線を穿ってつけた。香取集落から305号線で大山町前集落に行き船で阿弥陀川を下り、糺神社に至った。神武天皇は妻木晩田と長田集落をつくり、松尾頭地区で出雲族に宗教改革をさせた。

 神武が媛蹈鞴五十鈴媛と結ばれたのは伯耆町の久古神社であった。

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 神武天皇の段にある「宇陀」とは鳥取県倉吉市高城地区(楯縫郷)のことであった [日向三代と神武天皇四兄弟]

​​ 神武天皇の段にある「宇陀」とは鳥取県倉吉市高城地区(楯縫郷)のことであった 


1 イツセとイワレヒコは西の米子市淀江の津から船で東郷池に入った。「波荒く立ち騒ぐ波速の渡」とは東郷池の入り口である。倭建命の言った「柏の渡」と同じ場所である。当時の東郷池は柏葉の形をしていた。

 戦前まで倉吉市上井町は日下村(草香村)であった。何度も洪水にあって標高が4m以上になっているが、当時は海面は海抜4mにあり、日下村の標高は4m以下であり、波もなく穏やかな津があった。日下村の白肩津(楯津=蓼津)は倉吉市清谷にあった津である。洪水で高くなっているが海抜4m以下の地点も残っている。清谷本村に上陸し坂を南に上がりナガスネヒコの攻撃を受けた。

 登美の地(饒速日の妻でありナガスネヒコの妹が住んでいた北栄町土下山周辺)に住むナガスネヒコ(中洲の豪雄)は対岸の倉吉市清谷にイワレヒコの船が到着したのを知り、軍を集めて一戦を挑んだ。トミビコ(ナガスネヒコ)の放った矢が、兄のイツセの命の手に刺さって深手を負わせた。傷を受けた手を洗ったところを血沼(茅渟)の海という。傷を洗った水は海水ではなく真水のはずだから海ではなく、より真水に近い東郷池の南岸であった。

 日本書紀・垂仁・石上神宮で「イニシキは茅渟の菟砥の河上においでになり、・・・」とある。茅渟(血沼)とは東郷池のことであり「菟砥の河上」とは東郷池の南の菟砥という陸地にある河上を意味し湯梨浜町川上のことであった。

 その後木国(智頭町)まで一旦退却した。そこでイツセ命は亡くなった。イワレヒコは山陽に出た。

 イワレヒコは広島県福山市を本拠地として倭国(鳥取県中部)を取り戻す機会をうかがっていた。

 しばらく、福山市を本拠地にして各地に住んでいた略奪集団の出雲神族(ナガスネヒコの一族=鬼・土蜘蛛・蝦夷)を平定したが、内つ国(鳥取県中部)に赴くため岡山県の旭川河口の龍ノ口山に到着し石上布都魂神社の地で高倉下に素戔嗚の剣を献上されて蒜山高原に至った。イワレヒコは蒜山高原の加茂神社と福田神社の祭神になっているので、蒜山高原を宿営地にしていた。

 蒜山高原(高天原)から高城地区(宇陀)に下りるルートを探して道に迷っているときに、道臣は関金の鴨ヶ丘にいたヤタガラス(鴨建津之身)を連れてきた。ヤタガラス(鴨建津之身)に道案内をさせて菟田穿邑(倉吉市高城地区の上大立)に下りてきた。上大立に下りるには江府町鏡ヶ成からスタートしなければならない。


2 神武天皇聖跡菟田穿邑は奈良の宇陀ではなく倉吉市上大立であった

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 穿って着いた邑が穿邑ではなく、たどり着いた邑から穿って道をつけたから穿邑という。ここでいう「穿つ」とは「押し分けて進む」ことを意味する。「鳥取県道313号線」と「広域基幹林道円谷広瀬線」は、神武天皇が穿ってつけた道である。出雲族に見つからないように、迂回して道をつけた。
 神武天皇は情報戦・ゲリラ戦をしていた。第2次大戦の日本軍ではなくアメリカ軍のように情報収集に力を注いだ。またベトナム軍のように道なき道を進んで敵から移動が見えないようにしていた。それができたのは、イワレヒコは倭国の地の利を知っていたし、旧知の者も多かったからである。
 イワレヒコが仮の本拠地にしていた穿邑は上大立であった。琴浦町下見から関金町大鳥居に至る鳥取県道313号線(下見関金線)は神武天皇がつけた。あまりに山道なので現在ではあまり利用されていないが林道ではなく、りっぱな県道である。上福田・下福田にいた出雲族の兄ウカシ・弟ウカシに気づかれずに移動するために県道313号線をつけた。


3 倉吉市下福田の阿弥大寺遺跡には弟ウカシの子孫が住んでいた。

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 下福田字阿弥大寺遺跡(弥生時代後期)

 日本書紀は「オトウカシは宇陀の主水部の先祖である」とする。

 下福田から上米積にかけての国府川(久米川)のほとりで3基の四隅突出型墳丘墓(弥生時代後期)が発掘された(阿弥大寺古墳群)。阿弥大寺古墳群より川寄りに二つの住居跡が検出された。「高城史」は墳丘墓と住居跡とを関連付けている。鳥取県中部に2400くらいある古墳はほとんど円墳(97%)なので、下福田字阿弥大寺遺跡に住んでいたのは出雲族(準王一族)のオトウカシの子孫の主水部であった。主水部は国府川(久米川)から水を汲む担当だったのかもしれない。遺跡の位置からそう思われる。

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 上大立(穿邑)から最初は、出雲族の拠点から見て盲点となる旧東伯町の奥に道をつけていった。終点である琴浦町下見の隣の別宮・矢下(ここの寺は四天王を祀る)・宮場・八反田・上法万もイワレヒコが開いた集落である。光好から​​笠見に至り、笠見と伊勢地区でも出雲族と戦っている。「撃ちてし止まむ」の歌はこの時の歌である。

 伊勢地区(天照大神がいたが占領されていた)から、船で北条砂丘に至り茶臼山(伊那佐山)で敵情を視察した。二人に土下山の土をもって下ろさせ、勝てるか占った。ここで「島つ鳥、鵜飼いがとも」の歌を詠んだ。この時に蜘ヶ家山(葛城山)の土蜘蛛を葛木のつるで捕らえた。

 イワレヒコが江府町鏡ヶ成から降りたことは江府町江尾にいたウマシマジの耳に入った。ウマシマジも穿邑に降った。イワレヒコは穿邑から関金方面にも道をつけていった。杉野・中野・森を合わせて吉野と言っていた。終点は関金の佐野大橋である。神武天皇は佐野命と言っていた。これは偶然ではなく、鳥取県道313号線は神武天皇がつけた道だからである。

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 佐野大橋から日吉神社に寄っているので、この時までにウマシマジは神武天皇に合流している。

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 日吉神社にて。日吉神社の祭神はニニギになっているが神社から船が出せるので本来の祭神は饒速日である。


4 鳥見邑は倉吉市富海であった。金色の鵄の話はここが舞台であった。倉吉市富海に長髄彦に率いられた出雲族がいたので、イワレヒコは見つからないように「円谷広瀬線」も造っている。すでに合流していたウマシマジは円谷広瀬線を造るのに協力していた。

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 出雲族のいた富海を避けて円谷広瀬線をつけた。倉吉市大宮は倭国の歴代天皇の皇居の中では一番奥にあるが、穿ってつけた円谷広瀬線より前にある。倉吉市大宮が橿原の宮である。

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 本来、こちらの関金側が起点である。

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 本来、こちらの円谷側が終点である。

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 円谷広瀬線が完成し、ウマシマジは円谷から橋を渡った石上(倉吉市大原)を本拠地にした。「昔ここに橋があった」と郷土史家は言う。

 イワレヒコは三朝町片柴(忍坂邑)に土蜘蛛を集めて酒を飲ませて皆殺しにした。三朝町片柴(忍坂邑)で土蜘蛛に酒を飲ませて殺したのは、三朝町山田(ヤマタ)で素戔嗚が八岐大蛇に酒を飲ませて殺した話にヒントを得たからである。三朝町片柴(忍坂邑)で土蜘蛛をだまし討ちにしてから、湯梨浜町羽衣石(墨坂)にいた兄磯城を挟み撃ちにして斬った。太陽を背にして南から平定していった。女軍と男軍が神武側に着いたのはウマシマジの功績である。



5 大久米は論功行賞で畝傍山の西の川辺の来目邑に住んだ。畝傍山は倉吉市の四王寺山であり、西は倉吉市服部の北の丘陵地まで久米ヶ原という。倉吉市服部の北の丘陵地は四王寺山(畝傍山)の西になる。

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 久米ヶ原の南に沿って流れている国府川のことを古代は久米川と呼んでいた。

 日本書紀・雄略天皇の段にも来目川が出てくる。

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 倉吉市上米積の南西に紀元前100年頃から500年頃にかけての後中尾遺跡がある。

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 遺構は14軒以上である。国府川(久米川)とは少し離れているが国府川(久米川)の近くであり大来目のいた来目邑の遺跡である。


6 記紀では「楯で防戦し、そこを日下の楯津という」とする。

 楯縫神社の由緒に「明治14年旧郷名に因み楯縫神社と改称す」とあるので、倉吉市高城地区の旧郷名は「楯縫郷」であった。

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 楯(青谷上寺地遺跡出土・弥生時代中期後葉)。弥生時代中期後葉は紀元前50年から紀元50年であり、神武天皇の即位(紀元前60年)以降に楯縫郷(倉吉市高城地区)で作られた。イワレヒコの軍にとって楯は重要な武具であった。戦いに勝利してからも大来目命は楯縫郷で楯を作っていた。

 「高城史」では「上福田に『楯縫』神社があり、『服部』が機織部で『大立(たて)』が『大楯』を製作する場所。『立(たて)見』は製品を検査する『楯検』ではないかと」とする。

 倉吉市高城地区では「立」を「たて」と読む。大立は「おおたち」という地名ではなく「おおたて」という地名であった。立見は「たちみ」という地名ではなく「たてみ」という地名であった。高城地区では楯(たて)を立(たて)の字に書き換えさせられている。

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 下神(しもつみわ)・上神(かみつみわ)・神代(みわしろ)の地域は大神(おおみわ)郷であった。立縫郷は楯縫郷であった。八橋郷は笠縫郷であった。

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 下神(しもつみわ)・上神(かみつみわ)・神代(みわしろ)の地域は大神(おおみわ)郷であった。立縫郷は楯縫郷であった。方見郷には建御名方がおり、由良郷には聖徳太子(蘇我入鹿天皇)がいた。倉吉市清谷は日下村でありその周辺が河内国であった。猛田とは竹田郷のことであった。琴浦町八橋の南には笠見があり、八橋が「倭姫命世紀」にある「倭国の笠縫邑」であった。

 楯縫邑(倉吉市大立)も笠縫邑(琴浦町八橋)も即位後、神武天皇が開いた。


※ 参考

(1) 古事記には「やがて一行の船は、波荒く立ち騒ぐ波速の渡を過ぎて、波静かな白肩の港に碇泊した。この時、登美の地(土下山周辺)に住むナガスネヒコ(中洲の豪雄)が軍隊を起こして、一戦を挑んだ。・・・楯を取り、岸部に下りて防戦した。この土地の名を楯津と言い、また今に、日下の蓼津とも言っている。・・・トミビコの放った矢が、兄のイツセの命の手に刺さって深手を負わせてしまった。

 ・・・南の方へ迂回し血沼の海に至って、傷を受けた手を洗った。それゆえここを血沼の海という。そこからさらに迂回して紀国(木国)の男之水門まで行ったところで・・・その息は絶えた。・・・カムヤマトイワレビコノ命はさらにその土地から迂回を続けやがて熊野の村へと着いた。・・・この土地から、道もない深山をさらに踏み越え、道を穿って難行をつづけながら、ようやく宇陀に達した。道を穿って進んだゆえに、宇陀の穿という。

 宇陀の地には兄宇迦斯・弟宇迦斯と呼ぶ二人の兄弟が頑張っていた。そこで、まずヤタガラスを使いに出して、二人の者に尋ねさせた。・・・兄宇迦斯の死んだ地を宇陀の血原という。

 イワレビコ命は次のような歌をうたった。『宇陀の高城に鴫ワナ張る・・・』

 このオトウカシは、宇陀の水部の部の先祖である。

 さらに旅を続けて忍坂の大室に到着した」とある。

(2) 日本書紀には「まさに、難波碕に着こうとするとき、速い潮流があって大変速く着いた。よって名付けて波速国とした。また波花ともいう。今難波というのはなまったものである。

川をさかのぼって、河内国草香村(日下村)の青雲の白肩津に着いた。ナガスネヒコとくさえの坂で戦った。流れ矢がイツセの命のヒジハギに当たった。楯をたてて雄たけびを上げた。それでその津を改めて楯津と呼んだ。いま蓼津というのは、なまっているのである。

 軍は茅渟の山城水門についた。よってそこを雄水門と名づけた。

 進軍して紀の国の竃山に行き、イツセ命は軍中で亡くなった。・・・皇軍は内つ国に赴こうとした。そこにヤタガラスが飛び降りてきた。・・・ついに宇陀の下県についた。つかれたところは宇陀の穿邑という。ここで日臣を道臣と名づけられた。兄猾と弟猾は宇陀の県の人々のかしらである。・・・兄猾が死んだところを宇陀の血原という。

 天皇は歌を詠んでいわれた。『宇陀の高城に鴫をとるワナを張って・・・』・・・。

 また大来目を畝傍山の西、川辺の地に居らしめられた。今来目邑と呼ぶのはこれがそのいわれである。また弟猾に猛田邑を与えられた。それで、猛田の県主という。これは宇陀の主水部の先祖である」とある。

 

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神武東征は不比等の創作であった。神武天皇は鳥取県中部(倭国)を出発し、鳥取県中部(倭国)に帰ってきた [日向三代と神武天皇四兄弟]

 神武東征は不比等の創作であった。神武天皇は鳥取県中部(倭国)を出発し、鳥取県中部(倭国)に帰ってきた。

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1 私見
(1)イツセとイワレヒコは九州を平定して(鹿児島県・佐賀県・福岡県で発掘された紀元前100年頃の鉄鏃より)安芸国を通って倭国(鳥取県中部)に帰り、米子市淀江の津で新羅からの鉄製の武器を受取り、船で東郷池に入ったと思われる。倉吉市の大平山(日下村)でナガスネヒコと戦いイツセは傷つき、木国(鳥取県智頭町)で亡くなった。イワレヒコは木国(鳥取県智頭町)から山陽側(岡山県・広島県)に出た。
(2)岡山県・広島県に神武天皇の伝承が多い。大阪府茨木市(摂津国)の東奈良遺跡における銅鐸製作を紀元前1世紀に線刻土器に変えさせているので摂津国(大阪府茨木市の東奈良遺跡)までは行ったはずである。しかし、1世紀に銅鐸製作を線刻土器に変えた奈良の唐古・鍵遺跡を平定したのは2代天皇以降ではないかと思われる。イワレヒコは奈良や和歌山県の熊野までは行っていない。宮崎県民・奈良県民・和歌山県民は古事記・日本書紀で創られた「神武天皇」という幻想を見ていた。
 記紀にある神武東征で宮崎県の日向から和歌山県の熊野まで行くルートに矛盾が3つある。その1は、都であったとする宮崎県の日向からスタートするのはおかしいこと。2は、もし紀伊山地を縦断できたとしても疲労困ぱいで八十猛の軍に勝てるわけがないこと。3は、古来この地域に「熊野」と名のつく郡町村字が存在したことがないこと。以上のことから、神社・石碑・地名・伝承はそろっているが、これは不比等の時代から京都に遷都してからも藤原氏によってどこも疑われないように潤色したものであり、そろいすぎていてかえって不自然なのである。広島県・岡山県には神武天皇の自然な民間伝承が多いが、宮崎県・奈良県・和歌山県の民間伝承はわざとらしく思われる。
 イワレヒコは退却した後、しばらく山陽で過ごした。倉吉市の上里神社の由緒では「神倭天皇(鳥取県中部の)日向より東夷平定に(九州に発たれ平定後)山陽より(帰り)給いし際・・・神倭天皇東夷平けむと、皇軍を山陽の国に進めたもう。・・・」とあり奈良・熊野は出てこない(カッコは藤原氏の神社庁によって削除された)。
 国史にある宮崎県から奈良県に神武天皇が都を遷したとする神武東征はすべて藤原氏による改ざん・創作である。学者はみな改ざん・創作された国史に基づいて東征ルートなどを机上で考えていた。神武天皇が実在しなかった場所(宮崎県・奈良県・和歌山県)に幻の神武天皇を創り上げていたので、神武天皇はいなかったという説(日本史の教科書)が出てくるのである。神武天皇は宮崎県・奈良県・和歌山県にはいなかったが、鳥取県・広島県・岡山県には実在していた。​​
​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​(3)日本書紀には「名草邑の女賊を誅し、佐野を越えて、熊野の神邑に至り天磐盾に登った」とある。
 名草戸畔は津山市二宮の宇那提森で誅された蛇と思われる。津山には娘が蛇になり宇那提森に住んだという説話がある。蛇は生贄を要求した。津山市の名草戸畔を蛇に変えたのは藤原氏と思われる。

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 津山市二宮の美和山古墳群・胴塚(一号墳)。ほかに、蛇塚(二号墳)、耳塚(三号墳)がある。
 イワレヒコは名草戸畔を胴、頭、足に切断して埋めたが、猿を退治して中山神社にいた崇神天皇(在位188年~220年)は古墳時代前期に美和山古墳群に手厚く埋葬しなおしたと思われる。
 藤原氏は津山の名草戸畔の伝承を和歌山にもっていって、3神社に祀り、名草姓の子孫まで創ったので、津山の本物は蛇にして隠さなければならなかった。名草戸畔は出雲の諸神の姻戚であり、龍蛇神を祀っていたので蛇とした。蛇は足がないから、耳塚とした。
 高野神社の主祭神は父のあだ名であり、創建時は神倭磐余彦であった。イワレヒコは碫馭盧岩(おのころいわ)を磐境として祀っていた。
 佐野は総社市中心市街地と思われる。佐野山の地名が残っている。

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 古事記にある神武天皇が着いた「熊野の村」とは広島県福山市であった。
日本書紀の「熊野の」は藤原氏の加筆である。本当の「神邑」は福山市神村町であった。「天磐盾」は福山市の天津磐境であった。

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 福山市の天津磐境。通説は「天磐盾」を新宮市の神倉神社とする。原古事記に書いてあった「天磐盾」は「天」と「磐」が同じ天津磐境と思われる。神武天皇は福山市の天津磐境に登った。
 イワレヒコは倭国(鳥取県中部)からいったん撤退して広島県福山市を本拠地にしていた。
(4)神武天皇の伝承は以下の地域に残る。
 1.福山市柳津周辺 
  潮崎神社:御蔭山:磐田山:貴船神社:口の巖:神王屋敷:王人の巖:物見御座所:辺防地:城の坊:天津磐境:祭壇巖:鏡山:勝負岩:勝負原:王太子社:森御前:鎮神社

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 径3kmの範囲内にこれだけの伝承地が残っている。神倭磐余彦は倭国から撤退後、ここを本拠地にして各地にいた略奪集団(出雲神族=ナガスネヒコ一族、鬼・土蜘蛛・蝦夷)を平定し、倭国を取り戻す機会をうかがっていた。
 2.福山市浦崎
  高島:王太子神社:嶽神社
 3.福山市内浦町田島 
  皇森神社:内浦:磯間浦・口無泊:幸崎:俎の瀬:六合:箱崎:小用地:大越:大浦(王浦)・天迫:天皇神社・天皇の浜・天皇畑・天皇の洲:御手洗川:矢の島
 ※ 私見 田島の伝承は柳津周辺の伝承とは質が違う。田島の伝承は笠岡市高島の伝承と同じく神武東征神話の一環として藤原氏が創作したと思われる。島々を船で中継していったと思わせるためのテーマパークと思われる。
 4.福山市田尻町
  高嶋:竹ヶ端:高濱:王ヶ峰:宮原:蓑島大明
 5.尾道市高須
  高須:大元山:大元神社:木之本神社:加茂神社:神原:千畳屋敷・風呂井戸:穴倉屋敷・大将軍屋敷:弓細工
 6.三次市畠敷町 熊野神社  
 7.庄原市西条町高
  今宮神社伝承:神武天皇広島に御滞在中、物資を出雲(伯耆国淀江)方面より御取り寄せ遊ばさる。
 ※ 私見 出雲とあるが敵対していた出雲であるはずはなく(神武天皇の子孫の倭建命は出雲建を殺している)これも出雲を聖地にしようとする藤原氏による改ざんである。
 8.庄原市高野町南
  八幡神社:鬼城山
 9.   庄原市本村の葦嶽山
※ 私見
 イワレヒコは尾道も含めて福山市を軍事拠点にしていた。この時、西は宮島、東は摂津国、南はしまなみ海道を通って伊予国を平定している。北は庄原市高野町や西条町高に伝承地があり、庄原市本村の葦嶽山でも祭祀をしている。

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 古代史の復元では「使者の通った経路は葦嶽山から本村川を遡り帝釈を越え戸宇から八幡越えで出雲に渡ったと伝わっている。この経路は通常出雲へ向かう経路とは異なっている。この経路を延長すると、道後山沿いに鳥取県の日野川流域に入ることになる。この方面に行くとなれば、御墓山を経由して島根県の飯梨川流域に入りそこから出雲国の中心地と思われる意宇郡に着く」とする。「古代史の復元」の筆者は出雲国という先入観があるようである。イワレヒコの使者は戸宇から八幡越えで日南町に入り日野川を下って淀江の津に至った。
 イワレヒコは福山市に滞在中、庄原市を越えて新羅から鉄製の武器の到着した米子市淀江の津との往復をしていたと思われる。
 一般には「武器調達と大和の様子見のために長期滞在をした」と言われている。倭を大和と書かせているが、大和は奈良だから、奈良の様子見のために出雲や鳥取県に行くはずはない。伝承でいう「大和」とは「倭」のことであり鳥取県中部であった。
 備後国北部から安芸国にかけても伝承が多いが、四兄弟が九州に行くときと、イツセとイワレヒコが九州から倭国に帰るときの2回通っているから伝承が多いのだと思われる。
 イワレヒコは倭国からいったん退却して福山市を本拠地として現地の人々の心をつかみ、軍備も蓄えていった。賊(略奪集団)の退治もしていたので土地の人々の心をつかみ、実戦経験も積んでいた。
※ 略奪集団(出雲神族=準王一族)の退治は以下のようである。
  庄原市高野町南の八幡神社 埴土丸といふ鬼神と数多の賊
  広島市安芸区瀬野の生石子神社 瀬野川の川上の賊
  呉市の八咫神社 いとも怪しき夷等
  岡山市児島宮浦の懸幡神社 奥津に荒ぶる神

(5)イワレヒコはしばらく福山市を本拠地として賊(ナガスネヒコの一族)を退治し周辺の人々の心をつかんだが、その後内つ国(鳥取県中部)に行くため、海を渡って着いた「荒坂の津」は、当時近くまで海であった岡山市の龍ノ口山の麓と思われる。

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 手前は蒜山高原に水元を発する旭川。その向こうは龍之口山。
 中ほどのグリーンシャワーの森から左上の龍之口八幡宮までの坂を荒坂と言ったはずである。出雲神族は荒神であり、龍蛇神を祀っていた。龍之口八幡宮にいたのは出雲神族と思われる。「戸畔」というのは女酋で出雲の諸神の姻威だといわれている。龍之口八幡宮にいたのは丹敷戸畔と思われる。神武天皇は高島にいたと思われる。
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 高倉下が剣を天皇に献上したのは岡山県赤磐市の石上布都魂神社の地と思われる。イワレヒコは岡山県の旭川を北上して蒜山高原(高天原)にたどり着いた。イワレヒコは蒜山高原(高天原)の加茂神社と福田神社の祭神になっているので、蒜山高原(高天原)を宿営地にしていたと思われる。祖父のニニギは蒜山高原(高天原)の加茂神社と長田神社に祀られている。

(6)イワレヒコは内つ国(鳥取県中部)に赴くため、饒速日と同じ蒜山高原(高天原)の鏡ヶ成に立った。

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 ウマシマジのいた江尾とイワレヒコが立った鏡ヶ成はどちらも鳥取県江府町に属する。江尾と鏡ヶ成は昔から関係のあった土地と思われる。蒜山(高天原)から大立(王楯)に下りるには鏡ヶ成からスタートするしかない。
 饒速日には猿田彦がついて案内したが、イワレヒコにはヤタガラス(鴨建津之身)がついて案内した。鴨建津之身は小鴨川と県道45号線に近い関金の鴨ヶ丘に住んでいたと思われる。

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 道臣は、別ルートから鴨ヶ丘にいた鴨建津之身を連れてきて案内させたと思われる。

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 山守鴨ヶ丘地蔵堂。この奥に丘陵地があり、鏡ヶ成も見える。
 イワレヒコは祖父ニニギ(楯縫神社の祭神)のいた宇陀(倉吉市高城)に下りて行った。「道もない深山をさらに踏み越え、道を穿ってようやく宇陀に到着した」(古事記)。穿邑は倉吉市上大立集落と思われる。


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 「大立」は「王楯」と思われるのでしばらくイワレヒコがいたと思われる。イワレヒコは祖父ニニギと猿田彦がしばらくいた宇陀(倉吉市高城)に下りた。

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 イワレヒコが仮の本拠地にしていた穿邑は上大立であった。山を穿って道を造ったから穿邑という。琴浦町三本杉から関金町大鳥居に至る鳥取県道313号線は神武天皇が造った。あまりに山道なので現在ではあまり利用されていないが農道ではなく、りっぱな県道である。上福田・下福田にいた兄ウカシ・弟ウカシに気づかれずに移動するために県道313号線を造った。杉野・中野・森を合わせて吉野と言っていた。
 終点である琴浦町三本杉の隣の別宮も神武天皇が開いた。別宮から下って伊勢(すでに天照大御神が降臨していた)に至り、船で北条砂丘に至り茶臼山(伊那佐山)で敵情を視察した。二人に土下山の土をもって下ろさせ、勝てるか占った。
 倉吉市高城(楯縫邑)も琴浦町八橋(笠縫邑)も即位後、神武天皇が開いた。
 その後、北谷地区(吉野)→三朝の片柴(忍坂邑)を平定して兄磯城を挟み撃ちにした。太陽を背にして南から平定していった。
 忍坂邑(三朝町片柴)で土蜘蛛に酒を飲ませて殺したのは、素戔嗚の剣を持っていたイワレヒコが三朝町山田で素戔嗚が八岐大蛇に酒を飲ませて殺した話にヒントを得たからと思われる。倉吉市高城(宇陀)から三朝町片柴(忍坂邑)に行くまでに石上神宮と三朝町山田(八岐大蛇伝説の舞台)を通らなければならない。
(7)「宇陀(倉吉市高城)で兄ウカシと弟ウカシが頑張っていた。兄ウカシは檄を飛ばして軍隊を集めたが、いっこうに味方につく者がなかった。」(古事記)。宇陀(倉吉市高城)の住民はニニギの人柄を知っているからその孫イワレヒコを殺そうとするものは誰もいなかった。兄ウカシは殺されたが弟ウカシはイワレヒコに従った。
 「天皇は宇陀の穿邑から巡行された。天皇は宇陀の高倉山(兄たちと住んでいた高見神社のある四王寺山)で国見をした。国見ヶ丘(蜘ヶ家山)には八十猛がいた。」
 「男坂女坂(黄泉平坂の蜘ヶ家山にさしかかる急な坂と蜘ヶ家山までのなだらかな坂)には男軍と女軍がいた」(日本書紀)
 「この土地から命の軍隊はさらに旅を続けて忍坂の大室(三朝町片柴)に到着した。80人におよぶ土蜘蛛が待ち構えていた。」(古事記)。忍坂邑(三朝町片柴)では土蜘蛛に酒を飲ませて殺害した。
 イワレヒコは石上布都魂神社の地で高倉下に献上された素戔嗚の剣を持っており、また三朝町片柴(忍坂邑)に行くまでに石上神宮と八岐大蛇伝説のあった三朝町山田を通るので、素戔嗚の八岐大蛇伝説をヒントにして、忍坂邑で、はたから見れば卑怯な殺害をしたと思われる。
(8)宇田川は湯梨浜町の羽衣石川と思われ、羽衣石川に沿って下る坂が墨坂と思われる。

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 イワレヒコは忍坂(湯梨浜町の波関峠の坂)から下りて長和田集落からさかのぼり、男軍は三朝町山田から墨坂(湯梨浜町羽衣石集落の坂)に入り、下りて湯梨浜町羽衣石集落にいた兄磯城を挟み撃ちにした。この時、男軍も女軍もイワレヒコの皇軍についていた。

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 羽衣石川。右上は荒神社社叢。ここが宇田川と墨坂と思われる。
 炭焼きをしてもおかしくない土地柄。
(9)八十タケルがいた国見丘は北栄町の蜘ヶ家山と思われる。蜘ヶ家山の頂上に上がれば見晴らしが良く、古代の国見がどういうものだったかが分かる。

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 「高尾張邑の土蜘蛛を皇軍は葛の網を作って、覆い捕らえて殺した。その邑を改めて葛城邑とした。」(日本書紀)のだから葛城邑は荒神(土蜘蛛=出雲神族)神社のある蜘ヶ家山の麓の曲集落であり、麓に葛城邑(曲集落)のあった山を葛城山(蜘ヶ家山)と呼ぶようになった。
(10)イワレヒコの使者は米子市淀江町の津で新羅からの鉄製の武器を受け取っていた。鳥取県江府町江尾にいたウマシマジはイワレヒコの山陽(吉備国と安芸国)での活躍を福山市と米子市淀江町との間を何度も往復する父方のイワレヒコの使者から聞いていたはずである。

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 江尾神社より街並みを望む
 ウマシマジは母方のナガスネヒコ一族が掠奪集団であり、人々はイワレヒコに味方をしていることを家の前を通る使者から聞き、ナガスネヒコを殺害し、宇陀(倉吉市高城地区)にいたイワレヒコを追って帰順したと思われる。
(11)弟ウカシは猛田(三朝町竹田)の県主を命ぜられたが、その子孫は出来が悪くてもと居た宇陀(倉吉市高城)に帰らされ、水汲みをさせられていたと思われる。反面、弟磯城は磯城の県主として出来が良く、雄略天皇の時代には鰹木を高く掲げた家を建てるまでになっていた。


2 (参考) 古事記・日本書紀におけるイツセの死からイワレヒコの勝利まで
(1) 古事記
兄を失ったイワレヒコ命は悲しむひまもなく、その土地から迂回をつづけ、やがて熊野(福山市)の村へと着いた。
イワレヒコは寝込んでしまった。・・・(ここが長い)・・・。
高倉下が(石上布都魂神社の地で)剣を献上した。
たかぎの大神が言った。「この土地から深入りしてはならない。この奥には荒々しくすさまじい神々が大勢いる。天からヤタガラスを降ろしてやろうヤタガラスが道案内をするので従っていくがよい。」
やがて吉野川(岡山県の旭川)の河上に達した。
この土地から、道もない深山をさらに踏み越え、道を穿ってようやく宇陀に達した。
宇陀での話。
この土地から命の軍隊はさらに旅を続けて忍坂の大室(三朝町片柴)に到着した。80人におよぶ土蜘蛛が待ち構えていた。
その後ナガスネヒコに対して復讐の一戦を望むことになった。トミビコ(ナガスネヒコ)を討ち果たした。
兄磯城・弟磯城を攻めた。
伊那佐山の歌。
饒速日(ウマシマジ)が陣中に参上。
(2) 日本書紀
イツセの死。
名草邑→神邑→天磐盾→海を渡る→荒坂の津。
高倉下が(石上布都魂神社の地で)剣を天皇に献上した。
皇軍は内つ国(鳥取県中部)に赴こうとした。
山の中で道に迷っていた。
天照大御神が「ヤタガラスを遣わすから、これを案内にせよ。」と言った。
日臣は大久米を率いて鳥の導きのまま追いかけた。日臣は道臣となる。
宇陀の穿邑についた。
宇陀での話。
天皇は宇陀の穿邑から巡行し、吉野(倉吉市北谷地域)についた。
天皇は宇陀の高倉山(倉吉市高城山)で国見をした。
国見丘(北栄町の蜘ヶ家山)には八十タケルがいた。
兄磯城の軍は磐余邑にあふれていた。
香久山の土を下して占った。
八十タケルを国見丘(北栄町の蜘ヶ家山)に撃った。
忍坂の室(三朝町片柴)での話
兄磯城・弟磯城の話
忍坂の道から行く。直ちに墨坂を目指し、宇田川の水をとって敵軍が起こした炭の火にそそぎ、驚いている間に不意をつけば、きっと敗れるでしょう。
鵜飼いの歌。
男軍が墨坂を越え挟み撃ちにして兄磯城を破った。
ナガスネヒコと金鵄
饒速日(ウマシマジ)はナガスネヒコを殺害した。饒速日(ウマシマジ)は部下達を率いて帰順した。
饒速日(ウマシマジ)は物部氏の先祖である。
高尾張邑の土蜘蛛を皇軍は葛の網を作って、覆い捕らえて殺した。その邑を改めて葛城とした。




 

 

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神武天皇たちは妻木晩田を開いた [日向三代と神武天皇四兄弟]

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1 糺(ただす)神社

 明治42年まで鳥取県西伯郡所子(ところご)村大字所子字神田(じんでん)(門脇家住宅の先、サイの神の道向かい)に糺(ただす)神社があった。祭神は神日本磐余彦、鵜草葺不合、玉依姫、誉田別、倉稲魂、天照大神、大山祇、稲田姫、水象女、猿田彦、鈿女
 神武天皇(紀元前112年生まれ、紀元前60年即位)とその両親も祭神になっている。普通、合併は大正時代なのに明治政府は慌てたように糺(ただす)神社を消している。糺(ただす)神社の由緒は橿原神宮(明治23年創建)を建てた関係か、明治政府にとって不都合なものであったと思われる。


2 妻木晩田遺跡・松尾頭地区

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 糺(ただす)神社から南西3kmのところに妻木晩田遺跡・松尾頭地区があり、紀元前100年頃の竪穴住居跡(SI100)や土坑(SK161)が発掘された。


3 線刻土器

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 妻木晩田遺跡のパンフレットより

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 SK179で発掘された線刻土器
 SK179は紀元前100年頃のSK161のすぐそばにあり、この線刻土器も紀元前100年頃の線刻土器と思われる。

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 「妻木晩田遺跡で発見された線刻土器はこれで4点目であり、そのすべてが松尾頭地区で出土していることは、この地区の性格を考えるうえで重要である」とある。この4点とも祭祀に関係した土器であり、神武天皇たち(紀元前100年頃)に関係していると思われる。


4 妻木晩田遺跡・松尾頭地区の祭殿

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 「このひさし付きの建物はむらのまつりを執り行った祭殿と考えられている」とある。


5 私見
 神武天皇(紀元前112年生まれ、紀元前60年即位)たちは殷王朝末裔である出雲族(準王一族)の銅鐸祭祀を線刻土器の祭祀に変えさせよう(ただす)としていた。その最初の拠点が妻木晩田遺跡の松尾頭地区と思われる。しかし、この地では線刻土器祭祀へ変更させる(ただす)ことはできなかった。
 神武天皇たちは全国に散っていた出雲族(準王一族)の祭祀を変更させるための巡行に出なければならなかった。神武東征の原型は出雲族(蝦夷)の平定であった。
 出雲族が妻木晩田に住み始めたのは出雲族が平定されて神武天皇が即位(紀元前60年)した後であった。しかし、いつまた反乱するかわからない爆弾を抱えているような状態であった。実際、孝霊天皇の時代(120年~211年)に出雲族は出雲族の姫を殺したとして反乱(青谷上寺地遺跡に代表される倭国大乱)を起こした。

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 松尾頭地区の南西2.4kmで出土した稲吉角田遺跡の絵画土器も紀元前100年頃であり、神武天皇たちが作ったと思われる。
 また、鳥取県大山町長田集落の造りは倉吉市大谷集落の造りと似ており、集落にだいぶ近づかないと家並みが見えない。長田集落も大谷集落と同じく神武天皇の時代(紀元前100年頃)に造られたと思われる。
 長田集落も含めて松尾頭地区より孝霊山側は天孫族の領域であり、松尾頭地区より日本海側は出雲族の領域であったと思われる。同じように鳥取県中部でも四王寺山(鵜草葺不合=火火出見と玉依姫の宮)と土下山(鳥見=出雲族の白庭山、後に天の香久山)でも天孫族と出雲族は住み分けをしていた。四王寺山の前に不入岡(岡にはいるべからず)という地名がある。



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鵜草葺不合は彦火火出見のあだ名であった [日向三代と神武天皇四兄弟]

1 古事記・日本書紀は「鵜草葺不合は彦火火出見命の子である」とする。
  先代旧事本紀の天孫本紀には「天孫天津彦々火瓊々杵尊の孫、磐余彦尊が天下を馭ようとして東征した」とある。「瓊々杵尊の孫、磐余彦尊」とある。鵜草葺不合(産屋を建てるのが間に合わなかった)とは正式な名前だろうか。
2 ウィキペディアより
 ウガヤフキアエズ王朝は、「ウエツフミ」「竹内文献」「神伝上代天皇紀」などの古史古伝に記載されている神武天皇以前の古代王朝で、火々出見命の子鵜萱葺不合命が開いた王朝とされる。鵜萱葺不合命は、「古事記」、「日本書紀」の中では、神武天皇の父とされている。「ウエツフミ」、「竹内文献」、「神伝上代天皇紀」などの中では神武以前に何代か続いた王朝の始祖とされている。しかし、これらの文書の中でも天皇の数や王朝の継続期間は一致していない。そもそもこれらの文書は史料価値が認められておらず、ウガヤフキアエズ王朝とは近代以降に偽作された架空の王朝だとするのが妥当であるとされている。
3 私見
(1) 日本書紀ならば瓊々杵命と磐余彦命との間には彦火火出見と鵜草葺不合の二人が入るのだが、先代旧事本紀の天孫本紀には「瓊々杵尊の孫、磐余彦尊」とある。系譜に関しては、記紀より先代旧事本紀のほうが信用できる。先代旧事本紀は瓊々杵尊と磐余彦尊との間には一人しかいないとする。したがって、彦火火出見と鵜草葺不合は一人であり鵜草葺不合は彦火火出見のあだ名ではないかと思われる。
(2) 「産屋を建てるのが間に合わなかった」はあだ名にはなるが、正式な名前とは思われない。これも、あだ名を付けるのが好きな鳥取県中部の住民が付けたものと思われる。
(3) 古事記・日本書紀には鵜草葺不合の事蹟はほとんどない。神社の由緒にもない。これは、旧辞のない欠史八代と同列に論じることはできない。名前自体があだ名にふさわしいので、鵜草葺不合の実態はなかったと思われる。
(4) 京都で暇を持て余していた藤原氏は空想科学小説が好きだったようで、あだ名に過ぎないウガヤフキアエズを独り歩きさせて、数十代にわたるウガヤフキアエズ王朝なるものを作り上げた。
(5) 豊玉姫と玉依姫の姉妹は2人とも彦火火出見の妻であった。豊玉姫は一人しか生まなかったから、産んだ子は五瀬命と思われる。玉依姫は次男の稲飯命、三男の御毛沼命、四男の磐余彦命を生んだ。こういう系譜なら今でもありそうである。
(6) そう解することで、高倉下命と宇摩志麻治命は磐余彦の叔父くらいの年齢になり同時代に生きていたことになる。

(7) 彦火火出見(鵜草葺不合)は父瓊々杵命のいた北栄町のクシフルタケではなく、倉吉市の四王寺山に宮を造ったと思われる。そこで、神武天皇の4兄弟は育てられた。
(8) 四王寺山(倉吉市)の防御の構造は彦火火出見(紀元前150年~)の時代に、近くに敵がいたことを想像させる。それは「トミ」と名乗った準王一族(出雲神族)と思われる。饒速日が降臨して長髄彦の妹の三炊屋媛を妻とした鳥見(トミ)の白庭山(北栄町の土下山)にもトミの一族はいたと思われる。

(9)このことによって、天忍穂耳から神武天皇までの世継ぎ天皇が生まれた時の父親の平均年齢は36歳になる。
 饒速日は次男(宇摩志麻遅)がおなかの中にいるときに亡くなったのだから、享年26歳くらい。瓊瓊杵命が降臨したのが4歳ならばに瓊瓊杵命は紀元前184年(天忍穂耳の伯耆国到着が紀元前210年)ころの生まれと思われる。天忍穂耳が伯耆国に到着してから26年後となる。紀元前184年引く紀元前112年(神武天皇の誕生年は紀元前112年)は72年であり、それを2で割ると36歳となる。火火出見命は3男、神武天皇は4男だからこの結果になる。

(10)鵜草葺不合を生んだのは豊玉姫であり木花之佐久夜毘売であった。豊玉姫と木花之佐久夜毘売とは同一人物であった。鵜草葺不合の父は瓊瓊杵命であり、母は木花之佐久夜毘売(豊玉姫)であった。​​​

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神武東征の目的は都を東に遷すのではなく東夷(青銅器文化の一族)を平定することであった [日向三代と神武天皇四兄弟]

 神武東征の目的は都を東に遷すのではなく東夷(青銅器文化の一族)を平定することであった。

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1  鳥取県神社誌(昭和9年)より
上里神社 村社 東伯郡

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東に向いている。

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高いところにある。
鎮座地 東伯郡日下村大字清谷字宮下
現在地 鳥取県倉吉市清谷1217番
祭神 天津日高日子番能瓊瓊藝命、天児屋根命、天鈿女命

由緒 紀元沿革不詳、御鎮座の由来と云へるものに、神倭天皇日向より東夷平定に山陽より給ひし際、伯耆氏稲飯命に神懸坐て曰く、神倭天皇東夷平けむと、皇軍を山陽の国に進め給ふ、汝稲飯長人吾神魂を三子の嶋に対へる地の朝日の只刺夕日の日蔭る清の地に神籬を真日向に建て、吾神魂を齋奉れ、三子嶋に対へる海も陸も平かならん、吾は久志振陀計に天津神床を遷せし天津日高彦神なり、神伴に天津児屋根命、天鈿女命座しきとの神勅を畏み齋神籬を建て仕奉りし天の神の宮なりき、この里を清谷と曰ひしは、天上の清麗美潔の神地を遷したまひし御神霊を齋き奉る里と云ふ意を以て清谷と命名せしと伝ふ。

2 私見
 「神倭天皇日向より東夷平定に山陽より給ひし際」・・・「神倭天皇東夷平けむと、皇軍を山陽の国に進め給ふ」とある。「東夷」とは東にいる蝦夷のことである。蝦夷とは鬼・猿・土蜘蛛などと呼ばれていた青銅器文化の一族であり、殷王朝末裔の準王一族のことである。紀元前194年に馬韓より列島に渡り早い段階で全国に展開していた。
 古事記には「神倭伊波礼毘古命は、兄の五瀬命とともに、日向の高千穂で、葦原中国を治めるにはどこへ行くのが適当か相談し、東へ行くことにした。」とあり日本書紀には「塩土老翁によれば東に美しい国があるそうだから、そこへ行って都を作りたいと言って、東征に出た」とあるが、これらは藤原氏によって改ざんされている。神武天皇は鳥取県倉吉市四王寺山(日向)より殷王朝末裔の準王一族(東夷)の平定に旅立たれ、山陽から帰ってこられてからこの地でも準王一族(東夷)を平定された。兄磯城や長髄彦とは鳥取県中部に帰ってから戦った。鹿児島県大崎町の永吉天神段遺跡から出土した弥生時代中期中葉の鉄鏃5点は神武天皇の皇軍が放ったものである。弥生時代中期中葉の同型の鉄鏃は福岡県太宰府市の吉ケ浦遺跡と佐賀県鳥栖市の安永田遺跡でも見つかっている。
 「稲飯命」は神武天皇の兄である。ニニギ命が稲飯命に神かかったのは紀元前60年~紀元前57年頃である。稲飯命は東夷の平定が終わった連絡を受けて辰韓より鳥取県中部に帰って来ていた。人力の船でも1日あまりで帰ってこれる。神武天皇が初代天皇として倉吉市大宮で即位する前である。稲飯命は神武天皇の即位を見届けてから、辰韓に帰って新羅を建国された。半島には準王一族の残党もいたから、辰韓の6村の信頼を得るのには時間がかかった。鳥取県中部の神武天皇を助けるためにも、神武天皇即位の3年後(紀元前57年)に信頼も得て新羅を建国した。
 四王寺山の大谷集落の外敵から守る構造や、倉吉市大宮の外敵から守る構造は、準王一族(東夷)に対する防御のためであった。私見では神武天皇の生年は紀元前112年頃であったから東夷の危険はすでに存在していた。神武天皇の東征の目的は全国に展開していた東夷(殷王朝末裔の準王一族)を平定することであった。吉備国や安芸国に長く居たのは鳥取県中部を準王一族に占領されており帰ることができなかったし、吉備国や安芸国の住民に高地性集落を造らせたのではないかと思われる。初代神武天皇から10代の崇神天皇が全国を統一するまで天皇家は東夷と対立していた。「福は内、鬼は外」の起源である。


 


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