千三百年の間、藤原氏に消されてきた伯耆国(鳥取県中西部)の真実の歴史が、今よみがえる。
神倭磐余彦4兄弟は鬼八(略奪集団)を平定するために、九州に行った [日向三代と神武天皇四兄弟]
神倭磐余彦4兄弟は鬼八(略奪集団)を平定するために、九州に行った。
1 九州には生贄の風習のある鬼八がいて渡来人を掠め取っていた。御毛沼命は常世国から渡来しようとする者に「朝鮮半島の辰韓を経由して倭国(鳥取県中部)に来るように」渡来ルートの変更をさせるために常世国(台湾やベトナムや中国雲南省)に渡った。
鳥取県中部の標高172mの四王寺山は周囲に太陽の光を遮る山などがなく、当時は家や船を造るため木を切り「つくし」ていたので日当たりの良い日向の地であった。神倭磐余彦4兄弟は日向(四王寺山)を出発した。
2 山口県光市より西は神倭磐余彦4兄弟の伝承がほとんどないが、島田川流域には磐余彦や御毛沼の伝承があるので、山口県光市から大分県の宇佐に渡ったと思われる。神倭磐余彦4兄弟は宇佐から岡田宮に移った。稲飯命は九州の西側から辰韓に渡り、鉄の鏃を作って半島の西側(馬韓)から出港し岡田宮で待っていた神倭磐余彦たちに武器を送った。
以下の鉄鏃は辰韓か加羅で稲飯命が作り、馬韓から岡田宮にいた神倭磐余彦たちに送られ、九州の鬼八に対して使われた。
※(2015-07-19) 鹿児島県文化振興財団埋蔵文化財調査センターは16日、「大崎町永吉の永吉天神段遺跡の二つの土坑墓から、弥生時代中期(約2100年前)の鉄鏃5点が見つかった」と発表した。」
「昨年7~8月に『土坑墓』から発見され、CTスキャンなどで解析した上で、吉ケ浦遺跡(福岡県太宰府市)と安永田遺跡(佐賀県鳥栖市)で見つかった9点と同時期で同型だと判断したという。南九州では初めてで、鉄製品としても県内最古級という。
副葬品の場合、墓からまとまって出土する例が多いが、今回は墓の中にまとまって置かれていなかったことから、副葬品でなく被葬者に刺さっていた鉄鏃とみられる」とある。
※ 私見
吉ケ浦遺跡(福岡県太宰府市)と安永田遺跡(佐賀県鳥栖市)で見つかった紀元前100年頃の鉄鏃は神倭磐余彦たちが放った鉄鏃である。その先には吉野ヶ里遺跡があるので、そこでも鉄鏃を放っている。吉野ヶ里遺跡は奴隷を逃げられないようにしていた。柵と堀の位置が通常と逆である。
吉野ケ里を100名城の1つ(城のルーツ)として聖地にしているが、ここにいた略奪に喜びを感じる鬼八は藤原氏と同族である。本当の山城は大谷と北面の2集落からしか上がれないようにしてある倉吉市の四王寺山である。
鹿児島県でも紀元前100年頃の鉄鏃が見つかっているので紀元前60年に即位した神倭磐余彦たちは九州全域を平定している。五瀬命と神倭磐余彦は九州全域を平定して倭国(鳥取県中部)に帰ってきた。
3 古事記には「御毛沼命は、波の穂を跳みて常世国に渡りまし、稲氷命(稲飯命)は、妣の国として海原に入りました」と書かれている。
「稲氷命(稲飯命)は、妣の国(玉依姫は辰韓出身)として海原(海抜4m~20mの陸地)に入りました」という表現は「事代主は海の中に入られた」(日本書紀)と同じであり対岸に渡ったということである。
「倭人が腰にヒョウタンをつけて海を渡り、新羅に来て、瓠公(ホコ)と呼ばれた。彼は、初代王の赫居世(朴氏祖)~四代王の昔脱解(昔氏)まで、建国の重臣として活躍した」(三国史記)とある。「新撰姓氏録」において新羅の祖は稲飯命だとされている。赫居世居西干とは日向の王という意味であり、四王寺山(日向)にいた稲飯命(王子)を思わせる。
大臣が何代にもわたって仕えるのは日本書紀の武内宿禰や蘇我氏3代に例があり、藤原氏の手法である。稲飯命は紀元前57年に即位した新羅国の初代王であった。建国の重臣ではなく、建国者その者であった。
神武元年は紀元前60年(弥生時代中期)であった [日向三代と神武天皇四兄弟]
神武天皇(紀元前112年生、紀元前60年即位)のいた四王寺山の近くから紀元前100年頃の遺跡が発掘された [日向三代と神武天皇四兄弟]
神武天皇(紀元前112年生、紀元前60年即位)のいた四王寺山の近くから紀元前100年頃の遺跡が発掘された。
1 鳥取県倉吉市大谷の中尾遺跡より弥生時代中期(約2100年前)の竪穴建物跡12棟、掘立柱建物跡5棟が見つかった。
倉吉市ホームページより
教育委員会事務局 文化財課 ―弥生時代中期の集落跡発見!― 中尾遺跡発掘調査
「倉吉市教育委員会では、平成27年(2015年)8月より中尾遺跡(倉吉市大谷)の発掘調査を行っており、弥生時代中期(約2100年前)の竪穴建物跡12棟、掘立柱建物跡5棟、古墳時代後期の円墳1基などを確認しました」とある。
2 遺跡の位置
中尾遺跡は神武天皇4兄弟の世話と守りをしていた大谷集落を隠すように取り巻く丘陵地の上にあり神武天皇4兄弟と同時期に建てられたものであると解する。
3 私見では「神武天皇の即位年は紀元前60年であり、神武天皇の生年は紀元前112年である」とする。
神武天皇の4兄弟は鳥取県倉吉市の四王寺山(四皇子山 )におられたのであり、4兄弟の世話と守りをしていた大谷集落の近くの中尾遺跡で紀元前100年頃の12棟の建物跡が発掘された。発掘予定はないが、大谷集落の下には多くの紀元前100年頃の建物跡があるはずである。
4 神倭磐余彦(紀元前60年即位)が鳥取県倉吉市の四王寺山(山城)にいた証拠がまた一つ見つかった。長髄彦の一族が近くにいたので土塁を築いた。その土塁の上から国内最長の弥生時代中期(紀元前100年頃)の鉄矛が出土した。
2020年11月3日付け日本海新聞に「国内最長の弥生鉄矛が出土した」の記事が載った。
5(1)「内陸部にある同所が日本海側と瀬戸内海側とを結ぶ南北の物流交流ルートの拠点的な集落」とある。
海抜4mに海面があると、北条砂丘が笠沙之御前になるので、その頃は北面の前まで海岸が来ていた。山幸彦は新羅から一尋和邇に乗って一日で倉吉市北面まで帰ってきた。そして、四王寺山に上がり、本拠地にした。ウガヤフキアエズとは山幸彦のあだ名であった。四王寺山で神倭磐余彦の四兄弟を育てた。
鉄矛は新羅から日本海を船で四王寺山に運ばれた。
(2)「見つかったのは実用品として使用されていない鉄矛・・・鉄矛は建物の柱穴の埋め土に突き立てられていたことから、儀式の一部として使用されたとみられる。・・・村上恭通センター長は『何らかの儀礼があったことはほぼ間違いない』と強調。・・・当時の祭祀研究が進展するとみる」とある。
関金の日吉神社は川に船が出せるようになっているので、饒速日は日吉神社より船着き場のある清熊稲荷神社のある峰まで船で降った。清熊稲荷神社の峰が哮峰であったから、饒速日はしばらく哮峰にいた。四王寺山の土塁の向きから長髄彦の一族(出雲族)は倉吉市富海(鳥見邑)にいた。長髄彦(海幸彦)の一族は饒速日を信奉していたので哮峰の近くの倉吉市富海を本拠地としていた。
四王寺山にいたのは火火出見(山幸彦)であり、土塁が向いているのは倉吉市富海なので、倉吉市富海には火火出見(山幸彦)と敵対していた長髄彦(海幸彦)がいた。火火出見(山幸彦)は3年間新羅に逃げていた。しかし、父の邇邇芸がここは良き地なりと言っていたので、鳥取県中部を取り戻すために帰ってきた。鉄矛は新羅から直接運んできた。
鉄矛は細いし、近くに敵対していた海幸彦(長髄彦)がいたので祭祀ではなく実用品として使用されていた。竪穴建物を焼失させたのは、敵対していた長髄彦(海幸彦)である。
饒速日(哮峰)を信奉していた長髄彦の一族は現在、富海の対岸の倉吉市生田に住んでいる。倉吉市は生田に移り住んでいる長髄彦(海幸彦)一族が中心になってできた自治体である。
神武東征は不比等の創作であった [日向三代と神武天皇四兄弟]
神武天皇は山を穿って道をつけ、ゲリラ戦を展開していた [日向三代と神武天皇四兄弟]
神武天皇の段にある「宇陀」とは鳥取県倉吉市高城地区(楯縫郷)のことであった [日向三代と神武天皇四兄弟]
神武東征は不比等の創作であった。神武天皇は鳥取県中部(倭国)を出発し、鳥取県中部(倭国)に帰ってきた [日向三代と神武天皇四兄弟]
(1)イツセとイワレヒコは九州を平定して(鹿児島県・佐賀県・福岡県で発掘された紀元前100年頃の鉄鏃より)安芸国を通って倭国(鳥取県中部)に帰り、米子市淀江の津で新羅からの鉄製の武器を受取り、船で東郷池に入ったと思われる。倉吉市の大平山(日下村)でナガスネヒコと戦いイツセは傷つき、木国(鳥取県智頭町)で亡くなった。イワレヒコは木国(鳥取県智頭町)から山陽側(岡山県・広島県)に出た。
(2)岡山県・広島県に神武天皇の伝承が多い。大阪府茨木市(摂津国)の東奈良遺跡における銅鐸製作を紀元前1世紀に線刻土器に変えさせているので摂津国(大阪府茨木市の東奈良遺跡)までは行ったはずである。しかし、1世紀に銅鐸製作を線刻土器に変えた奈良の唐古・鍵遺跡を平定したのは2代天皇以降ではないかと思われる。イワレヒコは奈良や和歌山県の熊野までは行っていない。宮崎県民・奈良県民・和歌山県民は古事記・日本書紀で創られた「神武天皇」という幻想を見ていた。
記紀にある神武東征で宮崎県の日向から和歌山県の熊野まで行くルートに矛盾が3つある。その1は、都であったとする宮崎県の日向からスタートするのはおかしいこと。2は、もし紀伊山地を縦断できたとしても疲労困ぱいで八十猛の軍に勝てるわけがないこと。3は、古来この地域に「熊野」と名のつく郡町村字が存在したことがないこと。以上のことから、神社・石碑・地名・伝承はそろっているが、これは不比等の時代から京都に遷都してからも藤原氏によってどこも疑われないように潤色したものであり、そろいすぎていてかえって不自然なのである。広島県・岡山県には神武天皇の自然な民間伝承が多いが、宮崎県・奈良県・和歌山県の民間伝承はわざとらしく思われる。
イワレヒコは退却した後、しばらく山陽で過ごした。倉吉市の上里神社の由緒では「神倭天皇(鳥取県中部の)日向より東夷平定に(九州に発たれ平定後)山陽より(帰り)給いし際・・・神倭天皇東夷平けむと、皇軍を山陽の国に進めたもう。・・・」とあり奈良・熊野は出てこない(カッコは藤原氏の神社庁によって削除された)。
国史にある宮崎県から奈良県に神武天皇が都を遷したとする神武東征はすべて藤原氏による改ざん・創作である。学者はみな改ざん・創作された国史に基づいて東征ルートなどを机上で考えていた。神武天皇が実在しなかった場所(宮崎県・奈良県・和歌山県)に幻の神武天皇を創り上げていたので、神武天皇はいなかったという説(日本史の教科書)が出てくるのである。神武天皇は宮崎県・奈良県・和歌山県にはいなかったが、鳥取県・広島県・岡山県には実在していた。
(3)日本書紀には「名草邑の女賊を誅し、佐野を越えて、熊野の神邑に至り天磐盾に登った」とある。
名草戸畔は津山市二宮の宇那提森で誅された蛇と思われる。津山には娘が蛇になり宇那提森に住んだという説話がある。蛇は生贄を要求した。津山市の名草戸畔を蛇に変えたのは藤原氏と思われる。
イワレヒコは名草戸畔を胴、頭、足に切断して埋めたが、猿を退治して中山神社にいた崇神天皇(在位188年~220年)は古墳時代前期に美和山古墳群に手厚く埋葬しなおしたと思われる。
藤原氏は津山の名草戸畔の伝承を和歌山にもっていって、3神社に祀り、名草姓の子孫まで創ったので、津山の本物は蛇にして隠さなければならなかった。名草戸畔は出雲の諸神の姻戚であり、龍蛇神を祀っていたので蛇とした。蛇は足がないから、耳塚とした。
高野神社の主祭神は父のあだ名であり、創建時は神倭磐余彦であった。イワレヒコは碫馭盧岩(おのころいわ)を磐境として祀っていた。
佐野は総社市中心市街地と思われる。佐野山の地名が残っている。
日本書紀の「熊野の」は藤原氏の加筆である。本当の「神邑」は福山市神村町であった。「天磐盾」は福山市の天津磐境であった。
イワレヒコは倭国(鳥取県中部)からいったん撤退して広島県福山市を本拠地にしていた。
(4)神武天皇の伝承は以下の地域に残る。
1.福山市柳津周辺
潮崎神社:御蔭山:磐田山:貴船神社:口の巖:神王屋敷:王人の巖:物見御座所:辺防地:城の坊:天津磐境:祭壇巖:鏡山:勝負岩:勝負原:王太子社:森御前:鎮神社
2.福山市浦崎
高島:王太子神社:嶽神社
3.福山市内浦町田島
皇森神社:内浦:磯間浦・口無泊:幸崎:俎の瀬:六合:箱崎:小用地:大越:大浦(王浦)・天迫:天皇神社・天皇の浜・天皇畑・天皇の洲:御手洗川:矢の島
※ 私見 田島の伝承は柳津周辺の伝承とは質が違う。田島の伝承は笠岡市高島の伝承と同じく神武東征神話の一環として藤原氏が創作したと思われる。島々を船で中継していったと思わせるためのテーマパークと思われる。
4.福山市田尻町
高嶋:竹ヶ端:高濱:王ヶ峰:宮原:蓑島大明
5.尾道市高須
高須:大元山:大元神社:木之本神社:加茂神社:神原:千畳屋敷・風呂井戸:穴倉屋敷・大将軍屋敷:弓細工
6.三次市畠敷町 熊野神社
7.庄原市西条町高
今宮神社伝承:神武天皇広島に御滞在中、物資を出雲(伯耆国淀江)方面より御取り寄せ遊ばさる。
※ 私見 出雲とあるが敵対していた出雲であるはずはなく(神武天皇の子孫の倭建命は出雲建を殺している)これも出雲を聖地にしようとする藤原氏による改ざんである。
8.庄原市高野町南
八幡神社:鬼城山
9. 庄原市本村の葦嶽山
※ 私見
イワレヒコは尾道も含めて福山市を軍事拠点にしていた。この時、西は宮島、東は摂津国、南はしまなみ海道を通って伊予国を平定している。北は庄原市高野町や西条町高に伝承地があり、庄原市本村の葦嶽山でも祭祀をしている。
古代史の復元では「使者の通った経路は葦嶽山から本村川を遡り帝釈を越え戸宇から八幡越えで出雲に渡ったと伝わっている。この経路は通常出雲へ向かう経路とは異なっている。この経路を延長すると、道後山沿いに鳥取県の日野川流域に入ることになる。この方面に行くとなれば、御墓山を経由して島根県の飯梨川流域に入りそこから出雲国の中心地と思われる意宇郡に着く」とする。「古代史の復元」の筆者は出雲国という先入観があるようである。イワレヒコの使者は戸宇から八幡越えで日南町に入り日野川を下って淀江の津に至った。
イワレヒコは福山市に滞在中、庄原市を越えて新羅から鉄製の武器の到着した米子市淀江の津との往復をしていたと思われる。
一般には「武器調達と大和の様子見のために長期滞在をした」と言われている。倭を大和と書かせているが、大和は奈良だから、奈良の様子見のために出雲や鳥取県に行くはずはない。伝承でいう「大和」とは「倭」のことであり鳥取県中部であった。
備後国北部から安芸国にかけても伝承が多いが、四兄弟が九州に行くときと、イツセとイワレヒコが九州から倭国に帰るときの2回通っているから伝承が多いのだと思われる。
イワレヒコは倭国からいったん退却して福山市を本拠地として現地の人々の心をつかみ、軍備も蓄えていった。賊(略奪集団)の退治もしていたので土地の人々の心をつかみ、実戦経験も積んでいた。
※ 略奪集団(出雲神族=準王一族)の退治は以下のようである。
庄原市高野町南の八幡神社 埴土丸といふ鬼神と数多の賊
広島市安芸区瀬野の生石子神社 瀬野川の川上の賊
呉市の八咫神社 いとも怪しき夷等
岡山市児島宮浦の懸幡神社 奥津に荒ぶる神
中ほどのグリーンシャワーの森から左上の龍之口八幡宮までの坂を荒坂と言ったはずである。出雲神族は荒神であり、龍蛇神を祀っていた。龍之口八幡宮にいたのは出雲神族と思われる。「戸畔」というのは女酋で出雲の諸神の姻威だといわれている。龍之口八幡宮にいたのは丹敷戸畔と思われる。神武天皇は高島にいたと思われる。
饒速日には猿田彦がついて案内したが、イワレヒコにはヤタガラス(鴨建津之身)がついて案内した。鴨建津之身は小鴨川と県道45号線に近い関金の鴨ヶ丘に住んでいたと思われる。
イワレヒコは祖父ニニギ(楯縫神社の祭神)のいた宇陀(倉吉市高城)に下りて行った。「道もない深山をさらに踏み越え、道を穿ってようやく宇陀に到着した」(古事記)。穿邑は倉吉市上大立集落と思われる。
炭焼きをしてもおかしくない土地柄。
(9)八十タケルがいた国見丘は北栄町の蜘ヶ家山と思われる。蜘ヶ家山の頂上に上がれば見晴らしが良く、古代の国見がどういうものだったかが分かる。
(10)イワレヒコの使者は米子市淀江町の津で新羅からの鉄製の武器を受け取っていた。鳥取県江府町江尾にいたウマシマジはイワレヒコの山陽(吉備国と安芸国)での活躍を福山市と米子市淀江町との間を何度も往復する父方のイワレヒコの使者から聞いていたはずである。
ウマシマジは母方のナガスネヒコ一族が掠奪集団であり、人々はイワレヒコに味方をしていることを家の前を通る使者から聞き、ナガスネヒコを殺害し、宇陀(倉吉市高城地区)にいたイワレヒコを追って帰順したと思われる。
(11)弟ウカシは猛田(三朝町竹田)の県主を命ぜられたが、その子孫は出来が悪くてもと居た宇陀(倉吉市高城)に帰らされ、水汲みをさせられていたと思われる。反面、弟磯城は磯城の県主として出来が良く、雄略天皇の時代には鰹木を高く掲げた家を建てるまでになっていた。
(1) 古事記
兄を失ったイワレヒコ命は悲しむひまもなく、その土地から迂回をつづけ、やがて熊野(福山市)の村へと着いた。
イワレヒコは寝込んでしまった。・・・(ここが長い)・・・。
高倉下が(石上布都魂神社の地で)剣を献上した。
たかぎの大神が言った。「この土地から深入りしてはならない。この奥には荒々しくすさまじい神々が大勢いる。天からヤタガラスを降ろしてやろうヤタガラスが道案内をするので従っていくがよい。」
やがて吉野川(岡山県の旭川)の河上に達した。
この土地から、道もない深山をさらに踏み越え、道を穿ってようやく宇陀に達した。
宇陀での話。
この土地から命の軍隊はさらに旅を続けて忍坂の大室(三朝町片柴)に到着した。80人におよぶ土蜘蛛が待ち構えていた。
その後ナガスネヒコに対して復讐の一戦を望むことになった。トミビコ(ナガスネヒコ)を討ち果たした。
兄磯城・弟磯城を攻めた。
伊那佐山の歌。
饒速日(ウマシマジ)が陣中に参上。
(2) 日本書紀
イツセの死。
名草邑→神邑→天磐盾→海を渡る→荒坂の津。
高倉下が(石上布都魂神社の地で)剣を天皇に献上した。
皇軍は内つ国(鳥取県中部)に赴こうとした。
山の中で道に迷っていた。
天照大御神が「ヤタガラスを遣わすから、これを案内にせよ。」と言った。
日臣は大久米を率いて鳥の導きのまま追いかけた。日臣は道臣となる。
宇陀の穿邑についた。
宇陀での話。
天皇は宇陀の穿邑から巡行し、吉野(倉吉市北谷地域)についた。
天皇は宇陀の高倉山(倉吉市高城山)で国見をした。
国見丘(北栄町の蜘ヶ家山)には八十タケルがいた。
兄磯城の軍は磐余邑にあふれていた。
香久山の土を下して占った。
八十タケルを国見丘(北栄町の蜘ヶ家山)に撃った。
忍坂の室(三朝町片柴)での話
兄磯城・弟磯城の話
忍坂の道から行く。直ちに墨坂を目指し、宇田川の水をとって敵軍が起こした炭の火にそそぎ、驚いている間に不意をつけば、きっと敗れるでしょう。
鵜飼いの歌。
男軍が墨坂を越え挟み撃ちにして兄磯城を破った。
ナガスネヒコと金鵄
饒速日(ウマシマジ)はナガスネヒコを殺害した。饒速日(ウマシマジ)は部下達を率いて帰順した。
饒速日(ウマシマジ)は物部氏の先祖である。
高尾張邑の土蜘蛛を皇軍は葛の網を作って、覆い捕らえて殺した。その邑を改めて葛城とした。
神武天皇たちは妻木晩田を開いた [日向三代と神武天皇四兄弟]
神武天皇(紀元前112年生まれ、紀元前60年即位)とその両親も祭神になっている。普通、合併は大正時代なのに明治政府は慌てたように糺(ただす)神社を消している。糺(ただす)神社の由緒は橿原神宮(明治23年創建)を建てた関係か、明治政府にとって不都合なものであったと思われる。
SK179は紀元前100年頃のSK161のすぐそばにあり、この線刻土器も紀元前100年頃の線刻土器と思われる。
神武天皇(紀元前112年生まれ、紀元前60年即位)たちは殷王朝末裔である出雲族(準王一族)の銅鐸祭祀を線刻土器の祭祀に変えさせよう(ただす)としていた。その最初の拠点が妻木晩田遺跡の松尾頭地区と思われる。しかし、この地では線刻土器祭祀へ変更させる(ただす)ことはできなかった。
神武天皇たちは全国に散っていた出雲族(準王一族)の祭祀を変更させるための巡行に出なければならなかった。神武東征の原型は出雲族(蝦夷)の平定であった。
出雲族が妻木晩田に住み始めたのは出雲族が平定されて神武天皇が即位(紀元前60年)した後であった。しかし、いつまた反乱するかわからない爆弾を抱えているような状態であった。実際、孝霊天皇の時代(120年~211年)に出雲族は出雲族の姫を殺したとして反乱(青谷上寺地遺跡に代表される倭国大乱)を起こした。
また、鳥取県大山町長田集落の造りは倉吉市大谷集落の造りと似ており、集落にだいぶ近づかないと家並みが見えない。長田集落も大谷集落と同じく神武天皇の時代(紀元前100年頃)に造られたと思われる。
長田集落も含めて松尾頭地区より孝霊山側は天孫族の領域であり、松尾頭地区より日本海側は出雲族の領域であったと思われる。同じように鳥取県中部でも四王寺山(鵜草葺不合=火火出見と玉依姫の宮)と土下山(鳥見=出雲族の白庭山、後に天の香久山)でも天孫族と出雲族は住み分けをしていた。四王寺山の前に不入岡(岡にはいるべからず)という地名がある。
鵜草葺不合は彦火火出見のあだ名であった [日向三代と神武天皇四兄弟]
先代旧事本紀の天孫本紀には「天孫天津彦々火瓊々杵尊の孫、磐余彦尊が天下を馭ようとして東征した」とある。「瓊々杵尊の孫、磐余彦尊」とある。鵜草葺不合(産屋を建てるのが間に合わなかった)とは正式な名前だろうか。
2 ウィキペディアより
ウガヤフキアエズ王朝は、「ウエツフミ」「竹内文献」「神伝上代天皇紀」などの古史古伝に記載されている神武天皇以前の古代王朝で、火々出見命の子鵜萱葺不合命が開いた王朝とされる。鵜萱葺不合命は、「古事記」、「日本書紀」の中では、神武天皇の父とされている。「ウエツフミ」、「竹内文献」、「神伝上代天皇紀」などの中では神武以前に何代か続いた王朝の始祖とされている。しかし、これらの文書の中でも天皇の数や王朝の継続期間は一致していない。そもそもこれらの文書は史料価値が認められておらず、ウガヤフキアエズ王朝とは近代以降に偽作された架空の王朝だとするのが妥当であるとされている。
3 私見
(1) 日本書紀ならば瓊々杵命と磐余彦命との間には彦火火出見と鵜草葺不合の二人が入るのだが、先代旧事本紀の天孫本紀には「瓊々杵尊の孫、磐余彦尊」とある。系譜に関しては、記紀より先代旧事本紀のほうが信用できる。先代旧事本紀は瓊々杵尊と磐余彦尊との間には一人しかいないとする。したがって、彦火火出見と鵜草葺不合は一人であり鵜草葺不合は彦火火出見のあだ名ではないかと思われる。
(2) 「産屋を建てるのが間に合わなかった」はあだ名にはなるが、正式な名前とは思われない。これも、あだ名を付けるのが好きな鳥取県中部の住民が付けたものと思われる。
(3) 古事記・日本書紀には鵜草葺不合の事蹟はほとんどない。神社の由緒にもない。これは、旧辞のない欠史八代と同列に論じることはできない。名前自体があだ名にふさわしいので、鵜草葺不合の実態はなかったと思われる。
(4) 京都で暇を持て余していた藤原氏は空想科学小説が好きだったようで、あだ名に過ぎないウガヤフキアエズを独り歩きさせて、数十代にわたるウガヤフキアエズ王朝なるものを作り上げた。
(5) 豊玉姫と玉依姫の姉妹は2人とも彦火火出見の妻であった。豊玉姫は一人しか生まなかったから、産んだ子は五瀬命と思われる。玉依姫は次男の稲飯命、三男の御毛沼命、四男の磐余彦命を生んだ。こういう系譜なら今でもありそうである。
(6) そう解することで、高倉下命と宇摩志麻治命は磐余彦の叔父くらいの年齢になり同時代に生きていたことになる。
(8) 四王寺山(倉吉市)の防御の構造は彦火火出見(紀元前150年~)の時代に、近くに敵がいたことを想像させる。それは「トミ」と名乗った準王一族(出雲神族)と思われる。饒速日が降臨して長髄彦の妹の三炊屋媛を妻とした鳥見(トミ)の白庭山(北栄町の土下山)にもトミの一族はいたと思われる。
饒速日は次男(宇摩志麻遅)がおなかの中にいるときに亡くなったのだから、享年26歳くらい。瓊瓊杵命が降臨したのが4歳ならばに瓊瓊杵命は紀元前184年(天忍穂耳の伯耆国到着が紀元前210年)ころの生まれと思われる。天忍穂耳が伯耆国に到着してから26年後となる。紀元前184年引く紀元前112年(神武天皇の誕生年は紀元前112年)は72年であり、それを2で割ると36歳となる。火火出見命は3男、神武天皇は4男だからこの結果になる。
神武東征の目的は都を東に遷すのではなく東夷(青銅器文化の一族)を平定することであった [日向三代と神武天皇四兄弟]
神武東征の目的は都を東に遷すのではなく東夷(青銅器文化の一族)を平定することであった。
1 鳥取県神社誌(昭和9年)より
上里神社 村社 東伯郡
東に向いている。
高いところにある。
鎮座地 東伯郡日下村大字清谷字宮下
現在地 鳥取県倉吉市清谷1217番
祭神 天津日高日子番能瓊瓊藝命、天児屋根命、天鈿女命
由緒 紀元沿革不詳、御鎮座の由来と云へるものに、神倭天皇日向より東夷平定に山陽より給ひし際、伯耆氏稲飯命に神懸坐て曰く、神倭天皇東夷平けむと、皇軍を山陽の国に進め給ふ、汝稲飯長人吾神魂を三子の嶋に対へる地の朝日の只刺夕日の日蔭る清の地に神籬を真日向に建て、吾神魂を齋奉れ、三子嶋に対へる海も陸も平かならん、吾は久志振陀計に天津神床を遷せし天津日高彦神なり、神伴に天津児屋根命、天鈿女命座しきとの神勅を畏み齋神籬を建て仕奉りし天の神の宮なりき、この里を清谷と曰ひしは、天上の清麗美潔の神地を遷したまひし御神霊を齋き奉る里と云ふ意を以て清谷と命名せしと伝ふ。
2 私見
「神倭天皇日向より東夷平定に山陽より給ひし際」・・・「神倭天皇東夷平けむと、皇軍を山陽の国に進め給ふ」とある。「東夷」とは東にいる蝦夷のことである。蝦夷とは鬼・猿・土蜘蛛などと呼ばれていた青銅器文化の一族であり、殷王朝末裔の準王一族のことである。紀元前194年に馬韓より列島に渡り早い段階で全国に展開していた。
古事記には「神倭伊波礼毘古命は、兄の五瀬命とともに、日向の高千穂で、葦原中国を治めるにはどこへ行くのが適当か相談し、東へ行くことにした。」とあり日本書紀には「塩土老翁によれば東に美しい国があるそうだから、そこへ行って都を作りたいと言って、東征に出た」とあるが、これらは藤原氏によって改ざんされている。神武天皇は鳥取県倉吉市四王寺山(日向)より殷王朝末裔の準王一族(東夷)の平定に旅立たれ、山陽から帰ってこられてからこの地でも準王一族(東夷)を平定された。兄磯城や長髄彦とは鳥取県中部に帰ってから戦った。鹿児島県大崎町の永吉天神段遺跡から出土した弥生時代中期中葉の鉄鏃5点は神武天皇の皇軍が放ったものである。弥生時代中期中葉の同型の鉄鏃は福岡県太宰府市の吉ケ浦遺跡と佐賀県鳥栖市の安永田遺跡でも見つかっている。
「稲飯命」は神武天皇の兄である。ニニギ命が稲飯命に神かかったのは紀元前60年~紀元前57年頃である。稲飯命は東夷の平定が終わった連絡を受けて辰韓より鳥取県中部に帰って来ていた。人力の船でも1日あまりで帰ってこれる。神武天皇が初代天皇として倉吉市大宮で即位する前である。稲飯命は神武天皇の即位を見届けてから、辰韓に帰って新羅を建国された。半島には準王一族の残党もいたから、辰韓の6村の信頼を得るのには時間がかかった。鳥取県中部の神武天皇を助けるためにも、神武天皇即位の3年後(紀元前57年)に信頼も得て新羅を建国した。
四王寺山の大谷集落の外敵から守る構造や、倉吉市大宮の外敵から守る構造は、準王一族(東夷)に対する防御のためであった。私見では神武天皇の生年は紀元前112年頃であったから東夷の危険はすでに存在していた。神武天皇の東征の目的は全国に展開していた東夷(殷王朝末裔の準王一族)を平定することであった。吉備国や安芸国に長く居たのは鳥取県中部を準王一族に占領されており帰ることができなかったし、吉備国や安芸国の住民に高地性集落を造らせたのではないかと思われる。初代神武天皇から10代の崇神天皇が全国を統一するまで天皇家は東夷と対立していた。「福は内、鬼は外」の起源である。