千三百年の間、藤原氏に消されてきた伯耆国(鳥取県中西部)の真実の歴史が、今よみがえる。
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日本書紀は列島における百済再興のために制作された [閑話休題]
鳥取県中部の古代人は身体に朱丹を塗っていた [閑話休題]
聖徳太子(蘇我入鹿天皇)の皇居は鳥取県北栄町由良宿にあった [閑話休題]
聖徳太子(蘇我入鹿天皇)の皇居は鳥取県北栄町由良宿にあった。
1 皇居と産屋の距離
(1) (瓊々杵命)鳥取県北栄町下種集落 大宮神社
(2) (木花之佐久夜毘売)鳥取県北栄町由良宿 高江神社
(1)~(2)の間は4.1km
(3) (神武天皇)鳥取県倉吉市大宮集落
(4) (媛蹈鞴五十鈴媛命)鳥取県倉吉市耳集落
(3)~(4)の間は3.7km
(5) (蘇我馬子天皇)鳥取県北栄町島集落
(6) (物部鎌姫大刀自)鳥取県倉吉市馬場町
(5)~(6)の間は3.7km
(7) (物部氏の本拠地)鳥取県倉吉市大原集落
(6)~(7)の間は4.2km
瓊々杵命と神武天皇と蘇我馬子天皇の皇居と産屋を上記のように比定したのだが、3人とも産屋との距離がほぼ同じように思われる。当時の皇居と産屋の距離は4km前後であったと思われる。これは偶然ではなく、比定地が正しいからと思われる。
また、厩戸皇子の生まれた物部鎌姫大刀自の産屋を倉吉市馬場町に比定したが、蘇我馬子天皇の皇居のある北栄町島と実家のある物部氏の本拠地の倉吉市大原と同じような距離になる。
これら7つの比定地は正しいものと思われる。
2 聖徳太子(蘇我入鹿天皇)は厩戸で生まれたが、厩の中で生まれたキリストと重ねるべきではない。「イエス・キリスト誕生の逸話が聖徳太子伝説に借用された」とする説があるが、イエス・キリスト誕生逸話を借用するならば、厩の外ではなく中で生まれたとすべきであるのに、あえて厩戸で生まれたとしている。これは聖徳太子が厩戸の前で生まれたのが史実であるからであり、2人とも厩が関係しているのは偶然と思われる。聖徳太子(蘇我入鹿天皇)は応神天皇の時代に新羅から贈られてきた馬を飼育していた「軽の坂上の厩」(倉吉市馬場町)の戸の前に造られた物部鎌姫大刀自の産屋で厩戸皇子として生まれた。「蘇我入鹿」や、善徳の一字を取って「聖徳太子」と名づけたのは後の藤原氏であり、本名は蘇我善徳である。「厩戸皇子」や「豊聡耳」はあだ名を付けるのが好きな鳥取県中部の住民が付けた蘇我善徳のあだ名と思われる。
3 甘樫丘東麓遺跡と由良遺跡
(1) 蘇我蝦夷・入鹿は甘樫丘にそれぞれ居を構えた。 日本書紀では、蘇我蝦夷の邸宅は「上の宮門(みかど)」、蘇我入鹿の邸宅を「谷(はざま)の宮門(みかど)」としている。
(2) 甘樫丘東麓遺跡現地説明会資料(奈良文化財研究所)調査成果 7世紀前半
「調査区内の自然地形は、南北方向に谷筋が入っていました。この谷筋の中央に石垣を築いて東側に一段高く敷地を造成し、建物を建てます。石垣は東側の敷地の法面を構造的に保護するとともに、迫力ある敷地構えをみせる視覚的な効果も果たしていたと思われます」とある。
甘樫丘東麓遺跡は蘇我入鹿の邸宅跡とされる遺跡であることがほぼ確定された(朝日新聞)。蘇我入鹿は整地をして、家の外に城柵を巡らせていた。
蘇我蝦夷が邸宅で「天皇記・国記・珍宝」を焼き、自害したとする記述につながる「上の宮門」の焼け跡は見つからなかった、とする。
(3) 由良遺跡発掘調査報告書に「大栄町は、大山火山の北東麓にあたり、広く火山灰山におおわれているが、今回の発掘調査の試掘トレンチの断面より土層序は、地表から、(1)黒灰色の耕作土、(2)黒色粘質土(3)暗褐色粘質土(4)黄灰色砂質土となっていたが町内の畑地帯で一般的に見られるクロボクは認められなかった。遺構が検出された砂質ぎみの黄灰色土、又は、黄褐色土の緻密で堅く安定な地盤であった」とある。
「また、柵列跡とした遺構があるが、隣接した遺構に関係したものと考えるには、無理があるかもしれない。また、遺構として存在したこと自体が疑わしい」とする。
4 私見
(1) 先代旧事本記天孫本紀に「物部氏十五世孫・物部鎌束連公の妹に物部鎌姫大刀自連公。・・・。宗我嶋大臣の妻となって、豊浦大臣をお生みになった。豊浦大臣の名を、入鹿連公という」とある。
甘樫丘の上に「上の宮門」の焼け跡は見つからないのは、蘇我蝦夷は架空の人物だからと思われる。
宗我嶋大臣は蘇我馬子のことであり、島に住んでいたから嶋大臣と呼ばれていた。豊浦大臣とは蘇我蝦夷ではなく蘇我入鹿のことであった。蘇我入鹿は豊浦に住んでいた。元興寺縁起では等由良(豊浦)宮が3回書かれている。豊浦(とゆら)の元の字は等由良であるから蘇我入鹿は奈良では等由良に住んでいた。
蘇我馬子は天皇であり、鳥取県北栄町島に皇居があったことは、磐余邑、池の配置、池上の陵、複数同一棺埋葬墓の存在など、以前のブログを参照されたし。
蘇我入鹿の父は蘇我馬子であった。奈良の宮は等由良の宮であったが、皇居は蘇我馬子天皇と同じ鳥取県北栄町の由良の宮にあった。
(2) 蘇我入鹿天皇(聖徳太子)は皇居(由良の宮)を鳥取県北栄町由良宿の丘陵地(現在、大栄小学校・大栄中学校・鳥取中央育英高校・北栄町役場がある)に置いた。由良の宮で、蘇我入鹿天皇の皇子である大海人皇子や、百済の人質の豊璋(中大兄王子)と塞上は育てられた。
中大兄王子(豊璋)は、育ての親の蘇我入鹿天皇(蘇我馬子と共に遣隋使を派遣した)から「大国維新之化」の話や「日の出ずる国の天子・・・」の話を聞いていたと思われる。中大兄王子(豊璋)は大化の改新や日本という国号の参考にした。
「大化の改新」は蘇我馬子天皇が隋国の裴世清に「どうか大国維新之化を教えていただきたい」と言った言葉から出ている。大国維新之化(大化の改新)とは列島の道路建設などのインフラ整備のことであった。藤原京・平城京の建設もその一環であった。大化の改新(大国維新之化)は645年に急に始まったのではなく、隋の裴世清たちに教わったときからすでに始まっていた。
(3) 蘇我入鹿天皇は半径500mの広大な由良遺跡のクロボクを取り除き緻密で堅く安定な地盤に整地していた。由良遺跡発掘調査報告書の報告者は「柵列跡とした遺構」を否定するが、城柵が脳裏をかすめ「そんなことはない」と否定したと思われる。蘇我入鹿天皇は由良宮を柵で防御していたと思われる。
甘樫丘東麓遺跡を大豪族の邸宅跡とするには小さすぎる、とする見解がある。蘇我入鹿は豪族ではなく天皇であった。皇居は鳥取県北栄町由良宿の半径500mの広い丘陵台地にあったから、甘樫丘東麓遺跡は奈良での仮の住まいであり、小さくてもよかった。
聖徳太子(蘇我入鹿天皇)の皇居は鳥取県北栄町由良宿にあった 2 [閑話休題]
「斎尾(斎王)廃寺では塑像片・仏頭・鴟尾・鬼瓦の他、創建期の軒丸瓦には紀寺式、軒平瓦に法隆寺式系統のものが出土し、山陰・山陽では数少ない瓦当文様をもち、畿内と結びつきの深い有力豪族が斎尾廃寺周辺で勢力を持っていたと推察される」とある。
※ 畿内と結びつきの深い有力豪族(蘇我一族)は斎尾廃寺周辺(4km.東方の北栄町由良)で勢力を持っていた。由良遺跡は古墳時代から奈良時代までの複合遺跡であり、半径500mに及ぶ広い遺跡である。この丘陵台地に蘇我一族(蘇我入鹿またの名は善徳またの名は聖徳太子)の本拠地があったと思われる。
神社横の駐車場からも複数の弥生住居跡が検出されていたが、その調査報告書は見当たらない。高江神社遺跡は神社の前を通る道路の建設中に発掘された。たかだか300mほどの距離の直線道路の予定地から弥生時代後期・古墳時代前期の17棟もの竪穴住居跡が検出されるのだから、古代は相当な住宅密集地であったと思われる。竹歳家の先祖もこのあたりに住んでいたと思われる。海面が下がるにつれて下の現地に移られた。竹歳家はこの丘陵の延長上に多い。
木花之佐久夜毘売(弥生時代前期)の産屋は高江神社にあったと比定したのであるが、2kmほど西の大谷第1遺跡(おそらく徐福たちの遺跡)からは弥生時代前期の遺跡が発掘されている。また、高江神社の隣の西高江遺跡からは弥生時代中期の水晶の玉造工房跡が検出されているので、広い高江神社の敷地に弥生時代前期(紀元前150年頃)の木花之佐久夜毘売の産屋の遺跡があってもおかしくない。
古墳時代が始まる紀元三世紀(西暦300年)ころまで続いた、水稲農耕と金属器の使用に特徴づけられる時代を言う
前期 BC200~BC100
中期 BC100~AD100
後期 AD100~AD300
の三時期に区分される。縄文時代に近い初期の稲作遺構を伴う時期を特別に早期とする場合もある。
縄文時代と弥生時代の区分は絶対年代として確定されているわけではない。
弥生時代の土器は、時系列に約600年分が整理されている。
序文に「この台地は、古くより遺物の散布地として知られており・・・」とある。
まとめに「しかし、地続きの大栄中学校の校庭のある丘陵地にも以前、多数の土器片が発見されたともいわれ、マクロ的に見れば別所古社地遺跡にまで遺跡が継続していると考えられる。従って、遺跡の範囲は半径500mに及ぶと推定され、これは、この一帯の地続きの畑地帯のある丘陵にほぼ一致する」とある。
聖徳太子(蘇我入鹿天皇)の皇居は大栄中学校の敷地内にあったと思われる。この丘陵台地の中心部である。多くの須恵器と大きな建物遺構があったものと思われる。しかし、ブルドーザーによる造成で壊された。ブルドーザーの通った後に土器・石器が散乱していた。須恵器は値打ちはないと思ったので石器だけを持ち帰った。大栄中学校の造成工事を本来なら中止して、遺跡の発掘調査をすべきだが、発掘調査をしていない。
校舎が完成し、2年生になった時に大栄中学校に通うことになった。私が刀で斬られる夢をみたのは3年生の時であった。「蘇我入鹿天皇は、刀で斬られてさぞつらかったであろう」という残された者たちの無念の思いが残っていたからと思われる。
聖徳太子は奈良に行ったり来たりで、由良の皇居に長くはいなかったから、いるときには住民がいっぺんにおしかけたと思われる。10人の話を一度にきいたのも由良の皇居であったと思われる。
尾道の浄土寺(開祖は聖徳太子と伝わる)と姫路の斑鳩寺との中間は岡山である。岡山ではなく北の鳥取県北栄町由良に聖徳太子の皇居はあった。聖徳太子はヤマト王権の御用水軍であった村上水軍で尾道からしまなみ海道を渡り、卑弥呼・倭健命たちが平定した松山にも行かれた。現在、村上水軍の直系の子孫は鳥取県中部にいる。
「倭人」が新羅を攻撃したとする「三国史記」と伝承は改ざんされている [閑話休題]
(1)3世紀までの倭国と新羅との関係(ウィキペディアより)
「三国史記」によると、新羅建国時より日本による新羅への軍事的な侵攻が度々記述されている。
紀元前50年、倭人が侵攻してくるが、赫居世王(稲飯命)の説得に応じて倭軍は撤退する。
14年 倭人が兵船100艘余りで攻め寄せ、海岸の民家を略奪した。
72年 倭人が木出島(慶尚南道蔚山広域市の目島)に進入してきた。角干(1等官の伊伐飡の別名)の羽烏を派遣したが勝てず、羽烏は戦死した「三国史記」。
107年 倭国王帥升(孝安天皇)らが後漢の安帝へ生口160人を献じた「後漢書」。
121年2月に大甑山城(釜山広域市東莱区)を築いた。同年4月に倭人が東部海岸に侵入した「三国史記」。
123年3月に倭人と講和した「三国史記」。
208年夏4月、倭人が国境を犯す「三国史記」。奈解王は将軍利音に反撃させた。
第11代助賁尼師今
奈解尼師今の太子でもあった伊飡の昔于老を取り立てて、国防に当たらせた。
232年4月に倭人が首都金城に攻め入った「三国史記」。王も出陣して倭人を壊滅させ、騎馬隊を派遣して首級1千をあげた。
233年5月、倭人が東部国境に侵入「三国史記」。
233年7月、将軍の昔于老が沙道で倭軍を撃退、倭人の兵船を焼き払う。
239年 倭王卑弥呼は魏の明帝へ男生口4人、女生口6人を献上した「魏志倭人伝」。
243年 魏の少帝へ生口を献じた「魏志倭人伝」。
245年10月、高句麗東川王の侵入を受け、昔于老が出て防戦したが、勝てずに馬頭柵(京畿道抱川市)まで退却したという。
第12代王沾解尼師今の時代(在位:247年 ~261年)
247年7月に、父の骨正を世神葛文王に追封した。
248年2月には高句麗に対して講和を行い、百済との交戦に集中する政策を採った。
248年 倭王台与は生口30人を魏へ献じた「魏志倭人伝」。
255年9月には百済の侵攻に対し、一伐飡の翊宗が百済軍を槐谷(忠清北道槐山郡)で迎撃したが、百済軍によって殺されてしまった。続けて10月には百済は烽山(慶尚北道栄州市) 城に攻め込んできたが、よく守って降伏せずに済んだ。
261年3月には百済古尓王は新羅に和親の使者を発したが、沾解尼師今はこれを黙殺した。「三国史記」。
(2)4世紀の倭国と新羅との関係(日本書紀・三国史記より)
368年(応神天皇14年)、弓月君が百済(新羅)から来て、天皇に奏上した。「私の国の百二十県の人民が帰化を求めています。しかし新羅(百済)人が拒んでいるので、みな加羅国(百済国?)に留まっています。」天皇は葛城襲津彦を遣わして、加羅国(百済国?)の弓月の民を召されたが、三年を経ても襲津彦は帰らなかった「日本書紀」。
370年(応神天皇16年)、天皇は平群木菟宿禰、的戸田宿禰を加羅に遣わした。天皇は精兵を授けて、「襲津彦が帰らないのは、きっと新羅(百済)が邪魔をしているからだ。お前達は速やかに赴いて新羅(百済)を撃ちその道を開け。」と命じた。木菟宿禰らは精兵を進めて新羅(百済)の国境に臨んだ。新羅(百済)王は恐れて、その罪に服した。二人は弓月の民を率いて襲津彦と共に倭国に帰ってきた「日本書紀」。
372年4月、倭(百済)人が一礼部に来たり、集落に放火し、1千人を捕虜にして立ち去った「三国史記」。
377年、倭(百済)兵が沙道城(慶尚北道浦項市)を陥落させようとしたので一吉飡の大谷に命じて救援させたが、倭(百済)軍が攻略した「三国史記」。
379年、倭(百済)兵が長峯城を攻略した「三国史記」。また、沙道城を改築して沙伐州(慶尚北道尚州市)の有力な80余家を移住させ、倭(百済)に備えたという。
391年 倭軍が百済、新羅(高句麗に占領されていた)を破り、高句麗と戦う(広開土王碑)。
393年 倭人が攻めてきて金城を包囲し、五日間、囲みをとかなかった。
(1) 紀元前50年、新羅に侵攻するのは倭国にいた準王一族(出雲神族)しか思い当たらない。紀元前50年は神武天皇が新羅の稲飯命と協力して倭国の準王一族を平定し初代倭国天皇として即位した紀元前60年の10年後であり、稲飯命が斯蘆国を建国した紀元前57年の7年後である。倭国の準王一族が反乱を起こし、鉄製の武器を造っていた新羅(斯蘆国)を攻撃したとしても不思議ではない。その後の「倭人」も準王一族と思われる。
原三国史記には「倭人」とは書いてなかったはずである。「倭人」とは倭国にいた準王一族だから藤原氏は「倭人」という表現を使ったと思われる。
(2)208年以降の「倭人」は陸上から新羅を攻めているので、朝鮮半島に残っていた準王一族(百済)と思われる。
倭姫命(卑弥呼)と倭健命は三韓征伐(173年)をし、朝鮮半島の西から中国に行くために任那の領域(現在の全羅南道)を造った。国境とは百済と任那の国境と思われる。その後、百済と任那の国境は百済によって度々侵された。そこで捕らえられたのが生口と思われる。
生口とは朝鮮半島で使われていた用語と思われる。「広開土王碑」に396年、百済が高句麗に生口(新羅か倭国の捕虜)を献上した記録がある。したがって、107年(160人)、239年(10人)、243年(?人)、248年(30人)に、中国に献上された生口(百済か高句麗の捕虜)は朝鮮半島で倭に捕らえられた捕虜と思われる。朝鮮半島に倭国に敵対する勢力がいた、ということである。その勢力が倭国と兄弟国の新羅を攻撃していた。原三国史記にはそのことが記載されていたはずである。それを「倭」に書き換えさせたのは、藤原氏である。その一族は藤原氏に関係の深い一族であったと思われる。それは、準王一族であり、百済と思われる。特に、248年に倭王台与が魏へ献じた生口30人は248年2月に新羅と百済との交戦で新羅に捕らえられた百済の捕虜と思われる。
藤原氏は原古事記に書いてあった新羅と百済を入れ替えて百済と倭国は仲が良く新羅と倭国は敵対していたと改ざんした日本書紀を中国に献上した。弓月君の条も百済と新羅・加羅を入れ替えたと思われる。
372年以降の「倭」は「高句麗か百済」を書き換えたと思われる。但し、391年は改ざんされていないと思われる。
朝鮮半島には原三国史記があり、日本書紀とは違う内容であった。藤原氏は百済出身であったから、新羅を悪者にするために、また、倭国と百済は仲が良かったとする日本書紀との整合性を図るため、倭国が新羅を何度も攻撃していたように三国史記を改ざんさせたと思われる。
(3) 日羅は百済の任那(全羅南道)に対する度重なる侵犯をやめさせるために、蘇我馬子天皇に百済国王か百済王子を倭国に来させることを進言した(583年)。百済はこの時すでに倭国を乗っ取る計画を立てていたようである。蘇我馬子天皇は百済に対し、百済国王自らか百済王子を倭国に来させるように伝えたと思われる。百済王は蘇我馬子天皇が騙されないことを知っていた(609年百済からの船)。蘇我馬子天皇が亡くなり蘇我入鹿天皇(聖徳太子)の時代(626年~)になり、蘇我入鹿天皇(聖徳太子)は人が良いことを百済に知らせる者がいたので、百済王は次男の豊璋(中大兄王子)と三男の塞上を倭国(鳥取県中部)に人質として行かせた(631年)。豊璋(中大兄王子)は6歳で鳥取県北栄町由良宿の由良宮に来させられた。豊璋(中大兄王子)は18歳まで大海人皇子(天武天皇)と同じように、鳥取県北栄町由良宿の由良宮(葛城)で育てられた。亡命百済人たちは中大兄王子のことを葛城(北栄町由良)王子といった。642年に百済から自称島流しになったという船が筑紫(宗像大社)に到着した。その中に鎌足(翹岐)などの百済の要人が乗っていた。鎌足(翹岐)は中大兄王子(豊璋)と奈良法興寺の蹴鞠の会で合流(643年)し、談山で倭国を乗っ取る(テロ)計画を立てた。倭国王である蘇我入鹿天皇は可愛がってきた中大兄王子や藤原鎌足たちのテロによって殺害された(645年)。中大兄王子が豊璋であることを悟られないようにするために、現在、豊璋の詳しい情報(生没年不詳など)は消されている。亡命百済人たちは、原古事記(712年)を読んで、百済の悪行が多く書いてあるので、新羅と入れ替えることにした。そして、出来上がったのが日本書紀(720年)である。734年に亡命百済王朝(日本)は完全に倭国を乗っ取った。
(4) 旧唐書(945年)は日本と倭国は別種であると記載している。「旧唐書東夷伝」の中には、日本列島について「倭国伝」と「日本国伝」の2つが並立しており、日本は倭国の別種で、もともと小国であった日本(亡命百済王朝)が倭国(鳥取県中部)を併合した、と記述されている。新唐書(1060年)は日本書紀に基づいて書かれている。統一新羅が滅んで(935年)から京都の藤原氏は朝鮮半島に渡ることができるようになり、1060年までに中国に日本書紀を認めさせたと思われる。三国史記を日本書紀に合うように改ざんさせた時期は統一新羅が崩壊(935年)してからと思われる(1145年完成)。
(5) 亡命百済人の藤原氏は日本書紀を中国や朝鮮半島にも及ぼした。朝鮮半島では1145年に現三国史記が編纂されるまで、原三国史記は存在していたと思われる。1145年まで高句麗、百済、新羅の歴史書がなかったと考えるほうが不自然である。原三国史記を日本書紀に合わせて改ざんした歴史書が1145年に完成した現三国史記と思われる。朝鮮半島の歴史書は日本書紀に合うように改ざんされたが、新羅には多くの伝承も残っていた。太閤秀吉の朝鮮征伐(1592年~1598年)でも分かるように、藤原氏は新羅地域を軍事力をもって制圧している。倭国における八幡神社(四万四千社存在する)による伝承の改ざんと同じく新羅地域における伝承も改ざんしていったと思われる。
(6) 斯蘆国は紀元前57年、神武天皇の兄稲飯命により建国された。倭国は鳥取県中部であり、倭国と交流するのに一番良い場所である朝鮮半島南東部に新羅は建国された。新羅と倭国は建国時から兄弟国であった。
新羅の善徳女王は倭国の蘇我善徳天皇と交流があり親密な関係であったと思われる。蘇我善徳天皇の皇子の天武天皇も新羅と友好関係を結んでいた。紀元前57年より紀元734年まで倭国と新羅は兄弟国であった。倭国天皇家が新羅を攻める理由はない。紀元前57年から734年までの新羅に対する倭国の侵攻は藤原氏による改ざんであり、伝承も改ざんされたと思われる。
元興寺縁起にある「等由良(豊浦)」の「由良」とはどこのことか [閑話休題]
元興寺縁起にある「等由良(豊浦)」の「由良」とはどこのことか。
1 由良の地名で有名なのは、和歌山県日高郡、京都府宮津市、兵庫県洲本市である。
(1) 和歌山県日高郡の由良
その幻想的な風景は万葉集に読まれており、歌碑も設置されている。
妹がため玉を拾ふと紀伊の国の 湯羅(ゆら)の岬にこの日暮しつ
朝開き漕ぎ出て我は湯羅(ゆら)の崎 釣する海人を見て帰り来む
湯羅(ゆら)の崎潮干にけらし白神の 磯の浦廻をあへて漕ぐなり
(2) 京都府宮津市の由良
京都府宮津市の由良は由良ケ嶽の頂に虚空蔵の廟があるという。また、熊野三所権現社あり、とする。由良神社には神楽踊が奉納される。丹後国加佐郡旧語集に「由良ノ荘千軒ト云大村也」とある。
古事記伝云う、「仁徳帝のよみたまへる由良之門は紀伊淡路の瀬戸なれど、丹後掾曽根好忠のよめるは丹後なり。由良の門(戸)をわたる舟人梶をたえ 行へも知らぬ恋のみちかな(丹後掾曽根好忠)」とある。
《加佐郡誌》「由良村。由良の名は凡海郷由良庄といふことから出たものである」とする。
小沢打魚氏の説と称する古代由良に関する史実には「皇孫瓊瓊杵尊が此の国土に御降臨あらせられる前、天照大神から大国主命の国土奉環の大命を伝へるべく遣はされられた、経津主、武甕槌の二神に対して、大国主命の御子建御名方命軍が由良川を界として御守りになったものである」とする。
(3) 兵庫県洲本市の由良
「由良港と成ヶ島」 より
由良という地名には、「波に押された砂が狭い 平地を平らにする」という意味があるという。
日本書紀「応神天皇三十一年の条」には『枯野を 鹽に焼き 其(し)が余り 琴に造り 掻き弾くや 由良の門(と)の 門中(となか)の海石(いくり)に 触れ立つ なづの木の さやさや』という歌の記述がある。
伊豆の国から献上された「枯野」という船が壊れ てしまい、船材を薪として塩を焼くことにした。 焼け残った余りの材から琴を造らせて弾いてみる と、由良の瀬戸の暗礁にゆらゆら揺れて立つ水に 濡れた木のように、冴えた音色を出したので、天皇が上の歌を詠んだということである。
「由良の門」とは、淡路島の洲本市由良と和歌山県由良町の間にある紀淡海峡の事である。同じ地名が、新古今集の一首にも登場するが、こちらは京都府の舞鶴市と宮津市が接する由良川の河口付近 であるという説もある。
2 私見
(1) 和歌山県日高郡の由良
「等由良」と表記する元興寺縁起が書かれた時代(7世紀)に遡るとは思われない。万葉集に「湯羅」とあるからとするが、それが書かれた時代は奈良・平安時代(藤原時代)と思われる。
(2) 京都府宮津市の由良
京都府宮津市の由良は、虚空蔵の廟、熊野三所権現社、由良神社の神楽踊、加佐郡誌に「由良の名は凡海郷由良庄といふことから出たもの」とあることより藤原氏の荘園として造られたものと思われる。虚空(そら)の当て字は藤原氏の専売特許であること、熊野三所権現は藤原氏が崇拝している準王一族(出雲神族)を主祭神としていること、神楽は藤原氏の踊りであること、荘園制度は藤原氏の制度であることなどからである。
また、小沢打魚氏は「皇孫瓊瓊杵尊が此の国土に御降臨あらせられる前、天照大神から大国主命の国土奉環の大命を伝へるべく遣はされられた、経津主、武甕槌の二神に対して、大国主命の御子建御名方命軍が由良川を界として御守りになったものである」とされ、降臨の地の舞台を丹後の由良川とされる。この説が正しいとすれば、由良川は葦原中津国を流れる鳥取県北栄町の由良川と思われる。丹後の由良川はそのほかの舞台(葦原中津国など)が検証できておらず単発であり、あとが続かない。
由良川は西高尾ダムに水源を発する。西高尾、上種、茶屋条、下種、亀谷を通って当時は葦原中津国に流れ込んでいた。天照大御神の天孫族は南の関金から来たから、方見邑を本拠地にしていた建御名方とは由良川を挟んで対峙することになる。青字は平定後の天孫族の位置関係である。
丹波国風土記残欠に「由良港」とあるが、改ざんと思われる。713年に全国から風土記を提出させ多くは焚書にしたが、意図的に由良港を加え残欠として残したものと思われる。元興寺縁起が書かれた時代(7世紀)にすでにあった地名とは思われない。
古事記伝に云う「仁徳帝のよみたまへる由良之門は紀伊淡路の瀬戸なれど、丹後掾曽根好忠のよめるは丹後なり。由良の門をわたる舟人梶をたえ行へも知らぬ恋のみちかな(丹後掾曽根好忠)」とあるのも藤原氏による改ざんである。複数の比定地を創作しておいて、一つの比定地の矛盾が指摘されると、ほかの比定地を挙げて逃げ、たらい回しにして迷宮入りにさせ、本物を隠す手法は伊邪那美の墓や小野小町の生誕地の比定地と同じく藤原氏の手法である。3か所の由良は藤原氏の創作であると思われる。
(3) 兵庫県洲本市の由良
「由良港と成ヶ島」に、「日本書紀・応神天皇・三十一年の条には『枯野を 鹽に焼き 其が余り 琴に造り 掻き弾くや 由良の門の 門中の海石に 触れ立つ なづの木の さやさや』という歌の記述がある」とする。文献と由良とを付合させただけであり、応神天皇と関連づけるほかのものがない。のちに藤原氏が付けた地名と思われる。元興寺縁起が書かれた時代(7世紀)に遡るとは思われない。
また、「由良の門とは、淡路島の洲本市由良と和歌山県由良町の間にある紀淡海峡の事である。同じ地名が、新古今集の一首にも登場するが、こちらは京都府の舞鶴市と宮津市が接する由良川の河口付近 であるという説もある」とする。紀淡海峡は門(戸)にしては大きすぎると指摘した者がいたので、すぐに別の場所(丹後の由良川)を挙げるのは藤原氏である。複数の比定地を創作しておいて、一つの比定地の矛盾が指摘されると、ほかの比定地を挙げて逃げ、たらい回しにして迷宮入りにさせ、本物を隠す手法は伊邪那美の墓や小野小町の生誕地と同じく藤原氏の手法である。3か所の由良は藤原氏の創作であると思われる。
(4) 鳥取県北栄町の由良
鳥取県北栄町由良には「由良の地名は木花之佐久夜毘売が付けた」という伝承がある。「ゆら」の発音は女性の命名と思われる。
鳥取県神社誌高江神社の由緒に「当社は天正19年(1591年)9月大山より勧請せりと云う。この以前は現今境内神社子安神社(祭神 木花之佐久夜毘売)、由良郷の總産土神なる由なる」とある。1591年以前は木花之佐久夜毘売(私見では弥生時代)だけが由良郷の總産土神であった。子安神社の祭りの飾り付けは代々竹歳家(全国では170軒しかないが、由良では一番多い姓)が行う仕来たりになっている。高江神社横の駐車場から弥生時代の住居跡が発掘された。創建が弥生時代に遡るような神社と思われる。
右の境内社が木花之佐久夜毘売を祀る子安神社である。今、立っている場所も神社の敷地内であり、ゲートボール場にするため造成中に弥生時代の住居跡数遺構が発掘された。あるのは駐車場の看板だけであり、案内板もなく、宣伝もしない。発掘調査報告書もどこにあるのか埋もれたままである。
日本書紀「応神天皇三十一年の条」には「枯野を 鹽に焼き 其が余り 琴に造り 掻き弾くや 由良の門の 門中の海石に 触れ立つ なづの木の さやさや」という歌の記述がある。北栄町由良宿に近い青谷上寺地遺跡より弥生時代中期後葉の状態の良い琴が発掘されている。由良の門(戸)とは橘の小門と同じで入り江の入り口のことと思われる。応神天皇の時代(354年~394年)、由良に入り江があった。紀元前2世紀頃は海面が海抜4mくらいにあったので紀元4世紀頃は海抜2mくらいに海面があったと思われる。海抜2mくらいに海面があった鳥取県北栄町由良宿の地形を見ると現在の由良宿内に入江が確認できる。由良の門(戸)とは紀淡海峡でも丹後の由良川の河口付近でもない。北栄町由良宿にあった入り江の入口が由良の門(戸)であったと思われる。応神天皇の時代、鳥取県中部には軽の坂上の厩と軽島明之宮の比定地が確認できる。
仁徳天皇(第14代)も応神天皇(第15代)も武内宿禰天皇(第13代)の皇子であったから鳥取県北栄町原で育った。船で対岸の由良の門(戸)にも渡っていたはずである。武内宿禰天皇(第13代)の時代よりもまだ海面が下がったので、2人とも東の東郷池(難波津)の近くに皇居を建てた。
「等由良」を「豊浦」とし、「由良」がキーワードだと悟られても、由良の比定地を全国に複数作り、その中でたらい回しにして迷宮入りにさせ、本物が見つからないようにする手法は伊邪那美の墓や小野小町の生誕地と同じく藤原氏の手法である。
昭和38年の合併で由良町は無くされた。由良育英高校も無くされた。北栄町の由良は行政に時間をかけて消されていく方向にあるように思われる。父(蘇我馬子天皇)や子(天武天皇)の皇居の比定地も鳥取県中部に確認できるので「等由良」の本当の「由良」は鳥取県北栄町の由良と思われる。
師木県主のハエ(波延・葉江・蠅)一族は出雲神族(準王一族)であった [閑話休題]
師木県主のハエ(波延・葉江・蠅)一族は出雲神族(準王一族)であった。
1 日本書紀・垂仁天皇・石上神宮には「五十瓊敷命は、茅渟の菟砥の川上宮においでになり、剣一千口を造らせられた。・・・。石上神宮に納めた。ある説によると、五十瓊敷皇子は、茅渟の菟砥の河上においでになり、鍛冶の名は河上という者をおよびになり、太刀一千口を造らせられた。この時に楯部・倭文部・神弓削部・神矢作部・大穴磯部・泊橿部・玉作部・神刑部・日置部・太刀佩部など合わせて十種の品部とものみやつこらを、五十瓊敷皇子に賜った。その一千口の太刀を忍坂邑に納めた。その後、忍坂から移して石上神宮に遷した」とある。
この川上宮と忍坂邑はどこにあるのか。
※ 私見
大正2年まで川上集落にあった新宮神社の住所は鳥取県東伯郡東郷村大字川上字鍛冶屋谷であった。河上という者をおよびになり、川上の鍛冶屋谷で太刀一千口を造らせられたものと思われる。楯部・倭文部・神弓削部・神矢作部・大穴磯部・泊橿部・玉作部・神刑部・日置部・太刀佩部などは舎人であり湯梨浜町舎人地区にあった。川上宮は鳥取県湯梨浜町川上にあったものと思われる。
川上宮から石上神宮に太刀一千口を遷するのに、東郷池はまだ海面が高く大平山の千坂まで行くことはできない。川上宮からいったん南の片柴集落まで行ったものと思われる。波関峠を越える坂が忍坂であった。鳥取県三朝町片柴集落が忍坂邑と思われる。
2 出雲王国王家の子孫という富當雄氏にインタビューした内容(吉田大洋著「謎の出雲帝国」より)
第三派は、神武一族であり九州より攻め入ってきた。
彼らは和解すると見せかけては、次々と出雲人を殺していった。 まことに陰険であり、残酷であった。 王のナガスネ彦(長髄彦)は傷つき、倭(鳥取県中部)を神武にゆずって出雲は退いた。王は出雲で亡くなった。 ナガスネヒコ(準王一族)は出雲出身であり、出雲の王であった。
神武から数代の王は、出雲の王家の娘を妻に迎えた。 我々の反乱を防ぐためでもあった。
(1)日本書紀・神武天皇・道臣命の密命と歌
「(既に敵は撃破したのですが)残りの敵がまだ多くて、その数が解りませんでした。そこで密かに道臣命に命じました。 『お前は大來目部を引き連れて、大室を忍坂邑に作り、そこで宴会を盛大に催して、敵を誘い寄せて討ち取れ』 。道臣命は密命を受けて、忍坂を掘って室を立てて、勇猛な兵士を選んで、敵兵を混ざって座りました。そして陰で命じました。 『酒酣の後、わたしは立ち上がり、歌を歌う。お前たちは、私の声を聞いたらすぐにいっせいに敵を刺せ』 。座る場所に座って酒盛りしました。敵は密命を知らず、心のままに、ほしいままに酔いました。 そして道臣命は立ち、歌を歌いました。
忍坂の大室に沢山の人が入っている。 沢山の人が来ているが、強い強い来目の兵士が頭椎や石椎で討ち倒すぞ
味方の兵は、この歌を聞き、一斉に頭椎の剣を抜いて、敵を皆殺しにした。皇軍は大いに喜び、天を仰いで笑った」とある。
(2)日本書紀・神武天皇・兄磯城・弟磯城
「弟磯城が申し上げるのに『わが兄の兄磯城は、天神の御子がおいでになったと聞いて、八十梟帥を集めて、武器を整え決戦をしようとしています。速やかに準備をすべきです』と。
・・・。また、兄磯城の軍がいて、磐余邑に満ちていた。敵の拠点はみな要害の地である。そのため、道は絶えふさがれて通るべきところがなかった。・・・。男軍が墨坂を越え、後方から挟み討ちにして敵を破り、その梟雄・兄磯城らを斬った。十二月四日、皇軍はついに長髄彦を討つことになった。戦いを重ねたが、なかなか勝つことができなかった]とある。
※ 私見
道臣命は忍坂邑(三朝町片柴集落)の大室で和解すると見せかけて多くの出雲神族(準王一族)を殺した。三徳川を下った山田(ヤマタ)集落でも素戔嗚が八岐大蛇に酒を飲ませて殺した。
兄磯城と弟磯城は同族である。兄磯城は皇軍に斬られた。その後皇軍は長髄彦を討つことになった。長髄彦は出雲出身であり、出雲神族(準王一族)の王であった。兄磯城と弟磯城も出雲神族(準王一族)であった。
神武天皇は論功行賞で弟磯城を磯城(師木)の県主とされた。弟磯城(師木県主)は出雲神族(準王一族)であり東郷池(師木津)の波延の地に住んだ。富當雄氏は「神武から数代の王は、反乱を防ぐため出雲の王家の娘を妻に迎えた」とする。師木県主の娘が出雲の王家の娘と思われる。
3 初代天皇から第4代天皇までの系譜
(1)初代神武天皇
(古事記)妻(比売多多良伊須気余理比売)の父は三輪の大物主。妻の母は、三島湟咋の娘の勢夜陀多良比売。
(日本書紀)妻(媛蹈鞴五十鈴媛命)の父は事代主。妻の母は、三島溝橛耳神の娘の玉櫛媛。
(2)第2代綏靖天皇
(古事記)母は、伊須気余理比売。妻は師木県主の先祖(始祖弟磯城の娘?)である河俣毘売。
(日本書紀)母は事代主の長女媛蹈鞴五十鈴媛命。妻は事代主の次女の五十鈴依姫。
第一の一書では「磯城県主の娘の川派媛(かわまたひめ)」とある。
(3)第3代安寧天皇
(古事記)母は、河俣毘売。妻は河俣毘売の兄である県主の波延(ハエ)の娘の阿久斗比売。
その子に常根津日子伊呂泥命、大倭日子鋤友命、師木津日子命。師木津日子命の子の・・・知知都美命の姫に蠅伊呂泥と蠅伊呂杼がある。
(日本書紀)母は五十鈴依姫。妻は事代主の孫の渟名底仲媛命。
(4)第4代懿徳天皇
(古事記)母は、阿久斗比売。妻は師木の県主(県主は姓)の先祖である賦登麻和訶比売命(またの名は飯日比売命)。
(日本書紀)母は事代主の孫の渟名底仲媛命。妻は息石耳命の娘の天豊津媛命。
※ 私見
(1)神武天皇の2番目の妻の父は古事記は大物主だとするが、京都で暇を持て余していた藤原氏による改ざんである。「矢の姿になって云々」は作り話である。神武天皇が即位した紀元前60年の頃には大物主(天忍穂耳)は亡くなっていたはずである。日本書紀は事代主とする。古事記の大物主(天忍穂耳)とするよりはましだが事代主もニニギ命と同年代となる。ウガヤフキアエズはホホデミ命のあだ名である(先代旧事本記より)から省略しても、事代主の娘ならばホホデミ命と同年代となる。父親と同年代のおばさんになり、少女であったという記述と矛盾する。古事記も日本書紀も本当の出自を隠すために大物主と事代主に書き換えたものと思われる。
(2) 古事記では第2代天皇から第4代天皇まで師木県主が娘を天皇に嫁がせている。日本書紀には第一の一書以外磯城県主は出てこない。日本書紀では、事代主が出てくる。しかし事代主の娘や孫ならばその天皇の母親か祖母の年代になってしまい、現実的ではない。古事記の師木県主の娘が史実であったと思われる。師木県主とは師木県の首長という役職名であり、姓はその住んでいた地域の名に因んでハエ(波延・葉江・蠅)、と名付けられたと思われる。
日本書紀・神武天皇・橿原即位において「天皇は論功行賞を行われた。・・・。弟磯城(名は黒速)を磯城の県主とされた」とある。初代師木県主は神武天皇と戦った兄磯城の弟の弟磯城であった。兄磯城は準王一族(出雲神族)だから、弟磯城も準王一族(出雲神族)である。古事記の初代天皇から第4代天皇までの系譜のほうが「神武から数代の王は、反乱を防ぐため、出雲の王家の娘を妻に迎えた」とする出雲王国王家の子孫の富當雄氏のインタビュー内容に合致する。
(3) 古事記では河俣毘売の系譜を判らなくしているが、日本書紀第一の一書では「川派媛(かわまたひめ)は磯城県主の娘」とするのでこちらが正しいと思われる。河俣毘売は磯城県主の始祖(弟磯城)の娘に比定すると年代も無理なくつながる。河俣毘売の父の初代師木県主(弟磯城)に波延(はえ) と名付けたのは、東郷池に波延(はえ)という波が延びる地域があって、そこに住んでいたからと思われる。
当時の東郷池は今より海面が高かったので、東郷池に入ってきた波が陸地まで延びるような場所が想定できる。そこが波延(はえ)の地であったと思われる。湯梨浜町長和田(ナゴウタ)集落・北山古墳・野花(ノキョウ)集落のあたりは東郷池と海との出入口が正面にあり、海からの波がまっすぐに延びて来ていたものと思われる。長和田(ナゴウタ)の奥にハナミ(埴見)という集落があるが、このハナミ(波)も波に関係した地名と思われる。
ハエとは波延・葉江・蠅とも書くが同じである。古事記では「師木津日子命の子の・・・知知都美命の姫に蠅伊呂泥と蠅伊呂杼がある」とする。「・・・」は藤原氏の挿入と思われる。藤原氏は準王一族(出雲神族)のいたところを聖地とし、記紀に登場させている。
第7代孝霊天皇の皇女の百襲媛は湯梨浜町宮内(黒田庵戸宮)で育った。百襲媛の母親の蠅(はえ)伊呂泥と蠅伊呂杼は出雲神族(準王一族)の系譜であり、孝霊天皇は蠅伊呂泥と蠅伊呂杼を湯梨浜町宮内の東郷池対岸の波延(はえ)の地から娶られたと思われる。
シキ(磯城・師木・志幾・斯鬼)とは鳥取県湯梨浜町東郷池周辺と思われる [閑話休題]
シキ(師木・磯城・志幾・斯鬼)とは鳥取県湯梨浜町東郷池周辺と思われる。
1 古事記における第2代天皇、第3代天皇、第5代天皇(欠史8代であり、藤原氏もそれほど改ざんはしていないと思われる)
第2代 綏靖天皇
神沼河耳天皇 皇居は葛城高岡宮。
第3代 安寧天皇
師木津彦玉手看天皇 皇居は片塩浮孔宮。
第5代 孝昭天皇
御真津日子訶恵志泥天皇 皇居は葛城掖上宮。
2 第2代天皇が葛城山(鳥取県北栄町)に高岡宮(曲の岡神社)を築いておられるので葛城地方は葛城山と日向(四王寺山と葦原中津国)であった。師木地方もこの近くにあるはずである。
3 第3代天皇の皇居である片塩浮孔宮の「片塩」とは塩分濃度が半分の海に面した汽水池(津)の存在を思わせる。その汽水池(津)のことを師木津と言っていたものと思われる。第3代天皇の「師木津」は第5代天皇の「御真津」と対比して「師木の津」と読め、「師木にある津」と読める。
4 第5代天皇の皇居である葛城掖上宮は葛城地方にあり、御真津彦の「御真津」は葦原中津国(鳥取県北栄町)にあった津(橘の花の形ををしていた)を表すものと思われる。師木津はもう一つの津である東の東郷池(柏葉の形をしていた)が候補に挙がる。この当時海との出入口が広く塩分濃度が高かったと思われる東郷池ではないかと思われる。
5 古事記・雄略・白い犬
天皇が出かけて国の中を眺望すると、屋根の上に高く鰹魚木をつけて作った家があった。天皇は「あの鰹魚木をあげて屋根を作った家は、誰の家か?」と尋ねたので、側に仕えている者が「志幾の大県主の家でございます。」と答えた、とある。
志幾(シキ)とは師木・磯城・斯鬼(シキ)と同じである。東郷池の近くに長瀬高浜遺跡があるが、そこから鰹魚木をあげて屋根を作った家の埴輪が発掘された。
入母屋式家形埴輪 鰹魚木をのせている 紀元450年頃
四注式家形埴輪 鰹魚木をのせている 紀元450年頃
これらは志幾の大県主の家を模して作った埴輪と思われる。
鰹魚木をのせている家形埴輪は他府県でも出土しているが、近くに津のある遺跡は長瀬高浜遺跡だけである。東郷池が師木津であり、東郷池周辺が師木であったと思われる。
6 鰹木をあげて屋根を作った家の埴輪が見つかった遺跡・古墳(シキの候補)
(1)長瀬高浜遺跡(鳥取県湯梨浜町) 海抜10m 海まで1km
(2)今城塚古墳(大阪府高槻市) 海抜32m 海まで24km
(3)赤堀茶臼山古墳(群馬県伊勢崎市) 海抜135m 海まで100km
(4)岡山南遺跡(大阪府四条畷市) 海抜36m 海まで17km
(5)宮山古墳(奈良県御所市) 海抜130m 海まで24km
※ 私見
鰹木をあげて屋根を作った家の埴輪が見つかった遺跡・古墳(志幾の候補)は長瀬高浜遺跡(鳥取県湯梨浜町)以外に他府県にもある。しかし、第3代天皇の「師木津」の諱より、師木の中には津があるものと思われる。長瀬高浜遺跡(鳥取県湯梨浜町)以外の遺跡・古墳はいずれも船の出入りできる津(湾)の近くにはない。(1)の長瀬高浜遺跡(鳥取県湯梨浜町)は津(東郷池)のそばにある。
志幾(シキ)とは師木・磯城・斯鬼(シキ)と同じであり東郷池周辺のことと思われる。雄略天皇の皇居は鳥取県倉吉市打吹山の長谷寺にあったものと思われる。古事記・雄略・白い犬の舞台は鳥取県湯梨浜町東郷池周辺であった。難波津も東郷池のことであり、河内は倉吉市鴨河内のことであった。
古事記・日本書紀にあるシキ(磯城・師木・志幾・斯鬼)とは鳥取県湯梨浜町東郷池周辺と思われる。
飛鳥寺(法興寺)は新羅の皇龍寺をモデルにして建立された [閑話休題]
1 飛鳥寺(法興寺)「寺社建築と文化財の探訪<TIAS>」より
伽藍配置 一塔三金堂
南北293m、東西は北辺216m、南辺260mの台形
飛鳥寺の伽藍配置は、一塔三金堂をもつ「飛鳥寺式伽藍配置」とよばれ、その起源は清岩里廃寺(高句麗) や王興寺(百済)や皇龍寺(新羅) に求められる。
※ 飛鳥寺の伽藍配置は独特なもので、ほかに例がない。通説は、「一塔三金堂の伽藍配置形式をとる寺院は、わが国はもちろん、飛鳥寺の造営にしたがった工人たちの故国百済の旧都でも発見されていなかった」とする。しかし、NHKはBS歴史館で百済の王興寺を取り上げた。私は仏教は新羅から公伝された、という立場であるから、新羅にモデルを求めることになる。
2 清岩里廃寺(金剛寺) 「寺社建築と文化財の探訪<TIAS>」より
場所・地域 高句麗 平壌郊外、大同江の河岸と接する台地
創建 478年
規模 東西100m、南北150m
伽藍形式 一塔(堂)三金堂
中央に八角形の基壇があり、大型八角堂建築と推定される。八角の遺址が塔か否かが問題となるが、村田治郎は「八角基壇の一辺が10m余もある巨大さから推定すると、驚くべき高さの塔になるわけであって、当時の高句麗の木造技術ではたしてこれを造ることができたか否か疑わしく塔よりも八角堂と考え・・・八角堂を中心にして東西南北の四方にそれぞれ堂や門があつたと考えられる」と述べている。
3 皇龍寺址 「寺社建築と文化財の探訪<TIAS>」より
場所・地域 新羅 慶州の月城の東北
創建 553年
規模 創建当時は東西288m、南北284m
伽藍形式 創建当時(553年)は一塔一金堂式。再建(584年)時は一塔三金堂式
皇龍寺はもともと一塔一金堂式伽藍配置であったが、丈六尊像が造成されて(574年)からは金堂の左右に小さな金堂を配置する一塔三金堂式伽藍配置に変わった(584年)。
※ 創建時(553年)の伽藍配置は一塔一金堂式であった。再建(584年)の伽藍配置は、金堂並列配置の一塔三金堂式である。問題は東・西建物であるが、僧房は別にあるので東西建築物は僧房ではない。三国遺事に584年に東西金堂を造った、とあるので東西建物は金堂であった。西金堂・東金堂を塔に近づけて塔の横に持ってくれば飛鳥寺(法興寺)の伽藍配置になる。
4 私見
他人に建物の設計図を見せて、こんな建物を造ったらどうですか、と勧めるときに、これは100年前の建物だがこれを造って見られませんか、とは言わない。最新のモダンな建物を提示するのが普通である。
法興寺(596年)の伽藍配置は独特で、1塔3金堂方式であった。このモデルとして百済の王興寺と高句麗の清岩里廃寺と新羅の皇龍寺廃寺が候補としてあげられている。百済の王興寺(577年)はNHKや朝日新聞でも取り上げられたが、東西金堂とされる建物は回廊部分であり1塔3金堂式であるとするには無理がある。清岩里廃寺の八角部分は大きすぎるため塔ではなく八角堂ではないか、とする見解がある。清岩里廃寺の中心は塔ではなく堂であり、1塔3金堂方式ではない。また、100年前の建築方式を示すこと自体が相手に失礼でもある。
その点、皇龍寺(左右金堂再建は584年)は飛鳥寺(法興寺)(造営発願は587年)の3年前であり、皇龍寺の再建に関わった寺工が直接、左右金堂を塔と並列させた模型を作り、蘇我馬子天皇に提示することが可能である。法興寺の伽藍配置は皇龍寺をモデルに進化させた最新様式である。
「元興寺縁起」には、「戊申(588)年に六人の僧、名は令照律師、弟子の惠忩、令威法師、弟子の惠勳、道厳法師、弟子の令契、それに恩卒首眞等四人の工人を送ってよこし、あわせて金堂の基本様式(模型)を奉った。今この寺にあるのがこれである」とある。金堂の基本様式(模型)はすでに金堂が塔を中心にして東西に配されていたものと思われる。1塔3金堂方式の伽藍配置は新羅から来た寺工が皇龍寺をモデルとして造られたものである。六人の僧と四人の工人のうち寺工だけが新羅から来たのではなく全員同じ新羅から来ている。新羅は倭国に仏教を公伝した国だから、新羅から倭国の仏教興隆のために仏教集団として来させられた、と考えるのが自然である。
また、聡耳皇子が大々王に申し上げた。「昔、百済国に法師と工人を遣わすよう乞いました。これにはどう答えたらよいでしょうか」と。六人の僧と四人の工人は新羅から来ているので聡耳皇子が大々王に申し上げたのである。藤原氏の厳しい検閲の中で、六人の僧と四人の工人は新羅から来ていたことを後世に伝えようとしてそれとなく書き残したのである。
新羅は倭国と兄弟国であり、法興寺(飛鳥寺)の名は新羅の法興王の名に因んで付けられた名であり、法興寺の伽藍配置は皇龍寺の伽藍配置をモデルに作成されたものである。皇龍寺は規模の面でも法興寺と似ている。寺工は新羅から来ているが一人だけ新羅から来たとは思われない。新羅から一団として来たものと思われるから、僧やほかの工人も同じく新羅から来ている。書物には百済から来た、と記されているが新羅から来ていた。ここでも日本書紀は新羅を百済に入れ替えている。
600年に新羅の僧円光が隋に行っているから、倭国の遣隋使と同伴していた可能性が高い。円光は毎年隋に行っていた。倭国の遣隋使は「国のすべてを教えてもらう」ために蘇我馬子によって隋に派遣された。その際信用のある円光と一緒ならば心強い。8年後に裴世清たちが倭国に来る。倭国の遣隋使と新羅の僧円光は任那(全羅南道)を通ったはずである。百済は600年(推古8年)に任那(全羅南道)を侵している。百済はまるで追い剥ぎのようである。倭国の大軍が来るとすぐに白旗をあげるのであるが、倭軍が去るとまた任那を侵す。その繰り返しであった。
仏教の導入について反対者が多く出たのは倭国だけではない。新羅でも貴族や群臣の反対が強かった。しかし、法興王は仏教を公認した(527年)。それまで、新羅も倭国も徐福が持ち込んだ道教を信仰していた。彼らがこぞって反対した。
※ 新羅の善徳女王(在位632年~647年)の諱は蘇我善徳天皇(在位626年~645年)の名に因んで付けられた可能性がある。
5 参考ー日本書紀(※以下は私見)
◎敏達12年(583年)、詔して「自分は任那を回復しようと思う。いま、百済(新羅)にいる達率日羅は賢くて勇気がある。自分は彼と計画を立てたい」といわれた。・・・。日羅は答えて「・・・そして有能な人物を百済に遣わして、その王をお召しになるとよいでしょう。来ないようでしたら、その太佐平か王子らを来させましょう。その後で任那の復興に協力的でない百済の罪を問われるのがよいでしょう」と。また奏上して「百済人は謀略をもって、『船三百艘の人間が、筑紫に居住したいと願っています』という。もし本当に願ってきたら許すまねをされるとよいでしょう。・・・。逆に欺かれないように用心して、すべて要害の所には、しっかりと城塞を築かれますように」といった。※日羅の話の中の「百済」は改ざんされていない。達率日羅は新羅出身者を推測させる。日本書紀は「日羅は百済出身」とするが、史実は、新羅出身と思われる。
◎崇峻元年(588年)、善信尼らは大臣(馬子)に語って「出家の途は、受戒することが根本であります。願わくば百済(新羅)に行って、受戒の法を学んできたいと思います」といった。この月、百済(新羅)の調使が来朝したので、大臣は使人に語って「この尼達をつれてお前の国に渡り、受戒の法をならわせて欲しい。終わったならば還らせるように」といった。使人は答えて「私共が国に帰って、まず国王(真平王)に申し上げましょう。それから出発させても遅くないでしょう」といった。
法興寺の創建。この年百済(新羅)が使いに合わせて、僧3人らを遣わして、仏舎利を献上した。同時に仏舎利と僧6人と工人8人をたてまつった。蘇我馬子宿禰は百済(新羅)の僧たちに、受戒の法を請い、善信尼らを百済(新羅)の使いらにつけて、学問をさせるため発たせた。※1日余りですぐに安全に帰ってこれるのは新羅である。この時代に仏教活動が盛んであったのは新羅である。すでに皇龍寺もできており善信尼らが受戒の法を学びに行く条件がそろっていたのは新羅であった。この行ったり来たりしている使人は新羅の使人である。
◎推古4年(596年)、法興寺が落成した。馬子大臣の長子善徳臣を寺司に任じた。この日から、慧慈、慧聡二人の僧が法興寺に住した。※善徳は聖徳太子であり入鹿である。慧慈、慧聡の出身国は疑問である。
◎推古8年(600年)、新羅(百済)と任那(全羅南道)が戦った。この年、境部臣に大将軍を命ぜられ、穂積臣を副将軍とされた。1万あまりの兵を率いて、任那のために新羅(百済)を討つことになった。新羅(百済)を目指して船出した。新羅(百済)に着いて5つの城を攻略した。新羅(百済)は白旗をあげて、将軍の印の下に来たり、6つの城を割譲して、降伏を願い出た。※この条で「新羅」とあるのはすべて「百済」である。600年に倭国の遣隋使と新羅の僧円光が隋に行くために任那(全羅南道)を通ったので百済は任那(全羅南道)を侵した。
◎敏達天皇12年(583年)、日羅は「百済人は謀略をもって、『船三百艘の人間が、筑紫に居住したいと願っています』という。もし本当に願ってきたら許すまねをされるとよいでしょう。・・・逆に欺かれないように用心して、すべて要害の所には、しっかりと城塞を築かれますように」と言っていた。推古17年(609年)、大宰府の長官が奏上して「百済僧10人俗人75人が、肥後国の葦北の港に停泊しています」といった。徳摩呂・竜の二人を返して百済人らにつけ、本国に送り付けた。対馬に着いて、修道者11人が皆在留したいと願った。それで上表をして滞留を許され飛鳥寺に住まわされた。その後皇極元年(641年)、百済の従者たちは「弟王子に当たる子の翹岐(鎌足)や同母妹の女子4人、内佐平岐味、それに高名の人々40人あまりが島流しになりました」といった。※本当に島流しで倭国に流れ着いたのか、最初から欺くつもりで綿密に計画された謀略ではなかったのか。一般人の中にテロリストを忍び込ませていたのではないか、それも上手口をたたくテロリストを、と疑われる。