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千三百年の間、藤原氏に消されてきた伯耆国(鳥取県中西部)の真実の歴史が、今よみがえる。

葦原中津国の中心(北栄町大島)に行ってきました [第九代開化天皇、第十代崇神天皇、第十一代垂仁天皇]

1 北栄町大島(旧島)の全体像。

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 伊邪那岐(大神)・伊邪那美は天照大神(徐福)が連れてくる三千人の少年少女を住まわす国を北栄町大島を中心にして造っていた。伊邪那岐(大神)はその三千人のために「千五百の産屋を作ろう」と言った。

 当時、周辺は汽水池であったので魚類も豊富に捕れた。また、汽水池の周辺は葦原となっており水稲稲作に適した地であった。縄文海退で周辺が陸地になってからは、全面穀倉地帯になっている。白い建物は収穫した米を貯蔵するカントリーエレベーター。

 蜘ヶ家山(葛城山)より西が葛城だったので北栄町大島も葛城地域であった。孝安天皇の葛城室之秋津島宮があった。

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 家並みの奥の丘を取り巻くように家が建っている。

2 大島(室秋津島)の中心にて

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 島の一番高いところである。向こうに火火出見命が宮を定め神武天皇四兄弟がいた四王寺山が見える。

3 宮崎神社(昭和9年鳥取県神社誌より)

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由緒(抜粋)

 「・・・。是に於て孝霊天皇の御宇皇子大日本根子彦国牽尊、土人の為今の本社地に御祖伊邪那岐命・伊邪那美命を奉齋し給ひき。是れ本社の濫觴なりと。斯くて数十年を経て景行天皇の御宇、皇子日本武尊征西の御時、北海の霪風御艦を悩まし奉りしが不思議の神助にて御艦引寄するが如く本社地乾の隅に着御し給へり。尊大に歓喜し給ひて宣はく 斯く清らかなる地の海面に浮出つるはこは浮洲にや と。是より社地を称して浮洲の社と云ふ。洲の中央に大麻を挿立て御自ら御飯を爨き給ひて二尊を祭り神助を謝し給へり。・・・。」とある。

※ 私見

 「斯くて数十年を経て景行天皇の御宇」は改ざん挿入されており正しくは「斯くて数年を経て孝霊天皇の御宇」であった。

 孝元天皇は伊邪那岐・伊邪那美を奉斎され、倭健命が島の中央に大麻を挿立て御自ら御飯を炊いて伊邪那岐・伊邪那美を祭り征西の神助を謝した。 孝元天皇が伊邪那岐・伊邪那美を奉斎したのは、土人のためではなく大乱を戦っている父の孝霊天皇や妹の卑弥呼や弟の倭建命の戦勝を祈願したからである。

 倭建命が着御し、尊大に歓喜されたのは征西が成功裏に終わったからである。昭和九年の鳥取県神社誌には「征西の御時」とある。

 


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