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千三百年の間、藤原氏に消されてきた伯耆国(鳥取県中西部)の真実の歴史が、今よみがえる。

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八俣大蛇の舞台は鳥取県三朝町山田であった [素戔嗚命]

  八俣大蛇の舞台は鳥取県三朝町山田であった

1 須佐之男は徐福一行(紀元前210年の第2次)のメンバーであり、徐福に次ぐリーダーであった。須佐之男も徐福(天照大神)と船で辰韓(のちの新羅)より伯州(伯耆国)に到着した。徐福一行は通り過ぎた出雲国に引き返すのではなく、鳥取県中部の小さな湾に到着し、大神(伊邪那岐)に再会した。伊邪那岐は三貴神にそれぞれ治める場所を指示した。伊邪那岐は須佐之男に「海原を治めよ」と言った。海原とは、縄文海進で以前は海であったが須佐之男の時代には原になっていた地域である。海原(海抜4m~海抜20m)は世界中どこにもあるので、地名が付いていたはずである。それは黄泉の海原であった。黄泉国は根国ともいい、現在の倉吉市中心市街地であった。

 徐福(天照大神)一行は蒜山(高天原)に行き、蒜山周辺の山に登り仙薬(水銀)を探した。蒜山周辺の山は「せん」と読む山が多い。 

2 須佐之男は伊邪那美(母)を知っていたので第1次(紀元前219年)からの徐福一行のメンバーであった。須佐之男は葦原中津国(倉吉市谷の朝日神社)で泣いたのち、天照大神に暇乞いをするため蒜山に上がった。須佐之男が暇乞いに上がって来た時に、天照大神(徐福)は始皇帝からもらった連弩を構えて須佐之男を威嚇した。その後、遅れて来る者を探す(うけい)ため鳥取県西部に降りた。

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 須佐之男は黄泉の海原の周辺を調べるため三徳川を遡った時に、三朝町坂本集落にいた足名椎、手名椎に出会い、八俣(山田)大蛇の話を聞いた。

 鳥取県東伯郡三朝町大瀬の隣に三朝町山田という集落がありヤマダ(濁音)と読ませるが、同じ鳥取県東伯郡の琴浦町山田ではヤマタ(清音)と読む。何もないから古代より変わらず来た琴浦町山田のヤマタ(清音)の読みが「山田」の鳥取県中部における古くからの読みと思われる。東伯郡三朝町でも当時はヤマタ(清音)と読んでいたが、藤原氏がヤマダ(濁音)という読み方に変えさせた。三朝町の山田集落は坂本集落(神社は足名椎命、手名椎命を祀る)と大瀬ほうき(稲田姫が母来ませと叫んだところ)との間にある。また、全国旅館百選に選ばれた三旅館があり、温泉病院、惑星物質研究所がある。

3 八俣大蛇は、第1次の徐福を追ってきた始皇帝の追っ手であった。毎年娘を取られ今年は8人目の稲田姫の番であった。須佐之男は三朝町山田にいたヤマタのオロチを成敗して、秦の始皇帝陵で見つかった剣と同じ天叢雲剣(草薙剣)を持って稲田姫とその両親とともに蒜山(高天原)にいた徐福(天照大神)に状況を報告するために蒜山高原(高天原)に向かった。

 八岐大蛇が持っていた天叢雲剣(草薙剣)は始皇帝陵の剣と同じ両刃の剣であった。四百年たっても草を刈れたのだから、始皇帝陵で見つかった剣と同じものである。天叢雲剣と秦の始皇帝陵から見つかった1m余りの剣(紀元前220年頃の剣だが今でも切れる)はどちらも錆びないようにクロームメッキされた始皇帝が作らせた両刃の剣である。天叢雲剣(熱田神宮にある)は携帯に便利なように少し小振(85cm)である。八岐大蛇とされた始皇帝の追手は、秦で作られた天叢雲剣を持って、対馬海流に乗って海流の弱まる鳥取県中部の東郷池に上陸した。八俣大蛇とされていたのは、第一次の徐福(紀元前219年)を追っていた始皇帝の追っ手であった。

4 須佐之男は八岐大蛇(始皇帝の追っ手)を退治して、天照大神に状況を説明するため、稲田姫、足名椎、手名椎とともに高天原(蒜山の長田神社)に上がった。

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 「伯耆国」はもと「母来国」と呼ばれていたと伯耆国風土記の残欠にある。母来とは稲田姫が「母来ませ」と叫んだところから名づけられた。「ははき」が訛って「ほうき」になった。 

 〇〇ほうき(母来ませと稲田姫が叫んだところ)という地名が三朝町に三ヶ所(助谷・大瀬・大原)あり、三朝町の坂本神社に稲田姫の両親が祀られている。〇〇ほうき(母来ませと稲田姫が叫んだところ)といわれるところは、いずれも山と川の間が狭く、通るのに不便であったところである。この地名は八岐大蛇を退治してから、須佐之男・稲田姫・その両親が蒜山長田神社(高天原)にいた天照大神に会いにいく途中で母親の遅れを稲田姫が急かしたところである。須佐之男たちは三朝町助谷から穴鴨経由で真庭市中和に上がり、蒜山の長田神社にいた天照大神に天叢雲剣を渡して状況を説明した。須佐之男は始皇帝に報告しなかった天照大神を咎めた。天岩戸隠れはこのときの出来事であった。

5 須佐之男と稲田姫とその両親は蒜山高天原で天照大神・天穂日と合流し、伊邪那岐が移った鳥取県智頭町那岐村(幽宮)に近い鳥取県八頭町の大江郷に逃げ、須佐之男は八重垣の御殿を建て稲田姫と隠れ住み大国主を生んだ。天穂日は須佐之男の御殿を守った。

 始皇帝の追っ手から逃げるため天照大神は蒜山高天原を去り、鳥取県東部の河原町の霊石山や氷ノ山に登った。始皇帝が亡くなったことを知り、天照大神は高天原(蒜山高原)に、須佐之男は神大市比売との間に生まれた須勢理姫と一緒に蒜山を通って根国(倉吉市中心市街地)の清熊稲荷神社(倉吉市余戸谷町四十二丸)の峰に降りて行った。

 大国主は根国の清熊稲荷神社の峰にいた父の須佐之男を追って行った。須佐之男は大国主が強くなるようにしつけた。古事記「根国での冒険」の舞台は清熊稲荷神社の峰(哮峰)周辺であった。大国主は須勢理姫を背負って黄泉比良坂(鳥取県道23号線)の麓までいたり、須佐之男が追いかけてきたが、宇迦能山(鳥取県北栄町茶臼山=いなさ山)に行った。大国主は葦原中津国(鳥取県北栄町大島周辺)に多くの妻子を住まわせ国造りをした。

6 1人になった須佐之男は東山神社(倉吉市米田町)に移り、対岸の石上神宮(倉吉市大原)に十握の剣を奉納した。宇迦之御魂(須勢理姫)を祀る神社を繋いでみると須勢理姫は兄のいた宇迦能山(北栄町茶臼山)と父のいた東山神社(倉吉市米田町)との間を行ったり来たりして父に国造りの経過報告をしていたようである。

 その後、饒速日や天忍穂耳たち大勢は清熊稲荷神社(倉吉市余戸谷町四十二丸)の峰に降臨してきた。須佐之男は清熊稲荷神社(倉吉市余戸谷町四十二丸)の峰で降臨してきた饒速日や天忍穂耳たち大勢と会った。須佐之男(天神の御祖神)は天忍穂耳に1人になった大国主の国造に協力してやってほしいと言い、饒速日に10種の神宝を授けた。

7 倉吉市の大原神社は647年まで石上神宮といい元禄時代までは波波伎神社と言っていた。京都の藤原氏は元禄時代に辻褄を合わせるために波波伎神社名を消し大原神社とした。波波伎神社は事代主が到着した福庭の神社名にした。岡山県赤磐市石上字風呂谷にある石上布都魂神社の宮司の名前を物部にしたのも元禄時代(10代前×30歳=300年前=1700年)である。岡山県赤磐市是里に須佐之男が八俣大蛇を斬った剣を洗った血洗いの滝を造ったのもこの頃である。

 いそえ姓の多い鳥取県北栄町江北浜集落の東には1740年まで石山があった。石山(いそのやま)の上流にある倉吉市大原のことを石上(いそのかみ)と呼んでいた。石上神宮の「石」を「いそ」と読ませるが、奈良県天理市は「いそ(磯)」には遠い。

 

 


 


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八岐大蛇は第1次の徐福一行(紀元前219年)を追いかけてきた始皇帝の家来たちであった [素戔嗚命]

 八岐大蛇は第1次の徐福一行(紀元前219年)を追いかけてきた始皇帝の家来たちであった。


1 八俣大蛇は八俣だから九頭竜のことであり、九頭竜なら中国にも伝説として存在する。しかし、素戔嗚と話ができて、酒を飲んでくれるような関係である。八俣大蛇とされていたのは、素戔嗚と同じ秦語を話し、始皇帝の剣を持っていた第一次の徐福(紀元前219年)を追ってきていた始皇帝の家来と思われる。彼らも伯耆国に到着し、東郷池から波関峠(忍坂)を越えて、片柴(忍坂邑)を通り、三朝町山田の地に辿り着いていた。八俣の大蛇伝説は八の字が好きな藤原氏が三朝町山田(ヤマタ)であった事件を後に脚色したものと思われる。
 始皇帝の剣は始皇帝陵から見つかっているものでもそんなにたくさんは無いようである。しかし、今でも錆びずにカミソリのような切れ味でしかも形状記憶合金でできているというから、その当時でも貴重なものであったと思われる。素戔嗚が天照大御神に献上してそれが天皇家の三種の神器にされるのも不思議なことではない。熱田神宮にあるのを見たと言う者の証言によれば始皇帝陵から見つかった剣とよく似た両刃の剣だそうである。倭姫命が持っていたということは、倭姫命は女王だったということである。このことからも、倭姫命が卑弥呼(日女命)であったことが判る。


2 素戔嗚は伊邪那美(母)を知っているので、第1次の徐福一行(紀元前219年)の時から、徐福(天照大神)に同行しており、9年後の第2次の徐福一行(紀元前210年)にも同行していた。素戔嗚と徐福(天照大神)一行は辰韓より次々に伯州(伯耆国)に到着した。徐福本隊(三貴神)は最初に出雲の日御碕神社(祭神は天照大神と素戔嗚)に到着し、次に米子市陰田町の日御碕神社→境港市渡の日御碕神社→大山町御崎の日御碕神社→北栄町の葦原中津国に到着した。伊邪那岐命は三貴神を迎えるために葦原中津国の浮島(北栄町大島)にいた。天照大神は伊邪那岐に再会して灘手神社(倉吉市穴沢)にいたが、高天原(蒜山高原)を治めるように言われ、高天原(蒜山高原)に上がった。素戔嗚は(泊瀬の)海原を治めるように言われ、「母の国」と言って朝日神社(倉吉市谷)で泣いた。素戔嗚は泊瀬の海原(倉吉市中心市街地)を調べているうちに、三朝町坂本で稲田姫の両親に会い、「三朝町山田に9年前に到着していた始皇帝の家来たちがいて、毎年一人づつ娘をさらっていく。稲田姫は8人目であり泣いている」ことを聞き、稲田姫と結婚することを約束させて、始皇帝の家来たちに話しかけ、濃い酒を飲ませて殺害した。始皇帝の家来たちは始皇帝陵で見つかった両刃で錆びない形状記憶合金でできた剣を持っていた。素戔嗚はその不思議な剣を天照大神に渡した。それが天叢雲の剣(草薙の剣)である。


3 素戔嗚は出雲の船通山の頂に降りたりしていないし爪を剥がされたりしていない。素戔嗚についての古文献や伝承の多くは、藤原氏による改ざん挿入潤色と思われる。伊邪那岐は黄泉国を嫌い那岐村(鳥取県智頭町)を次の本拠地にした。素戔嗚は伊邪那岐の本拠地(鳥取県智頭町那岐村)の近くの八頭町大江郷に稲田姫との御殿を造った。天穂日はその御殿を守っていた。大国主はそこで生まれた。
 大国主が14歳くらいになった頃(紀元前194年頃)に殷王朝末裔の準王一族も出雲・伯耆・因幡に到着する。因幡の白兎伝説に登場する大国主の兄とされる八十神は殷王朝末裔の準王一族であった。彼らは後に全国に展開し鬼・土蜘蛛・蝦夷と呼ばれた。


4 天照大神(徐福)が伊邪那岐と葦原中津国で再会し、高天原を治めよと言われたときに、伊邪那岐は「連れてきた多くの少年少女を水田稲作のできる葦原中津国で育てるがよい」と言ったはずである。いつまでも葦原中津国で泣いている素戔嗚に、伊邪那岐は「この国に住んではならぬ」といった。伊邪那岐や大国主のいう国造りとは人口を増やすことであり、そのための育児・食育の環境を整えることであった。


5 天照大神(徐福)たちが蒜山周辺で仙薬を探しているうちに、葦原中津国は準王一族に占領されていた。天忍穂耳は下界(葦原中津国)が大変騒がしい、と言った。大国主は兄の八十神(準王一族)を素戔嗚からもらった武器で蹴散らし従わせた。天穂日は大国主に準王一族の拠点(松江市の熊野大社)を聞き出し、能義平野(安来市)に行った。天穂日は準王を大穴持命(大国主)と名づけた。それ以来出雲神族の歴代の王を大穴持命(大国主)と呼ぶようになった。事代主(磯城県主の先祖)も建御名方も大国主の実の子ではなく大国主に従った準王一族(出雲神族)と思われる。





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天穂日は素戔嗚と稲田姫の御殿を守るため鳥取県の旧八頭郡にいた。 [素戔嗚命]

天穂日は素戔嗚と稲田姫の御殿を守るため鳥取県の旧八頭郡にいた。

1 天穂日を祀る旧八頭郡の神社(合併前の神社も含む)

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※日下部上神社 八頭郡安部村大字日下部字宮ノ谷(祭神 天穂日命、明治元年合祀ー倉稲魂命、保食神)

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※隼神社 八頭郡隼村大字見槻中字宮ノ本(祭神25神)

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 ※土師神社  八頭郡賀茂村大字稲荷字川向(祭神 天穂日)

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※大江神社 八頭郡大伊村大字橋本字馬場(祭神62神)

 河下の北側だけを見張っていればよい。地理的には周囲が八重垣の要害の地である。 北側には船岡町がある。因幡国二の宮である。素戔嗚と稲田姫が始めに住んだ御殿である。北側で天穂日が見張りをしていた。大国主はここで生まれた。

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※湯谷神社 八頭郡西郷村大字湯谷字大瀧(祭神 天穂日命、明治元年合祀ー瀬織津姫神、保食神)

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※都波奈彌神社  八頭郡散岐村大字和奈見字林ノ内(同村字宮の上 岡神社、祭神8神)

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※都波只知上神社  八頭郡散岐村大字佐貫字林ノ谷(同村字宮の前 石坪神社、祭神19神)

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※ 田岡神社  八頭郡佐治村大字津無字南ヶ市

 素戔嗚が神大市比売と結婚してから稲田姫とその両親と幼い大国主はこちらに移った。警護をしていた天穂日も湯谷神社、都波奈彌神社、都波只知上神社に移っていたと思われるからである。

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※向山神社  八頭郡智頭町大字市瀬字上御手屋敷(千賊山の板井原集落内)

 千賊山の板井原を八上売沼神社に向かって降りていくと途中に「和多里世箭子の水」という説明板がある。そこには「千賊(洗足)山に住んでいた鬼が、日中人目を忍びワサビ谷を下り、この水を飲んで馬乗橋下の オウ穴で水浴し、八上姫に会いに行ったと言い伝えられている」とある。

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 ※八上売沼 神社 八上姫神 八頭郡八上村大字曳田字上土居

 「この曳田郷をひらいたのは漂着した外地の船人たちである」とする。

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※私見
(1) 千代川を挟んで東側と西側に分けることができるが、これは素戔嗚がいた時(大江神社)と素戔嗚が神大市比売と結婚して稲田姫のもとを去っていなくなった時(田岡神社)とに分けられると思われる。
 大江神社には大国主、天穂日、素戔嗚、稲田姫がいたと思われる。大国主の生誕地は大江神社と思われる。それを隠すために全国一祭神を多くしたものと思われる。
 大江神社を守るために日下部上神社と隼神社に天穂日がいたものと思われる。

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 田岡神社には素戔嗚が神大市比売と結婚して稲田姫のもとを去ってから大国主と稲田姫は移っていたものと思われる。
 田岡神社を守るために湯谷神社と都波奈彌神社と都波只知上神社に天穂日はいたものと思われる。

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 都波奈彌神社と都波只知上神社と隼神社と大江神社は祭神が多すぎるが、天穂日を目立たなくするために祭神を多くしたものと思われる。
(2) 土師神社と向山神社にも天穂日が祀られているが、土師神社は川のすぐそばにあり簡単に浸水しそうなところである。大江神社や田岡神社とは離れており天穂日が警護をしていたとは思われない。土師神社には準王一族(出雲神族)がいたものと思われる。

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 向山神社は千賊山のまだ奥の高いところにある。千賊山には八上姫と会った鬼の伝承があり、鬼といわれていた準王一族(出雲神族)がいたものと思われる。千賊山の奥の板井原にも準王一族(出雲神族)はいたものと思われる。この神社も大江神社や田岡神社とは離れており天穂日が警護をしていたとは思われない。

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 土師神社は賀茂神社に、向山神社は諏訪神社に合併された。賀茂神社も諏訪神社も準王一族(出雲神族)を崇拝していた藤原氏の神社ネットワークとして造られたものである。準王(千家系図2代の建比良鳥に比定)一族(出雲神族)は初代天穂日を祀っていたから、土師神社と向山神社に天穂日を祀っていたのは準王一族(出雲神族)であったと思われる。土師神社(天穂日)と向山神社(天穂日)にいたのは天穂日ではなく準王一族(出雲神族)と思われる。

2 那岐神社 八頭郡那岐村大字大春字宮の本(祭神 伊邪那岐命、伊邪那美命ほか17神)

 伊邪那岐命は黄泉国が嫌になっていたから、高天原、泊瀬の海原、夜の食国は三貴神に任せて八頭郡の那岐山に移った。

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3 素戔嗚は泊瀬の海原を治めるつもりでいたが三朝町山田で八岐大蛇を殺してから殺害現場の近くにいることができず、伊邪那岐命が移った近く(旧八頭郡)に稲田姫と御殿を建てた。素戔嗚と稲田姫は大江神社と田岡神社に来ていたから、天穂日は素戔嗚を守るために旧八頭郡に来ていた。

 大国主命は大江神社で生まれた。紀元前208年頃と思われる。鬼が千賊山に来たとき(早くとも紀元前194年)には大国主は14歳になっていた。八上姫をめぐる大国主のライバルは準王一族(のちに鬼・土蜘蛛・蝦夷と呼ばれる)であった。素戔嗚は大国主がまだ幼い頃に大国主と別れている。根国での冒険は父親が息子に対して強くなるための躾けであった。

 

4 大山祇も伊邪那岐と一緒に那岐山周辺に来ていた。

大屋神社  那岐村大字大屋字一ノ谷奥(祭神 素戔嗚、宇迦之御魂命、大山祇命)

宇迦之御魂命(須勢理姫)と父と祖父は最初はここにいたものと思われる。

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大屋という地名は岡山県、兵庫県にもあるが大屋比古のいた木国は智頭町かもしれない。

 

5 おまけ

那岐駅

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 那岐神社の真向かいにある高貴山極楽寺

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高貴山極楽寺(開創646年)は乙巳の変(645年)の藤原氏と関係がありそうである。 

 

 

 

 

 

 

 


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須勢理姫(宇迦之御魂命)は宇迦能山の兄(大国主)と東山神社の父(素戔嗚)との間を行き来していた [素戔嗚命]

 須勢理姫(宇迦之御魂命)は宇迦能山の兄(大国主)と東山神社の父(素戔嗚)との間を行き来していた。

1 鳥取県中部の宇迦之御魂命を祀る神社(鳥取県神社誌による)

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鳥取県中部の宇迦之御魂命を祀る神社はこれが総てである。右側の神社を線でつないでいく。

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 舩内神社の祭神は素戔嗚も含むがこれは中江神社からの合併によるものであるから、宇迦之御魂命は素戔嗚と一緒ではなかった。小田神社、田内神社、村上神社、勝宿祢神社も一人である。谷田神社と東山神社は合併前から素戔嗚と祀られている。村上神社にいたのは川を渡るためである。

2 勝宿祢神社

祭神 彦火火出見命、宇迦之御魂命

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3 村上神社

祭神 土御祖之命、奥津比古命、奥津比女命、宇迦之御魂命

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4 田内神社 

祭神 天穂日之命、菅原道真命、宇迦之御魂命

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5 小田神社

祭神 大山祇命、宇迦之御魂命

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6 舩内神社

祭神 猿田彦神、素戔嗚尊(大正5年中江神社より合併)、経津主神、宇迦之御魂命

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7 國坂神社

祭神 少彦名神

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國坂神社は大国主の子孫が奉祀している。

鳥取県北栄町の茶臼山が宇迦能山であった。

8 茶臼山の東側にある松樹庵

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 この松樹庵は一年中絶えることのない清水が湧くところであり、古代でも人が住むことができた。大国主と少彦名と須勢理姫(宇迦之御魂)と八上姫はここに住んでいた。

 9 おまけ

 松江「ホーランエンヤ」の拠点である城山稲荷神社の祭神も宇迦之御魂命である。ただし、城山稲荷神社の創建は1639年に松平直政によってなされた。鳥取県中部の神社はみな由緒に「創立年代は詳ならず」とある。 


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宇迦之御魂命(スセリヒメ)を祀る鳥取県の神社38社(合併前の神社も含む) [素戔嗚命]

 宇迦之御魂命(スセリヒメ)を祀る鳥取県の神社38社(合併前の神社も含む)

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1 因幡国(鳥取県東部)22社(合併前の神社も含む)

小羽尾神社 岩美郡東村小羽尾
多居乃上神社(須勢理姫) 岩美郡宇部村
大平神社 岩美郡津ノ井村

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虫井神社(以下の2社を合併) 八頭郡山形村大呂
芦津神社 八頭郡山形村芦津河原
八河神社 八頭郡山形村八河谷字宮ノ下

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岩神神社 八頭郡富沢村岩神

三輪神社 八頭郡智頭町南方

向田神社 八頭郡土師村穂見

祓谷神社(以下の2社を合併) 八頭郡土師村三田祓谷
井上神社 八頭郡土師村三田湯谷
小谷神社 八頭郡土師村山根荒神谷口井手ノ上

土師神社(以下の3社を合併) 八頭郡土師村埴師宮山
北谷神社 八頭郡土師村埴師香伝地
木原神社 八頭郡土師村木原宮郡家
勝手神社 八頭郡土師村横田本谷

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河野神社(以下の4社を合併) 八頭郡土師村三吉檜谷口
広嶺神社 八頭郡土師村三吉山田
宮国神社 八頭郡土師村三吉十日市意図

檜神社 八頭郡土師村三吉大坪
聖神社 八頭郡土師村慶所宮ノ尾

大屋神社 八頭郡那岐村大屋一ノ谷

2 伯耆国(鳥取県中部)12社

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谷田神社(八幡神社) 倉吉市余戸谷町四十二丸

勝宿禰神社 倉吉市下田中
神庭神社 倉吉市円谷
東山神社 倉吉市米田町
村上神社 倉吉市巌城村ノ上
田内神社 倉吉市巌城宮ノ前
小田神社 倉吉市小田宮ノ谷
船内神社 倉吉市下古川
 

古布庄神社 琴浦町古布庄
下見神社 琴浦町三本杉
諏訪神社 琴浦町八橋
大父神社 琴浦町以西大父

3 伯耆国(鳥取県西部)4社
唐王神社(須勢理姫) 西伯郡所子村唐王
貴布禰神社 西伯郡車尾村車尾
上代神社(須勢理姫) 日野郡石見村上代
板井原神社(須勢理姫)日野郡根雨板井原

※私見

 唐王神社は須勢理姫 が亡くなったところであるとする。これをもって鳥取県西伯郡所子村も出雲国に含まれていたのではないかとする説があるが鳥取県西部は出雲国ではない。大国主は鳥取県中部で亡くなっている。鳥取県西部4社のうち3社の祭神を須勢理姫としているところに藤原氏の何らかの意図が見て取れる。大国主の活動本拠地は鳥取県西部より西であり鳥取県中部は何もないよ、としたかったのである。そうなら、なぜ藤原朝廷は鳥取県中部に伯耆国府を造ったの、ということである。

4 私見

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(1)鳥取県神社誌昭和9年刊に記載されているスセリヒメ(宇迦御魂命)を祭神とする神社は、合併前も含めると38社である。そのうち智頭町が18社であり、ほぼ半数となる。大山祇と神大市姫は岡山県真庭市社にいたのではないかと思われる。その後大山祇と神大市姫は伊邪那岐と一緒に鳥取県智頭町に来ていた。智頭町には大屋がある。大屋毘古は智頭町大屋にいた。木国は紀国でも紀伊国(和歌山県)でもない鳥取県智頭町であった。スサノオは櫛名田比賣との間に大国主が出来てから鳥取県智頭町(木国)の大山祇と神大市姫のもとに行っていた。スサノオと神大市姫との間に大歳神とスセリヒメが生まれた。伊邪那岐が亡くなってスサノオとスセリヒメは最初の約束通り蒜山経由で根国(鳥取県倉吉市)の清熊稲荷神社に降りてきた。大国主は中山神がくるまで中山神社(御真木)にいたが、その後スサノオを追って根国(鳥取県倉吉市)の清熊稲荷神社に降りた。

(2) 倉吉市の八幡神社について

八幡神社 祭神 応神天皇 仲哀天皇 神功皇后 素戔嗚尊 宇迦御魂命 武内宿禰命

鎮座地 東伯郡倉吉町大字余戸谷町字四十二丸 現在地 倉吉市八幡町3626-3

由緒 大正2年 谷田神社 祭神 素戔嗚命 宇迦御魂命 倉吉町余戸谷町四十二丸を合併する。

 谷田神社は清熊稲荷神社と神社名を変えている。 


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古事記・「八雲立つの条」は改ざんされている [素戔嗚命]

 古事記・「八雲立つの条」は改ざんされている。

1 古事記・「八雲立つの条」
 「素戔嗚命は・・・宮殿を建てるべき土地を、出雲の国の中に探し求めた。訪ね歩いて、須賀という土地に至った時に、私の心はすがすがしいと感慨を洩らした・・・須賀と言う」とある。「八雲立つ 出雲八重垣 妻ごみに 八重垣作 その八重垣を」と歌を詠んだ。足名椎命を宮殿の首長となした。
 次に素戔嗚命の系譜が書かれ「その後、素戔嗚命は、かねての望み通り母の国を訪ねて根堅洲国へと赴いた」とある。

2 素戔嗚命の系譜
 素戔嗚と神大市姫(大山祇の娘)との間に出来た子が、大年神と宇迦之御魂神である、とする。素戔嗚と櫛名田比賣との間に出来た子である八島士奴美神について「八島士奴美神が刺国大神の娘、名は刺国若比売を妻として、生ませた御子は、大国主神」とする。
 古事記・「根国での冒険の条」において「スセリヒメは大国主を助け大国主はスセリヒメを背負って黄泉比良坂まで逃げた」とある。「八雲立つの条」の素戔嗚命の系譜には娘のスセリヒメが書かれていないし、スセリヒメの母親が誰かわからない。スセリヒメは「根国での冒険の条」に詳しく書かれているので実在した姫である。スセリヒメは宇迦能山(北栄町の茶臼山=イナサ山)で大国主と一緒に暮らした。鳥取県神社誌にも多く出てくる宇迦之御魂神(東山神社の祭神)とは宇迦能山(北栄町の茶臼山=イナサ山)に大国主と一緒に住んでいたスセリヒメのことではないのだろうか。宇迦之御魂神=スセリヒメであると思われる。倉吉市米田町の東山神社にスサノオと一緒に住んでいた。藤原氏は手の込んだ改ざんをするものである。
 「八雲立つの条」の系譜が正しいとすると、大国主はスサノオの孫となるが、先代旧事本紀では、スサノオと稲田姫との間に生まれた八島士奴美神は大国主神、大己貴命であるとする。それが事実ならば、大国主とスセリヒメは異母兄妹ということになる。八橋の地名由来では「スサノオの孫の高姫」とある。血のつながった孫という意味にとれる。先代旧事本記は正しいかもしれない。
 「八雲立つの条」に書かれているスサノオの系譜は改ざんされている。「八雲立つの条」と「根国での冒険の条」のどちらを信じるかであるが、「根国での冒険の条」を信じるべきである。「八雲立つの条」は藤原氏が準王一族のいた島根県東部を聖地にすべく出雲に素戔嗚の伝承を創設していったので、それに合わせるために改ざんした条である。原古事記に記載のあった「根堅洲国へと赴くまでの宮殿」を出雲の須賀にあったことにした。宮殿を造った土地は出雲の須賀だとする記述はのちの藤原氏による改ざんである。では原古事記に書いてあったはずのスサノオが宮殿を造った土地は何処だろうか。私は三朝町山田集落や坂本集落の東南の田岡神社か大江神社あたりではないかと推察する。

3 祭神が足名椎命・手名椎命・須佐之男・櫛名田比賣である神社は鳥取県神社誌831社中、田岡神社と境港市の余子神社と八頭町の大江神社の3社である。紀元前200年頃は今より4m海面が高く境港市余子のあたりは海であったので余子に素戔嗚の宮殿は造ることはできない。大江の大は王であり素戔嗚と思われる。祭神が61神あるのは素戔嗚の御殿があったことを隠すためである。地形的には田岡神社と同じ緯度の東にある。

4 大江神社

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 大江神社の祭神は多いが、王と呼べるのは素戔嗚がふさわしいかもしれない。
 大江神社や田岡神社の南には岡山県奈義町があり那岐山があり鳥取県那岐村があった。イザナギの本拠地があったと思われる。素戔嗚命が根堅洲国(倉吉市中心市街地)の清熊稲荷神社や東山神社(祭神は須佐之男命と宇迦之御魂神)に行く前に宮殿を造った土地は周辺が山に囲まれた大江神社あるいは田岡神社ではないかと思われる。天照大御神も右上の霊石山に白兎に導かれて登っ
たという伝承がある。

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5 田岡神社(昭和9年刊鳥取県神社誌)
鎮座地 鳥取県八頭郡佐治村大字津無字南ヶ市
祭神 足名椎命・手名椎命・須佐之男・櫛名田比賣
 由緒には「山城国より勧請せり」とあるが、藤原氏は全国神社ネットワーク(現在の公民館機能)を使い、鳥取県の神社の多くに「~より勧請せり」と書かせている。

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昭和9年では立派な社殿があった。

 



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倉吉市中心市街地は根堅州国であり素戔嗚が治めよと言われた海原であった  [素戔嗚命]

1 古事記には素戔嗚が根堅州国に住んでいることが書かれている。日本書紀は略して根国としか書いていない。

 稗田阿礼はある場所を書き表すのにあとで特定できるようにその場の具体的な特徴を書いている。根堅州国とは稗田阿礼の造語である。「州」とは川と川の間に挟まれた陸地である。支流も含めて全体が根のような川があり、川と川に挟まれた岩盤でできた堅い州があった。そこが根堅州国であった。根堅州国は「堅」の字が入っているから、川と川の間(小鴨川と天神川の間)に挟まれた岩盤でできた堅いところであった。

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 倉吉市周辺の川である。まるで木の根のように見える。全国の川の中で一番木の根に似ているのは鳥取県の天神川である。倉吉市の打吹山の北側に小鴨川と天神川に挟まれた州があり、そこが岩盤でできていた。そこが根堅州国であった。

 葦原中津国を見ればわかるように、当時の国とはあの程度の広さであったことを考えると、根堅州国も現在の倉吉市の中心部であったと思われる。

2 縄文海進のピーク時は倉吉市の中心部近く(住吉町)まで海が来ていた(住吉神社前の案内板より)が、素戔嗚の時代には縄文海退により、倉吉市中心部は原になっていた。以前は海だったから海原と言った。素戔嗚はその海原を治めるように命じられた。

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  古事記に言う「海原」とは、昔海であったが、その時(紀元前200年ごろ海抜4m)は原になっていたところのことを言う。倉吉市住吉神社の由緒に「このあたり一帯入江であった」とする。その状態になるのは海抜20mのときである。

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 伊邪那岐は素戔嗚に海原を治めよといった。伊邪那岐・伊邪那美は蒜山高原(瀛州)より海原(倉吉市駄経寺)に降臨していた。その証が縄文晩期・弥生前期の松ヶ坪遺跡である。天武天皇はそのことを知っていたから松ヶ坪遺跡の前に大御堂を建てた。伯耆民談記は「新宮大明神(祭神 伊邪那岐・伊邪那美)は駄経寺(大御堂)の埴守であった」とする。ヤマト王権は伊邪那岐・伊邪那美(祖神)を祀っていた。第八代天皇や第九代天皇も北栄町大島で伊邪那岐・伊邪那美(祖神)を祀っていた(宮崎神社の由緒より)。

 海原は世界中にあるが、原古事記には◯◯の海原と書いてあったはずである。藤原氏は◯◯を消している。稲飯命が入座した海原は辰韓の海原(海抜4m~20m)であった。

3 古事記・「根国での冒険」の舞台は清熊稲荷神社(倉吉市余戸谷町四十二丸)と思われる。このあたりも根堅州国(黄泉国)と言っていた。大国主命が素戔嗚命を頼ってきた根堅州国もここであった。素戔嗚命は三朝町山田(ヤマタ)にいた八俣大蛇を退治してその時使った十握の剣を倉吉市大原の石上神宮に奉納した。素戔嗚命が居た倉吉市米田の東山神社は天神川を挟んで石上神宮の西にある。

 

 


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伊邪那岐命・伊邪那美命は倉吉市の新宮神社におられ、素戔嗚命は倉吉市の谷田神社と東山神社におられた [素戔嗚命]

 伊邪那岐命・伊邪那美命は倉吉市の新宮神社におられ、素戔嗚命は倉吉市の谷田神社と東山神社におられた。

1 倉吉市の松ヶ坪遺跡から縄文晩期から弥生前期の遺物が出土した。

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松ヶ坪遺跡は左のビルのあたり、大御堂廃寺のすぐ南。

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 琴浦町の中尾第一遺跡で縄文時代晩期終末期~弥生時代前期の遺物が発掘された。中尾集落は天太玉命と和久産巣日神が降臨された最初の場所である。縄文時代晩期終末期の遺物は縄文人である猿田彦一族が使っていたものであり、弥生時代前期の遺物は徐福一行が新しく作ったものだと解する。
 湯梨浜町の長瀬高浜発掘調査報告書で「わずかに旧天神橋北側の河床から縄文時代中~後期の土器片が採集されているにすぎない。また縄文時代晩期の後半代に盛行する凸帯を持つ甕や鉢の小片が高浜遺跡からわずかに出土している。」とある。天神川河床遺跡は弥生時代の水害によって流された遺物であり、弥生土器も流されている。弥生前期の土器は玉祖命が使っていたものであり、縄文晩期の土器は猿田彦の一族が使っていたものである。
 猿田彦の一族は北栄町北条島に縄文中期から住んでいた。そして紀元前210年にこの地に到着し蒜山に上がっていた徐福一行に協力していた。だから、縄文晩期と弥生前期の遺物が一緒に見つかるのである。縄文晩期と弥生前期の遺物が一緒に発掘されるところは、徐福一行のメンバーが蒜山から降り立ったところである。
 松ヶ坪遺跡で見つかった縄文晩期から弥生前期の遺物も伊邪那岐命、伊邪那美命の降臨を示している。その場所が新宮神社である。
 新宮神社と東山神社は近いところにあるので一緒に降臨した、と書いていたが、時期がずれている。スサノオは蒜山で天照大御神に暇乞いをしてから三朝町山田でヤマタノオロチを見つけ成敗してから、稲田姫とともに鳥取県八頭郡に住んで大国主を生んだ。イザナギはその南の那岐山の周辺にいたはずである。
 その後、神大市比売との間にスセリヒメ(宇迦之御魂命)を生んで、倉吉市余戸谷町の谷田神社に降臨した。古事記・根国での冒険はここが舞台であると思われる。素戔嗚命は米田町の東山神社の地に移られ十握剣を石上神宮(大原神社)に奉納した。東山神社は大原神社とは竹田川を挟んで、ほぼ東西に位置する。また東側も西側も谷になっており、天然の要害の地である。
 スセリヒメは宇迦能山(茶臼山)に行ってからも東山神社に移ったスサノオのもとに行ったり来たりしていた。

2 新宮神社

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東伯郡倉吉町大字駄経寺字宮ノ前鎮座 
祭神 伊邪那岐命、伊邪那美命 
由緒 古来より真宮大明神と称していた。

 天武天皇の和風諡号は瀛真人である。天武天皇は伊弉諾命を祀っていた。伊弉諾命を真宮大明神と称した。真宮大明神とは「真人」のことである。「真人」とは道教で瀛州に住む最高の仙人を意味する。

3 東山神社

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 東伯郡倉吉町大字米田字僧ヶ平鎮座 祭神 素戔嗚命 宇迦之御魂命(素戔嗚命が、櫛名田比売の次に娶った神大市比売との間に生まれている) 
由緒 古来より牛頭天王と称していた。

4 伊邪那岐命、伊邪那美命にしろ素戔嗚命にしろ全国の多くの神社で祀られているから、祭神を書き換える必要がなかった。賀茂皇大神宮には天武天皇が祭神になっていたから、書き換えなければならなかった。


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「八雲立つ、出雲八重垣 、妻籠みに、八重垣作る、その八重垣を」について [素戔嗚命]

 「八雲立つ、出雲八重垣 、妻籠みに、八重垣作る、その八重垣を」について
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倉吉市小鴨川土手よりを見る。正面は打吹山。

右に遡ると矢送村。左に下ると長瀬高浜に至る。

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倉吉市小鴨川土手よりを見る。正面は向山である。向山は玄武岩が露出しているところがある。

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倉吉市小鴨川の橋よりを見る。この先で天神川と合流する。左に行けば、長瀬高浜と茶臼山のほうに出る。

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晴れた日に倉吉市小鴨川の橋よりを見る。八重垣である。 

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 倉吉市小鴨川に架かる橋より西を見る。晴れていたら、正面に大山と蒜山が見える。右側のなだらかな山は四王寺山である。

 天忍穂耳と猿田彦や五伴諸はこの川を利用して、清熊稲荷神社の峰から茶臼山にいた大国主に会うために茶臼山の東の内海に下っていた。

私見
 2番目、3番目の八重垣は建物のことを言っているが、1番目の八重垣は雲であるというのが通説である。
 しかし、「八雲立つ出雲八重垣」の八重垣は、周囲の地形を言っているのではないか、と思われる。
 
須佐之男は、殺した八岐大蛇(始皇帝の追っ手)の仲間が仕返しをしてくることを恐れていた。
 「周囲は雲の沸き立つような山々が多くの垣のようになっていて、外敵が侵入しずらくなっているが、妻を籠らせる宮殿も多くの垣を巡らせて作ろう。そのような宮殿であることよ」というような意味である。

 

※ 後記 

 三朝町の3ヶ所の「・・・ほうき」(大瀬→大原→助谷)をたどっていくと須佐之男と稲田姫とその両親は蒜山の長田神社に行っている。そして、天照大神に天群雲剣を渡した。須佐之男と稲田姫とその両親は八岐大蛇(始皇帝の追っ手)を退治してから伊邪那岐を追って天照大神や天穂日と一緒に鳥取県八頭郡大江郷に逃げていた。河原町霊石山や氷ノ山に天照大神の伝承が残っている。

  「古事記・八雲立つ」の条は改ざんされているから須佐之男の歌の舞台は島根県東部ではない。八重垣を造ったのは鳥取県八頭郡大江郷であった。稲田姫は須佐之男の子の大国主を生んだ。神大市比売は須佐之男の子の大年神と宇迦之御魂神を生んだ。始皇帝が亡くなったのを知って天照大神は蒜山高天原へ、須佐之男は宇迦之御魂(須勢理姫)と一緒に根国(倉吉市中心市街地)に行った。倉吉市の清熊稲荷神社の峰を本拠地にした。素戔嗚と宇迦之御魂が祭神となっている谷田神社(倉吉市余戸谷町42丸)が古事記にある「根国での冒険」の舞台であった。現在は清熊稲荷神社と神社名を変えている。


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草薙剣(八俣大蛇が持っていた)を模して作られたと思われる稲荷山古墳出土の鉄剣と秦兵馬俑一号坑出土の青銅剣 [素戔嗚命]

 草薙剣(八俣大蛇が持っていた)を模して作られたと思われる稲荷山古墳出土の鉄剣と秦兵馬俑一号坑出土の青銅剣 

 形状比較のため写真を借用しました。

1 稲荷山古墳 鉄剣 レプリカ
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稲荷山古墳出土の鉄剣は八俣大蛇が持っていた草薙剣を模して作ったものだと思われる。製作は471年という説がある。

2 兵馬俑博物館  秦兵馬俑一号坑出土 秦青銅剣

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クロームメッキが施されているため今でも銀色に輝いている。

 

3  稲荷山古墳出土の鉄剣のほうが少し短いだけで形状は両刃でありほぼ同じである。
 400年経っても錆びずに短時間で広範囲の草が刈れるのは、始皇帝が持っていた青銅剣しかないと思われる。2200年経った今でも十数枚の紙が切れるそうである。
 八俣大蛇とされていたのは、第一次の徐福(紀元前219年)を追ってきた始皇帝の家来たちであった。彼らは辰韓(朝鮮半島の東側)から出航して鳥取県湯梨浜町の東郷池に到着し、上陸して三朝町山田(ヤマタ)に住んでいた。彼らは9年後に素戔嗚が現れるまで、毎年娘をさらった。稲田姫が8人目の娘であった。


4 ちなみに、素戔嗚が蒜山高天原に上がってきたのは、三朝町山田で始皇帝の家来たちを発見したので、天照大神に報告と忠告に上がってきたのではないだろうか。「なぜ、始皇帝に報告しないのか」と忠告したと思われる。天照大神と櫛稲田姫のためにも素戔嗚は始皇帝の家来たちを成敗する必要があった。始皇帝の家来たちに濃い酒を飲ませて成敗してから、始皇帝陵から見つかったのと同じ剣を持って天照大神に献上したが、天照大神はその剣の存在を知っていたから、なにも言わずに受け取っている。徐福もその剣の存在を知っているから、黙って受け取る。古事記には「素戔嗚はこの太刀を取り、『これは不思議なものだ』と思ったので、天照大神に報告した」と書かれているだけで天照大神の反応が書いてない。徐福(天照大神)は事情を知っているから、何も言わなかったと思われる。曲がっても元に戻るから「不思議なもの」(形状記憶合金)なのである。それ以来、天叢雲剣として天皇家の三種の神器となる。


5 梅宮大社の神職者で学者玉木正英の「玉籤集」裏書にある記載は、綱吉の時代、熱田神宮で「布をほどいて剣を見ると、長さは2尺78寸(およそ85センチメートル)ほどで、刃先は菖蒲の葉に似ており、剣の中ほどは盛り上がっていて元から6寸(およそ18センチメートル)ほどは節立って魚の脊骨のようであり、全体的に白っぽく、錆はなかった」とある。

菖蒲の葉.jpg

 形状と白っぽさは秦兵馬俑一号坑出土のクロームメッキされた青銅剣と同じである。


6 「天叢雲剣は天武天皇に崇った」という日本書紀の記述は天武天皇の暗殺を隠ぺいするための不比等の作り話である。天武天皇は天照大神の正統な承継者である。テロでそれ以前の天照大神から続く政権を奪い取った天智こそ崇られてもおかしくないのであり、天武天皇が崇られることはない。天武天皇は天叢雲剣に崇られて死んだのではなく、不比等に頼まれた持統によって毒殺された。毒殺した張本人の不比等が本当のことを日本書紀に書くわけがない。天武天皇が死んだ原因をなぜわざわざ書く必要があったのか。当時でも疑う者がいたからと思われる。




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