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千三百年の間、藤原氏に消されてきた伯耆国(鳥取県中西部)の真実の歴史が、今よみがえる。

第一節 鳥取県神社誌に見る方見神社について [伊勢野の天照皇大神宮]

 第一節 鳥取県神社誌に見る方見神社について

1  方見神社  東伯郡市勢村大字上伊勢字東屋敷
 祭神 天照大御神・伊邪那岐命・伊邪那美命・鵜草葺不合尊・菅原道真・素戔嗚尊・稲荷神・品陀和氣命・天太玉命・和加産巣日神
 由緒 創立年代詳ならず。往古は四至四町除地ありて社記に所在地を明記せり。その他多くの社領を有し官民の崇敬篤く、一に神宮に擬し野ノ宮斎王殿、着到殿等を構へ規模荘厳にして上官以下被官の社人十七人奉仕。上官屋敷、上ノ城戸、西ノ城戸等の名今に存す。その他、伊勢野、鈴鹿野、斎王野等の地名あり。また奈良朝の時、土佐より遁(のが)れ給いし池田王は、方見神主の許に隠れさせ給いしが、遂に神主となり奉仕せらりしとの伝説あり。(中略) 当社には往古より大田小田と称する神田あり、大田は朔日田と唱え九月一日にこの田の稲を神供に炊ぐ。小田は晦日田と唱えこの田の稲を以て部内諸神に供す。氏子の内より十三才未満の女子十二人を挙げ、神酒上げ神饌炊ぎとす。これを「三ケノオコラ」という。永久に相伝う。この田を植えるときは御田植祭を行い、官丁を課当せらりし。当社は昔より方見一郷の氏神にして、摂社十六社、末社十七社附属せしが、明治維新にこれを廃せられ、天照皇大神宮と称せしを方見社と改号、明治五年三月郷社に列す。当社は月下ノ宮を昔より外宮の関係にて両宮落合ひの神事とて、両社より十二頭の獅子を出し盛んに祭礼を行いしこと社伝に見ゆ。

2  大正二年に合併された神社
金市神社(鵜草葺不合尊)市勢村大字金市字馬場ノ内
北野神社(菅原道真)市勢村大字金市字天神ノ上
金屋神社(素戔嗚尊・稲荷神)伊勢崎村大字金屋字大田
大野神社(品陀和氣命)市勢村大字下伊勢字八幡土井
鈴野神社(須佐之男命)逢束村字鈴野
中尾神社(天太玉命・和加産巣日神)伊勢崎村大字中尾字屋敷
境内神社 
高柳神社 祭神 須佐之男命、稲田姫命、八王子

3 由緒の解釈
 奈良時代(政権を奪い取った藤原朝廷)には、藤原朝廷より遁(のが)れてきた土佐の王をかくまうほど力のある大きな神社であった。
 伊勢野、鈴鹿野、斎王野等の地名があった。野を取れば、伊勢・鈴鹿・斎王である。
 明治維新までは摂社十六社、末社十七社を附属させた天照皇大神宮と称していた。祭神は天照大御神・伊邪那岐命・伊邪那美命であった。
 「月下ノ宮を昔より外宮の関係にて両宮落合ひの神事」より月下ノ宮という外宮があったことがわかる。
 大田・小田を作り御田植祭をしていた。
 「神宮に擬し」の「神宮」とは三重県の伊勢神宮と思われる。こちらの方があとに造られたような書き方をしているが、奈良時代に土佐の池田王が助けを求めて逃れてくるほど権勢があったのであるから、奈良時代にはすでに古い歴史を有していたものと思われる。
 以上のことより伊勢神宮(奈良時代末)よりも古く伊勢神宮のモデルであった可能性がある。「義楚六帖」に「日本国亦名倭国、在東海中。秦時、徐福将五百童男、五百童女止此国。」とあるので、徐福は倭国にとどまった。この倭国とは、「在東海中」とあるので、列島のことではなく日本海沿岸にある小さな国のことであり、鳥取県中部のことである。徐福(天照大神)も丹後には行っていない。天照大御神は高天原である蒜山から降りて、鳥取市河原町霊石山に伝承がのこる因幡国にも行かれたが、亡くなったのは方見神社あたりと思われる。
 伊勢神宮だけは鳥取県中部と関係ないと思っていたが、やはりここをモデルとしたテーマパークであった。これで、天孫降臨の地(宮崎県)、出雲大社・スサノオ・大国主(島根県)、葛城・師木・三輪山(奈良県)、伊勢神宮(三重県)の四県は古事記つながりで連盟を組んでいるそうであるが、すべて鳥取県中部に本物はあり、これをモデルにしたテーマパークであることが解った。

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