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千三百年の間、藤原氏に消されてきた伯耆国(鳥取県中西部)の真実の歴史が、今よみがえる。

日本書紀は列島における百済再興のために制作された [閑話休題]

 日本書紀は列島における百済再興のために制作された。
1 「ヤマトタケルに秘められた古代史」において崎元氏は「書紀」は15代までの天皇の享年は知っているが、17代からの天皇の享年はほとんどわかりません、と言っている。人間の最長寿命の遺伝プログラムは最初から決められており、120歳程度とされる。それを越える天皇が16代までの中に6人も存在する。従って、16代までは潤色されている、とする。
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 倭国を乗っ取った亡命百済王朝は、中国に天照・神武から続く万世一系の皇統だと思わせなければならなかった。しかし、天照大神が中国人であったことは隠さなければならなかった。従って神武元年を紀元前210年よりずっと古く見せなければならなかった。そのために、120歳以上の天皇を6人も創り、兄弟承継であった8代9代10代を父子承継にした。
2 旧唐書に倭国と日本(百済)は別の国と書かれるほど唐に疑われていたので万世一系の天皇家と思わせるようにしなければならなかった。そんなおり、太安万侶より倭国の歴史書が上程された。不比等をはじめとする亡命百済人たちは百済(日本)の歴史書を創るにあたり、倭国と日本(百済)は別の国と思われないために百済の王の中に倭国の王を混ぜた。
 日本書紀において原古事記から引用したと思われる倭国大王は神武天皇、崇神天皇、応神天皇、雄略天皇、天武天皇くらいである。あとは百済王の在位期間を持ってきている。大「臣」とされているのも、すべて倭国の大「王」であった。亡命百済人たちは、奈良で仕事を与えられ、倭国の下僕として働いていた。石像などを造ったのも亡命百済人である。テロで政権を奪った亡命百済人たちは日本書紀において倭国の大王を下僕(大臣)として仕えさせるという書き方をした。
 古事記原本には大「王」と書いてあったのを大「臣」に書き換えている。
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 崎元氏は、単純に直線を引いて神武元年を207年とする。崎元氏は履中からの傾きは正しいとされるが、大臣が倭国大王なので690年は第31代の高市大王となる。百済人(扶余族)の性格は性急なので寿命も短かったようである。履中からの在位年数は百済王の在位年数である。一方、魏志倭人伝には「倭人はたいへん長生きで、100歳、あるいは8、90歳まで生きる」とあるから王の在位年数も現代とあまり変わらず30余年であった。 
 神武元年は紀元前60年であった。別稿「神武元年は紀元前60年(弥生時代中期)であった」を参照されたし。
 神武元年を紀元前60年とし、690年に31代が即位したのでほぼ直線に近くなる。
3 蘇我氏は倭国大王であった。
 倭国13代大王は武内宿禰大王であり、その三男の蘇賀石河宿禰は蘇我氏の始祖であった。蘇我氏は武内宿禰大王の子孫であり、倭国大王になる血筋であった。蘇我稲目・蘇我馬子・蘇我入鹿・蘇我倉山田石川麻呂は大「臣」ではなく大「王」であった。太安万侶が上程した原本にはそう書かれていたが、百済人は日本国天皇を創り上げ蘇我氏三代は下僕(大臣)として仕えさせるという構成にした。
 したがって、宣化・欽明・敏達・用明・崇峻・推古・舒明・皇極・孝徳・斉明・天智は倭国大王ではなく百済王であった。
 崇峻紀4年(591年)条に「崇峻天皇(蘇我馬子大王)は群臣と諮り、任那の失地回復のため2万の軍を筑紫へ派遣し、使者を新羅へ送った。政治実権は馬子にあり、崇峻天皇は不満であった。崇峻天皇5年10月(592年)、天皇へ猪が献上された。崇峻天皇は猪を指して『いつか猪の首を切るように、朕が憎いと思う者を斬りたいものだ』と発言し、多数の兵を召集した。馬子は崇峻天皇の発言を知り、天皇が自分を嫌っていると考え、天皇を殺害することを決意する。同年11月、馬子は東国から調があると偽って、東漢駒に崇峻天皇を殺害させた」とある。
 「任那の失地回復のため2万の軍を筑紫へ派遣し、使者を新羅へ送った」のは百済王の崇峻ではなく倭国王の蘇我馬子大王であった。朝鮮半島にいた東漢駒の軍に百済王の崇峻を殺害させた。主語を書き換え、舞台を倭国内のように書いているが舞台は朝鮮半島であった。
 皇極・斉明は642年に百済からの船に乗っていた「高名な40人余り」の中にいた百済人豊璋(天智)の母親であった。舒明は百済で亡くなった武王(百済人豊璋の父親)がモデルである。天武天皇は倭国28代蘇我善徳大王(聖徳太子)の王子であった。百済王の古墳は方墳・六角墳・八角墳であり、倭国王の古墳は円墳・前方後円墳であった。
4 倭国を征服・支配するために創られた百済の八幡神社の祭神として、神功皇后・武内宿禰・誉田別・仲哀天皇を創作し日本書紀に書き入れた。
 13代成務天皇と14代仲哀天皇は架空の天皇である。神功皇后は豊鋤入姫(台与)がモデルであった。倭国が弥生時代後期に神社・神道で全国を統一したのを真似て、不比等たち百済人は多くの八幡神社を全国に創った。
 列島に多く残っていた倭建命・倭姫命(卑弥呼)の伝承も消さなければならなかった。八幡神社周辺の倭建命・倭姫命(卑弥呼)の伝承は武内宿禰と神功皇后の伝承に吸収させた。
 13代大王の武内宿禰を大臣とした。抜けた13代天皇に架空の成務天皇をあてた。
 14代を誉田別の父親にすることにし14代に架空の仲哀天皇をあてた。本来14代であった仁徳天皇を16代に移した。
 15代は特別な天皇であったので動かすことはしなかった。応神天皇は百済が初めて倭国に朝貢したときの倭国大王であり、3年間人質として百済にいたため、百済にとって特別な天皇であった。応神天皇を百済の神社である八幡神社の主祭神にした。
5 神武東征は不比等の創作である。
 亡命百済人の王族は一時宮崎県にいたので不比等は宮崎県を都に見立てた。710年に平城京を築いてもらったので、不比等は宮崎にいた王族を奈良に呼び寄せた。王族が宮崎から奈良にきたのだから百済の都も宮崎から奈良に遷ったという体裁をとる必要があった。不比等は太安万侶が上程した原本に書いてあった初代神武天皇の鳥取県中部を出発して藤原氏の先祖の蝦夷(略奪集団の出雲族)を平定し、鳥取県中部に帰ってきた記述を利用することを考えた。不比等は倭国の歴史書に書いてあった神武天皇の記述を改ざんして神武東征を創作した。
 原本に書かれていた神武天皇たちの目的は蝦夷(出雲族)を平定することであった。九州の蝦夷を平定したあと、倭国に帰ったが、長髄彦に敗れ、倭国をいったん退いて福山市と尾道市を拠点として出雲から出てくる賊(出雲族)を平定し倭国を取り戻す機会をうかがっていた。倭国(鳥取県中部)を出雲族から取り戻し、紀元前60年に即位した。
 神武天皇は線刻土器の年代比較により摂津国(茨木市の東奈良遺跡)までは行っているが、奈良までは行っていない。唐古・鍵遺跡などの線刻土器は1世紀なので奈良を平定したのは4代懿徳天皇(在位40年~75年)と思われる。中国皇帝への最初の朝貢を北九州の倭奴国にさせたのも懿徳天皇と思われる(紀元57年)。倭奴国は「倭国に仕え従う国」と書く。2代から6代までの天皇は奈良だけでなく東国も平定していった。東北まで平定したのは7代孝霊天皇の皇子(倭建命)と皇女(倭姫命)であった。藤原氏は神武東征との整合性を謀るため、また藤原氏より以前に全国を統一していた別の王朝があったことを隠すため、2代から9代までの旧事を消した。
 10代崇神天皇は四道将軍を置き、全国に神社を建てて、殷王朝から伝わってきた出雲族の宗教を神道に改宗させて、全国を統一した。
6 倭国王2代から9代までの旧辞は削除した。
 倭国王第4代懿徳天皇は奈良を平定し、北九州にあった倭奴国を使って初めて中国に朝貢させた。倭国王第6代孝安天皇(倭国王帥升、在位105年~147年)は後漢への即位報告の朝貢途中、朝鮮半島でとらえた生口(捕虜=略奪集団の扶余族)160人を後漢の安帝に献じた(107年)。7代孝霊天皇とその子、8代孝元天皇と9代開化天皇と卑弥呼は全国と半島を平定した。
 奈良に都を遷したのは初代神武天皇としなければならないから、第4代の旧辞を残しておくと整合性が取れなくなるので消した。
 第6代の捕らえた生口は略奪に喜びを感じる扶余族であり、百済人の先祖であった。7代8代9代に平定された出雲族も略奪集団であり、百済人の先祖であった。藤原氏と同族である出雲族の平定される様を残すわけにはいかず2代から9代の旧辞は消した。出雲族と同族の藤原氏は倭国を乗っ取ってから、出雲国風土記を創作し出雲大社を築造して出雲を聖地にした。藤原氏以前に全国を平定・統一していた王朝の旧辞を残すわけにはいかなかった。
7 新羅と百済を入れ替えている。
 垂仁紀2年是歳条 、神功皇后摂政紀47年4月条、応神紀14年是歳条、応神紀16年8月条、仁徳紀53年5月条、雄略紀7年是歳条、雄略紀9年3月条にある「新羅」は原文に「百済」とあったのを書き換えている。
 新羅と倭国(鳥取県中部)は建国以来兄弟国であったので、倭国の歴史書に新羅を悪く書くことはない。百済人は倭国の歴史書にあった新羅と百済を入れ替えた。欽明天皇の段で特に多い。百済は新羅の法興王を殺した。
 仏教は新羅の法興王から伝わったにもかかわらず、百済から伝わったと書いた。飛鳥寺(法興寺)は新羅の皇龍寺をモデルに建築された。
 湯梨浜町宮内遺跡発掘調査報告書や青谷上寺地遺跡発掘調査報告書を見ると、弥生時代前期から鳥取県中部(倭国)は大陸と直接交流をしていたことが判る。その大陸とは東郷池・青谷と最短距離にある新羅国である。新羅国は稲飯命が建国しそこで鉄製の武器を造っていた。新羅国と倭国(鳥取県中部)は弥生時代前期から兄弟国であった。
8 日本書紀は原古事記の発音を他の漢字であてた当て字である。
 日本書紀は古事記とは別の漢字を使う。意地でも別の漢字を使う。久米を来目と書く。長谷を泊瀬と書く。大御堂廃寺から7世紀の「久米寺」と墨書された皿が発掘された。日本書紀が製作される以前は「久米」の字が使われていた。「大倭」を大和や日本に変えている。先祖代々使ってきた「倭」の国号を倭国の大王はそう簡単に変えることはない。倭(やまと)と名乗った祖神(伊邪那岐)を大事にする一族だからである。8世紀に倭の国号を変えたとするが、倭の大王ならば先祖が800年使ってきた国号を「優雅でない」という理由だけで変えることはない。倭の文字が「優雅でない」から大和・日本に変えたのではなく、日本と名乗ったのは倭王朝とは別の百済王朝だからである。日本(百済)は倭国を乗っ取ったのである。
9 日本(百済)という国号を遡らせて使っている。
 日本という国号は百済からの人質の豊璋(天智)が669年に発案し702年に中国に知らせた。亡命百済人たちの国号であった。万世一系の日本国であったと思わせるため日本の文字を669年以前に遡って記載した。
 倭国歴史書には倭建命(157年~188年)と書いてあったのを日本武尊に書き直している。
 173年に卑弥呼と倭建命が建国し663年に統一新羅が半島を統一するまで、任那があった場所は最初から最後まで全羅南道であった。藤原氏は百済が任那を征服したと思わせないため、新羅に隣接する加羅10国が任那であると記載した。
 雄略天皇のときと512年から543年頃にかけて任那は百済(日本)に滅ぼされ占領されていた。「任那日本府」の文字は百済が全羅南道の任那を征服したので日本書紀では遡らせて「任那日本府」と書き換えた。
10 伊勢神宮と伊勢国を古く見せかけている。
 伊勢神宮は全国を統一した卑弥呼のいた志摩国を封印するために倭国を乗っ取った藤原氏が創建した。藤原氏だから奈良時代より古くはない。伊勢神宮がまだなかった時代に倭建命も持統も伊勢神宮に行ったことにしている。
 伊勢国を創るために、原古事記にあった建御名方と建御雷との国譲りの交渉を伊勢国風土記の伊勢津彦と天日別命との交渉に書き換え、時代を神武天皇の時代にして天照大神の降臨を日本書記には記載しなかった。伊勢国を創ったのも伊勢神宮と同じく奈良時代以降である。
11 準王一族のいたところを聖地にしている。
 藤原氏は朝鮮半島に残っていた箕氏朝鮮の準王一族と思われる。倭国を乗っ取ってから紀元前194年頃に渡来した準王一族のいたところを聖地にした。藤原氏は兄妹婚や母親・叔母との結婚(近親婚)をおかしいと思っていない節があるので藤原氏と準王一族(蝦夷)は同族と思われる。奈良、出雲、熊野、淡路島、阿蘇、高千穂など準王一族が多くいたところであり、藤原氏は倭国を乗っ取ったあと奈良、出雲、熊野、淡路島、阿蘇、高千穂などを聖地にして日本書紀でもそのように記載した。

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神武元年は紀元前60年(弥生時代中期)であった [日向三代と神武天皇四兄弟]

 神武元年は紀元前60年(弥生時代中期)であった
 
1 神武元年は日本書紀によると西暦紀元前660年に相当する。この神武元年は実際よりも古く改ざんされているという説がある。
 なぜ神武元年を実際より古く見せなければならなかったか。
 それは天照大神が紀元前210年に来倭した徐福であることを消す方法の一つとして紀元前210年よりもずっと古くしなければならなかったからである。天照大神が徐福であることを消す方法としては他に、欠史八代を作り長い寿命にしたり、72代にわたるウガヤフキアエズ王朝を創ったり、高天原は雲の上にあったとしたり、天照大神は女性であったとする、などがある。
 ただ、何年改ざんされているかについては説が分かれる。(1)600年改ざん説 (2)660年改ざん説 (3)720年改ざん説がある。それぞれ確信のある年代から割出した説である。例えば660年改ざん説によると神武天皇の即位は西暦元年となり、西暦は西洋から来たのではなく神武天皇の即位を元年にしたものである、とする。
 600年改ざん説は少数だが江戸時代すでに主張されていた。朝鮮半島との交易を調べるとこの説になるそうである。始めに600年ありきで、切りのいい600年改ざん説が正しいと思われる。どの天皇が何年水増しされているかについては、そもそも実在しない天皇も含まれているので全体で600年(60年×10回)としか言えない。干支がずれないように60年単位で増やしている。私は紀元前60年説が正しいと思う。
 
2 神武元年を紀元前60年(弥生時代中期)とする根拠。
(1)新羅の建国年
 「新撰姓氏録」では、右京皇別 新良貴- 彦波瀲武鸕鶿草葺不合尊の男の稲飯命の後。続けて「是出於新良國。即為國主。稻飯命出於新羅國王者祖合」と記し、稲飯命は新羅王の祖であると伝える。
 鈴木真年著作の「朝鮮歴代系図」には新羅王家の朴氏が飯氷命を遠祖とする系図を挙げ、赫居世居西干に仕えた倭人重臣の瓠公と同一人物であるとする。また、日本側に残る諸豪族の系図から推定された本来の皇室系図における稲氷命と、朝鮮側に残る新羅歴代の系図の赫居世が同世代の人物であり、暦年研究からもこの両者が同時代に活動したことがわかり、飯氷命を瓠公とする所伝には信憑性がある、とする。
 神武元年紀元前60年説は紀元前57年に新羅を建国した瓠公(赫居世=稲飯命)と符合する。紀元前60年に稲飯命は辰韓で周囲に「弟が倭国の天皇になった」と自慢したふしがある。
(2)中尾遺跡
 倉吉市の四王寺山(神倭磐余彦の4兄弟がいた)で見つかった紀元前100年頃の中尾遺跡(住居跡と国内最長の鉄矛)とも符合する。別稿「神倭磐余彦4兄弟のいた倉吉市の四王寺山の近くから紀元前100年頃の遺跡が発掘された」を参照されたし。
(3)九州の鉄の鏃
 九州各地で見つかっている紀元前100年頃に使われた鉄鏃とも符合する。
以下の鉄鏃は辰韓・加羅で稲飯命が作り、馬韓から岡田宮にいた神武天皇たちに送られ、九州で使われた。
※(2015-07-19)  鹿児島県文化振興財団埋蔵文化財調査センターは16日、「大崎町永吉の永吉天神段遺跡の二つの土坑墓から、弥生時代中期(約2100年前)の鉄鏃5点が見つかった」と発表した。「昨年7~8月に『土坑墓』から発見され、CTスキャンなどで解析した上で、吉ケ浦遺跡(福岡県太宰府市)と安永田遺跡(佐賀県鳥栖市)で見つかった9点と同時期で同型だと判断したという。南九州では初めてで、鉄製品としても県内最古級という。副葬品の場合、墓からまとまって出土する例が多いが、今回は墓の中にまとまって置かれていなかったことから、副葬品でなく被葬者に刺さっていた鉄鏃とみられる」とある。 
(4)妻木晩田の松尾頭遺跡
 妻木晩田の松尾頭遺跡は紀元前100年頃に始まっており。所子の糺神社から神武天皇が来て出雲族に宗教改革を始めさせた。別稿「神武天皇たちは妻木晩田を開いた」を参照されたし。
(5)高地性集落
 人間が生活するには適さないと思われる山地の頂上・斜面・丘陵から、高地性集落の遺跡が見つかっており、その性質は「逃げ城」とされる。高地性集落の分布は、弥生時代中期では中部瀬戸内と大阪湾岸にほぼ限定される。
 略奪集団(出雲族)から住民を避難させるために神武天皇は高地性集落を造らせた。また分布からもわかるように、弥生時代中期の神武天皇は広島県福山市を本拠地とし、東は摂津国と大阪湾沿岸までしか行っておらず、奈良には行っていない。
 
3 神武天皇の生誕年は52歳で即位したとされるから紀元前112年頃となる。饒速日の誕生は紀元前210年以降である(父の天忍穂耳の伯耆国到着が紀元前210年だから)。饒速日は次男(宇摩志麻遅)がおなかの中にいるときに亡くなったのだから、享年25~30歳くらい。瓊瓊杵命は饒速日が亡くなった頃に生まれたから紀元前180年頃の生まれと思われる。紀元前180年(瓊瓊杵の生誕年)引く紀元前112年(神武天皇の生誕年)は68年であり、それを2で割る(ウガヤフキアエズは火火出見のあだ名だから神武天皇は瓊瓊杵の孫)と34歳となる。世継ぎ天皇が生まれたときの父の平均年齢は34歳となる。
 また、2代綏靖天皇は神武天皇が即位後に娶った皇后の第2子であるから紀元前55年頃の生まれと思われる。7代孝霊天皇(生誕年を115年とする)までは5代であるから、世継ぎ天皇が生まれたときの父の平均年齢は34歳となる。
 神武天皇は特別だから除外すると、瓊瓊杵命から神武天皇までの世継ぎ天皇が生まれたときの父の平均年齢34歳であり、綏靖天皇から孝霊天皇までの世継ぎ天皇が生まれたときの父の平均年齢34歳であるからほぼ同じになる。この結果は、天照大神は徐福(紀元前210年渡来)だったという私見にも合致する。
 出雲国と接する地域で鬼(出雲族)と戦っていた孝霊天皇(115年~211年)が倭国大乱の時代の天皇となり、皇女の倭迹迹日百襲姫の生誕年を151年頃とすると倭迹迹日百襲姫は倭国大乱の時代を生きた「宋女」となる。
 古事記・日本書紀の初期天皇の寿命はあまり長すぎるが、「魏志倭人伝」に「倭人はたいへん長生きで、100歳、あるいは8、90歳まで生きる」とあるから世継天皇を生む年齢も現代とあまり変わらなかった。その後、荘園制度や過酷な年貢の取立てなどで藤原氏に搾取されて寿命は短くなるが・・・。

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内藤湖南の「倭姫命説」と笠井新也の「倭迹迹日百襲姫命説」はどちらも正しかった [邪馬台国・卑弥呼 その2]

 内藤湖南の「倭姫命説」と笠井新也の「倭迹迹日百襲姫命説」はどちらも正しかった


1 京都帝大教授の内藤湖南は明治43年にその論文「卑弥呼考」において「卑弥呼は倭姫命であり、台与は豊鋤入姫である」とした。「卑弥呼の宗女といへば、即ち宗室の女子の義なるが、我が国史にては崇神天皇の皇女、豊鍬入姫の豊(トヨ)といへるに近し。国史にては豊鍬入姫命の方、先に天照大神の祭主と定まりたまひ、後に倭姫命に及ぼしたる体なれども、倭人伝にては倭姫命の前に祭主ありしさまに見えざれば、豊鍬入姫の方を第二代と誤り伝へたるならん」とする。


 内藤湖南の講義を聞いた笠井新也は大正13年の「邪馬臺國は大和である」において「内藤湖南は倭姫命説を唱えたが、自分は違うと思う」とし、「卑弥呼は倭迹迹日百襲姫命であり、卑弥呼の墓は箸墓古墳である」とした。


2 私見 「倭迹迹日百襲姫命=稚日女命=倭姫命」について


(1)倭迹迹日百襲姫命=稚日女命について


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 鳥取県伯耆町鬼の館の説明板には「孝霊天皇が鬼と戦っているとき、ある夜、天皇の枕元で天津神のお告げがありました。お告げに従って、笹の葉を山のように積み上げて待っていると、三日目の朝強い南風が吹きぬけていきました。あっという間に笹の葉は鬼の住処へと向かい、鬼の身にまとわりつき燃えだしました」とある。


  鳥取県伯耆町栃原の山田神社の祭神は孝霊天皇である。


 孝霊天皇と稚日女は鳥取県神社誌のなかで出雲国に接する日野郡と西伯郡に集中している(この時鳥取県は2市7郡であった)ので、倭国大乱の時代に一緒に出雲族と戦っていた。孝霊天皇と稚日女は同時代の人物である。この天津神は孝霊天皇の後ろにいた稚日女である。


 孝霊天皇の時代このようなお告げができる人物は誰だったのだろう。孝霊天皇の皇女の倭迹迹日百襲姫命は「神意を伺い・まじない・占い・知能の優れた女性であった」とされる。孝霊天皇の皇女の倭迹迹日百襲姫がお告げをしたと思われる。出雲王家の子孫の富氏の口伝に「出雲族は天孫族と戦っていた」とある(「謎の出雲帝国」より)ので、孝霊天皇の皇女の倭迹迹日百襲姫は孝霊天皇と一緒に出雲国と隣接する地域(日野郡と西伯郡)で出雲族と戦っていた。


 倭国大乱とは天孫族と出雲族の争いであり、この時代の天孫族は孝霊天皇一族であった(神武即位年を紀元前60年とすると、倭国大乱の時代は孝霊天皇になる)。倭迹迹日百襲姫が卑弥呼であったと解することによって魏志倭人伝にある「台与は卑弥呼の属していた宋女(王室の女)」という記述にも合致する。


 稚日女は孝霊天皇の皇女の倭迹迹日百襲姫(日女)であった。


(2)稚日女命=倭姫命について


 全国の稚日女命を祀る神社の由緒を見ていくと稚日女命は鳥羽市安楽島町の伊射波(いざわ)神社(志摩国一之宮)を終の棲家にしたことが判る。


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  伊射波(いざわ)神社(志摩国一之宮)には伊射波登美も祀られている。倭姫命は伊雑(いざわ)神社(志摩国一之宮)で天照大神を伊射波登美に祀らせた。どちらの姫も伊射波登美と関係しているので同時代の姫である。魏志倭人伝にある「ただ男子一人がいて、飲食を給し、辞を伝え、居所に出入する」とは伊射波登美であった。


 どちらの姫も海女からアワビの献上を受けている。纏向遺跡からアワビの殻がたくさん見つかった。どちらの姫も纏向遺跡の時代の姫であった。


 魏志倭人伝に「下女千人を自ら侍らせる」とある。下女千人は志摩国の海女であった。現在でも千人近くいる。志摩国の海女は倭姫の時代に始まっているから倭姫が連れてきた采女が志摩国の海女のルーツであった。


 どちらの姫も伊射波登美と関係しており、同じ志摩国の同じ一之宮の同じ読みの神社(いざわ)で同じくアワビを献上された姫は同一姫であったと考えるのはおかしくない。稚日女命と倭姫命はアワビの殻が多く見つかった纏向遺跡と同時代の姫であった。


 稚日女命は倭姫命であった。


(3)倭迹迹日百襲姫=倭姫命について


(1)より倭迹迹日百襲姫命=稚日女命、(2)より稚日女命=倭姫命だから倭迹迹日百襲姫=倭姫命となる。


 ちなみに、倭迹迹日百襲姫は讃岐国で水稲稲作のためにため池を造ることを始めた。倭姫命は志摩国で水稲の良い品種を発見し全国に普及させた。どちらの姫も水稲稲作の普及に尽力している。


3 国史では豊鍬入姫(台与)が先であり倭姫(卑弥呼)が後であることについて


(1)国史では豊鋤入姫は10代崇神天皇の皇女、倭姫は11代垂仁天皇の皇女とされるが、史実は倭姫は7代孝霊天皇の皇女であり、豊鋤入姫は8代孝元天皇の皇子の彦太忍信の娘の葛木志志見興利木田忍海部刀自(住吉大社神代記)であった。豊鋤入姫は魏志倭人伝の台与であり、神功皇后のモデルである。


 倭姫命世記は伊勢神宮の起源を表すものとされるが改ざん創作されている。また、古事記・日本書紀も倭姫命世記に合わせて改ざんされている。


 中国には倭国の歴史を改ざんする動機がない。魏志倭人伝は改ざんされておらず、国史のほうが改ざんされている。なぜ国史は豊鋤入姫を先にし倭姫を後にしたのであろうか。


 もし、倭姫命世記に豊鋤入姫の巡行がなかったらどうであろうか。宇陀は纏向遺跡から隠れたような場所にある。纏向から段々遠のいていく倭姫の巡行だけなら、纒向で祭祀をするのだが、安全な居所を探すための巡行だとわかって、全国から神道の代表者を集めて祭祀をしていたことが判ってしまう。藤原氏以前に全国を統一していた王朝があったことがわかってしまう。藤原氏はこれを消さなければならなかった。


(2)伊勢国・伊勢神宮は藤原氏が倭国を乗っ取る以前に全国を統一した女王卑弥呼のいた邪馬台国(志摩国)を封印するために創られた。伊勢神宮を創建したもっともらしい由来も必要であった。


 倭姫命世記は伊勢神宮の由来を表すものとしてつぎはぎして作られた。豊鋤入姫と倭姫の巡行はもともと違う巡行であり、目的も時代も違うものであった。それを継ぎ接ぎし、まだなかった伊勢神宮を書き加えて伊勢神宮に帰ったように書いた。 


 倭姫命世記に「伊勢神宮を礒宮(いそのみや)といふ」とあるが、画像を見れば伊雜宮こそ礒宮であった。伊雜宮に使われていた礒宮(いそのみや)を伊勢神宮に移し替えた。


 「丁巳冬甲子、天照太神を奉遷し、度会の五十鈴の河上に留る」からの記述は急ににぎやかになるので、にぎやかなのが好きな藤原氏による加筆が見られる。すでに伊勢神宮があったかのように思わせるためである。「戊午秋九月の千穂」からの記述は原文のままだが、「また明る年秋のころの八百穂」からの記述は八の好きな藤原氏によるのちの加筆である。伊勢神宮に帰ったと思わせるためである。倭姫命は伊勢国に引き返してはいない。この時代は倭姫命の創った磯部の伊雜宮しかなかった。倭姫命は志摩国(邪馬台国)の鳥羽市安楽島町の伊射波神社を終の棲家として稚日女命(倭迹迹日百襲姫命)に名を変えて生涯を終えた。


(3)倭姫命は纒向で祭祀をすることになり、倭姫命の安全な居所を探すため21国を巡行したが、豊鋤入姫は倭朝廷に深く関係する一族の卑弥呼が亡くなった失望による誅殺を鎮め安定させる巡行であったから倭国(鳥取県中部)とその周辺の3ヶ所を巡行するだけでよかった。別稿「倭姫命世記において豊鋤入姫の巡行した本当の比定地」を参照されたし。


 卑弥呼は全国・半島と21国を巡行した倭姫命であり、台与は6ヶ所だけを巡行した豊鋤入姫命であった。豊鋤入姫の時代は倭姫によって既に全国は統一されていた。


 藤原氏は整合性を考えてひとひねりした。それは、6か所を巡行して三輪神社に帰ってきた豊鋤入姫命を倭姫命より先にすることであった。欠史8代の皇女とすることは禁止されていたから、許されるぎりぎりの10代の皇女にした。そして、倭姫命を次代の姪(11代の皇女)に持ってきた。そうすれば、三輪神社で終わる豊鋤入姫命から、奈良の宇陀で始まる倭姫命がバトンタッチしたように整合性を謀れる。この作り話のために宇陀の近くに三輪神社がなければならなかった。そのために奈良の三輪神社(本当の三輪神社は鳥取県北栄町下神の三輪神社)は創られた。このことによって、藤原氏以前に全国を統一していた王朝があり、全国から神道の代表者を纒向に集めて祭祀をしていたことを消すことができる。


 「倭姫命世記」は「倭姫命が奈良の纒向で祭祀をするために安全な居所を探すための巡行」と「台与は倭朝廷に深く関係する一族の卑弥呼が亡くなった失望による誅殺を鎮め安定させる巡行」とを順序を入れ替えて創作した創作物語であった。倭姫命は21国を巡行しても元気なのに、豊鋤入姫命はわずか6国しか巡行していないのに疲れたとする。その点でもこのバトンタッチはおかしいことがわかる。


4 卑弥呼は倭国大乱の時期(146年~189年、霊帝が168年からだから少なくとも170年頃までは終結していない)に活躍して、のちに女王となったから170年頃には成人であった。したがって卑弥呼は150年頃には生まれていなければならない。私見では151年~248年の96歳の生涯であった。魚介類を食し、人に尊敬されていれば長生きできるようである。卑弥呼が生きていた時代は纏向遺跡の時代と重なる。倭姫命も纏向遺跡と同時代の姫である。倭姫命の巡行は纒向に祭祀場を創ってそこで祭祀をすることを前提とした安全な居所を探す巡行なので纒向遺跡の時代でも初期の時代の姫である。


 纒向1類の暦年代としては西暦180年から210年をあてている。纒向に祭祀場を造ることを前提として190年ごろに唐古・鍵集落などの環濠を埋めさせた。纒向編年では270年から290年に百済・馬韓ではなく古式新羅加耶土器(慶尚南北道、新羅・加耶地域のもの)が出土している。豊鋤入姫(神功皇后)の時代である。神功皇后は三韓征伐をしたとされるが、倭朝廷は新羅と兄弟国であった証拠である。


 倭姫命と倭迹迹日百襲姫命はどちらも卑弥呼であり同一人物であった。内藤湖南の「倭姫命説」と笠井新也の「倭迹迹日百襲姫命説」はどちらも正しかった。混乱の原因は、倭国の元(原本)を書き換え、倭姫命と豊鋤入姫命の順番を入れ替えた藤原氏であった。


5 参 考(鳥取県神社誌に見る倭国大乱に関係すると思われる祭神)


西伯郡・日野郡(当時、鳥取県は2市7郡)はどちらも出雲国と接している。


〇 大日本根子彦太瓊命(孝霊天皇)


〈鳥取県東部〉


 久多美神社 現住所 鳥取市河原町谷一木947


 都波只知(つばいち)上神社 現住所 鳥取県鳥取市河原町佐貫511 


〈鳥取県西部〉


 高杉神社 西伯郡大山町大字宮内字早稲ノ上


     現住所 西伯郡大山町宮内


 楽楽福神社 西伯郡東長田村大字中


      現住所 西伯郡南部町中(篠相)


 楽楽福神社 西伯郡尚徳村大字上安曇字宮ノ谷


      現住所 米子市上安曇


 山田神社 日野郡日光村大字杼原字村屋敷


      現住所 日野郡江府町杼原


 楽楽福神社 日野郡溝口町大字宮原字宮ノ上


      現住所 西伯郡伯耆町宮原


 楽々福神社 日野郡日野上村大字宮内字東宮ノ廻り


 楽々福神社 日野郡日野上村大字宮内字西馬場ノ筋 


 菅福神社 日野郡黒坂村大字上菅字宮本


 日谷神社 日野郡山上村大字笠木字足羽


 佐々布久神社 現住所 安来市広瀬町石原


〇 倭建命


〈鳥取県東部〉


 武王(倭武王)大明神と称していた神社


 古市神社(武王大明神)  現住所  鳥取市古市657


 安富神社(武王大明神)  現住所  鳥取市天神町


 神護神社(武王大明神)  現住所  鳥取市国府町神護675


 面影神社(武王大明神)  現住所  鳥取市正蓮寺192


 禰宜谷神社(武王大明神)  現住所  鳥取市祢宜谷227


 細川神社(武王大明神)  現住所  鳥取市福部町細川350


 恩志呂神社(武王大明神)  現住所  岩美郡岩美町恩志95


 杉森神社(武王大明神)  現住所  鳥取市下砂見530番


 宮小谷神社(武王大明神)  現住所  鳥取市用瀬町赤波2441


〈鳥取県中部〉


 今泉神社 鎮座地 東伯郡旭村大字今泉字上ノ山


  祭神 日本武尊


 中田神社 鎮座地 東伯郡安田村大字尾張字家の上


  祭神 日本武尊


〈鳥取県西部〉


 阪本神社  鎮座地 米子市長田字長砂


  祭神 日本武尊


 宗形神社  鎮座地 西伯郡成実村宗像


  祭神 日本武尊


 熱田神社  鎮座地 西伯郡幡郷村大字大殿字矢口


  祭神 日本武尊


 一ノ具神社  鎮座地 日野郡二部村福岡字鑪ヶ谷


  祭神 日本武尊 


 菅福神社  鎮座地 日野郡黒坂村大字上菅字宮本


  祭神 稚武彦


 菅沢神社  鎮座地 日野郡大宮村大字菅沢字秋原


  祭神 稚武彦


 湯谷神社  鎮座地 日野郡多里村大字湯河字岩田


  祭神 倭武命


 楽々福神社  鎮座地 日野郡日野上村大字宮内字東宮


  祭神 若建日子吉備津日子


 楽々福神社  鎮座地 日野郡日野上村大字宮内字西馬場ノ筋


  境内神社 祭神 稚武彦


〇 伊福部氏系図第十四代  武牟口命


虫井神社  現住所  鳥取県八頭郡智頭町大呂967


多加牟久神社  現住所  鳥取市河原町本鹿387


〇 稚日女命


〈鳥取県東部〉


  折井神社    岩美郡成器村大字新井字宮の谷


〈鳥取県西部〉


 平岡神社 西伯郡淀江町大字平岡字向山


     現住所 米子市淀江町平岡


 富岡神社 西伯郡高麗村大字妻木字山根


     現住所 西伯郡大山町妻木


 前田神社 西伯郡庄内村大字古御堂字於局


     現住所 西伯郡大山町古御堂


 古林神社 西伯郡名和村大字加茂字以屋谷


     現住所 西伯郡大山町加茂


 前田神社 西伯郡法勝寺村大字西字宮ノ前


     現住所 西伯郡南部町西


 岩崎神社 日野郡多里村大字湯河字宮ノ前


     現住所 日野郡日南町多里


 吉原神社 日野郡日光村大字吉原字牛王ガ市


     現住所 日野郡江府町吉原


 大原神社 日野郡八郷村大字大原字貝市


     現住所 西伯郡伯耆町大原


 安屋咩神社  安来市赤江町400 


〇(神)倭姫(比女)命


〈鳥取県西部〉


 天萬神社 西伯郡手間村大字天萬字下宮尾


     現住所 西伯郡南部町天萬


 高野女神社 西伯郡賀野村大字高姫字高ノ女


     現住所 西伯郡南部町高姫


 蚊屋島神社 西伯郡日吉津村大字日吉津字南屋敷


     現住所 西伯郡日吉津村日吉津


 


 


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記紀の高天原は蒜山高原であった。 [徐福、天照大神]

1 高天原について

 「古事記」においては、その冒頭に「天地(あめつち)のはじめ」に神々の生まれ出る場所として高天原が登場する。次々に神々が生まれ、国産みの二柱の神が矛を下ろして島を作るくだりがあるから、海の上の雲の中に存在したことが想定されていた。天照大神が生まれたとき、伊邪那岐は高天原を治めるよう命じた。

 高天原には「多くの神々(天津神)が住み、天安河原(鳥取県江府町下蚊屋明神)や天岩戸、水田、機織の場などもあった」ことが記述されている。

  葦原中国が天津神によって平定され、邇邇芸命が天降って(天孫降臨)から、天孫の子孫である天皇が葦原中国を治めることになったとする。

2 高天原の各説(地名を根拠にするものは削除しました。)

(1)天上説(本居宣長)

 戦前は皇国史観(天皇を神とする)と結びついてこの考え方が主流であった。※私見:天照大神は実在した人間なので地上にあった。

(2)滋賀県米原市伊吹山山麓

 「平家物語」に、「天照大神が草薙剣を高天原から伊吹山に落とした」とある。※私見:平家物語は信用できるか

(3)阿蘇・蘇陽 - 熊本県山都町

 「日の宮・幣立神宮」は高天原神話の発祥の神宮である、とする。御神体は豊国文字と阿比留文字が彫られた石板であり、「アソヒノオオカミ」と「日文」が表裏に刻まれている。ちなみに「幣立」とはヒモロギを意味し、太古 天の神が御降臨になった聖なる地とされている。※私見:天の神が高天原から降臨した地は高天原ではない。

(4)鳥取県八頭郡八頭町霊石山・伊勢ヶ平

  天照大神が八上の霊石山(八頭町)伊勢ヶ平にしばらく行宮した後、帰る際に通った道の途中の地点にある。伊勢ヶ平は高天原という名前ではないものの、暫定的にせよ、中央の政治機関があった所とみなしうる。ここには天照大神が行宮の際、白兎に道案内されたという伝承がある。※私見:田があった高天原とするには狭すぎる。

(5)大韓民国慶尚北道高霊郡

 当初その比定地とされたのは、素戔鳴尊が立ち寄ったという江原道春川市であった。春川に代わって名乗りをあげたのが高霊郡であった。加耶大学校の李慶煕総長がこの説の主唱者。※私見:天孫降臨につながらない。

(6)九州邪馬台国説

  筑後川流域山本郡や御井郡、山門郡、夜須郡など、邪馬台国の候補地のいずれかが高天原とする説。※私見:天孫降臨につながらない。

(7)岡山県真庭市蒜山(ひるぜん)

  茅部神社の山を登ったところ。天岩戸、真名井の滝、天の浮橋等がある。※私見:これは蒜山説ではない。蒜山説は高天原は蒜山高原全体とする。

3 蒜山高原を高天原とする根拠(私見)

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(1) 高天原の主役は天照大神である。長田神社と加茂神社と福田神社と茅部神社と徳山神社は天照大神を祭神とする。 蒜山高原の5神社のすべて(100%)に天照大神が祀られている。

(2) 邇邇芸命は高天原から降った。(古事記)

 長田神社と加茂神社は邇邇芸命を祭神とする。これでわかったことは、4歳の邇邇芸は旭川下流の岡山県内で生まれ、鏡ヶ成ではなく犬挟峠を越えて矢送神社に降臨したこと。猿田彦が待っていた鏡ヶ成から降ったのは邇邇芸ではなく饒速日だったということがわかった。そのあとも繋がっていく。

 続きは別稿「天孫降臨は2回行われた。最初は饒速日・天照大神・月読命ほか大勢であった」を参照されたし。

(3) 神倭磐余彦も高天原から降った。(古事記)

 古事記には「ここに饒速日(ウマシマジ)が陣中に参上して、天神の御子に次ぎのように言った。『天神の御子が、高天原からお降りになっておいでになると聞きましたので、私もあとを追って降ってまいりました』」とある。

 加茂神社と福田神社は神倭磐余彦を祭神とする。これでわかったことは、神倭磐余彦は福田神社まで行っているので、鏡ヶ成から降ったということである。犬挟峠から降れば道に迷うことはないが、鏡ヶ成から降ったので道に迷った。出雲族に気付かれないようにするために鏡ヶ成から降らなければならなかった。降った穿邑は倉吉市上大立であり、そのあとも繋がっていく。

 続きは別稿「神武天皇は山を穿って道をつけ、ゲリラ戦を展開していた」を参照されたし。

 鳥取県江府町も高天原であった。

4 蒜山高原の夜明け

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右下は高速米子道

 高天原の比定地は全国に17あるという。高天原やそれに近い地名のあるところは高天原ではない。本当の高天原に「高天原」の地名がついていたらとっくに藤原氏が消している。本当の高天原はそれらしい名前の付いていないところである。

 高天原の主役は天照大神である。天照大神に焦点をあてなければならない。高天原は5神社すべてに天照大神を祀る蒜山高原である。

 蒜山周辺には旧石器時代・縄文時代の遺跡が発掘されており、天照大神以前の神々もいたはずである。高天原であるためには、三貴神以前の神々がいなければならないのであり、その点蒜山高原はこの条件を満たしている。

 邇邇芸は高天原から降臨した(古事記・日本書紀)。神武天皇も高天原から降った(古事記)。蒜山高原には邇邇芸が長田神社と加茂神社、神武天皇が加茂神社と福田神社に祀られている。神社の位置関係より、邇邇芸は犬挟峠から降臨し、神武天皇は鏡ヶ成から降臨したことがわかる。

 全国の17ヶ所の高天原候補地の中でその形跡がぴたりと残る候補地は蒜山高原だけである。邇邇芸も神武天皇も蒜山高原を通過したのであり、高天原は蒜山高原(但し、鳥取県江府町も含む)であった。邇邇芸も神武天皇も蒜山高原(高天原)から鳥取県中部(倭国)に降臨した。

5 蒜山高原に水田は多い。 

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 高天原には水田があったとされるが、蒜山高原には水田が多くみられる。蒜山高原は水田稲作も多くみられるので、水田稲作ができないから高天原を去り葦原中津国に降ったという理由には疑問がある。葦原中津国(鳥取県中部)に降臨したのは他に理由があった。

 紀元前210年の徐福一行は人口を増やしたかった大神(伊邪那岐)と葦原中津国(鳥取県中部)で再会し「連れてきた少年少女を水稲稲作の出来るここ(葦原中津国)に住まわすよう」指示されていた。徐福一行が蒜山高原を中心にして周辺の山々から仙薬を探している間に、徐福一行に遅れること16年後の紀元前194年に殷王朝末裔の準王一族(八十神)が葦原中津国を占拠して騒がしかった。遣わされた天忍穂耳も葦原中津国が騒がしいと言って帰ってきた。徐福一行は大神(伊邪那岐)との約束の地(広沢=水稲稲作の適地)を取られまいとして蒜山高原・鳥取県西部から鳥取県中部に降臨した。

 根国での冒険のあと大国主は葦原中津国に住んでいた準王一族(八十神)を蹴散らして従わせていた。徐福は準王一族(八十神)の動向を探るために天穂日をその本拠地(熊野大社)に行かせた。紀元前185年頃に饒速日と徐福たちの大勢(第一次)は江府町下蚊屋→鏡ヶ成→野添→神田神社に降臨した。徐福は神田神社から琴浦町の斎王集落(伊勢)に降臨して平原(方見郷)と広沢(葦原中津国)を得て自ら天照大神と名乗った。鳥取県江府町にいた饒速日は神田神社から日吉神社に行き、船で小鴨川を下って河内国の河上の哮峰(倉吉市八幡神社のある峰)に降臨した。徐福(天照大神)一行にとって仙薬も大事だが連れてきた少年少女を育てるために、水田稲作に適した葦原中津国も重要であった。


 


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天照大神は男性である。 [徐福、天照大神]

 天照大神は女性か


1 天照大神の性別に関しては、古事記は一切触れていないが、日本書紀では 一ヶ所、素戔嗚神が天照大神に「如不與姉相見」(お姉さんと会いたいと思って)とあることから、女性とする見方が優勢である。日本書紀の冒頭は陰陽二元論で始まり、イザナギ・イザナミ二神による国生みや神々の生成もこれに従っており、国中の柱(天之御柱)を回る場面では、イザナギを陽神(をかみ)、イザナミを陰神(めかみ)と呼んでいる。日本書紀においては、男は陽で、女は陰であり、陽は太陽で、陰は月であるから、天照大神は太陽神であり、本来男でなければならず、月読尊は陰神であり、本来女でなければならない。女神や人間の女が太陽の光を受けて受胎する話が多いが、このことは太陽が男であること意味している。


2 ある方の疑問

 近くの寺に天照大神の像があるのですが、男の姿をしています。作られたのは江戸時代と言いますし、その寺には天皇の墓や国宝もあるので嘘とも思えないのですが・・・。

(1)伊勢神宮の内宮の本殿真下にあるという高さ1mほどの「心の御柱」(天の御柱)は祭神が男神であることを示すものとされる。この社殿を造るときには、最初に御柱を立て、夜半に土地の娘達により篝火(かがりび)を焚いて秘密神儀を行うといわれる。これは、天の御柱を「男根」と考え、その周りを女が踊り回ることが想像される。すなわち、天照大神に「妻」を捧げる神儀とも考えられる。

(2) 神宮へ奉納する御衣(みころも)は男性用

平安時代、すでに大江匡房(まさふさ)は「江家(ごうけ)次第」で伊勢神宮に奉納する天照大神のご装束一式が男性用の衣装である事に言及しており、江戸時代の伊勢外宮の神官渡会延経(わたらいのぶつね)は「之ヲ見レバ、天照大神ハ実ハ男神ノコト明ラカナリ」と記している。(「内宮男体考証」「国学弁疑」)。

 (3)京都祇園祭の岩戸山の御神体は伊邪那岐・手力男命・天照大神であるが、いずれも男性のお姿である。天照大神の像は「眉目秀麗の美男子で白蜀江花菱綾織袴(はかま)で浅沓(くつ)を穿く。直径十二センチ程の円鏡を頸(くび)にかけ笏を持つ。」と岩戸山町では伝えられるとおりの伝統を守っている。写真中央が天照大神。「道教と鏡・剣」という本があるくらい道教と鏡は深い関係がある。天照大神は道教の方士であった。

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(4)江戸時代、円空は男神として天照大神の塑像を制作している。菊池展明著の「円空と瀬織津姫」によると円空が彫った仏像は瀬織津姫を中心としている。
 江戸時代に流行した鯰(なまず)絵には天照大神が男神として描かれているものがある。
(5)天岩屋戸で裸体に近いアメノウズメの踊りを覗くのは、ふつうに考えれば男神の欲情である。天照大神が天岩戸から顔を出したのはアメノウズメの裸踊りであるが、女が女の裸体に興味示すだろうか。男だから覗いたんじゃないだろうか。まわりの者は天照大神が男性だとわかっていたのでアメノウズメに裸踊りをさせた。
(6)天照大神の別名の大日孁貴神、大日女尊、大日女は神社庁による創作である。
 もともと卑弥呼は日女命であるが、神社では日女命に稚を付けて稚日女尊とし、さらに稚日女尊を若日孁尊とも書き換えている。若日孁尊に対応して大日孁貴神が創作された。
 神戸の生田神社では「稚日女尊は『若々しい日の女神』の意味で、天照皇大神ご自身であるとも、妹あるいは御子であるともされる。生田神社では、天照皇大神のご幼名」とする。また鳥羽の伊射波神社では「稚日女尊は天照大神の妹君、分身とも云われる」とする。
 若日孁尊は天照大神のご幼名あるいは分身であるとして、天照大神の別名を大日孁貴神、大日女尊、大日女とし女性のごとく書き表す神社もある。
 「稚日女尊は天照大神のご幼名あるいは分身である」とするのは一部の神社だけであり、そのことを記する文献はない。これも明治維新以降の神社庁ネットワークによる創作である。
(7)わが国の天孫族の上古祖系については、「斎部(いんべ)宿祢本系帳」などに見られるが、その重要な系図の天照大神にあたる位置の者には「天底立(あまのそこたち)命」と記されており、すべて男系でつながる系譜となっている。日本の古代氏族について、「姓氏録」など各種の系譜資料からみても、女性を始祖として掲げる氏は皆無である。
(8)「天照大神は男性」と記した古書は多数ある。
 明治以前にはアマテラスはさまざまな姿で描かれていた。たとえば「源平盛衰記」では衣冠束帯に身をかためた貴人の男性として出てくるし、室町時代の三十番神図には烏帽子をかぶった狩衣姿で笏をもっている。中世の「日本書紀」注釈書である「中世日本紀」でもたいていは男性神として描かれる。
(9)地上で乱暴狼藉を働いていた素盞鳴尊が高天原を訪ねてきたとき、彼は「高天原の支配権を奪いにきたのでは」と警戒してすぐさま武装した。 まず髪を角髪(みずら)という男性のものに結い直し、手や髪それぞれに五百もの勾玉を糸に通した飾りを巻き、 さらに千本の矢が入る靭(ゆぎ)を背負い、五百本の矢が入る靭を腹に抱え、大変な強弓(ごうきゅう)を手にした。 そのように武装すると、四股を踏むように両足を大地にめり込ませ、素盞鳴尊を威嚇した。
「戦う時は女も男の格好をするのが古代の風習」であったとは聞いたことがない。
(10)天照大神の原型は「男神」であったと考えられる。江戸時代には荻生徂徠・山片蟠桃(やまがたばんちょう)が天照大神男神説を唱え、津田左右吉博士や最近でも松前健氏、楠戸(くすど)義昭氏などに男神説が見られる。
(11)天照大神は男神であり、瀬織津姫は天照大神の妃(正室)であった(ホツマツタエ)。
 外宮の渡会氏の書(鎌倉時代)によれば「荒祭宮は、瀬織津姫を祀る」とする。神道五部書は天照大神荒御魂の別名は瀬織津姫とする。
 伊勢神宮では荒祭宮は正宮と同格として位置づけられている。荒祭宮では皇大神宮に準じた祭事が行なわれ、神饌の種類や数量は正宮とほぼ同等である。祈年祭、月次祭、神嘗祭、新嘗祭の諸祭には皇室からの幣帛(へいはく)があり、皇室の勅使は正宮に続き、内宮別宮のうち荒祭宮のみに参行する。
 記紀成立以前、男神天照大神と並祭されていた瀬織津姫を宮中祭祀から分離・抹消したのは持統だとされる。
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3 私見

 以前、「荒ぶる神たち」「まつろわぬ者たち」を倭姫命(卑弥呼)が平定するのに天照大神が男神でなければ効果がない、ことを根拠に男神であるとした。徐福は道教の方士であり、同じく道教(鬼道)を信奉していた卑弥呼のルーツである。徐福は不老長生を追い求めてきたが、卑弥呼は長生を実践し、アワビなどの海産物を食し、96歳くらいは生きていた。

 九世紀に藤原氏は始皇帝の子孫だという主張をしている。藤原氏は始皇帝と徐福の関係は知っていて、天照大神(徐福)一族よりもえらいぞと言いたかったのである。

 藤原氏は、天照大神が日本人ではないことも知っていた。歴代の天皇が伊勢神宮に参拝しなかった理由もこれでわかる。天皇家の始祖が徐福と分かれば、藤原王朝の主張する万世一系が成り立たなくなるから、天照大神が徐福であることを消そうとした。

 明治以降なぜ天照大神は女性とされたのであろうか。明治維新の王政復興で皇室の始祖は天照大神であったから、天照大神が中国人の徐福だったことは消さなければならなかった。消す方法(ウガヤフキアエズ朝が72代続いたとか、神武天皇即位年が紀元前660年としたり、高天原は雲の上にあり天照大神は雲の上から降りてきたとしたり)の一つとして、天照大神は女性であった、とした。天照大神は江戸時代まで男性であった。

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徐福と天照大神の来倭コースは重なる [徐福、天照大神]

 徐福と天照大神の来倭コースは重なる


1 徐福の来倭コース

(1) 中国側の歴史書ー司馬遷の史記(紀元前91年完成)よりー

 徐福の渡来地は全国に30数ヶ所も伝えられている。これは徐福の部下が到着したところである。

〇 史記(司馬遷)秦始皇本紀第六には「斉人、徐市等は上書し、『海中に蓬莱、方丈、瀛(えい)洲という名の三神山があり、仙人がここに居ます。(始皇帝の)斎戒と子供の男女を得て、これを求めさせていただきたい』と言った。ここに於いて徐市を派遣し、子供の男女数千人を出発させ、海に入り仙人を求めた」とある。

 「海中」とは海の対岸のことである。東海の三神山(蓬莱、方丈、瀛洲)とは日本海沿岸にある大山、烏ヶ山、蒜山のことであった。

 第1次でも徐福自身は大山(蓬莱山)の北西の米子市陰田町に到着し、大神(伊邪那岐)には会っている。その時に、「光が天を照らす」のを見た。大神(伊邪那岐)に会って、「多くの少年少女を連れて来れば不老長寿の仙薬をやってもよい」と言われた。

〇 史記(司馬遷)淮南衡山(わいなんこうざん)列伝第五十八には「(始皇帝は)徐福に船出して神仙を求めさせた。徐福は戻った。「私は海中の大神に会い、『そなたは西皇の使者か』と言うので、私が『そうです』と答えると、『そなたは何を求めているのか』。私は答えていった。『不老長寿の薬をいただきたいと存じます』。すると神は『そなたの秦王の礼は丁重でない故、見ることはできても手に入れることはできぬ』。そこで私を従えて東南の蓬莱山に行き、そこで霊芝でできた宮殿や、銅の色で龍の形をした使者がいて、光が天を照らしているのを見ました。そこで私は再び拝礼して尋ねました。『どのようなものを献上すればよろしいのでしょうか』すると海神(海中の大神)は『名声ある男子と童女とさまざまな分野の技術者を献上せよ。そうすれば望みの物が得られよう』といわれました」と偽りの報告した。秦の始皇帝は喜び、良家の童男童女三千人と五穀(中国の五穀は麻・黍・稷・麦・豆)の種子とさまざまな分野の技術者を徐福に託して旅立たせた。徐福は、「平原広沢」を手に入れ、そこに留まって王となり、帰らなかった」とある。

 第2次(紀元前210年)の徐福一行は確実に伯耆国に渡るため、秦韓(辰韓)にしばらく留まり、リマン海流と対馬海流を利用して東海(日本海)を渡り、次々と伯耆国に到着した。

 福付き地名の土地は徐福一行が到着して住んだ集落である。鳥取県中西部に福付き地名が多い(41ヶ所)ということは、「秦韓(辰韓)から次々に伯州(伯耆国)に結集した」とする中国の王輯五の説にも符合する。

(2) 日本側の歴史書ー宮下文書(徐福文書)よりー

 宮下文書(徐福文書)は偽書とされているが、改ざんされていない部分も残っている。これを改ざんした一族は、原本をもとに改ざんする一族であり、古事記・日本書紀の改ざんも基本となる原本をもとに改ざんしている。天照大神が中国人だったという事実は決して明るみに出すことはできないとして今でも女性であるとしたり、ウガヤフキアエズ朝なるものが72代も続いたので徐福とは時代が違うとしたり、国(今でも藤原政府であり藤原の神社庁その他多くの藤原の組織)を挙げて様々な方法で消そうとしている。宮下文書(徐福文書)では、徐福がたどり着いた高天原は富士山の麓であり鳥取県の大山(伯耆富士)・岡山県真庭市の蒜山高原ではないと思わせるように改ざんしている。

〇 宮下文書(徐福文書)には「東海の蓬莱山を目指して出航した徐福船団は、東の水平線上に秀麗な山様を認め、これこそ蓬莱山であると全員で遥拝した。しかし、やがてその姿を見失い、海上をさまよったが、陸地と大きな山があったので、その裾野の小さな湾に船を着けて上陸した。しかし、近づいてみると、船上で遥拝した霊山とは違い、一行が上陸したのは木日国(紀伊国)木立野の大山であった。

 徐福が、熊野那智山を眺めていると、白衣の老翁が姿を現して、那智山は不二(富士)山ではなく、不二蓬莱山は、東方にあると告げた。一行は三年間を費やし探索してついに富士山を発見した。一行は航海十余日で、住留家の宇記島原に上陸し、松岡宿から水久保宿を越え、富士山麓の阿祖谷家基津に到着した。

 この一帯は、高天原と呼ばれて、日本最初の首都の跡だった。徐福は一族とともにこの地に止まり、一行全員を大室、中室、小室に分散居住させて、専門分野ごとに、開墾、農作、製紙、機織り、養蚕などを行わせたという。徐福の子孫は、その後も当地に止まって、福のつく苗字を残した」とある。 

(※ 太字は改ざん挿入された部分)

(3) 徐福文書(宮下文書)にある「大山」とは木日国(紀伊国)木立野(和歌山市冬野)の大山ではなく、伯耆国の大山(ダイセン)であった。伯耆国の大山は西から見ると秀麗な山様である(伯耆富士)が、東に進むにつれてその姿がなくなる(大山北壁)。

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 「その裾野の小さな湾」のあったところから見た大山。秀麗な山様は失われている。
 中海の船上から秀麗な山様が見えるので徐福は宍道湖→中海を通ってきた。
 米子市陰田町に到着して大神の使いが「大神はもっと東で待っている」と言われ、大山を見ながら海を東に進み大山の裾野の小さな湾(鳥取県北栄町)に上陸した。徐福たちは徐福文書にある「宇記島・原」(北栄町の大島と原)に上陸した。
 どちらも「上陸した」と書かれているが、「宇記島原」は「その裾野の小さな湾」の中にあった。

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 「その裾野の小さな湾」とは大山の東の裾野にあった北栄町の葦原中津である。海抜4mに海面があった地形を見ると、小さな湾(葦原中津)の前に笠沙之御前(北条砂丘)が現れる。

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 小さな湾を拡大するとこのようになる。北栄町大島の宮崎神社の由緒には倭建命が「こは浮洲(うきしま)か」といわれたとあり、近くに原集落もある。徐福は「宇記島(うきしま)・原」に上陸した。

 徐福は大山の裾野の小さな湾(葦原中津国)の宇記島・原に上陸した。

 「徐福は一族とともに高天原に止まった」と徐福文書(宮下文書)にある。高天原は蒜山高原(別稿を参照されたし)なので、徐福は鳥取県北栄町の原と大島に上陸し、一族とともに蒜山高原に上がりそこに止まった。


2 天照大神の来倭コース

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 天照大神と素戔嗚は辰韓から船で出雲の日御碕神社に到着した。出雲の日御碕神社から現在の出雲平野に入ってきた。斐伊川も度重なる洪水による土砂の堆積で河口が高くなっているが内海はもっと広かったはずである。

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 出雲と鳥取県西部にある5ヶ所の日御碕神社(出雲、米子市陰田町、境港市渡町、境港市小篠津、大山町御崎)は海面が海抜4mにあった地形では海岸のすぐそばになるため、天照大神と素戔嗚の寄港地であったと解される。一番東の大山町御崎の日御碕神社を出港した天照大神は次はどこに到着したのだろうか。

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 古事記には「左の目を洗ったところ、天照大神という名の神が生まれた。次に右の目を洗ったところ、月読命という神が生まれた。次に鼻を洗ったところ、建速須佐之男命という神が生まれた」とある。「生まれた」とあるが「出会った」である。三貴神は伊邪那岐が禊をしているところに到着した。そこは鳥取県北栄町の原であった。

 別稿「伊邪那岐が禊をした「竺紫日向之橘小門之阿波岐原」は鳥取県北栄町の原であった」を参照されたし。北栄町の原より東に伊邪那岐が禊をしたところは確認できない。

 伊邪那岐は三貴神と一緒に船で北栄町大島に行った。北栄町大島の宮崎神社の主祭神は伊邪那岐と伊邪那美である。伊邪那岐と伊邪那美はここを拠点として葦原中津国の国造りをしていた。

 倭国大乱の時代、孝元天皇と開化天皇(倭建命)は北栄町大島で伊邪那岐と伊邪那美を奉斎している。

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 天照大神や素戔嗚は伊邪那岐が禊をしていた北栄町の原に到着した。そして伊邪那岐と一緒に船で大島に行った。伊邪那岐は大島で三貴神が治めるべき国を示した。また連れてきた一族をここで育てるよう命じた。天照大神は高天原(蒜山高原)を治めるように言われ、倉吉市の灘手神社にしばらくおり高天原(蒜山高原)に上がった。素戔嗚は海原(母の国)を治めるように言われたが、倉吉市谷の朝日神社に行き、そこでしばらく泣いた。

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 鳥取県の霊石山や氷ノ山も天照大神の伝承のあることから高天原の候補地になっているが、水田があった高天原にしては狭すぎる。天照大神は天照大神の痕跡の多く残る蒜山(蒜山高原の5神社すべての祭神になっている)に上がった。
 殷王朝末裔の箕氏朝鮮の準王一族(因幡の白兎伝説における大国主の兄の八十神)は徐福たちに16年遅れて出雲国、伯耆国、因幡国に到着した。琴浦町の方見郷(平原)・北栄町の葦原中津国(広沢)にも住んだ。葦原中津国が騒がしくなった。
 天の安河の河原に思兼神や八百万の神が集まり、大国主を生まれた時から守っていた鳥取県八頭郡にいた天穂日を大国主のもとに行かせることにした。「天の安河の河原」は蒜山高原の西隣の鳥取県江府町下蚊屋明神の地である。思兼神は江府町貝田神社から来た。天照大神など八百万神は蒜山高原の徳山神社から来た。
 天穂日は伯耆町の神社、思兼神は大山の西麓の神社に多く祀られている。思兼神も天穂日も辰韓から船で東海(日本海)を渡り、上陸したのは米子市陰田町であった。
〇 徐福も天照大神も島根県の宍道湖→中海を通り、鳥取県北栄町の原と大島に上陸し岡山県真庭市の蒜山高原(高天原)に上がった。徐福と天照大神の来倭コースは重なる。このことからも徐福と天照大神は同一人物であることがわかる。


3 参考

 福付き苗字と福付き地名

 「徐福は、まさに日本へ旅立とうとする時、親族を集めてこう言い聞かせた。『私は皇帝の命によって薬探しに旅立つが、もし成功しなければ秦は必ず報復するだろう。必ずや徐姓は断絶の憂き目にあうだろう。われわれが旅だった後には、もう徐姓は名乗ってはならない』それ以来、徐姓を名乗る者は全く絶えた。」以降、徐福の仲間だということを知らせるために福のつく苗字と福のつく地名を付けた。

 日本海側の福付き地名(ヤフー地図より)

(1)鳥取県 

※ 伯耆国には福つき地名が41か所ある。

米子市 1福万 2福市 3福原 4上福原 5福井 6福岡 7福頼

南部町 8福里 9福成 10福頼

日南町 11神福 12福寿実 13福塚 14福万来

日野町 15福長

伯耆町 16福永 17福居 18福岡 19福岡原 20福兼 21福島 22福吉

大山町 23福尾

境港市 24福定町

倉吉市 1上福田 2下福田 3福原 4福守 5福積 6福富 7福庭 8福光 9福本 10福山 11福吉

琴浦町 12福永

三朝町 13福田 14福本 15福山 16福吉

湯梨浜町 17北福

※ 因幡国には福つき地名が7か所ある。

智頭町 1福原

佐治町 2福園

鳥取市 3福井

八頭町 4隼福 5福井 6福地 7福本

(2)兵庫県 

 日本海側に福の字の付く地名はない。

(3)京都府 

 福知山の福を除いて、日本海側に福の字の付く地名はない。




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