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千三百年の間、藤原氏に消されてきた伯耆国(鳥取県中西部)の真実の歴史が、今よみがえる。

鳥取県湯梨浜町の出雲山に行ってきました [大国主命]

1 出雲山について


7下照姫の伝承-2 (3).jpg


 鳥取県琴浦町八橋の地名由来(高姫の伝承)は倭国の笠縫邑を消すために創作されていた。湯梨浜町宮内の下照姫(高姫)の伝承も何かを消すために創作されたのではないか、と推測される。下照姫(高姫)は天若日子と倉吉市寺谷で一緒に暮らしていた。蒜山(高天原)出身の天若日子が亡くなったら、少しでも旦那の出身地に近いところに住むはずであり、湯梨浜町より蒜山(高天原)に近い倉吉市志津の倭文神社に住んだ。湯梨浜町宮内の神社は元は倭文神社ではなかった。


 宮内という地名は孝霊天皇が住んでいたから付けられた地名である。また弥生時代後期の国内最長の鉄刀も宮内から出土している。湯梨浜町宮内の倭文神社が孝霊天皇(在位147年~172年)の皇居の黒田庵戸宮であった。 出雲山の由来伝承は倭文神社に孝霊天皇一族がいたことを消すために藤原氏が創作した伝承であった。


2 石山について


IMG_20210415_105515.jpg


2019年頃に設置された案内板。


 確かな記録によると天神川の造成の跡として「古くから天神川は度々の氾濫で河道の位置を大きく変えていた。この河道が、現在のように直接日本海に流入するようになったのは、元文年間(1736-40)の河口開削工事によるもので、『天神川変遷略図』によると掘割を東村勘右衛門が設計し、米村所平が施工したとされています。これは天神山から東方の長瀬へ続く通称『石山さん』と呼ばれる安山岩の岩を撤去して今日の流路を作った」とある。


※ 私見


 江北浜集落の天神山から出ていた安山岩の岩の「石山」の読みはどう読んでいたのだろうか。江北浜集落には(いそえ)姓が多いのでこの辺りは(いそ)であった。石山の読みは「いそのやま」であった。


 河口開削工事は元文年間(1736-40)に行われているので、京都の藤原氏の証拠隠滅である。徳川光圀は大日本史で「石山が石上の地名由来であり、石山がタギシの柄である」と指摘していた。


 最近造られた案内板(2019年頃)には「石山」とは書かず、「岩山」(倉吉ロータリークラブ)「天神山」(北栄町教育委員会)と書かれている。以前は「石山」と書かれておりキワードになることを知ってわざと別の字を使っている。


3 教育委員会について


 福岡県教育委員会は各高校に部活として歴史研究会をつくることを推奨している。だから福岡県では歴史研究が盛んになる。鳥取県教育委員会に福岡県のように歴史研究会を各高校に置いたらどうかと進言してみると良い。「とんでもないことを言う」とはねつけられるのが落ちである。ただでさえ、真実の歴史を封印しようと頑張っている鳥取県教育委員会である。福岡県教育委員会とは真逆である。


 このように鳥取県の市町村の教育委員会は藤原氏の流れにある。ましてや、鳥取県教育委員会は藤原精神(歴史も強奪する)に支配されている。初代鳥取県知事は山田氏(藤原氏の系統)で教育に力を入れていたという。どういう教育かというと、考古学的新発見には蓋をし、この県には何もないと信じ込ませる教育であった。この地では京都の藤原氏 (今は東京の藤原氏)の証拠隠滅の精神が今でも支配している。


 


 


 


 


 


 


 


 


 


 


 


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