千三百年の間、藤原氏に消されてきた伯耆国(鳥取県中西部)の真実の歴史が、今よみがえる。
孝霊天皇一族について [倭国大乱の原因]
青谷上寺地遺跡は倭国大乱そのものであった [倭国大乱の原因]
倭国は、卑弥呼たちが弥生後期に全国と半島を統一するまで小国であり、鳥取県中部であった [倭国大乱の原因]
次に墓壙内出土の鏃について検討する。すでに述べたとおり、青谷上寺地では銅鏃およびその可能性のあるものが嵌入した人骨が4例あり、全国的にも鏃の嵌入例または墓壙内出土例が多いことから飛び道具としての鏃の検討は避けられない。表33に山陰を中心とする日本海沿岸地域における鏃の墓壙内出土例をまとめた。丹後の墳墓には鉄製武器や工具が副葬される場合が多く、鏃のみの場合もなくはないが、基本的に墓壙内の鏃は副葬品と思われる。但馬の東山墳墓群では5基の墓壙より鉄鏃(1点・1点)・銅鏃(2点・1点・1点)が出土しているが、木棺の側板が立つ位置にあるものや棺外にあるものが大部分で、人体に嵌入したものとは思えず、やはり副葬品であろう。
青谷上寺地と同じ因幡に所在する2遺跡はどうであろうか。鳥取市布勢鶴指奥墳丘墓SX06には銅鏃(1点)が認められた。出土状況からは墓壙内に残されたいきさつは判断できないが、中心主体部の底面形態から埋置された棺が舟底状木棺と考えられることや破砕した土器を供献する点に丹後あるいは但馬といった東の影響を見て取ることができ、銅鏃についても副葬品と考えたほうが妥当であろう。鳥取市桂見1号墓は後期末に属するものであり、第1主体(1点)と第3主体(1点)から鉄鏃が出土している。第1主体例は墓墳上面の出土であり、第3主体は写真を見る限り底面直上付近と思われるが、ヤリガンナと並ぶように出土していることから、両者とも副葬されたものと思われる。西伯の大山町仙谷3号墓第5埋葬主体の鉄鏃(1点)は底面直上と報告されているものであるが、人体に嵌入していたものかどうか判断できない。こうしてみると墓壙内出土の鏃は青谷上寺地人骨にかかわる後期に属するものに限れば、副葬品と判断されるものがほとんどで、人体に嵌入したものと分かるものはない。 (湯村 功)
(2)青谷上寺地と「倭国大乱」との関係
以上のように見てみると、青谷上寺地遺跡において殺傷痕の残る人骨が埋められた時期、言い換えれば多数の殺傷痕を生じさせる何かが起こった時期というのは、史書に伝える「倭国大乱」の時期と重なるものの、遺跡周辺地域においてはそれを考古学的に証明することができない。「倭国大乱」と呼ばれる争乱は記述によれば国々の争いであり、考古事象に現れる場合は広い地域に共通する社会の動きが見出せるはずである。青谷上寺地の弥生後期後半に起こった出来事は、環濠の掘削や廃絶との関係で顕著に示されたように山陰から丹後までの日本海沿岸地域の中では弥生社会の動きと連動したものとは思えない。
断っておきたいが、弥生時代の戦いそのものを否定はしないが、弥生後期後半に青谷上寺地で起こった多数の殺傷痕を生じさせた出来事は、それ以外の考古事象からは「倭国大乱」を直接的に示すものとは断定はできないことがいいたいのである。もちろん人が多数傷つき、埋葬された遺体を掘り起こして環濠に埋め込むことなど、とても尋常なこととは思えない。何かが起こったであろう。しかし安易に「倭国大乱」と結びつけることは危険である。何が起こったのか、それを明らかにすることはできなかったが、近年盛んな「弥生戦争論」に対する問題提起としたいのである。 (湯村 功)
2 青谷上寺地遺跡出土鉄器の総合的評価
・・・・・。
中期後葉段階には鍛造工具が一定量存在し、同段階の鉄片、棒状鉄器には加工痕が認められることから、集落内での鉄器生産が開始されたと想定する。稚拙なつくりの袋状鉄斧、板状鉄斧や裏すきをもたない鉇などは本集落の所産である可能性が高い。それらに、相対的に良質な鉄斧や舶載品が加わる組成となる。簡易なつくりの鉄斧と複雑かつ立体的なつくりの鉄斧二者は後期初頭から古墳前期初頭まで九州系の製品が見られることもあり同期まで共存する。また、製品から別の製品を得ようと試みた未製品と見られるものは中期後葉段階から見られるが、初期のものは再加工の技術も稚拙である。後期でも概ね後半段階になると数量的にも一気に増加し、製品の形態や大きさに目的に沿ったバリエーションが出てくる。再加工を含めた鍛冶技術の進歩も看取でき、鋳造鉄器破片の再利用の仕方も中期段階に比して変化が認められる。 (高尾浩司)
3 私見
(2) 日本書紀・垂仁天皇・石上神宮には「五十瓊敷皇子は、菟砥の河上(川上)においでになり、鍛冶の名は河上(川上)という者をおよびになり、太刀一千口を造らせられた。この時に楯部・玉作部・神刑部・日置部・太刀佩部など合わせて十種の品部(舎人)を、五十瓊敷皇子に賜った。その一千口の太刀を忍坂邑に納めた。その後、忍坂から移して石上神宮に納めた」とある。
垂仁天皇(私見では在位230年~250年)は古墳時代前期の天皇であり、湯梨浜町大字川上(字鍛冶屋谷)宮で太刀一千口を造らせた。材料は三朝町から得た。三朝町で204のたたら遺跡が見つかっている。その刀を忍坂邑(三朝町片柴)から倉吉市大原の石上神宮に納めた。
当時、青谷と鳥取県中部とは鉢伏山側を通る県道51号線で湯梨浜町川上集落まで結ばれていた。近世は因幡国であるが、当時は鳥取県中部に属していた。鍛冶技術を持ったものが青谷から湯梨浜町川上に来たと思われる。
(3) 湯村功は「木棺の側板が立つ位置にあるものや棺外にあるものが大部分で、人体に嵌入したものとは思えず、やはり副葬品であろう」とするが、こういうものは副葬品ではない。湯村功は鉄鏃・銅鏃はすべて副葬品だとするが、九州(鹿児島県・佐賀県・福岡県)で出土した弥生中期の鉄鏃は棺内にあってもすべて副葬品ではないとしている。1点や2点は人体に嵌入したものとみるべきである。
また、「遺跡周辺地域においてはそれを考古学的に証明することができない」とするが、すぐ近くの湯梨浜町の宮内遺跡をわざと隠しているとしか思われない。宮内第5遺跡2号墳(弥生時代後期)石棺内から出土した107cmの鉄刀と12点の鉄鏃は明らかに副葬品である。きれいに並べておいてあり、生前、埋葬者が使う予定であった鉄鏃である。6年前(1996年)に刊行されていた宮内遺跡発掘報告書の鉄鏃12点を、知らないはずはない。なぜ挙げなかったのだろうか。倭国は鳥取県中部だ、という証拠を示したくなかったと思われる。
「しかし安易に倭国大乱と結びつけることは危険である」とし「弥生戦争論」に逃げているが、「危険」とは何を意味するのであろうか。青谷上寺地の虐殺を倭国大乱と認めてしまうと倭国とは鳥取県中部にあったことになり、今までの日本の古代史の定説が覆り、古事記・日本書紀の信憑性が揺らぐからである。
鳥取県神社誌に見る倭の大乱に関係すると思われる祭神 [倭国大乱の原因]
西伯郡と日野郡は出雲国と接しており稚日女命・(神)倭姫(比女)命・若日孁神は倭国大乱を終結させるため讃岐から来たと思われる。(以下は大正時代まで存在した神社)
(1)稚日女命
折井神社 岩美郡成器村大字新井字宮の谷
倭迹迹日百襲姫命が但馬国に逃げる途中に寄ったと思われる。倭迹迹日百襲姫命は孝霊天皇に遅れて皇居のあった湯梨浜町宮内を出た。香川県の水主神社の記録に「7歳のとき都において塵に交なく人もなき黒田宮を出られ・・・」とある。
平岡神社 西伯郡淀江町大字平岡字向山
現住所 米子市淀江町平岡
富岡神社 西伯郡高麗村大字妻木字山根
現住所 西伯郡大山町妻木
前田神社 西伯郡庄内村大字古御堂字於局
現住所 西伯郡大山町古御堂
古林神社 西伯郡名和村大字加茂字以屋谷
現住所 西伯郡大山町加茂
前田神社 西伯郡法勝寺村大字西字宮ノ前
現住所 西伯郡南部町西
岩崎神社 日野郡多里村大字湯河字宮ノ前
現住所 日野郡日南町多里
吉原神社 日野郡日光村大字吉原字牛王ガ市
現住所 日野郡江府町吉原
大原神社 日野郡八郷村大字大原字貝市
現住所 西伯郡伯耆町大原
安屋咩神社 安来市赤江町400
(2)(神)倭姫(比女)命
天萬神社 西伯郡手間村大字天萬字下宮尾
現住所 西伯郡南部町天萬
高野女神社 西伯郡賀野村大字高姫字高ノ女
現住所 西伯郡南部町高姫
蚊屋島神社 西伯郡日吉津村大字日吉津字南屋敷
現住所 西伯郡日吉津村日吉津
(3) 若日孁神
五郷神社 東伯郡旭村大字牧字家ノ上
福田神社 岡山県真庭郡八束村中福田
倭国大乱の原因 [倭国大乱の原因]
出雲には「出雲族(準王一族)の姫を天皇家が殺したから攻撃を始めた」とする伝承がある。これが倭国大乱の原因と思われる。
鳥取県の大山北麓に孝霊山という山がある。この山に孝霊天皇の伝承が伝わっている。
第7代孝霊天皇(私見では120年生~211年没)の時代のことです。
「伯耆国の妻木の里(大山町妻木)に、朝妻姫という大変美しくて心がけの良い娘がいるそうな。」
「朝妻は比べ物のないほどの絶世の美女だ。」
「朝妻の肌の美しさは、どんな着物を着ても透き通って光り輝いているそうな。」
などと、うわさは都(鳥取県中部)まで広がって、とうとう天皇のお耳に達しました。
天皇は早速朝妻を召しだされ、后として愛されるようになりました。
朝妻は、故郷に年老いた母親を残しておいたのが毎日気にかかって仕方ありませんでした。このことを天皇に申し上げて、しばらくの間お暇をいただき妻木に帰って孝養を尽くしていました。
天皇は、朝妻を妻木に帰してから、日増しに朝妻恋しさが募り、朝妻の住んでいる妻木の里に下って来られました。
伯耆国(妻木)では、天皇がおいでになったというので、大急ぎで孝霊山の頂に淀江の浜から石を運び上げて、天皇と朝妻のために宮殿を建てました。そのうちにお二人の間に若宮がお生まれになって鶯王と呼びました。
2世紀後半では、妻木とは妻木晩田遺跡の地であり、孝霊天皇と朝妻姫の宮殿は長田集落の上(山側)にあったはずである。
宮殿の比定地は東海(日本海)に臨み、見晴らしがよく、国見が出来きる。孝霊山周辺では、天皇が住む宮殿の立地条件としてベストである。長田集落の隣は妻木晩田遺跡である。
祭神 大足彦忍代別命(景行天皇)、大日本根子彦太瓊命(孝霊天皇)、押別命、本媛之命(朝妻媛と思われる)、松媛之命、千代姫之命、小葉枝皇子、根鳥皇子
由緒 創立年代不詳。寛永七年寅三月由来書き上に、境内に杉生長すること他に異なり大山金門鳥居の笠木に衆徒より望まれ之を截る。それより災妖止むときなく云々とあり。雄略天皇丙辰の歳(476年)近郷衆庶に崇あり、恠事年累ね人民之を歎く。その時神の託宣に二人の官女たる松媛之命、千代姫命の霊魂が細姫(朝妻媛と思われる)に対し嫉妬の崇ありとし、これを神廟に祭祀しお告のままに宮殿を建造し一ノ御前社(本殿)二ノ御前社(中殿) 三ノ御前社(末殿)と奉祀し、祭日には嬲神事とて三人の仕入物忌神懸りあり幣帛を以て打合せ式あること絶えず。
(1) 祭神の中で大足彦忍代別命(景行天皇)だけが他のどの祭神とも関係がない。藤原氏は記紀を改ざんしているので、記紀との整合性を図るため、いつの時代か大足彦忍代別命(景行天皇)を挿入したと思われる。本来、倭建命は大足彦忍代別命(景行天皇)ではなく孝霊天皇の皇子であった。
(2) 祭神に本媛之命とあるが、これは細姫ではなく朝妻姫と思われる。孝霊山の中腹に孝霊天皇と朝妻姫のために宮殿を建てたのだから、その山の麓の孝霊天皇を祭る神社の本媛は朝妻姫しかいない。細姫は孝霊天皇が日南町の宮内に移ってからそこを訪れ福姫を生んだという由緒・伝承がある。
(3) 雄略天皇丙辰の歳(476年)に祟りあり、その後一ノ御前社(本殿)二ノ御前社(中殿) 三ノ御前社(末殿)を建造した。創立年代不詳とあるが、476年ころには創建されていた。藤原氏は伯耆国の神社の多くに創立年代不詳と書かせている。藤原氏が台頭する奈良時代(1300年前)以前から伯耆国に神社が創建されていたことを隠すためである。
(4) 出雲には「出雲族の姫を天皇家が殺したから攻撃を始めた」とする伝承がある。出雲族の姫を孝霊天皇は殺していないが、孝霊天皇が出雲族の姫と接触する機会があったのは妻木晩田の朝妻姫たち(高杉神社由緒の朝妻姫之命、松媛之命、千代姫之命)とである。妻木晩田遺跡の発掘により、妻木晩田に住んでいたのは出雲族であった。四隅突出型墳丘墓(王墓とされる)が11基見つかっている。朝妻姫之命、松媛之命、千代姫之命の三人とも孝霊山の麓の妻木晩田出身であり、出雲族の王家の娘と思われる。松媛之命、千代姫之命は本媛之命に嫉妬していたので自殺したのかもしれない。「うわなり神事」は海岸まで行く。それを孝霊天皇が殺したと出雲族に伝わったと思われる。
(5) 妻木晩田遺跡より
案内板には「ここからは、妻木晩田遺跡の南側を眺望することができます。奥側に大きくそびえる三角形の山は孝霊山です。妻木晩田遺跡内からは大山が見えないため、妻木晩田の弥生人が日常的に仰ぎ見ていた山は孝霊山です」とある。
吉野ヶ里遺跡は全国に分布する銅剣・銅矛を作る中心地だったのではあるまいか [倭国大乱の原因]
吉野ヶ里遺跡は全国に分布する銅剣・銅矛を作る中心地だったのではあるまいか。
1 日本書紀・崇神天皇・神宝・において「このとき出雲臣の先祖の出雲振根が神宝を管理していた。しかし筑紫の国に行っていたので会えなかった。・・・出雲振根は筑紫から帰ってきて・・・」とある。吉野ヶ里遺跡のある平野を筑紫平野というので、出雲振根は吉野ヶ里に行っていたと考えられる。吉野ヶ里遺跡の周辺では銅剣・銅矛の鋳型も見つかっている。また銅鐸の鋳型も見つかっているから、吉野ヶ里は青銅器文化の一族であり、出雲国と同盟関係にあったと思われる。
2 吉野ヶ里には殷王朝末裔の準王一族が住んでいたのではないかと推測される。溝と柵の位置が通常と反対であるのは、中に奴隷がいたから逃げられないようにするためである、という説や二千以上の遺骨は祭祀の犠牲者ではないか、という説がある。頭のない遺骨などからも、生贄の風習を残していた殷王朝末裔の準王一族であった可能性が高い。
3 西野凡夫はその「新説古代史」において「熊本県阿蘇・菊池地区と大分県直入・大野地区の、弥生後期から終末期にかけての鉄鏃出土数は計336本で九州全出土数の過半数を占める。これらの鉄鏃は副葬品ではなく、住居跡から出土しているという特徴がある。この地域が弥生後期から終末期にかけて日本列島内の最激戦地であったことは疑う余地がない」とする。
稚日女命(卑弥呼)を祀る神社
ヤマト王朝の皇軍はここを拠点としていた。卑弥呼・倭健命たち皇軍は大分県直入・大野地区と熊本県阿蘇・菊池地区にかけて九州を横断している。大分県側から入ったものと思われる。
4 弥生後期、鳥取県湯梨浜町宮内遺跡2号墳で107cmの鉄刀とともに副葬されていた12個の鉄鏃が出土した。弥生時代後期に鳥取県中部には鉄鏃を使う一族がいて、九州には鉄鏃を使われる一族がいた。
鳥取県湯梨浜町宮内第5遺跡2号墳より
地元の方には申し訳ないが吉野ヶ里は邪馬台国ではない。吉野ヶ里に居た勢力はヤマト王権(卑弥呼・倭健命たち)に敵対する勢力であった。卑弥呼・倭健命たちは吉野ヶ里を攻撃している。吉野ヶ里で見つかった鉄鏃は鳥取県湯梨浜町宮内遺跡に副葬されていた12個の鉄鏃とは異なりヤマト王権が吉野ヶ里に対して放った鉄鏃である。その他の鉄製品もヤマト王権が持ち込んだものである。
5 鳥取県中部(北栄町大島)の宮崎神社由緒によれば「日本武尊征西の御時、北海の霪風御艦を悩まし奉りしが不思議の神助にて御艦引き寄するが如く本社地乾の隅に着御し給えり。尊大に歓喜し給いて宣はく『斯く清らかなる地の海面に浮き出づるはこは浮洲(島)にや』と。洲(島)の中央に大麻を挿立て、御自ら御飯を炊き給いて二尊(兄の孝元天皇が皇子のとき奉斎されたイザナギ・イザナミ)を祭り、神助を謝し給えり」とある。
倭健命が湯梨浜町宮内の黒田庵戸宮を去られたのは1歳の時であった。倭健命はその後開化天皇になり東国を伐たれた。
銅鐸・銅剣・銅矛・銅戈を作ったのは殷王朝末裔の準王一族であった [倭国大乱の原因]
銅鐸・銅剣・銅矛・銅戈を作ったのは殷王朝末裔の準王一族であった。
1 準王については、三国志魏略(280年)に「その子や親が国(辰国)に居留し、韓氏の姓を僭称する。準王は海中にあり、朝鮮とは互いに往来しなかった。その後、絶滅した。」とあり、後漢書弁辰伝(432年)に「初め、朝鮮王準が衛満に滅ぼされ、数千人の残党を連れて海に入り、馬韓を攻めて、これを撃ち破り、韓王として自立した。後に箕準の家系は滅絶。馬韓人が再び辰王になる。」とある。
準王が馬韓を攻めたのは紀元前195年のことであった。魏略には「準王は海中にあり」と記述されているが、海中とは対岸という意味であり、列島に渡ったということである。準王一族は数千人(後漢書)であり、多くが列島に渡ったものと思われる。朝鮮半島には帰らなかった。その後絶滅したとあるのは、半島には確認出来なかったので絶滅したと記載した。実は、列島に渡り、西日本を中心に全国に展開していたのである。本拠地は吉野ケ里であり、出雲であった。
2 銅鐸・銅剣・銅矛・銅戈は瀬戸内海を中心に広がっている。高地性集落も瀬戸内海を中心に広がっている。これは先住民が青銅器文化の一族を避けて、集落を高地に造ったからである。
最近の年代測定では一番古い銅鐸で紀元前190年頃とする。紀元前194年に列島に渡って来た殷王朝の末裔・準王一族が銅鐸・銅剣・銅矛・銅戈をつくったと解するのが正しいと思われる。列島に銅鐸・銅剣・銅矛・銅戈を作った一族の候補は準王の一族の他は見つからない。大和王権の銅製品は銅鏡だけである。
大和王権は準王一族と神武天皇のときから敵対してきたが、第7代孝霊天皇のときに皇子の倭健命や崇神天皇、皇女の卑弥呼の活躍で全国を平定することができた。ただし、東国にいた青銅器文化の一族(蝦夷)は東北に逃げていて平定できなかった。蝦夷(青銅器文化の一族)は縄文人でもなければ、アイヌ人でもない、東北に逃げていった殷王朝の末裔準王の一族である。
3 日本書紀・景行25年・において「武内宿禰を遣わして、北陸と東方の諸国の地形、あるいは人民の有様を視察させられた」。景行27年武内宿禰は東国から帰って申し上げるのに、「東国のいなかの中に日高見国があります。その国の人は男も女も、髪を椎のような形に結い、体に入墨をしていて勇敢です。これらすべて蝦夷と言います。また、土地は肥えていて広大です。攻略するとよいでしょう」とある。
武内宿禰は大臣ではなく皇太子のときであった。のちに第13代天皇となる。私見では在位290年~330年(古墳時代前期)である。原古事記には、入の沢遺跡が焼打ちにあったので、視察に行ったと書いてあった。「攻略するとよいでしょう」は百済史官による挿入である。倭国天皇が百済王に仕えるという構成をとる。
日本書紀・景行40年・倭健命の再征・において・天皇は倭健命を征夷の将軍に任ぜられ、「かの東夷は性狂暴で、凌辱も恥じず村に長なく、各境界を犯し争い、山には邪神、野には姦鬼がいて、往来もふさがれ、多くの人が苦しめられている。その東夷の中でも、蝦夷は特に手強い。・・・どうか深謀遠慮をもって、良くない者をこらしめ、徳をもってなつかせ、兵を使わずおのずから従うようにさせよ。ことばを考えて暴ぶる神を鎮まらせ、あるいは武を振って姦鬼を打払え」といわれた、とある。
倭健命がこのとき任じられたのは征夷の将軍ではなく第9代天皇であった。倭健命は第12代天皇の皇子ではないが、青銅器文化の一族(蝦夷)がどういう一族か知るのに役立つ。生け贄の風習のあった殷王朝の末裔である。倭健命と姉の倭姫命(卑弥呼)は一緒に巡行していた。稚日女命(卑弥呼)が岩手県の永岡神社に祀られているので、倭健命と倭姫命(卑弥呼)はここまで来ている。永岡神社の30kmほど手前に宮城県の入の沢遺跡がある。
4 平成27年7月29日付読売新聞に、大和王権と続縄文・交流と軋轢と題して「宮城県栗原市の入の沢遺跡で発見された古墳時代前期(4世紀)の集落跡が、考古学者の関心を集めている。銅鏡や装身具などの出土品が大和王権とのつながりを示すとともに、丘陵上に深い溝を巡らせて防御を固めた構造は、比較的平和に共存していたと考えられていた王権と続縄文文化の間に、厳しい緊張があったことを示す可能性があるからだ。」とある。
銅鏡・鉄製品・勾玉・管玉・ガラス玉などの遺物より、この遺跡は倭王権の遺跡である。大和王権が敵対していた一族(続縄文と表現)とは、土着の縄文人やアイヌ人ではなく、東北に逃げていた殷王朝の末裔の準王一族(蝦夷)であった。
孝霊天皇の黒田宮は鳥取県湯梨浜町宮内にあった [倭国大乱の原因]
孝霊天皇の黒田宮は鳥取県湯梨浜町宮内にあった。
1 鳥取県教育文化財団調査報告書(重要だと思われる部分のみ抜粋)
遺跡名 宮内第1遺跡 宮内第4遺跡 宮内第6遺跡 宮内2・63~65号墳
遺跡所在地 鳥取県東伯郡東郷町宮内字雲山
公開日 :2014年3月13日
http://sitereports.nabunken.go.jp/13629
発掘 1995年より
遺跡概要
集落跡-弥生後期~古墳前期 竪穴住居跡18+土溝21+溝6
弥生土器+土師器+勾玉+管玉+ガラス小玉+ヤリガンナ+鋤先+ボウ製内行六花文鏡+石器
墳墓-弥生後期~末 墳丘墓4+土壙墓84
弥生土器+管玉+鉄剣+鉄刀+ヤリガンナ+鉄鎌+刀子
F3 鉄刀 107.2cm+6.8cm 宮内第5遺跡2号墳
F5 鉄刀 94.5cm 宮内第1遺跡1号墳
特記事項
集落跡:土坑の大半は弥生時代後期のものと考えられる袋状貯蔵穴。
墳墓:宮内第1遺跡1号墓からは全長
94cmの大刀が出土している。鉄剣、鉄刀は同時代のものとしては日本最長。管玉には、ガラス製のものと石製のものがある。
まとめ
今回の調査では、宮内第1遺跡(D区)において、県内では最大級の弥生時代後期の墳丘墓を検出し、1号墓、3号墓の主体部はその規模が山陰最大級のものである。これらの墳丘墓は、この後古墳時代前期に至って周辺に築造される、県内最大のものを含めた大型前方後円墳への墓制の移行を考える上で、非常に貴重な資料であるといえる。また、これらから出土した鉄剣、鉄刀はいずれも大陸から製作され、伝わった可能性が考えられ、その長さでは日本最長のものである。弥生時代における鉄剣、鉄刀は主に北部九州で出土しており、他地域では若干見られるにすぎない。これは、当地と北部九州との関連性を考えねばならないことであるが、東郷池という良好の潟湖を背景にした、大陸との直接交流も視野において置くべき問題と考える。
なお、検出できた墳丘墓、土墳墓は、いずれも弥生時代後期~末に時期を設定できるものと考えられ、古墳時代にまで至ると考えられるものは埋葬形態が襲棺となるSX32のみである。このことは、墓制の変化、墓域の移動を物語っていると同時に、墳丘墓主体部及び土墳墓の軸の変化も含めて、墓域としていた集団の変化、集落の移動をも検討しなければならないものと考える。
以上のことについては、本来であれば、墳丘墓もしくは大型前方後円墳を築造した集団を考慮し、当遺跡周辺の同時代の集落遺跡等をふまえて検討すべき問題であるが、調査員の力量不足と時間的制約から、本書では事実報告だけにとどまってしまった。今後の調査研究に委ねる課題を多く残してしまう感があるが、本書に納めた内容が、その調査研究の一助となれば幸いである。
1996年
2 遺跡所在地
上(C区)と真ん中(D区)が第1遺跡である。今は崩されて道路になっている。
第1遺跡(D区)からは下蒜山、大山、茶臼山、長瀬高浜などが見え、出雲山より見晴らしが良い。出雲山はのちに藤原氏によって造られたのではないか。下照姫は宮内から出雲山まで行かなくても、より近いここで総てが見渡せる。
3 私見
地元の人の言っていた「宮内の古墳」とは平安時代の経塚(国宝であり奉納したのは藤原氏)のことであった。第1遺跡の1号墳や3号墳は道路工事で崩されて無くなっていた。
宮内遺跡で弥生時代後期の大小7本の鉄剣や鉄刀が見つかったこと(日本で最長の鉄刀を含む)は全国的にみても大きな意味がある。私見によると、孝霊天皇は120年頃の生誕で倭国(鳥取県中部を都とする小国の連合国家)の大王であり、九州も従っていた。159年頃には鳥取県にいた出雲族の反乱により鳥取県湯梨浜町の黒田宮(倭文神社)をあとにして但馬(竹野川流域)に疎開していたから、孝霊天皇一族(孝元天皇・開化天皇・崇神天皇・卑弥呼)が黒田宮(倭文神社)に居たのは弥生時代後期である。
孝霊天皇の皇居であった黒田宮は鳥取県湯梨浜町宮内にあった [倭国大乱の原因]
1 日南町宮内(樂樂福神社)も大山町宮内(高杉神社)も孝霊天皇が居られたから宮内という地名が付けられたと思われる。孝霊天皇の皇居は師木にあったから、東郷池周辺である。鳥取県中部に宮内は湯梨浜町宮内の一か所だけである。この東郷池周辺の宮内は、土壌情報閲覧システム(農業環境技術研究所)によれば南側は広く黒ぼく土壌である。宮内集落は空白になっているが、黒ぼく土壌である可能性が高い。旧東郷町の埴見集落か長和田集落か迷っていたが、ここが黒田宮であろう。
下照姫がいたから宮内という地名がつけられたとは考えづらい。孝霊天皇が居たから宮内という地名がついたものと思われる。ここが黒田宮であった。
出雲から来た一族が孝霊天皇一族を追い出したのである。
倭の大乱が終結するまでに全国の広範な地域を占領していたようである。彼らが置いて行った銅鐸の分布は広範にわたる。
松崎神社の祭神に天穂日が祀られているのはこの子孫が松崎地区も支配していたからだと思われる。時代は倭の大乱の頃である。
青銅器文化であり、鬼と呼ばれるほど残虐である。青谷上寺地遺跡では女・子供も殺している。青谷の次は湯梨浜町宮内の黒田宮を襲って宮内を占拠した。近くの長瀬高浜遺跡からも銅鏃が見つかっている。彼らはここも襲った。
3 湯梨浜町宮内の伝承は下照姫のものだけを残し、孝霊天皇の伝承は藤原氏が消していった。宮内の地名は下照姫がいたからというだけでは説明できない。
倭文神社本殿 (主祭神 建葉槌命、相殿 下照姫命 、建御名方命 、天稚彦命 、事代主命 、少彦名命、味耜高彦根命)
主祭神は大日本根子彦太瓊命(孝霊天皇)であったのを、建葉槌命に置き換えたのではないだろうか。相殿の祭神は現在の波波伎神社の祭神をそのまま持ってきたものと思われる。改ざん前は孝霊天皇と孝元天皇・卑弥呼(倭姫命)・開化天皇(倭健命)・崇神天皇(吉備津彦)であったはずである。
藤原氏も宮内という地名を変えなかったのは、宮内の関連性を辿られるとは思っていなかったのだろう。
第九節 孝霊天皇は伯耆国から大陸へ行くためのルート上にいた鬼たちを平定した [倭国大乱の原因]
孝霊天皇は伯耆国から大陸へ行くためのルート上にいた鬼たちを平定した
1 孝霊天皇は妻木晩田、手間山、鬼住山、大倉山、鬼林山の鬼(出雲神族=準王一族)と鬼の発生元の出雲も平定していった。出雲で和平協定が成立してからは、孝元天皇に皇位を譲り、広島県府中市の南宮神社で生涯を終えた。いずれも天孫族が大陸に行くためのルート上にあり伯耆国の西部である。倭国大乱の最初は出雲神族の誤解から始まったが、大陸へ行くルートを確保することも大事であった。孝元天皇は皇居に残り伊邪那岐命・伊邪那美命を祀るなど後方から支援していた。卑弥呼(倭姫命)は大吉備津彦(崇神天皇)や若日子建吉備津日子(開化天皇・倭健命)と一緒に瀬戸内や吉備国を平定して但馬、因幡、東伯耆を平定してきた父の孝霊天皇と合流した。
2 孝霊天皇は倭国大乱が始まる前に大山町長田の孝霊山中腹の宮殿に朝妻姫と住んでいた。倭国大乱が始まり朝妻姫との間に生まれた鶯王が鬼住山で戦ったが、戦死した。その後、米子市上安曇、南部町中、江府町日光村、日南町宮内に行った。鶯王が大山町長田で生まれて亡くなるまで、福姫が日南町宮内で生まれて亡くなるまで、孝霊天皇は倭の大乱の間、少なくとも二十年近くは伯耆国西部に居たものと思われる。孝霊天皇の腹違いの子である孝元天皇・卑弥呼・大吉備津彦・若日子建吉備津日子・天日矛・物部や鬼に苦しめられた地元の者達の協力によって、中国地方の倭の大乱は終結した。
3 鳥取県大山町宮内の高杉神社
参道を奥に行くと鳥居がある。向こうの山が孝霊山である。
祭神 大足彦忍代別命(景行天皇)、大日本根子彦太瓊命(孝霊天皇)、押別命、本媛之命、松媛之命、千代姫之命、小葉枝皇子、根鳥皇子
由緒 創立年代不詳。寛永七年寅三月由来書き上に、境内に杉生長すること他に異なり大山金門鳥居の笠木に衆徒より望まれ之を截る。それより災妖止むときなく云々とあり。雄略天皇丙辰の歳、近郷衆庶に崇あり、恠事年累ね人民之を歎く。その時神の託宣に二人の官女たる松媛之命、千代姫命の霊魂が細姫(朝妻媛)に対し嫉妬の崇ありとし、これを神廟に祭祀しお告のままに宮殿を建造し一ノ御前社(本殿)二ノ御前社(中殿) 三ノ御前社(末殿)と奉祀し、祭日には嬲神事とて三人の仕入物忌神懸りあり幣帛を以て打合せ式あること絶えず。
私見
本媛とは細姫ではなく、近くの妻木から娶られた朝妻姫と思われる。妻木晩田は出雲文化である。朝妻姫は出雲族であったが孝霊天皇は出雲族であることを知っていて朝妻姫を娶った。「謎の出雲帝国」には、「神武から数代の王は、出雲の王家の娘を妻に迎えた。出雲神族の反乱を防ぐためでもあった。」とする。
松媛之命、千代姫之命も妻木晩田の出雲族であったと思われる。本媛に嫉妬して自殺したのかもしれない。うわなり神事は海岸まで行く。「松媛之命、千代姫命の霊魂が本媛に対し嫉妬の崇あり」とするので、自殺したと思われる。この事件が出雲本家には孝霊天皇が殺したと伝わり攻撃してきたと思われる。高杉神社は孝霊天皇が但馬に疎開して11年後に反撃した時の拠点と思われる。
おまけ