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千三百年の間、藤原氏に消されてきた伯耆国(鳥取県中西部)の真実の歴史が、今よみがえる。

建御名方命は鳥取県琴浦町伊勢野にいた [伊勢野の天照皇大神宮]

 天孫降臨において健御名方のヒントが見つからなかったので触れなかったが、琴浦町の方見郷(鳥取県中部)に居たという確信が得られたので記述します。

 琴浦町の方見郷は加勢蛇川周辺にあった。邇邇芸命に先立って饒速日と同時期に天照大神が降臨したところである。

 一般に記紀において伊勢国、伊勢神宮とあるのは、今の伊勢国、伊勢神宮の時もあれば、鳥取県琴浦町の伊勢、伊勢神宮の時もある。また志摩国、伊雑宮のときもある。皆、伊勢国、伊勢神宮に収斂される。また、出雲とあるのは、今の出雲国(島根県)のこともあり倭国(鳥取県中部)のこともある。「伊勢津彦は出雲の神」と言うときの出雲は倭国(鳥取県中部)のことである。

1 国譲りにおいて古事記には建御名方が出てくるが、日本書紀には出てこない。日本書紀は亡命百済人によって、列島に百済を再興するために作られた百済王朝の歴史書である。その際乗っ取った倭国の歴史書である原古事記を利用した。古事記の建御名方の説話は藤原氏が原古事記を改ざん創作したものである。刀を上向きに立ててその上に座ってみたり、建御名方の腕を掴んで氷のようにしてしまうなどは創作である。伊勢国風土記のほうがより現実的である。原古事記の説話は伊勢国風土記に移し、さらに改ざんして今の古事記を作った。倭姫命世紀の原典も原古事記にあった。

 日本書紀・持統において、持統が反対を押し切って行ったのは伊勢神宮ではなく、伊雑宮の横にある千田寺であり、千田寺に勅使門を造るためであった。持統の言う通りにしなかった神官は伊勢神宮ではなく伊雑宮の神官である。この時はまだ伊勢神宮はなかった。伊雑宮の神官は持統が倭の天皇でないことを知っていて反抗した。聖徳太子(蘇我善徳大王)の造った千田寺に勅使門を造って参拝の制限をするのは持統が倭の王でない証拠である。持統の後ろには不比等がいた。

 原古事記には「天照大神が降臨しようと思われたところに建御名方が居た。天照大神は建御雷に勅して『遥か天津(葦原中津国)の方に国がある、ただちにその国をたいらげよ』と仰せられて、将軍としての徴の剣を賜った。」とあった。その国は鳥取県琴浦町の方見郷であった。

2 小沢打魚氏は「皇孫瓊瓊杵尊が此の国土に御降臨あらせられる前、天照大神から大国主命の国土奉環の大命を伝へるべく遣はされられた、経津主、武甕槌の二神に対して、大国主命の御子建御名方命軍が由良川を界として御守りになったものである」とされ、降臨の地の舞台を丹後の由良川とされる。この由良川は丹後ではなく葦原中津国を流れる鳥取県北栄町の由良川と思われる。丹後の由良川はそのほかの舞台(葦原中津国など)が検証できておらず単発であり、あとが続かない。

由良川.jpg

 北栄町の由良川は西高尾ダムに水源を発する。西高尾、上種、茶屋条、下種、亀谷を通って当時は葦原中津国に流れ込んでいた。天照大神の天孫族は南の関金から来たから、方見郷を本拠地にしていた建御名方とは由良川を挟んで対峙することになる。黒字は平定後の天孫族の位置関係である。

3 天照大神は饒速日と一緒に蒜山(高天原)より倉吉市関金町神田神社に降臨した。

 天忍穂耳、饒速日、天児屋根・天太玉・天鈿女・玉祖命・思金命、猿田彦は素戔嗚のいた倉吉市の清熊稲荷神社の峰(哮峰)に降り、しばらく止まった。

 天照大神と月読命と石凝姥と天手力男は琴浦町の方見郷に住んでいた建御名方を信濃に行かせ、琴浦町の方見郷に降臨した。

 原古事記には「建御雷は問うて、『お前がこの国を去った時、何をもってそれを証拠だてるか』といった。すると申し上げて言うには、『私は、今夜、八風を起こし海水を吹き上げ、波浪に乗って東の方にまいりましょう。これがすなわち私が退却したという証拠です。』と。夜更けになって、大風が四方に起こり、大波をうち上げ、太陽のように光り輝いて陸も海も昼のように明るくなり、ついに波に乗って東に去った」(伊勢国風土記)とあった。

 琴浦町伊勢野から1kmほど下ると日本海である。建御雷は北栄町妻波の岩崎神社の祭神になっているので建御名方が船で東に行くのを見届けることができた。建御名方は東の因幡に上陸し因幡より父の大国主が中継地としていた播磨に行った(国道29号線沿いの旧道)。

4 播磨国にある上伊勢は播磨国風土記にみえる揖保郡林田里の伊勢野である、とする。伊勢津彦を祀っていたから伊勢野という、とある。上伊勢も伊勢野も鳥取県琴浦町にある。揖保郡林田里の伊勢野も上伊勢も人為的に付けられたように思われる。

 鳥取県琴浦町には月読命がいた外宮の槻下(月下)の地名が残る。方見(カタミ)郷もあった。タケ(ミナカタ)と似ている。内宮、外宮のほか、摂社16社、末社17社もあった。日本書紀の天武の段にある「天皇は泊瀬の斎宮で練習をさせて伊勢神宮の斎王にした」とある泊瀬の斎宮は倉吉市駄経寺町の神官もいた大御堂廃寺のことであり、鳥取県道151号を通って琴浦町伊勢野の伊勢神宮に行かせた。天武天皇の皇居は大御堂廃寺を神宮寺とした倉吉市の賀茂皇大神宮(現賀茂神社)にあった。

 藤原氏は琴浦町方見郷の原古事記の説話を伊勢国風土記に書き移した。その際、天照大神は神武天皇に、建御名方は伊勢津彦に、建御雷命は天日別命に変えた。矛盾が生じないように、日本書紀には記載しなかった。播磨国の伊勢野や上伊勢の地名は藤原氏が鳥取県琴浦町の地名を持ってきたものである。建御名方は信濃国に行く途中に揖保郡林田里に寄ったと思われる。藤原氏は伊和神社の祭神である大国主神の名を伊和大神に変え、建御名方の名を伊勢津彦に変えた。

5 建御名方は今の伊勢国に寄らずに信濃国に行った。研究者によると建御名方の足跡は、信濃国に十数ヶ所見つかるという。土木工事も行っている。

 長野市の風間神社の祭神は伊勢津彦命である。しかし、伊勢津彦が本当に信濃国に行ったならば、建御名方のように十数ヶ所足跡が見つかるはずである。

 風間神社の祭神である伊勢津彦命は、全国の神社ネットワークを使い藤原氏によってつくられたものである。他県に伊勢津彦とあるのは建御名方とあったのを藤原氏によって書き換えられたものである。

 藤原氏は伊勢国を創るに際し原古事記にあった建御名方命の説話を利用しようと考えた。時代を神武時代に設定し名前を伊勢津彦に変えて、伊勢国風土記を創作した。伊勢国風土記も出雲国風土記も藤原氏の創作である。伊勢国風土記には伊勢神宮のことは書かれていない。713年の時点では伊勢神宮はなかったからである。地名のいわれだけは、風土記に創作した。伊勢神宮も出雲大社も列島に百済国を再興するための大きなテーマパークであった。


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