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千三百年の間、藤原氏に消されてきた伯耆国(鳥取県中西部)の真実の歴史が、今よみがえる。

葛城は鳥取県中部(倭国)にあった [神武天皇と欠史八代]

 葛城は鳥取県中部(倭国)にあった。


1 「高尾張邑の土蜘蛛を皇軍は葛の網を作って、覆い捕らえて殺した。その邑を改めて葛城邑とした。」とある(日本書紀)。


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 鳥取県北栄町曲の荒神神社


 鬼・土蜘蛛を荒ぶる神(荒神)と言っていたので、ここに土蜘蛛の家があった。土蜘蛛の家があったから蜘ヶ家山という。


 葛城邑は荒神(土蜘蛛=出雲神族)神社のある蜘ヶ家山の麓の曲集落であり、麓に葛城邑(曲集落)のあった山を葛城山(蜘ヶ家山)と呼ぶようになった。


2 第2代綏靖天皇の「葛城高岡宮」


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 鳥取県北栄町曲の岡神社


 神武天皇の長男の多芸志耳は関金町耳で生まれ、湯梨浜町の長瀬高浜(多芸志)にいたが、神沼河耳は長男の多芸志耳を殺害して第2代天皇となった。第2代綏靖天皇の「葛城高岡宮」は北栄町の蜘ヶ家山(葛城山)の岡神社であった。


3 第5代孝昭天皇の皇居は葛城掖上宮(灘手神社)だが、葛城山の東の掖上は磐余邑であり4人の大王の皇居があったから掖上とは書かない。掖上宮の掖上は葛城山の西側のことである。ここに桜の木があり、花びらが葛城山(蜘ヶ家山)を越えて北栄町島の金繰溜池で船を浮かべていたところに飛んで行った。


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 神武天皇は掖上のほほまの丘に立ちアキツがトナメをしているようだと言った。ここから穴沢小学校方面を見ると灘手の2本の尾根が接近してアキツがトナメをしているように見える。


4 蘇我馬子大王の磐余池辺双槻宮は鳥取県北栄町北条島にあった(別稿「蘇我馬子大王(在位572年~626年)の磐余池辺雙槻宮は鳥取県北栄町島にあった」を参照されたし)。蘇我馬子大王は「葛城県は元、私の本貫であります(代々葛城氏が居り、蘇我は葛城の同族になるという考え)。その県にちなんで蘇我・葛城氏の名もありますので、どうか永久にその県を賜って、私が封ぜられた県といたしとうございます」といった。なぜそう言ったのかというと、蘇我氏の祖の蘇賀石河宿禰 は武内宿禰大王の3男であり、武内宿禰大王の皇居のあった北栄町原の元野神社は葛城山(蜘ヶ家山)の麓にあり、蘇賀石河宿禰 はここで育ったからである(別稿「第13代武内宿禰大臣(王)の皇居は鳥取県北栄町原集落にあった」を参照されたし)。


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5 葛城長江襲津彦(応神天皇)は鳥取県北栄町原(葛城県)の生まれであり、武内宿禰大王は鳥取県北栄町原(葛城県)を本拠地(皇居)としていた。葛城長江襲津彦は13代武内宿禰大王の6男として蜘ヶ家山(葛城山)のふもとの北栄町原集落で育った。後に15代応神天皇となり倉吉市穴窪(軽島之明宮)と湯梨浜町小鹿谷(難波大隅宮=行宮)とに皇居を置いた。


 葛城長江襲津彦の「江」とは海岸部が陸地に入り組んだ地形で入江である。当時、倉吉市穴窪の周辺はそのようになっていた。奈良は内陸部で「長江」の文字はふさわしくないので、同じ読みの「長柄」としたが、今では「ながら」と発音する。


6 葛城皇子と言われていた天智は百済からの人質の豊璋であり、6歳で鳥取県北栄町由良の蘇我善徳大王のもとに来た(別稿「聖徳太子(蘇我入鹿天皇)の皇居は鳥取県北栄町由良宿にあった」を参照されたし)。北栄町由良も葛城であった。蜘ヶ家山(葛城山)より西を葛城県としていた。


 


 


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