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千三百年の間、藤原氏に消されてきた伯耆国(鳥取県中西部)の真実の歴史が、今よみがえる。

 神武天皇の段にある「宇陀」とは鳥取県倉吉市高城地区(楯縫郷)のことであった [日向三代と神武天皇四兄弟]

​​ 神武天皇の段にある「宇陀」とは鳥取県倉吉市高城地区(楯縫郷)のことであった 


1 イツセとイワレヒコは西の米子市淀江の津から船で東郷池に入った。「波荒く立ち騒ぐ波速の渡」とは東郷池の入り口である。倭建命の言った「柏の渡」と同じ場所である。当時の東郷池は柏葉の形をしていた。

 戦前まで倉吉市上井町は日下村(草香村)であった。何度も洪水にあって標高が4m以上になっているが、当時は海面は海抜4mにあり、日下村の標高は4m以下であり、波もなく穏やかな津があった。日下村の白肩津(楯津=蓼津)は倉吉市清谷にあった津である。洪水で高くなっているが海抜4m以下の地点も残っている。清谷本村に上陸し坂を南に上がりナガスネヒコの攻撃を受けた。

 登美の地(饒速日の妻でありナガスネヒコの妹が住んでいた北栄町土下山周辺)に住むナガスネヒコ(中洲の豪雄)は対岸の倉吉市清谷にイワレヒコの船が到着したのを知り、軍を集めて一戦を挑んだ。トミビコ(ナガスネヒコ)の放った矢が、兄のイツセの命の手に刺さって深手を負わせた。傷を受けた手を洗ったところを血沼(茅渟)の海という。傷を洗った水は海水ではなく真水のはずだから海ではなく、より真水に近い東郷池の南岸であった。

 日本書紀・垂仁・石上神宮で「イニシキは茅渟の菟砥の河上においでになり、・・・」とある。茅渟(血沼)とは東郷池のことであり「菟砥の河上」とは東郷池の南の菟砥という陸地にある河上を意味し湯梨浜町川上のことであった。

 その後木国(智頭町)まで一旦退却した。そこでイツセ命は亡くなった。イワレヒコは山陽に出た。

 イワレヒコは広島県福山市を本拠地として倭国(鳥取県中部)を取り戻す機会をうかがっていた。

 しばらく、福山市を本拠地にして各地に住んでいた略奪集団の出雲神族(ナガスネヒコの一族=鬼・土蜘蛛・蝦夷)を平定したが、内つ国(鳥取県中部)に赴くため岡山県の旭川河口の龍ノ口山に到着し石上布都魂神社の地で高倉下に素戔嗚の剣を献上されて蒜山高原に至った。イワレヒコは蒜山高原の加茂神社と福田神社の祭神になっているので、蒜山高原を宿営地にしていた。

 蒜山高原(高天原)から高城地区(宇陀)に下りるルートを探して道に迷っているときに、道臣は関金の鴨ヶ丘にいたヤタガラス(鴨建津之身)を連れてきた。ヤタガラス(鴨建津之身)に道案内をさせて菟田穿邑(倉吉市高城地区の上大立)に下りてきた。上大立に下りるには江府町鏡ヶ成からスタートしなければならない。


2 神武天皇聖跡菟田穿邑は奈良の宇陀ではなく倉吉市上大立であった

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 穿って着いた邑が穿邑ではなく、たどり着いた邑から穿って道をつけたから穿邑という。ここでいう「穿つ」とは「押し分けて進む」ことを意味する。「鳥取県道313号線」と「広域基幹林道円谷広瀬線」は、神武天皇が穿ってつけた道である。出雲族に見つからないように、迂回して道をつけた。
 神武天皇は情報戦・ゲリラ戦をしていた。第2次大戦の日本軍ではなくアメリカ軍のように情報収集に力を注いだ。またベトナム軍のように道なき道を進んで敵から移動が見えないようにしていた。それができたのは、イワレヒコは倭国の地の利を知っていたし、旧知の者も多かったからである。
 イワレヒコが仮の本拠地にしていた穿邑は上大立であった。琴浦町下見から関金町大鳥居に至る鳥取県道313号線(下見関金線)は神武天皇がつけた。あまりに山道なので現在ではあまり利用されていないが林道ではなく、りっぱな県道である。上福田・下福田にいた出雲族の兄ウカシ・弟ウカシに気づかれずに移動するために県道313号線をつけた。


3 倉吉市下福田の阿弥大寺遺跡には弟ウカシの子孫が住んでいた。

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 下福田字阿弥大寺遺跡(弥生時代後期)

 日本書紀は「オトウカシは宇陀の主水部の先祖である」とする。

 下福田から上米積にかけての国府川(久米川)のほとりで3基の四隅突出型墳丘墓(弥生時代後期)が発掘された(阿弥大寺古墳群)。阿弥大寺古墳群より川寄りに二つの住居跡が検出された。「高城史」は墳丘墓と住居跡とを関連付けている。鳥取県中部に2400くらいある古墳はほとんど円墳(97%)なので、下福田字阿弥大寺遺跡に住んでいたのは出雲族(準王一族)のオトウカシの子孫の主水部であった。主水部は国府川(久米川)から水を汲む担当だったのかもしれない。遺跡の位置からそう思われる。

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 上大立(穿邑)から最初は、出雲族の拠点から見て盲点となる旧東伯町の奥に道をつけていった。終点である琴浦町下見の隣の別宮・矢下(ここの寺は四天王を祀る)・宮場・八反田・上法万もイワレヒコが開いた集落である。光好から​​笠見に至り、笠見と伊勢地区でも出雲族と戦っている。「撃ちてし止まむ」の歌はこの時の歌である。

 伊勢地区(天照大神がいたが占領されていた)から、船で北条砂丘に至り茶臼山(伊那佐山)で敵情を視察した。二人に土下山の土をもって下ろさせ、勝てるか占った。ここで「島つ鳥、鵜飼いがとも」の歌を詠んだ。この時に蜘ヶ家山(葛城山)の土蜘蛛を葛木のつるで捕らえた。

 イワレヒコが江府町鏡ヶ成から降りたことは江府町江尾にいたウマシマジの耳に入った。ウマシマジも穿邑に降った。イワレヒコは穿邑から関金方面にも道をつけていった。杉野・中野・森を合わせて吉野と言っていた。終点は関金の佐野大橋である。神武天皇は佐野命と言っていた。これは偶然ではなく、鳥取県道313号線は神武天皇がつけた道だからである。

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 佐野大橋から日吉神社に寄っているので、この時までにウマシマジは神武天皇に合流している。

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 日吉神社にて。日吉神社の祭神はニニギになっているが神社から船が出せるので本来の祭神は饒速日である。


4 鳥見邑は倉吉市富海であった。金色の鵄の話はここが舞台であった。倉吉市富海に長髄彦に率いられた出雲族がいたので、イワレヒコは見つからないように「円谷広瀬線」も造っている。すでに合流していたウマシマジは円谷広瀬線を造るのに協力していた。

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 出雲族のいた富海を避けて円谷広瀬線をつけた。倉吉市大宮は倭国の歴代天皇の皇居の中では一番奥にあるが、穿ってつけた円谷広瀬線より前にある。倉吉市大宮が橿原の宮である。

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 本来、こちらの関金側が起点である。

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 本来、こちらの円谷側が終点である。

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 円谷広瀬線が完成し、ウマシマジは円谷から橋を渡った石上(倉吉市大原)を本拠地にした。「昔ここに橋があった」と郷土史家は言う。

 イワレヒコは三朝町片柴(忍坂邑)に土蜘蛛を集めて酒を飲ませて皆殺しにした。三朝町片柴(忍坂邑)で土蜘蛛に酒を飲ませて殺したのは、三朝町山田(ヤマタ)で素戔嗚が八岐大蛇に酒を飲ませて殺した話にヒントを得たからである。三朝町片柴(忍坂邑)で土蜘蛛をだまし討ちにしてから、湯梨浜町羽衣石(墨坂)にいた兄磯城を挟み撃ちにして斬った。太陽を背にして南から平定していった。女軍と男軍が神武側に着いたのはウマシマジの功績である。



5 大久米は論功行賞で畝傍山の西の川辺の来目邑に住んだ。畝傍山は倉吉市の四王寺山であり、西は倉吉市服部の北の丘陵地まで久米ヶ原という。倉吉市服部の北の丘陵地は四王寺山(畝傍山)の西になる。

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 久米ヶ原の南に沿って流れている国府川のことを古代は久米川と呼んでいた。

 日本書紀・雄略天皇の段にも来目川が出てくる。

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 倉吉市上米積の南西に紀元前100年頃から500年頃にかけての後中尾遺跡がある。

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 遺構は14軒以上である。国府川(久米川)とは少し離れているが国府川(久米川)の近くであり大来目のいた来目邑の遺跡である。


6 記紀では「楯で防戦し、そこを日下の楯津という」とする。

 楯縫神社の由緒に「明治14年旧郷名に因み楯縫神社と改称す」とあるので、倉吉市高城地区の旧郷名は「楯縫郷」であった。

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 楯(青谷上寺地遺跡出土・弥生時代中期後葉)。弥生時代中期後葉は紀元前50年から紀元50年であり、神武天皇の即位(紀元前60年)以降に楯縫郷(倉吉市高城地区)で作られた。イワレヒコの軍にとって楯は重要な武具であった。戦いに勝利してからも大来目命は楯縫郷で楯を作っていた。

 「高城史」では「上福田に『楯縫』神社があり、『服部』が機織部で『大立(たて)』が『大楯』を製作する場所。『立(たて)見』は製品を検査する『楯検』ではないかと」とする。

 倉吉市高城地区では「立」を「たて」と読む。大立は「おおたち」という地名ではなく「おおたて」という地名であった。立見は「たちみ」という地名ではなく「たてみ」という地名であった。高城地区では楯(たて)を立(たて)の字に書き換えさせられている。

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 下神(しもつみわ)・上神(かみつみわ)・神代(みわしろ)の地域は大神(おおみわ)郷であった。立縫郷は楯縫郷であった。八橋郷は笠縫郷であった。

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 下神(しもつみわ)・上神(かみつみわ)・神代(みわしろ)の地域は大神(おおみわ)郷であった。立縫郷は楯縫郷であった。方見郷には建御名方がおり、由良郷には聖徳太子(蘇我入鹿天皇)がいた。倉吉市清谷は日下村でありその周辺が河内国であった。猛田とは竹田郷のことであった。琴浦町八橋の南には笠見があり、八橋が「倭姫命世紀」にある「倭国の笠縫邑」であった。

 楯縫邑(倉吉市大立)も笠縫邑(琴浦町八橋)も即位後、神武天皇が開いた。


※ 参考

(1) 古事記には「やがて一行の船は、波荒く立ち騒ぐ波速の渡を過ぎて、波静かな白肩の港に碇泊した。この時、登美の地(土下山周辺)に住むナガスネヒコ(中洲の豪雄)が軍隊を起こして、一戦を挑んだ。・・・楯を取り、岸部に下りて防戦した。この土地の名を楯津と言い、また今に、日下の蓼津とも言っている。・・・トミビコの放った矢が、兄のイツセの命の手に刺さって深手を負わせてしまった。

 ・・・南の方へ迂回し血沼の海に至って、傷を受けた手を洗った。それゆえここを血沼の海という。そこからさらに迂回して紀国(木国)の男之水門まで行ったところで・・・その息は絶えた。・・・カムヤマトイワレビコノ命はさらにその土地から迂回を続けやがて熊野の村へと着いた。・・・この土地から、道もない深山をさらに踏み越え、道を穿って難行をつづけながら、ようやく宇陀に達した。道を穿って進んだゆえに、宇陀の穿という。

 宇陀の地には兄宇迦斯・弟宇迦斯と呼ぶ二人の兄弟が頑張っていた。そこで、まずヤタガラスを使いに出して、二人の者に尋ねさせた。・・・兄宇迦斯の死んだ地を宇陀の血原という。

 イワレビコ命は次のような歌をうたった。『宇陀の高城に鴫ワナ張る・・・』

 このオトウカシは、宇陀の水部の部の先祖である。

 さらに旅を続けて忍坂の大室に到着した」とある。

(2) 日本書紀には「まさに、難波碕に着こうとするとき、速い潮流があって大変速く着いた。よって名付けて波速国とした。また波花ともいう。今難波というのはなまったものである。

川をさかのぼって、河内国草香村(日下村)の青雲の白肩津に着いた。ナガスネヒコとくさえの坂で戦った。流れ矢がイツセの命のヒジハギに当たった。楯をたてて雄たけびを上げた。それでその津を改めて楯津と呼んだ。いま蓼津というのは、なまっているのである。

 軍は茅渟の山城水門についた。よってそこを雄水門と名づけた。

 進軍して紀の国の竃山に行き、イツセ命は軍中で亡くなった。・・・皇軍は内つ国に赴こうとした。そこにヤタガラスが飛び降りてきた。・・・ついに宇陀の下県についた。つかれたところは宇陀の穿邑という。ここで日臣を道臣と名づけられた。兄猾と弟猾は宇陀の県の人々のかしらである。・・・兄猾が死んだところを宇陀の血原という。

 天皇は歌を詠んでいわれた。『宇陀の高城に鴫をとるワナを張って・・・』・・・。

 また大来目を畝傍山の西、川辺の地に居らしめられた。今来目邑と呼ぶのはこれがそのいわれである。また弟猾に猛田邑を与えられた。それで、猛田の県主という。これは宇陀の主水部の先祖である」とある。

 

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兄磯城と弟磯城は事代主と百八十神(出雲族)の子孫であった [神武天皇と欠史八代]

  兄磯城と弟磯城は事代主と百八十神(出雲族)の子孫であった


1 大国主と事代主は親子ではない。大国主は素戔嗚の子であり、事代主は葦原中津国で大国主に蹴散らされた出雲族(百八十神)の頭であった。大穴持命や大穴牟遅神は歴代の出雲族の王名であり大国主ではない。出雲大社に祀られているのは大国主ではなく、出雲族の歴代の王であった。国譲り後、大国主は天孫族の4伴緒と一緒に湯梨浜町長瀬高浜・久留にいた。そこに高い建物を建ててもらった。


 事代主と百八十神(出雲族)は国譲り後、倉吉市福庭に到着し大平山に上がった。事代主と百八十神(準王一族=出雲神族)はいつまでも大平山におらず、生活の拠点を東郷池の水辺に移した。そこは湯梨浜町長和田であった。長和田が師木邑であった。


2 倉吉市福庭の波波岐神社の伝承に「事代主は近くの泉の畔で余生をおくられた」とある。


畔に使う用例として泉(いずみ)はおかしい。畔は普通、湖(みずうみ)に使う。これは長年の間に読みが替わったと解するべきである。当初は「湖の畔」であった。湖とは東郷湖とも言われる東郷池であった。


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 事代主と百八十神(出雲族)は長和田集落に移った。当時、長和田は海からの波が真直ぐに届いていた波延(はえ)の地であった。


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 長和田集落はほぼ海抜3mに海面があった時代(崇神天皇の時代)に今の集落の形が出来上がった。ほぼ水辺の内側に出来上がっている。周囲が水垣の集落であった。


3 北から見た湯梨浜町長和田集落(左は鳥取県、島根県で一番大きい前方後円墳)


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 国譲りの時代(紀元前160年頃)は長和田を囲むように水辺であったから、羽衣石川沿いに上がっていくしかなかった。


 先代旧事本紀・皇孫本紀に「椎根津彦が謀りごとを立てて申しあげた。『今はまず、女軍を遣わして、忍坂の道から出しましょう。敵はきっと精兵を出してくるでしょう。私は強兵を走らせて、ただちに墨坂を目指し、菟田川の水をとって、敵兵が起こした炭の火にそそぎ、驚いている間にその不意をつきます。敵は必ず敗れるでしょう』天孫(神武天皇)はその計りごとをほめて、まず女軍を出してごらんになった。・・・はたして男軍が墨坂を越え、後方から挟み討ちにして敵を破り、その梟雄・兄磯城らを斬った」とある。


※ 私見


 神武天皇は忍坂邑(三朝町片柴)で土蜘蛛を討ってから兄磯城らを斬った。


 兄磯城はこの奥で炭焼きをしていた。この奥の荒神社は荒ぶる神であった兄磯城の神社である。墨坂とは羽衣石川(菟田川)沿いの坂であった。


 女軍は写真左奥の忍坂の道より出た。それを見た兄磯城の精兵は出ていった。そのすきをついて椎根津彦は強兵を走らせて師木邑(長和田)から上がり炭火に水をかけた。男軍は三朝町山田から墨坂に上がり兄磯城を挟み撃ちにした。女軍・男軍は神武と旧知であったので寝返るのも早かった。


 弟磯城は神武天皇に従い磯城の県主になった。雄略天皇の時代、磯城の大県主は鰹木を上げた家を建てていた。湯梨浜町長瀬高浜遺跡から鰹木を上げた家形埴輪が出土した。古代人のジョークが垣間見える。


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 長和田から御冠山が見える。孝霊天皇は御冠山のふもとの湯梨浜町宮内(倭文神社)にいた。孝霊天皇は長和田から蠅(波延)伊呂泥と蠅(波延)伊呂杼を娶った。孝霊天皇の皇女の倭迹迹日百襲姫の母である蠅(波延)伊呂泥は出雲族であった。


 倭国大乱の相手は出雲族であったが、卑弥呼の母親は出雲族であったので女王として共立した。孝霊天皇の皇子の大吉備津日子は崇神天皇であり、崇神天皇の母も蠅(波延)伊呂泥であった。崇神天皇は母の出身地(波延=水垣=長和田)に皇居(師木邑の水垣宮)を置いた。


 


 


 


 


 


 


 


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神武天皇の「島つ鳥 鵜飼いがとも」の歌の舞台は奈良ではなく鳥取県北栄町であった [神武天皇と欠史八代]

 神武天皇の「鵜飼いが友」の歌の舞台は奈良ではなく鳥取県北栄町であった


1  日本建国史 「曲学の徒」桂川光和より


 「楯並(たたな)めて 伊那佐の山の 木の間よも い行きまもらひ 戦えば われはや餓(え)ぬ 島つ鳥 鵜飼いがとも 今助(す)けに来ね。」この奈良の伊那佐山での戦いを歌ったものである。


 伊那佐山の木の間を行き来しながら、楯を並べ防戦しているが食べ物が無く飢えてしまった。鵜養(うかい)がとも(伴・供)よ早く助けに来い、という意味である。


 苦戦する兵が、食料の到着を待つ差し迫った歌である。現実感のある歌だと思う。


 興味深いのは「島つ鳥」である。従来鵜飼にかかる枕詞とする解釈は多い。しかし前に述べたように、この時代では枕詞というような、慣用的表現は確立していないであろう。


 神武は奈良盆地侵攻の前に、吉野や阿田(五条市阿田)など奈良県南東部を訪れている。吉野の阿田あたりでは鵜を使った漁法が早くから行われていたとされる。


 「鵜飼いのともよ」という語句が、この五條市阿田の住民を指した語句であることは容易に察しがつく。


  この阿田には小島、上島野、下島野という地名がある。島という地域である。まさにこの「島つ鳥」というのは鳥の鵜と、島という土地の名に掛かる掛け言葉である。


2 神武天皇たちがこもって戦った伊那佐山と神武天皇たちが使っていた楯。


 現在、伊那佐山(奈良)と稲佐の浜(出雲)は離れたところに造ってあるが、もともと「いなさ山」と「いなさの浜」は同じところにあった。それは周囲は砂だが山は隣の三輪(神)山のような砂の山でない(否砂)鳥取県北栄町の茶臼山であった。


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 島集落から見た伊那佐山(茶臼山)


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 伊那佐山(茶臼山)から天香久山(土下山)と島集落(縄文人の猿田彦一族がいた)を望む。


 神武天皇は天照大神のいた琴浦町の伊勢を取り返すために伊勢でも出雲族と戦った。伊勢から船で茶臼山(伊那佐山)にきて、敵情を偵察した。天香久山(土下山)までは中洲があり、中洲の豪雄と呼ばれていた長髄彦がいた。


 神武天皇は戦いに勝てるかどうか占うために、二人に天香久山(土下山)の赤土を下させた。二人が土を下したところが伊那佐山と天香久山との間にある土下集落である。


 手前の伊那佐山の木の間に楯を立てて戦った。中洲の右側は汽水池になっていた。向こうの島集落から来た猿田彦一族は汽水池で鵜飼いをしていた。


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 鳥取県の青谷上寺地遺跡で発掘された弥生時代中期後葉(紀元前50年頃)の楯


 神武天皇たちは伊那佐山(茶臼山)でこの楯を立てて戦った。


3 私見


 奈良には伊那佐山が作ってある。神武天皇はここに立てこもって戦ったと学者も思うようにしてある。桂川氏もこの歌の舞台は奈良であると疑問に思うこともなく信じ込んでいる。島は猿田彦一族がいたところであり、伊那佐山の目の前にある。島の猿田彦一族は神武天皇たちの目の前で鵜飼いをしていた。


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 紀元前60年頃は海抜が4mほど高かったから鳥取県北栄町はこのような地形となる。天神川の度重なる洪水により日下邑の楯津は埋まり、中洲は流され(弓原集落まで三角形の土砂の堆積が見られる)、長瀬高浜の弥生土器も流された。


 島からは縄文土器が出土しており、縄文人がいた。それは、天孫族に協力していた猿田彦一族であった。猿田彦一族は島から船を出し伊那佐山に近い汽水域で鵜飼いをしていた。五條市阿田というような遠くではなく、神武天皇たちの目の前で鵜飼いをしていた。


 「島つ鳥、鵜飼いがとも」とあるが、奈良に津はないので、藤原氏は「津」の読みだけ残して、漢字は消している。例えば葦原中国、黄泉平坂などである。


 この島はのちの磐余邑の中にあり、履中天皇が作った金繰溜池の近くに蘇我馬子大王は池辺双槻宮を造った。蘇我馬子大王は島大臣(王)と呼ばれていた。金繰溜池の池上で同棺複数埋葬の島古墳群が発掘された。池上の陵である。


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 道路右側の家の敷地から縄文前期~縄文晩期の連続遺物が発掘された。島集落に縄文前期から縄文晩期までの縄文人が住んでいた。それが徐福一行(天孫族)に協力していた猿田彦一族であった。「島つ鳥、鵜飼いがとも」とは猿田彦一族のことであった。  


 


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 茶臼山(伊那佐山)の横の北条川放水路分水堰(ぶんすいぜき)で川鵜を見た。2021年5月17日撮影。汽水池はなくなっているがちょうど猿田彦一族(縄文人)が鵜飼いをしていた辺りである。


 島のとも(猿田彦一族)に飼われていた鵜の子孫!?


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