千三百年の間、藤原氏に消されてきた伯耆国(鳥取県中西部)の真実の歴史が、今よみがえる。
初代天皇から第30代天皇までの皇居のうち29天皇の皇居は鳥取県中部にあった。実在しない天皇は除外している [百済王12代から45代までの倭国王]
第15代応神天皇(在位354年~394年)の軽島之明宮は鳥取県倉吉市穴窪にあった [百済王12代から45代までの倭国王]
第15代応神天皇(在位354年~394年)の軽島之明宮は鳥取県倉吉市穴窪にあった
1 日本書紀・応神・弓月君・阿直岐・王仁・において「大和の軽の坂上の厩」を倉吉市馬場町に比定したが、応神天皇の皇居の軽島之明宮は何処であったか。
軽と言いながら、島がついているので、天香具山を越えた北栄町島と迷っていたのであるが、北栄町島は蘇我馬子の磐余池辺雙槻宮があったことがほぼ確実であるので応神天皇の軽島之明宮は北栄町島ではない。
まっすぐ行くと、坂(軽の坂)がある。その坂の上(山側)に倉吉市馬場町(軽の坂上の厩)がある。反対側(海側)には穴窪集落がある。
軽の坂上の厩は倉吉市馬場町にあった。応神天皇の原古事記の旧辞において、馬に関することは百済ではなく、新羅と書いてあった。その時の応神天皇の皇居はどこにあったのだろうか。
4 軽島之明宮は倉吉市穴窪集落かもしれない。第4代・第8代の居た小田集落の北になるが、南に軽之坂があるし北側も軽地域であるので軽島之明宮は倉吉市穴窪と思われる。
海抜4mに海面があった時代(紀元前200年頃)、穴窪集落は島であったと推測される。「島之明」が意味するところは「以前は島であったがその後(354年頃)陸地になった」を意味するものと思われる。現在は穴窪とその周辺との高低差がないが、その時(354年頃)はまだ周辺との高低差はあったはずである。しかし、その後、 明暦3年(1657年)に、石山を取り除き、天神川の流れを北に真っすぐに変えるまで、何度も洪水による土砂が北条平野を埋めていった。その都度、穴窪集落と周辺の高低差がなくなっていったものと思われる。
現在、海抜4mに海面があった地形を見ても軽の地域に島が見いだせない。穴窪の周辺は度重なる洪水で高くなって、高低差がなくなっている。洪水がなければ穴窪集落の周辺は青い水の表示となり、島が現れたものと思われる。
5 穴窪神社の祭神は譽田別尊(応神天皇)だけである。
由緒などは明治維新に改ざんさせられているのですべてを信用することはできないが、明治維新までは「正八幡宮と称していた」というのは信用できるかもしれない。
また、「維新の際焼尽し」とあるが「藤原氏(明治政府)の威圧で維新の際、焼尽させられた」のではないだろうか。伯耆国では時の権力によって維新前に神社調査なるものが行われている。伯耆国がうるさかった(怒る)理由はここ(神社調査後の結果)にもあった。
神功皇后や仲哀が祭神になっていない点も軽島之明宮の有力候補である。
持統も大田皇女も百済滅亡の年(660年)に人質(采女)として鳥取県倉吉市に来ていた [百済王12代から45代までの倭国王]
持統も大田皇女も百済滅亡の年(660年)に人質(采女)として鳥取県倉吉市に来ていた。
1 統一新羅の時代が終わり、高麗の時代になったので大陸の三国史記も改ざんされた。現三国史記は1145年に原三国史記を藤原氏が改ざんさせたものである。改ざん後原三国史記は焚書にした。
三国史記では豊璋の父は義慈王とするが、原三国史記では豊璋の父は武王であった。中大兄王子は百済王子の豊璋であり、631年に6歳で人質として鳥取県中部に来ていた。その時の天皇は鳥取県北栄町由良に皇居のあった蘇我入鹿天皇であった。蘇我入鹿天皇はわが子大海人皇子と同じように豊璋を育てた。641年に豊璋の父の百済王武(舒明天皇のモデル)は亡くなった。16歳の豊璋(中大兄王子)は東宮(鳥取県北栄町由良は百済からみれば東の宮である)で誄を読まれた。642年1月、弟王子(?)の翹岐(鎌足)や同母妹の女子4人、内佐平岐味、それに高名の人々40人あまりが船で倭国に到着した。この中に豊璋の母親の皇極・斉明(武王の妻の善花公主か沙宅王后)もいたはずである。豊璋は643年に法興寺で開催した蹴鞠の会で翹岐(鎌足)と出会い、奈良に住んだ。蘇我倉山田石川麻呂は小さいころから百済王子の豊璋を知っていたので娘遠智娘を嫁がせた。豊璋は蘇我倉山田石川麻呂の娘遠智娘を娶り、大田皇女(644年生まれ?)と持統(645年生まれ)は奈良で生まれた。
2 百済王家の本体は642年の島流し(?)の船の中にいた。百済は660年に滅び残りの百済王族は列島に亡命した。大田皇女と持統を采女(人質)として天武天皇のもとにいかせたのは、どちらがイニシアティブを取ったかわからないが、天智・鎌足は六韜に基づいて行動していたので、天智・鎌足のほうから申し込んだと思われる。大田皇女と持統は倉吉に皇居があった天武天皇のもとに行った。
大来皇女は大田皇女と天武天皇との間に生まれた。661年に大来皇女が生まれ、662年に草壁皇子が生まれ、663年に大津皇子が生まれた。持統も大田皇女も采女(人質の子)として鳥取県倉吉市に来ていた。666年には天武天皇と大田皇女・持統は奈良の中宮寺にいたが、天武天皇と大田皇女は毒を盛られて岡山県の総社→鳥取県の伯耆町経由で倉吉に帰られた。666年4月、総社市の寺で中宮天皇(中宮寺にいた天武天皇)の病気平癒を祈願している。翌667年2月、大田皇女は亡くなった。
天智は倭国の王子のように葛城を名乗っているが、百済王子豊璋であった。それまでの百済王義慈王が660年に亡くなったので義慈王の弟の豊璋は鬼室福信に百済王になることを請われて百済に行ったが、百済で王になる気はなく、鬼室福信を殺害して「豊璋」の着ぐるみを大陸に投げ捨て、倭国に帰って倭国王子の中大兄王子になりすました。
日本書紀の天皇のモデルは百済王が多い。天智天皇も百済王子豊璋であった。天智天皇の父母の舒明・皇極(斉明)も百済王族がモデルである。日本書紀に記されている41人の天皇の中で倭国の天皇がモデルと思われるのは数天皇しかいない。神武天皇、崇神天皇、応神天皇、雄略天皇、天武天皇などである。
3 日本書紀・天武天皇の段で泊瀬の斎宮の比定地が解からないのが通説である。この泊瀬の斎宮は倉吉市駄経寺町にあった大御堂廃寺のことである。雄略天皇の皇居は泊瀬の山にあった。それは、打吹山の長谷寺であった。泊瀬(長谷)とは打吹山を含む打吹山周辺のことであり、現在の倉吉市中心市街地である。また、倉吉市賀茂神社(江戸時代までは賀茂皇大神宮と呼んでいた)の由緒に飛鳥時代倉吉市駄経寺にあった神宮寺には僧侶のほか神官もいたことが記載されている。この天武天皇が造った大御堂廃寺が泊瀬の斎宮であり、斎王になるための訓練もしていた。天武天皇の皇居は倉吉市葵町の賀茂皇大神宮(現在は賀茂神社)にあった。
大来皇女(661-701)は倉吉で生まれ、天武天皇が吉野に行かれた時も倉吉に残っていた。
4 つぎに問題になるのが額田王と尼子娘とカヂ媛娘である。
この3人は伯耆国出身であり、持統や大田皇女よりも早く天武天皇に嫁いでいた。十市皇女は653生まれで高市皇子は654生まれであることや、磯城皇子や泊瀬部皇女は鳥取県中部(倭国)で生まれた名前であることからである。そのほかの妻がいつごろ天武天皇のもとに来たのかは判らないが、父が流罪になった大蕤娘は673年に天武天皇の夫人になった。
日本書紀には天武天皇の妻の順位として、大蕤娘は7番目、額田王は8番目 、尼子娘は9番目、カヂ媛娘は10番目、とする。これが倭国の原古事記ならば逆転し、尼子娘は1番目、カヂ媛娘は2番目、大蕤娘は3番目、額田王は4番目となる。天智の皇女や鎌足の娘は人質の娘(采女)であるから、順位は下であり、倭国の天皇になることはない。天武天皇はよくても倭国が許さない。もし天皇になったとすれば、それは列島に亡命してきた百済王家の天皇としてである。
5 持統の遺骨は天武天皇の陵に納められているという。それは藤原氏の作った日本書紀・続日本紀によるものであり、火葬にしてあれば誰の遺骨か判らないので火葬にした。火葬にすることは本人の遺言ではない。続けて4人もの天皇が火葬を希望したとは考えられない。聖武天皇からはピタリと火葬はなくなっている。持統・文武・元明・元正の4人は隠さなければならないことがあったからである。元正の時もまだ倭国(鳥取県中部)の影響力は奈良まで及んでいた。持統の火葬・夫婦合葬は本人の遺言ではなく藤原氏による作為的なものである。従って、野口王墓古墳(檜隈大内陵)は夫婦合葬墓ではなく、始めから野口王墓古墳(檜隈大内陵)に持統の遺骨はなかった。あったとしても他人のものである。
中大兄王子は「豊璋」であり、藤原鎌足は「翹岐」である [百済王12代から45代までの倭国王]
1 中大兄皇子=「翹岐」説、藤原鎌足=「豊璋」説について
(1) 藤原鎌足=豊璋説は多い。関祐二氏はその根拠として、大織冠を賜ったのが、鎌足と豊璋だけであるからとする。「豊璋」は中大兄皇子である、とする方は少ない。中大兄皇子は豊璋に大織冠を授けているが自分で自分に褒美を授けるのはおかしいことや、中大兄皇子は日本書紀の第38代天智天皇であり恐れ多いこと、などが理由と思われる。
(2) 中大兄皇子=翹岐説では
舒明3年(631年)、「百済王義慈は王子豊璋を人質として送ってきた」とあるが、このときの百済王は武王であり義慈王が百済王になるのは641年であるから、631年は間違いである、とする。また、百済には人質を差し出す理由がない、とする。
2 日本書紀の「百済人」と 「翹岐」と「豊璋」
◎敏達天皇12年(583年)、日羅は「百済人は謀略をもって、『船三百艘の人間が、筑紫に居住したいと願っています』という。もし本当に願ってきたら許すまねをされるとよいでしょう。・・・逆に欺かれないように用心して、すべて要害の所には、しっかりと城塞を築かれますように」と言っていた。
◎推古17年(609年)、大宰府の長官が奏上して「百済僧10人俗人75人が、肥後国の葦北の港に停泊しています」といった。徳摩呂・竜の二人を返して百済人らにつけ、本国に送り付けた。対馬に着いて、修道者11人が皆在留したいと願った。それで上表をして滞留を許され飛鳥寺に住まわされた。
◎舒明3年(631年)、「百済王義慈は王子豊璋を人質として送ってきた」とある。
◎舒明13年(641年)冬10月9日、「天皇(百済王武)は崩御された。東宮の開別皇子(中大兄王子)は16歳で誄をよまれた」とある。
◎皇極元年(642年)、百済の従者たちは「今年1月、弟王子に当たる子の翹岐(鎌足)や同母妹の女子4人、内佐平岐味、それに高名の人々40人あまりが島流しになりました」といった。
◎皇極2年(643年)2月21日に、「筑紫の大宰府から早馬で伝えて、『百済国王の子翹岐弟王子が調使と共に到着しました』といった。
◎皇極3年(644年)、「中臣鎌足連は・・・つぎつぎと王家の人々に接触して、企てを成し遂げうる明主を求めた。そして心を中大兄に寄せたが、離れていて近づき難く自分の心底を打ち明けることができなかった」とある。
◎斉明七年(661)九月(天智紀)、「皇太子は長津宮にあって、織冠を百済の王子豊璋にお授けになった。・・・・軍兵5千余を率いて、豊璋を本国に護り送らせた」とある。
3 私見
(1) 中臣鎌足は藤原姓を授けられた。「藤原」の読みは「ホゼワラ」であり「百済倭国」の当て字である。中臣鎌足は百済人であった。鎌足はテロを実行する明主として中大兄皇子に心を寄せていた。中大兄皇子が百済の王族であることがわかっていたから鎌足は企ての明主として中大兄皇子を選んだ。百済王国を成し遂げる企てに賛同しその明主となれるのは百済王族である。中大兄皇子と中臣鎌足は百済人であった。
中大兄皇子と中臣鎌足の百済名は何であろうか。このとき倭国にいた百済王族は豊璋、塞上、翹岐であった。豊璋の系譜はウィキペディアでもはっきりしないが、義慈は武王の長男である。義慈は塞上を弟王子と言っている。豊璋の弟も塞上である。豊璋と義慈は兄弟となる。631年が間違いではなく原古事記には武王とあったのを義慈に書き換えたと思われる。豊璋も武王の子であり、631年に倭国に来ている。
日本書紀・斉明6年(660年)に「天皇、豊璋を立てて王とし、塞上を立てて助けとした」とある
。豊璋の弟は一緒に人質で倭国に来ていた塞上である。豊璋は武王の次男になるから、義慈の次の百済王になる。豊璋の兄は義慈王であり弟は塞上であった。豊璋は三兄弟の中であり中大兄であった。
645年の段階で豊璋、塞上は13年間倭国にいた。一方、翹岐は3年にすぎない。乙巳の変のようなテロを起こそうと思えば倭国に来てから13年も何もしないわけがない。翹岐が倭国に来たのは642年である。643年の記述を最後に消えてしまう。年が明けて1月1日(元旦)に中臣鎌足が突然現れテロの準備を始める。翹岐は644年に中臣鎌足に変身しテロの準備を始めた。13年の長きに渡って倭国(鳥取県中部)に居た豊璋(中大兄皇子)を、渡来して間もない翹岐(中臣鎌足)が誘ったとみるのが正しいと思われる。
(2)中大兄皇子=翹岐説は「この時期は百済の最盛期であるから、日本に人質を送らなければならない事情はなかった」とする。しかし私見では、512年頃から何度も任那(全羅南道)を侵していたのは新羅ではなく百済であった。蘇我馬子天皇は日羅を呼んで進言を受けなければならないほど、百済に悩まされていた。日羅は「国王か王子を来させて」と言っていた(583年)ので、馬子は百済王武に「国王か王子が来るように」と言っていたはずである。631年に、任那(全羅南道)を侵さないことを約束し、倭国に6歳の豊璋と塞上を人質として差し出したとしてもおかしくない。百済にとって人質を差し出すことは兵法書六韜の教えを実践することにもなる。豊璋も蘇我入鹿天皇を徹底的におだてたはずである。「百済王義慈が送った」とあるのは百済王武であったのを改ざんしたと思われる。豊璋の生没年は不詳であるが豊璋は中大兄皇子であるので生年は626年であり6歳で倭国(鳥取県中部)に来ていた。天武の生年が623年であれ631年であれ、一緒に遊んだりして大事に育てられた。天武天皇とは他人であるが兄弟のようにして育てられたものと思われる。蘇我入鹿天皇(聖徳太子)は人質であっても我が王子と同じように育てた。
(3) 中大兄皇子=翹岐説は「蘇我入鹿のテリトリーにわざわざ出向いて行くわけだから。蹴鞠の会を、法興寺で催したのが中大兄であるのはおかしい」とする。中大兄皇子(豊璋)は倭国の都で6歳から13年間、倭国の皇子と同じに育てられていた。蘇我入鹿天皇(聖徳太子)は中大兄皇子が蹴鞠の会を、法興寺で催すことを許していた。中大兄皇子(豊璋)は倭国の都(鳥取県中部)で、正統な百済王子として6歳から13年間、倭国の王子と同じように育てられてきた。たまたま、644年に奈良の法興寺で蹴鞠の会を催すために行ったときに中臣鎌足に出会った。その時は18歳であった。「中臣鎌足は、中大兄と離れていて近づき難く」とは物理的な距離のことである。中臣鎌足は奈良にいた。豊璋こと中大兄は倭国(鳥取県中部)にいた。
(4) 中大兄皇子は鳥取県中部に長く居たため、鳥取県倉吉市大原(石上神宮)に武器が沢山あることを知っていた。倭国の軍備を減らすためにも石上神宮の武器を奈良に移す必要があった。石上神宮を管理していた物部氏とも顔見知りであり、中大兄皇子の依頼で647年に奈良に移されたものと思われる。647年より鳥取県倉吉市大原の石上神宮はなくなり、波波岐神社として始まった(鳥取県神社誌に大化3年創建とある)。「蘇我入鹿天皇が賊に殺されたように奈良は物騒だから武器を移したい」と言ったものと思われる。
(5) 中大兄皇子と遠智姫は結婚して一つ屋根の下に一緒に住んでいたから、自分が殺した義父の塩漬け首を遠智姫に見せる機会がある。一方、中臣鎌足と遠智姫は一緒に住んでいないから、殺す機会も少ないし、もし殺したとしても遠智姫に石川麻呂の塩漬け首を見せる動機も機会もほとんどない。石川麻呂の塩漬けの首を娘の遠智姫にみせたのは豊璋である。豊璋またの名は中大兄皇子が妻の遠智姫に義父の石川麻呂の塩漬けの首を見せたと解するのが無理がない。豊璋は中大兄皇子であった。
豊璋の無道さ(首を切って塩漬けにするなど)は他の百済人と交わるうちに身についたものと思われる。この風習は百済人が馬韓に残っていた殷王朝末裔の準王一族(首を斬る一族)から受け継いだものと思われる。
(6) 豊後国(大分県)の西寒田神社縁起には「663年、大唐が百済を攻めた。日本は百済を救うため兵を遣わそうした。大織冠である藤原臣(藤原鎌足)はそのために九州へ下向し、豊前国(福岡県)中津郡に陣をとり、そこで指図し軍兵を集めた。その後群国に漂泊すること数ヶ月を過ごした」とある。白村江の戦いの時、藤原鎌足は九州各地(主に大分県・宮崎県)を転々としていたので、豊璋である可能性は低い。亡命してくる百済王族を住まわす地を探していた。白村江の戦いで亡命してきた百済王族が宮崎県木城町の比木神社と美郷町の神門神社の地にいたという伝承がある。
一方、皇太子(中大兄皇子)は筑紫の長津宮で、豊璋に織冠を授け(自分で自分に褒美を与えた)、軍兵5千余を率いて、豊璋(中大兄皇子)を百済国に護り送らせた。中大兄皇子(豊璋)自身が百済に行った。豊璋はその後所在不明になるが、中大兄皇子は倭国に帰ってきた。豊璋という着ぐるみは大陸に投げてきた。百済王子の豊璋はいなくなったが、倭国王子の中大兄皇子は生きて倭国に帰ってきた。中大兄皇子と豊璋を決別させるため(豊璋は6歳のときから30年間倭国にいるのだからもう百済王子の豊璋ではなく倭国の王子になったことにするため)の日本書紀の粋な計らいである。百済王子の豊璋は倭国王子の中大兄皇子に変身して倭国に帰ってきた。
(7) 日本書紀・皇極元年(642年)3月~6月までに「翹岐」の名が11回出てくる。これは翹岐が藤原不比等の父親なのでそのデビューを華々しく書いたものと思われる。皇極2年(643年)を最後に翹岐の名は出てこない。代わりに翌皇極3年(644年)1月1日から、中臣鎌足を登場させている。
皇極元年(642年)に翹岐は島流しになって倭国に来たのであるが、本当に島流しで倭国に流れ着いたのか。「島流し」とは島に到着してから船で他所に行けないようにすることである。何で倭国に着いたのか。609年の肥後国の葦北の港停泊の反省の上にたって「島流し」と言えば返されないですむと確信したからではないか。翹岐たちが島流しになった百済の大乱について百済本紀は一切語っていない。最初から欺くつもりで綿密に計画された謀略ではなかったのか。日羅は蘇我馬子天皇に進言していたが、蘇我馬子天皇から蘇我入鹿天皇に変わっていることも知っていた。これが蘇我馬子天皇なら609年のように百済に送り付けていたはずである。
一般人の中にテロリストを忍び込ませていたのではないか、それも上手口をたたくテロリストを、と疑われる。このテロリストが中国の兵法書「六韜」を暗記するほど愛読していた鎌足であり翹岐であったと思われる。
翹岐を弟王子と言ったのも信用できない。翹岐は王族ではないと思われる。周りの者がそうだと言えばそうなってしまう。殺す相手(蘇我入鹿天皇)に上手口を言うのも六韜に基づく計画である。上手口を言って歓待されたのである。
583年の日羅の進言によって百済がどういう国か判る。倭国・新羅を乗っ取るために建国されてから三百年経っていた。642年の「高名の人々40人」は倭国で国を造るための要人であったと思われる。天智の母親である皇極(斉明)も642年の島流しの船の高名の人々40人の中にいたはずである。
遣隋使について [百済王12代から45代までの倭国王]
遣隋使について
1 隋書倭国伝(東亜古代史研究所 塚田敬章より)
(1)倭國、在百濟、新羅東南、水陸三千里、於大海之中依山島而居。
「倭国は、百済や新羅の東南に在り、水陸を越えること三千里、大海中の山島に依って居する。」
(2)毎至正月一日必射戯飲酒 其餘節略與華同 好棊博握槊樗蒲之戯 氣候温暖草木冬靑 土地膏腴水多陸少 以小環挂鸕鷀項令入水捕魚 日得百餘頭
「正月一日に至るごとに、必ず射的競技をし、酒を飲む。その他の季節行事はほとんど中国と同じである。囲碁、すごろく、樗蒲(サイコロ賭博のようなもの)の遊びを好む。気候は温暖で草木は冬も青い。土地は肥えていて、水沢地が多く陸が少ない。小さな環を鵜の首筋にかけ、水に入らせて魚を捕る。一日に(魚)百余匹を得る。」
(3)開皇二十年(600年) 倭王姓阿毎字多利思北孤號阿輩雞彌遣使詣闕 上令所司訪其風俗 使者言 俀王以天為兄以日為弟 天未明時出聽政跏趺坐 日出便停理務 云委我弟 高祖曰此大無義理 於是訓令改之
「開皇二十年、倭王の姓”アマ”、字”タリシホコ”。号”アハケミ”が遣使して宮中にやって来た。お上(高祖)は所司(担当官)に命令して、その風俗を訪ねさせた。使者は”倭王は天を兄とし、日を弟として、天がまだ明けない時に出て政務を聴き、跏趺して坐っています。日が出るとそれをやめ、我が弟に委ねようといいます。”と言った。高祖は”これはあまりにも筋の通らないことだ。”と言い、訓令してこれを改めさせた。」
(4)大業三年(607年) 其王多利思北孤遣使朝貢 使者曰聞海西菩薩天子重興佛法故遣朝拜兼沙門數十人來學佛法 其國書曰 日出處天子致書日没處天子無恙云云 帝覧之不悦謂鴻臚卿曰蠻夷書有無禮者勿復以聞
「大業三年(607)、その王のタリシホコは使者を派遣し朝貢した。使者は”海の西の菩薩のような天子が手厚く仏法を興隆させていると聞きましたので、朝拝に(私を)派遣するとともに、出家者数十人が仏法を学ぶため来ました。”と言った。その国書にいう。”日が昇るところの天子が書を日の沈むところの天子に届けます。お変わりありませんか。云々” 帝(煬帝)はこれを見て喜ばず、鴻臚卿に”蛮夷の書で無礼のあるものは二度と聞かせるな”と言った。」
(5)明年(608年) 上遣文林郎裴淸使於俀国 度百濟行至竹島 南望聃羅國經都斯麻國逈在大海中 又東至一支國 又至竹斯國 又東至秦王國 其人同於華夏以為夷洲疑不能明也 又經十餘國達於海岸 自竹斯國以東皆附庸於俀
「明くる年(大業四年、608)、お上(煬帝)は文林郎の裴世清を派遣して倭国へ行かせた。百済へ渡り、竹島に至る。南に耽羅国を望み、はるかな大海の中にあるツシマ国を経て、また東のイキ国へ至る。またチクシ国へ至り、また東の秦王国に至る。その人は中国人と同じで、夷洲と考えるが、はっきりしたことはわからない。また十余国を経て海岸に到達する。チクシ国以東はみな倭に付属している。」
(6)倭王遣小徳阿輩臺従數百人設儀仗鳴皷角來迎 後十日又遣大禮哥多毗従二百餘騎郊勞 既至彼都
「倭王は小徳のアハタ(イ)を派遣し、数百人を従え儀仗を設けて、太鼓や角笛を鳴らしやって来て迎えた。十日後、また大礼のカタビを派遣し、二百余騎を従え、郊外で旅の疲れをねぎらった。既にこの国の都に到達した。」
(7)其王與淸相見大悦曰我聞海西有大隋禮義之國故遣朝貢 我夷人僻在海隅不聞禮義 是以稽留境内不卽相見 今故淸道飾館以待大使 冀聞大國維新之化 淸答曰皇帝徳並二儀澤流四海 以王慕化故遣行人來此宣諭 既而引淸就館
「その王は裴世清と会見して大いに喜んで言った。”私は海の西に大隋という礼儀の国があると聞いて、使者を派遣し朝貢した。私は未開人で、遠く外れた海の片隅にいて礼儀を知らない。そのため内側に留まって、すぐに会うことはしなかったが、今、道を清め、館を飾り、大使を待っていた。どうか大国のすべてを改革する方法を教えていただきたい。” 裴世清は答えて言った”(隋)皇帝の徳は陰陽に並び、うるおいは四海に流れています。王(であるあなた)が隋の先進文化を慕うので、使者である私を派遣し、ここに来てお教えするのです。” 対面が終わって引き下がり、清は館に入った。」
(8)其後淸遣人謂其王曰 朝命既達請卽戒塗 於是設宴享以遣淸 復令使者随淸來貢方物 此後遂絶
「その後、裴世清は人を遣って、その王に伝えた。”隋帝に命じられたことは既に果たしました。すぐに帰国の準備をしてください。” そこで宴を設けてもてなし、清を行かせた。また使者に命令して清に随伴させ、(隋へ)来て方物を貢いだ。このあと遂に交流は絶えてしまった。」
2 日本書紀・推古天皇・遣隋使(宇治谷訳より抜粋)
15年(607年)秋7月3日、大礼小野妹子を大唐(隋)に遣わされた。鞍作福利を通訳とした。
16年4月、小野妹子は大唐から帰朝した。大唐の国では妹子臣を名付けて、蘇因高とよんだ。大唐の使人裴世清と下客12人が、妹子に従って筑紫についた。難波吉士雄成を遣わして、大唐の客裴世清らを召された。大唐の客のために新しい館を難波の高麗館の近くに造った。
6月15日、客たちは難波津に泊まった。この日飾船30艘で、客人を江口に迎えて新館に入らせた。
8月3日、唐の客は都へ入った。・・・。使者裴世清は自ら書を持ち、その所には「皇帝から倭皇にご挨拶を送る。使人の長吏大礼蘇因高らが訪れて、よく意を伝えてくれた。自分は天明を受けて天下に臨んでいる。徳化を弘めて万物に及ぼそうと思っている。人々を恵み育もうとする気持ちには土地の遠近はかかわりない。天皇は海のかなたにあって国民をいつくしみ、国内平和で人々も融和し、深い至誠の心があって、遠く朝貢されることを知った。ねんごろな誠心を自分は喜びとする。時節はようやく暖かで私は無事である。裴世清を遣わして送使の意をのべ、併せて別にあるような送り物をお届けする」とあった。
8月16日、客たちを朝廷で饗応された。
9月5日、客たちを難波の大郡でもてなされた。
9月11日、裴世清たちは帰ることになった。天皇は唐の君をとぶらってのべられるのに、「東の天皇が謹んで西の皇帝に申し上げます。裴世清らがわが国に来たり、久しく国交を求めていたわが方の思いが解けました。この頃ようやく涼しい気候となりましたが、貴国はいかがでしょうか。お変わりはないでしょうか。東方は無事です。今、大礼蘇因高・大礼雄成らを使いに遣わします。意を尽くしませんが謹んで申し上げます」といわれた。このとき学問僧と学生の8人を遣わされた。
3 日本書紀・推古天皇・新羅征討の条は改ざんされている。百済と新羅を入れ替えて書いている。原古事記に書いてあったと思われる文章を以下に記述する(抜粋)。
8年(600年)春2月百済と任那が戦った。天皇は任那を助けようと思われた。任那のために百済を討つことになった。百済を目指して船出した。百済に着いて5つの城を攻略した。百済王は白旗をあげて、将軍の印の籏の下に来たり、多々羅・素奈羅・弗知鬼・委陀・南加羅・阿羅羅の6つの城を割譲して、降伏を願い出た。その時将軍は「百済は罪をわきまえて降伏してきた。強いて討つのはよくあるまい」と言って奏上した。天皇は難波吉士神を百済に遣わされた。また難波吉士木蓮子を任那に遣わし事情を調べさせられた。百済・任那両国は使いを遣わし調を奉り上奏してきたので将軍を召還された。将軍らは百済から帰った。しかし、百済はまた任那を犯した。
8年(600年)秋9月8日、百済の間諜の迦摩多が対馬に来た。それを捕らえて朝廷に送った。そして、上野国に流した。
冬11月5日に、百済を攻めることを議った。
10年(602年)春2月1日、来目皇子を百済攻略の将軍とした。
夏4月1日、将軍来目皇子は筑紫に赴いた。
6月3日、来目皇子は病にかかり、征討の役を果たせなくなった。
10年冬10月、新羅の僧観勒がやってきた。そして暦の本・天文地理の本、それに遁甲方術の本を奉った。
11年(603年)夏4月1日、さらに来目皇子の兄、当摩皇子を百済を討つ将軍とした。しかし妻が亡くなったため、征討はやめになった。
4 私見
倭はヤマトと読む。奈良では大和をヤマトと読ませる。なぜ字を変えたのだろうか。これは藤原氏得意の当て字である。奈良は倭ではないから、大和の字をヤマトと読ませた。。
鳥取県中部では上神、下神の地名のように、山側を上(カミ)、海側を下(シモ)と表記する慣例がある。従って、「更造新館於難波高麗館之上」は高麗館の山側(上)ということが判る。これを「近く、脇、ほとり、二階」と訳する方が多く、山側(上)と訳する方はいない。大阪ではこれを山側(上)と訳す慣例が無いようだ。
応神紀の「軽の坂上の厩」でこれを山側(上)と訳したところ、その場所に今は倉吉市馬場町の地名がついていた。現在の東郷池西畔の湯梨浜町上浅津(山側)と下浅津(海側)もこの地の慣例を現わしている。大阪では山側(上)と訳す慣例が無いので「難波高麗館之上」の解釈に困るのである。「難波高麗館之上」は大阪ではなく鳥取県中部を舞台として書かれたものである。難波津とは鳥取県の東郷池である。
やはり、難波津は東郷池である。高麗館は湯梨浜町龍島にあったはずである。新館はその山側にあった。蘇我馬子大王の磐余池辺双槻宮は北栄町島にあった。聖徳太子(蘇我入鹿)の皇居は由良にあったが、近くに曲の後宮があるのは島である。「土地は肥えていて、水沢地が多く陸が少ない。小さな環を鵜の首筋にかけ、水に入らせて魚を捕る」。神武天皇も狭い国だといった。一切経は「倭国は東海(日本海)の海中(沿岸)にある小さな国である」とする。隋書は「倭国は百済・新羅の東南にある」とする。鵜飼いは北栄町島にいた縄文人の猿田彦一族が神武天皇の時からしていた。
蘇我稲目天皇が仏像を山名寺に置いていたが、倭国(鳥取県中部)に疫病が流行って、物部氏の反対もあり、倭国に寺院を建てることができなかった。蘇我馬子と蘇我善徳(聖徳太子)は寺院を奈良に建てることにした。その際中国の長安を模範に奈良に長安のような都を創ることを考えた。そのために隋に遣使を送った(600年)。同じ年に百済が任那を犯したので朝鮮半島情勢は不安定になっていた。任那は新羅を守るためにできた地域だから、新羅が任那を犯すことはない。反面百済は懐柔政策を織り交ぜながら南下政策をとっていた。また百済は隋に良い印象を持っていなかったようである。何度も遣隋使を派遣しているが、隋は百済と高句麗の関係を知っていたので門戸を閉ざしていた。隋ではなく大唐と書いている。隋は唐に乗っ取られるが、この頃乗っ取りが流行り、やがて百済も倭国を乗っ取った。630年の遣唐使は聖徳太子(蘇我入鹿)が出している。乗っ取りが嫌いであった聖徳太子(蘇我入鹿)は唐からの使者に冷たくあたったようだ。
608年に裴世清たちが倭国にやってくるが、蘇我馬子大王は用心に用心を重ねていたため筑紫から下関にわたり陸路で都まで来させた。それは蘇我馬子の「私は未開人で、遠く外れた海の片隅にいて礼儀を知らない。そのため内側に留まって、すぐに会うことはしなかったが、今、道を清め、館を飾り、大使を待っていた」という言葉に現れている。船で行くと地形を覚えられる恐れがあるから陸路を通らせた。したがって秦王国とは周防であろうと思われる。この地域は殷王朝末裔の準王一族がいたし、長登銅山やその近隣にも銅山があり、弥生時代の青銅器がまだ残っていたものと思われる。銅鐸や銅剣を見て裴世清は先祖が華夏の人だと信じた。今残っていないのは、東大寺大仏の資材として使われたものと思われる。
ルートは周防→広島市→三次市→庄原市→日南町→米子市→旧東郷町と思われる。
中国から贈られた三次の白い鵜
到達した海岸は米子の海岸だと思われる。そこにしばらく泊まらせられた。蘇我馬子は阿輩臺と哥多毗(日本書紀では難波吉士雄成)に裴世清らを迎えに行かせた。
おまけ
湯梨浜町龍島で東郷中学生徒によるドラゴンの舞。隋からの使い(裴世清たち12名)をもてなしたときの名残と思われる。横は中国風造りの水明荘。龍島の隣の引地には河北省が造った中国庭園の燕趙園がある。
筑紫国造磐井に賄賂を送ったのは新羅ではなく百済である [百済王12代から45代までの倭国王]
筑紫国造磐井に賄賂を送ったのは新羅ではなく百済である。
1 日本書紀・継体天皇・磐井の乱において「近江の毛野臣が、兵六万を率いて任那に行き、新羅に破られた南加羅・㖨己吞を回復し、任那に合わせようとした。このとき筑紫国造磐井がひそかに反逆を企てたが、ぐずぐずして年を経、事のむつかしいのを恐れて隙を窺っていた。新羅がこれを知ってこっそり磐井に賄賂を送り、毛野臣の軍を妨害するように勧めた」とある。
2 私見
(1) 任那は新羅を守るためにできた連合国である。日本書記は原古事記にあった「百済」を「新羅」に書き換えている。百済人の創る歴史書に百済国の悪行を書くことはできないから、原古事記に「百済」と書いてあった悪行はすべて「新羅」に書き直した。
任那とは崇神天皇(155年~258年)が「御真津」や「御真木」と同じように「御真奴」(みまな)とするようにと言われてから任那(みまな)と言うようになった。倭奴国はもともと北九州であった。大陸からの外敵から倭国を守るのが使命であった。しかし、倭国と兄弟国であった新羅にも侵略するものが出てきたため、新羅の周辺を守る伽耶国(加羅国)ができた。新羅と同じ秦韓族(徐福一行の子孫)である。北は大邱から南は釜山を中心にした北の山脈までである。新羅は逃げ場のない国だから西から侵略されそうなところを守るしかなかった。それでも倭国(鳥取県中部)と交易するには、この場所がベストであった。その新羅がなぜ倭国の国司に賄賂を送り倭国の軍隊の進軍を止めさせなければならないのか。百済は任那を占領して任那日本府(541年~)と名乗った。百済は新羅にも侵略を始めていた。窮地に陥った新羅は百済の本質を見抜いていたので、百済を任那の地から排除していった。百済は倭国に甘言を弄して朝貢や人質を送った。660年には百済王朝は倭国に亡命する。日本書紀は倭国を乗っ取った百済が創作したものであり、原古事記に書いてあった「百済」の悪行は「新羅」に書き換えた。
(2) 原古事記・磐井の乱において「近江の毛野臣が、兵六万を率いて任那に行き、百済に破られた南加羅・㖨己呑を回復し、任那に合わせようとした。このとき筑紫国司磐井がひそかに反逆を企てたが、ぐずぐずして年を経、事のむつかしいのを恐れて隙を窺っていた。百済がこれを知ってこっそり磐井に賄賂を送り毛野臣の軍を妨害するように勧めた」とあった。 百済王朝は高句麗と同じく中国の兵法書「六韜」に基づいて行動していた。「六韜第十五文伐篇」には賄賂のことが詳しく書いてある。倭国に亡命後「六韜」に基づいて大田皇女と鸕野讃良皇女を天武天皇に贈ったのも百済士人(天智と鎌足)である。不比等も「六韜」に従い権力者を徹底的におだてた。
日本書紀の「新羅」は、原古事記では「百済」と書いてあった。主語を百済から新羅に書き換えるだけだから簡単なことである。卑弥呼の伝承をすべて神功皇后に書き換えるのと同じことである。
百済は高句麗の手先である。高句麗と戦争をし、負けて再び建国し、また南下した、とあるが百済は倭国に敗れ北に退散したが高句麗にはっぱをかけられ「六韜」を教えられ、再び南下した。任那を侵略するにあたって倭国の重臣磐井に賄賂を送った。その結果が磐井の乱(527年)である。
(3) 5世紀後半から6世紀前半にかけて朝鮮半島西側で百済と倭国は争っていた。任那日本府の成立(541年~)は百済(日本)が任那を占領したことを示している。また、その時代の記紀の記述は原古事記を大きく改ざんしたものである。百済は武力だけでなくあの手この手を使って新羅と倭国を奪おうとしていた。
3 〈参考〉 ※参考文献 『六韜・三略』 守屋 洋 著
「六韜」 第十五 文伐篇
文王が呂尚にたずねた。
文王「武力を使わないで目的を達するには、どうすればよいか」
呂尚「それには次の12の方法が考えられます。
第一は、相手の欲するままに要求を聞き入れてやれば、やがて驕りの心が生じ、必ずや墓穴を掘るようなことをしでかします。
第二は、敵国の寵臣を手なずけて、君主と権力を二分させるのです。
第三は、側近の者に賄賂を贈って、しっかりとかれらの心をとらえるのです。
第四は、相手国の君主に珠玉を贈り美人を献じ、女に溺れて政治を忘れるように仕向けたうえ、下手に出て、相手の言いなりになって調子を合わせるのです。
第五は、相手国の忠臣を厚遇し、君主への贈物は減らして、相手の結束に楔を打ち込むのです。
第六は、相手国の内臣を懐柔し、外臣を離間するのです。
第七は、相手国の野心を封じこめるために、厚く賄賂を贈って寵臣を買収し、利益で釣って職責を怠るように仕向けるのです。
第八は、相手国の君主に重宝を贈って、わが方を信頼するようにさせ、わが方に協力させるように仕向けるのです。
第九は、相手国の君主を褒め上げていい気持ちにさせ、手も足も出ないふりをして安心させ、政治を怠るように仕向けます。
第十は、謙虚な態度で相手国の君主に仕えて心をつかみ、頼りになる味方だと思わせるのです。
第十一は、相手国の有能な臣下に、内密に高い地位を約束し、重宝を贈って手なずけ、わが方に肩入れする人間を増やすのです。
第十二は、相手国の乱臣を手なずけて君主の心を惑わし、美女や歌舞団を送って関心をそちらに向けさせるのです。
以上の12の策をすべて試みてから武力を行使するのです。つまり、天の時、地の利を考え、これなら勝てると見極めてから、はじめて軍事行動を起すのです。
天武天皇の后・妃・嬪・宮人について [百済王12代から45代までの倭国王]
天武天皇の后・妃・嬪・宮人について
「 新しい日本の古代史」(AKIRA KATO)はおかしいと思われる部分もありますが同感な部分を引用します。
1 「 新しい日本の古代史」(AKIRA KATO)より
(1)鎌足は、暗唱できるほどに中国の古い兵法書「六韜」(りくとう)を愛読していた(藤氏家伝)。
この「六韜」には例えば、
「寵姫がいたらもっと美しいライバルを送り込め、そうすれば 宮廷は二つに分かれて大変なことになるだろう」とある。これは「鎌足」が天武天皇に実行している。
また「権力者がいたら側近になって徹底的におだてろ、そうすれば 彼は反省を失い判断力が鈍るだろう」とある。これは「不比等」が天武天皇・高市天皇、忍壁天皇、穂積天皇に実行している。
この「六韜」の精神はこれ以降も、藤原氏のバイブルとして、子孫へと引き継がれてゆく。
(2)平安時代は政治・社会が六韜精神で運営されていた。
都の正門がボロボロだろうが、火事で燃えて無くなろうが、そんな事は藤原氏にとっては、どうでもいいわけです。 自分だけが阿弥陀さんのそばにいれば、 庶民がどうなろうと知った事ではないと思っていたわけです。この当時は検非違使という現在の警察にあたるものはありましたが、 正式には、法律に定められていない組織でした。それで、都といえども、警察などあってもないようなもので、無政府状態だったわけです。 そんなわけで、人殺し、盗みはしたい放題といった状態です。今の感覚からすれば、もうむちゃくちゃです。これが、藤原政権のやっていることです。要するに、庶民の事など、虫けらも同然のように考えているわけで、まともな政治なんてやっていません。 平安時代というと、いかにも優雅で、雅やかな、なんとなく源氏物語絵巻などが、イメージとして浮かんできますが、とんでもない話です。 おそらくそれは、藤原氏の、ごく一部の生活模様だったでしょう。 何しろ、藤原氏は聖徳太子が示したようなビジョンを持ちません。国をよくするという考え方を持つことはできなかったでしょう。 六韜主義一本やりで、政権を奪い取ったわけですから、ひと言で言えば、大和朝廷を私物化したわけです。その後の荘園制度を見れば、 このことは一目瞭然です。
2 私見
(1)天武天皇は額田王と尼子娘(どちらも出身は鳥取県西部)を妻として十市皇女を儲けたが、後に額田王は中大兄皇子の妃になった。日本書紀は天武天皇の即位を673年とするが、十市皇女(653年生)高市皇子(654年生)より天武天皇の即位は蘇我倉山田石川麻呂天皇の死亡年の649年と思われる。
(2)660年百済国は滅亡し百済王朝は倭国に亡命した。鎌足は新羅の後ろには天武天皇がいることを知っていたので「六韜」の「寵姫がいたらもっと美しいライバルを送り込め、そうすれば宮廷は二つに分かれて大変なことになるだろう」を実行した。660年大田皇女と鸕野讃良皇女は額田王と十市皇女と引き換えに倭国(鳥取県中部)の天武天皇(皇居は倉吉市の賀茂神社)のもとにきた。北栄町曲の後宮にいたカヂ媛娘もこのころ天武天皇の宮人となる。
(3)倭国から奈良へのルート
羽曳野市野中寺の仏像台座框に「丙寅年(666年)の4月中宮天皇が病気になったとき栢寺の僧侶たちが平癒を請願して奉った弥勒菩薩像である」との銘文が刻まれている。中宮天皇とは奈良滞在中に父の蘇我入鹿天皇(聖徳太子)が造った斑鳩の中宮におられた天武天皇のことである。
栢寺は白鳳時代に総社市にあった。天武天皇の病気平癒を請願するのがなぜ吉備の僧侶なのかと疑問に思われるが、総社市の栢寺は伯耆国の寺院(大御堂廃寺、大原廃寺、斉尾廃寺、上淀廃寺、大寺廃寺など)と同じ頃に天武天皇が創建したものである。天武天皇は奈良に行くのに倉吉から東ではなく一旦西の琴浦町斉尾廃寺と淀江町上淀廃寺と伯耆町大寺廃寺に泊まり、南の総社市の栢寺に泊まってから奈良に行かれた。額田王と尼子娘の出身が鳥取県西部なので現在のJR伯備線とほぼ同じルートで総社市に出て奈良県斑鳩の中宮に行かれた。天武天皇が斑鳩の中宮にいた時、天智、鎌足は桜井市の多武峯をテロの拠点にしていた。
(4) 尼子娘と額田王
181号線上からはどこでも秀麗な山容の大山が見える。尼子娘は胸形徳善の娘である。胸形の君は米子市長砂町で宗像三女神を祀っていた。北九州の宗像大社の本家である。青森県の棟方氏もここの出身である。尼子娘は米子市長砂町の出身である。
伯耆町大殿から大寺廃寺が発掘された。大寺廃寺も天武期である。天武天皇が創建した。天武天皇は伯耆町大殿の大寺に泊まって総社市に出られた。大殿のちかくにはJR伯備線がある。
額田王は伯耆町大殿の出身である。珍獣ハンターのような例外もあるが伯耆町は美人の産地である。小野小町や神武天皇の媛蹈鞴五十鈴媛命も鳥取県伯耆町出身である。鎌足と天智は「六韜」の「寵姫がいたらもっと美しいライバルを送り込め・・・」を計画したが額田王は大田皇女と鸕野讃良皇女より美しかったので、額田王との交換を提案した。
665年に定恵が百済士人に毒殺されている(藤氏家伝)ので、665年にはすでに毒殺の手段が使われていた。666年に天武天皇は大田皇女と鸕野讃良皇女ともに奈良の斑鳩の中宮にいた。鎌足は天智を通して鸕野讃良皇女に会っていた。この時の天武天皇に対する毒殺は未遂に終わったが、一緒にいた大田皇女は毒殺された(667年2月)。このとき不比等はまだ7歳で鎌足と一緒にいたので、おそらく実行犯は鎌足と接触があり毒殺方法を教わった鸕野讃良皇女と思われる。天武天皇の食事にも毒薬が混ざった。
(5)667年唐の使者が筑紫に来日した。百済王朝は飛鳥から近江に遷都した、というよりも、いよいよ見つかりそうになって天智と鎌足は多武峯から近江に逃げたのが真相と思われる。
669年藤原鎌足は蘇我入鹿天皇、蘇我倉山田石川麻呂天皇暗殺の首謀者とみなされていた。天武天皇も毒殺しようとしていた。藤原鎌足は見つかり殺害された。669年以降、残された藤原鎌足の子3人(氷上娘・不比等・五百重娘)は天武天皇に引き取られた。不比等は「六韜」の「権力者がいたら側近になって徹底的におだてろ、そうすれば 彼は反省を失い判断力が鈍るだろう」を実行し、この「判断力が鈍った」天武天皇やその側近を毒殺していった。
670年に父の蘇我入鹿天皇(聖徳太子)が創建し天武天皇(中宮天皇)が滞在していた斑鳩宮が放火により焼失した。犯人は天智と思われる。翌年、天智は山科で殺害された。
(6)壬申の乱のあと673年以降に大蕤娘、新田部皇女、大江皇女が天武天皇のもとに来ているが 、新田部皇女、大江皇女、弓削皇子は699年に毒殺されている。
壬申の乱で活躍した天武天皇の家臣20名ほどと天武天皇も不比等と鸕野讃良皇女に毒殺されている。その後、不比等は高市天皇、忍壁天皇、穂積天皇を毒殺した。不比等のおだてを見ていた周囲の者は誰も不比等が犯人だとは思わなかった。
(7)伯耆国の上淀廃寺は奈良国立文化財研究所のもと所長が亡くなる前に「天武期」と言われたそうである。伯耆国の大御堂廃寺(泊瀬の斎宮)、斉尾廃寺(伊勢神宮と並立していた)、大原廃寺、上淀廃寺、大寺廃寺などは天武期に創建されている。法隆寺西院は同じ伽藍配置の斉尾廃寺が天武期に創建されているので天武天皇が再建された。藤ノ木古墳は聖徳太子の生前墓で斑鳩寺は蘇我馬子と入鹿(聖徳太子)を祀るために創建されたという説があり、聖徳太子(蘇我入鹿天皇)の子の天武天皇にとって焼失した斑鳩寺をほっておくことはできないのが人情である。金堂も斑鳩寺とは角度が違うので再建されている。東院(夢殿など)は734年以降に藤原氏が建立した。
「聖徳太子=蘇我善徳=蘇我入鹿」説について [百済王12代から45代までの倭国王]
鳥取県湯梨浜町「引地」は本田善光が一光三尊阿弥陀如来を引き上げた地である [百済王12代から45代までの倭国王]
鳥取県湯梨浜町「引地」は本田善光が一光三尊阿弥陀如来を引き上げた地である。
1 難波の堀江とはどこか
日本書紀・欽明天皇・仏教公伝において「天皇はいわれた。『それでは願人の稲目宿禰に授けて、試しに礼拝させてみよう』と。・・・。小懇田の家に安置し、寧ごろに仏堂を修めるよすがとした。向原の家を清めて寺とした。後に国に疫病がはやり、人民に若死にする者が多かった。物部大連尾興・中臣連鎌子は共に奏して、・・・仏を早く投げ捨てて、後の福を願うべきです、といった。・・・。役人は仏像を難波の堀江に流し捨てた」とある。
善光寺縁起によると「信濃の国の本田善光が国司に伴って都に参った折、たまたま難波の堀江にさしかかると、『善光、善光』と呼ぶ声がどこからともなく聞こえてきた。そして、驚きおののく善光の目の前に、水中より燦然と輝く尊像が出現したので、善光はそれを持ち帰った。それが現在善光寺で祀られている秘仏本尊の一光三尊阿弥陀如来像である」とする。
通説は「難波の堀江」を、向原寺(豊浦寺)の一角にある「難波池」と称される小さな池であるとしたり、大阪の和光寺あたりであるとしている。
2 私見
鳥取県湯梨浜町の「引地」とは 本田善光が一光三尊阿弥陀如来を引き上げた地だから付けられた地名である。この地名について藤原氏は「中将姫の遺跡を奈良の当麻寺から分移して引き移したので引地という」とする。こじ付けのようで苦しい説明である。ここに中将姫伝説を広め仏像が引き上げられたことを消そうとした。これは孝霊天皇がいた湯梨浜町宮内に下照姫の伝承を広め、天皇のいた打吹山に天女伝説を広め、崇神天皇のいた津山の中山神社に猿伝説を広めた藤原氏の手法である。引地の地名を中将姫の伝説に絡めて分からなくする手法である。
日本書紀の「難波」は東郷池に比定できる。14代仁徳天皇の「難波」高津宮と15代応神天皇の「難波」大隅宮も東郷池周辺であると思われる。東郷池は入り組んだ地形のため難しい波が入ってきていた。波延(ハエ)も東郷池の波の状態を表わすものである。もともと東郷池を「難波」と呼んでいた。藤原氏は難波の地名を大阪に移して東郷池では使わせないようにした。
紀元前200年頃は今より海抜が4m高かった。紀元600年頃は今よりまだ少なくとも1mは高かったはずである。海抜が1m高い東郷池の地形である。引地の九品山大伝寺の前まで水面が来ている。「難波の堀江」は湯梨浜町引地の前にあった。龍島あたりに島が出現する。蘇我稲目天皇の「磯城島金刺宮」は湯梨浜町龍島にあった。
藤原氏は「引地」の地名を巧みに隠そうとしているが、仏像を「引き上げた地」と解するほうがよほど自然である。
3 奈良の当麻寺
山門
国宝の本堂
中将姫の像 電線が多すぎる。
4 湯梨浜町引地の九品山大伝寺
中将姫の像
本堂の中 阿弥陀二十五菩薩立像がある。
奈良の中将姫よりふくよかである。
奈良は崇神天皇(155年~258年)の時より全国の代表者が集まって祭祀をする場所として始まった [百済王12代から45代までの倭国王]
奈良は崇神天皇(155年~258年)の時より全国の代表者が集まって祭祀をする場所として始まった。
1 桃太郎(倭健・吉備武彦)と卑弥呼(倭姫)のヤマト王権は西は九州から東は岩手県まで平定したが準王一族の生贄を伴う祭祀を徐福がもたらした道教に改宗させた。卑弥呼は巡行の先々で神社を創っていった。しかしそのときだけで改宗できるはずがない。ヤマト王権は時に触れて全国の代表者を集めて道教の祭祀をしなければならなかった。その場所が奈良であった。卑弥呼(倭姫)のいた志摩国でもいいのだが、殺される危険性があった。
桃太郎(倭健・吉備武彦)と卑弥呼(倭姫)は奈良県田原本町の法楽寺に前線基地を設けて唐古・鍵集落を攻撃し平定した。崇神天皇が大田田根子を探してきて全国の代表者を集めて神浅茅原で祭祀を行ったのは、鳥取県北栄町下神の三輪山周辺である。しかし、東国の代表者が鳥取県中部に来るのは大変であることがわかり、全国の代表者を集めての祭祀は、奈良の纒向で行うことにした。奈良全体の環濠を埋めさせたのは190年ごろだから、桃太郎(倭健・吉備武彦)がなくなって後、崇神天皇になってからである。崇神天皇から数代は奈良の纒向にも宮があったはずである。しかし、皇居は鳥取県中部であり、奈良の宮は四ノ宮か五ノ宮であった。二ノ宮は大陸からの使節や新羅からの使いを迎えるため、シキ(東郷池周辺)に置いていた。三ノ宮は瀬戸内の奥の美作である。四ノ宮は大阪か奈良である。
2 孝霊神社
奈良県田原本町の庵戸神社(もと法楽寺)は孝霊天皇の皇居跡ではなく、孝霊天皇の一族(卑弥呼と桃太郎)のヤマト王権が唐古・鍵集落を平定するときの前線基地であった。このとき孝霊天皇自身は広島県府中市の南宮神社におられた。孝霊天皇の皇居は府中市より北の鳥取県湯梨浜町宮内にあった。
奈良県法楽寺の伝承には「聖徳太子が飛鳥より法隆寺へ通う途中の屏風の地にて休息された時、南方に紫雲の棚引くのを訝られ、調べさせたところ、七代孝霊天皇の一族を祭る小さな祭祀を見つけられ、ここを捨て於いては申し訳が立たないと、この祭祀を守るべく、立派な寺を建てられた」とある。「小さな祭祀」とは小さな祠のことである。「七代孝霊天皇の一族」とは桃太郎(倭健・吉備武彦)と卑弥呼(倭姫)のことである。「ここを捨て於いては申し訳が立たない」と思われたのは孝霊天皇一族が聖徳太子(二十九代天皇)の直系の先祖であったからである。その後、法楽寺は衰退の一途をたどった。これは三重県志摩市磯部町の千田寺と同じである。
(千田寺案内板より)「聖徳太子が、神異不思議のあらわれてある千田の由来を聞かせられ『わたくしその地を遊覧しよう』と千田の神池に行幸なされた。大へん感嘆され、この地を末の世までも栄えさせようと、殿堂を多く建て、山を無量山といい、寺を千田寺と名づけ、倭姫命の古語りを残し、太子自ら三歳の姿を彫刻して納められた古い遺跡であることが明らかである」とある。倭姫命(卑弥呼)と聖徳太子(蘇我入鹿天皇)は同郷(鳥取県中部)である。
3 私見
法楽寺から唐古・鍵遺跡まで東に2.23kmである。前線基地を置いて攻撃するには良い距離である。七代孝霊天皇の一族を祭る小さな祭祀(祠)は桃太郎(倭健・吉備武彦)と卑弥呼(倭姫)の倭王権が唐古・鍵遺跡を攻撃するための前線基地としていた場所である。聖徳太子(第二十九代蘇我入鹿天皇)は桃太郎(倭健・吉備武彦)や卑弥呼(倭姫)と同郷(鳥取県中部)なので二人の功績を称えてそこに法楽寺を建てた。
上宮聖徳法王帝説は聖徳太子ゆかりの7寺として、法隆寺(斑鳩寺)、広隆寺(蜂丘寺)、法起寺(池後寺、尼寺)、四天王寺、中宮寺(尼寺)、橘寺(聖徳太子生誕地)、葛木寺(尼寺)を上げる。
このうち実際に太子が創建に関わったと考えられるのは法隆寺で、その他畿内で太子が創建に関わったのは法楽寺と千田寺と飛鳥寺くらいである。藤原氏は千田寺に勅使門を造り衰退に追い込んだ。聖徳太子ゆかりの7寺には藤原氏に都合のよい寺も含ませている。
4 蘇我氏が仏教を我が国の宗教とするまでは、徐福が持ち込んだ道教が倭国の宗教であった。現在の神道にも道教と共通する部分が残っている。蘇我稲目天皇の時代の仏教は中国で道教と儒教が濃く混ざった挌義仏教であった。それまでは道教だけであったので、道教以外の宗教が混ざった格義仏教に天皇家は魅力を感じていた。物部氏は石上神宮の武器を守り、国の存続のためには武力を軽視してはいけない、と忠告した。蘇我氏はそれを押し切って仏教を導入した。私見では蘇我氏と物部氏の争いは、外部で見ていた藤原氏がのちに大げさに書き立てただけであって、戦争というようなものではなかった。蘇我稲目天皇の皇居のある打吹山の向かいの山を向山という。その麓の三明寺集落を向原といっていた。蘇我稲目はここに仏像を置いた。現在は山名寺がある。難波の池とは東郷池のことであった。東郷池の畔の九品山大伝寺では中将姫を祀っている。中将姫を祀っている寺は他に奈良の当麻寺と信州善光寺だけである。東郷池と信州善光寺は関係がありそうである。
ちなみに、物部氏の集落に比定している倉吉市大原の倉〇さんは倉吉市弓削に親戚があり、法事で弓削集落に行かれた。
5 15代応神天皇(葛城長江襲都彦)の時に高句麗と百済は新羅を侵略した。20代の雄略天皇に至るまで倭国は朝鮮半島を平定することに注力した。その頃の朝鮮半島からの難民や渡来人は河内や奈良に住まわせた。15代から20代までの天皇の宮が奈良にあったかどうかは疑問である。全国の代表者を奈良に集めて祭祀をしているような暇はなかったはずである。倭国は5世紀始めには高句麗を今の北朝鮮と中国の国境まで追い込んでいった。そして、20代雄略天皇まで安東(朝鮮半島を安んじる)将軍の肩書を中国に求めた。朝鮮半島を平定してからは高句麗も百済も倭国に人質を送り、朝貢してくるようになった。新羅王も殺されていたので最初のうちは新羅からも人質を取った。百済国のあった場所で前方後円墳がみつかるのは、このときの戦で亡くなった倭国の将軍たちを百済(馬韓)の地に葬ったからである。
朝鮮半島情勢が落ち着き、挌義仏教が入ってくるようになると倭国(鳥取県中部)は再び奈良で祭祀することを始めた。蘇我氏は奈良の飛鳥に仏教寺院を建立した。蘇我馬子を嶋大臣といい蘇我入鹿を等由良大臣といった。馬子は飛鳥の嶋に宮を置き、入鹿は飛鳥の等由良に宮をおいた。馬子の皇居は鳥取県北栄町島にあり入鹿の皇居は鳥取県北栄町由良にあった。
二人とも馬に深く関係するが倉吉市馬場町(日本書紀・応神記・軽の坂上の厩に付合)に厩があった。倉吉市馬場町は馬子の皇居(北栄町島)の南、物部氏の集落(大原)の北西になる。入鹿の産屋が馬場町にあってもおかしくない。厩戸皇子は倉吉市馬場町で生まれ父の皇居はすぐ北の北栄町島集落にあり母の実家は南東の倉吉市大原にあった。厩戸皇子とは聖徳太子のことであり、蘇我入鹿のことであった。のちに29代天皇となり、皇居は鳥取県北栄町由良宿に置いた。
由良宿の丘陵地では大量の土器や石器が出てきていたことを確認している。ただし、大栄町やそれ以前の由良町は北条町とは異なり遺跡に関してはあまり関心が無かったようで、工事を止めて遺跡を発掘することをしていない。「由良」とは由良川の上流の亀谷にいた木花咲耶姫が付けたという伝承があるから、蘇我入鹿の時代でも「由良」といっていたはずである。ここに蘇我入鹿天皇(聖徳太子)の皇居である由良宮があった。
由良の丘陵地
6 天武天皇は蘇我入鹿の子である。
「大海人皇子は飛鳥に着くと嶋宮に入っている。また壬申の乱の戦いに勝利し、飛鳥に凱旋したときも嶋宮に入っている。嶋宮は飛鳥における大海人皇子の居宅であったことがわかるが、この嶋宮は元は蘇我馬子の旧宅であったといわれている。大海人皇子は馬子の嫡流であったからこそ嶋宮を自らの居宅としていたと考えられる」とする説がある。私も天武天皇は蘇我入鹿の子であると解する。大海人皇子は649年(18歳)にはすでに倭国天皇に即位していた。皇居は倉吉市賀茂神社にあった。亡命百済王朝を平定するために奈良に行幸された。壬申の乱は初めから計画されていた。父の蘇我入鹿と蘇我倉山田石川麻呂を殺害したのは鎌足であることが判り、669年に鎌足を殺害し、670年に斑鳩寺を放火全焼させた天智を671年に近江で殺害したが、天武天皇は亡命百済王朝の危険性に気付いたからである。