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千三百年の間、藤原氏に消されてきた伯耆国(鳥取県中西部)の真実の歴史が、今よみがえる。

「聖徳太子=蘇我善徳=蘇我入鹿」説について [百済王12代から45代までの倭国王]

「聖徳太子=蘇我善徳=蘇我入鹿」説について

 藤原氏は嘘を積み重ねれば本当になるとした。偶然も積み重ねると真実が見えてくる。藤原氏は記紀だけでなくほかの文献や遺跡や神社も嘘を積み重ねていった。それは百や千どころではない。万の嘘だと思われる。記紀を世に発表するまで数百年にわたって嘘を作ってきた。
 「聖徳太子は蘇我入鹿である」(関裕二)を読んでみた。結論は賛成である。しかし、理論構成においておかしいと思われるところがある。例えば、私は架空の天皇としている「推古天皇が大々王である」としておられる。また、二朝並立論も賛成であるが、「九州王朝」と「出雲王朝」が並立していたと論じておられる。二朝とは、倭王朝(鳥取県中部)と亡命百済王朝(日本)のことである。
 出雲は準王一族の本拠地であり藤原氏が倭国を乗っ取ってからテーマパーク化したところである。出雲王朝(島根県東部)は倭王朝(鳥取県中部)ではない。九州にも吉野ヶ里を始めとして準王一族は多くいた。現政権が吉野ヶ里や八幡神社を大事にするのはそのためである。
 関裕二氏の他の本では天孫降臨の地は宮崎県であるとしておられる。ここにも高天原があるが、いたのは天孫族(徐福一族)ではなくて準王一族(鬼八)であった。阿蘇にも準王一族(鬼八)がいた。
 また、倭健命は実在したが、関裕二氏は実在しなかったとする。

1 「元興寺伽藍縁起帳」において大々王の文字が使われている。大々王とは蘇我馬子である。
 「大々王の牟久原の後宮」を二回、「大々王の後宮」を二回つかっている。
 「後宮」とは、皇帝や王などの后妃が住まう場所。日本では、平安京内裏の七殿五舎、江戸城大奥が該当する(ウィキペディア)。「後宮」とは男王に侍る女がいるところであるから、大々王は男性である。
 「池辺天皇は大々王と馬屋門皇子の二人に、法師寺を作る場所を見定めるようにと命じた。・・・・。聡耳皇子と馬古大臣はともに寺をつくる場所を見定めた」とある。
 「寺をつくる場所を見定める」ように天皇に命じられたのだから、実際に「寺をつくる場所を見定めた」のも命じられた二人である。天皇の命に反して見定める者が変わったときは書かれるはずである。馬屋門皇子も聡耳皇子も聖徳太子の別名であるから同一人物である。あと一人の大々王と馬古大臣も同一人物となる。
※ 『元興寺伽藍縁起并びに流記資材帳』を偽書ではないと擁護する説もある。それによると「馬屋門皇子と聡耳皇子は同一人物でともに聖徳太子のことである。同一人物をあえて別々の名で記すことによって、大々王と馬古大臣が、名が異なっていても同一人物だと『元興寺伽藍縁起并びに流記資材帳』の作者は暗示しているのである。作者は蘇我馬子の正体を隠しつつ、このような『暗号』を使って何とか歴史の真実を後世に残そうと苦心しているのである」とする。

2  聡耳皇子(聖徳太子)は蘇我馬子の子である。
 縁起の中で大々王は聡耳皇子を我が子だと言っている。
 「大々王天皇命が等由良宮(豊浦宮)で天下を治めていた時、癸丑(593)年、聡耳皇子を呼んで言った。『この桜井寺は私とあなたが仏法を忌み捨てることができず、仏法を行った最初の寺であり、また遺言の大命を受けこうして存在している寺です。私たちがこの寺にいて、まさに荒れてなくなってしまおうとしている時、あなたはまごころをもって、斯歸嶋宮で天下を治めた天皇のために作り奉りました。しかし私はこの等由良宮(豊浦宮)を寺にしようと思います。それで宮門に遷し入れ急ぎ作ることにしました。今はほかのものはさておいて、我が子よ、すぐにことにあたってください(我子急速可仕俸)。宮は小治田に作ります。また尼たちが行う白羯磨のために法師寺を急いで作ってください』」とある。

3 蘇我善徳=蘇我入鹿
(1)「元興寺伽藍縁起帳」には「巷哥有明子(蘇我馬子)大臣の長子・善徳を責任者とし、もって元興寺を建てた」とある。
(2)蘇我入鹿は蘇我馬子の太郎である。(「藤氏家伝」「法王帝説」「聖徳太子伝暦」は・・太郎と記載)
 ※ 腹違いの子が何人いようと、一人の父親の長子(男の)・太郎(長男)は一人しかいない。蘇我馬子の長子(男の)・太郎(長男)は蘇我善徳(元興寺伽藍縁起帳)であり、蘇我入鹿(「藤氏家伝」「法王帝説」「聖徳太子伝暦」)である。このことより、蘇我善徳=蘇我入鹿となる。

4 聡耳皇子(聖徳太子)=蘇我善徳
(1)聡耳皇子(聖徳太子)は蘇我馬子の子である(元興寺伽藍縁起帳より)。
 蘇我馬子の子に聖徳太子はいないから実在した子の別名であったことは容易に察しが付く。
 蘇我馬子の子にについては蘇我善徳、蘇我倉麻呂、蘇我蝦夷の三人であり、蘇我入鹿は孫とする。
 蘇我蝦夷は国史等に事績があり実在していたように思われる。しかし、甘橿丘遺跡からは一人分の邸宅跡しか発掘されていない。藤原氏は一人の事績を蝦夷と入鹿親子に分けて演じさせた。
 蝦夷と入鹿親子は同一人物であり、蘇我善徳に吸収される(蘇我入鹿と蘇我善徳は蘇我馬子の長男だから)。
 したがって、蘇我馬子の子は蘇我善徳と蘇我倉麻呂の二人に絞られる。聖徳太子は蘇我善徳か蘇我倉麻呂かのどちらかである。
(2)蘇我馬子と厩戸皇子は国記・天皇記の編纂、十七条の憲法の制定、冠位十二階の制定、遣隋使の派遣、法隆寺や法興寺などを建立し仏教の普及に努めた、などの国家的事業を行っている。
 蘇我倉麻呂の事績は「日本書紀」巻第二十三の舒明天皇即位前紀に「蘇我倉麻呂は次期大王を決める席で意見を保留した」とだけある。
 蘇我善徳は法興寺(わが国で最初の寺院)の寺司(管理人)に任命された。法興寺の伽藍縁起帳に聡耳皇子(聖徳太子)は何度も出てくる。聡耳皇子(聖徳太子)に関係が深いのは蘇我善徳である。
(3)聖徳も善徳も徳の一字がある。聖武天皇の時代、聖武の「聖」と善徳の「徳」を取って聖徳太子の諱をつけた。聖徳太子(聡耳皇子)は徳の字が同じ善徳と思われる。聖徳太子は蘇我善徳であった。
 胸形尼子姫(皇子の天武天皇の正后)の父は胸形徳善という。また同時代に生きた新羅の女王の諱は善徳女王という。善徳は大王であったので、新羅の善徳女王とも交流があった。
  このことより、聡耳皇子(聖徳太子)=蘇我善徳となる。

5 私見
 結論として、聖徳太子=蘇我善徳=蘇我入鹿となる。
 穴穂部間人皇女は架空の用明天皇の皇后であるので架空である。架空なので実在は証明できないが、物部出身であるところは同じにしている。物部鎌姫大刀自連公がモデルであると思われる。架空の用明天皇と架空の穴穂部間人皇女との間にできた厩戸皇子の名はニックネームである。本名は蘇我善徳といった。
 キリストは厩の中で生まれたが、蘇我善徳は厩の外で生まれた。急に産気付き厩の前で生まれたとしているが、倉吉市馬場町(応神天皇の時代にできた軽の坂上の厩)に産屋を建てていた。
 日向の御子と同じように厩戸皇子は鳥取県中部のものが付けたニックネームである。本名は蘇我善徳である。聖徳太子とは蘇我善徳をモデルにした聖武天皇の時代に付けられた諱であった。

6 「隋書 東夷 倭国」について
 608年の隋の倭国使たちは九州から陸路で倭国(鳥取県中部)まで来た。経路は周防→岩国→広島→三次→日南町→米子→湯梨浜町と思われる。倭国は日本海沿岸にあったから、ついた海岸が日本海沿岸の倭国(鳥取県中部)であった。鳥取県北栄町島にあった皇居で隋の倭国使たちは倭王に謁見した。
 倭王の名「俀王姓阿毎字多利思北孤 號阿輩雞彌」とあり、姓は阿毎、字は多利思北孤、号は阿輩雞彌という。
 妻子「王妻號雞彌 後宮有女六七百人 名太子爲利歌彌多弗利」とあり、妻は雞彌、後宮に600~700人の女がおり、太子の名は利(和)歌彌多弗利という。
 鳥取県北栄町島のバックには600人~700人の女(100軒ほどか)がいてもおかしくないような曲り集落の地域があり、「倭王姓阿毎字多利思北孤」は鳥取県北栄町島に皇居のあった大王と思われる。鳥取県北栄町島に皇居のあった大王は島大臣(王)と言われていた蘇我馬子大王であった。王の妻「雞彌」は物部鎌姫大刀自連公であり、太子の「利(和)歌彌多弗利」は聖徳太子こと蘇我善徳(28歳)であった。
 この後蘇我善徳(聖徳太子)と隋の倭国使たちは馬で奈良の飛鳥寺(元興寺)まで行った。この時すでに大国維新之化として奈良に藤原京・平城京を造る計画の打ち合わせを隋の倭国使たちとしていた。


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