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千三百年の間、藤原氏に消されてきた伯耆国(鳥取県中西部)の真実の歴史が、今よみがえる。

奈良は崇神天皇(155年~258年)の時より全国の代表者が集まって祭祀をする場所として始まった [百済王12代から45代までの倭国王]

 奈良は崇神天皇(155年~258年)の時より全国の代表者が集まって祭祀をする場所として始まった。

1 桃太郎(倭健・吉備武彦)と卑弥呼(倭姫)のヤマト王権は西は九州から東は岩手県まで平定したが準王一族の生贄を伴う祭祀を徐福がもたらした道教に改宗させた。卑弥呼は巡行の先々で神社を創っていった。しかしそのときだけで改宗できるはずがない。ヤマト王権は時に触れて全国の代表者を集めて道教の祭祀をしなければならなかった。その場所が奈良であった。卑弥呼(倭姫)のいた志摩国でもいいのだが、殺される危険性があった。
 桃太郎(倭健・吉備武彦)と卑弥呼(倭姫)は奈良県田原本町の法楽寺に前線基地を設けて唐古・鍵集落を攻撃し平定した。崇神天皇が大田田根子を探してきて全国の代表者を集めて神浅茅原で祭祀を行ったのは、鳥取県北栄町下神の三輪山周辺である。しかし、東国の代表者が鳥取県中部に来るのは大変であることがわかり、全国の代表者を集めての祭祀は、奈良の纒向で行うことにした。奈良全体の環濠を埋めさせたのは190年ごろだから、桃太郎(倭健・吉備武彦)がなくなって後、崇神天皇になってからである。崇神天皇から数代は奈良の纒向にも宮があったはずである。しかし、皇居は鳥取県中部であり、奈良の宮は四ノ宮か五ノ宮であった。二ノ宮は大陸からの使節や新羅からの使いを迎えるため、シキ(東郷池周辺)に置いていた。三ノ宮は瀬戸内の奥の美作である。四ノ宮は大阪か奈良である。

2 孝霊神社

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 奈良県田原本町の庵戸神社(もと法楽寺)は孝霊天皇の皇居跡ではなく、孝霊天皇の一族(卑弥呼と桃太郎)のヤマト王権が唐古・鍵集落を平定するときの前線基地であった。このとき孝霊天皇自身は広島県府中市の南宮神社におられた。孝霊天皇の皇居は府中市より北の鳥取県湯梨浜町宮内にあった。
 奈良県法楽寺の伝承には「聖徳太子が飛鳥より法隆寺へ通う途中の屏風の地にて休息された時、南方に紫雲の棚引くのを訝られ、調べさせたところ、七代孝霊天皇の一族を祭る小さな祭祀を見つけられ、ここを捨て於いては申し訳が立たないと、この祭祀を守るべく、立派な寺を建てられた」とある。「小さな祭祀」とは小さな祠のことである。「七代孝霊天皇の一族」とは桃太郎(倭健・吉備武彦)と卑弥呼(倭姫)のことである。「ここを捨て於いては申し訳が立たない」と思われたのは孝霊天皇一族が聖徳太子(二十九代天皇)の直系の先祖であったからである。その後、法楽寺は衰退の一途をたどった。これは三重県志摩市磯部町の千田寺と同じである。
 (千田寺案内板より)「聖徳太子が、神異不思議のあらわれてある千田の由来を聞かせられ『わたくしその地を遊覧しよう』と千田の神池に行幸なされた。大へん感嘆され、この地を末の世までも栄えさせようと、殿堂を多く建て、山を無量山といい、寺を千田寺と名づけ、倭姫命の古語りを残し、太子自ら三歳の姿を彫刻して納められた古い遺跡であることが明らかである」とある。倭姫命(卑弥呼)と聖徳太子(蘇我入鹿天皇)は同郷(鳥取県中部)である。

3 私見
 法楽寺から唐古・鍵遺跡まで東に2.23kmである。前線基地を置いて攻撃するには良い距離である。七代孝霊天皇の一族を祭る小さな祭祀(祠)は桃太郎(倭健・吉備武彦)と卑弥呼(倭姫)の倭王権が唐古・鍵遺跡を攻撃するための前線基地としていた場所である。聖徳太子(第二十九代蘇我入鹿天皇)は桃太郎(倭健・吉備武彦)や卑弥呼(倭姫)と同郷(鳥取県中部)なので二人の功績を称えてそこに法楽寺を建てた。
 上宮聖徳法王帝説は聖徳太子ゆかりの7寺として、法隆寺(斑鳩寺)、広隆寺(蜂丘寺)、法起寺(池後寺、尼寺)、四天王寺、中宮寺(尼寺)、橘寺(聖徳太子生誕地)、葛木寺(尼寺)を上げる。
 このうち実際に太子が創建に関わったと考えられるのは法隆寺で、その他畿内で太子が創建に関わったのは法楽寺と千田寺と飛鳥寺くらいである。藤原氏は千田寺に勅使門を造り衰退に追い込んだ。聖徳太子ゆかりの7寺には藤原氏に都合のよい寺も含ませている。

4 蘇我氏が仏教を我が国の宗教とするまでは、徐福が持ち込んだ道教が倭国の宗教であった。現在の神道にも道教と共通する部分が残っている。蘇我稲目天皇の時代の仏教は中国で道教と儒教が濃く混ざった挌義仏教であった。それまでは道教だけであったので、道教以外の宗教が混ざった格義仏教に天皇家は魅力を感じていた。物部氏は石上神宮の武器を守り、国の存続のためには武力を軽視してはいけない、と忠告した。蘇我氏はそれを押し切って仏教を導入した。私見では蘇我氏と物部氏の争いは、外部で見ていた藤原氏がのちに大げさに書き立てただけであって、戦争というようなものではなかった。蘇我稲目天皇の皇居のある打吹山の向かいの山を向山という。その麓の三明寺集落を向原といっていた。蘇我稲目はここに仏像を置いた。現在は山名寺がある。難波の池とは東郷池のことであった。東郷池の畔の九品山大伝寺では中将姫を祀っている。中将姫を祀っている寺は他に奈良の当麻寺と信州善光寺だけである。東郷池と信州善光寺は関係がありそうである。

 ちなみに、物部氏の集落に比定している倉吉市大原の倉〇さんは倉吉市弓削に親戚があり、法事で弓削集落に行かれた。

5 15代応神天皇(葛城長江襲都彦)の時に高句麗と百済は新羅を侵略した。20代の雄略天皇に至るまで倭国は朝鮮半島を平定することに注力した。その頃の朝鮮半島からの難民や渡来人は河内や奈良に住まわせた。15代から20代までの天皇の宮が奈良にあったかどうかは疑問である。全国の代表者を奈良に集めて祭祀をしているような暇はなかったはずである。倭国は5世紀始めには高句麗を今の北朝鮮と中国の国境まで追い込んでいった。そして、20代雄略天皇まで安東(朝鮮半島を安んじる)将軍の肩書を中国に求めた。朝鮮半島を平定してからは高句麗も百済も倭国に人質を送り、朝貢してくるようになった。新羅王も殺されていたので最初のうちは新羅からも人質を取った。百済国のあった場所で前方後円墳がみつかるのは、このときの戦で亡くなった倭国の将軍たちを百済(馬韓)の地に葬ったからである。

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 朝鮮半島情勢が落ち着き、挌義仏教が入ってくるようになると倭国(鳥取県中部)は再び奈良で祭祀することを始めた。蘇我氏は奈良の飛鳥に仏教寺院を建立した。蘇我馬子を嶋大臣といい蘇我入鹿を等由良大臣といった。馬子は飛鳥の嶋に宮を置き、入鹿は飛鳥の等由良に宮をおいた。馬子の皇居は鳥取県北栄町島にあり入鹿の皇居は鳥取県北栄町由良にあった。
 二人とも馬に深く関係するが倉吉市馬場町(日本書紀・応神記・軽の坂上の厩に付合)に厩があった。倉吉市馬場町は馬子の皇居(北栄町島)の南、物部氏の集落(大原)の北西になる。入鹿の産屋が馬場町にあってもおかしくない。厩戸皇子は倉吉市馬場町で生まれ父の皇居はすぐ北の北栄町島集落にあり母の実家は南東の倉吉市大原にあった。厩戸皇子とは聖徳太子のことであり、蘇我入鹿のことであった。のちに29代天皇となり、皇居は鳥取県北栄町由良宿に置いた。
 由良宿の丘陵地では大量の土器や石器が出てきていたことを確認している。ただし、大栄町やそれ以前の由良町は北条町とは異なり遺跡に関してはあまり関心が無かったようで、工事を止めて遺跡を発掘することをしていない。「由良」とは由良川の上流の亀谷にいた木花咲耶姫が付けたという伝承があるから、蘇我入鹿の時代でも「由良」といっていたはずである。ここに蘇我入鹿天皇(聖徳太子)の皇居である由良宮があった。

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 由良の丘陵地

6 天武天皇は蘇我入鹿の子である。
 「大海人皇子は飛鳥に着くと嶋宮に入っている。また壬申の乱の戦いに勝利し、飛鳥に凱旋したときも嶋宮に入っている。嶋宮は飛鳥における大海人皇子の居宅であったことがわかるが、この嶋宮は元は蘇我馬子の旧宅であったといわれている。大海人皇子は馬子の嫡流であったからこそ嶋宮を自らの居宅としていたと考えられる」とする説がある。私も天武天皇は蘇我入鹿の子であると解する。大海人皇子は649年(18歳)にはすでに倭国天皇に即位していた。皇居は倉吉市賀茂神社にあった。亡命百済王朝を平定するために奈良に行幸された。壬申の乱は初めから計画されていた。父の蘇我入鹿と蘇我倉山田石川麻呂を殺害したのは鎌足であることが判り、669年に鎌足を殺害し、670年に斑鳩寺を放火全焼させた天智を671年に近江で殺害したが、天武天皇は亡命百済王朝の危険性に気付いたからである。



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