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千三百年の間、藤原氏に消されてきた伯耆国(鳥取県中西部)の真実の歴史が、今よみがえる。

筑紫国造磐井に賄賂を送ったのは新羅ではなく百済である [百済王12代から45代までの倭国王]

 筑紫国造磐井に賄賂を送ったのは新羅ではなく百済である。

1 日本書紀・継体天皇・磐井の乱において「近江の毛野臣が、兵六万を率いて任那に行き、新羅に破られた南加羅・㖨己吞を回復し、任那に合わせようとした。このとき筑紫国造磐井がひそかに反逆を企てたが、ぐずぐずして年を経、事のむつかしいのを恐れて隙を窺っていた。新羅がこれを知ってこっそり磐井に賄賂を送り、毛野臣の軍を妨害するように勧めた」とある。

2 私見
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(1) 任那は新羅を守るためにできた連合国である。日本書記は原古事記にあった「百済」を「新羅」に書き換えている。百済人の創る歴史書に百済国の悪行を書くことはできないから、原古事記に「百済」と書いてあった悪行はすべて「新羅」に書き直した。
 任那とは崇神天皇(155年~258年)が「御真津」や「御真木」と同じように「御真奴」(みまな)とするようにと言われてから任那(みまな)と言うようになった。倭奴国はもともと北九州であった。大陸からの外敵から倭国を守るのが使命であった。しかし、倭国と兄弟国であった新羅にも侵略するものが出てきたため、新羅の周辺を守る伽耶国(加羅国)ができた。新羅と同じ秦韓族(徐福一行の子孫)である。北は大邱から南は釜山を中心にした北の山脈までである。新羅は逃げ場のない国だから西から侵略されそうなところを守るしかなかった。それでも倭国(鳥取県中部)と交易するには、この場所がベストであった。その新羅がなぜ倭国の国司に賄賂を送り倭国の軍隊の進軍を止めさせなければならないのか。百済は任那を占領して任那日本府(541年~)と名乗った。百済は新羅にも侵略を始めていた。窮地に陥った新羅は百済の本質を見抜いていたので、百済を任那の地から排除していった。百済は倭国に甘言を弄して朝貢や人質を送った。660年には百済王朝は倭国に亡命する。日本書紀は倭国を乗っ取った百済が創作したものであり、原古事記に書いてあった「百済」の悪行は「新羅」に書き換えた。
(2) 原古事記・磐井の乱において「近江の毛野臣が、兵六万を率いて任那に行き、百済に破られた南加羅・㖨己呑を回復し、任那に合わせようとした。このとき筑紫国司磐井がひそかに反逆を企てたが、ぐずぐずして年を経、事のむつかしいのを恐れて隙を窺っていた。百済がこれを知ってこっそり磐井に賄賂を送り毛野臣の軍を妨害するように勧めた」とあった。
 百済王朝は高句麗と同じく中国の兵法書「六韜」に基づいて行動していた。「六韜第十五文伐篇」には賄賂のことが詳しく書いてある。倭国に亡命後「六韜」に基づいて大田皇女と鸕野讃良皇女を天武天皇に贈ったのも百済士人(天智と鎌足)である。不比等も「六韜」に従い権力者を徹底的におだてた。
 日本書紀の「新羅」は、原古事記では「百済」と書いてあった。主語を百済から新羅に書き換えるだけだから簡単なことである。卑弥呼の伝承をすべて神功皇后に書き換えるのと同じことである。
 百済は高句麗の手先である。高句麗と戦争をし、負けて再び建国し、また南下した、とあるが百済は倭国に敗れ北に退散したが高句麗にはっぱをかけられ「六韜」を教えられ、再び南下した。任那を侵略するにあたって倭国の重臣磐井に賄賂を送った。その結果が磐井の乱(527年)である。
(3) 5世紀後半から6世紀前半にかけて朝鮮半島西側で百済と倭国は争っていた。任那日本府の成立(541年~)は百済(日本)が任那を占領したことを示している。また、その時代の記紀の記述は原古事記を大きく改ざんしたものである。百済は武力だけでなくあの手この手を使って新羅と倭国を奪おうとしていた。

3 〈参考〉 ※参考文献 『六韜・三略』 守屋 洋 著  

 「六韜」 第十五 文伐篇
 文王が呂尚にたずねた。
文王「武力を使わないで目的を達するには、どうすればよいか」
呂尚「それには次の12の方法が考えられます。
第一は、相手の欲するままに要求を聞き入れてやれば、やがて驕りの心が生じ、必ずや墓穴を掘るようなことをしでかします。
第二は、敵国の寵臣を手なずけて、君主と権力を二分させるのです。
第三は、側近の者に賄賂を贈って、しっかりとかれらの心をとらえるのです。
第四は、相手国の君主に珠玉を贈り美人を献じ、女に溺れて政治を忘れるように仕向けたうえ、下手に出て、相手の言いなりになって調子を合わせるのです。
第五は、相手国の忠臣を厚遇し、君主への贈物は減らして、相手の結束に楔を打ち込むのです。
第六は、相手国の内臣を懐柔し、外臣を離間するのです。
第七は、相手国の野心を封じこめるために、厚く賄賂を贈って寵臣を買収し、利益で釣って職責を怠るように仕向けるのです。
第八は、相手国の君主に重宝を贈って、わが方を信頼するようにさせ、わが方に協力させるように仕向けるのです。
第九は、相手国の君主を褒め上げていい気持ちにさせ、手も足も出ないふりをして安心させ、政治を怠るように仕向けます。
第十は、謙虚な態度で相手国の君主に仕えて心をつかみ、頼りになる味方だと思わせるのです。
第十一は、相手国の有能な臣下に、内密に高い地位を約束し、重宝を贈って手なずけ、わが方に肩入れする人間を増やすのです。
第十二は、相手国の乱臣を手なずけて君主の心を惑わし、美女や歌舞団を送って関心をそちらに向けさせるのです。
以上の12の策をすべて試みてから武力を行使するのです。つまり、天の時、地の利を考え、これなら勝てると見極めてから、はじめて軍事行動を起すのです。



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