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千三百年の間、藤原氏に消されてきた伯耆国(鳥取県中西部)の真実の歴史が、今よみがえる。

百済王12代から45代までの倭国王 ブログトップ
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日本書紀にある泊瀬山は奈良の初瀬山ではなく鳥取県倉吉市の打吹山である [百済王12代から45代までの倭国王]

 日本書紀にある泊瀬山は奈良の初瀬山ではなく鳥取県倉吉市の打吹山である。
 日本書紀・嶋王(武寧王)誕生において「6年春2月4日、天皇は泊瀬の小野に遊ばれた。山野の地形をご覧になり、深く感慨をもようされ歌われた。泊瀬の山は、体勢の見事な山である。山の裾も形の良い山である。泊瀬の山は、何とも言えず美しい。何とも言えず美しい。そこで名づけて道小野といった」とある。

1 奈良県桜井市の初瀬山について
 雄略天皇の歌った泊瀬山は奈良では桜井市長谷寺の裏にある初瀬山であるとする。
奈良県桜井市の初瀬山(はせやまと言ったりはつせやまと言ったりいい加減である)。


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 ある方は「真北から30度ほど東を見ると、龍王山(585m)、その支峰の穴師山(409m)、龍王山に連なる巻向山(565m)、巻向山の支峰である三輪山(467m)がある。その奥にあるのは初瀬山だと思う」とされる。

また「 泊瀬山は固有の山の名ではなく、桜井市初瀬を囲む山々のことである」とする方もいる。
※ 私見
 桜井市長谷寺の裏にある初瀬山は人気がない。私もどれが初瀬の山なのかわからなかった。このような山を雄略天皇がわざわざ歌に詠むはずはない。山の体勢など全く分からない。本当の泊瀬(長谷)の山は鳥取県倉吉市の打吹山であった。

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 「泊瀬の山は体勢の見事な山である。山の裾も形の良い山である。泊瀬の山は、何とも言えず美しい」とする山は倉吉市の打吹山である。遠くに見えるのは蒜山(高天原)でありその向こうは吉備国である。藤原氏は湯梨浜町羽衣石にあった羽衣伝説をこちらに持ってきて「打吹山」と名付けた。天皇がいたことを隠すためである。倉吉も石上神宮(倉)にあった武器が良(吉)かったので倉吉と名付けた。

2 長谷寺について(ウィキペディアによる)

(1) 奈良県桜井市の長谷寺(はせでら)(全国長谷寺の総本山)
 長谷寺の創建は奈良時代、8世紀前半と推定されるが、創建の詳しい時期や事情は不明である。寺伝によれば、天武朝の朱鳥元年(686年)、僧の道明が初瀬山の西の丘(現在、本長谷寺と呼ばれている場所)に三重塔を建立、続いて神亀4年(727年)、僧の徳道が東の丘(現在の本堂の地)に本尊十一面観音像を祀って開山したというが、これらのことについては正史に見えず、伝承の域を出ない。
(2) 鳥取県倉吉市の長谷寺 (ちょうこくじ)
「伯耆民談記」等に伝える寺伝によれば、奈良時代の養老5年(721年)、法道を開山として創建されたという。当初は長谷(ながたに)村(現・倉吉市長谷、長谷寺の西方)にあり、後に現在地に移されたという。草創の詳しい事情や中世までの沿革は判然としないが、中世には禅宗寺院であった。堂には重要文化財に指定の厨子内に秘仏の本尊木造十一面観音菩薩坐像を安置する。

3 私見
 奈良県桜井市では「はせでら」と言い、鳥取県倉吉市では「ちょうこくじ」と言う。「伯耆民談記」は信用できるので、創建の詳しい事情は判然としなくとも721年の創建は間違いないものと思われる。総本山のほうが創建が新しいのは嘘になってしまうから、寺伝で686年の創建の伝承を作った。倉吉の長谷寺は「ちょうこくじ」と読ませて別の寺のようにしているが、十一面観音菩薩坐像を本尊にしているので同じ系列の寺である。創建時は「はせでら」といっていたはずである。藤原氏は桜井市のこの一帯を日本書紀にある「泊瀬」のテーマパークとした。

 泊瀬朝倉宮も造らなければならなかった。白山神社をその宮跡とした。ウィキペディアには「その所在地は考古学的には確定していない。宮の場所については古くから2つの説があり、『帝王編年記』などは磐坂谷(桜井市岩坂)、『大和志』などは天の森(桜井市黒崎)とするが、立地条件などから、どちらの場所も宮の所在地としては疑問視されている。黒崎の白山神社境内にも「泊瀬朝倉宮伝承地」の碑がある。」とある。
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桜井市岩坂である。

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白山神社である。

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 白山神社にある案内板「が立地的に見て、宮を営むのに適地ではない」とある。 

 私は、立地条件(葛城山や久米川や長谷山の登り口の存在)などから、泊瀬朝倉宮跡を倉吉市長谷寺の地に比定している。藤原氏はそれを隠すために読み方を変えさせたり、寺伝で創建年を古くしたりしている。つじつま合わせをしているが、最後に泊瀬の山は造ることができなかった。
 初瀬から少し下った出雲の十二柱神社に「武烈天皇泊瀬列城宮跡」の石碑を造った。
 また長谷寺の近くに一言主が見送ってくれた長谷山口坐神社を造った。由緒では「長谷山」口神社ではなく、「長谷」の「山口」神社という、とする。苦しい説明である。
 これらはみな倭国(鳥取県中部)を乗っ取ってから藤原氏が造った「泊瀬(初瀬)」というテーマパークである。泊瀬(長谷)の本物は鳥取県倉吉市中心市街地であった。









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蘇我氏三代は倭国(鳥取県中部)に皇居があった正統な天皇である [百済王12代から45代までの倭国王]

蘇我氏三代は倭国(鳥取県中部)に皇居があった正統な天皇である。 

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1 蘇我馬子の皇居は鳥取県北栄町島にあった。島の皇居の後ろには後宮があってもおかしくない曲集落の地域がある。
 元興寺伽藍縁起では等由良宮(豊浦宮)の字が3回使われている。豊浦宮の元の字は等由良宮である。旧事本紀によると「AD580年 物部鎌姫大刀自連公、宗我嶋大臣(蘇我馬子)の妻と為りて豊浦(等由良)大臣を生む。名を入鹿連公と曰ふ」とある。
 蘇我入鹿は蘇我馬子の子であり、蘇我馬子は島大臣と呼ばれ、蘇我入鹿は等由良大臣と呼ばれていた。どちらも皇居のある地名である。蘇我馬子の皇居は鳥取県北栄町島にあり、蘇我入鹿の皇居は鳥取県北栄町由良にあった。現在は北条島と由良宿になっているが、以前は島であり由良であった。奈良にあった等由良宮は四ノ宮か五ノ宮であろう。泊瀬は倉吉市中心市街地であり、蘇我稲目の皇居・泊瀬柴籬宮は打吹山の大江神社であった。
 随書には、600年高祖文帝の問いに倭国の遣使が答えた様子が描かれている。「倭王の名前は阿毎、字は多利思比孤。」比孤だから彦。男性です。「後宮に女、600~700人あり」とある。
  阿毎多利思比孤(アマノタリシヒコ)は蘇我馬子である。蘇我善徳(聖徳太子)はこのとき20歳であり、元興寺(飛鳥寺)の寺司になって4年しか経っていなかったが、翌601年に斑鳩宮の建造に着手した。608年、隋の倭国使たちを迎えるために蘇我馬子天皇とともに鳥取県北栄町島の皇居に帰っていた。北栄町島の皇居で隋の倭国使たちを迎えてから、蘇我善徳(聖徳太子)と隋の倭国使たちは馬で奈良の元興寺(飛鳥寺)まで行った。


2 先代旧事本紀は日本書紀の焼き直し、あるいはそれ以上の偽書(欠史8代を爬虫類のように表現している)に思えるが、日本書紀と異なる記述や日本書紀にない記述があるので参考になるときがある。
 例えば蘇我入鹿についての記述「AD580年 物部鎌姫大刀自連公、宗我嶋大臣(蘇我馬子)の妻と為りて豊浦大臣を生む。名を入鹿連公と曰ふ」とあるが、日本書紀では入鹿の父は蝦夷であるとする。蝦夷は馬子や入鹿や稲目などに比べて、影が薄い。日本書紀の蝦夷の記述は矛盾が多いので、蝦夷は架空の人物である。蘇我氏3代とは稲目、馬子、入鹿であった。
 蘇我入鹿の父は蘇我馬子であり入鹿の次の天皇は大臣とされている蘇我倉山田石川麻呂であった。

3 日本書紀・推古記「四年冬十一月(596年)法興寺が落成した。馬子大臣の長子善徳臣を寺司に任じた。この日から、慧慈、慧聰二人の僧が法興寺に住した」とある。
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蘇我馬子の造った飛鳥寺(元興寺)

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 聖徳太子16歳の像と言われている。なぜ飛鳥寺に聖徳太子の像があるのか、聖徳太子は法隆寺ではないのか、と不思議に思ったが 「寺司に任じられた善徳が聖徳太子である」という前提にたてばなるほどと納得できる。
 また、蘇我入鹿と蘇我善徳は同一人物である(どちらも蘇我馬子の長男となるため)。

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入鹿の首塚

4 日本書紀によれば、聖徳太子こと厩戸皇子は601年、飛鳥から斑鳩の地に移ることを決意し、斑鳩宮の建造に着手、605年に斑鳩宮に移り住んだという。法隆寺の東院の所在地が斑鳩宮の故地である。この斑鳩宮に接して建立されたのが斑鳩寺、すなわち法隆寺であった。日本書紀には天智9年(670年)に法隆寺が全焼したという記事のあることから、現存する法隆寺の伽藍は火災で一度失われた後に再建されたものである(ウィキペディアより)。
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法隆寺五重塔

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法隆寺夢殿
 おそらく法隆寺西院を再建したのは天武天皇であり、そのときに現在の伽藍配置になった。鳥取県琴浦町の斉尾廃寺も伽藍配置が現在の法隆寺西院と同じであり7世紀後半(白鳳時代)の創建であるので、天武天皇が創建したものと思われる。
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藤ノ木古墳
法隆寺再建前の斑鳩寺は藤ノ木古墳と同時に造られたという説がある。



おまけ

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法隆寺再建前の斑鳩寺は等由良大臣の蘇我入鹿(聖徳太子)が建造した。



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藤原四兄弟は新羅から来た疫病で亡くなった(737年)のではなく、新羅から来た刺客によって亡くなった [百済王12代から45代までの倭国王]

 藤原四兄弟は新羅から来た疫病で亡くなった(737年)のではなく、新羅から来た刺客によって亡くなった。

1 藤原四兄弟と舎人・新田部は奈良にいた長屋親王を死に追いやってから、倭の都(鳥取県中部)にいた穂積天皇の次の天皇(大君)を死に追いやっている(734年)。倭の都(鳥取県中部)と新羅とは、山幸彦が辰韓に行き(紀元前150年頃)、神武天皇が倭の都(鳥取県中部)で即位し(紀元前60年)、兄の稲飯命が新羅国を建国された(紀元前57年)頃から800年ほど兄弟国として交流してきた。倭の天皇(大君)が殺されて、新羅が黙っているわけがない。
 

2 通説は、藤原四兄弟が亡くなったのは続日本紀から推測して死亡原因は疫病である、とする。737年の疫病について書かれている古文書は続日本紀以外には見つからない。続日本紀は藤原氏が作成した歴史書である。日本書紀と同じように虚偽が多くある。新羅の刺客によって藤原四兄弟が亡くなったとなれば芋づる式に別に倭の天皇がいたことが判って万世一系ではなくなってしまう。新羅の刺客によって藤原四兄弟が亡くなったことは隠さなければならなかった。新羅は事の真相を確認するために735年に使者を奈良に派遣した。新羅は、亡命百済朝廷が702年の遣唐使で唐にたいして国号を「日本」に変えたと宣言したことを知っていたので、亡命百済朝廷の反応を見るため、国号を「王城国」に改称したと告知した。新羅の刺客は同じ年に舎人・新田部を殺害した。737年にも刺客を送って藤原四兄弟を殺害した。亡命百済朝廷は京都に遷都後も新羅の海賊から守るために、日本海側5か所に四王寺を造った(9世紀)。

3 聖武が逃げ回ったのも、疫病からではなく、新羅の刺客からである。時の天皇が疫病のために4回も遷都するなどは考えられない。倭は全国を統一支配しており、倭の拠点は全国に多くあった。倭の天皇ならば全国の拠点からもたらされる情報に即座に対応しなくてはならないのだから、そうそう遷都はできない。このことからも、聖武は亡命してきた百済王族の王であったことがわかる。百済のように簡単に遷都する。しかし、聖武の在位中に列島の王は1人になったので、天皇をつけてもよいかもしれないが、姓は天(アマ)ではない。阿毎(アマ)の姓を名乗る天皇は、鳥取県中部(倭の都)にいた天皇であり、穂積天皇の次の天皇で途絶えた(734年)。

4 藤原氏は741年ころより、伯耆国に新たに国庁をつくり、法華寺畑の処刑場も造って伯耆国(主に鳥取県中部)の粛清を始めた。大友皇子は飛鳥を倭京(日本書記・天武天皇・近江朝廷の対応)と呼んで百済王族の近江朝廷とは区別していた。亡命百済人の藤原氏は奈良で倭に助けてもらった恩を忘れて、奈良を倭京(倭が造った京)と言い、いつまた新羅の標的にされるかも判らないので、84年で奈良を捨てて京都に遷都した。京都に遷都して(794年)からも藤原道長が「望月の欠けることなし」と言った頃(1018年頃)まで、鳥取県中部(倭の都)の粛清は続いた。京都では新羅の都・慶州に負けじと千年以上我慢して遷都しなかった。その間も中国・朝鮮に怯えていたので、鎖国政策をとり続けた。藤原氏は「鳥取県中部はど田舎であり、何もない」と言い、京都人にも言うように仕向けた。今でも京都人は鳥取県中部に来ると「鳥取県中部はど田舎であり、何もない」と、他府県から来た者なら言わない言葉を必要以上に言う。


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古事記・日本書紀にあるシキ(磯城・師木・志幾)とは鳥取県湯梨浜町の東郷池周辺であった [百済王12代から45代までの倭国王]

古事記・日本書紀にあるシキ(磯城・師木・志幾・斯鬼)とは鳥取県湯梨浜町の東郷池周辺であった

1  欠史8代というが、鳥取県中部に実在した。第2代天皇は北栄町曲の蜘ヶ家山(葛城山)の岡神社(葛城高岡宮)に皇居があった。第3代天皇は湯梨浜町橋津観音堂に皇居があった。第4代天皇は倉吉市小田山に皇居があった。第5代天皇は倉吉市穴沢の灘手神社に皇居があった。第6代天皇は北栄町大島(室秋津島)に皇居があったが、朝鮮半島で捕らえた160人の生口(青銅器文化の一族)を中国皇帝に差し出した。第7代天皇は皇子や皇女と一緒に全国の青銅器文化の一族を平定した。第8代・第9代・第10代天皇は第7代天皇の皇子であり、卑弥呼は第7代天皇の皇女である。第7代天皇の黒田庵戸宮は鳥取県湯梨浜町宮内にあった。宮内遺跡で弥生時代後期(倭国大乱の時代)の日本一長い鉄刀が見つかっている。奈良の黒田庵戸宮はシキとされたところにある。鳥取県の東郷池周辺をシキ(磯城・師木・志幾・斯鬼)と言っていた。本当の黒田庵戸宮は鳥取県湯梨浜町宮内にあった。

2  第3代天皇と第5代天皇の諡号と皇居(古事記による)
(1)第3代安寧天皇 
諡号は、師木津日子玉手見命
皇居は、片塩浮穴宮
(2)第5代孝昭天皇
諡号は、御真津日子訶恵志泥命
皇居は、葛城掖上宮

3 古事記の第3代天皇と第5代天皇の帝紀は、旧辞を削除しているので、藤原氏は安心してそれほど改ざんしていないと思われる。  
  日本書紀は原古事記の読みに似た発音の漢字をあてているだけなので日本書紀の漢字の意味を探ろうとすれば、間違いを犯すことになる。例えば第5代天皇の諡号は古事記では「御真津」とするが日本書紀では「観松」とする。「観松」に意味はないのであって「御真津」の発音を「観松」という漢字に置き換えただけである。
 「御真」とは御真木や任那(御真奴)と同じ表現であって「本当の」という意味である。似かよったものがもう一つあることを前提とする。例えば、御真津(葦原中津国)は師木津に対応するし、御真木(津山)は木国(鳥取県智頭町)に対応するし、御真奴(朝鮮半島全羅南道の任那)は倭奴(北九州)に対応する。天孫が降臨して平定した葦原の中津(鳥取県北栄町)のことを指している。
 「御真津」にしろ「師木津」にしろ、船が出入りできる津(湾)であることを意味する。第3代天皇と第5代天皇の時代、海面は今より4mくらい高く、「御真津」「師木津」の比定地は現在の海抜4mくらいの地域で、海岸近くのはずである。御真津は「橘」の形に似ており、師木津は「柏」の形に似ていた。シキ(師木)とは津につく形容詞と思われるから、シキ(師木)の中に津があった。師木津とは鳥取県湯梨浜町の東郷池と思われる。海抜4mに海面があった時代の東郷池は柏葉の形に似ている。
 第3代安寧天皇の皇居は、片塩浮穴宮であり、師木津(東郷池)周辺にあったものと思われる。師木津は海抜4mに海面があった時代の塩分濃度の濃い地域(片塩)であり橋津・南谷地域と思われる。橋津観音堂の石段の登り口の横には穴があり、稗田阿礼は特徴を書き残していた。

4  古事記・雄略・白い犬
  雄略天皇が出かけて国の中を眺望すると、屋根の上に高く鰹木をつけて作った家があった。雄略天皇は「あの鰹木をあげて屋根を作った家は、誰の家か?」と尋ねたので、側に仕えている者が「志幾の大県主の家でございます。」と答えた、とある。

5. 鰹木をあげて屋根を造った家の埴輪が見つかった遺跡・古墳(シキの候補)
(1)長瀬高浜遺跡(鳥取県湯梨浜町) 海抜10m 海まで1km
(2)今城塚古墳(大阪府高槻市) 海抜32m 海まで24km 
(3)赤堀茶臼山古墳(群馬県伊勢崎市) 海抜135m 海まで100km
(4)岡山南遺跡(大阪府四条畷市)  海抜36m 海まで17km
(5)宮山古墳(奈良県御所市)  海抜130m 海まで24km
 鰹木をあげて屋根を造った家の埴輪が見つかった遺跡・古墳(志幾の候補)は長瀬高浜遺跡(鳥取県湯梨浜町)以外にもあるが、いずれも船の出入りできる津(湾)の近くではない。長瀬高浜遺跡(鳥取県湯梨浜町)は東郷池(津)のそばにある。
 志幾(シキ)とは師木・磯城・斯鬼(シキ)と同じであり東郷池周辺のことである。古事記・雄略・白い犬の舞台は東郷池周辺であった。難波・河内の地名は鳥取県中部にあったが、大阪に持っていき、鳥取県中部の難波・河内の地名は消した。
 古事記・日本書紀にあるシキ(磯城・師木・志幾・斯鬼)とは鳥取県湯梨浜町東郷池周辺である。


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三徳山と大御堂廃寺(泊瀬の斎宮)について [百済王12代から45代までの倭国王]

 三徳山と大御堂廃寺(泊瀬の斎宮)について

1 鎌倉時代末頃の成立と考えられる『金峯山草創記』には、「役行者の前世の姿である震旦国の好積仙人が、『仏法を開き行う所に落ちよ』と願い、三本の黄色い蓮華を投げたところ、伊予国石辻(石鎚山)、大和国弥勒長(金峯野山)、伯耆国三徳山に落ちたため、この三所は『仏法霊験の勝地』である」とある。

2 源頼朝は三徳山に剣を奉納している。
源頼朝寄付の剣(伯耆国の三徳山の宝物殿にて)

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3 「吾妻鏡」によると、文治二年(1185)源義経は兄頼朝の迫害を逃れ、吉野山の吉水院に潜居したとある。吉水神社の社伝によると、「吉水神社は役の行者の休息の庵室として創立された金峯山寺の僧坊・吉水院であった」とある。

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4 大御堂廃寺は久米寺といっていた。

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 泊瀬は長谷であり、来目は久米である。長谷はハセであり、ハッセではない。古事記の「長谷や久米」の文字は実際に地名や人名として残っているが日本書紀の「泊瀬や来目」の文字は実際の地名や人名としては残っていない。造語である。

 日本書紀の文字は古事記の発音を別の漢字をあてて改ざんした造語である。現実の地名とピッタリあてはまる古事記の文字が稗田阿礼が述べて太安万侶が書き留めた文字である。日本書紀は原古事記を改ざんしたものであり、古事記は原古事記の残欠である。

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 大御堂は地名であり大は王であり「王の御堂」とよめる。

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 久米寺(大御堂廃寺)は新羅系の道場であり、天武天皇や役行者や大来皇女や長屋王はここで格義仏教に混ざった道教の修行をした。


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三徳山(鳥取県三朝町)の開祖である役行者は泊瀬の斎宮(鳥取県倉吉市)で道教を会得した [百済王12代から45代までの倭国王]

 三徳山(鳥取県三朝町)の開祖である役行者は泊瀬の斎宮(鳥取県倉吉市)で道教を会得した。

1 鳥取県中部(倭国)の三徳山と泊瀬の斎宮

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 鴨一族(事代主をリーダーとする180人)は国譲り(紀元前190年頃)で磯城(東郷池周辺)に移っていたが神武4兄弟が居なくなって(紀元前70年頃)から、出身地の葛城に帰っていた。役行者は葛城出身という。

2 三徳山(鳥取県三朝町)

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 三徳山の投入堂

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 三徳山三仏寺本堂

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 三仏寺の輪光院

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 投入堂にあった蔵王権現像

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 三徳山の宝物殿に役行者像があったのだが、日本遺産登録の記念行事があるので、貸出されてなかった。以前、吉野山の金峯山寺に行ったときに写した役行者像で代用します。鬼神を使役するのは道教である。

3 泊瀬の斎宮(鳥取県倉吉市)

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 右の打吹山(泊瀬の山)のふもとに天武天皇の皇居があった。

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 大御堂廃寺はラグビー場になっている。右の建物はパークスクエア。山は打吹山(泊瀬の山)、麓の賀茂神社に天武天皇の皇居があった。

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  僧房(修行する者の寄宿舎)が2棟あった。天武天皇・大来皇女・役行者・長屋親王は、一年半この僧房(修行する者の寄宿舎)に寄宿され道教(格義仏教)の修行をされた。南半分は中部総合庁舎側(松ヶ坪遺跡)にあった。

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 ここでは、仏教だけでなく、道教も教えていた。道教の混ざった格義仏教である。修験道は仏教と道教が混在したものである。

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 奈良の寺院などとの関連が指摘され、大御堂廃寺を地方寺院と言うが、こちらが都であった。


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鳥取県倉吉市の大御堂廃寺(泊瀬の斎宮)では仏教だけでなく道教の修行もしていた [百済王12代から45代までの倭国王]

 鳥取県倉吉市の大御堂廃寺(泊瀬の斎宮)では仏教だけでなく道教の修行もしていた。

 日本書紀・天武天皇即位の段に「2年夏4月14日、大来皇女を伊勢神宮の斎王にされるために、まず泊瀬の斎宮にお住まわせになった。ここはまず身を潔めて、次第に神に近づくためのところである。・・・。3年冬10月9日、大来皇女は泊瀬の斎宮から、伊勢神宮に移られた。」とある。泊瀬の斎宮とはどこのことであろうか。

 泊瀬(長谷)とは雄略天皇の皇居の解明より、鳥取県倉吉市の中心市街地であることが判った。天武天皇の時代に倉吉市に斎王を養成するような施設があったのだろうか。


1 「伯耆民談記」松岡布政より 
 伯耆民談記に「久米郡駄経寺村の大御堂  これも今は堂閣なし。駄経寺村の前なる田の中に小さき董(とう)あり。それ即ち大御堂である。いにしへは大きな伽藍の道場なりと言い伝う。・・・。またこの連りに華表(とりい)縄手という径(みち)あり。駄経寺の埴守である新宮大明神への古道なり。」とある。
 

 倉吉市駄経寺より7世紀後半創建の大御堂跡が発掘された。
倉吉市文化財調査報告書  史跡大御堂廃寺跡発掘調査報告書
http://sitereports.nabunken.go.jp/13635
ぜひご覧ください


2 軒瓦からみた寺院の造営時期(報告書より)
 大御堂廃寺跡からは多種多様の遣物が出土しているが、これらの遣物のうち屋瓦をとおして寺院の造営時期について考えをまとめる。
 A群は軒丸瓦のなかで最も古式の要素をもつ1類である。これら瓦当文様の特徴から7世紀第3四半世紀代に位置付けられるものと判断される。
 B群の軒丸瓦2類から5類は、川原寺式の系統に属する瓦当文様を配するから、7世紀第4四半世紀代に位置付けられる。
 C群の軒丸瓦6類と7類は、外区の密珠文の配置が大官大寺式に共通するが、内区の瓦当文様は本薬師寺式ないし藤原宮式に近い。このような特徴から、7世紀第4四半世紀代、それも後半頃に位置付けることが可能と考えられる。


私見 
 報告者には大御堂廃寺は川原寺や本薬師寺や藤原宮よりも後に出来たという先入観がある。遅くとも壬申の乱までには完成していた。したがって、造営時期は663年から672年であると解する。天武天皇は壬申の乱のときには道教を会得しておられたからである。
 藤原宮や平城京の計画は、新羅・中国との交流があった倭国(鳥取県中部)が行った。729年までは倭国に力があったからである。


3 奈良との関係
報告書 仏像
 連立塼仏と同形のものは、奈良県山田寺跡や奈良県朝妻廃寺跡、和歌山県佐野廃寺跡、大御堂廃寺跡近くの大原廃寺跡等で出土し、その他に奈良県橘寺出土と伝えられたものがある。また、塼仏以外にも唐招提寺に所蔵される銅板押出三尊仏像に類例がみられる。
報告書 銅製品

 銅製匙は正倉院宝物・雁鴨池出土品に類似する円形匙である。
銅製獣頭は造形意匠の優れたもので類例は知られていない。材料は新羅産である。 


4 鳥取県倉吉市葵町の賀茂神社の由緒(昭和9年鳥取県神社誌)より抜粋 
 「明治までは賀茂皇大神宮と称へ衆庶の尊信特に篤し。当社隆盛の時代には神坂の東方五丁余の地に神宮寺ありて、多数の僧侶神官と共に社務を執行し、四時の祭典殷賑を極めたりし。当時の神宮寺は七堂伽藍の構造なりしと云ふ。現に寺坊の跡より巨大の礎石布目瓦等出づ。その付近に駄経寺、少林寺等の地名あり。何れも神宮寺の末寺のありし所といい伝ふ」とある。

私見

 「神宮寺では多数の僧侶神官と共に社務を執行し」とある。神官とは今の神道の宮司ではなく道教に携わる神官であった。 
 大御堂廃寺(久米寺)は仏教だけではなく道教の修行場でもあった。伯耆民談記には道場なりとある。道場の字義は釈迦が悟りを開いたところであると言われているが、道教を修行したところとも解せる。天武天皇も大来皇女も長屋親王もここで道教の修行をした。大来皇女は約1年半、この道場(大御堂廃寺)で道教の修行をされた。その後、大来皇女は泊瀬の斎宮から直線距離で14kmほど離れている琴浦町にあった伊勢神宮に行かれた。琴浦町にあった伊勢神宮についてはカテゴリ(天照皇大神宮と外宮の月下の宮)をご覧ください。

 中国の五胡十六国時代は、儒教、道教、仏教が混ざり合う時代であった。道教を真似る格義仏教が発生した。新羅を通って渡ってきた大御堂廃寺の仏教は道教が濃く混ざった格義仏教であった。




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日本書紀36代の期間と41代の期間の倭国天皇は蘇我倉山田石川麻呂天皇と高市天皇であった [百済王12代から45代までの倭国王]

  日本書紀36代の期間と41代の期間の倭国天皇は蘇我倉山田石川麻呂天皇と高市天皇であった。

 持統は、日本書紀によると持統3年から持統11年までの9年間に31回吉野に行っている。1回あたりの平均日数は8日である。何のためにこれほど多く吉野に行ったのであろうか。色々な説があるが、「不比等と密談をするため」であったと推察する。

1 天武天皇は政略結婚を提案したのであろうか。
 鎌足は第29代蘇我倉山田石川麻呂天皇を殺害してから(649年)倭国(鳥取県中部)には賊に暗殺されたと報告していた。天武天皇は649年に倉吉市葵町の賀茂皇大神宮を皇居とし、第30代倭国天皇として即位した。
 天智と鎌足は倭国天皇の天武天皇に対し「六韜」に基づいて「寵姫がいたらもっと美しいライバルを送り込め、・・・」を実行した(660年)。ただ、寵姫の額田王は美人であり効果が薄いと思ったので額田王を天武天皇から離す策略に出た。660年に大田皇女と鸕野讃良皇女は額田王と十市皇女と引き換えに倭国(鳥取県中部)の天武天皇(皇居は倉吉市の賀茂神社)のもとにきた。倭国王家から百済王家には額田王と十市皇女が行かされた。これを提案したのは天智と鎌足である。天智と鎌足は「権力者がいたら側近になって徹底的におだてろ、そうすれば 彼は反省を失い判断力が鈍るだろう」も実行した。天武天皇は判断力が鈍っていた。額田王は鳥取県伯耆町大殿(大寺廃寺の近く)出身である。ちなみに小野小町も鳥取県伯耆町出身である。
 大国主命も米子市長砂町の胸形にいた多紀理毘売命を鳥取県北栄町の葦原中津国に娶った。青森におられる棟方氏から連絡がありました。棟方氏は江戸時代までは「胸形」と書き山陰(米子)にいてその後北九州に行かされたが、今は青森にいる、ということであった。鳥取県北栄町におられた事代主(伊須気余理比売の先祖)も大物主(子孫は大田命)もその子孫は鳥取県西部から見つかっている。神武天皇の2番目の皇后(伊須気余理比売)も伯耆町久古出身である。倉吉におられた天武天皇は神武天皇と同じように鳥取県西部から胸形尼子娘と額田王を娶っていた(それぞれ654年に高市皇子を653年に十市皇女を生んだ)。
 高市皇子が天皇になれなかったのは母親(胸形尼子娘)が田舎出身の胸形氏であったからと言うが、胸形氏は米子市長砂町出身(古事記の胸形の君)であり、名門中の名門である(以前の「宗像三女神の本家は米子の胸形神社であり九州の宗像大社ではない」を参照されたし)。高市皇子は第31代天皇であった。京都の藤原氏は鳥取県中西部を何もないと暗示にかけるため、鳥取県中西部を田舎であると現在でも言い続けている。

2 663年に百済王朝は倭国に亡命した。倭国(鳥取県中部)王と百済王家(滋賀県大津)との間で和解が成立した。その和解案は二つの王家が列島に並立することを認めるものであった。
 天智の臨終に際して皇位を承継するかどうかの話は作り話である。その時の倭国天皇はすでに天武天皇であり(649年即位)、天智は法隆寺を放火した(670年)ので、近江で天武天皇に殺害された(671年)。

3 不比等は父が殺害されて(669年)から他の二人の子と一緒に天武天皇のもとに来た(11歳)。和解後でも和解案を破ることはあるので、壬申の乱は実際にあった。不比等は壬申の乱にも同行し、鸕野讃良皇女とともに伊雑宮や千田寺にも行っていた。千田寺のいわれも知っていた。

 不比等の父の藤原鎌足と鸕野讃良皇女の父の天智は乙巳の変でテロを行った同志である。親たちの行ったテロの反省の上に立って、不比等と鸕野讃良皇女は今度は静かに政権を奪取することを考えた。その方法が毒殺による暗殺である。鸕野讃良皇女は、不比等と吉野で会っていた。次に毒殺するのは誰か、どうおだてるか、どう毒薬を入れるか、などを相談していた。不比等も「権力者がいたら側近になって徹底的におだてろ、そうすれば 彼は反省を失い判断力が鈍るだろう」を実行した。判断力が鈍った第31代高市天皇、第32代忍壁天皇、第33代穂積天皇も毒殺した。周囲の者は気が付かなかった。
 鳥取県中部(倭国)の影響力は、倭国にいた大王が殺される(734年)まで続いた。長屋王は親王であったからその親の高市皇子は天皇であった。高市皇子は天皇(倭国第31代高市天皇)であった。長屋王が行っていた左道とは始祖の天照大御神(徐福)から続いてきた道教による卜占である。泊瀬の斎宮(倉吉市の大御堂廃寺)で道教(格義仏教)の修行をした。藤原氏は倭国にいた大王を殺して(734年)から、鳥取県中部(倭国)の粛清を始める。その処刑場が倉吉市の法華寺畑遺跡(741年創建)である。

 

おまけ

気品のある米子の女性(航空祭にて)

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鳥取県中部(倭国)の天皇は鳥取県西部(米子)の女性を娶ることがあった。


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古代史上最大の謎、第13代、第14代、第15代、第16代天皇について [百済王12代から45代までの倭国王]

 1 第23代、第24代、第25代、第26代天皇は百済王家の王であり事績も百済であった出来事である。

 弘計や億計の話は百済国であった出来事である。億計の名前は亡命百済人の医師憶仁や山上憶良を連想させる。神楽歌における囃し言葉を「おけおけ」という。祭りの中でも神楽のようなにぎやかな祭りは百済発祥である。逆に盆正月のような静かな祭りは新羅発祥である。弘計や億計の話は列島の地名をちりばめて、列島を舞台にした。その父を殺した雄略天皇を残虐な天皇にする必要があった。

 雄略の旧辞は証明できる部分があるので、原古事記にあった旧辞を使っている。ただし、一言主は事代主と書いてあったのを改ざんしている。雄略は実在の倭国天皇(倭王武)である。雄略も倭国の天皇なので、無駄な殺生はしない天皇であった。わずかなことで人を殺すような天皇に仕立て上げたのは、藤原氏である。

 藤原氏は無道な百済王(末多王)の事績を日本書紀の武烈天皇の旧辞に持ってきている。武烈天皇(末多王)のような事績を無道と言うのである。百済の国人は末多王を捨てて、武寧王を立てた。継体天皇のモデルは武寧王である。

 23代天皇~26代天皇の旧辞と名は百済王の旧辞と名である。第23代と第24代は倭国では1人の天皇であった。石上広高宮(倉吉市大原)に皇居があった1人の天皇の在位期間を2人に分けた。

2 第13代、第14代、第15代、第16代

 日本書紀は百済王が倭国大王を下僕として(大臣として)使うという構成をとる。たとえば、蘇我氏である。蘇我氏は大王であったのに、日本書紀では大臣として書かれている。武内宿禰もその例であり、倭国大王であったが、大臣として百済王や百済の皇后に仕えたように書いた。神功皇后は新羅を敵対視しているから倭国の皇后ではなく百済の皇后として書かれている。ただしそのモデルは倭国女王の豊鋤入姫(台与)である。日本書紀には百済の皇后として神功皇后の段を設けた。神功皇后と第14代仲哀は百済の皇后と百済王である。史実と原古事記は仁徳天皇が第14代天皇であったが百済王の仲哀を第14代にしたので仁徳天皇を第16代にした。武内宿禰は実在の倭国の第13代の大王であるが、叔母の豊鋤入姫(台与)と行動を共にしていた。

3 武内宿禰と平群木菟宿禰と葛城襲津彦は倭国の大王であった。亡命百済人たちは蘇我氏と同じく倭国大王を百済王に仕える下僕として描いた。日本書紀は百済王家の歴史を記録したものという体裁である。

 第13代は武内宿禰大王である。日本書紀には「成務は、同日の生まれであることから武内宿禰を特に可愛がられた。」とある。在位は280年~320年頃である。

 第14代仁徳天皇(仲哀は架空天皇)は武内宿禰の四男・平群都久宿禰 (平群木菟宿禰)である。日本書紀には「仁徳天皇と同日に生まれ、飛び込んできた鳥の名を交換して各々の子に名づけた。」とある。在位は320年~354年頃である。

 第15代応神天皇は葛城襲津彦(葛城長江曾都毘古)であった。武内宿禰(成務天皇)の六男であり事績が多く書いてある。在位は354年~394年頃である。

 藤原氏は崇りを鎮めるために、神功皇后(台与)を稚日女命(卑弥呼)を祀る神社の由緒に登場させて持ち上げている。

4 倭の五王の讃の在位期間は正しいと思われるので、仁徳と履中の期間は1人の天皇であった。これを履中天皇(讃天皇)とすると、第16代仁徳天皇(平群木菟宿禰)は別の時代の天皇であったことになる。

 仁徳天皇は原古事記では13代武内宿禰天皇の皇子として第14代天皇であったが、仲哀を創作し、仲哀を第14代に持ってきたため日本書紀では第16代に移動させた。史実と原古事記は仁徳天皇(竹内宿禰の第4子・平群都久宿禰)は第14代天皇であった。履中(讃)は応神の第1子であり、反正(珍)は応神の第3子であり、允恭(済)は応神の第4子である。

5 武内宿禰を祀っている宇部神社

 宇部神社が武内宿禰を祀っている理由は、鳥取市国府町が宿禰の終焉の地であるから、とする。武内宿禰の生誕地は木国(岡山県津山市)であり本拠地は鳥取県北栄町原であった。

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宇部神社本殿。一角獣の麒麟獅子舞が4月21日の例祭に奉納される。

この本殿は、明治時代の武内宿禰の一円札・五円札の図柄になっている。

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 この亀金の地に双履を残して昇天した、享年360歳とある。上述のように武内宿禰は第13代天皇であり少し長寿の普通の天皇であったと思われる。藤原氏は仁徳天皇(平群木菟)を第16代にし、武内宿禰は仁徳天皇に仕えた、と書いたためこのような結果となった。仁徳天皇は史実と原古事記では第14代であった。

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子供は、平群木菟か葛城襲津彦に見える。

6 鳥取県神社誌における武内宿禰(第十三代天皇)
武内宿禰を祭神とする宇倍神社のある因幡国と伯耆国の神社数の差に注目すべし(鳥取県神社誌)

因幡国六社
1宇倍神社 岩美郡宇倍野村 2高良神社 八頭郡八東村 3八幡宮 岩美郡倉田村 4湊神社 岩美郡面影村 5神前神社 6山名神社

伯耆国二十二社
1三朝神社 2賀茂神社 旭村 3八幡神社 倉吉町 4天の神奈斐神社 5犬田神社 6宇田川神社 7国信神社 8高田神社 9真子神社 10逢坂八幡神宮 11大港神社 12阿陀萱神社 13長田神社 14高良神社 15実久神社 16堀神社 17福田神社 18根雨神社 19神奈川神社 20江尾神社 21佐川神社 22国英神社

 この因幡国と伯耆国との武内宿禰を祭神とする神社数の差は八幡神社に祭られている神社数では説明できない。単独の場合が多い。因幡国と伯耆国の武内宿禰を祭神とする神社は第13代天皇として祀られていたと解される。武内宿禰は伯耆国、その中で鳥取県中部に皇居があった。


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鳥取県北栄町米里(磐余邑)に、第17代履中天皇、第22代清寧天皇、第26代継体天皇の皇居跡はあるか [百済王12代から45代までの倭国王]

 磐余の地の旧名は、片居または片立という。神武天皇の時代は海抜4mに海面があったから、北栄町米里集落と島集落の地形は中央に池があり、片側に居るか、片側に立つことになる。だから、片居・片立と言っていた。奈良の磐余邑ではなぜ片居・片立といったのかの説明ができない。

1 北栄町米里集落に皇居の候補地は3ヵ所ある。一つ目は一の崎、二つ目は三の崎である。「二の崎はどこにあるのでしょう」と地元の人は言っていた。三つ目の候補地は「船渡」ではなく「大谷」である。

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一の崎・三の崎は、丘陵地を囲むように民家が建っている。皇居はこの丘陵地にあった。

2 奈良の磐余邑の説明文に「履中天皇の条には、『磐余池を作る』と記されています。現在、池は存在しませんが、池之内(桜井市)、池尻町(橿原市)など池に由来する地名が残されており、近年の発掘調査では、この地域に池があったのではと推定される遺構が出土しています。 この池は、万葉集の大津皇子の辞世の歌をはじめ、平安時代の「枕草子」や「拾遺集」などにも取り上げられていることからかなりの長い期間にわたって存在していたとされています」とある。

 本当の磐余池は北栄町島集落の金繰溜池であった。池上の陵は島古墳群であった。5世紀・6世紀の古墳である。履中は5世紀の天皇である。一の崎の下を大(王)町という。一の崎にいたのは履中天皇である。

 

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 「当社は一の崎峯に鎮座のところ、此の度下大町に改め整備し遷す。一の崎・大町・氏子一同」とある。もとは、一の崎峯の丘陵地にあった。ここでも大町の大は王と読める。反対説があるが、鳥取県中部では「王」を「大」に直している。

3 こちらを「三の崎」と言っていた。三の崎にいたのは継体天皇である。

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 米里字三の崎には、嶌澤神社があった。大正2年に藤原氏の神社北条八幡神社に合祀され、分らないようにされている。姥ヶ谷にはどの天皇かの皇太后がいたと思われる。

4 「船渡」

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 「船渡」と言う。土下山(鳥見の白庭山=天の香久山)の登り口である。水田の下は葦の層が厚く堆積していると言う。このあたりに船が来ていたのは、天孫降臨の頃、紀元前200年頃(海抜4m)である。

5 「大谷(王谷)」

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 5軒ほどしかないが、「大谷」と言う。「大谷」に三天皇のうちの一天皇が居た。在位期間の短い天皇である。大谷にいたのは清寧天皇である。

 ここも天香具山の登り口である。

6 私見

 藤原氏は米里・島集落に何もなかったように消しているが、痕跡は残っている。935年統一新羅が滅んで危険が亡くなったので、京都から来た山田氏(検非違使をしていた)は北条(北の都=条里制)山田八幡神社を創り、田村一族(高句麗出身)も連れてきている。

 日本書紀は亡命百済人によって編纂されているため、百済王家の旧事が多く盛り込まれている。古事記もそれに合わせて改ざんしている。原古事記の文章も使っているが、それは日本が倭国を乗っ取ったことを判らないようにし、万世一系の皇統であることを作り上げる必要があったからである。

 日本書紀は無道な百済王の事績を武烈王の旧事としている。武烈王には子供がなかったので他所から継体に来てもらった、という筋書きであるが、武烈も継体の旧事も百済国での出来事である。したがって、継体の名も違う名であったが、ここでは継体としておく。

 

 

 


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