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千三百年の間、藤原氏に消されてきた伯耆国(鳥取県中西部)の真実の歴史が、今よみがえる。

天武天皇の后・妃・嬪・宮人について [百済王12代から45代までの倭国王]

 天武天皇の后・妃・嬪・宮人について

 「 新しい日本の古代史」(AKIRA KATO)はおかしいと思われる部分もありますが同感な部分を引用します。

1 「 新しい日本の古代史」(AKIRA KATO)より
(1)鎌足は、暗唱できるほどに中国の古い兵法書「六韜」(りくとう)を愛読していた(藤氏家伝)。
この「六韜」には例えば、
 「寵姫がいたらもっと美しいライバルを送り込め、そうすれば 宮廷は二つに分かれて大変なことになるだろう」とある。これは「鎌足」が天武天皇に実行している。
 また「権力者がいたら側近になって徹底的におだてろ、そうすれば 彼は反省を失い判断力が鈍るだろう」とある。これは「不比等」が天武天皇・高市天皇、忍壁天皇、穂積天皇に実行している。
 この「六韜」の精神はこれ以降も、藤原氏のバイブルとして、子孫へと引き継がれてゆく。
(2)平安時代は政治・社会が六韜精神で運営されていた。
 都の正門がボロボロだろうが、火事で燃えて無くなろうが、そんな事は藤原氏にとっては、どうでもいいわけです。 自分だけが阿弥陀さんのそばにいれば、 庶民がどうなろうと知った事ではないと思っていたわけです。この当時は検非違使という現在の警察にあたるものはありましたが、 正式には、法律に定められていない組織でした。それで、都といえども、警察などあってもないようなもので、無政府状態だったわけです。 そんなわけで、人殺し、盗みはしたい放題といった状態です。今の感覚からすれば、もうむちゃくちゃです。これが、藤原政権のやっていることです。要するに、庶民の事など、虫けらも同然のように考えているわけで、まともな政治なんてやっていません。 平安時代というと、いかにも優雅で、雅やかな、なんとなく源氏物語絵巻などが、イメージとして浮かんできますが、とんでもない話です。 おそらくそれは、藤原氏の、ごく一部の生活模様だったでしょう。 何しろ、藤原氏は聖徳太子が示したようなビジョンを持ちません。国をよくするという考え方を持つことはできなかったでしょう。 六韜主義一本やりで、政権を奪い取ったわけですから、ひと言で言えば、大和朝廷を私物化したわけです。その後の荘園制度を見れば、 このことは一目瞭然です。

2 私見

(1)天武天皇は額田王と尼子娘(どちらも出身は鳥取県西部)を妻として十市皇女を儲けたが、後に額田王は中大兄皇子の妃になった。日本書紀は天武天皇の即位を673年とするが、十市皇女(653年生)高市皇子(654年生)より天武天皇の即位は蘇我倉山田石川麻呂天皇の死亡年の649年と思われる。

(2)660年百済国は滅亡し百済王朝は倭国に亡命した。鎌足は新羅の後ろには天武天皇がいることを知っていたので「六韜」の「寵姫がいたらもっと美しいライバルを送り込め、そうすれば宮廷は二つに分かれて大変なことになるだろう」を実行した。660年大田皇女と鸕野讃良皇女は額田王と十市皇女と引き換えに倭国(鳥取県中部)の天武天皇(皇居は倉吉市の賀茂神社)のもとにきた。北栄町曲の後宮にいたカヂ媛娘もこのころ天武天皇の宮人となる。

(3)倭国から奈良へのルート

 中宮天皇.jpg

 羽曳野市野中寺の仏像台座框に「丙寅年(666年)の4月中宮天皇が病気になったとき栢寺の僧侶たちが平癒を請願して奉った弥勒菩薩像である」との銘文が刻まれている。中宮天皇とは奈良滞在中に父の蘇我入鹿天皇(聖徳太子)が造った斑鳩の中宮におられた天武天皇のことである。
 栢寺は白鳳時代に総社市にあった。天武天皇の病気平癒を請願するのがなぜ吉備の僧侶なのかと疑問に思われるが、総社市の栢寺は伯耆国の寺院(大御堂廃寺、大原廃寺、斉尾廃寺、上淀廃寺、大寺廃寺など)と同じ頃に天武天皇が創建したものである。天武天皇は奈良に行くのに倉吉から東ではなく一旦西の琴浦町斉尾廃寺と淀江町上淀廃寺と伯耆町大寺廃寺に泊まり、南の総社市の栢寺に泊まってから奈良に行かれた。額田王と尼子娘の出身が鳥取県西部なので現在のJR伯備線とほぼ同じルートで総社市に出て奈良県斑鳩の中宮に行かれた。天武天皇が斑鳩の中宮にいた時、天智、鎌足は桜井市の多武峯をテロの拠点にしていた。

(4) 尼子娘と額田王

20.jpg

 181号線上からはどこでも秀麗な山容の大山が見える。尼子娘は胸形徳善の娘である。胸形の君は米子市長砂町で宗像三女神を祀っていた。北九州の宗像大社の本家である。青森県の棟方氏もここの出身である。尼子娘は米子市長砂町の出身である。
 伯耆町大殿から大寺廃寺が発掘された。大寺廃寺も天武期である。天武天皇が創建した。天武天皇は伯耆町大殿の大寺に泊まって総社市に出られた。大殿のちかくにはJR伯備線がある。
  額田王は伯耆町大殿の出身である。珍獣ハンターのような例外もあるが伯耆町は美人の産地である。小野小町や神武天皇の媛蹈鞴五十鈴媛命も鳥取県伯耆町出身である。鎌足と天智は「六韜」の「寵姫がいたらもっと美しいライバルを送り込め・・・」を計画したが額田王は大田皇女と鸕野讃良皇女より美しかったので、額田王との交換を提案した。
 665年に定恵が百済士人に毒殺されている(藤氏家伝)ので、665年にはすでに毒殺の手段が使われていた。666年に天武天皇は大田皇女と鸕野讃良皇女ともに奈良の斑鳩の中宮にいた。鎌足は天智を通して鸕野讃良皇女に会っていた。この時の天武天皇に対する毒殺は未遂に終わったが、一緒にいた大田皇女は毒殺された(667年2月)。このとき不比等はまだ7歳で鎌足と一緒にいたので、おそらく実行犯は鎌足と接触があり毒殺方法を教わった鸕野讃良皇女と思われる。天武天皇の食事にも毒薬が混ざった。

(5)667年唐の使者が筑紫に来日した。百済王朝は飛鳥から近江に遷都した、というよりも、いよいよ見つかりそうになって天智と鎌足は多武峯から近江に逃げたのが真相と思われる。
 669年藤原鎌足は蘇我入鹿天皇、蘇我倉山田石川麻呂天皇暗殺の首謀者とみなされていた。天武天皇も毒殺しようとしていた。藤原鎌足は見つかり殺害された。669年以降、残された藤原鎌足の子3人(氷上娘・不比等・五百重娘)は天武天皇に引き取られた。不比等は「六韜」の「権力者がいたら側近になって徹底的におだてろ、そうすれば 彼は反省を失い判断力が鈍るだろう」を実行し、この「判断力が鈍った」天武天皇やその側近を毒殺していった。
 670年に父の蘇我入鹿天皇(聖徳太子)が創建し天武天皇(中宮天皇)が滞在していた斑鳩宮が放火により焼失した。犯人は天智と思われる。翌年、天智は山科で殺害された。

(6)壬申の乱のあと673年以降に大蕤娘、新田部皇女、大江皇女が天武天皇のもとに来ているが 、新田部皇女、大江皇女、弓削皇子は699年に毒殺されている。
 壬申の乱で活躍した天武天皇の家臣20名ほどと天武天皇も不比等と鸕野讃良皇女に毒殺されている。その後、不比等は高市天皇、忍壁天皇、穂積天皇を毒殺した。不比等のおだてを見ていた周囲の者は誰も不比等が犯人だとは思わなかった。

(7)伯耆国の上淀廃寺は奈良国立文化財研究所のもと所長が亡くなる前に「天武期」と言われたそうである。伯耆国の大御堂廃寺(泊瀬の斎宮)、斉尾廃寺(伊勢神宮と並立していた)、大原廃寺、上淀廃寺、大寺廃寺などは天武期に創建されている。法隆寺西院は同じ伽藍配置の斉尾廃寺が天武期に創建されているので天武天皇が再建された。藤ノ木古墳は聖徳太子の生前墓で斑鳩寺は蘇我馬子と入鹿(聖徳太子)を祀るために創建されたという説があり、聖徳太子(蘇我入鹿天皇)の子の天武天皇にとって焼失した斑鳩寺をほっておくことはできないのが人情である。金堂も斑鳩寺とは角度が違うので再建されている。東院(夢殿など)は734年以降に藤原氏が建立した。


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