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千三百年の間、藤原氏に消されてきた伯耆国(鳥取県中西部)の真実の歴史が、今よみがえる。

孝霊天皇の皇居であった黒田宮は鳥取県湯梨浜町宮内にあった [倭国大乱の原因]

 孝霊天皇の皇居であった黒田宮は鳥取県湯梨浜町宮内にあった。

1 日南町宮内(樂樂福神社)も大山町宮内(高杉神社)も孝霊天皇が居られたから宮内という地名が付けられたと思われる。孝霊天皇の皇居は師木にあったから、東郷池周辺である。鳥取県中部に宮内は湯梨浜町宮内の一か所だけである。この東郷池周辺の宮内は、土壌情報閲覧システム(農業環境技術研究所)によれば南側は広く黒ぼく土壌である。宮内集落は空白になっているが、黒ぼく土壌である可能性が高い。旧東郷町の埴見集落か長和田集落か迷っていたが、ここが黒田宮であろう。


 下照姫がいたから宮内という地名がつけられたとは考えづらい。孝霊天皇が居たから宮内という地名がついたものと思われる。ここが黒田宮であった。

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宮内集落である。
2 私見


 出雲から来た一族が孝霊天皇一族を追い出したのである。


倭の大乱が終結するまでに全国の広範な地域を占領していたようである。彼らが置いて行った銅鐸の分布は広範にわたる。


松崎神社の祭神に天穂日が祀られているのはこの子孫が松崎地区も支配していたからだと思われる。時代は倭の大乱の頃である。


青銅器文化であり、鬼と呼ばれるほど残虐である。青谷上寺地遺跡では女・子供も殺している。青谷の次は湯梨浜町宮内の黒田宮を襲って宮内を占拠した。近くの長瀬高浜遺跡からも銅鏃が見つかっている。彼らはここも襲った。


3 湯梨浜町宮内の伝承は下照姫のものだけを残し、孝霊天皇の伝承は藤原氏が消していった。宮内の地名は下照姫がいたからというだけでは説明できない。


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倭文神社本殿 (主祭神 建葉槌命、相殿 下照姫命 、建御名方命 、天稚彦命 、事代主命 、少彦名命、味耜高彦根命)

 主祭神は大日本根子彦太瓊命(孝霊天皇)であったのを、建葉槌命に置き換えたのではないだろうか。相殿の祭神は現在の波波伎神社の祭神をそのまま持ってきたものと思われる。改ざん前は孝霊天皇と孝元天皇・卑弥呼(倭姫命)・開化天皇(倭健命)・崇神天皇(吉備津彦)であったはずである。

 藤原氏も宮内という地名を変えなかったのは、宮内の関連性を辿られるとは思っていなかったのだろう。


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