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千三百年の間、藤原氏に消されてきた伯耆国(鳥取県中西部)の真実の歴史が、今よみがえる。

吉野ヶ里遺跡は全国に分布する銅剣・銅矛を作る中心地だったのではあるまいか [倭国大乱の原因]

 吉野ヶ里遺跡は全国に分布する銅剣・銅矛を作る中心地だったのではあるまいか。

1 日本書紀・崇神天皇・神宝・において「このとき出雲臣の先祖の出雲振根が神宝を管理していた。しかし筑紫の国に行っていたので会えなかった。・・・出雲振根は筑紫から帰ってきて・・・」とある。吉野ヶ里遺跡のある平野を筑紫平野というので、出雲振根は吉野ヶ里に行っていたと考えられる。吉野ヶ里遺跡の周辺では銅剣・銅矛の鋳型も見つかっている。また銅鐸の鋳型も見つかっているから、吉野ヶ里は青銅器文化の一族であり、出雲国と同盟関係にあったと思われる。 

2 吉野ヶ里には殷王朝末裔の準王一族が住んでいたのではないかと推測される。溝と柵の位置が通常と反対であるのは、中に奴隷がいたから逃げられないようにするためである、という説や二千以上の遺骨は祭祀の犠牲者ではないか、という説がある。頭のない遺骨などからも、生贄の風習を残していた殷王朝末裔の準王一族であった可能性が高い。

3 西野凡夫はその「新説古代史」において「熊本県阿蘇・菊池地区と大分県直入・大野地区の、弥生後期から終末期にかけての鉄鏃出土数は計336本で九州全出土数の過半数を占める。これらの鉄鏃は副葬品ではなく、住居跡から出土しているという特徴がある。この地域が弥生後期から終末期にかけて日本列島内の最激戦地であったことは疑う余地がない」とする。

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稚日女命(卑弥呼)を祀る神社

 ヤマト王朝の皇軍はここを拠点としていた。卑弥呼・倭健命たち皇軍は大分県直入・大野地区と熊本県阿蘇・菊池地区にかけて九州を横断している。大分県側から入ったものと思われる。

4 弥生後期、鳥取県湯梨浜町宮内遺跡2号墳で107cmの鉄刀とともに副葬されていた12個の鉄鏃が出土した。弥生時代後期に鳥取県中部には鉄鏃を使う一族がいて、九州には鉄鏃を使われる一族がいた。

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鳥取県湯梨浜町宮内第5遺跡2号墳より

 地元の方には申し訳ないが吉野ヶ里は邪馬台国ではない。吉野ヶ里に居た勢力はヤマト王権(卑弥呼・倭健命たち)に敵対する勢力であった。卑弥呼・倭健命たちは吉野ヶ里を攻撃している。吉野ヶ里で見つかった鉄鏃は鳥取県湯梨浜町宮内遺跡に副葬されていた12個の鉄鏃とは異なりヤマト王権が吉野ヶ里に対して放った鉄鏃である。その他の鉄製品もヤマト王権が持ち込んだものである。

5 鳥取県中部(北栄町大島)の宮崎神社由緒によれば「日本武尊征西の御時、北海の霪風御艦を悩まし奉りしが不思議の神助にて御艦引き寄するが如く本社地乾の隅に着御し給えり。尊大に歓喜し給いて宣はく『斯く清らかなる地の海面に浮き出づるはこは浮洲(島)にや』と。洲(島)の中央に大麻を挿立て、御自ら御飯を炊き給いて二尊(兄の孝元天皇が皇子のとき奉斎されたイザナギ・イザナミ)を祭り、神助を謝し給えり」とある。

 倭健命が湯梨浜町宮内の黒田庵戸宮を去られたのは1歳の時であった。倭健命はその後開化天皇になり東国を伐たれた。


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