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千三百年の間、藤原氏に消されてきた伯耆国(鳥取県中西部)の真実の歴史が、今よみがえる。

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第七節 安来市の佐々布久神社の祭神は孝霊天皇である [倭国大乱の原因]

    第七節 安来市の佐々布久神社の祭神は孝霊天皇である。
1 安来市の佐々布久(ささふく)神社の祭神は大己貴尊(大国主命)であるとする。
 この祭神は改ざんされていると解する。
 藤原氏は、713年から733年の間20年で出雲国の大改造をしている。その時に祭神と神社の漢字表記を変えたものと思われる。
 藤原氏は9世紀に始皇帝の子孫であると言っていたくらいだから、秦王国(出雲国)をよほど気に入っていたのだろう。そのような秦王国(出雲国)を平定した孝霊天皇を出雲国の神社の祭神にしたくなかった。
 藤原氏は、713年に出雲風土記を提出させたときに、出雲に秦王国があったが倭国に平定されたことを知って、出雲国を大改造し、最初の出雲風土記を廃棄し新たに20年後に出雲風土記を作成した。
2 鳥取県にある楽楽福(ささふく)神社のうち、日野郡日南町宮内の楽楽福神社(通称・東楽々福神社)と西楽楽福神社、西伯郡伯耆町の楽々福神社、西伯郡南部町の楽々福神社、米子市安曇の楽々福神社ががあるが、いずれも祭神として大日本根子彦太瓊命(孝霊天皇)を祀っている。
 「ささふく」の名称由来
 ある夜、孝霊天皇の枕元で「笹の葉刈りにて、山の如くせよ。風吹きて鬼降らむ。」と、天津神のお告げがあった。そのようにすると鬼は降参した。
この伝承に基づいて名付けられた名称である。
 神社の屋根を笹で葺いて造ったから「ささふく」神社というとする説があるが、伝承に基づいて笹で屋根を葺いたものと思われる。
  「ささふく」神社の祭神は、大日本根子彦太瓊命(孝霊天皇)であり、島根県野義郡広瀬町石原の佐々布久神社の祭神も大日本根子彦太瓊命(孝霊天皇)であると解される。倭大乱を平定するためにここまで来られて拠点とされた。

3 佐々布久神社は安来市広瀬町石原にある。

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おまけ

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石段の途中の踊り場から足立美術館が見える。足立美術館の日本庭園の借景の一部になっているのかもしれない。


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溝口の鬼の館に行ってきました [倭国大乱の原因]

 溝口の鬼の館に行ってきました。
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1 鬼の館の説明文より
《孝霊天皇は、鬼住山の南の笹苞山に陣を敷いて、鬼の館を見下ろしました。人々が献上した笹巻の団子を三つ並べて鬼をおびき出せば、弟の乙牛蟹が出てきました。大矢口命が矢を射ると見事に命中し、乙牛蟹は死んでしまいました。しかし、兄の大牛蟹は手下を連ねて荒々しく手向かってきてなかなか降参しません。ある夜、天皇の枕元で天津神のお告げがありました。お告げに従って、笹の葉を山のように積み上げて待っていると、三日目の朝強い南風が吹きぬけていきました。あっという間に笹の葉は鬼の住処へと向かい、鬼の身にまとわりつき燃えだしました。鬼は逃げ散り、天皇は一兵も失わずに勝ちました。麓に逃げた鬼は蟹のようにはいつくばって、「降参します。これからは天皇の配下となって北を守らせてください」と願ったので、天皇は、「よしお前の力をもって北を守れ」とお許しになりました。》
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鬼住山です。
 下の日野川との間を通る旅人を襲っていたのだろう。天孫族は天照大神の時代からこのルートを通って日南町広島北九州大陸に行っていた。
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笹苞山です。
 孝霊天皇はこの山に陣取って天津神のお告げを聞いた。そのお告げは卑弥呼(稚日女命)から出たものと思われる。

2 稚日女命(卑弥呼)の動き
 卑弥呼は吉備津彦の皇軍とともに移動していたのだろう。移動の順番は正確ではないが、讃岐を出られてからは、以下の神社の所在地あたりを転々と移動していたものと思われる。石蟹魁師荒仁は石蟹(新見市石蟹)で新見市に拠点を置いていた。稚日女命(卑弥呼)は新見市を取り巻くように移動している。
1 岡山県浅口郡金光町大字占見新田1663  大森神社

2 岡山県浅口郡金光町大字下竹736  大森神社

3 岡山県久米郡中央町打穴北124 磐柄神社

4 岡山県久米郡旭町西川上90 徳尾神社摂社杉尾神社
5 岡山県津山市綾部1086  綾部神社
6 岡山県津山市沼430  齋神社
7 岡山県苫田郡奥津町久田下原43  久田神社

8 岡山県真庭郡久世町大字久世948  朝日神社
9 岡山県真庭郡八束村中福田392  福田神社

10 岡山県真庭郡川上村西茅部1501  茅部神社

3 大山周辺の卑弥呼と父の孝霊天皇

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 稚日女命
(1)平岡神社 西伯郡淀江町大字平岡字向山
    現住所 米子市淀江町平岡
(2)富岡神社 西伯郡高麗村大字妻木字山根
    現住所 西伯郡大山町妻木
(3)前田神社 西伯郡庄内村大字古御堂字於局
    現住所 西伯郡大山町古御堂
(4)古林神社 西伯郡名和村大字加茂字以屋谷
    現住所 西伯郡大山町加茂
(5)前田神社 西伯郡法勝寺村大字西字宮ノ前
    現住所 西伯郡南部町西
(6)岩崎神社 日野郡多里村大字湯河字宮ノ前
    現住所 日野郡日南町多里
(7)吉原神社 日野郡日光村大字吉原字牛王ガ市
    現住所 日野郡江府町吉原
(8)大原神社 日野郡八郷村大字大原字貝市
    現住所 西伯郡伯耆町大原
(9)安屋咩神社  安来市赤江町400 
(神)倭姫(比女)命
(10)天萬神社 西伯郡手間村大字天萬字下宮尾
    現住所 西伯郡南部町天萬
(11)高野女神社 西伯郡賀野村大字高姫字高ノ女
     現住所 西伯郡南部町高姫
(12)蚊屋島神社 西伯郡日吉津村大字日吉津字南屋敷
     現住所 西伯郡日吉津村日吉津
 若日孁神
(13)五郷神社 東伯郡旭村大字牧字家ノ上
(14)福田神社  岡山県真庭郡八束村中福田392  

 大日本根子彦太瓊天皇(孝霊天皇)
(15)倭文神社 湯梨浜町宮内
(16)高杉神社 西伯郡大山町大字宮内字早稲ノ上
     現住所 西伯郡大山町宮内
(17)楽楽福神社 西伯郡東長田村大字東上字原ノ上
      現住所 西伯郡南部町東上
(18)楽楽福神社 西伯郡尚徳村大字上安曇字宮ノ谷
      現住所 米子市上安曇
(19)楽楽福神社 日野郡溝口町大字宮原字宮ノ上
      現住所 西伯郡伯耆町宮原
(20)山田神社 日野郡日光村大字杼原字村屋敷
     現住所 日野郡江府町杼原
(21)佐々布久神社 
     現住所 安来市広瀬町石原

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※ 私見

 稚日女命と孝霊天皇は鳥取県西部(西伯郡と日野郡)に足跡を多く残していることが判る。隣り合う出雲の勢力(鬼・土蜘蛛などと呼ばれていた)と戦っていたからである。

 鬼住山を攻めるとき、孝霊天皇と稚日女命(日女命=倭迹迹日百襲姫命)は鬼住山の奥の日光村にいた。

 孝霊天皇は日光村栃原におり、稚日女命(孝霊天皇皇女の倭迹迹日百襲姫命)は日光村吉原にいた。これは鬼住山の鬼を笹苞山から笹の葉を吹いて成敗するときの陣形と思われる。孝霊天皇は天津神のお告げを聞いたが、天津神とは後方の吉原にいた倭迹迹日百襲姫命(稚日女命)であった。

 日光村周辺には大字に大が付く地名が多い。京都の藤原氏の流れが作った伯耆誌には「大を王と読み替えるとは何事だ」とするが、これほど密集していると大は王(山田神社にいた孝霊天皇)ではないかと思われる。





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初期倭朝廷(卑弥呼の邪馬台国も含む)と銅鐸・銅剣・銅矛・銅鏃の青銅器文化の一族とは敵対していた [倭国大乱の原因]

 初期倭朝廷(卑弥呼の邪馬台国も含む)と銅鐸・銅剣・銅矛・銅鏃の青銅器文化の一族とは敵対していた。
 
1 銅鐸・銅剣・銅矛・銅鏃の青銅器文化の一族と初期倭朝廷(邪馬台国を含む)とを混同しておられる方がいるが、この両者は神武天皇の時から対立しており、第10代崇神天皇の時に全国を統一されるまで、対立していた。
 青銅器文化の一族の起源は殷王朝の末裔の準王一族である。出雲と北部九州(吉野ヶ里)を拠点として全国に展開していた。時代は弥生前期(紀元前195年)からである。
 彼らは、鬼・猿・土蜘蛛・蝦夷などと呼ばれていた。日南町の楽楽福神社の伝承に残る河童たちも降参した後の青銅器文化の一族を揶揄して伝えられたものと思われる。
 
2 彼らは弥生の早い時期から全国に展開したが、天照大神から第10代崇神天皇まで、初期ヤマト朝廷は鳥取県中部を拠点として北九州に行き辰韓(新羅)に渡り大陸との交易をはかってきた。神武天皇と戦った長髄彦も青銅器文化の一族である。
 後漢書には107年に倭国王帥升らが後漢の安帝へ生口160人を献じたとある。第7代孝霊天皇は120年頃の生まれであるから、帥升とは第6代孝安天皇の中国名と思われる。孝霊天皇の父の代から中国の皇帝に朝貢する途中の朝鮮半島で青銅器文化の一族が襲ってきた。かれらは半島に残っていた青銅器文化の一族と思われる。かれらを捕らえて中国の皇帝に差し出したのが生口である。朝鮮半島では捕虜のことを生口と呼んでいた。
 
3 第7代孝霊天皇の時に、出雲神族の王家の娘を殺したとして湯梨浜町宮内の皇居を襲ってきたため、11年間天日矛一族のいる但馬に疎開していたが、いよいよ家族総出で青銅器文化の一族を成敗することになった。卑弥呼・大吉備津彦(崇神天皇)・若日建吉備津日子(倭健命・開化天皇)の活躍で東は岩手県、西は九州天草まで平定し全国を統一した。崇神天皇は岡山県津山市中山神社に拠点を置き、卑弥呼は志摩国の加布良古崎を拠点とした。崇神天皇(在位188年~230年)の頃から全国の者が集まるための祭祀場を奈良纒向に造り始めた。卑弥呼を守るため、卑弥呼の居所から離れたところに祭祀場を造る必要があった。

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殷王朝(商)について [倭国大乱の原因]

 殷王朝(商)について
 

1 組織体制

 組織体制は、大邑・族邑・属邑(小邑)が結びついた連合体で、邑(ゆう)というのは四方を城冊で囲んだ領域であり、大邑は王城、族邑は血統単位の集落である。殷王朝初期の鄭州王城には、大邑内に祭壇、骨角器や陶器の製作所、酒造工場、青銅器の鋳造所などがあった。

 

2 青銅器

 殷時代の画期は、文字の制定と青銅器の発展である。殷墟から多種多様の大量の青銅器皿や兵器などが発掘されたが、大型の方鼎は、重量が875kg、高さ1.3mもあった。


3 酒

 祭祀権と王権が一体であった殷王朝では、殷人は青銅の神像が置かれた神廟で、火を焚き、生贄を供えて神や祖霊を迎え、飲酒によって一種のトランス状態に落ちることで神の神託を聞いた。殷の青銅器には、神廟の跡と見られるところから出土した酒器と神像が多いのは、この物的証拠である。


4 生贄制度 

 殷王朝では、祭祀に多数の人間を生贄として捧げる神事が執り行われた。生贄とされる人はチベット系遊牧民の羌族が多く、人狩りによって捕獲され、祭祀の時に神へ捧げられた。全ての生贄は意図的に頭が切り落とされている。甲骨文字の記録によると一度の祭祀でその数が650人に達したこともあったらしい。これまでの発掘で確認された生贄の数は1万4000体に及ぶ。


5 私見

 秦の始皇帝が中国を統一したころ(紀元前221年)には、生贄の風習は衰退した。中国での生贄の風習は紀元前2世紀までにほぼ消滅した。

 しかし、殷王朝の末裔準王は紀元前194年にヤマトにわたってきている可能性が高い。その地は吉野ヶ里であり、出雲であった。どちらも青銅器文化であり、全国に展開していったが、のちに卑弥呼を擁する邪馬台国軍(ヤマト軍と同じ)によって平定された。弥生時代の終焉をもって青銅器文化も消滅する。準王はヤマトにおいて殷王朝の再興をはかったが叶わなかった(紀元260年頃の三国志魏略)。

 しかし、半島に残っていた準王一族(百済人=藤原氏)はのちに(642年)倭国に渡り殷王朝が滅ぼされた太公望の六韜に基づいて倭国を乗っ取り(734年)、国号を日本と命名した。首を切ったり、近親相姦をおかしいと思わない点で藤原氏と殷王朝末裔の準王一族は同じ一族である。


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