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千三百年の間、藤原氏に消されてきた伯耆国(鳥取県中西部)の真実の歴史が、今よみがえる。

第九節 孝霊天皇は伯耆国から大陸へ行くためのルート上にいた鬼たちを平定した [倭国大乱の原因]

 孝霊天皇は伯耆国から大陸へ行くためのルート上にいた鬼たちを平定した

 

1  孝霊天皇は妻木晩田、手間山、鬼住山、大倉山、鬼林山の鬼(出雲神族=準王一族)と鬼の発生元の出雲も平定していった。出雲で和平協定が成立してからは、孝元天皇に皇位を譲り、広島県府中市の南宮神社で生涯を終えた。いずれも天孫族が大陸に行くためのルート上にあり伯耆国の西部である。倭国大乱の最初は出雲神族の誤解から始まったが、大陸へ行くルートを確保することも大事であった。孝元天皇は皇居に残り伊邪那岐命・伊邪那美命を祀るなど後方から支援していた。卑弥呼(倭姫命)は大吉備津彦(崇神天皇)や若日子建吉備津日子(開化天皇・倭健命)と一緒に瀬戸内や吉備国を平定して但馬、因幡、東伯耆を平定してきた父の孝霊天皇と合流した。


2 孝霊天皇は倭国大乱が始まる前に大山町長田の孝霊山中腹の宮殿に朝妻姫と住んでいた。倭国大乱が始まり朝妻姫との間に生まれた鶯王が鬼住山で戦ったが、戦死した。その後、米子市上安曇、南部町中、江府町日光村、日南町宮内に行った。鶯王が大山町長田で生まれて亡くなるまで、福姫が日南町宮内で生まれて亡くなるまで、孝霊天皇は倭の大乱の間、少なくとも二十年近くは伯耆国西部に居たものと思われる。孝霊天皇の腹違いの子である孝元天皇・卑弥呼・大吉備津彦・若日子建吉備津日子・天日矛・物部や鬼に苦しめられた地元の者達の協力によって、中国地方の倭の大乱は終結した。


3  鳥取県大山町宮内の高杉神社

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 参道を奥に行くと鳥居がある。向こうの山が孝霊山である。
 祭神 大足彦忍代別命(景行天皇)、大日本根子彦太瓊命(孝霊天皇)、押別命、本媛之命、松媛之命、千代姫之命、小葉枝皇子、根鳥皇子
 由緒 創立年代不詳。寛永七年寅三月由来書き上に、境内に杉生長すること他に異なり大山金門鳥居の笠木に衆徒より望まれ之を截る。それより災妖止むときなく云々とあり。雄略天皇丙辰の歳、近郷衆庶に崇あり、恠事年累ね人民之を歎く。その時神の託宣に二人の官女たる松媛之命、千代姫命の霊魂が細姫(朝妻媛)に対し嫉妬の崇ありとし、これを神廟に祭祀しお告のままに宮殿を建造し一ノ御前社(本殿)二ノ御前社(中殿) 三ノ御前社(末殿)と奉祀し、祭日には嬲神事とて三人の仕入物忌神懸りあり幣帛を以て打合せ式あること絶えず。
 私見
 本媛とは細姫ではなく、近くの妻木から娶られた朝妻姫と思われる。妻木晩田は出雲文化である。朝妻姫は出雲族であったが孝霊天皇は出雲族であることを知っていて朝妻姫を娶った。「謎の出雲帝国」には、「神武から数代の王は、出雲の王家の娘を妻に迎えた。出雲神族の反乱を防ぐためでもあった。」とする。
 松媛之命、千代姫之命も妻木晩田の出雲族であったと思われる。本媛に嫉妬して自殺したのかもしれない。うわなり神事は海岸まで行く。「松媛之命、千代姫命の霊魂が本媛に対し嫉妬の崇あり」とするので、自殺したと思われる。この事件が出雲本家には孝霊天皇が殺したと伝わり攻撃してきたと思われる。高杉神社は孝霊天皇が但馬に疎開して11年後に反撃した時の拠点と思われる。



 おまけ


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 神社の前は稲刈りをしておられた。


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