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千三百年の間、藤原氏に消されてきた伯耆国(鳥取県中西部)の真実の歴史が、今よみがえる。

青谷上寺地遺跡は倭国大乱そのものであった [倭国大乱の原因]

 青谷上寺地遺跡は倭国大乱そのものであった。
1.2019年3月2日に鳥取市で「倭人の真実」というシンポジウムが開かれた。
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 青谷上寺地遺跡で見つかった数十体の殺傷痕のある人骨が亡くなったのは2世紀後半であり、倭国大乱(147年~188年)の時期と一致する、とパネリスト3人の内2人(藤尾慎一郎氏と篠田謙一氏)が認めた。篠田氏は「土器編年より2世紀後半」とし、藤尾氏は「炭素年代測定により今まで数十年早く出る年代を修正すると2世紀後半になる」とした。
2 謎の出雲帝国・出雲神族の伝承より
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 「ヒボコ族は天孫族と手を結び物部を将として吉備(?)から攻めてきた。彼らは逃げまどう女や子供までも殺した。出雲人が絶滅するのではないか、と思われるほどであった」とある。
3 私見
 出雲族の子孫の富氏の口伝によると「彼らは逃げまどう女や子供までも殺した」とする。この本が出版されたとき(1980年)には、まだ、青谷上寺地遺跡(2000年)は発掘されていない。なぜわかったのだろう。これはこの口伝が全くの出鱈目ではないからである。
 但し、自分たち(出雲族)の行った虐殺を相手(天孫族とヒボコ族)方に転嫁したのかもしれない。そうでなければ、青谷で行った虐殺を自分たち(出雲族)もやり返されたということである。
 まだ出雲族の虐殺された遺跡は発掘されていないので「逃げまどう女や子供までも殺した」のは出雲族(青銅器文化の一族)であり、青谷で行った虐殺を相手(天孫族とヒボコ族)方に転嫁したと思われる。
 倭国は雄略天皇の時代121国に分かれていた小国の一つであり、隋書には「つくしより以東はすべて倭に従う」とある。小国の倭国が全国を統一していた。
 出雲族の子孫(富氏)が「倭国大乱の相手は自分たち(出雲神族)だ」と認めているのである。倭国大乱の遺跡が青谷上寺地遺跡であり、青谷は骨鏃の一族であり、鳥取県中部は鉄鏃を副葬品とする一族であった。青谷も含めて鳥取県中部が倭国であり、倭国大乱は神武天皇の時から天孫族に従っていた出雲族の鳥取県を中心にした反乱であった。倭国が鳥取県中部にあったことを認めようとしない歴史学者(倭国は九州にあり鳥取県は何もない田舎だとする)が多い我が国においては、「倭国大乱の真実」はいつまでも解明されないであろう。倭国在東海中(倭国は日本海沿岸にある)を思い出してもらいたい。倭国は玄界灘ではなく日本海沿岸にあったのである。青谷上寺地遺跡が倭国大乱の痕跡である。
 国立歴史民族博物館の藤尾教授がまことしやかに「弥生時代は紀元前10世紀にはじまる」というくらいだから、いつの間に土器編年を捨てたのか。土器の時代の相互の照合ができないではないか。「ううん。そんなものはどうでもいいんだ。藤原不比等が神武東征を創作し神武の即位を紀元前660年としたのだから我々藤原氏はそれを守り通さなければならない。そのためには、何でもする。そのために歴史学会も牛耳っている。我々藤原氏に逆らうものは一生日の目を見ないと心得よ。」
 ははあ~、わかりました。藤尾慎一郎さま。

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