SSブログ
                                                                   

千三百年の間、藤原氏に消されてきた伯耆国(鳥取県中西部)の真実の歴史が、今よみがえる。

第八節 長瀬高浜遺跡の大型高床建物(SB40)は古墳時代か [出雲大社のモデル]

   第八節 長瀬高浜遺跡の大型高床建物(SB40)は古墳時代か
 長瀬高浜遺跡の特徴は、白砂の下に黒砂が1mほどあり、その下も白砂でした。人が住んでいるときに堆積した黒砂が1mになりました。出土した土器から判断すると、弥生時代前期(2200~2300年前)から、中世末頃(400年前)まで住んでいたことになります。蓄積した黒砂が1mで、1800年かかっていることになる。1mの黒砂の上下は白砂の層である。
CIMG0742
発掘のすんだ大型高床建物跡の写真(羽合歴史民俗資料館)です。
 右側下部分は光線の影になっていて薄暗くなっていますが、上半分と左側の部分で濃淡を比較すると、大型高床建物跡は白砂である。左奥の円墳は明らかに黒っぽく見えて、後の時代に建てられたものと思われる。大型高床建物跡の下には何もないはずで、大型高床建物跡は1mの黒砂の層の最下層にあたり、長瀬高浜遺跡の初期に造られた建物跡と言える。弥生時代の生活痕がない、というのがこの遺跡の評価である。弥生土器も埋葬された数個しか見つかっていない。だから、大型高床建物跡も古墳時代のものという判定になっている。しかし、この写真を見る限り、大型高床建物跡は左奥の円墳の跡と比べると明らかに白砂である。大きい写真で見るとよくわかる。段差が数十cmしかないので弥生時代前期も古墳時代も同じに見えるのだろうが、色や濃淡で判断すると、大型高床建物跡はどの部分をとってもすべて下のほうまで同じ白砂である。逆に、その周囲は黒い色である。
 弥生時代の生活痕がない原因は二千年まえの洪水によって弥生土器や石器がすべて嶋の外に流されて、残ったのは建物跡と墓に埋葬された弥生土器だけである、と考えれば何もおかしいことはない。そうでなければ弥生時代前期の玉作り工房跡4棟、住居跡2棟から弥生式土器が10個くらい見つかってもおかしくはない。
 当時の海面が今より高かったことも考えると、この嶋の当時の高さはそれほど高くなかったものと思われる。
 発掘調査報告書を見て、遺跡の重なり具合から判断しようと思っていましたが、とりあえず、この写真から判断すると、弥生時代前期であろうと思われます。

nice!(0)  トラックバック(0) 
共通テーマ:学問

nice! 0

トラックバック 0

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。