SSブログ
                                                                   

千三百年の間、藤原氏に消されてきた伯耆国(鳥取県中西部)の真実の歴史が、今よみがえる。

出雲大社について [出雲大社のモデル]

 出雲大社について
 
1 古事記原文
 唯僕住所者。如天神御子之天津日繼所知之。登陀流天之御巣而。於底津石根宮柱布斗斯理於高天原。氷木多迦斯理而治賜者。僕者於百不足八十[土+冏]手隱而侍。
とある。
 ※ 訳 ただ私の住む所は、天つ神の御子(瓊々杵命)が天つ日継知らしめす壮大な天の宮殿のように、底つ石根に、柱を太く立てて大空に棟木を高く上げて造営するならば、私はずっとひっこんだ隅に隠れていましょう。
 
2 私見
(1) 出雲大社に祀られている大穴牟遅命は出雲神族(準王一族)の王である長髄彦(トミノナガスネヒコ)の別名である。天穂日は出雲で出会った準王をそれまで可愛がってきた大国主に因んで大穴牟遅と名づけた。出雲神族(準王一族)の王は17代にわたって、大穴牟遅命と呼ばれてきた。出雲大社に祀られている大穴牟遅命は少彦名や須勢理姫とともに西日本の各地に新しい農業を教えた大国主命ではない。大穴牟遅命は出雲神族(準王一族)の王の通称であった。出雲大社に祀られている神は出雲神族(準王一族)の歴代の王であった。
 百済出身の藤原氏は百済(馬韓)出身の準王一族の残党であったと思われる。藤原氏は倭国を乗っ取ってから準王一族のいたところを聖地にしている。出雲もその一つであり、出雲大社はそのモニュメントであった。
(2) 多芸志小浜は鳥取県湯梨浜町長瀬高浜にあった。タギシとは古代船の舵を意味する。江戸時代まであった石山が舵の柄であった。長瀬高浜が多芸志であった。出雲大社のモデルは長瀬高浜遺跡の径2.5mの4本柱の高床式建物跡のSB40であった。
 その原型は北栄町上種の大宮神社にあった。「天つ神の御子(瓊々杵命)の壮大な天の宮殿のように」とあるので、縄文人の猿田彦一族は北栄町上種の大宮神社に高い建物を建てていた。それを見に行った大国主はうらやましく思っていた。天孫族の建てる宮殿は高くて壮大な宮殿であった。それは須勢理姫と逃げる時に父親の素戔嗚に言われていたのにいまだ実現していなかった宇迦能山(大神山=伊那佐山=茶臼山)の麓に建てるべき太い柱の高い宮殿であった。
 猿田彦一族は天忍穂耳の指示で宇迦能山(大神山=伊那佐山=茶臼山)から2kmほど離れた長瀬高浜(多芸志の小浜)に高い建物を建てた。この建物の機能は大陸から渡来する船の目印になるためであった。天日矛が断られた難波(東郷池)の海峡の神はここにいた。
 出雲大社はこの建物をモデルにして奈良時代以降に藤原氏によって殷王朝末裔の準王が列島に最初に上陸したところに建てられた。


nice!(0)  トラックバック(0) 
共通テーマ:学問

nice! 0

トラックバック 0

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。