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千三百年の間、藤原氏に消されてきた伯耆国(鳥取県中西部)の真実の歴史が、今よみがえる。

稲吉角田遺跡 弥生中期の壺絵 その2 [出雲大社のモデル]

 稲吉角田遺跡 弥生中期の壺絵 その2

1  稲吉角田遺跡は弥生時代中期でも、紀元前1世紀頃の遺跡である(民俗学ひろいあげ辞典より)。妻木晩田遺跡も
紀元前1世紀頃に始まった遺跡である。
 熊野大社と茶臼山(倭国の中心)とは直線距離で70km。茶臼山から妻木晩田とは直線距離で34km。妻木晩田は準王一族(出雲神族)の本拠地(熊野大社)と倭国(鳥取県中部)の中心(茶臼山)との中間にある。
 稲吉角田遺跡の絵画土器は数十年前に松江で造って持ってきたとは思われない。妻木晩田遺跡は松江の準王一族の反乱を防ぐために天孫族(はじまりは初代)が住まわせたと思われる。
 稲吉角田遺跡の絵画土器は紀元前70年頃に長瀬高浜で作った線刻土器を神武天皇たちが東征に行く途中の淀江に持ってきて土器に線刻するように出雲神族に示したと思われる。線刻土器の発祥は倭国(鳥取県中部)の素戔嗚や神武天皇たちであった。

長瀬高浜遺跡.jpg

 発掘の始まった長瀬高浜遺跡の大型高床式建物跡(SB40)の写真である。右に梯子跡や建物跡も見つかり、古事記の舞台セットである。大国主は良くやったとここで持て成された。直径が2.5mもある4本脚の高床式建物の遺構が見つかっている。ハシゴ跡もあり稲吉角田遺跡に描かれている建物のモデルである。私見では、邇邇芸命が北栄町下種の大宮神社の御殿に移られたのは紀元前160年前後であり、長瀬高浜遺跡の高床式建物(SB40)も紀元前160年頃に建てられたものと思われる。また神武天皇(生年は紀元前112年頃)の四兄弟が九州の蝦夷の征伐に出発されたのは紀元前70年頃であるから、征伐に出発される時も存在していた。

2 稲吉角田遺跡出土の線刻土器(紀元前1世紀)

27.jpg

showPhoto.jpg

 この絵は神武天皇の四兄弟が日向(鳥取県中部)に居られた時に描かれたものと思われる。この壺絵は鳥取県中部の長瀬高浜の様子を描いたものである。

3 奈良県の線刻土器(紀元1世紀)
橿原考古学研究所付属博物館展示の線刻土器
(これは撮影禁止ではなかったので引用させてもらいます)

DSC00320-10.jpg
高床建物と鹿(弥生時代中期1世紀 天理市清水風遺跡)

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楼観(弥生時代中期1世紀 田原本町唐古・鍵遺跡)

その他に
高床建物に登る人物(弥生時代中期1世紀 田原本町唐古・鍵遺跡)
鳥装の戦士(弥生時代中期1世紀 田原本町清水風遺跡)
船と高床建物(弥生時代中期1世紀 天理市清水風遺跡)
船(弥生時代中期1世紀 天理市清水風遺跡)
鳥装の巫女(弥生時代中期1世紀 天理市清水風遺跡)
鳥装の人物(弥生時代中期1世紀 橿原市坪井遺跡)
船(弥生時代中期1世紀 橿原市坪井遺跡)
船を漕ぐ人(弥生時代中期1世紀 田原本町唐古・鍵遺跡)
船にのる司祭(弥生時代中期1世紀 田原本町唐古・鍵遺跡)

などがあるが ほとんど紀元1世紀の線刻土器である。

4 弥生時代の絵画土器はこれまで全国で600例ほどある。
 絵画土器 - 弥生土器にヘラ状の道具で描いた線刻画。弥生時代後半、近畿地方を中心に出土する。最多出土が唐古・鍵遺跡で300点。次いで清水風遺跡約50点。
 弥生時代中期に銅鐸を鋳造した工房があったことで知られる大阪府茨木市の東奈良遺跡で、銅鐸の絵を線刻で描いた紀元前1世紀ごろの絵画土器が見つかった。

5 私見

 線刻土器祭祀を始めたのは倭国の神武天皇たちであった。神武天皇たちヤマト王権は準王一族の銅鐸祭祀をやめさせる代わりに土器に線刻をさせ、絵画土器を祀らせた。紀元前1世紀の線刻土器は全国的に出土例は少ない。 稲吉角田遺跡の線刻土器は神武天皇たちの作った初期の線刻土器であった(縄文土器は除く)。

 続きは別稿「神武天皇たちは妻木晩田を開いた」を参照されたし。

※参考

 吉田大洋氏は『竜神よ、我に来たれ!』において「スサノオは出雲を制圧すると竜蛇信仰を捨てることを迫った。出雲熊野大社の牡牛神ハルが強調されている線刻石はスサノオによる出雲神族の竜蛇信仰が弾圧されたときのものではないか」とされる。



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