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千三百年の間、藤原氏に消されてきた伯耆国(鳥取県中西部)の真実の歴史が、今よみがえる。

長瀬高浜遺跡の大型高床建物は、稲吉角田遺跡の線刻画の建物であり、大国主命がおられた高い宮殿であり、出雲大社の原型である [出雲大社のモデル]

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 発掘中の大型高床建物跡(SB40)の写真(羽合歴史民俗資料館)です。

 左上に古墳時代の円墳がありそれよりも色が白い。黒い地層が1m堆積しているのは古墳時代が始まるまでに洪水がありその土砂が堆積したと解する。白い地層は弥生時代の地層である。古墳時代の遺構が見つかる黒い地層ではない。

 この(SB40)が古墳時代というのは間違いである。洪水で流された弥生時代前期の土器片が周辺から出土しているので大型高床建物(SB40)は弥生時代前期である。

1 四本柱であること。

2 梯子跡も見つかっている。

3 白砂と黒砂の判断。

4 大国主命のいた茶臼山と近いこと。

5 弥生時代の生活痕がないとされるのは弥生時代の洪水によって流された可能性があること。

6 長瀬高浜の西には江戸時代まで石山がありこれがタギシ(古代の舵)の柄であった。出雲大社のあったタギシとは長瀬高浜であった。

 以上により、長瀬高浜遺跡の大型高床建物は、稲吉角田遺跡の線刻画の建物であり、大国主命がいた高い宮殿であり、出雲大社のモデルである。

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 出雲山より茶臼山と長瀬高浜を望む。

 左が大国主命の本拠地であり国譲りの交渉の行われた茶臼山である。長瀬高浜は右の五本の風車の下の白い建物(浄水場)のところにあった。この25mほどの高い建物は新羅から難波津(東郷池)に来る船の目印になっていた。夜はかがり火を焚いていたかもしれない。

 

 

 

 


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