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千三百年の間、藤原氏に消されてきた伯耆国(鳥取県中西部)の真実の歴史が、今よみがえる。

多芸志の小浜は鳥取県湯梨浜町長瀬高浜にあった [出雲大社のモデル]

1 鳥取県淀江町稲吉角田で線刻画の刻まれた弥生時代中期の壺が発掘された。その線刻画の中に高い4本柱ではしごの掛かった建物があった。通説はこれを高さ25mくらいであり、出雲大社のモデルである、とする。

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 長瀬高浜遺跡のSB40の建物跡は、約5mの間隔の柱穴は径 2.5m、深さ2.2~2.5mあり、高さも25mくらいはあったとされる。梯子跡も見つかっており、稲吉角田遺跡の線刻土器の高床式建築の建物にピタリと一致する。稲吉角田遺跡の4本柱の高い建物跡は長瀬高浜遺跡のSB40のほかは見つからない。


2 私見では国譲りは紀元前160年頃(弥生時代前期)とする。報告書ではSB40は古墳時代前期の遺構であるとするが、遺構外から大量の弥生前期の土器片が見つかっている。このことより、弥生前期の遺物が洪水で流された可能性があり、SB40の建築時期も弥生前期である可能性が高い。鳥取県湯梨浜町の長瀬高浜遺跡から見つかった、柱穴は径2.5mで4本柱のかなりの高さの巨木による高床式建築の建物が出雲大社のモデルであった。

 鳥取県湯梨浜町の長瀬高浜遺跡からは当初、巨大な柱が出て出雲大社の試作品の部品だと言われていた。

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 大型の掘立柱3棟が発掘されている。そのうちSB40は、約5mの間隔の柱穴は径2.5m、深さ2.2~2.5mもある。かなりの高さの巨木による高床式建築。建物の南側では梯子の末端とその支柱と考えられる柱穴も検出。東西両側面から背後にかけて、建物から3~4mの間隔を保った柵状施設をめぐらす。さらに建物の正面、梯子がかけられていたと思われるその南側には長方形に突出するような溝状遺構がみつかっている。縦2間、横2間の建物遺構は両側面の柵状遺構につながっていて、SB40の建物が他の2棟と区別する建物として強く意識されていたことが分かる。


3 鳥取県北栄町国坂の茶臼山で国譲りが行われたのだからその2km東方の長瀬高浜遺跡から発掘されたSB40は出雲大社の試作品の部品だという見解は真実味を帯びてくる。大国主の父(素戔嗚)は宇迦能山(茶臼山)の麓に高い宮殿を建てろと言った。大国主は宇迦能山(茶臼山)の麓ではなく宇迦能山(茶臼山)から2km東の多芸志の小浜(長瀬高浜)に高い宮殿を建ててもらった。

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 当時の長瀬高浜は江戸時代まであった石山(倉吉市大原に石上があった)が柄にあたるタギシ(船舵)のかたちであった。鳥取県湯梨浜町の長瀬高浜が多芸志の小浜であった。

 大国主のために造った高い宮殿は、鳥取県湯梨浜町の長瀬高浜に造られた。この高い建物は新羅から難波津(東郷池)に来る船の目印になっていた。



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